"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

苗穂 (函館本線/千歳線) 2004

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「寝台(専用)列車」の用語が国鉄部内で使われるのは戦後のことであり、1952年4月1日にそれまでの連合軍専用列車を改め、特殊列車とした臨時急行列車に対してであった。これら、東京-佐世保間2往復に札幌間1往復には一部区間に日本人の利用を前提に3等座席車の連結されるようになったものの、1等に2等の寝台車を連ねた編成に変わりは無く、寝台車主体に組成のそれを指して用いられたのである。当時に規程上に存在した用語でも無く、単に組成の態様を直感的に呼んだ自然発生的呼称だったろう。
この1950年代に、接収の解除された1・2等寝台車が各方面の夜行急行に再組成されて往き、1955年7月1日付の旅客(及び荷物)運送規則改定にて1等寝台を廃してそれを2等寝台AおよびBに、2等寝台を同寝台Cと改めて利用促進を図り、1956年度に戦時下に絶えて久しい3等寝台車が復活すれば、同年11月15日のダイヤ改正におけるそれらを主体に組成した特急<あさかぜ>設定を契機に「寝台列車」の用語は対外的にも使われるようになり、部内では申し合わされたでもなさそうだが「寝台専用列車」と記述された。
翌1957年10月1日改正では、編成の寝台車比率では<あさかぜ>を上回る急行<彗星>が東京-大阪間に設定され、最初の寝台専用急行となっており、1959年9月22日の改正では上野-青森間急行<北斗>が寝台車比率を高めていた。

ここで寝台車比率との表現を用いたのは、当時に全車寝台車の組成は存在しなかったからである。寝台車、とくに3等寝台の需要は国民所得の増加と共に高まっていたとは云え、慣習的にも根強い座席利用の要求には、前記の各列車にも1両から3両程度の座席車連結を要しており、国鉄もそれを見越して必然的に編成端となる座席車を緩急車とすることで、寝台車にはそれを製作することは無かったのである。車掌室設置により、ただでさえ(座席車に比して)少ない寝台定員の減少を嫌ったとも思えるけれど、やはり座席需要を無視出来なかったことが大きいだろう。
寝台専用列車における座席車は、編成定員の少ない列車としての収益確保や混雑時の寝台客への影響などから座席指定制が採用され、国鉄はこの1950年代末頃に「寝台専用列車」を公式の用語として「寝台車を主体に組成の全車指定制の列車」と定義した模様である。時期を調べ得ていないが、市販の時刻表にもその旨の表記のなされるようになった。
なお、寝台緩急車の登場は、国鉄が寝台列車と輸送力列車との明確な分離を方針とする1963年度のことで、それらは全て既存車への緩急車設備の設置改造にて賄われた(スハネフ30を除く)。

さて、寝台専用特急列車の略でもある「寝台特急」の名称だが、部内に1958年度の<あさかぜ>への20系固定編成客車投入に際して現れ、部外に使われるのは1960年代に入ってからのことと思われる。1959年秋に創刊された国鉄の対外PR誌だった「R」誌での初出は1961年1月号の記事中であった。
そして、1961年10月改正にて大増発された寝台専用急行列車に対しても「寝台急行」の呼称が定着して往くのである。

写真は苗穂に進入する8010列車<カシオペア>。
客車運行の寝台専用特急列車の掉尾は、やはりこの列車が務めることになった。順当と云うことだ。北海道を去る前に、一度屋根の形状も高さも揃ったDF200に牽かれる姿を見たいと願うのだが、叶わぬものだろうか。
幾度かの画角の既出はお詫びする。ここは季節に変わりゆく斜光線を楽しめる場所だったのである。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D 1/500sec@f2.8+2/3 NON filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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鉄道における除雪作業はおおまかに本線除雪と構内除雪に大別される。当然のことだが、両者は全くに異なる作業である。
1955年当時の札幌鉄道管理局管内を例に採れば、およそ3200万立方メートルと推定された年間の総除雪量に対して本線が2400万立方メートル、構内は25パーセントの800万立方メートルなのだが、その人力による作業量と経費は本線除雪を遥かに上回ったのである。
中間小停車場であれ、構内には本線や側線の線路ばかりでなく、本屋に旅客上屋、貨物積卸施設に保管施設から用品庫など付随建物に宿舎までが所在し、拠点ともなればそれらの規模の大きくなる上に構内も広く、各現業機関の建物も所在して、機関区や客車区などのあろうものなら除雪すべき巨大な屋根が加わった。
構内除雪の本線除雪との最大の相違は、多くの場合で雪捨作業をともなうところにある。構内とは云え線路除雪なら分岐器の中掻など人の手に依らざるを得ない場面はあるにせよ、本線同様にラッセル式やジョルダン式の雪搔車が使え、集雪にも掻寄式やジョルダン式、場合によってはブルドーザが用いられたが、それの無蓋車を代用した雪捨車への積込に取卸には多大な人力を要したのである。勿論、積込みにはスクリュウ式の搔込ヘッドにベルトコンベヤの付帯したようなスノウローダなる機械も持込まれ、無蓋車床面に敷いた巨大なゴム製チューブに圧縮空気を送込んで膨らませ、上に積込まれた雪を押しのける方式の取卸も考案されてはいたものの(後に「空気袋式雪捨装置」と命名された)、主力は人力であった。
線路外では貨物積卸場などならブルドーザやローダなどの道路建設機械が流用されたが、旅客・貨物上屋を含む構内建築物の屋根やその周囲は、機関区の大屋根であれ人力に頼らざるを得ず、これにも雪捨が付帯した。
札鉄局管内では人力除雪の88パーセントは構内除雪であり、さらにその半分は雪捨作業に関わるとされていた。例を挙げれば、15両組成の雪捨編成の運行には約60人の作業者を要したと云う。

この状況を劇的に改善するのが、この50年代にも既に青森や長岡で実証されていた流雪溝なのだが、道内への導入は、水利権の絡む水源に排水先の確保も然り乍ら、水路凍結の不安に雪と水を分離して排出する流末処理の問題など寒冷地特有の事情から進まず、海水を使用する小樽築港と水源が至近に得られた夕張と胆振線支線の脇方のみに留まっていた。
しかしながら、冬毎の膨大な作業量に慢性的人手不足の解消は喫緊の案件ともなり、1961年度予算にて倶知安と滝川構内への整備が決定されたのだった。
滝川の設備は1960年3月から稼働した北海道電力滝川火力発電所の温排水の利用により水温18度を確保して上記の諸問題を回避したけれど、倶知安の河川から導水管を敷設しての取水は道内で最初の事例となっていた。
1961年12月に完成し稼働を開始したそれは、1.5キロほど離れた硫黄川よりの導水を水深30センチに秒速90センチの流速にて通水する勾配1.8パーセントの設計であった。
流速の確保には凍結や投入雪の滞留も無く、順調に稼働した模様であるが、寒冷に融解しきれずシャーベット状となる排水処理には課題も残されたようである。流雪溝は1967年度に岩見沢の広大な構内にも設備されるが、流末処理の問題は1969年度の苗穂構内への設備に際して実用化された定置式スノーメルターの開発を待たねばならなかった。これは流末に設置の融雪槽から網目のベルトコンベヤにて雪のみを分離し温熱にて融雪する仕組みであった。

=参考資料=
除雪作業と除雪機械 : 札幌鉄道管理局施設部 田中行男(交通技術通巻118号/1956年4月号に掲載)

倶知安の雪は深い。年間累計降雪量の1954年からの記録は10メートルから15メートルで推移し、最新の10年間平均も13.1メートルである。(札幌管区気象台データによる)
北4線踏切への取付け道路は冬季に除雪されず、線路伝いに達するほか無かった。朝の内には見えていた真狩山も層雲の彼方となれば周囲の丘を目指したのだけれど、深々とした新雪には数メートルを上るのに30分近くを要したと覚えている。
峠を下って来たのは104列車<ニセコ1号>。思いのほか速度の遅くてブラしそこねのカットでもある。
お陰で機関車に続く車両を確認出来るのだが、次位が根室から継送の[北東航21]のオユ10、冷房化直後の姿である。その後に札幌-隅田川間護送便[札航1]のスユ13と続く。この上り<ニセコ>に荷物車の組成は無く、謂わば本州行きのメイルトレインでもあった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/30sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1979

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1596年から1614年の慶長年間に、松前氏によって開かれたルルモッペ(rur-mo-ot-pe)場所、それはマシケ(mas-ke)からトママイ(toma-oma-i)を含む広大な区域だったのだが、幾つかは所在したはずの交易拠点のひとつが、先住民族がポンオニウシカペッ(pon-o-ni-us-ka-pet)と呼んだ現在の鬼鹿広富地区付近とされる。
「森の中の川」を意味する地名の通りに今の番屋の沢川にあたる原生林からの流れの在って、交易箇所の置かれる程であるから、水流沿いには彼らの小集落(コタン)の散在していたことだろう。

和人は、オニウシカペッをオニシカと聞き取り、交易の度に出向いたとは云え、その進出地の証には1714年に弁天社を置き、1786年には厳島神社も創建、和人地名としての鬼鹿の起こりである。
場所が知行地としての交易区域から請負制を経て商人の経営する漁場へと変容し、1840年に漁民の出稼ぎが許可され、そのまま越年しての定住者の現れる以降に和人が居住地としたのもポンオニウシカペッであった。この時代まではそこが鬼鹿だったのである。
沿岸への定住者の増加には、そこが鬼鹿村と、より南側の今の鬼鹿秀浦付近の集落が天登雁村と呼ばれるようになり、それは開拓使の成立以降にも引継がれて1880年には、その境界近くであった天登雁村字番屋の沢に両村の戸長役場が設けられた。此の時、鬼鹿村 62戸/892人、天登雁村 31戸/667人、と記録にある。

一方で北へ1キロばかり、現在の鬼鹿中心市街地の一帯はオンネオニウシカペッ(onne-o-ni-us-ka-pet)と呼ばれた大きい方の水流の河口付近にあたり、幕末期に至って漁場の開かれ、オンネオニシカは鬼鹿と区別して温寧と呼ばれていた。オンネオニウシカペッが今の温寧川である。
ここへも以降に定住者の増えていたものと思われ、1881年に両村の連合小学校が開かれ、そこの海岸に杭を打って和船の繋留地とすれば、1884年には戸長役場も移転し、やがては中心集落となって往ったのである。そして、1906年4月1日付での鬼鹿村への二級町村制施行には天登雁村を併合、役場が置かれた。ただし、地名がポンオニシカの留萠郡鬼鹿村大字鬼鹿村字鬼鹿から移動することは無く、そこは永らく鬼鹿村字温寧のままであった。
この際の鬼鹿村の人口は戸口571戸に2981人と在り、その氏神であった厳島神社も1908年に旧天登雁村から温寧市街の後背海岸段丘上に遷座していた。

以前に 山越 (函館本線) 1999 に書いたように、明治政権以来の戦前の時代、国家管理の下、国民に天皇への隷属を強いる装置として機能した神社神道の歴史には個人的に複雑な想いがあるのだけれど、鳥居の向こうに神域を拝めば参詣せずには居られない。
鬼鹿へと幾度も通った1970年代当時の厳島神社への参道は、整備された現在と異なり羽幌線線路の築堤に刻まれた細道だったと記憶するけれど、冬にも参拝する人の踏締め道となっていて高台の境内には容易に上れたものだった。流造りの社殿に参り、そこを横切り続く雪原に踏み込んで往くと眼下の温寧市街地から日本海を一望として、ポイントの選定に困ればそこに立ったものだった。
いつも積雪期ばかりで、その雪原に何が埋もれていたものか知る由もなかったのだが、改めて調べるとかつての農地が放棄されて笹の原野に還った位置だった様子である。どおりで平坦だったはずだ。
市街地を往くのは853D、幌延行き。冬季の訪問で、この日は珍しくも晴天に恵まれた。
背後の海岸には後に第二種漁港として鬼鹿漁港が築造され、この景観は失われている。何より、そこに鉄路は無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌-西ノ里信号場 (千歳線-旧線) 1969

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東京の西側に住んで、仕事場は青山の外れだったし日常の用件も新宿で事足りれば、打ち合わせなどで東銀座あたりまでは出掛けるけれど、その先を知らない。千葉方面へ出向くなら、横浜から横須賀/総武線で直通してしまう。
船橋に居る従兄弟はその逆で、通勤先が虎ノ門なら買物は銀座で済ませ、新宿に渋谷などまずは往かないと云う。ヒトの生活圏などそんなものだろう。
それの遥かに狭い手稲での中学生時代ともなれば尚更で、苗穂を覗きに往くのでも札幌の向こう側の彼方を訪ねる感覚でいたから、その先の札幌市内へ足を伸ばした覚えなぞ数える程しか無い。それでも、内地と往復した際の車窓の記憶から上野幌に、そこで聞き覚えて西ノ里信号場にも降りていた。
上野幌の本屋は如何にも安普請の小屋然と見えたのを覚えている。ここに限らず北広島や車窓に見た各駅も同様で、寧ろ札沼線の新琴似あたりのほうが本線の手稲と比べても遜色無いと感じていたのは、千歳線が私設鉄道からの出自ゆえとは、随分と後になって知ることだった。駅員が丹精込めただろう花壇が印象的だった駅は、改札を出ると石段を伝って苗穂方面ホームに下りる構造で、向かいが沼ノ端方面ホームの相対式と記憶する。その背後には民家の建ち始めた造成地の斜面が続いていたから、構内は浅い切通の中に存在したことになる。
1973年9月の廃駅に公園へと転用されてからは、その地を一度も訪れてはいないのだが、それは切通しを埋めたものか削ったものか、写真の限りには住宅街と一体化して整地されたように見える。

国鉄における高速運転の特急貨物列車は、形式記号番号の10000番台に付番された100km/h運転貨車の開発により1966年10月改正より実現したもので、首都圏-関西-北九州間での輸送実績を背景に1968年10月改正にて隅田川-新札幌(現札幌貨物ターミナル)間の対北海道チャンネルが加えられていた。函館・室蘭線へのDD51形内燃機の投入は<ほっかい>と命名されたこの列車の牽引用途が嚆矢であり、定数70(コンテナ車14両)を[特通貨D4]の速度確保には重連牽引にて計画されていた。
蒸気機関車など身近で見慣れていた眼には、札幌地区まで当時に唯一到達していた新鋭内燃機の方が新鮮で、札幌の向こう側への遠征はこれや80系特急気動車が目当てであった。

写真は上野幌東方(としても正確な位置は失念している。信号場の近くかも知れない)での3050列車<ほっかい>。現在に繋がる北海道連絡の高速貨物列車群の始祖でもある。
なお、コンテナ車のみで組成の急行貨物列車なら1965年10月改正から秋葉原-桑園間(後に隅田川-東札幌間に変更)に運行されており、これは漢字書きで<北海>を名乗っていた。東北本線の盛岡以北を旅客列車並みにC60が重連で牽いたことで、ご記憶の向きもあろうかと思う。
67年度第三次債務車両計画にて新製のコキ/コキフ10000形の145/14両の内、隅田川駅常備とされた一群(東海道線運用からの転用車を含む)はブレーキ装置の耐寒耐雪化のほか車掌室石油ストーブの能力強化がなされ、その出入台側妻面に北海道の地図を象ったシンボルマークを掲げていた。
この北海道へのコキ/コキフ10000形の運転については、以前の記事 七飯-大沼 (函館本線) 1983上野幌-北広島 (千歳線) 1989 でも触れている。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC+LR5 on Mac.

山越 (函館本線) 1996

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札幌 (函館本線) 1991 から続く

前回までに述べたように、国鉄当時に計画された上野-札幌間直通列車は、二人用個室式A寝台が目新しい程度で、おそらくは博多<あさかぜ>に範を取ったと思われる編成組成であった。一人用個室式A寝台やB寝台、二人用個室式B寝台(当初は札幌運転所車のみ)の個室設備の追加に、ロビー施設、シャワー設備の導入、食堂車のテーブル配置を変更し予約制としてまでの供食体制見直しは、国鉄当時に構想は在ったのかも知れぬが、1987年4月以降に北海道旅客鉄道と東日本旅客鉃道との協議により実現したものである。
なお、両社間で食堂車の仕様が異なっていたのは、東日本会社の運用列車が設定時刻上に夜間営業時間の短く、定員確保を要したためであった。
需要が不透明な中での積極的な営業施策は、北海道・東日本の両社が世紀のプロジェクトと喧伝された青函トンネル開通を会社イメージ向上の絶好の機会と捉えて、この列車をフラッグシップ的位置づけとしたからであった。結果的にそれは大成功を収めるのだけれど、当時のバブル経済が味方したと云うのが正解かも知れない。
<北斗星>の愛称は、1987年夏に青森-札幌間/青森-函館間列車と共に一般公募され、同年11月7日にトレインマークのデザインと併せて発表されていた。12月16日の4列車<ゆうづる4号>が宣伝映像撮影のためそれを装着して運転したことは前回に書いたとおりである。ED75の絵柄は海峡線内のED79に模してのことだろう。

計画当時の主要な上野-青森間夜行列車運転の経路だった常磐線に替えての東北本線経由は、到達時分の短縮に寝台電車列車並みの速度を要求されたからに他ならない。これにはED75では無く田端運転所のEF81が選定された。<ゆうづる>仕業の廃止には捻出も然り乍ら、現車12両/換算45両の<北斗星>編成を定数50で[特通客D9](黒磯-青森間)での運転に、機関車一台牽引で対応するためであった。
元来は1973年10月改正からの東北線貨物列車牽引用として田端機関区に配置された同機だが、福島以北への運転はこれが最初の事例であり、1982年11月15日改正までの貨物仕業当時には黒磯停車で行っていた交直切替が、特急仕業には同駅構内の交直セクションの通過運転となって特急電車並みの列車選別装置搭載を要した。計画では専用機として所要数のみの装備予定だったが、運用が複雑なこともあり1987年度内に配置全車の装備に変更された。
道内区間もDD51の一台運転では、かつてのキハ80系特急並の函札間4時間30分運転とする速度確保が困難で、それの重連牽引によりEF81での上野-黒磯間の平坦区間並みの定数50の[特通客C3]にて計画されていた。道内の「走り」が電機の東北線内と遜色無いのは、それゆえである。

運行開始に先立っては1988年3月5日と6日の二日間に上野駅で車両の展示会が行われ、[カニ24503-オロネ25505-オロハネ25501-オハ25503-スシ24506-オハネフ25213]の6両編成が、トレインマークを掲げたED75152(当時青森東所配置)と共に展示された。これもED79の代替と云うことなのだろう。この組成は前後の期間に青森・盛岡・仙台・福島・郡山の各駅でも展示を行った。同様の展示会は道内でも実施された模様だが、こちらの記録は失念している。

山越を通過して往くのは6003列車<北斗星3号>。
ここまで述べて来た2往復の定期列車に対する多客期や団体輸送の補完列車として追加された6003・6004列車は、運行開始直後からの旺盛な需要を背景に1989年3月改正では個室寝台車や食堂車も組成した定期列車と成長したものの、1994年12月改正で再度季節列車格下げされていた。それは需要の陰りにオフシーズンでの運休を意図したものだったけれど、結局はその措置の一度も発動されること無く、その役目を<カシオペア>に譲るまで輸送を全うした。
敢えて、この「北斗星前史」に触れなかったこれの設定については別項を立てたいと思う。(この項終わり)

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f4 NONfilter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1991

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国縫 (函館本線) 2002 から続く

国鉄が1985年度に決定した上野-札幌間直通列車の方針は、将来の北海道線承継会社と本州線承継会社が1往復ずつの運用を担当する定期列車2往復運転だったと推定される。
当時に東北新幹線から<はつかり>に乗継ぎ、青函連絡船の深夜便を介して<北斗>に接続する系統の代替との想定には、その有効時間帯を継承する、19時台発と翌9時台終着を要しての2往復とも解せられる。およそ16時間と算定の到達時間に1往復では双方を充たせぬゆえであり、これにて道内では、1985年3月改正時点での1・10D<北斗1・10号>の、東北線内で1M<ゆうづる1号>・14M<はくつる4号>のスジを踏襲するとして計画されたのである。純粋に新設定のスジは、後の1・6列車の上野-函館間、5・2列車の青森-札幌間と云うことになる。

車両の需給財源は、東北新幹線への旅客転移により将来に縮小の見込まれる上野-青森間列車に運用の24系に求め、青森運転所25形の選定は24形に比しての寝台定員だろうか。収益確保には例え20名程度でも編成定員の多いに越したことはない。
計画の編成組成を、経営基盤の脆弱とされた北海道会社への承継車を国鉄の責任にて準備すべく1986年度内に前倒して出場した形式とその両数から予備車を勘案して類推すれば、二人用個室式A寝台車-1両にB寝台車-8両と食堂車、これに電源荷物車を加えた11両組成となる。これは、1987年3月21日以降の<ゆうづる>編成そのままに食堂車を組込んだだけの姿であり、海峡線開業の移替運用に際しては、青森から札幌への回送は当然としても尾久と青森で到着した編成にそれを組成するだけで済み、国鉄当時の計画はそこまで考えられていたものかとも思う。

二人用個室式A寝台車-オロネ25 500番台の5両出場は、当面にそれを組成する<ゆうづる>運用が4組使用だったゆえなのだが、1986年度時点で上野-札幌間直通列車も4組運用、即ち2往復を予定していた根拠でもある。二人用個室とは、九州特急の一人用対して観光利用の多いと目される北海道運用が意識されたものだろう。
食堂車-スシ24は、24系本来のオシ24の品川客車区での8両使用/2両予備の需給に将来的にも捻出の余地が無く、1982年度以降に運用を失っていた485系電車の食堂車からの転用にて計画された。その意味の良くわからないのは、1986年度に至っても休車措置の取られたサシ481の多数が青森運転所や仙台運転所に留置されていたに関わらず、北海道会社承継車の3両は1985年度末での用途廃止車をわざわざ車籍復活させて改造種車としていたことである。税制上の事由だろうか。
廃車前の金沢運転所に復籍、改造出場後は青森運転所の配置とされ、1987年4月1日付で同日発足の北海道旅客鉄道に転籍と云う経過を辿った。ただし、実車は工場より直接に札幌運転所に送られた模様である。受取った同区も一年間遊ばせる訳にも往かず、企画列車や団臨などに運用していた。最初の営業運転は1987年6月22日に札幌から石勝線に運転された<グルメ列車>と記録にある。

スシ24を除いた1986年度先行改造の北海道会社承継車-26両は引続き青森運転所に留め置かれて運用されるが、これらも北海道旅客鉄道の発足には車体の所属表記が「札サウ」に書き替えられており、オハネ・オハネフ25は<ゆうづる>ばかりでなく[盛101]運用で<日本海>にも組成されたから、1988年3月までは大阪駅頭にも「札サウ」が顔を出していたことになる。
1987年度にも東日本会社承継車に続いた改装工事の入場にともなう需給不足は、1986年11月改正での運用編成の減車により予備に余裕の生じていた南秋田運転所の24形で補われ、青森運転所運用編成に25形本来の銀帯に加えて金帯、白帯の三色混結の見られたのも同時期である。
列車名が<北斗星>と決まりトレインマークも出来上がれば、1987年12月16日の4列車<ゆうづる4号>の水戸までの牽引機ED751037は、早速にそれを装着して運転された。来春の運転開始を控えてのプロモウション映像撮影のためであったが、さすがに混色編成は避けて、その運用ばかりは全金帯車で組成されていた。
<北斗星>前史の興味は、まだ尽きない。(この項 山越 (函館本線) 1996 に続く)

写真は札幌に進入する手稲からの回送3列車(当時)。札幌からの4列車<北斗星4号>である。
運行開始時点でトレインマークは札幌運転所札幌駅派出の管理にて札幌駅で着脱を行っていた。回送区間でもそれの見られるようになるのは、札幌の高架化された1988年11月3日改正での派出廃止以降のことだった。→ 札幌 (函館本線) 1988

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/60sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

国縫 (函館本線) 2002

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1988年3月改正で設定された<北斗星>の定期運行は27年で尽きることになった。
既に北海道との旅客基幹輸送が航空機となっていた時代に観光需要を期待しての設定であったから、需要喚起に絶えず追加投資を行わなければそれの維持は難しく、とっくに命脈の断たれて不思議は無かったのだが、運行開始から暫くが日本経済のバブルに踊った時期と重なり、それの弾ければ相次ぐ夜行列車の消滅に鉄道旅行がノスタルジックに語られる時代が到来して幸にも生き延びたとして良かろう。
その運転に関しては、既に多くの記述がなされているが、個人的にはそれらのあまり触れない運転前史に趣味的興味がある。前史と云っても、1988年をたかだか数年を遡るだけだが、国鉄部内のことゆえ公開された資料は少ない。この機会に当時の関係者が回顧記事でも書いてくれぬものだろうか。

興味のひとつは、後に<北斗星>と命名されることになる上野-札幌間直通列車の具体的計画がいつに進められたか、である。
1953年に『鉄道敷設法』別表第二項の二に予定線として追加された「靑森縣三厩附近ヨリ渡島國福島附近ニ至ル鐵道」、即ち青函隧道に関わる区間は1971年4月1日付を以て工事線に昇格、鉄道建設公団による工事実施計画の運輸省認可は1971年9月のことであった。これには新幹線規格への設計変更が別途指示されており、翌1972年9月には青森市-札幌市間の北海道新幹線基本計画が示され、1973年11月にはその計画決定も公示されていた。この時点では、1980年代初頭と目されたトンネルの開通時に東京から札幌に至るのは新幹線列車だったのである。
ところが、道内での優先経路選定の遅れや財源問題から着工の見送られた挙げ句に、肝心の東北新幹線も当初予定を6年遅延した上、大宮暫定発着にてようやく開業した1982年度には、盛岡以北札幌までの整備新幹線区間すべてが国鉄の財政悪化を事由に凍結されてしまう。
一方で青函トンネルは1978年10月に北海道側陸底部が、1981年7月には本州側も貫通するなど工事の進展しており、鉄道建設審議会の答申を経て、運輸省より1981年10月に当面にそれを在来線が使用するとの基本計画変更の指示がなされ、公団は津軽線および江差線を取付線とする工事実施計画変更の認可を申請、1982年7月にこれを得ていた。
これらの時系列から類推するに、北海道新幹線の1980年代開業が絶望視され始めた1970年代後半には国鉄部内で在来線運行の認識があり、直通寝台列車の研究も遅くとも1980年代初頭には始められ、1985年3月10日の本坑貫通に1987年度の開業が視野となれば、85年度内には運転計画・車両計画ともに一定の基本方針の示されていたと推定される。
当時に国鉄は、財界の意を受けた中曽根政権による国民財産の収奪たる分割・民営化を迫られ、この年の6月には独自の再建案を示して反対していた総裁仁杉巌が更迭され、中曽根子飼いの運輸官僚杉浦喬也が送込まれるなど包囲網の狭められており、部内認識もそれを不可避とすれば、運行開始時点で北海道線承継会社と本州線承継会社との2社直通運行となることも織込み済みであったろう。

検討の経過や決定されたであろう方針は公表されていないのでわからない。輸送には実用的と思われる新幹線接続の盛岡発着案がどの時点まで持たれていたかや、上野発着とリンクしたはずの食堂車組成など興味深い事項のあるのだが、個室式A寝台車の1986年度内での5両出場から、運行は当初から定期2往復を予定と推定するのみである。このあたりの詳しくは次回記事に続けたい。
(この項 札幌 (函館本線) 1991 に続く)

右に旋回しながら国縫を抜けて征くのは、3列車<北斗星3号>。計画時の本州線会社受持運用、設定時の5列車、現行の1列車に相当する。
幾度かの既出画角は無雪期ヴァージョンにてご容赦戴きたい。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

銭函 (函館本線) 1979

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少しばかり言い過ぎだろうが、銭函の海岸には「仕方なく」立っていたのもしばしばだった。
宿代の節約に道東・道北とを夜行急行を宿替わりに往き来した旅で、必然的に一日おきに巡って来る札幌行きへの乗車では、途中深川、滝川や岩見沢に降り立つ手は幾らでも在ったのだけれど、旅程の積んでくると体力的に未明の下車の辛くなり、ついつい終着まで乗り通していた。なので、その日の行き先は室蘭線や山線方面としてコンテを選択しても、太平洋岸の濃霧だったり、後志の吹雪予報には銭函を代替地としていたのである。確かにそれには悪天のカットが多く、天候がそぐわなければ近場でやり過ごす腹だった訳だ。

国鉄バスの西春香バス停から至近だった民家地先の畑作地からの恵比寿岩俯瞰は勿論、そこまで急坂を降りて行って張碓から銭函へと波打ち際を歩いたり、銭函近く浜番屋や漁師小屋を何とか絵にしようとしていた時期もあるものの、あまり満足の往くカットは撮れなかったと覚えている。
1994年3月の改正で機関車列車が朝の1往復のみとなって以来には、全くに足の遠のいてしまっている区間だが、ロングシートの電車で小樽までを往復して見れば、朝里を中心とした沿線や国道沿いに住宅の増えた現在の方が足場の確保は容易に感じた。いかんせん、やって来るのがその都市向け電車列車ばかりには写欲の湧かない。

銭函近くの石の海岸をゆっくりと走り抜けるのは、121列車の旭川行き。
函館運転所の普通列車運用がスハ32を主体としていた時代である。蒸機に牽かれるならよいけれど、電機にはどうにも不釣り合いと感じたものだった。
石の汀線には、いつに築造されたものか、木杭を打ち込み石を積んだだけの原初的消波工が点在していた。それの続いた位置の護岸に近年の改修は見られなかったから、有効に機能していたのだろう。
この区間は風雪に抑止の取られることは在っても浪害はあまり聞かない。急激に深度を増す海底地形や石の海岸には波浪も勢力を殺がれるのだろうか。不粋な消波ブロックの山積みとされないのは幸だった。それは今でも変わらない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

厚床 (根室本線) 1978

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標津線、それも一日に5往復の運行されるだけの通称-厚床線は撮り難い線区だった。当時に中標津を5時に出る始発が在り、これで線内に移動すれば4回から5回のチャンスは確保出来たのだけれど、アプローチの行程も限られる東の果てのルーラル鉄道とあっては前日の訪問地は勿論、全体のスケジュールとの調整も要して、勢い早朝に釧路到着の夜行からの移動に頼ることになった。それは、標茶回りでは時間のロスの大き過ぎ厚床からが定番コースだった。
これだと、釧路で乗継いだ<ノサップ1号>を厚床へ8時に降りれば、3番線にはDE10に牽かれた470列車の到着しており、それを見送って1時間後には釧路からの混合441列車と根室からの236Dが到着、標津線の352Dも加わる中に遥か函館を目指す<ニセコ2号>が着発する、ここでの最も華やかな時間にも立ち会えたのだった。
この後、標津線への353Dまではまだ40分程あったので、一旦帰ってしまった立売人を追いかけて駅前の田中屋で昼食用に「ほたて弁当」を仕入れたものだった。この頃には400円だったとメモには残る。

厚床を出発して往くのは、釧路操車場行きの区間貨物470列車。
根室本線の釧路以東区間は、1917年から1921年に架けての開通時に設けられた停車場の全てが一般駅だったけれど、戦後の1960年代には早くも一部で貨物扱の廃止の始まり、1970年以降の「営業近代化」施策下で1971年10月2日付と1974年10月1日付との二度に渡り深度化されたに加えては、1976年12月に公表の「今後の国鉄貨物営業について」と題した文書に示された「貨物営業近代化計画」で1978年10月までに厚岸と根室の2駅までへの集約が示されていた。この際に廃止対象となったのは茶内・別当賀・落石に厚床だったのだが、地元荷主との調整に手間取り、この12月に至っても扱いは継続されていた。
とは云え、出荷は極限まで減っており、ご覧の通りにこの日の470列車も財源を牽いていない。着貨なのか所要車の送込みなのか前日の471列車に僅かながらのそれの在ったゆえの運転ではあるが、「国民の国鉄」が異常なコスト高の輸送を強いられていた左証のシーンでもある。

1984年2月改正で、その貨物輸送に安楽死の図られ、混合441・442列車も気動車化されてしまえば、撮りたい列車の無くなって以来に疎遠となっている区間だが、Webを検索するにここにも惨状として良い光景の広がっている様子が伺える。
1989年の標津線廃止に際して北海道旅客鉄道は乗降場以外の旅客関係用地を根室市に売却して、そこには厚床駅と云う名のバスターミナルが建つ。駅舎改築とは正しくなく、それを廃してのターミナル本屋新設であり、鉄道はそこに財産を持っていない。係員の常駐してバス乗車券発売が行われるけれど、既に鉄道の乗車券類を買うことは出来ない。なんとも不可思議な光景である。
矢鱈と空疎となった駅前広場にそれだけの残る田中屋の廃屋には暫し見入ってしまった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1995

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寿都郡と虻田郡を隔てる低い分水嶺南斜面を水源に、礼文華海岸の河口まで延長8.4キロを流れ下るのが礼文華川である。
源流部の無名水流も含めて9本の支流を集めるが、北海道の管理する二級河川への指定区間は上流の大規模な砂防堰堤のさらに上流に位置する堰堤を始点とした本流の5.2キロ区間とされている。
この延長は1962年から65年に架けて直線化の河川改修の施工されてのことで、戦後まもなくに米軍の撮影した空中写真には緩やかな傾斜を激しく蛇行する様子が捉えられ、特に最下流域は出水の度に流路を変えていた痕跡の見て取れる。現在にも礼文郵便局裏手から河口付近に続く水路は、かつての流れの名残である。

勿論に鮭鱒の遡上した川であり、古からここに暮らした先住民族は repun-ke-pet (レプンケペト)と呼んだ。「沖へと向かう川」とは川底傾斜の関係からか河口部の干満差が大きく、潮の引けば強い水流の生じたことに由来するのだろう。転じて所在した小集落(コタン)の名となり、幕末期の1808年から11年に刊行された「東蝦夷地各場所様子大概書」には、アプタ場所のレプンケとして27戸119人の居住が記録されている。
その詳細な位置は調べ得ていないが、1798年に場所運営の拠点である会所も置かれて以降に進んだ和人の居住地は、礼文華川氾濫原を避けた東側の山裾であった。ここが開拓使の時代以降に礼文華の市街地に発展し、1928年に至ってようやくに開通した鉄道の停車場は、その西側の原野に開かれたことになる。

1960年代に行われた前述の砂防堰堤設置や河川改修は鮭鱒遡上の阻害要因となり、時を同じくして漁協による孵化放流事業も取り止められると、礼文華川は永らく鮭の遡らない川となっていたのだけれど、2003年に至って魚影の確認が報告された。おそらくは迷い鮭の一群だったのだろうが、その後に自然増殖の定着を見るまでになる。工事からの経年にて生態環境の復旧し、墓場の沢や下の沢など手つかずの源流の残されていたのも事由であろうか。内地の河川など資源放流を繰返してもそれに至らない事例の多い中では、本来の遡上河川ゆえの復活と云えよう。小河川には微々たる遡上数であるせいか、今のところ河口両岸、沖合共に禁漁など保護の網は掛けられていないようである。

雪煙を蹴立てて礼文華川橋梁(l=30M)に差し掛かるのは6003列車<北斗星3号>。前日来の降雪の朝に降り止んでこその光景と云える。
EPLは控えめな発色に好きなフィルムだったものの、ISO400の感度には画質に難のあって使用を諦めたのだけれど、ディジタル画像となれば処理の呆気なく心境複雑である。
機関車次位にマニ24が見える。本州北海道間列車の電源車需給不足にマニ50から改造された珍車は、東日本旅客鉃道と北海道旅客鉄道が相互に受持った、この6003・6004列車([尾21・22][札4・3]運用)にほぼ専用されていたと記憶する。再々の画角はお詫びする。本当にここへは幾度も立ったのである。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f11 Fuji CS39filter EPL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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