"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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西女満別 (石北本線) 1971

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アジア太平洋戦争の敗戦から間もない時代の国有鉄道は、空襲により破壊された施設や車両は勿論のこと、戦時下に疲弊した輸送設備全般の復旧と戦前並みの輸送力への回復に追われ、新駅の設置どころでは無いのが本音であったろう。けれど、戦地からの復員兵や引揚者の収容と、それによる人口増による食料不足への懸念から、彼らの帰農を目的とした、時の幣原喜重郎内閣が1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域では、近隣に鉄道路線の在れば、運輸省鉄道総局には駅設置の請願の多数が寄せられた。
これに対し国有鉄道当局は当初には予算や要員の事情から静観を決め込んでいた様子の伺えるものの、国策の前には抗し難く、日本国有鉄道発足後の1951年3月に新たな駅設置基準を定め、それに合致する請願を渋々に承認するのだが、「要領」に示された開墾予定面積155万町歩の45パーセントに当たる70万町歩(≒7100ha)を占めながらも多くが僻陬地に位置した北海道においては、鉄道以外に考えられぬ交通手段の確保に札幌鉄道局限りの乗降場が前倒しにて設けられていた。
美幌から7K050Mの地点へ設置の旭野仮乗降場もそのひとつであり、当時の女満別村旭野開墾地の利便を図ったものであった。1947年2月11日の開設は日本国有鉄道発足前に当たるが、将来の正駅格上げを前提に乗降施設は土盛の恒久的構造とされ、要員配置の無いながらも総下見板張だった造りから推察するに駅本屋もその際に設置されていたものと思われる。
ここは、1951年3月の国鉄理事会における前記の新駅設置基準の制定を待たずに駅昇格の承認され、1950年1月15日付にて西女満別として開業の公告された。当然に要員の置かれて手・小荷物を扱い、翌1951年には貨物積卸線を設けての貨物扱いも開始し、開墾地の物流拠点に機能したのだった。
その賑わいは、短い乗降施設に小さな待合所が鉄道林の中に深閑と佇む現在からは些か想像し難い。

写真は、西女満別北側での5672列車。新富士から北見への石油輸送列車だった。
防雪林の延々と続く景観に女満別から西女満別方に歩いたのだけれど、めぼしい位置は見つからず、初秋の冷たい雨に気力の萎えそうになりながらの撮影と覚えている。新旭川起点213キロのこの位置は、現在に女満別空港に通ずる道道246号線跨線橋の架けられているあたりと思う。
辿り着いた西女満別は、既に駅務長の詰めるだけの業務委託駅となっていたけれど、待合室には早くもストーブの焚かれて、それは駅本来の姿だった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.

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大岸 (室蘭本線) 1991

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今には想像もつかぬかも知れないが、特急急行列車とは威厳を伴った正に特別な列車であった。それによる列島ネットワーク形成の端緒となった1961年10月のダイヤ改正で、それまでの9往復から26往復へと大増発されたにせよ、大衆化には程遠い時代のことである。
それでも小樽に暮らした家族は、父母の故郷である水戸市への帰省に駅へと出迎え、見送りに来る親戚筋への見栄も在ったものか、時には普通急行料金の倍以上だった大枚を叩いて、気動車に置替られたばかりの<はつかり>に乗ったものだった。大人も子供も限られた利用客層に見劣りせぬよう、一張羅を着込み、精一杯のお粧しをしてのことで、背広姿の父に、ワンピースに大きな帽子の母、そして半ズボンに白シャツを着せられ、ズボン吊りにチェックの蝶ネクタイと云う出立ちの自分が水戸駅頭での写真に残る。憧れの「ディーゼル特急」に乗れる喜びと共に、車中の振る舞いの緊張感も永く記憶している。

先の白紙改正では北海道にも「ディーゼル特急」は走り始め、休日には札幌駅へ「汽車」を眺めに通った1960年代半ばには<おおぞら><おおとり>の2往復となっていたが、一日に4回の着発時刻の近づけばホームの着飾った乗客に見送り客で溢れるには違いなく、それは札幌駅の特別な時間だったろう。接近を告げるアナウンスに、やがて静々と苗穂方から入線して来るキハ82の端正な前頭形状に長い編成は威厳に満ちて、近寄り難さすら覚えたものだった。まだ、そのデザインを優美とは感じ取れない年代とあっては、何故にそれが<はつかり>と同じキハ81では無いのか不満も抱いていたのだけれど、「ディーゼル特急」の存在感には圧倒される5分間でもあった。

1970年代を通じての勢力の拡大は、同時に特別急行列車の普遍化でもあったのだが、函館で連絡船の接続を待つ周遊券では乗れないそれは、威風堂々の姿だったとしても良い。けれど、1980年に後継系列のキハ183系の投入が始まれば、その増備に配置から20余年を経た1982年度より用途廃止の始まり1986年11月改正にて定期運用を離脱、食堂車も特別車も含まない組成で臨時特急など波動輸送に余生を送ることになったのだった。それは、配置を札幌運転所の5両にまで減らしながらも6年間、1992年の夏まで続いた。

写真は、団臨充当のため札幌運転所から函館へ向けて回送中の姿。かつてには最大14両組成のエンジン音で周囲を威圧したことなど嘘のように軽々と走り去って往く。
翌年10月の用途廃止通達に、異様なトレインマークを掲げての「さよなら運転」などには興味の持てぬ身には、これが走行するキハ80系列の最後の目撃となった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6+1/2 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1996

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柴田踏切へは最寄りの有珠駅から凡そ30分から40分と云うところである。その道筋は徒歩の鉄道屋としては面白く無い部類に入る。四半世紀ばかり前に小さく建替えられた待合所を出て、自動車通行の激しい国道37号線を延々歩かねばならず、一部区間には歩道も無い。少し前までシーズンにはスイカやメロン、イチゴなど周辺農家の直売所が軒を並べていたものだが、近年にはめっきり数の減ってしまい変哲の無い風景が続く。目印にしていた有珠中学校も2010年3月末日を以て廃校となり、跡地は伊達市によりサッカーフィールドに転用された。道南バスの中学校前停留所は「まなびの里公園前」と変えられていたから、国道南側に造られたパークゴルフ場ともどもそう呼ばれる施設なのだろう。
そこから右に折れる直線路は、その先の踏切名称から推察するに南浜通りと呼ばれるらしいのだが、地元の人ですら知らないだろう。東有珠川の小さな流れの両岸をコンクリートブロックに固めた水路への改修時に、これも埃っぽいだけの砂利道に直されたものらしく、歩いてもちっとも楽しくは無かった。しかもアスファルトで舗装された最近には余計につまらない。南浜通り踏切手前で左折すれば、ようやくに線路沿いの田舎道となるけれど、もう柴田踏切は目前である。

長万部近傍の反向曲線区間での1・8001・6003列車と並んで柴田踏切での8002列車撮影には、16時12分過ぎだった通過時刻の季節に遷り往く太陽高度と方位を求めて幾度も通ったのだった。
暮色近くの低く弱い斜光線が、エントモトンネルからのR=600M曲線を旋回する重連の機関車とススキの野を黄金に染めるごとくの最適な光線は、机上の計算から10月20日前後のせいぜい一週間と知れるも、西の低空に雲を生じない条件に巡り合うに数年を要したこともあるけれど、夏の季節の強烈な西陽も春浅い頃の枯れ野の風景も、また楽しめたのである。

写真は、初秋の澄んだ大気を旋回して往く8002列車。列車を待つ身には、そろそろ日暮れ時の冷気も感ずる季節である。
まもなくに陽も没すれば、暗い帰り道をトボトボと中学校前のバス停までを歩いて、一日の空腹感を抱えながら特急の停まる洞爺なり伊達紋別へのバスを待ったものが、数年前のこと、直近にロードサイド店舗のセイコーマート南有珠店が開店して、取り敢えずにそれを満たすことは出来るようになった。これが、駅前の商店もハイヤーも無くなってしまったここでの唯一の福音だろうか。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125@f4 C-PL filter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お詫び] 未だに多忙より脱せず、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

上野幌 (千歳線) 1992

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札幌を目指す車窓に感ずることだが、<宗谷>や<オホーツク>のそれが江別から右側に延々と防雪林の続き、その向こうと反対側の都市近郊らしい住宅街が終着の近いことを教えてくれるのに対して、千歳線の<北斗>ではなだらかな丘陵を抜けて往く景観に原生林の眺めから新札幌で唐突に都市に放り出される感がある。それはドラマチックとしてもよかろう。
この厚別丘陵越えの区間、上野幌から北広島へは中間に西ノ里信号場が孤立していた旧線の時代から新線の現在に至るまで札幌近郊に在って多くの写真屋を集めるロケイションでもある。
手稲に暮らした少年の時代、最急13.5パーミル勾配と半径300メートル曲線に前位定位だった補機との重連蒸機の咆哮には、幾度か信号場に降りたものだが、丘陵の樹林を縫う線形には引きの取れず、加えては付近で始まっていた新線の路盤造成工事に土砂の掘り返されて、まともな写真は撮れていない。写真そのものは勿論、障害物を避けて画角を採る技術も拙かったと云うことだ。
撮り易くなったのは寧ろ新線に切替えられてからのことで、以来に渡道の度に少なくとも一日はこの区間にスケジュールを割いていた。沿線丘陵地は一部を除けば落葉樹に覆われ、10月半ばからの紅葉黄葉は今でも外せない定番でもある。
季節に廻り往く光線に幾度も立った地点ばかりなのだが、近年にはその多くが失われてしまったのが残念でもある。上野幌場内から北広島方向を遠望した駅西側の斜面は、直下が切り崩されて新道沿いの宅地と化したし、大曲橋梁を間近に見る熊笹の丘は樹木の成長してそれを望めなくなった。定番の椴山、農場橋近くから上野幌方R=800M曲線を画角にする位置も切取斜面下の樹木に遮られるようになって、もはや以前の位置は取り難い。北広島近くの高さのある輪厚橋梁は、とうの昔に住宅に取り囲まれて絵にはならない。
残るのは、農場橋の北広島方R=1000M曲線を望む画角となろうが、いかんせん電化柱と架線を避けて編成を見通せるいつもの位置へ再びに立てば、近年に増えたその農事橋付近からお手軽に撮る人々の画角に入り込むのは必定でもあるので、少なくとも道内から特急寝台列車の去るまでは遠慮する他は無かろう。

写真は、大曲橋梁を俯瞰気味に見通せた斜面からの1033M<すずらん3号>。この位置も北海道ガスの北広島供給所の設備が建設されて失われた。
道内で電車列車にシャッタを切るなど、本番の特急寝台や貨物のテスト程度ばかりなのだが、1988年3月改正から多客時に施行の781系電車4両組成の2本による非貫通先頭車が向き合う運転には意図的にカメラを向けたものだった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac. 

大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

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幼少から十数年を暮らした北海道から内地に転じて、そこへは均一周遊券を手に通うようになった1970年代初頭とは、1962年の原油輸入自由化以来の炭礦閉山が、期せずしてその最終段階を迎えた時代であった。
年間5000万トンの出炭を確保しつつも低能率炭礦の整理と優良炭礦の保護育成を同時進行とするスクラップアンドビルドと呼ばれた石炭政策の破綻が明らかとなり、1968年12月25日に出された石炭鉱業審議会答申を受けての1969年1月の「今後の石炭政策について」の閣議決定、所謂「第四次石炭政策」は、石炭産業自体の縮小均衡を明示した歴史的転換点をなし、経営基盤の維持や累積債務に再建の困難な炭礦の漸次的撤退を誘導していた。
ところが、それに出炭規模の明示されないままでの閉山交付金の単価引上げに経営者の腰が浮いたところへ、「企業ぐるみ閉山」に対しての特別閉山交付金制度の新設が炭鉱労働者の動揺を呼び込んだ結果、ビルド鉱とされた優良鉱も含め閉山を雪崩状に誘発してしまったのだった。1969年度から1973年度までに、北星、茂尻、雄別、尺別、羽幌、奔別、夕張第二、美唄などの大規模炭礦を筆頭に実に58礦が失われ、道内炭礦は14礦を残すのみとなっていた。
それゆえ道内の運炭線がほぼ壊滅へと至ったのもこの時代である。国鉄線は運炭列車の皆無となっても線路は残ったけれど、地方鉄道や専用鉄道、専用線の多くは路線廃止へと向かった。
随分と前の記事でも告白したのだが、実のところそれらをほとんど撮っていない。ごく一部を除き蒸機鉄道であったから、勿論にいずれ撮るつもりではいたのものの、国有鉄道の本線系線区に大型機が健在であれば、どうしても眼を奪われたし、運炭線の多くは撮りたいロケイション恵まれずに後回しとしているうちに前述の雪崩閉山の事態を迎えたのである。

三菱大夕張炭礦大夕張鉄道には1972年の夏にロケハンのつもりで訪れ、明石町-千年町間の深い沢に架けられた5号(旭沢)橋梁の特徴あるトレッスル橋を確認していたのだが、乗って往復した列車を除けば日中に1本だけと云う当時のダイヤには撮り損ねてしまい、翌1973年11月の北部礦閉山、12月16日の南大夕張以北の廃止にはそれっきりとなった。大夕張炭山に所在の機関庫を訪ね、選炭場のホッパを見上げる構内を歩き回ってのカットが手元に残るのみである。

写真は、大夕張炭山の乗降場に一旦入線の後、入換に後退して往く混合4列車。次位のナハフ1には勝手を知る乗客らが既に乗り込んでいた。後位に石炭車を増結して再び乗降場に据付けられ発車を待つのである。
牽引のNo,3は、1937年度の専用鉄道から地方鉄道への変更申請に際しての自社発注機で、同年8月の日立製作所笠戸工場製である。当時にNo,2からNo,8まで7両が在籍した9600型の中で、同じく1941年自社新製のNo,4と共に切取形テンダに特徴があり、これに出会えただけでも満足したものだった。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

[お詫び] 本業の多忙は4月にも持ち越してしまい更新の捗りません。ご容赦下さい。

倶知安 (函館本線) 1982

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個人的には意表をつかれた思いなのだけれど、倶知安の駅前から、かつてに蒸機牽引時代の<ていね>を見送った構内北側の踏切道を渡り、坂道を上って二世古酒造を右に折れる、彼の北4線踏切へと通った道は、1896年に北海道庁により開削された倶知安小沢間道路だと云う。
即ち、その道は1907年5月13日内務省告示58号による「東京ヨリ北海道廳ニ達スル路線」である「國道四十二號」の経路変更にともなう指定から1960年代に現国道の開通するまで、函館市より札幌市に至る国道42号線、後に4号線を経ての国道5号線の一部だったことになる。
1948年に米軍の撮影した空中写真を閲覧しても、確かに倶知安峠を越えて往くのはこの道の他に無い。開削時に確保されたと云う幅の二間、その4メートルに満たぬ幅員は現在にも然程変わらぬとも見え、幾度かそこを歩いての印象も農道そのものであった。
それが国道だったとは俄には信じ難いが、ここでも前に触れた七飯峠下から小沼湖畔に至る無沢峠の道や音別の海岸を往く砂道に、内地版で書いた米坂線沿いの宇津峠越えの砂利道やら五能線とともに北上する細道も皆同様で、つい最近まで日本の道路とは実に貧弱だったのである。戦後の増大する物流にはとても耐えれたもので無かったのは明白と云え、なるほど、鉄道が輸送の全てであり陸上交通の王者だった例証にも違いない。これを思えば、それの僅か10年あまりでの逆転にも意外感を覚えるところでは在る。

写真は北4線踏切近傍からの荷45列車。激しい降雪を突いて峠へと向かう。
白銀の真狩山を期待しながら、翌年も翌々年も降雪の日々にばかり巡り合っていた。ホワイトアウト寸前の光景には、それを逆手に絞りを少し開く。
この踏切で線路と交差する道は前記の空中写真にも見て取れ、古くからその先のクッチャン原野北部の植民に旧國道との連絡に開かれたものであろう。1904年10月のここへの鉄道開通以前からとも思われ、その名称はともかくも北4線踏切は、相当に旧い時代からの存在として良さそうである。
写真にも見える開拓農家が健在な頃には、件の旧國道転じての農道も市街地からここまでが除雪されていたのだが、それの廃屋と化せば、踏切は線路伝いでしか到達出来ない地点となっていた。
線路の積雪は、連日のラッセル車運行によりプラウで踏固められ、まるで舗装路のように歩けたと記憶する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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