"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

北舟岡 (室蘭本線) 1998

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[お知らせ]
しばしの休みを頂戴します間に、スピンオフ版を始めています。

[外伝]"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachrome の頃

なお、本編も間もなくに再開予定。只今、記事鋭意執筆中です。
年明けからは[外伝]との二本立てとなります。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/125sec.@f8 LBA-1filter  Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富浦 (室蘭本線) 2009

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1980年の8月28日から31日にかけて、北海道渡島半島部から胆振地方は秋田沖に停滞した低気圧の影響による大雨に見舞われた。当時の室蘭地方気象台が開設以来の雨量を記録するなど中心域は胆振地域に在り、降り始めからの最多雨量は登別で記録の493mmであった。豪雨事例の少ない道内では、これにより土砂崩壊・道路決壊に河川の氾濫しての床上床下浸水などの災害が発生し、それらの多くは室蘭市・登別市・白老町に集中した。地形と土地利用条件から住宅被災の多かったのが特徴的であり、その被災戸数は室蘭市で1576戸、登別市で1655戸、白老町では776戸と記録された。中でも、登別市のそれは全住戸の10パーセントを越えるものであった。

同市富浦地区も例外でなく、おそらくは開基以来最大の災害であったろう。ここで引き起こされたのは崖崩れに泥流の流下、そして浸水であった。3日間の大雨に地盤の弛み、31日の朝からの時間雨量40〜50mmと推定された強雨が引き金となって午前6時から10時にかけて、市街地背後の段丘の急崖を開削して1971年に供用されていた国道36号線富浦バイパス付近の各所が相次いで崩落し、火山堆積物による崩壊土砂と流出水は国道を埋めたばかりか、泥流となって国道下の斜面を削り取りながら市街地に流れ込み、海岸沿いの室蘭本線の築堤まで達し、多くの住居を床上床下浸水させた。また、急崖の崩落は蘭法華岬側においても発生して、その土砂は泥流とともに10月の電気運転を控え新線に切替えられたばかりの蘭法華トンネル入口付近を埋めたのであった。これにより室蘭本線は不通となり、復旧に三日間を要した。被災一日後の復旧作業中の様子が北海道新聞のWebsiteにある。
以前に 富浦 (室蘭本線) 2008 に記した、隧道の山側に痕跡のあったと云われる先住民族による急坂の登坂路の見つからぬのは、この崩落にて消失したものであろう。

今、富浦の乗降場に立って段丘崖を見渡すと至る所にコンクリートの防護工が施されている。これらは本災害を教訓に復旧に際して施工され、その後にも追加され続けている工事である。
海岸沿いの富浦の市街地を往くのは、1列車<北斗星>。蘭法華岬からの画角の既出はご容赦いただきたい。
先日にここの1953年に撮影の空中写真を閲覧して驚いたことがある。それには当時に岬上部は先端に至るまで農地として耕作されていた様子が見て取れ、現在には背丈程の熊笹に覆われて通行に難儀し、周囲より樹木の進出が始まっているそこが平坦である理由が理解されたのであった。先端近くに明らかに人工的に切り取られたと思われる地形の存在もそれゆえと知れた。

[Data] NikonF5+AiAF Nikkor 85mm/F1.8D 1/500sec@f5.6  C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 /0.5 EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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小沢 (函館本線) 1975

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北海道を旅して鉄道沿線にも廃校を見るようになったのは1980年代から此の方のことである。けれど、小学校の統廃合はその時代に始まったわけでは無い。

道内のルーラル地域における小学校は、拓殖の初期から入植者自らが設けた教習所に端を発する事例も多く見られる。定住を意に決していた彼らにとって子弟の教育は最大の関心事だったのである。富国強兵を国策とした新政府もまた、国民管理の拠点にそれを要して入植の進展と共に開拓地には遍く、当時に尋常小学校と呼ばれた初等教育機関が設けられたのである。
戦後には「緊急開拓事業要領」による開拓入植の進展に、成立間もない文部省も戦後教育に熱心であった時代ゆえ、そのような開拓地にも次々と分校の開かれて往き、道内では1960年度の2343校でピークに達する。
以後に減少に転ずるのは、迎えた経済の高度成長期に早くも農村からの人口流出の始まったことを意味して、社会構造の変革からもそれの続けば70年代に架けて統廃合が進展したのだった。炭鉱の閉山も関係していようが、1968年度から72年度への4年間などには実に200校が失なわれている。
この時代の統廃合は山間奥地が中心であったゆえ、鉄道線路から離れない鉄道屋にはそれの見えなかっただけであり、1980年代に人口の集積していたはずの鉄道沿線地域に及ぶに至るまでの認識の不明は恥じるしか無い。
それは農村や中山間地集落の縮小に加えて劇的に進行しつつ在った少子化による児童数の減少を背景にしていたのである。調べてみて驚いたのだが、児童総数は1982年度を最後に前年を上回ることが無くなっており、この時代には廃校となった分校の児童が数キロ先の本校へと徒歩で通う姿などの現れていたのだが、今度は経済論理により「政策的」な統廃合の進められるところとなったのである。先の1982年度の1802校は30年後の2013年度に1154校にまで減じた。この間、毎年にほぼ21校ずつの失われた計算になる。
地域コミュニティの拠り所となっていた学校の消滅が、どれほどの喪失感を住民に与えたかは想像に難く無い。それは例えば鉄道や駅の廃止など細微とする程であったろう。

小沢街区の外れには共和町立小沢小学校が所在していた。1903年1月15日の開校は鉄道到達の1年程前であり、それを見込んでの開拓入植の続いていたのだろう。「小学校令」(1900年8月20日勅令第344号-通称の第三次小学校令)に基づく小沢村戸長役場の尋常高等小学校としての設置であった。
函館本線の線路が校庭の北側を通過して、それは校庭への植樹の落葉する冬に限られたのだけれど、木造平屋の好ましい校舎を鉄道との写材にさせて貰っていた。この日は校門の側から、何処の学校にも在った二宮尊徳像を画角に列車を待ったのだが、天候の急速に崩れて吹雪模様となってしまった。
樹木が些か邪魔をするけれど重連のシルエットは104列車<ニセコ1号>である。

小沢小学校は1981年度末を以て、周辺5校と共に国富地区に用地を求めて開校の東陽小学校に統合されて廃校となった。趣の校舎は解体され、跡地には体育館建物を流用した小沢体育館と小沢ふれあいセンターが建つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250@f4 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

緑 (釧網本線) 1978

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初山別 (羽幌線) 1982 から続く

1969年度末に1296駅で全旅客扱い駅の25パーセントであった国鉄が定員をおかない要員無配置駅は、1970年度を初年度に本社が主導して展開された「営業体制近代化」施策により当面の目標とされた1972年度末で1961駅に達し、38パーセントを占めるまでになっていた。この3年間での無人駅化、当時の国鉄部内で云う「停留所化」の行われたのは697駅、国鉄としては要員無配置にあたる日交観などへの業務委託化は165駅に及んだ。
この施策は同年度で打切られるものの線区運営の合理化は引続き至上命題であり、1979年度までにさらに335駅が要員無配置とされ、同年度末でのそれの2293駅は44パーセントと半数に迫るものであった。

国鉄の経営は1964年度に赤字を計上して以来にそれの積み上がるばかりとなり、政府は1969年度に最初の財政再建策を策定し(「営業体制近代化」施策はそれに応じての運営経費の抑制策であった)、以後も1973年度、1976年度、1977年度と4次に渡り種々の再建策を講じたものの、何れも実を結ぶこと無く終わっていた。その公共企業体そのものが孕んでいた構造的要因については、ここでは触れないが、それを逆手に取った政府与党は、1980年11月28日の第93回臨時国会において『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)の成立を図り、翌1981年3月16日には財界と結託して国鉄民営化を策動する「第二次臨時行政調査会」を発足させ、これにより国鉄は追いつめられて往くのである。
1985年度での単年度収支均衡の法定化には、なりふりを構わぬ経営改善策の要求され、線区運営の合理化はより深度化されるに至った。1980年代には旅客の道路交通への流出の止まらず駅利用者は漸減していたことも手伝って、多くの駅が要員引揚げの目安とされた一日の平均利用者数1500人を割込むこととなり、1980年度から1985年度までの6年間にて停留所化ないし業務の外部委託化された駅は1298駅を数えた。途上、1982年度には272駅からの要員引揚げにて無配置駅は2753駅となって要員配置の2437駅を逆転し、1985年度末の3060駅は全旅客扱駅数の、実に61パーセントを占めるまでに至った。

道内においても、1980年度から83年度に集中した室蘭線・千歳線に石北線、根室線、富良野線、札沼線の凡そ400キロ区間のCTC制御施行により大半の駅から要員の引揚げられ、有無を云わさぬルーラル鉄道の廃線も進展する社会情勢下では、沿線自治体もそれを黙認せざるを得なかったのだった。
また、非自動化線区においても運転要員を存置しながらも営業フロントを閉じる事例の現れたのもこの時期であり、国鉄の置かれた情勢の厳しさが伺えた。駅員の姿の在りながら窓口の板の張付けられて閉じられ、駅前の商店などで乗車券を購入する不可思議な光景には利用者も戸惑ったろうが、この頃訪問した銀山や抜海駅では当の駅員からも肩身の狭いとの話しも聞かされたものだった。

冬の低い日差しの入り込む地域交通線小駅の待合室。利用者はほとんど無いのだが、窓口の開かれ当務駅長は列車交換の運転業務に忙しい。この温もりの鉄道情景は二度と還らない。急行613Dとの行違いを待つのは混634列車である。
ここは1986年度の釧網線への符号照査式特殊自動閉塞の導入により要員無配置となり、間もなくにこの開業以来の木造駅舎も失われた。
釧網線を始め、日高線、根室線の釧路以遠や函館山線区間への同閉塞施行に、函館・室蘭線森-東室蘭間へのCTC制御は経営基盤の脆弱な北海道旅客鉄道への餞別的に設備されたもので、これら線区上に多くの無人化駅を生じた。駅と云えば(広義の)駅員の姿を認めた道内鉄道の原風景は、1986年に至るまでの10年に満たぬ期間で瓦解したと云えようか。
(この項終わり)
※駅数データは国鉄監査報告書各年版による

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

猿払 (天北線) 1986

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天北トンネルで頓別川の谷に出てから、頓別原野に猿払原野を北進して宗谷丘陵に分け入るまでの天北線の車窓には延々と牧草地が続いた。それは同じ酪農地帯としても、緩やかな起伏のそれに落葉松林や広葉樹の樹林帯の交互に現れた標津線とは異なり、車窓の視座からでは原野や海岸湿原とは見分けのつかないくらいにどこまでも平たく広がっていた。けれど、どこか茫漠としているに違いは無く、ここでも通過する駅名を読んでいないと自分の位置を見失った。

農林水産省の2007年度データによれば宗谷郡猿払村の耕作地面積は5670haとあり、その内の5640haが牧草の栽培地である。そして、69戸の酪農農家が7630頭の乳牛を飼養している。村の農業生産額322千万円は、肉用牛を飼育する3戸と合わせ、全てが畜産業により産み出されている。
残る30haの耕地には穀類(麦であろうか)に、大根・白菜などの野菜の栽培されるらしいが、統計に数字として現れて来ない。これら現況は浜頓別町に中頓別町も同様であり前述の車窓を裏付ける。けれど、それは戦後の、強いて云えば近年に出現した景観である。

1924年の猿払村の成立からの戦前期において村域の広大な山林・原野は、内地新興財閥系の王子造林や三井造林に所有される原木の供給源であった。そこには同系の農場も開かれ小作農が入植していたものの、原木伐採の地積獲得目的の実態には定着を見ること無く、僅かな民有林で1920年代に開墾入植の記録もあるが、冷涼な気候に加えての掠奪農法には数年で離農を余儀なくされていた。この時代の猿払は天然帆立貝の漁獲に沸いた漁業が中心産業であり、かつての宗谷本線(後に天北線)の車窓にはハンノキの灌木が散在する泥炭の原野が果てしなく続いていたのである。
これを含む猿払原野での本格的農地開発は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)に基づく開拓入植以降のことになる。しかしながら、その初期政策が基盤整備を伴わず、単にアジア太平洋戦争の敗戦にともなう引揚者や農家の次男・三男の収容目的でしかなかったため、特に泥炭地の排水不良による畑作の低生産性に冷涼な気候、過酷な自然環境から、その入植者たちの生活は辛酸を極め、多くの離農者を生んだ。その様相は不振開拓地として社会問題化するのだが、批判が拓殖政策の不備に向かわず、ここを「農業不毛の地」として北海道開発政策そのものを不要とする論調を巻き起こすに至って、1963年に北海道は「猿払村開拓地特別新興対策実施方針」を策定して国に対して強く支援を迫り、農林省は1967年度を初年度とした三カ年計画の「第一次農業構造改善事業」を打ち出して応じたのである。それは、この地での持続的営農形態として酪農への専業化を掲げていた。
猿払原野への乳牛の導入は1932年に既に記録のあるけれど、あくまで半自給的畑作営農の一部とされ飼養頭数も1頭からせいぜい数頭に留まり、これは戦後入植者にも引継がれていた。これに対して、上記事業では、未利用地の機械開墾に離農農地の再配分による農地拡大や牧草地転換、電力に用水確保の営農基盤整備に、農家へ牛舎やサイロ、搾乳設備などの建設に積極的な融資・補助を実施して酪農専業営農への誘導がなされ、現況への発展の基礎となった。この際に泥炭低湿地の大規模な排水が未墾地開発事業として行われ、天北線の車窓は1970年までには一面の牧草地へと姿を変えたのであった。

遍く夏風吹き抜ける牧草の海を渡って往くのは、304列車<天北>。
写真の頃、猿払村がこの豊かさを手にして、たかだか10年あまりに過ぎなかった。
いつも撮影位置にさせていただいていた牧場の主に伺えば、秋田県よりここの東山農場の小作農として入植した祖父が、その後樺太開拓団に加わるも敗戦にて引揚げとなり、1949年に舞戻って開拓入植したものと云う。ご苦労なさったはずだが、80を越えていた当の爺様は訪ねる度に「また来たのか」と笑っていたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1999

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文字を持たなかったアイヌ民族の居住や生活の本来の様子を知ることは困難である。それが記録されるのは和人や大航海途上の欧州人と接触する17世紀初頭以降のことであり、しかもまとまった記述の多くは和人に支配され、その使役を受けるようになった時代に集中する。それらからは和人の支配に、その経済活動に組み入れられ、激変した彼らの生活を読み取ることになる。

研究者によれば、少ない接触初期の記録から、本来に先住民族の居住地は内陸は勿論のこと沿岸においても、それに注ぐ河川の流域だったとされる。水流沿いに数戸ずつの小集落(コタン)が形成され、それらをまとめて村が成立していた。それは河口から鮭鱒の遡上限界に至る間であり、それより上流には見られない。これは沿岸民と云えど、彼らが海漁よりも保存食ともなる鮭鱒を重視し依存していたことを意味する。
ところが、和人との接触の進んだ幕末期、19世紀前半ともなると多数の海岸居住が記録されている。全ての川筋を遡って調べたのではないにしても、和人による交易管理区域たる「場所」への漁場開設には多くの漁労労働力が必要とされ、それの先住民に求められた様子が伺える。当初には何かしらの報酬による動員に自ら進んでの移住もあったろうが、次第にそれが使役となるに及んで、川筋の集落を一括した集団強制移転も行われた結果である。見聞録の類いの報告には、川筋に多くのコタン跡の見られたとの記録も残る。
幕府が東蝦夷地を直轄領とし山越内に関門を設けた頃、1806年のユウラッフ場所を改めたヤムクシナイ(山越内)場所、それは現在の落部付近から静狩付近までを含むのだが、その沿岸にはコタンが点在し、居住するアイヌ民族は総じて105戸に520人と記録されている。この時期、10戸以上で集落を成していたヤムクシナイにユウラッフやクンヌイ、ヲシャマンベはいずれも和人による何らかの施設所在地であったことは、その意図の働いた結果と見て取れよう。

ヲシャマンベについて見てみれば、長万部川とその支流域にはもともとにコタンの発達し、黒松内低地の低い分水嶺には黒松内川流域コタンとの交易路も開かれていた。これら川筋を日本海側のセタナイ場所との往き来に利用したのは和人も同様で、交通の要所となったヲシャマンベには1773年には番屋が設置された。1800年代初頭には拠点化も進み、ここへ労働力としての先住民の集積化のなされたのであろう。上記520人中20戸87人がここにコタンを形成していた。時代を下ればさらに進んで1856年の記録には50戸201人とある。狩猟場の配分など環境負担から小集落に分散居住していたアイヌ民族にしてみれば、それは大都市であったろう。

=参考文献=
江戸時代後期における東蝦夷地のアイヌ集落 : 小林和夫(北海道大学人文科学論集) 1986年

起点2キロから3キロへの反向曲線区間では、日出時刻と方位を絞った撮影をしていたとは、前に 長万部 (室蘭本線) 2003 で書いた。けれど、長万部に宿を取りながら翌早朝の国縫や中丿沢へのタクシー確保が不首尾だった際の代替位置にもしていたから(→ 国縫 (函館本線) 1998)、立つ機会は度々でもあった。
茜の朝を北上するのは設定間もない頃の8009列車<カシオペア>。
これは通過時刻の太陽中心高度が9度から8度で推移する9月下旬である。方位は列車進行方向と20度前後の角度を成して、客車の深い丸屋根に反射する。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f4 NON filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

銀山 (函館本線) 1981

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北海道を離れる前の秋口だから1970年のことだ。親父とのトムラウシ山の縦走で谷を隔てた対岸斜面へヒグマの姿を遠目に確認したことがある。一瞬こちらを垣間見たような気もしたが、クマは何を気にするでなく悠然と餌探しを続けるだけだった。
後にもその生息域とされる山域に入り込み、古い糞や樹木の傷跡、蕗の食痕に直径2メートル程に笹のなぎ倒された昨夜の寝床と思われる痕跡などを見つけてはいたものの、幸いなことに林道で鉢合わせするようなことは無かった。けれども、その存在の確かに感ずるまでに接近した(と思われる)ことは2度程ある。そして、その2度ともが銀山の小沢方、稲穂トンネル東側の標高300メートル近い位置の送電線あたりまで続いていた伐採地で、紅葉黄葉の季節のことである。
一度目にはまだ新しい糞を見つけて撤退したのだが、二度目には樹林の中からの只事でない気配に加えて、その強烈な獣臭を嗅がされては身体の震えを抑えられなかった。直前までヒグマがそこに居たに違いないのである。熊鈴を振り、携帯ラジオも大音量で鳴らしていたのだけれど、ヒグマはこちらの姿を林班界から観察していたことになる。
この事態には、その姿を見せぬことを祈りながら手早く機材を撤収し、とにかくその場を去るしかなかった。
樹木の取り払われて地表に植物の繁茂する伐採地は絶好の餌場とも云われ、近くの樹林帯に身を潜めつつそこに出没するのだろう。帰京してから調べてみれば、秋の採餌期のクマは本能から占有した餌場への侵入者を排除することも在ると書かれ、森の中からの気配は確かにそれを警戒していたに違いない。

とは云え鉄道屋である。2度の撤退は口惜しくもあり、農道まで降りて時計を確認すれば列車時刻も近く、トンネル出口付近にも伐採地の在ったのを思い出して登り直したのである。万が一には機材を放棄しての逃走を想定し、撮影済みフィルムだけはポケットに押し込み列車を待った。動悸と震えに雲台へのカメラ設置にネジ穴が定まらないのに苦笑し、どこかで聞いた「斜面上方のクマには要注意」との教えが脳裏に過れば、森奥からの物音に怯えながらのレリーズを思い出す。
銀山を発車するのは荷44列車である。

この積丹半島から支笏湖を経て噴火湾岸に至る山域における個体群は、ヒトの生活域である黒松内低地と石狩低地により、早い時期から増毛山域や夕張・日高山域の個体群と分断され、域内の開発進展に支笏湖周辺にまとまった個体の存在が推定されるものの絶滅の方向に在り、近年にはニセコ連山山域からは既に絶滅したとも云われている。銀山で近接したのは、ほぼ最後の個体だったのかも知れない。
告白すれば、ここでの恐怖は脳裏に刻まれてしまい、二度とその伐採地を登ることは無かった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1995

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1928年9月5日付の官報第509号に掲載された、それの全通にともない既設の長輪西線を1928年9月10日より長輪線と改めるとの告示(1928年9月5日鉄道省告示第183号)には、敢えて「長輪」に「おさわ」とのルビの振られている。停車場名には必須の記載ではあるが、線名には異例であった。この事実は長輪線の名称が建設線名として文書に著されて以来、その読みに混乱を生じていたことを意味して興味深い。

1919年2月の第41回帝国議会にて可決の『北海道鉄道敷設法中改正法』(1919年3月25日法律第21号)により同法第二条に規定の予定線に追加、同年4月1日付にて早くも北海道建設事務所の所管に組み入れられた長万部輪西間鉄道は(1919年3月31日鐵道院告示第16号)、建設線名を慣例に従って両停車場名からの一字ずつにて長輪線と付名され、やがては営業線名にも引継がれた。
アイヌ民族による o-samam-pet(オサマムペト)に長万部の当て字には「長」の「おさ」読みは自然とも思えるのだが、どうしたことか「ちょうりん」「ながわ」の読みが広まるに至ったのである。
その頃には地名の語源など多くには忘れ去られ、長万部の実際の発音である「おしゃ」も影響していようが、個人的な乏しい経験ながら、一定年齢以上の道民に尋ねれば大半が「ちょうりん」と覚えており、これに地域差のないのは、当時のマスコミ報道の何らかの誤謬に起因するものかもしれない。「ながわ」は長万部も輪西も遠い北国とする内地での読みにも思える。ちなみに「おさわ」との返答は聞いたことが無い。
先の官報での例外は、全通により全国的ネットワークに組み入れられるに際して、「おさわ」の正当の明確化を迫られてのことである。しかしながら、一度広まった誤りの修正は容易でなく、1931年4月1日付での室蘭本線編入は、その名称の消滅を図ったのが真相であろう。

これは現在にも尾を引いており、前記の官報告示を知ってか知らずか、鉄道省北海道建設事務所が1928年に発行した「長輪線建設概要」を収蔵する図書館でのそれの読みは、道立図書館が「ちょうりん」、北大に商科大の大学図書館が「ながわ」である。遠い昔のこととは云え当事者だったはずの鉄道部内からの記述にも、わざわざ「ちょうりん」とルビの振られるのに接したことさえある。

長輪線の長万部-静狩間は、1919年4月から測量に着手して7月に線路選定を終え、11月に着工に至った。大きな構築物は長万部川への架橋程度だった平坦線の僅か10キロ余りに1923年12月10日の開業まで4年もの工期を要したのは、静狩付近まで続いていた泥炭地(静狩原野)を避けて経路とした海側砂堆地と、静狩停車場の位置からその付近では避け得なかった泥炭地の地盤改良に手こずったゆえであった。
当時にそれに用いる土砂の現地調達が原則であり、現在まで国道37号線の静狩跨線橋付近から14号農道付近まで室蘭線海側に残る幅20メートル程の掘削地形は、その際の土砂採取地の痕跡である。主にはその位置の路盤安定に投入された。
写真は、静狩での定番ともなった静狩跨線橋から望む4061列車。
高さの在る視点の採れない長万部-静狩間では希少な位置なのだが、通信線柱が下り線際に移設された昨今には少しばかり窮屈になってしまった。画角の数度の既出をお詫びする。
画角左に土砂採取地跡が写り込む。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 FujiSC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

厚岸 (根室本線) 1980

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オランダ王国東インド会社の艦船カストリクム号が1643年の夏に18日間を停泊した海岸は何処だったのだろうか。厚岸町は厚岸湾とするが、艦船の停泊するような位置となれば、やはり現在のバラサン地区と云うことになるのだろうか。
ノイアサックと名乗る長のもとに暮らす住民達から、オランダ人はその地名を「アッキス」と聞き取っている。この先住民族アイヌの発音はアッケウシィ(at-ke-us-i)であり、それは寄港地の地点名では無く、おそらくは彼らの暮らす土地全体を指したものであろう。この時期には松前藩による交易場(アイヌ民族には被収奪の場)たるアツケシ場所も開かれており、そこには交易船も寄港していたと云う。

時代は下って幕末の1855年、函館を開港した徳川幕府は北方警備から東蝦夷地を再び直轄領とし、津軽・南部・秋田・仙台藩の奥羽地域各藩に分担支配させ警備を命じた。アツケシ領を支配した仙台藩が1859年に作成した支配地絵図「仙台藩管轄厚岸領図」によれば、それはクスリ領、子モロ領と境を接して、現在の厚岸町苫多地内から根室市昆布盛付近に至る海岸線と内陸部を含む広大な地域であり、そこにはアイヌ民族から聞き取ったと思われる多数の地名が記されるけれど、アツケシの名は見られない。現在に厚岸駅の置かれる市街地位置はタンタカ、厚岸湖の湖口はタンタカ岬と記される。その対岸がノテト岬と在り、1804年建立の国泰寺は当然に記載されるが、そこまでの海岸線にもホントやヘトマイ、ホニコイにバラサンの地名のあるのみである。
そして、この時代までにアツケシ領の中心地は浜中湾西岸とも見て取れ、番屋の他に多くのアイヌ集落が描かれている。そこは1700年代初頭にアツケシ場所を分割してキイタップ場所の置かれた位置であり、交易拠点から変じた好漁場だったのだろう。
これに対して、仙台藩や開拓使初期に支配を命ぜられた佐賀藩も国泰寺の所在したバラサンや、かって会所の置かれたホント地区を本拠とし、やがては開拓使の出張所も置かれて、ここに市街地の発達する契機となり、時代の進めばアツケシ領の行政中心として厚岸を名乗ったのである。

湖岸を北上する線路沿いには保線用なのか通路が続いて、左手の丘陵が湿原に尽きる手前でそこへと分け入る細道に繋がっていた。それを辿ればやがては北に景観の開けて湿原の線路を見渡せたけれど、背景の国道をどうにも処理出来ずに諦めたものだった。
仕方なく再び線路まで降りて写真機をセットするが、今度は自分の付けた足跡が写り込む。
列車は404D<狩勝4号>。後追いである。
キハ56/27の2両組成は釧路からキロ26を含む附属編成5両を増結して札幌へと向かっていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f5.6 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1997

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噴火湾はクジラの海でもある。
日本近海のクジラは東経170度以西の北太平洋が生息域とされ、水温の低下する冬季に北緯30度以南の低緯度海域に下り、初夏から夏に日本列島沿岸を北上、オホーツク海やベーリング海の高緯度海域へと回遊し、沿岸性のミンククジラやコククジラなど小型(と云っても体長7から8メートルもある)の種が魚群を追って噴火湾へも進入するのである。
これを湾岸の先住民族が捕獲していたとは、高校の時分に学校図書館で見つけた本に読んだ覚えが在った。薄れかけていた記憶に調べ直してみれば、それは北大のアイヌ文化研究者だった名取武光による「噴火湾アイヌの捕鯨」だったと知れたのだが、この先住民族による捕鯨については、近年の研究(児島恭子など)において異なる見解が唱えられている。それらによると、断片的に捕鯨の記録は存在するものの、生活行動の一部として定常的組織的に、即ちは狩猟として行っていたとする確証は無いとしている。
17世紀の半ばから松前にもたらされたアイヌの交易品に含まれた鯨肉(干し肉)や鯨油などは、何らかの事由で衰弱して沿岸に流れ着いたクジラ、これを「寄り鯨」と呼ぶらしいのだが、年間に数体は必ず存在した漂着個体を採捕したものであり、その交易品の確保に積極的に捕鯨活動を行ったとの記録は見つからないと云うのだ。確かに集落が河川沿いなら鮭鱒の遡上限界までに限られていた程に生活をそれに依存し、海漁も在ったとは云え、貝類や昆布の採取が主だったとされている彼らが、クジラに限って敢えて危険を伴う海上行動を行ったとは、なるほど考え難い。

噴火湾沿岸における「寄り鯨」は天敵であるシャチに追われてのことらしい。先住民族はその巨体の資源を天の恵みと捉え、それを与えてくれるシャチをそれもクジラの一種としての認識から humpekamuy(クジラの神)と呼び、転じては repúnkamuy(沖海の神)とも呼んだのである。
近年の認識では、アイヌによる捕鯨とは受動的捕獲であり、クジラの回遊する海と云う自然条件のもとにシャチが送り届けてくれたものとされているようだ。それは自然の摂理に従って生きた彼らの生活観とは、確かに一致する。

19世紀の始め頃、松前藩によるアプタ場所の置かれた噴火湾の北岸には、シツカリ、レフンケ、ヲフケシ、ベンベ、フレナイ、アプタ( * )のアイヌ集落が在ったとされる。中心集落であったフレナイ・アプタの80戸300人超を除けば、いずれも20から30戸に100人程度が居住していた様子である。これらは後年に和人居住地に発展して、ずっと時代の下った鉄道の開通時には全てに停車場が開かれた。
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( * ) アプタは現在の入江付近とされる。1822年有珠山噴火で被災し、集落はフレナイに移転。フレナイが現虻田市街地である。

上記でのベンベは辨辺と当て字され、1932年に豊浦と改称した。駅名の変更は1935年4月1日付にてなされている。
そこでの定番とも云える貫気別川橋梁前後の反向曲線区間の俯瞰画角。紅葉黄葉のヴァージョンである。列車は8007の時刻で運転された団体臨時列車の9007列車。外見は<エルム>と変わらない。
近年に噴火湾北岸へのクジラ(ナガスクジラ科とコククジラ科に限る)漂着は「海棲哺乳類ストランディングデータベース」によれば伊達市と室蘭市への2件しか無いけれど、資源の豊富な時代には多々事例の在ったことだろう。写真の高岡の浜も掘れば骨の埋まっているやも知れぬ。

「噴火湾アイヌの捕鯨」の細部を記憶せず、また再読も出来てはいないのだが、そこに記された捕鯨記録の多くは幕末期以降ことのようだ。この積極的捕鯨行動とは、つまりは和人の経済活動に組み込まれてからの、オットセイ漁と同じく彼らにとっての商業捕鯨であったのかも知れない。

=参考資料=
アイヌの捕鯨文化 : 児島恭子 神奈川大学国際常民文化研究機構 2010年国際シンポジウム報告書
アイヌの鯨類認識と捕獲鯨種 : 宇仁義和 北海道民族学第8号所載(2012)

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@5.6 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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