"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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落部 (函館本線) 1988

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1988年3月13日の改正を以て運転を開始した<北斗星>は、北海道旅客鉄道、東日本旅客鉃道ともに旗艦列車に位置づけた、その多様な設備による積極的な旅客サーヴィスも然り乍ら、青函隧道の開通にともなうマスコミを巻き込んでの旅客誘発効果には両社の想定を遥かに上回る利用の集中するところとなり、幾つかの誤算も生じていた。
本来に輸送力列車とした6003・6004列車への個室式寝台車や食堂車を組成した上の大幅な運転日の追加や、立席利用としていた早朝の函館以北区間から札幌への既存需要を吸収出来ずに専用の座席車連結を要したことなどだが、それは国内では初めての事例として夕食利用の乗車前予約制を採用した食堂車営業にも在った。

ここに国内における食堂車営業史を述べる余裕はないけれど、戦前にも3等特急や急行列車に和食堂の営業の事例などの在るものの、基本的に洋食を提供したそれの利用は本来に一部の優等旅客の利用に限られ、謂わば高級レストランだったのである。その大衆化は戦後の特急列車のそれと軌を一にしており、その過程で供食品目やステイタスも市中の食堂と大差の無くなるのだが、車中と云う物理的事情に、折からの要因不足には価格設定は高止まりして、高かろう不味かろうの評が定着してしまう。これを根底から払拭し、在る意味での先祖帰りとも云えたのが「グランシャリオ」との命名までを伴った<北斗星>の食堂車営業なのだった。
利用時間を区切ったテーブルタイム設定は、高級感の名残の在った頃の食堂車には常識であるが、夕食の案内放送とともに従業員が車内を歩いて募っていた利用予約を乗車前の利用券購入としたのは目新しく、限られる食材の積込み量に、高価なそれの無駄を回避する営業上にも必要な措置ではあったろう。
誤算の第一は、収益の確保から60分のローテイションにて1・2列車で3回転、始発時刻の遅い5・6列車で2回転としていたテーブルタイム設定にあった。5・6列車運用の尾久客車区のスシ24での定員40名維持は、1回転少ないそれを事由としていた。
メインデッシュを肉料理としたフランス料理のAコースから以下B・C・Dと同じく魚料理のフランス料理、スペシャルシチュー(ビーフ)ディナー、海峡御膳と銘打たれた和食のコース料理の提供に客は60分で席を立たなかったのである。勿論、ある程度の想定の下に予約券販売数(予約人数)を定員未満として各テーブルタイム毎に予備テーブルを確保していたのだが、Aコースなら¥7000を支払い旅情をもその範疇とした旅客心理を読み違えたのだった。急遽、一ヶ月前から発売する予約券販売数の削減を可能な時点より手配して凌いだものの、当時にマスコミにも注目された営業であっただけに、1988年6月22日の発売開始分、即ち7月22日相互発列車よりローテイションを80分とする変更がなされた。これにて、1・2列車の3回転が2回転に、5・6列車では1回転のみとなるなど営業収支の悪化は避けようの無い措置ではあり、後々の営業に与えた影響は小さく無い。

もう一つの誤算は朝食である。これは定期運転の終了まで四半世紀余りそうであったように予約は不要だったのだが、運転開始直後には夕食利用の予約制と云う物珍しさも手伝ってか、午前6時だった営業開始とともに利用客の押し寄せて混乱を生じたため、当面に30分ローティションの時間区分のなされ、前夜に車内で予約制が取り入れられたのだった。正規に告示されたものでは無く、営業を担当した日本レストランエンタプライズの判断(もちろん鉄道側承認の下である)で臨機応変に施行されたものだろう。よって廃止時期も明らかでないのだが、Web上の乗車紀行などの記述からは1988年度内には継続されていたと伺える。
余談ながら、当初に前述のとおり午前6時からだった朝食営業は、88年の11月時点では6時30分に改められたのが確認される。正確な施行日にその事由は不明である。
波穏やかな朝の噴火湾岸を駆けて往くのは1列車<北斗星1号>。ここの5時30分の通過には、食堂車は営業準備に追われている頃であったろう。なお、機関車次位は函館から増結のスハフ14である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f5.6 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お詫び] この写真はWebSiteのギャラリーにて既発表のものです。但し、レタッチを全面的にやり直しています。

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苗穂 (函館本線/千歳線) 1991

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札幌からの函館本線は、500メートル程を進んだ函館桟橋起点287キロ500メートル付近のR=500M曲線で右転すると苗穂直前の288キロ700メートル付近にR=1000Mの左曲線を入れて、豊平川橋梁直前に所在のR=400M曲線に至る。札幌構内が高架駅となった今には、それの北側への移動により苗穂のR=1000Mはより半径を縮めているのだけれど、これは1882年11月13日に幌内から札幌までを開通した官設幌内鉄道以来の線形である。
最後の急曲線は勿論豊平川を最小延長の橋梁で渡河するためであり、札幌近傍のR=500Mは北6条通り(開拓使による空知通り)に設けられた札幌停車場への取り付きに要したのだが、この間を直線としなかった事由が解らぬのである。
道立図書館北方資料ライブラリの収蔵する「幌内鉄道敷地並用地図」(1883年4月 出版者不明)によれば、この間は一部に官有地や勧業地とした土地の所在するものの、大半が個人名の付された民有地を通過しており、当時の札幌市街地図から札幌寄りのそれらの多くは葡萄や林檎の果樹園だったと知れる。苗穂のR=1000M曲線の北側に特に避けるべき対象地なり対象物の存在は見えないのである。考えられるのは、豊平川を渡った路盤はそこで東西方向に存在した道路の一部を敷地とした様子の伺え、その頃には湧水による低湿地の広がっていたとされるここで既設路盤の活用を意図したゆえかも知れない。道路は現在も線路に沿った陸上自衛隊苗穂分屯地前の市道として健在、それが南に遷移して線路と交差する位置に設けられたのが、後の苗穂東通り踏切である。
この辺りを明らかにされた郷土史家もおいでとは思われ、是非にご教授を請いたいものではある。

札幌駅高架化で生じたR=800M曲線を旋回して往くのは、4列車<北斗星4号>。夕陽を背に南下を急かされる。
背景は東11丁目人道跨線橋、苗穂の移転新駅はこのあたりになる。
R=1000M曲線はここからやや直線で後方へ進んだ位置から始まり、地平駅の札幌構内を伺っていた。このR=800Mもそれがなければ生じなかったから、鉄道のエンジニアリングとは100年を超えて残るものと改めて思う。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お断り] このカットは2013年9月に既出です。ただし、レタッチを全てやり直しています。

南稚内 (宗谷本線) 1986

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1869年、開拓使により北見国の郡名に採られ、北海道庁の成立後の1897年に設置の支庁名ともされた広域地名としての「宗谷」の起源は、現在の宗谷岬から1キロ程西方の珊内集落にある。珊内もここで先住民によりサンナイ(san-nay=浜に出る川の意)とされた小さな流れからの地名なのだが、沖合の弁天島まで岩礁の続く海岸の様を彼らはソヤ(so-ya=岩磯の岸の意)と呼んだのである。1685年の松前藩による場所の設置には岩礁を天然の防波堤とした穏やかな海が交易船寄港地となって拠点たる会所が置かれ、和人は先住民の呼称のままにここをソーヤとし、場所もソーヤ場所と定めたのだった。和人命名によるアイヌ語地名である。「宗谷」の当て字のなされた時期は調べ得ていない。
この地点名だった「宗谷」は会所の移転と共に移動する。それが現在の宗谷市街地である。当時にこの地域での中心地に発展し、冒頭の郡名への採用や、1879年の『北海道一級町村制』(1897年勅令第159号)と『北海道二級町村制』(1897年勅令第160号)の公布による行政区画の設置に際しての村名が宗谷村を名乗ったのも当然と云えよう。同時に宗谷郡に設置の、抜海、稚内、声問、泊内、猿払各村を管轄する戸長役場もそこに置かれた。この辺りが広域地名化の始まりと云えようか。
オホーツク海岸と日本海を隔てる宗谷丘陵に、国際名ラ=ペルーズ海峡に対する日本での宗谷海峡の命名時期も明らかにしようとしたが、当たるべき文献が見つかっていない。先達のおいでなら、ご教示願えると有り難い。
1888年には戸長役場が移されて新たな拠点に成長しつつあった稚内村に向けて建設の進められていた鉄道の線路名称は、永く天塩線部の天塩線とされており、宗谷線部の宗谷線に改められるのは、宗谷支庁の設置されて以降の1912年9月21日のことであり、これは北海道北端部に対する広域名称「宗谷」の定着化ゆえであろう。
なお、宗谷岬の名は戦後の日本最北端としての観光向け命名として良く、それまでは大岬と呼ばれていたのである。

列車愛称としての<宗谷>は、1960年7月1日の道内ダイヤ改正にて設定された札幌-稚内間に毎日運転の臨時準急への命名が嚆矢である。道内に気動車準急網の整備の進められた時代であり、苗穂機関区に配備されたばかりのキハ22の2両組成が充てられた。
戦後の宗谷本線への優等列車は1958年10月1日改正での夜行準急が先行したが、1956年の北海道周遊乗車券の発売でブームになり始めていた離島を意識しての<利尻>の付与は、代表列車名としての<宗谷>を温存したものでもあったろう。1961年10月1日の全国白紙改正では定期列車化と急行格上げに函館への延長のなされ、これも新製間もない急行型キハ56/27系列による堂々の本州連絡急行となるのだった。敗戦により樺太を失ってから途絶えていた稚内への連絡急行の復活には<宗谷>愛称の本領と云えただろう。我々の世代には函館山線を越える印象の強いのだが、1964年10月改正までの3年間は<摩周> <オホーツク>に併結の室蘭・千歳線経由だった。

林野火災により周氷期地形の露出したエノシコマナイ(犬師駒内)原野を往くのは、302列車<宗谷>。
1981年10月改正で札幌以南が特急格上げにて分離されれば、編成も短縮された地味な気動車急行と化していたのだけれど、1985年3月14日改正を以ての14系置替には機関車屋/客車屋としては蒸機廃止から途絶えていた稚内通いを否が応でも再開するところとなっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい更新の滞り気味です。3月末頃までのこととご容赦下さい。

塘路 (釧網本線) 1975

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北海道の拓殖初期に利用された輸送路は河川であった。それは拓殖のインフラそのものであったから遡行の可能な河川河口に港の開かれ、開拓民の上陸地や物資の集散地として拠点化したのである。釧路川河口に市街地の形成された釧路もそのひとつに数えられる。特に釧路川は中流から下流域に広大な低湿地が存在する緩やかな河川勾配に奥地まで遡上出来たのだった。
ここには、釧路郡漁場持だった佐野孫右衛門(4代目喜代作)が1876年に釧路標茶間航路を開設している。自身による硫黄山(アトサヌプリ)から採掘の硫黄搬出が目的であった。馬の背で標茶までを運ばれた硫黄は、そこで五十石船に積込まれ(これが釧網線五十石駅の謂れである)、川幅の広く水量も豊かとなる下流域では百石船に積換えられた。その積換え地点に選択されたのが古くからの先住民の居住地であるトオロコタンが所在した位置であった。そこの釧路川と水路にて繋がる大きな湖を繋船地として積換え施設の置かれたものと思われ、船頭や人夫達も常駐したことだろう。云うまでもなく、現在の塘路に湖は塘路湖である。ここは先住民の意志に関わり無く、1869年には開拓使の命を受けた佐賀藩による支配地として川上郡トーロ村とされ、開拓使根室出張所の管轄となった後の1875年に「塘路」との漢字表記が当てられたのだった。
硫黄採掘事業が内地新興財閥たる安田善次郎の手に渡り、1888年に馬の背に頼っていた標茶までに専用鉄道の建設されると、水運区間も小型蒸気船に置替られ、塘路での積換えも廃されるのだけれど、同年から翌1889年に架けての釧路集治監の囚人達の使役による標茶から釧路への河川の氷結する冬季に対応した陸上輸送路の開通には、途中二ツ山と遠矢と共に駅逓所の開かれるところとなった。1885年には川上郡4ヵ村の戸長役場も置かれて和人の定住も進んでいたのだろうが、塘路の地域拓殖拠点化の嚆矢であろう。やや時代の下るが、1912年度の「植民公報」でのデータでは162人の居住とある。
但し、当時にこの地域への拓殖入植は成立したばかりの北海道庁の思惑に関わらず進展を見せたとは云い難く、1892年の香川県から塘路への「貫誠社」11戸、1897年の山梨県から磯分内への山梨団体17戸の集団入植がどちらも1年足らずで離散するなど、冷涼な気候に定着を阻まれていたのである。塘路の162人の大半は役人を除けば林業や塘路湖での水産関係従事者とその家族だったと思われる。

一方、1910年代には寒冷地作物として馬鈴薯や燕麦の栽培が成功し、1927年の釧網線の開通には1930年代に掛けてようやくに周辺への入植も進展を見せ、道庁による植民軌道が国有鉄道線から奥地の開拓地へと建設され、地域拠点とされた塘路には1930年に久著呂線が、1934年には阿歴内線が接続する。
塘路駅における貨物扱高を1932年度の貨物統計に拾えば、この時代に至っても年間におよそ3千屯の発送貨物の大部分を、木炭に薪の林産加工品に木材・丸太そのものが占めていたものの、僅かながらに農産品も確認され、周辺開拓農家の商品作物の安定出荷に植民軌道から国有鉄道へのネットワークが有効に機能し始めていたと知れる。
以来に塘路は人的往来に物資輸送にと名実共に拠点化し定住人口の増加も招くのだが、それも戦後1950年代までのこと、周辺道路の整備が進む1960年代ともなれば自動車輸送への転換に単に接続点に過ぎなかった拠点機能は失われるしかなく、ここでの貨物扱も1973年2月5日に施行の釧網線東釧路-標茶間の営業近代化により廃止されてしまうのだった。

ここに幾度か降り立つようになるのは、その頃のことであり、商業施設の集積にまで至らなかった市街地はそう呼ぶには些かおこがましく、駅横の鉄道官舎群ばかりの目立っていたと記憶している。
塘路駅下り線ホームに停車しているのは上りの636列車、網走行き。613D<大雪1号>との行違いを待っている。
待合室から外にカメラを向けていると、受託荷物を運びに行っていた駅員が戻りしなに「急行乗るのか?」と声をかけて来た。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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新札幌 (千歳線) 2009

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千歳新線については、以前に 上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998 から 上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1996 まで13回に分けて続けた他、上野幌 (千歳線) 2008上野幌 (千歳線) 1989 で補遺も書いている。
そこに述べたとおり、1960年代前半時点まで国鉄の固めていた新線経路は、単複は別として苗穂から厚別川まで函館本線に併行し、そこから半径1000メートル曲線で右に分岐して現ひばりが丘団地中央部に至り新駅を設置、半径800メートル曲線の左転にて既設の上野幌に取り付く平面線形であった。既設上野幌と北広島間は新線計画とは切り離されて、既設の西の里信号場付近までを別経路とするものの、以遠区間はほぼ既設線への併行線が選ばれていた。これはほぼ現在線の上野幌-北広島間経路と考えて良い。但し、厚別丘陵の頂点となる椴山付近には隧道を設置する計画であった。
これを縦断面線形で見れば、現在の平和付近の施工基面高の14メートル程に対して旧上野幌のそれは42M00であったから、この間の2.8キロ余りには10パーミルの連続勾配が想定されていたものと思われる。依って既設線の月寒付近や上野幌手前に介在した12.5から13.3パーミルを改良するものにはなっていた。
けれど問題はその先であった。既設上野幌からは野津幌川の谷に出ることになり、椴山に向かって施工基面高を維持するならばそこに高さの在る橋梁の架橋を要し、谷に降りるとすれば勾配を10パーミルに抑えたとしても白石から北広島に上野幌と椴山付近の二つのピークを含むことになってしまうのだった。上記の隧道の設置は、おそらくそれの回避に選択されたものと推定している。

札幌市との協議による新線の東側迂回、既設上野幌の放棄と引換えの当時に下野幌と仮称されていた現新札幌の設置は、この縦断面線形の設計上には誠に好都合だったと云えよう。この点は当初計画も同様だろうが、将来の市街地通過に厚別川からの高架橋構築は新札幌で既に29M00の施工基面高を得ることになり、これを維持して野津幌川の谷を遡れば容易に右岸丘陵に取付け、上野幌を移設した地点から連続の10パーミル勾配を以て椴山の最高地点の63Mに至れたから、ピークを一箇所として隧道も省略出来たのだった。
新札幌の乗降場を周囲の道路からの比高10メートルあまりに置いた高高架構造は、高架下駅舎に路面に面した商業施設区画を確保する事由からでもあろうが、これも前記施工基面高確保が本来であったと思われる。

その駅用地は野津幌川左岸丘陵への傾斜の変化する位置に所在して、厚別西通りの標高の15.9メートルに対して厚別中央通りのそれは22.4メートルである。これに対応しては平和付近から斜路を上ってレヴェルの続いた厚別高架橋にも国道12号線跨道橋手前に延長500メートルばかりの10パーミル勾配が加えられている。
それを上って跨道橋に差し掛かるのは8010列車。新札幌の乗降場から望めば、この比高5メートルを上る10パーミルが良いアクセントになってくれた。
画角の再三の既出はお詫びする他無い。背景が空に抜けるここは、そのスクリーンを季節毎、時間毎に楽しめる場所だったのである。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D 1/250sec@f4+2/3 NON filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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植苗 (千歳線) 1970

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湿地や低湿地は地球上に広く分布している。けれど、「湿原」となれば限られた環境下にしか存在しない。地理学上に湿地と湿原の区分には些かの曖昧さを残すのだが、植生学の分野においては湿原植生の立地を以て「湿原」と定義している。この禅問答めいた定義を解説すれば、水位の地表面付近にある湿地であって、その供給水質の貧栄養ゆえに、それに耐えうる小型植物のみの発達した自然草原を指して「湿原」と呼ぶのである。この湿原植生の代表的には、ミズゴケ群落、ヨシ-イワノガリヤス群落、ヤチヤナギ-ムジナスゲ群落などがある。
貧栄養と云う湿原の発達要件をもたらすのは典型的には冷涼な気候と云うことになる。過湿条件の低温下では有機物である植物の枯死体はほとんど分解の進まずに泥炭化する。泥炭からは有機物の含有する栄養素の放出されることは無く貧栄養が常態化し、その堆積の進んで湿原が形成されるからである。
したがって、例えばツンドラ地帯ではあまりの寒冷に植物の生産量自体が少ないので泥炭も堆積され難く、また比較的温暖な地方では植物生産量は多いけれど分解速度が速いため、これも泥炭生成量は少なくなってしまう。その結果、冷温帯から亜寒帯で最も泥炭が堆積され易く、北海道はまさにそこに位置するのである。

約8000年前の縄文海進期に支笏火山群による火砕流台地に海水の浸入し、やがては海蝕にて形成された古勇払湾は強い沿岸流からの砂州の発達にて閉塞の進み、古勇払内湾から勇払湖を経て3000年前とされる海退期にはウトナイ湖や弁天沼などを内水面に残して広大な後背湿地を出現させるに至った。やがては泥炭の堆積の進んで湿原へと姿を変えて行ったのである。それが、ついこの間まで、100年程前までの勇払原野であった。
もっとも湾奥の位置であったろうウトナイ湖の周辺にも泥炭の湿原が広がり、1892年の北海道炭礦鉄道も、1926年の北海道鉄道(2代)も、そして1960年代に施工の千歳線の増設線もそこに大量の土砂を投入する地盤改良にて建設されたのだった。

写真はウトナイ湖の湖面を背景に、前年9月に開通したばかりの千歳線上り線(注-苗補起点にて記述)盛土区間を往く臨貨9755列車。本輪西からの石油輸送列車である。この頃、誰もが撮った画角であろう。彼方には樽前山も浮かぶ。
しかしながら、たかだか40年後の現在には手前側に出現したハンノキの樹林帯に隠されて、この光景を望むことは出来ない。当時にそこは高栄養の雨水に涵養され灌木の成育の始まっていたとは云え、夏期には踏み込めない中間湿原を含む湿地だったのである。
湿原は、教科書どおりには「湿性遷移系列」と呼ばれる遷移をする。即ちは低層湿原から泥炭の堆積が進んで地下水位が地表面より低下すれば地表の乾燥化し、雨水の供給にはやがて森林へと変化して往くのである。いくら亜寒帯地域に属する北海道とは云え、自然界でのそれには千年単位での時間を要する。現在に我々はその何千年目かに立ち会っている訳では無い。湿性樹木のハンノキながらの森林化は明らかに人為的乾燥化の結果である。1960年代に勇払原野で行われた大規模開発が地下水位に変動を与えなかったはずもない。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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音別 (根室本線) 1977

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最初に音別へ降り立ったのは、帯広で下車のつもりで乗った<からまつ>で寝過ごしたゆえのこととは以前にも書いた。→ 音別-古瀬信号場 (根室本線) 1975
この根室本線の富良野-釧路間は、道内各地への遠征を始めた頃には既に無煙化の完了していた区間だったので蒸機を撮り歩いた時代には降りたことの無く、車窓に覚えていた太平洋と海岸段丘の延々と続く寂寥の光景をちょうど良い機会とばかりに選んだのである。
古瀬信号場方の海沿い区間へと線路沿いの土道(それが1960年代半ばまでの国道との驚きの事実は後に知る)を、線路がパシュクル原野へと海岸線を離れるまでの5キロ余りをロケハンしながら往復したとメモに残る。どこまで歩いても風景に然したる変化の無く、どの段丘に上ってみても茫洋とした光景にはロケハンの意味はあまり無かったとも云えるけれど、それを眺めて被写体を待っては、また歩き出すトレッキングは楽しくもあった。これには味を占めて、翌年も翌々年も同じように歩いて一日を過ごしたのだが、あれ程の広大な風景なのに、本当に誰とも出逢わず一人きりなのだった。ただし、段丘上から後を振り返れば国道を往く車列の指呼の間に見えて、くれぐれもここを「秘境」などとは語らないでもらいたい。

当時に音別での撮影地とは、あくまでこの古瀬方を指していて、尺別方にも音別川を越えて歩いたことも在ったけれど、背後の丘陵地から半島のように海岸線に向けて伸びた二つの尾根の先端には線路際から斜面の熊笹をかき分けていたものの、今に撮影者の間で「音別の丘」とも「尺別の丘」とも呼ばれる位置には記憶が無い。眺望の採れそうだと見れば上ったはずだから、この頃にはミズナラの灌木の中を旧国道が尺別へと巻いて往くだけの丘陵だったに違いない。明らかに地形改変の造成の行われた現状は、音別町の望洋苑斎場の建設ばかりでなく、当初にはここを町営墓地とする計画だったのではなかろうか。1980年前後のことと思われる。以前にも書いたが、現在に国道38号線から斎場へと通ずる山道が、1960年代までの国道旧道の名残である。

写真は、強い逆光線に北辺の海岸線を掠めて往くDD51内燃機の重連。牽いているのは425列車の釧路行きである。機関冷却ファンに光るのは駆動用の静油圧ポンプから漏れたオイルか。
もう一度上れと云われても、二度と同じ位置には立てないだろう。逆に言えば、どの段丘からでも同じ絵になる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec.@f8 NikonY52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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