"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

函館 (函館本線) 1988

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青森 (津軽線) 1988 で青函連絡列車向けに転用されたオハ・オハフ50形客車についての趣味的興味を書いた。ならば、やや遅れて転用のオハ・オハフ51にも言及せねば片手落ちと云うものだ。

共に4両ずつが在籍したオハ・オハフ51の5000番台車の興味も、また尽きない。
想定を遥かに上回った青函トンネル開業による旅客の誘発効果にて、運転開始直後より混雑を極めた青函連絡列車の車両需給不足に、岩見沢運転所にて余剰気味であったオハ51の4両(5135-5138)が急遽函館運転所に配転され、運用に加わったのは1988年5月のことであった。使用開始は13日からと記録される。
この4両は運用投入を急ぐため、当初には5000番台との混用に要する高圧給電回路の引通シにジャンパ栓の設置、車体塗色の変更、および「青函トンネル内列車位置表示装置」のみが施工され、つまりは外部塗色こそ異なったとは云え、横型腰掛も存置した(但し吊り手は撤去)普通列車向け仕様のままに青函間を走ったのである。トンネル通過の安全に窓開閉機構は固定されていたから、非冷房のこれに乗り合わせてしまった乗客にはさぞや暑かったことだろう。さすがに指定席車への運用実績は無かった模様ではある。
腰掛取替や冷房装置、電気暖房設備の搭載、蒸気暖房撤去、車軸発電機撤去などの施工は同年の秋臨期輸送を終えた後となり、W12型腰掛の設置に加え内装や床材の変更も行って、この際に5000番台に付番されたのである。しかし、なぜか冷房装置は準備工事に留まり、それの搭載は1989年3月のことであった。転用工事は都合3次に分けてなされたことになり、おそらくは事業計画に無かった緊急工事への予算執行上の事由からであろう。
そして、その3月から4月にはオハフ51-4両(5161-5164)の海峡線運用転用工事も行われていたが、これらも前述のオハ51と同様に5000番台との混用改造および便所付なので汚物処理装置搭載の施工されたのみで、本工事は同年冬に先送りされて5000番台付番はその際となった。青函連絡列車には88年、89年と夏の2シーズンを続けて原番台の非冷房車が走ったのも然りながら、後にも先にも汚物処理装置を搭載したそれは、50系列の緩急車総数556両の中でも89年3月から90年1月までのこの4両だけである。

51形での改造工事内容は50形でのそれに準拠していたけれど、大きく異なった点もある。ユニット方式では無い客窓構造の相違から固定窓化の行われず、開閉機構の閉位置での固定に留まって外観上に変化の無かったこと、分散型のAU13AN型冷房装置に対して集中型のAU51には客室天井の見付の異なったこと、電気暖房装置の新設を要したこと、海峡線内での110km/hの見送りにはA急ブレーキ弁の設置を省略したことなどである。
経験的には客窓に寒地向け二重窓が存置されていた51形が、寧ろトンネル内走行時の遮音性には優れていたように記憶する。

開業の1988年度に海峡線の輸送人員は306万人にも達して、300万人超は1977年度の青函連絡船利用者数以来のことであった。それゆえに51形までの動員を要したのではあるが、90年度の290万人から漸減を続けて96年度には連絡船時代にすら例の無い200万人を割込むこととなった。これのテコ入れには1997年3月22日改正にて青函間到達時分の短縮が行われ、青函連絡列車の最高運転速度の95km/hから110km/hへの引上げが、ようやくに日の目を見たのだった。前述の通り省略していた51形へのA急ブレーキ弁の設置に際しては、そのTR230型台車の14系座席車からの廃車発生品であるTR217への換装が行われた。この四国旅客鉄道の特別車改装車「アイランドエクスプレス」にも例の無い空気バネ台車を履いた50系列のことは記憶に留めて良いと思う。
そして、翌1997年度にはオハ51の4両全車が、連絡船の座席宜しく客室を絨毯敷とする接客設備改造工事を受けた。当時の50系列による5往復の運用には4両の使用を要して予備を持たない需給は、改造経費からと50形を種車とした1両だけの異端車を避けたものであろうが、連結の無い運用が周期的に現れるのでは営業施策的に如何にも中途半端であった。運用投入は1997年6月1日の3122列車から行われ、全運用への連結は同年7月1日より実現した。

降雨下の函館駅3番ホーム(当時)に進入するのは3129列車<海峡9号>。堂々の12両組成、後位から5両目にオハ51の組成が見える。
転用まもない頃で、それを知らぬものだからホームに到着した姿を見つけて面食らった覚えが在る。団体乗車用に割り当てられた位置に組成されていて、向かい合い座席を好む彼らには寧ろ好評だったかも知れない。W12型腰掛を向かい合いに転換すると、910ミリのピッチには4人分の足の置場の無いのは諸兄には新幹線でご経験であろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1981

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古い鉄道屋諸兄には特急列車の品格のようにも語られる食堂車だけれど、本来には長時間の運行に不可欠の供食設備であり、特別急行に限ったものでは無い。それが純粋に遠距離間の速達を目的に設定された時代に在っては必然に連結を要したのである。なので、組成を欠いた事例は1970年代に至るまで客車運用には無く、それの現れるのは1958年のモハ20系電車(後に151系)による東海道線<こだま>が最初であった。もっとも東阪間6時間30分運転(当初には6時間50分)には、これとて「ビジネス特急」なるコンセプトにビュフェと称された軽食堂車の組成が在り、1960年の<つばめ><はと>の同系電車化に合わせて食堂車も組み込まれたから、まったくに組成の無い特急の登場は1962年10月1日改正における<おおぞら>への釧路着発編成増強にともなう滝川-旭川間と云うことになる。(日光準急用の157系を充当した<ひびき>の例が1959年より在ることは承知しているが、東海道特急の補完目的の応急的運用としてここでは除外する。同系は当時に冷房装置も搭載していなかった)

地方幹線への特急列車設定を使命としたキハ80系気動車は、編成の分割併合運用を前提としており、現れるべくした運転ではあったものの、食堂車の無い運行時分は僅か50分程であり、しかも常識的な食事時間帯に掛からなかったゆえ旅客サーヴィス上には無視出来たのだが、1964年10月1日改正での増発列車で続いた同様の事例である<みどり>の小倉-大分間は2時間、そして<おおとり>に至っては滝川-網走間の5時間近くに及ぶものとなった。
これは<おおとり>増発にかかわる函館運転所へのキシ80の増備が3両に留まり、それの釧路編成に充当されたゆえだが、本州内には併結列車双方に連結の例の見られた中では冷遇と云って良かった。1968年10月1日改正で増発の函札間4時間半運転の<北斗>を組成編成としておきながらも、この措置は継続し、しかも1970年10月2日改正にて釧路編成が<おおぞら>に立替えられて分離されると10時間あまりの函館-網走間の全区間に供食設備を持たない特急列車となっていた。この全国的にも例を見ない運行は1972年3月15日改正にて解消されるまで続き、石北本線内への特急食堂車運行の視点からなら8年を待たされたことになり、現在に続く石北本線優等列車の「継子扱い」の始まりにも思える。
北海道の特急列車を代表したのは釧路特急の<おおぞら>であり、<おおとり>は常に2番手、3番手のポジションに甘んじていたのである。以前に此処の記事にもしたけれど、札幌駅のホーム使用方にせよ、<おおぞら>が永く「特別」な特急ホームとしての1番線ホームに着発したのに対し、<おおとり>がそこを使用するのは1985年3月改正以降の、既に「普通」のホームと化してからのことであった。

とは云え、石北本線内においては最優等列車である。煙を吐かない列車は端折っていた蒸機の撮影時代でも、これだけにはレンズを向け、後にも機関車牽引列車と並ぶメインの被写体であり続けた。
写真は常紋国境越えの25パーミルを上って往く16D<おおとり>。
手前から5両目(6号車)にキシ80を組成した堂々の10両編成。金華方からの後追いである。
出力不足ゆえの緩慢な走行も優美と見て取るのは、<おおとり>への判官贔屓と云うものだ。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

弟子屈 (釧網本線) 1980

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北海道旅客鉄道の公表する2014年7月1日現在のデータでは有人駅が111駅とある。
交通新聞社北海道支社発行の「道内時刻表」に「JR北海道のおもな駅」として窓口営業時間と共に掲載されている107駅はマルス・総販システム端末の設置駅、即ちは「みどりの窓口」の開かれている駅なのだが、同社には他にそれの設備されない、鷲別、石狩月形、清水沢の営業フロント駅が存在し、それを加算しているのである。111駅とするのは、駅に直結した大規模休養施設内に窓口を持つトマムを加えているからだろう。それの駅総数453駅に対する25パーセントを意外に多いと見る向きもあろうが、その内45駅は札幌・函館の都市圏に集中して、その他の広大な道内には66駅が散在すれば鉄道の運営には十分とも読め、やはり鉄道の時代の終わったことを思い知らされるばかりである。
さらには、111駅中での直営駅となれば73駅である。発足直後に国鉄精算事業団から追加募集を行った後の1987年6月1日現在の従業員数10450名の内、駅への配属者は24.3パーセントに当る2540名であった。これは5年後の1992年4月1日現在には、8080名中の1640名に激減し、割合も20.9パーセントに低下する。暫定的に経営を引き継いだ地方交通線4線の廃止もあったけれど、この間に駅営業体制と勤務形態の見直しが相当に進んだことが伺える。
発足から四半世紀を経過した2012年4月1日現在においての駅配属者は987名にまで減るものの、全従業員も4724名となって、20.8パーセントには余り変化は無い。それでも日本国有鉄道における全国平均のそれは永らく20パーセント台後半で推移していたから、4人に一人の駅勤務は5人に一人となって鉄道事業における駅の地位は低下したと知れる。(※従業員データは交通年鑑各年版による)

摩周と云われるとカルデラ湖を思い浮かべてしまうが、弟子屈は本屋の改築を機会に1990年11月20日より摩周を名乗っている。確かに摩周湖は全域が弟子屈町に所在し、そこへのアプローチ駅には違いないのだが、古い鉄道屋には違和感が残る。
とまれ、現在には阿寒地域の観光基点のみならず、標茶に在った運転上の機能をも奪って線内の拠点駅である。当然に北海道旅客鉄道に直営され、標茶から川湯温泉までを管理する駅長が配置されている。汎用端末による簡易型CTCでの線内運行管理業務も在るはずなのだが、営業窓口は16時30分には閉じられる。フロント業務とは全くに切り分けられているのだろう。但し、それら人員は統計上に追分や石狩当別のごとく運輸営業所扱いとはされていないようである。

この1980年当時は貨物扱いの廃止が予定されていた頃である。それは1982年秋まで先延ばしされるのだが、この頃でも構内に使用車は疎か停泊車の姿も見えず、既に到着発送とも扱いはごく僅かだったと思われる。とは云え、旅客扱いに線内の中心駅であったには相違なく、線内駅に唯一残った駅弁立売り(駅前の青木商店弁当部による)も、待合室での立食い蕎麦営業も行われていた。深い屋根の堂々とした駅舎を持ち、傾斜を合わせたホーム上屋の規模は幹線駅のそれを思わせたものだった。
上り本線に停まるのは633Dの釧路行き。
この旅客跨線橋からの眺めは現在にもあまり変わらない。駅舎の改築されても左に見えるホーム上屋は維持されている。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f11 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

音別 (根室本線) 2000

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夜行急行を宿代わりに旅した頃、銭湯の存在は欠かせなかった。ひたすらストイックに写真を撮っていた時代と重なり、旅中に駅前を離れるのはこの時くらいだったから入浴道具だけを持っての街歩きは楽しみでもあった。
インターネットも当然にGoogleMapも無い当時、現地の役場やら警察、駅などに電話で問い合わせたり、当地で聞き覚えたりで作成した銭湯リストが手元に残るが、道内では大抵の街なら必ずと云って良い程に一軒や二軒は営業していた。それが当たり前と思っていたのだが、内地で同じような旅を試みて、どうしても銭湯の見つからぬ体験には北海道は特別と知るのだった。

この当時の資料が見つからないので総務省による「2009年度経済センサス」のデータで代替してしまうが、北海道の一般公衆浴場の370事業所(軒)は東京都、大阪府に次ぐ数であり、以下にも神奈川、兵庫、京都、愛知と人口集積地帯の続く中に異例である。面積の広く人口もそれなりに多い事情からと思えば、人口10万人あたりの事業所数(軒数)を採っても、その6.72軒は東京を上回り、神奈川や愛知、兵庫を遥かに引き離している。公衆浴場の廃業の相次いだ近年ですらこの数字であるから、1980年前後の実体験は十分裏付けられるものと思う。ちなみに、銭湯探しに苦労した地域のひとつ島根県は、総数僅か7軒、10万人あたり0.98軒とある。
同じく総務省による2008年の「住宅・土地統計調査」で北海道での一般住宅(当然に集合住宅を含む)の浴室保有率は97.4パーセントに達して全国平均を上回るのだが、設備しない住宅の絶対数が58,800戸を数え、370軒の銭湯が存続する所以なのだろう。

思い出す銭湯は幾つもあり、やはり夜行の始発駅周辺が多いけれども、写真の鉄道屋なので同じような旅をしていた放浪型旅行者の往かないようなところでもひと風呂浴びていた。稚内なら南稚内の方からが至近だった「東湯」、これも留辺蘂駅から近かった国道沿いの「松の湯」、遠軽なら国鉄物資部の先の「亀の湯」、ここは鉄道職員の利用も多かった。
倶知安駅の「旭湯」からの帰り道、蛾の大群に襲われたことは前に書いている。(→ 倶知安 (函館本線) 1982) 駅前の国道を街外れあたりまで進んだ長万部の「栄湯」は山線蒸機の頃に利用した向きも多かろう。

サクペト(尺別)原野を往くのは5481列車。
西帯広の新日石油槽所からの返空列車だが、この日の財源はそれの繁忙期と云うのに一両のみだった。機関車だけは回送機を伴った重連である。情けない組成だけれど、こんな列車もある。
この音別にも市街地国道沿いに「桜湯」が所在して、駅への帰り道途上のそこには機材そのままに直行していた。冬の季節なら夕方の上り高速貨物は撮れないので、15時の営業開始を良いことに早い時間から長湯させてもらったものだった。木造モルタルの商店建築の古い建物で、狭いと云って良い浴場だが、クラシックなタイル貼りの趣は結構お気に入りの湯屋であった。
湯上がりに駅前の蕎麦屋(兼食堂)で腹ごしらえすれば、後は釧路へ夜行を迎えに往くだけで済んだ。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec.@f5.6+2/3 C-PL filter  Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1977

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名寄盆地は上川盆地の北端とは標高300メートル程の山稜にて隔てられ、獣道のごとき先住民族の交易路は通じていたかも知れぬが、人馬の通行の、増して物資の輸送に供される通行路は存在していなかった。幕末期から開拓使の時代となっても天塩国への往来は、江別太から石狩川を遡ってシラリカ(現在の雨竜市街地付近)より雨龍越えで留萠に至り海岸線を北上する経路であった。名寄盆地は天塩川河口から遡る最奥地だったのである。
そこへの開拓入植は、1897年のケネプチ(剣淵)原野への定住を始まりに1899年にはシペツ(士別)とケネプチに兵村が設けられ、タヨロマ(多寄)、ナイオロ(名寄)、フレペト(風連)への入植も進んで、その年の2月には風連へ剣淵ほか三ヵ村の戸長役場が開かれている。
一方、1894年から始まった上川盆地北端のピオプ(比布)原野への入植も、この間に進展したのは偶然では無い。『北海道鉄道敷設法』(1986年5月14日法律第93号)第二条の予定線に「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」が規定され、1897年6月に着手されたことを背景にしていたのである。また、同じ時期には経路を同じく仮定県道天塩線の工事も始められており、この地域における交通の飛躍的な利便向上が約束されていたのだった。

これにて石狩と天塩の国境を越える峠として開削されたのが塩狩峠である。道路は1898年に通じ、鉄道は1899年11月15日に天塩側峠直下の和寒までを開業した。蘭留から和寒への13.5キロに停車場の無く、列車は無人の山中を黙々と越えていた。夜間運行の列車の車窓には灯り一つ無い漆黒の闇の続くばかりだったに違いない。
この間に行違設備を要して峠頂上近くの10パーミル勾配上に塩狩信号所の置かれたのは1916年9月5日と記録される(規程改正により1922年4月1日付にて信号場)。当初には原生林に沈むランプの信号場であり、上り乗降場の背後に建てられた官舎に移り住んだ鉄道職員と家族は深い夜に暮らしたのだった。
隣接しては1923年に自然湧出の鉱泉に湯治場の開かれ、1925年には塩狩温泉旅館が建てられた。1924年11月25日付での駅昇格は、それによる乗降客の増加に応じてのことだろう。戦後には復員軍人や外地からの引揚者の帰農促進の緊急開拓事業にて周辺にも開墾地が出現するも、集落の形成には至らなかった。付記すれば、この開墾地は1970年代初めまでに離農により放棄され、線路東側のそれは植林地に転用された。今には杉の深い森に還っている。

写真は塩狩に到着した323列車、名寄行き。
周辺に集落の在るで無く、国道からも隔絶された位置にあったこの駅は、日の没すれば太古からの闇に包まれた。構内の照明に雪明かりも期待してバルブを切ったのだが、写真は光が無ければ写らない。ランプの頃の夜の底は如何ばかりかと思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 Bulb@f8 Nikon L37filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※ このカットはWebsiteのGalleryで既出の再掲です。但し、ディジタル上での編集処理をやり直しています。

落部 (函館本線) 1996

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太古の昔から成層火山への成長と山体崩壊を繰返していたとされるその山は、約5000年と云われる永い休止期を経た1640年7月31日(旧暦6月13日)の大噴火にても山頂部の大崩落を生じ、荒々しい山容を見せていたのである。これを目にした和人は、先住民族のカヤウンペシュヌプリを知ってか知らずか、その奥に広がる閉鎖水域を古式どおりに内浦(内裏)とし、湾口のこの噴煙の火山を「山」では無く「岳」と見取って「内浦嶽」と名付けたのである。
その時代には「ヲシロナイノノポリ」との記録もあるのだが(1807年東蝦夷屏風)、これはアイヌ民族の呼び名では無く、和人が聞き覚えでそれ風に呼称したものではなかろうか。アイヌはその源流の山を河川と同名としたけれど、尾白内川のそれは西を向いている。
内浦嶽が「駒ケ岳」とされるのは、そのアイヌ民族の口碑伝説に由来との説もあるけれど、それも含めて前記の山体崩壊で生じた剣ケ峰から続く緩やかな稜線が「馬ノ背」と呼ばれるようになっての発想には違いない。1845年にこれに登頂した松浦武四郎は「東蝦夷日誌」の挿絵に「内浦駒ケ岳之図」と記し、その呼称が使われ始めていたことが知れる。おそらくは19世紀始め頃からではあるまいか。本州島内にも所在した山名の転用であったから、近代にはそれと区別して北海道駒ケ岳と呼ばれるようになった。

落部に降りるのは湾岸をかすめる鉄道に駒ケ岳を背景とするためであり、それは石倉方でも野田生方でも叶えられたのだが、後者には些か悩むところとなっていた。
周知のとおり、そこでは1960年代に造成された現在の国道5号線沿い東野の駐車場からの眺望が定番位置である。絵画的過ぎる嫌いも在るけれど、線路が第三落部トンネルで抜ける川向の段丘の張出しと駒ケ岳の重なりは最も均衡の取れ、それも頷ける。
しかしながら、1980年半ばに肝心の線路山側の一部区間に通信線柱が建植されると、画角にはそれが編成に引っ掛かることになった。複線の線路を横断する電気運転設備ともなれば諦めもつくのだが、本州からの寝台列車の重連の機関車をその柱間に無理矢理に収めにかかると、困ったことに山影とのバランスがどうにも座りの悪く、何とも中途半端で様にならないのである。駒ケ岳を背景にしてはそれの撮れない立ち位置には、機関車1台牽引だった<カートレイン>や<夢空間>列車を、何故にここで撮っておかなかったものかと悔やむ。

この画角の困難は、ここを訪れる多くの撮影者が山影の遠望の可否に関わらず、第三落部トンネル出口付近に画角を採る所以でもあろうが、それをリピートするのも悔しいので、もっと引きつけた位置で何とか通信線柱をクリアする。列車は5列車<北斗星5号>である。
駒ケ岳を記事にしておいて、それを外したカットはお詫びする他ない。機関車が1台の貨物列車とし、且つ露出を落として柱の目立たぬようにした習作カットなら 落部 (函館本線) 2011 に在る。

余談ながら、その東野の駐車場用地は1966年から行われた函館本線の線増工事に際して置かれた工事用ヤードを転用したものである。掘削土砂はインクラインでここまで巻揚げられた。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6 Fuji SC-52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

銭函 (函館本線) 1978

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旅にはコンテの幾つかを立て、それぞれに従ったロケーションを選んで出向いた。コンテには気象条件も指定していたから、大まかなスケジュールの確保こそすれ後は天候次第である。かつてなら新聞朝刊の予想天気図にラジオの天気予報を頼りに翌日以降の行動を決めていた。降雪に積雪と云う重要なファクタの在る冬場は尚更であった。
以前に鬼鹿 (羽幌線) 1981 に書いたように、予想最高気温の動向を気にしていたことは そのひとつだし、勿論に降雪の予報には注意を払っていた。黒々とした針葉樹林よりは雪を纏った姿の方が相応しいし、雪を蹴立てる列車の必要なら降雪中かその直後でなければならない。逆に雪面へ落ちる影や風紋がテーマなら晴天に限った。天候次第でコンテとそれの実現出来そうな位置を当て嵌めてスケジュールを決めていたのである。早い日没には夕刻から移動も始められたゆえ、例えば釧路や函館周辺からでも翌朝に稚内へ達するような移動も可能であった。

とは云え、細かいメッシュ単位に予報のなされる時代では無く、現地に達して裏切られるのも多々ではあったけれど、その経験の積み重ねには天気図から一定の地域内の天候変化を読み取れるようにはなっていた。
日本海を東進して来た低気圧が北海道の何処を通過するか、オホーツク海に抜けるか、太平洋上へ去るかによる違いなどである。例えば羽幌線で風雪に荒れる海を背景にするなら、石狩湾あたりに接近途上が最適だった。これが宗谷北部を横断してオホーツクに抜けて停滞すると最悪で、その沿岸は確実に猛吹雪に襲われた。太平洋へと抜けると今度は興浜北線の斜内山道が猛吹雪である。けれど、倶知安あたりで遠景を捉える画角ならば、その方が「程良い」降雪に出会えたものだった。厚岸湾で降雪を見ようとすれば、東からやって来るのでは役に立たず、太平洋岸を北上する低気圧の接近を待つことになった。

湾曲した石狩湾岸一帯は、低気圧がどのコースを辿ろうがそれの通過した後には北から西寄りの強風を受け、小樽に暮らした時代に坂上の借家が風速に軋むのを幾度も体験していた。函館本線が幹線使命を果たした頃、運転抑止要因は山線区間の雪害よりも小樽から銭函への海岸線区間での暴風雪による信号確認不良が凌いだと覚えている。
発達した低気圧の通過にて全道が荒れると予報されていたこの日、想定していた撮影は全て諦め、遠景を撮ることの無い銭函上り方海岸線に建ち並ぶ漁師小屋区間へと歩いたのだが、凄まじい吹雪には数カットを押さえて引揚げざるを得なかった。風雪は戻った市街地にも吹き荒れて道を歩く人影は見えない。
海上からの吹雪のまともに吹き付ける駅近くの銭函西部踏切を6540Dが過ぎて往く。中長距離列車が遅延する中で、札幌からのこの列車は定時だった。
この辺り、今では様変わりして面影すら無い。
猛吹雪に備えては、パーカのフードを被っても露出する頬を覆うタオルに鼻当ての付いた山岳用ゴーグルを用意していた。こうでもしないと飛礫のような降雪の風上に顔を向けてはいられなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

島松 (千歳線) 2003

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日本海縦貫線を往来した<日本海>が食堂車を失ったのは、1975年3月10日改正における青森運転所から早岐客貨車区への運用持替にともなう結果であった。
新幹線が博多に到達した同改正での関西-九州間系統列車の削減、東北・常磐線系統の増強と云う営業施策から、<日本海>運用の青森所20系を<ゆうづる>増発に転用し、それに替えては早岐区14系による<あかつき><明星>運用と大阪を介して共通化したのである。長崎・佐世保・熊本から青森にまで至る前例の無い広域運用の出現も然り乍ら、食堂車の24系25形編成への供出により、それを廃した関西-九州間列車との共通運用は、東京-博多間とほぼ同じである16時間運行の長距離列車に不連結をもたらしたのだった。東北・常磐線系統を含む多くで既に食堂車営業を取り止めていた時期ではあったけれど、これも前例の無いことであり、曰く「エサなし特急」として夕刊紙ネタにもなったのをご記憶の向きもあろうかと思う。

これへの食堂車再組成は、1985年に本坑が貫通して開業時期の見えて来た海峡線の運行計画の俎上に上げられた項目であった。当初には上野-札幌間列車に加えて大阪-札幌間も検討され、当時の国鉄には後に<北斗星>で実現したような個室式寝台の大幅導入の発想は無かったけれど、共に食堂車の組込みは予定されていたのである。
検討の過程で、およそ22時間の所要と想定された大阪-札幌間列車は需要の見込めぬとして海峡を渡るだけの函館着発に短縮されてしまうのだが、承継した西日本旅客鉄道もその計画を保持し、前年度の上野発着列車向けの事例に習い金沢運転所に保留のサシ489-2両と1986年3月31日付にて用途廃止となっていたサシ481-1両の車籍を復活し、スシ24への改造工事を進めたのだった。
組込対象は、大阪の発着時刻から本来の<日本海>ではなく1975年3月改正での季節列車としての増発に発する1・4号ではあったものの、海峡線開業の1988年3月13日改正を以ての組成に準備の進められ、実車も3月初旬には鷹取を出場したのだけれど、函館着発と云う中途半端な運転区間に需要の不安と、何より要員確保上の問題から組成の見送られたのである。改正以降も西日本会社は営業を模索した模様だが、結局は実現せずに終わった。<日本海1・4号>が1989年3月改正までの1年間を5号車欠車とする編成で走ったのはそのためである。

用途を失いかけたスシ24-3両は、<北斗星>の成功に刺激された同社が国内初のクルーズ列車として<トワイライトエクスプレス>の開発を決めて命脈を保った。爾来、四半世紀をその編成に在って日本海縦貫を上下し、電車としての新製からなら車齢は43年になんなんとする。食堂車淘汰の時代を生き抜いての長寿は幸運な車両達と云うべきだろう。
客車への転用時は、電車付随車当時のテーブル配置を維持した定員40名のままであり、青20号に銀帯の姿だったことを付記する。函館までの運用には北海道向けの耐寒耐雪装備も省略されていた。

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを下り込んで来た8002列車。
以前の記事にもかいたけれど、この南19線踏切からの画角は、この列車の通過する14時30分の太陽高度が48度を越える6月初旬から7月半ばまででないと、編成に線路西側の樹林の影が落ちてしまう。このカットは、それを逆手に重連の機関車だけへの照明を試みた習作である。同時刻太陽高度が30度を割込む9月末以降には、影は客車屋根まで達するけれど、日陰日向の分界位置をこの画角での理想的位置とするには、およそ170度を向く線路に対して14時半の太陽方位が230度前後となる3月中旬もしくは10月下旬に限られた。背景の落葉樹を思えば、選択は自ずと後者になる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f2.8+1/2 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常盤仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後に北海道の国有鉄道路線上には、その鉄道景観を特徴付けることになった仮乗降場の多数が設けられた。どの施設も地方機関の限りにおいて設置されたに違いはないが、1949年6月1日の日本国有鉄道発足を境に、前後ではその性格は異なったのだった。
これは、2013年6月に 安別仮乗降場 (天北線) 1985からシリーズで記述した仮乗降場に関わる記事の補遺である。

アジア太平洋戦争の敗戦直後より日本国有鉄道発足までの仮乗降場の開設は、戦地からの復員や外地よりの引揚げによる人口動勢に端を発していた。1945年から47年までの2年間に、実に622万人にも及んだこれら人々の収容と人口増にて危惧される食料難に対して1945年11月9日に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域の交通手段として鉄道駅の必要とされたのである。当時に国有鉄道を管轄した運輸省鉄道総局には多くの新駅設置の請願が行われた中で、特に未開墾地の多くが所在し早期に入植の進展した北海道においては、緊急の国策に政府の要請も強く、本省の裁可を待たずに札幌鉄道局の限りに仮乗降場としての設置が進められ、その数は11線区での23箇所に及んだ。都市近郊での1箇所に炭住街の拡張による運炭線上の2箇所を除けば、全てが道北道東地域に所在した。(具体的個所は追記にて記す)
この当時の国鉄は常設駅を無人駅も含めて恒久施設と考え、これら仮乗降場も将来の駅昇格を念頭に土盛の乗降場に待合所、必要とあらば本屋も備えていた。中には木材組み板張り構造の乗降場と云う個所も含まれたが、あくまで駅昇格時の本工事を前提に工期短縮の仮設備とされて少数派であった。

1949年に発足の日本国有鉄道は、鉄道総局への請願に対して1951年3月の理事会にて新たな駅設置基準を内規に定めた上で、それに適合した93駅の新設を同年7月14日付にて承認した。この内、38駅が仮乗降場からの格上げであった。ところが、道内の23箇所には上記承認とは無関係に昇格を果たした個所のあった反面、全てがそれを認められたでは無かったのである。
この際の駅設置基準は、地形・線路状態が設置に適し且つ工事の容易なことを前提に、便益者側での用地寄付や工事費の負担があり、既設駅間距離の8キロ以上の中間に位置する、一日あたりの推定乗降客数の500人以上の旅客駅を承認条件としていたものの、僻陬地についてはそれの300人以上と緩和され、さらに仮乗降場からの昇格には駅間距離の条件も緩められていた上に、鉄道以外に交通手段の無い地域には特段の考慮との項目も付されていたに関わらずであった。石北線の旧白滝・野上(新栄野)・生野・鳥ノ沢、池北線(当時に網走本線)の笹森の5箇所を数えた事例の、個々の事情は知り得ない。

国鉄の理事会が打ち出していた、この93駅の設置承認を最後に「今後当分の間は新駅設置はしない。事情止むを得ないものと云えども地方機関限りで仮乗降場も設置してはならない」との方針に反旗を翻したのが、旭川鉄道管理局の第二代局長として1954年に赴任した斉藤治平であった。管内視察から、そこに数多くを擁した僻陬地に位置する開拓集落の、地理的条件や気象状況に数キロ先の駅までの交通にも難儀する実情に鑑みて、離任時期は調べ得ていないが、1960年までに管内の12線区に実に97箇所もの仮乗降場を開設したのである。
当然に本社との軋轢を生んだのだが、彼は自らの構想を本社の云う仮乗降場とも考えていなかった形跡が在る。線区としての輸送量を重視し乗降場あるいは駅としての乗降客数の集積に拘らないのが斉藤の発想であり、進展しつつ在った気動車運行を前提に、バス停留所のごとくに乗降施設の短い距離間隔での多設を想定していたのである。本社への意見具申の中での指導により中途半端に終わったのだが、構想通りに実現していれば設置は200箇所に迫ったのではなかろうか。施設自体も乗降扉1枚分程度の乗降台を考えていたものが、これは運転側のブレーキ扱い上の要望にて気動車と同等の有効長とされた。板張りの粗末な乗降台と云う北海道に特徴的な鉄道景観は、斉藤の構想に始まったとして良い。

常盤仮乗降場は下頓別から3キロ余りの音威子府起点54K820M地点に1955年12月2日に開設されている。写真にも見える通り、広大な酪農地帯に位置し農家の散在するものの、周囲に集落の存在するではない。ここも、1950・60年代には高校生の街への下宿を不要とし、小荷物として特認された生乳の出荷にも大いに寄与して列車着発の度に賑わったものであろうが、線路際にバス停然とした施設だから、代替交通機関の発達すればいつしか忘れ去られ、廃止予定線ともなれば尚更に放置されるのみだった。

本社が斉藤の具申を認め、それに続いた他の管理局での設置も追認し、最後には前述の方針の撤回に至ったのは、それが増収をもたらした故と推定する。以後、国有鉄道の矜持としての土盛の乗降場にも拘らなくなるのだった。
(文中、斉藤治平氏の敬称は略させていただいた)

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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豊浦 (室蘭本線) 1994

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ここ数年のことである。休日に列車で遠出でもすれば、沿線には多くの撮影者の姿が認められ、普段都内と往来する小田急線からもホームでカメラを構える人々を多々目撃する。
道内に出向いても事情は変わらず、多くの位置で撮影者諸兄に出会うようになった。情報の交換にもご一緒するのは吝かでないのだが、十人を越えるような集団ともなれば、静かに列車を待ちたい身には遠慮したい環境ではある。何より立ち位置の制約されるのには困り果てる。
最近に参入された方には当たり前の光景かも知れぬが、50年近くを撮って来た古い鉄道屋には、それは70年代前半の所謂蒸機ブームを遥かに超える異常事態と見える。その狂熱の去って尚且つ、鉄道を撮りに来たと地元の人に話せば珍しがられ、現場でご同好に出会うなど滅多に無かったのが、つい最近までの撮影であった。もっとも、それは移動の列車の混合うと云う事由からなのだが、学生の夏休み期間や黄金週間等連休を意識的に避けていたからかも知れない。本州連絡の特急寝台列車群にしても1988年の設定以来に撮り続けているけれど、同位置に並んでの撮影など終ぞ記憶に無いことだった。

ディジタルカメラの急激な普及に性能向上と鉄道輸送の衰退からそれが懐古的に捉えられ始めた時期とが重なり、Web上での個人レヴェルの情報発信の容易化も加わって後押しをしているゆえであろうが、それでも鉄道趣味の裾野の広がりは歓迎すべきだろう。
反面、何年も前から指摘されているとおりに、裾野の広がるにつれて山の低く、森の浅くなれば、当然に悪貨も含まれるところとなって、時折にマスコミを喜ばせる事態を生じている訳である。
この世界の先達各位には鉄道趣味は大人の趣味と教えられて来た。集団での罵声の応酬は当然に場所取りの捨て三脚なども恥ずべき行為であり、永年の写真の鉄道屋としては趣味者の幼稚化を嘆かせて頂いて良いと思う。

このブログは駅名や線名を多く記しているせいか、撮影地を探すWeb検索に良くヒットしているように見える。他の同好諸兄のSiteも事情同様と思われるが、書き入れられたその検索語句からは多くは最近の参入者と推察され、同じ位置に多数の集中する所以であろうか。そこにお手軽に自動車で乗り付けてお仕舞いとするなら、「写真」はそれから始まるとは馬の耳に念仏だろう。しばらく前のことだが、Webに高名撮影地に立てたことに満足しているとの記述を見つけ、絶句したものだった。まあ、そんな巡礼も鉄道趣味の裾野と理解する他無い。
ただ、希望も在る。鉄道趣味には素人ながら写真そのものに素養ある参入者も迎えていることで、折々に閃きの画角を見せてくれる。鉄道を単なる風景に捉えることは、古くからの鉄道屋には最早出来ない芸当なのでインスパイアされるところ多である。

写真は貫気別川橋梁下り方のR=604曲線を旋回して往く5列車<北斗星5号>。
35ミリには禁物のトリミングを避けるべく、この立ち位置を確定するまで実列車で5回のテスト撮影を要した。編成の2両短い8001列車には、また別の位置があった。ここも築堤法面の樹木が成長してしまい、残念ながらリピート出来ない。
もっとも、今ここに立てば、必ず一人や二人はおいでの背後の俯瞰位置から反向曲線を遠望するご同好の画角に入り込んでしまうだろう。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (函館本線) 1988

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国鉄の内部統制規程である「日本国有鉄道営業線等管理規程」や「同旅客及び荷物営業管理規程」の存在は知っていても、残念ながら通読したことが無いので知り得ないのだが、そこには駅営業時間の定めのあったはずである。
現業機関である駅の営業掛の職員は、深夜にも着発列車のあれば、「職員勤務及び休暇規程」に規定された勤務種別の、主には昼夜三交代制ないし一昼夜交替制もしくは変則的な交代制であるC形にて勤務し、夜行列車の無い地方線等の駅なら日勤に夜勤で、閑散線区でも拘束時間の長い特殊日勤により勤務し、駅の旅客窓口は列車着発時間の限りに開いていたものである。

1987年4月に国鉄を承継した旅客鉄道会社は、既に多くの駅が運転業務から切り離され営業フロント化していたのを背景に、営業体制の合理化を深度化した。中でも、経営基盤の脆弱とされた北海道旅客鉄道には、それは必然の要求でもあった。とは云え、地方交通線は勿論、幹線系線区においても駅の要員無配置化は極限まで進められていたから、ここでは残されていた直営駅の業務委託化程度であり、それの叶わぬ駅においては駅職員の勤務体制が見直され、その勤務種別としては例の少なかった日勤化の推進されるところとなった。
同社のWebSiteに「JR北海道のおもな駅」として107駅が、その窓口営業時間と共に掲載されていることはご承知と思うが、その全てが日勤駅である。深夜帯に着発の在るのは<はまなす>の停車する函館に長万部、敢えて加えれば伊達紋別くらいだから、早番・遅番の日勤も当然とも受取れるが、大半で夜間に営業が無い。18時以前に終了する駅も相当数存在する上に、日曜・祝日に営業しない例も散見され、とても現業機関とは思えぬ勤務形態である。全ての発列車に対して窓口の開いているのは、107駅中僅かに21駅に過ぎず、かつての当たり前はすっかり稀少例と化した感がある。終着列車を対象外とし、窓口終了の数分後が終列車の発車時刻と云う駅を加えてもこの有様である。
この施策の進められた頃、古い鉄道屋が俄に信じられなかったのは、それらに当直勤務も無いことであった。実勤務ですら夜間着発列車を無視するのだから、考えてもみれば当然なのだろうが、例えば長万部、洞爺とか遠軽と云った地域拠点駅の大きな駅舎が夜も更けぬ内から完全に無人と化すには驚かされたものだった。

長万部での当直勤務が何時に廃止されたものかは知り得ていない。着発する夜行列車は1986年11月1日改正での山線夜行と通称された荷43・44列車の廃止以降には多客期に運転の<すずらん89・90号>だけとなり、1988年の夏臨期からそれを代替した<ミッドナイト>の客扱い停車も多客期に限られていた。
おそらくは、夜間無人化に対応した窓口へのシャッタ設備などを含んだ駅舎の改築施工中であった<すずらん>の86年冬臨期運転終了までは維持され、1987年1月28日の改築駅舎使用開始までには廃止されたものと推定している。そして同年4月1日の北海道旅客鉄道発足に完全な日勤体制へと移行したものだろう。
1988年6月の1年と数ヶ月振りの渡道で函館からの最終特急で長万部に降りれば、20時半と云うのに窓口のしっかりと閉じられ無人の有様には、しばし呆然としたのを覚えている。「あの長万部が」である。古い鉄道屋の驚きと落胆を想像して頂ければ幸だ。

写真は、運転助役のいない乗降場に停まる札幌からの最終、5016D<北斗16号>。
この貨物積卸場跡に立って構内照明の大部分が落とされてしまっていたにも衝撃を受けた。楽に見えたはずの腕時計の文字盤が読めぬのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 2004

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国鉄における信号や閉塞梃子の遠隔制御は、1949年に上越線茂倉信号場を隣接の土合駅から操作したのが最初であるらしい。谷川岳直下地中深く清水隧道内に所在したこの信号場には、この当時に12人の職員が日勤・夜勤の昼夜2交替勤務で運転業務に従事していたと云うが、その過酷な職場環境からの解放と、勿論それによる経営合理化を意図してのことである。この制御装置は信号保安設備として特殊な設計となり、また新設計の要素を多く含んで設備費は高価であった。
そのせいか、次例は同年10月に開通の小山駅構内南端での東北本線と水戸線の連絡線、通称の小山短絡線のそれぞれの分岐(合流)転轍機の小山からの操作であった。但し、これは回路を引き延ばした駅の継電連動装置の範疇とも云えよう。そして、1951年4月からは東海道本線稲沢操車場経由の貨物線、通称の稲沢線が本線に合流する五條川信号場の清洲駅からの遠隔操作が行われた。これに用いられた制御装置は通信回路が改良され、前二者の1回線による直接式に替えて、後のCTC制御方式にも繋がる2回線を用いたタイムコード送信式が採用されていた。
しかしながら、これら初期の事例は伝送技術の未熟から運用成績は芳しく無かった様子である。

とは云え、本線から本線の分岐など単純な設備(当時の法規では、場内信号機を持てば信号場、持たなければ信号所である)への人員配置の省略などから、その改良と共に全国へ普及し、「遠隔制御」の英語名称「リモートコントロール」から「RC制御」と呼ばれた。
道内における最初の事例であるかは定かで無いのだが、仁山信号場-軍川(現大沼)間での単線から複線への分岐に、1962年7月25日から1966年9月30日まで置かれた熊の湯信号場が仁山信号場からRC制御されていた。函館本線の線増工事途上としては、この他にも駅間の分割施工(部分線増)に際して1966年9月28日から12月25日まで設置の国縫-中丿沢間函館桟橋起点105.9キロ地点なども、制御駅は不明ながら信号所に準じた被制御地点であった。
当時には、このような仮設的設備ばかりでなく恒久施設にも例が現れる。
根室本線の付替新線上に1966年9月29日に開業の鹿越信号場は東鹿越から、同年9月30日の上落合・新狩勝・西新得の各信号場は同時開業の広内信号場からの遠隔制御により、当初から要員配置が省かれた。三箇所を集中制御した後者は1964年の新幹線で実用化されたCTC制御の技術を転用したものであった。
同時期には既存の高根、平野川や上芽室の各信号場にも導入が行われる。前提となる自動信号化が完了していたゆえだが、同条件の一ノ坂、幌岡に及ばなかった事由は調べ得ていない。
1973年9月9日の千歳新線の開業に際しては、新札幌を改めた札幌貨物ターミナルから白石、厚別、上野幌の各駅の遠隔制御が行われた。制御駅は札幌貨物ターミナルとされたのだが、これは立地上の事由によるもので運転上には白石駅の施設であった。この頃には、RC制御に出発したCTC制御も技術確立と導入実績を重ね、これは限定的なCTC制御とも云えた。上野幌は1981年3月の千歳線CTC施行時点で、白石・厚別は1998年2月の小樽-旭川間のPRC制御施行の際にそれぞれ札幌指令所に移管されてRC制御を終了した。

以降、道内もCTC制御区間が大半となって、もう出番はないものと思われたRC制御であったが、1993年3月に宗谷本線稚内での基盤整備事業により構内配線が整理されると、残された3線に2基の転轍機の進路制御が南稚内からのRC制御とされたのだった。これも2010年1月の同駅の棒線化により廃止されている。

狩勝新線の10パーミルを下って往くのは2075列車。
落葉松の色づき始めたばかりで、広大な種畜試験場らしい秋の景観には少しばかり早い。
広内信号場からのRC制御は、落合-昭栄信号場間のCTC制御施行にともない1971年3月31日付を以て終了し要員は引揚げられたのだが、有人停車場として構内にスノウシェッドを設備しなかったため、以後も冬季には除雪要員が降雪状況に応じて待機していた。
なお、道内に所在したRC制御の被制御駅(地点)の一覧を WebSite にまとめている。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f2.8  C-PL+SC41 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 /0.5 EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1979

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随分と前のことだが、誘われて栗山町の蔵元、小林酒造の「呑みきり」に参加させてもらったことがある。「呑みきり」とは寒造りして貯蔵した酒を初めて開封、具体的には貯蔵タンクの上呑みと呼ばれる栓を開けて取り出して試飲し、出来映えと熟成を確認するもので、大抵は気温の上がり始める6月終わりから7月始めを選んで行われる。酒蔵にとっては夏の定例の「行事」ではあるが、実際に全ての貯蔵タンクの酒を調べ、その後の貯蔵計画や製品化計画を立案する基礎データを得る「実務」でもある。近年には「行事」的には行わなくなった蔵も多いが、かつてには故郷に帰っていた杜氏や蔵人集も再集合し、醸造試験場からの来賓を迎え、得意先も招待しての利き酒会に懇親会と称しての宴を開くのだった。小林酒造には「実務」の方に不肖ながら参加させて頂き、酒呑みとしては天にも昇らん体験であった。

前置きが長くなってしまったが、その際に立ち寄った栗山町の、確か公民館だったと思うのだが、そこに飾られていた魚拓には度肝を抜かれたのである。それには、戦前に夕張川で捕獲されたと云う、体長の2メートルに迫ろうかと云うイトウなのだった(*1)。このサケ科最大の河川遡上回遊魚は、石狩川水系のここにも棲息していたのである。
かつて、イトウは渡島半島南部と日高地方、道北日本海岸の一部を除く全道の水系に棲息して、奥羽地域北部太平洋岸にも採捕の記録が残る。その棲息分布は湿原地域、海跡湖沼の存在に一致していた。同じく降海性のサケとの相違は、およそ20年程と云われる寿命に成魚となってから幾度もの多回産卵にあり、その生活史の全ては明らかとなっていないが、流れの緩やかな湿原河川の中流から下流の汽水域を含む湖沼や塩水の沿岸を回遊して過ごし、春期の産卵に上流域へと遡上すると推測されている。
1960年代から急速に進んだ流域の農地化に宅地化では、蛇行していた河川が排水路として直線化され、それによる河畔林に淵と瀬、氾濫原の消失は産卵環境の悪化を招き(*2)、多くの水系で絶滅へと向かってしまった。開発の手の入り易い平坦地河川を棲息域としていたのが致命的だったとも云える。

広大と云われる釧路湿原も釧路川本流下流域での農地や宅地の開発のみならず、支流のオソベツ川、ヌマオロ川、コッタロ川、久著呂川、オンネナイ川、雪裡川、幌呂川で大規模な改修が進んだことで棲息数は激減した。1981年を境として急激な落込みを示した釣果報告は、1970年代に本格化して1980年代にかけて行われた上記施工時期と符合し、20年を経た2003年の調査では繁殖可能な親魚の個体数は20尾程度と推定されるに至った。
まさに絶滅寸前であり、採捕したそれら親魚からの人工採卵、孵化による稚魚放流も続けられていると聞くけれど、既に悪化した河川環境に稚魚の生存率の悪く、雄で4から6年、雌では6から8年と極めて遅い成熟魚齢にも阻まれて、個体数の回復には至っていない。それでも、河川名の明らかにされない僅かに残された産卵適地には年毎に十数箇所の産卵床が確認されているようではある。
本多勝一氏による1993年の著作「釧路湿原」には、戦前期に塘路で暮らした開拓民の話として、釧路川本流で子供達の背丈よりも大きなイトウと泳いだ話が記録されていた。透明で遥かに水量の豊かだった流れには、そんな魚体が当たり前に悠々と回遊していたのである。
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(*1) 記されていた捕獲年月は失念してしまったのだが、それは夕張川が新河道に切替えられる1936年以前と思う。新河道には落差4メートルの清幌床止が設置され、イトウは遡上出来なかったろう。
(*2) 淵から瀬への移行地点、俗に渕尻とか瀬頭と云われる位置の小石礫の水底を産卵床とする。

位置の数度の既出をお詫びするが、これも「塘路の崖」である。
エオルト沼、マクント沼、ポント沼から塘路湖まで、低い冬の光線に光る氷結した湿原を見渡す。これでも南中時刻まで30分も無い時間帯である。
眼下を通過して往くのは611D<しれとこ3号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

生田原 (石北本線) 1975

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石北本線の遠軽-北見間は、湧別軽便線として1912年から1915年にかけて順次延伸開業した区間である。この国有鉄道唯一の762ミリ軌間を含んだ線路の沿革については、以前に 常紋信号場 (石北本線) 1983 から3回に分けた記事に書いている。
ここに開業時に置かれた、安国(旧下生田原)、生田原(旧上生田原)、金華(旧奔無加)、相ノ内(旧上相ノ内)、東相ノ内(旧相ノ内)の各駅には、当時からの特徴的な配線構造が残されている。これは後に名寄本線に含まれた同軽便線出自の開盛(旧社名淵)、上湧別も同様であった。
これらには、行違いの上下本線が島式乗降場を挟みながらも、一方はそれを使用すること無く駅本屋に接しても設けられた乗降場で扱いを行う設備・配線が採用されていたのである。その本屋側本線が両側で乗降場に接するところが特徴的と云える。同様事例の多くを認めるものでは無いから、湧別軽便線に積極的に取り入れられた設計として良かろう。
けれど、それに至った思想背景は良く分からない。待避線を、この構造に依らない留辺蘂と遠軽、名寄線区間の中湧別の設備とした行違いの上下本線のみには島式で事足りたと思われる上、金華を除けば一方の本線外側には待避線としても用いられたであろう貨物着発線を持つのである。
道内での類例は函館本線の赤井川に一例のみ存在し、1904年開設のそこでは本屋側本線を上下で共用し、島式側を待避線に専用することで本線側運転列車による島式乗降場との通行遮断を回避していたのである。敷地上の事由から乗降場の千鳥配置の取れなかったゆえの措置と考えられる。けれど、この石北線各駅は千鳥状に近い配置となっており、本屋側に上下列車の着発したでもない。
事情ご存知の方のおいでなら、是非ご教授頂きたい「謎」のひとつである。

写真は生田原で対向列車を待つ521列車。
白滝方面や名寄線、湧網線などの撮影後、北見へ夜行<大雪>を迎えに往くのに、この列車には良く乗っていた。網走まで乗りたいところではあったが、北見で50分近く停車するものだから<大雪>の網走発車に間に合わず、それには北見で連結の回転車と云うことになっていた。
混合列車が主体であった石北線普通列車の中で札幌連絡(上りは小樽行き)の521・522列車は別格で、<大雪>とともに郵便・荷物輸送も担う重要な地位にあった。上川以遠釧路までの区間で蒸気暖房によるのもこの2列車に限られ、写真の情景は、この列車ならではだったのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f11 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

千歳 (千歳線) 1984

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千歳線による千歳市街地の分断は1960年代初頭には既に市当局の関心事だったようである。当時の千歳市は、1957年の航空自衛隊第二航空団の浜松からの移駐による千歳基地開設、1962年の陸上自衛隊第七師団(当時に第七混成団)の真駒内からの東千歳駐屯地移駐などにて自衛隊関係者の転入が相次いで人口が急増、1955年に42317人に達して1958年7月1日付で市制を施行するなど、この頃より線路東側の農地が宅地へと転換されつつあったのである。
当初には東西を連絡する跨線道路橋の数本が検討されたものの、接続すべき幹線道路が線路近傍を並行しているために断念せざるを得ず、鉄道の立体交差化が望まれたのだった。しかしながら、国鉄にそのインセンティブは働かず、市当局も単独での事業遂行は困難で、1969年に運輸省と建設省間にて締結の「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」を待つこととなったのだった。これには、事業費の9割を主要受益者の自治体負担とした上で、そのおよそ半分の国庫補助が制度化されていた。
これを受けて、事業は北海道を主体とした都市計画事業にて動き始め、1973年に基礎調査を開始、報告を受けた建設省の1974年の新規事業採択を経て、1975年に都市計画決定されたのだった。その後には、道と国鉄間にて細部の協議が繰返され、1978年3月に工事協定書を締結して着手に至った。
興味深いのは、この際の都市計画決定区間は苗穂起点38K000Mから48K126Mまでの延長10K126Mの区間とされ、それには当時に建設線であった追分線分岐の信号場位置、即ちは千歳空港連絡駅と目されていた施設を含んでいたことである。→ 千歳空港 (千歳線) 1988

連続高架橋の建設位置は既設線直上に西側・東側併行の各案が比較検討された結果、用地確保や工事施工性に工期、工事手順などから東側が選択された。高架事業区間は起点37K710Mから43K100Mまでの4K390M、この内39K248M63から42K584M67が高架橋である。高架上への盛土を含む斜路の勾配は10パーミルとしたが、恵庭方を上った線路は地形の関係から千歳駅手前に10パーミルの下り勾配が介在して美々方は4パーミル勾配で済んでいた。これが今に千歳から南千歳を遠望出来る所以である。
設計には、同時期に進行していた東北新幹線と同じく施工基面拡輻の貯雪構造が採用され、軌道構造の寒冷地向けスラブや充填のモルタルも同線向けに開発された技術であった。

高架区間内には既存の6本に加えて都市計画道路4本の架道橋が含まれ、東西交通の円滑化と市街地一体化に寄与するものとされた。しかしながら、千歳市に委託した用地買収と支障家屋の移転が遅れ、高架橋本体工事への着工は1979年8月となった。この時点で千歳線電気運転にCTC制御施行の1980年10月実施は既定方針であり、高架線区間での設備工事とその後の訓練運転期間の確保から、同年7月の高架橋供用開始の至上命題には、通常には回避する冬期間の工事継続を余儀なくされたのである。基礎抗構築には寒冷に地表80センチ程まで凍結した地面を掘削せねばならず、掘削機械の騒音防止に場合によっては手掘も要し、またコンクリート打設には躯体全体をシートで覆ってのジェットヒータによる保温を行ったと工事誌は記録している。

斜光線を浴びて轟音とともに千歳を通過して往くのは414列車<まりも>。寝台車を連ねた編成に保線資材の収容庫が、如何にも邪魔モノではある。
この年1月末日を以ての取扱便の全廃には、機関車次位の[北東航21]はスユ15による護送便となっていた。札幌からは102列車に併結されて函館へ向かう。
高架橋と千歳新駅は1980年7月10日に供用を開始した。この後に旧駅構内に本屋の撤去されるのだが、それまで新駅への出入りは旧跨線橋を駅舎2階に延長接続して利用していた。旧線路盤は千歳市に一括して払い下げられた後に民間へと売却され、現状では跡形も無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

大沼 (函館本線) 2007

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大沼に小沼、そして蓴菜沼がカヤウンペシュヌプリ(駒ケ岳)の噴火にともなう折戸川の塞止め湖とは承知しており、それは1640年の山体崩壊による岩屑雪崩とばかり思い込んでいたのだが、どうにも違うらしい。有史以前、10万年前に活動を開始したとされる駒ケ岳は約4万年前には成層火山に成長し、この後の噴火活動にて複数回の山体崩壊を繰返して、既に古大沼とも云える一面の湖水を形成していたと云うのだ。それを分断した現在の姿も6300年前まで続いた大規模な火山活動の結果らしい。なので、その姿を湖水に映す景観は先史時代から存在していたと云うことになる。

そこにどのような魚類の封じ込められたかは知り得ていないが、食用魚種の棲息しなかったものか、開拓使は1871年から鯉に鮒の移入を行い禁漁期間を設けてまで、それの繁殖を図ったと伝わる。その後、1893年に北海道庁の指導により湖岸の峠下村と軍川村による漁業組合が組織され、美々川源流の千歳湖からチップ(姫鱒)の移入も行われたと記録に在る。けれど、両村間漁業者の縄張り争いに漁獲調整が機能せず、1902年のその七飯村への合併を機に大沼水産組合が設立され資源管理の一元化と強化の為された。現在の大沼漁業協同組合に続くこの体制を背景に成功したのが、1927年の網走湖からの移入を嚆矢とした公魚であった。これを串刺しとしてタレで焼いた「筏焼き」は早くも1929年には商品化され、内地への出荷の行われていた。今に大沼名物と云えば「大沼だんご」を思い浮かべる向きの多いかとも思うが、「筏焼き」を始めとした公魚の加工品も引き続いての名産に違いはない。
近年の漁は毎年10月1日に定置網が解禁となり、11月には地引き網漁も始まって湖面の氷結する12月半ばまで行われているが、資源は年々に減少傾向にある。5月に種苗放流される公魚の成長期にその個体数と餌となるミジンコなど動物プランクトンのバランスが平衡を欠きつつ在るためとされるけれど、それには雪解けの春に湖水へと供給される植物プラントンとの関係も絡んで一筋縄とは往かず、研究の進められていると聞く。
道立さけます・内水面水産試験場のデータによれば、2011年度の漁獲高は25.4トンとある。これは塘路湖や阿寒湖とほぼ同等で、最大漁獲の網走湖の1割程に当る。

晩秋、小沼湖畔のR500曲線を旋回するのは3列車<北斗星3号>。
ここでの線増時に湖水側から東側への増設線の遷移地点だったこのカーブは(→大沼 (函館本線) 1989)、かつてには高度の在る位置から俯瞰出来たのだけれど、1980年代半ばまでには樹木の成長で叶わなくなっていた。数年振りで立てば、当時に無かった湖畔側にも植生の育ち編成が隠されてしまう。開通時から60年代初めまでは入江を渡る湖中の築堤だった区間である。その残滓が背景に湿地として残る。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor85mm f1.8D 1/250sec@f8  Fuji SC40M filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走 (石北本線) 1973

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Nikonのスタンダードとされる画角には、全て大口径と云えるF1.2・F1.4・F1.8(F2)の各口径比が用意され、商売道具としてはそれぞれを使い分けていた。決してレンズマニアでは無かったので、他社の同様事例については知らぬのだが、絞り1段分の中にこれだけのラインナップは、単に最大口径ぱかりでなく、レンズの性格が異なっていたからである。
Noct-Nikkorと冠された58mm/F1.2は、舞台撮影に少しでも明るいレンズを望んだのも然り乍ら、その設計意図通りにステージ下から見上げた構図などに写り込む舞台照明にサジタルフレアを生じ難いのに重宝した。ディジタル全盛の最近に再評価されたものか、中古市場で高値取引のなされると聞く。これは、まったくの仕事レンズだったので、取り敢えずは置いておく。
鉄道撮影に持ち出していたのは50mm/F1.4と同F1.8(F2)である。なので、あくまで中景から遠景描写での話だが、その差異はコントラストと絞り開放での描写に在った。
F2は1959年にNikonFと共に発売され、1966年に一眼レフを手にして以来親しんだレンズである。カリカリと良く写り、コントラストの高いくっきりとした描写を見せてくれて、1978年にF1.8と改められても同様であった。対して、F1.4を最初に手にしたのは1977年のAiタイプだったのだが、コントラストは抑え気味ながらも、ピントエッジの鋭い切れ込みはF1.8を僅かながら上回ると思われ、列車背景の木々の葉一枚一枚の明確な分離にもそれは見て取れた。けれど、それはf4程度まで絞った場合であって開放での解像度はF1.8に軍配の上がったのである。これは双方をf2とした場合も変わらず、f2.8でほぼ同等であった。
これにはモノクロームで撮影の当時ならば、ためらい無くF1.8の選択だったのだが、Ektachromeを鉄道撮影にも持込むようになると撮影の度にどちらを機材に加えるか迷うこととなった。カラーポジには少しでも諧調の幅の広いに越したことは無く、ASA64や100の感度には緊急避難的にf1.4まで開く方が良いに違いない。けれど、それでの開放絞り近くでの解像力を思えばF1.8も捨て難かったのである。
とは云え、それはあくまで保険の範疇で、鉄道撮影での存在意義は大口径ゆえにf2.8を安心して常用出来るところだから、その都度迷いながらも、結局は季節や予想された朝夕での撮影頻度などで選んでいたものだった。

その後F1.4はF5カメラの導入時にAFタイプに買替えもしたのだが、これはどうしたことかマニュアルレンズよりも解像力の劣り、画質に影響せずに感度が可変なディジタルに移行すればf2.8に拘るまでもなくなって、その頃に発売された PLANER T*50mm/F1.4のZFレンズに移行してしまった。ポートレートを意識した甘々の描写がf4あたりで激変し、遠景までに素晴らしい描写を見せるこのレンズもディジタルなら撮影の自由度は上がる。

写真は網走駅頭でのC5833。かの1528列車の牽引機として発車を待つ姿である。
この機関車についてはあちらこちらで語られているので、ここには繰返さない。高さの在る後藤工場式デフレクタと、高い位置に取付けられたナンバプレートはそれに見合って、随分背高の機関車に見えた。
F2の絞り込みは繊細な描写と強いコントラストで、モノクロのバルブには打ってつけだったと思える。
余談ながら、本来にこの手の大口径レンズ使いの真骨頂は、絞り開放の極めて浅いピント面への切り込みの良さを利用した一点のみのシャープな描写で被写体を際立たせる近接・近景の撮影に在ることを付記しておく。絞り込んではいけないレンズなのである。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 Bulb@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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