"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

豊浦 (室蘭本線) 1988

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前回記事 落部 (函館本線) 1988 からの6003・6004<北斗星3・4号>への個室寝台車・食堂車の増結に関わる興味を続ける。

増結(組込)の施行
当初には夏季輸送の終了する9月3日相互発までが予定され、9月3日の6003と増結車の抜取られた4日の6004は前回に述べたように青森駅経由が計画されていたのだが、個室寝台への旺盛な需要に期間の延長されるところとなった。しかしながら、検査回帰の関係もあって尾久区車は予定通りに9月3日の6004を以て組込を一旦終了し、同月6日の6003から再組成とされ、札幌車は10日の6004まで組成、尾久区で交番検査の上13日の6003からの再施行であった。
この時期以降1989年3月11日改正まで6003・6004は集約臨としての運転を含めて、ほぼ毎日の運転が決定しており、この間も増結は断続的に施行された。9月4日以降の月別の施行回数(上下計)は以下のとおりである。「札」は札幌所予備車、「尾」は尾久区予備車の増結を示す。
[09月度] 札-12/尾-16
[10月度] 札-8 /尾-10
[11月度] 札-12(内8回はオロネ25+スシ24のみ)/尾-16
[12月度] 札-7 /尾-23
[01月度] 札-9 /尾-9
[02月度] 札-10/尾-12
※ 3月度は個室式寝台車にロビー車、食堂車の増備による定期列車格上げ準備のため施行は無い。

札幌所と尾久区での施行回数のバラつきには上下の一方が増結編成でも、もう一方はB寝台車だけの運転日も在ったことを示し、前回にも書いた通り、定期列車の範疇で運用も固定化された季節列車には極めて変則だったことが分かる。

方転編成での運転
これも前述のとおり、札幌車の組込と解放の都度に青森以北区間を方転編成で運転され、それも度々であった。停車駅では乗車口案内板の差替が生ずるところだが、1・2列車とは同方向につきそれの案内板を流用出来たゆえ、その煩瑣は避けられていた。とは云え、それの続くでは無く、一日だけのことであったから駅では注意を要したことだろう。利用の多い札幌駅では差替の行われていたと記憶する。
札幌所入区を同区配置車の所定と揃える運転の白眉は、1989年1月9日と2月13日の6003にて施行された<北斗星トマムスキー>としての運転であろう。これについては 落部 (函館本線) 1988 の追記に書いているので繰返さない。

この<北斗星>系統への需要、特に個室寝台のそれに自信を深めた北海道・東日本の両旅客鉄道は、遅くとも1988年の秋口までには6003・6004列車の翌年3月に予定のダイヤ改正時での定期格上げと定期列車との編成統一を決定し需給計画に着手したはずである。
北海道会社ではオハネ14 500番台、東日本でもオハネ24の転用を要した増備計画と実際の組成、また既存定期列車との関係など、ここにも興味深い事項がある。これらには、また別項を立てたい。
(この項 終わり)

噴火湾北岸を駆け抜ける6003列車。これは使命本来の集約臨時列車として運行の姿である。牽引機にトレインマークの取付けの無いのでそれと知れる。当然に増結の施行は無い。
なかなかすっきりと晴れてくれない蝦夷梅雨には、背景の海面は空に呑み込まれてしまい境界の区別出来ない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec.@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、3月末頃まで更新の滞ることのあるかと存じます。ご容赦下さい。

落部 (函館本線) 1988

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大沼 (函館本線) 1988 から続く

6003・6004<北斗星3・4号>への個室式寝台車に食堂車の増結組成に関する趣味的な興味を以下に列記する。

組成順の相違
組成は4・5号車のオハネ25を解放し3-6号車間にオロハネ25/オロネ25/スシ24を組込むものであった。ただし、札幌運転所予備車の組成編成と尾久客車区予備車組成編成では組成順が異なり、前者が4号車・5号車・増結5号車として[オロハネ25 550番台-オロネ25 500番台-スシ24 500番台]の順としたのに対して、後者では[オロネ25 500番台-オロハネ25 500番台-スシ24 500番台]であった。このオロハネ25とオロネ25の順位は両区の定期列車も同様であり、おそらくはスシ24に搭載されていたAVサーヴィス制御装置回路設計の相違によると思われるのだが、確証は得ていない。

設備・定員の相違
札幌運転所のオロハネ25550番台と尾久客車区の同500番台では個室式B寝台設備に前者の2人用と後者の1人用との相違があり、スシ24でもテーブル配置が異なっていたから、組成期間中に上下列車は異なる設備である上、前述のとおりの組成順位で運転され、希有な事例には違いなかった。
営業の煩瑣を避けてか、食堂車のテーブル販売は定員の少ない札幌車の28名に合わせられ、尾久車運用編成では2名予約にも4人用テーブルが充てがわれた。
なお、運転時間帯の関係から2回目のテーブルタイムの開始は20時と<北斗星>中で最も遅く、5・6列車と同じく翌日の朝食に続いてブランチタイム営業も行われた。

組成の実際
この当時に<北斗星>系統の編成方向は東北線上を基準に上野方を前位としており、青森で客扱いのあった札幌運転所持ちの1・2列車と、青森信号場-津軽線間を直行した尾久客車区の6003・6004列車とでは以北区間での編成方向の異なっていた。このため、札幌運転所在姿での編成各車の方転には、札幌所予備車の組込・抜取作業前日の6003と当日の6004を青森駅経由として札幌所入区方向を札幌車に合わせていたのである。
実際に即して述べれば、4・5号車を欠車とした1988年7月21日の6003は青森信号場に替えての青森駅経由にて以北を所定とは逆編成にて運転し、旭川方を前位として札幌所に入区、前述ごとくの組込を施行の上、7月22日の6004に折返し、これも青森駅を経由として東北線上の方向を所定に戻していた。
一方の尾久区では同日に6004で上野に到着した編成(7月21日の6004)から4・5号車を抜き取り同じく組込を行って6003に運用した。かくして、7月22日の相互発から6003・6004に個室式寝台車に食堂車の組成が実現したのであった。
増結施行の期間中には札幌所車は尾久区に貸渡とされて、日常の検修は同区にて行われた。この間、増結の3形式は予備を持たないことになり、札幌所、尾久区ともかなり苦しい検修計画を迫られ、後述のように札幌車の交番検査を尾久で施工する事例も、その現れであろう。
(この項 続く)

低く雲の垂れ込めた噴火湾岸の6003列車は増結施行中の姿。これは尾久区予備車の組込編成である。しかも、この日はB寝台車も増結しての12両を連ねていた。
DD51は、あまり好ましいとは思えない青色20号への塗色変更の進められていた頃だったけれど、運良く重連の2両ともが国鉄制式塗色車だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、3月末頃まで更新の滞ることのあるかと存じます。ご容赦下さい。

稀府 (室蘭本線) 1999

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太平洋戦争末期の1945年7月14日と15日、北海道内は米国海軍第38任務部隊に属した三個の機動艦隊による集中的な攻撃を受けた。それは道北方面を除く各地域が攻撃対象となり、主には航空戦力の無力化を狙った飛行場の破壊を目的としていたのだが、重要港湾、重工業都市であった室蘭地区は格好の戦略目標とされ、空爆ばかりで無く激しい艦砲射撃にも見舞われた。そして艦載機による攻撃は噴火湾岸を辿って函館へ、後志の山嶺を越えて小樽にも及んだ。
この地域への攻撃を任務としたのは、空母ヨークタウン、シャングリラを主力に軽空母3隻、戦艦5隻、巡洋艦2隻に駆逐艦の31隻からなる第4機動艦隊と記録される。7月14日の攻撃に空母の第一航空戦隊が当初任務としたのは函館、八雲や室蘭、千歳の各飛行場を始め、函館港、室蘭港に停泊中の商船、そして輪西地区の製鉄所の破壊であった。
この内、B掃討作戦第一波としての第88飛行隊戦闘爆撃機分隊のコルセア戦闘爆撃機の14機は、護衛の戦闘機ヘルキャット3機を伴い、午前4時45分に八戸沖、北緯40度45分/東経140度34分に在った空母ヨークタウンより発進、上空で午前5時にシャングリラを発艦した第85飛行隊戦闘爆撃機分隊のコルセア12機と合流して噴火湾岸を目指した。午前6時30分には湾岸上空に達したが、雲底の低く地表には霧を生ずる悪天候に第一目標の飛行場を視認出来ず、雲間から臨機目標としたのが長万部駅と機関区であった。ロケット弾12発の投下と機銃掃射にて扇形庫と機関車を破壊の後に、再度飛行場を捜索するも見つからず室蘭方面に飛行して雲の切れたところが伊達紋別であった。なので、この日は長万部と紋別には誠に不運だったと云わざるを得ない。
紋別市街地では伊達紋別駅を始め、伊達赤十字病院などを攻撃としたコルセアは東に向かい、勢いを駆って稀府駅に停車していた列車に機銃掃射を浴びせたのだった。

この朝、空襲警報発令により一面の朝霧に沈む稀府に運転を抑止されていたのは函館から稚内港への307列車であった。戦局に普通列車に格下げされていたとは云え、かの樺太連絡急行であり、C51牽引の客車10両で組成されていた。当時の機関士の証言によれば、攻撃は午前7時50分頃と云う。米軍の記録には目標上空離脱が7時45分と在るから、まさに帰投中の駄賃的攻撃であったろう。それは10分足らずの間に第88飛行隊の2機のコルセアにより2度に渡り行われ、機関車は前途運行不能となり客車の多くも被弾、乗客の6人と稀府駅職員の1人が犠牲となり(死者15名との記録もある)、27人の重軽傷者を出したのだった。

写真は稀府東方での5列車<北斗星5号>。北黄金川橋梁付近から有珠岳を背景とするこの画角は、もはや定番であろう。
70年前、この空にコルセア機の機影があった。先の機関士には攻撃を受けるまで室蘭八丁平飛行場を離陸した友軍機と思っていたと云う。しかしながら、この朝、当の飛行場は敵機への感知を恐れてか沈黙を続け、反撃機の飛び立つことは無かったのである。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8+1/3 PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、3月末頃まで更新の滞ることのあるかと存じます。ご容赦下さい。

森 (函館本線) 1989

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門静 (根室本線) 1980 で函館-根室間急行<まりも>のことを書いた。小樽回りの函館-札幌間に1986年10月31日まで運転された<ニセコ>は、1965年10月1日改正を以てそれを札幌にて分割した一方であり、一旦は<ていね>と付された愛称を1968年10月1日改正にて改めたものであった。
この列車名は1962年2月1日から運転の札幌-倶知安間の線内準急に用いられたのだが、ニセイコアンヌプリ(Nisey-ko-an-nupuri)の南麓斜面一帯を指したニセイコアンの地名が、1910年代に始まるこの地でのスキーの歴史とともにアイヌ言葉本来の音節を無視したニセコと略されて、1964年には狩太町を改めた町名ともなり、狩太駅も1968年4月1日付でニセコ駅と改称されれば、本州連絡列車には札幌近郊の山名より相応しいとされたのだろう。
一定の年齢以上の方々には長万部-小樽間をC62重連の牽いた急行としても高名だが、その撮影には自らも参入しながらも1960年代を札幌に暮らした古い鉄道屋としては、それは<まりも>に<ていね>だと云う気がしてならなかった。DD51の牽くようになってからは、スロ62の組成されこそすれ普通列車とあまり変わらぬ姿に印象の薄く、<ニセコ>と聞けば寧ろ1981年2月に14系座席車に置替られてからの整った編成美を思い出す。
青20号にクリーム10号の帯を引いた幅1485ミリの固定窓の連続する車体は、確かに特急車の風格だったのである。だいぶ草臥れたとは云え、その片鱗は今の<はまなす>にも伺える。
蒸機以来にはあまり撮ることのなくなっていたのだが、山形以北をDD51が牽いた<つばさ51号>を撮りそびれていた身としては、その再来にも思えたのだった。
けれど、本州連絡列車の重責の下、7両の組成に航送郵便車・荷物車の3両を連結した堂々とした姿は僅か2年足らずのことで、1982年11月改正からは没落の始まってしまう。この辺りのことは 七飯 (函館本線) 1983 で書いている。

1986年11月1日の改正では遂に廃止に至るも、発表された運行図表にはほぼ同じ時刻にて8101・8102の予定臨時列車のスジが引かれていた。それは<ニセコ>の多客臨としての存続と見て取れたのだが、同年12月24日の運転初日に現れた編成は、キハ56/27系列内燃動車による3両組成であった。1987年の春臨に夏臨、そしてそれ以降にも14系客車の運用を待ったものの叶うこと無く、1993年夏臨期設定を以て運転を終了し、翌1994年3月改正ダイヤではスジ自体も消滅したのだった。

真夏の西陽を受けて森駅2番ホームに停まるのは8101D<ニセコ>。この多客臨時列車は、特急街道と化していた函館本線に在って時代遅れの非冷房車に乗客も疎らと記憶する。優等列車には違いないのに臨時列車ゆえなのか、それを退避する砂原線からの普通列車645Dに1番ホームを譲っての2番着発は、かつての幹線急行の落日を示す印象的なシーンでもある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

大沼 (函館本線) 1988

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2往復の定期運転を計画の北海道連絡寝台列車に、不定期運転の1往復がいつに追加されたものかは分からない。道内に向けては青函航路を介して観光目的や修学旅行の団体輸送需要が存在し、夏季観光シーズンなど多客期輸送とも併せては旅客波動への対応は不可欠であるから、早い時期には設定の決められていたものと思う。
そのスジは上下とも約2時間の時隔を置いた定期列車の間を埋めて引かれ、それらと相互に1時間の間隔にて雁行する、発車順から6003・6004の列車番号が振られた季節列車<北斗星3・4号>として実現したのだった。

輸送力列車との位置づけに、全て開放型のB寝台設備の11両(電源車含む)を所定編成として計画され、定期1往復と共に尾久客車区持ちの運用であった。1988年3月改正での<あけぼの>系統 1往復の廃止による青森運転所持ちの<日本海>運用の24系24形への置替には、<ゆうづる>2往復の廃止と併せての同所からの24系25形の捻出は札幌運転所転出分を除外して52両(南秋田運転区で番台を差替えた電源荷物車を含む)が確保されており、それは2往復運転の需給には十分過ぎる配置であった。1988年3月改正での[尾21]から[尾24]の運用行路表からは、上記にスシ24を加えた配置55両に対して使用44両/予備11両と読める。

運行は定期列車と共に1988年3月13日の相互発より開始され、春臨期間には海峡線の開業効果と春休み期間の需要に4月6日の上野発、7日の札幌発までの多客臨運転に、5月/6月には修学旅行集約臨として数往復が設定されていたのだが、<北斗星>の爆発的な需要には6月17日の下りを始めに同月中に6往復の多客臨を設定、夏臨期の7月3日の下りからは1989年3月11日改正まで集約臨としての運転も含め、ほぼ毎日に運転されるところとなった。
何よりのトピックスは、輸送力列車に留めおくには往かなくなり、尾久区は勿論のこと札幌所の予備車までも投入して個室寝台車に食堂車を組込んだことであろう。夏休み期間となる1988年7月22日の相互発より4・5号車のオハネ25に替えて、オロハネ25・オロネ25・スシ24を組成した12両の定期列車に遜色無い組成で運行されたのだった。当初には夏季輸送の終了する9月3日相互発までの計画であったが、個室寝台への需要の高く、以降も1989年2月まで断続的に施行され、同年3月改正での所要車を増備しての所定編成化、定期列車格上げの布石となっていた。
尾久区のオロハネ25 500番台と札幌所の同550番台では設備と定員が異なり、スシ24も両区配置車には定員に相違のありマルス登録には注意を要した上に、道内では車両の向きの所定も異なって、増結の操配には趣味的に興味深い点の多々存在した。これについては次回に続けたい。
(この項 落部 (室蘭本線) 1988 に続く)

写真は早朝の小沼湖畔を往く6003列車。牽いているDD51の重連は国鉄制式塗色、従う客車は全てB寝台車である。
実を云えば,ここへは蒸機撮影以来に訪れたのだが、かつての俯瞰位置は成長した樹木に遮られてしまって湖面を望めず、仕方なくかなり低い位置まで降りたものだった。今は、ここが定番位置と化しているようだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

黄金 (室蘭本線) 1978

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木骨に鉄骨のレンガ構造や石造り、はたまた導入されて間もないコンクリート建築など幾多の例外のあるにせよ、開業以来に鉄道駅舎の原型は日本家屋に従った土壁に木造であり、古くは外壁仕上げの全てを板張とした質素な建築であった。構造材としての土壁も省略して内壁も板張とした例も数多在ったろう。
それは鉄道の創業期に建設を主導した技術者達の路盤や隧道、橋梁など半永久構造物に比重を置き、いずれ改築を要する駅舎は簡素な建築とした方針に依っていたのである。背景には資金的に駅舎などの建築物に十分な投資の出来なかったこともあった。
けれど、幾多の変遷を経て鉄道の監督・運営機構が鉄道院に一本化される時代となって、駅はその機能に標準的設計も固定し、地域のランドマークとも集客拠点としても理解されれば、主要駅や都市代表駅などに意匠を凝らした欧風様式の登場し、一般の小駅にも頑丈な漆喰壁などが併用されるようになる。木造小屋の延長然とした造りからは、或る程度の耐用年数の考慮され始めたゆえであり、当時に建築水準の上がっていた一般家屋に揃えられたとも云えよう。建築史には疎いのだが、それは高価な上に調合にノウハウを要した漆喰壁に、建材として調合漆喰の商品化も後押ししたのではないかと思う。
総板張による駅舎の終末は鉄道省成立期の1920年代のことで、その半ばを境に新築事例は無くなって往く。道内では、当時に建設の進められた天塩線(現宗谷本線音威子府以北)に渚滑線、相生線、そして長輪東線(現室蘭本線東室蘭-伊達紋別間)の例が最後であった。

1925年8月20日に東室蘭(当時に東輪西)から伊達紋別までを開業した長輪東線上では、黄金に稀府が該当して、資料の見つからなかったのだが1957年の改築前の本輪西も同様だったと推定する。道内における最後の総板張での新築駅舎群であった。設計に施工も一括して共通に行われたものと思われ、これらには下見板張にも腰板だけは羽目板張とした例の多い中で全外壁仕上げに下見板張の採用が特徴的であった。
余談ながら、1944年10月1日に信号場として開設の豊住の、その際に建築されたと思われる本屋も再びに総下見板張りであった。但し、これは物資不足の戦時下での例外である。

北海道南部の比較的温暖な気候である噴火湾北岸は、早い時期に開拓入植の進展した地域である。けれども、ずっと時代の下った1947年に米軍が撮影した空中写真に見ても、当時の伊達町東端にあたる黄金蕊駅周辺は、鉄道官舎の目立つ他は集落の体を成していない寒村に見える。内陸側も農地の広がる中に僅かばかりの農家が散在するのみである。
とは云え、入植地に駅の開業すれば農産物の安定的出荷や生活物資の到着に機能したには違いなく、多くの駅員の詰めたであろう駅本屋は、まもなくに鉄道省工務局が通達することになる「小停車場本屋標準図」(1930年10月6日工達第875号)に示された、床面積200平方メートル、間口20メートルの「四號型」を先取りするような幹線上の小駅らしい規模だった。ここに始めて降りた1970年代半ばには鉄道弘済会の売店も開かれていたから待合室も広かったと覚えている。

人気の無い静かな海辺を駆け抜けて往くのは、旭川と釧路への3D<おおぞら3号>。キロ80の次位にキシ80の無いのは旭川編成である。1977年8月7日に噴火した有珠山は、未だに噴煙を上げていた。
非日常の日常を撮りたいなどと戯言を申し立てていた頃である。テーマに選んだ被写体が漁師小屋(船番屋)と云うのが失敗だったのだろう。道内の海沿いをあちらこちらと彷徨いても、結局のところ思うような写真は撮れなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

門静 (根室本線) 1980

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根室本線の末端区間に残存した客車普通列車 441・444(1980年10月改正より441・442)列車は、1982年11月15日改正まで札幌運転区(当時)受持の運用番[札1]によるスハフ44-スハ45の2両で運転されていた。それは寝台車7両にスロ54の[札附1]を伴う札幌-釧路間417・418列車<狩勝>と共通運用であり、早朝に釧路駅1番線に到着した417列車からは、その基準駅寄り(道内では函館が基準駅)に組成の[札1]が前位に連結の[北東航21]のオユ10、[北東航1]のマニ36ないし60(後にマニ50)と共に切り離され、滝川方に引上げの上2番線に転線、441列車に仕立てられており、444列車の釧路着後には釧路操車場で[札附1]編成と連結する構内作業が行われていたのである。

これは、夜行<狩勝>の前身である<まりも>が、かつて根室着発で運転されていたことに由来する。
1949年9月15日のダイヤ改正にて設定の函館-釧路間急行列車は、翌1950年10月1日改正にて札幌以遠夜行区間の準急運転を廃して全区間が急行となり、1951年4月1日付で<まりも>の愛称名が与えられると、1952年9月1日からは釧路-根室間が普通列車にて延長されたのだった。手元の1956年11月19日改正時刻表には函館-根室間の全行程で21時間余りを要する運転とある。
ただし、食堂車を組成し1954年10月改正より2等寝台車(マロネロ38、後にマロネ29)を、1956年5月からは3等寝台車(ナハネ10)も連結した列車だったのだが、それらは全て釧路止まりであり、根室行きの客車行先標を掲げたのは編成中の2等車(オロ35・スロ52など)を含む座席車の4両ないし5両であった。
当時に<まりも>は基準駅寄りから優等寝台車-寝台車-優等座席車-食堂車-座席車とする編成順序の原則に忠実に組成されており、函館方に連結された上野発着の荷物車に郵便荷物車の航送車も根室まで延長された関係からも、釧路では編成から根室行きを抜き出しての再組成、上りならその逆の入換作業を伴うことになった。根室着発の車両は旅客乗車のままで構内を引き回されたのである。
列車としての函館-根室間運転は下りが1960年10月改正で、上りも翌1961年10月改正で釧路打切りとなるのだが、これは設定上に普通列車区間が分離されたに過ぎず、客車運用は繋がっていて実質には何ら変わることの無く、昼行区間の函館-札幌間を<ていね>として分離した1965年10月改正以降も同様に、基準寄りから[オユ10-マニ36(60)-寝台車7両-スロ54-スハ45-スハフ44]とされた12両から抜き出された[オユ10-マニ36(60)-スハ45-スハフ44]の組成が441・444列車として根室に達したのだった。444は時刻が立替られてしまったのだが、441では引続き乗り通しが可能であった。運用が函館客貨車区から札幌運転区持ちとなりスハ45-スハフ44に[札1]、寝台車組成に[札附1]の運用番の与えられたのも同改正からのことである。
根室線系統急行の愛称が<狩勝>に統一されて以降の1973年10月改正で、[札附1]の根室方に組成の[札1]を基準寄り側に変更(同時に[札附1]のスロ54もその基準寄りとした)、郵便・荷物車の次位として釧路での組成変更の入換を解消したのが冒頭に記した姿であった。

写真は、南岸低気圧のもたらした激しい降雪の厚岸湾岸を往く442列車。門静の疎らな集落の背後に見えるはずの画角の既出はお詫びする。
後追いの後部はスハ45である。前記のごとく[札1]の[札附1]前位側連結によりスハフ44が荷物車次位となったためであり、これには尾灯を装備したスハ45が限定運用されていた。
付記すれば、1981年10月改正で再び<まりも>に戻されたこの運用に14系座席車の投入された1982年11月改正以降も、航送車の連結には釧路客貨車区に持替として客車運用の存続し、[釧2]の運用番にて同区のスハ45やスハフ44、オハ47、スハフ42が使用された。運用を失った札幌区からの転入は無く、[釧1]の421・422列車の編成減車による捻出分の充当であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f2.8 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

七飯 (函館本線) 1970

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[外伝]の記事 ホテル オークランド でも少し触れたとおり、七飯に始めて降り立ったのは1970年の冬、そこでの新しい鉄道景観となっていた延長913メートルの七飯高架橋での撮影を目論んでのことだった。ただし、これには前史の在って、帰省先の水戸とを往き来した列車で幾度もそこは通過していたし、1965年の秋には親父に連れられての残り1年となった仁山越えの補機撮影の際、ホームには降りて構内や駅舎の佇まいを眺めてはいたのである。
その当時の駅本屋は勿論に木造で写真を撮っておかなかったのを悔やむのだが、Webを検索すると地元七飯町の七飯歴史館の発行する広報紙「ぴちゃり」第56号に1960年前後撮影とされる写真を見つけた。
それは1970年当時に降りた本屋に違いなく、1902年12月10日の開駅時以来のものとも思うけれど、「道南鉄道100年史」(北海道旅客鉄道株式会社函館支社, 2003)に所載の建物の一部の見える写真と比較すると規模の大きくも見え、1920年と記録の残る構内拡張の際の改築が正解であろうか。
藤城回り線の開通に先駆けては跨線橋の設備され、待合室では弘済会の売店が営業していた。「ぴちゃり」の記事にも藤棚が触れられているが、70年代にそれはより成長して、駅務室の入口へはそれの長いトンネルをくぐり抜けるような有様だったと覚えている。

1970年代の初めとは、函館市の北に接していた亀田町がそのベッドタウンとして人口の5万人を越え、それが七飯町にも及びつつあった時期である。1970年10月1日の国勢調査での七飯町の人口16745人は、1975年の同調査で18710人、1980年には21267人に達する。当初の宅地開発は亀田町桔梗と接した国道5号線の大中山地区で始まった様子だが、やがては北上して中心市街地周辺に及ぶ。ここでは鉄道での利便からなのか駅近くが選ばれて現在の緑町地区の農地が転用され、そして駅の北側、戦時下に藤城地区を経由する勾配改良線の通過が計画されていた現本町地区が対象とされた。敗戦で中断していた工事を再開しての藤城回り線の着工は1963年のことで、それには当初計画を大きく北へ迂回する線形の高架橋が含まれていたから、ここを市街地化する七飯町の都市計画は、遅くとも1960年前後には決定されていたことになる。

仁山回りの本線を七飯に向かうのは154列車。D52の仕業のはずがD51の牽いて来て些か落胆したカットである。白煙に隠されて高架橋が在り、それへの築堤部の斜面から撮っている。
渡島大野から横津岳より続く斜面の裾野に位置した七飯へは標準勾配の9.6パーミルを上り、蒸機は給気運転であった。
背景は現在の本町1丁目にあたり、そこには一面に住宅の建て込んでいるのはご承知の通りで、古い鉄道屋には隔世の感が強い。改めて写真を詳細に見ると雪中に測量の杭位置を示す標識が立っており、この頃、既に農地の耕作は放棄されていたのだろう。
後方に僅かに見える踏切道の細道は、今や2車線の道道676号七飯大野線となり、同位置に設けられた七飯架道橋で線路下をくぐり抜けている。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走機関車駐泊所 (石北/釧網本線) 1973

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網走の構内には、初代そして現在の二代目駅にも蒸機運転廃止まで、一貫して収容庫や転車台、給炭台、給水塔など一通りの設備が置かれていた。しかしながら、それが独立した現業機関である機関区(機関庫)本区とされた記録は無いようである。

1912年10月5日の野付牛(現北見)からの網走本線延長開業に際しては、終端駅設備としても矩形機関庫の他、転車台や給炭給水の設備の設けられ、これは駅から独立した野付牛機関庫の網走分庫とされた。分庫ゆえ規模は小さかっただろうが、それを名乗る以上は数両の機関車(おそらく2500形や2700形のC型タンク機)に要員の配属されたものだろう。けれど、これは翌1913年には何故か駅に所属の網走駐泊所に格下げされてしまうのである。現代に当てはめれば機関車の無配置化に要員の引揚げを意味するものの、機関車の整備・運行に多くの人手を要した当時に、その稼働実体はあまり変わらなかったとも思える。けれど、1925年11月10日の網走から斜里までの延長開業に野付牛機関庫斜里分庫が開設されれば、網走駐泊所の機能の多くが移転して、以後には文字通りに駐泊施設として稼働したことだろう。これは1932年12月1日付での網走駅のクルマトマナイへの移転(正しくは呼人-網走間への新駅設置)の後にも浜網走と改称した旧駅構内に存続した。
それは後には新駅構内へと移転するのだが、残念ながらその時期を手元資料の限りには調べ得なかった。「網走歴史の会」が記録、公表している網走とその周辺の年表に拾えば、1949年の駐泊施設に隣接した南二条西一丁目への日本通運倉庫の開設(年表では網走機関庫と表記)との記述から、戦後間もない時期には未だ浜網走構内への所在と知れ、1948年の米軍撮影の空中写真もそれを裏付けている。
1969年10月4日付での浜網走の移転までには違いなく、Web上の先達諸兄の撮影には移設後の駐泊所にて1968年とのキャプションも見られることを勘案すれば、1961年度に施工された網走駅構内の拡張工事に際してではないかと推定している。
当時既に網走市当局は将来の浜網走駅移転の構想を持っており、それの具体化の進展したでは無かったものの、国鉄も網走と浜網走のそれぞれでの構内に分かれて輻輳していた貨車仕訳と組成作業の網走構内への集約を図っての工事であった。以降に浜網走には貨物取扱機能のみが残されたのである。

降雨下、駐泊所東側で仕業を待つC58 408、収容庫2番線にはC58 418が見える(共に当時は釧路機関区配置)。
鉄骨にスレート葺きの収容庫は、やはり1960年代の建築だったであろう。給炭・給水施設はその西側に在り、撮影位置後方に転車台が設備されていた。今はこの位置を網走市の市道(山下通り)が走る。
D51には不似合いだった北海道独自の切詰めデフは、C58には違和感無く収まっていたように思う。多分車長との偶然のバランスだったのだろう。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2  1/60sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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