"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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桂川仮乗降場 (函館本線) 1978

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1979年9月27日の森方の複線使用開始まで信号場として機能していた当時の桂川には、残念ながら降りていない。乗り合わせた列車の交換待ちでの停車は幾度か経験して、木張りの粗末な乗降台に赤いトタン屋根の本屋、そして汐焼けした漁師家の屋根越しの海を車窓に見ていた。
アジア太平洋戦争末期の非常陸運体制下における、北海道炭の京浜工業地帯への年間300万トン輸送に際して設けられた函館/室蘭線上18箇所の新設信号場のひとつであり、1944年9月30日の使用開始と記録される。森町鷲ノ木集落の背後を切取りで通過していた5パーミルの下りからレヴェルに至る路盤を拡幅しての設置には、1200t運炭列車の運転に当初より500メートル程の本線有効長の確保されていたものと思われる。森からは僅か2.7キロ、石倉までも3.9キロの位置だが、森方の1キロ区間に9パーミルの上り勾配が続いて、足の遅い貨物列車が石倉までの線路容量の足を引っ張っていたのだろう。停車場名は湯の崎手前で海に注ぐ小さな流れ、桂川から採られている。
近隣の本石倉や鷲ノ巣が戦後に不用施設として一旦廃止されたのに対して、ここは引続き維持されていた。開設時より便宜的客扱いの行われたものと思われ、複線化による廃止には同位置に同名の仮乗降場が設けられた。
些か余談めくが、ここを始めとした函館海線区間の旧信号場を出自とした仮乗降場の扱いは特別で、ダイヤ上にも停車場線の引かれたではないものの記載が続き、全国版時刻表にも臨時駅との表記にて永く掲載されていた。道内に多くの仮乗降場とは勿論、同様の沿革を持つ旭浜や北舟岡など室蘭線上の事例と明らかに異なった扱いの事由は未だに分からない。

森町の鷲ノ木地区には古よりアイヌの小集落の存在したらしく、1600年前後とされる松前藩の知行地としてのカヤウンペツ場所の設置には、和人の定住も記録されている。本来に蝦夷地への和人の移住は禁止されていたのだが、夏期の漁労への出稼ぎのまま越冬する者なども増え、18世紀半ばまでには一帯の中心集落となる規模だった様子である。
鷲ノ木は、ここのカツラの大木へのワシの営巣からの「鷲ノ巣」が、それの飛び去って「鷲ノ木」となったものと云われる和名である。先住民族にはユプトゥ(yu-put =温泉の河口の意)であった。湯の崎に温泉でも湧出して桂川に流れ込みでもしていたのだろうか。
函館六か場所への和人の人口増加には、1799年に蝦夷地を直轄領とした幕府もこれを追認し、1800年4月に蝦夷地との関門を亀田から山越内に移すに際して、鷲ノ木も森や尾白内を支郷に「村並み」と認め、1858年には「村」へと昇格させて鷲ノ木村とした。少なくともこの時期までは茅部地域の最大集落だったのであろう。
鷲ノ木の地名は以来、現在にまで残るのだが、函館本線の信号場がこれを名乗らなかった事由は知れない。

写真の斜路は国道5号線の新道(森バイパス)が開通するまで鷲ノ木集落を通過していた旧道から霊鷲院という浄土宗の寺院への、かつての参道の入口であり、現在に鷲ノ巣史跡公園(資料館)となっている箱館戦争当時の幕府軍の兵站地への通路だったとも思われる。当然にここへの鉄道開通より以前からのことである。傾いた古い石柱にそれの刻まれていたと記憶するが、その詳細は失念した。
ここは、1960年代に往き来した急行の車窓にも目立っていた右の汐焼けの二階屋と共に現在にも残っている。
窓枠のアルミサッシ化改装を受けたスハ45を連ねて走り去るのは104列車<ニセコ1号>である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

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洞爺 (室蘭本線) 1992

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洞爺を発車した上り列車は、場内を出ると虻田発電所を右手に、その排水路を洞爺川橋梁で渡り洞爺トンネルをくぐり抜け、虻田漁港大磯分区を車窓に進めば、山側に下り線新クリヤトンネル出口抗口、海側に旧線の黒岩トンネルの遺構を見て自身は(新)黒岩トンネルへと進入する。この僅か1.5キロばかりの区間の沿革は趣味的に興味深い。

1928年9月10日の長輪線としての開通当時に洞爺トンネルは存在せず、線路は断崖の下を海側に迂回していた。ちなみに、1939年10月の虻田発電所の運転開始には洞爺川も細い流れに過ぎない。線路はそのまま大磯の海岸線をトレイスするように黒岩隧道へと続いた。
一方、1800年代初頭に開削の人馬交通路を1894年に改修した道路に端を発する国道37号線は、洞爺駅前から線路の海側を進み、大磯浜の踏切で山側に遷移するとしばし線路に併走した後に、幌内川の深い谷の上流迂回に斜面を急坂で登っていた。
豊浦-洞爺間の線増についてはWebSiteの記事に詳述しているのでご参照願いたいのだが、それに際して落石への防災対策と曲線改良を兼ねて複線断面にて掘削されたのが洞爺トンネルであり、1968年9月28日に既設線山側に設けられた増設線路の単線にて使用開始とされた。そして、その新線線路は新クリヤトンネル出口から洞爺トンネル入口までの一部区間で山側に並行していた国道の道路敷を路盤に転用したのである。
静狩から洞爺に至る国道の抜本的改良工事の最後として、ここへの洞爺跨線橋を含む新道の開通にともなう1966年の旧経路廃止を待っての工事であった。国鉄側には新クリヤトンネル出口抗口位置を幌内川とした時点で、それは既定方針であったことだろう。このような、国鉄札幌工事事務所と北海道開発局の函館・札幌両開発建設部との連携は線路路盤の道路転用を含めて、線増工事が国道の改良と同時期に進められた函館/室蘭本線には事例が多い。→桂川-石谷 (函館本線) 1994 →桂川信号場-石谷 (函館本線) 1977
旧国道の鉄道転用終端から先、斜面を上っていた部分も工事用通路として利用された後に法面へと改修されて痕跡は無い。けれど、1990年代半ばまではその経路が電線路に利用され辛うじて位置だけは知ることが出来た。
なお、取り残された大磯踏切の東側区間は永らく線路沿いに行き止まりの町道として残されていたが、最近には新たに構築の虻田漁港大磯分区への接続路に再利用されている。

強い西日に大磯の浜を黒岩トンネルに向かうのは5010D<北斗10号>。後追いである。
虻田市街地に隣接するのだけれど、あまり人の近づくことの無かったこの浜には多くのウミネコが羽根を休めていたものだった。今は漁港築造で失われた地点である。

[Data] NikonF3P+AiAFNikkor ED180mm/F2.8 1/250sec@f11 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1996

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現在の茨城県常陸大宮市辰ノ口に産まれ育った祖母の話には度々キツネが語られた。全て畑を荒らし家禽を襲った害獣としてであった。キツネ(これはホンドギツネであるが)は決して深山では無く人里近くに生息して、古来から人と接触を持って生きて来たのである。
これは開拓入植の始まって以来の北海道とて同じであろう。古くからの道民には馴染みの野生動物だったかも知れないけれど、1960年代の手稲の新興住宅地にそれの出没することは無く、キタキツネとの初対面はずっと時代の下った70年代半ばの道南七飯町内の山林だった。クマザサの中からこちらを見つめる姿に、てっきり痩せた野犬と思い込み警戒したのだけれど、畑に下ったところの農家の主からキツネと教えられたのだった。それ以降には樹林帯と言わず原野と言わず、ありとあらゆる場所でその姿を見かけるようになったから、彼らは80年代を通じて個体数を増やし、かつ市街地近くへも生息域を拡大したものと思う。一度だけだが、伊達紋別の駅前通りを犬宜しく出歩いている姿には我が目を疑ったものだった。

このキタキツネは津軽海峡に引かれたブラキストンラインを越えることはあり得ず、北海道以北千島・樺太の固有種とされていたのだが、暫く前に青森の県域紙、東奥日報に「県内でキタキツネを目撃」との記事を見つけた。それによると延長53850メートルの青函トンネルを伝って渡って来たものと推定され、北海道旅客鉄道の監視カメラにも、それがトンネルを通過したとは必ずしも判定出来ぬものの姿が捉えられていたと云う。
トンネルの貫通の頃だから30年ばかり前のこと、とある生物学者が将来には列車に付着しての昆虫類は勿論、両生類・爬虫類も次第に隧道内に進出していつかは反対側に達するであろうし、哺乳類個体の通過もあり得ると話すのをテレビ放送に見た覚えもあり、それの現実となったのである。おそらくは餌の野ネズミを追ってのことだろうから、それもとっくに本州に到達しているに違いない。まだ公式には確認されていないせいか、国立環境研究所の侵入生物デイタベイスに登録はないけれど、研究者によれば、内地の在来亜種であるホンドギツネとの交雑や生存競合も想定され生態系には由々しき事態としている。

このエントモ岬のトンネル手前、柴田踏切のあたりでは、そこに立つ度にツガイのキタキツネに出会った。例によって草薮に隠れながらも侵入者たるこちらを観察しているのである。夏前には子連れの姿も見かけたから、ここを住処にしていた夫婦のキツネだったのだろう。
ところが2000年を過ぎたあたりを境にぷっつりと姿を見せなくなった。調べてみると、90年代後半からセンコウヒゼンダニの寄生にて引き起こされる皮膚病である疥癬への集団感染が蔓延し、これにより相当の生息数を減らしたと在った。あの家族も罹患してしまったのだろうか。

柴田踏切で8002列車を撮ると、まもなくに日が暮れる。振り返れば茜空は夜の青色に溶け始めて、これを背景に3061列車をフィルムに収めるのを定番にしていた。
マゼンタ系への発色はPKLの得意とするところとは、コントロールにに苦労なさった向きならご承知と思う。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@5.6 Fuji LBA2 filter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1976

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鉄道作業局は、北海道官設鉄道の移管を受けた1905年度に、道内最初の事例として天塩線(現宗谷本線)の蘭留・和寒の両停車場へ双信閉塞器を設備し、この峠越えの区間に双信閉塞式を施行した。なお、当時に塩狩信号場(当初に信号所)は未開業である。

複線区間での同方向続行運転の保安に用いられたのが本来である、この閉塞方式の単線区間への転用は、1/50、即ち20パーミルを超える勾配の介在を事由としていた。
双信閉塞式とそれに用いられた双信閉塞器は日本で考案・開発された閉塞方式であり、複線区間での運転保安に新橋-品川間にて1899年より試用されたのを嚆矢とする。その閉塞器の実物は、かつて神田の交通博物館に展示されていたと記憶するが、箱形のそれの丸い表示窓に示される腕木状の表示器の45度の下向きもしくは水平にて閉塞区間の開通・非開通を示し、それは正に腕木信号機を模したデザインとされて中々に洒落ていた。これの一対が区間両端停車場に設備され専用の電信線にて電気的に結ばれるのである。双方の駅長(運転扱者)が規則に従って電鈴にて、必要の有れば専用電話にて打ち合わせつつ操作し、閉塞区間を一個列車に専用させ追突から防護した。詳しい構造や動作法には言及しないが、腕木の上下は永久磁石と電磁石の作用にてなされ、例えば到着側停車場でそれを確認の後に双方で操作しなければ、出発側閉塞器の腕木は下がらないような仕組みになっていた。双信式の謂われである。
あくまで複線区間での同一方向運転に対応した方式・装置であり、乗務員は自列車に占有の物証を持って防護区間に進入するでなく、また駅長による列車出発到着の目視のみにて閉塞器の扱われるなど、続行運転への扱いの利便を優先させて保安度は劣った。

従って、天塩線のごとき単線に対しては、既に施行中の票券閉塞式に加えてのことであり、両方式の併用が1901年10月1日付で施行の「列車運転及び信号取扱心得」に規定されていた。それは続行運転のあり得る幹線の急勾配区間における列車分離や逆走への保安度向上を意図してのことである。票券閉塞式のみでは、閉塞区間に1個のみの「通票」に替えて先行列車に「通券」を所持させての間隔法による続行運転が認められており、勾配線での万が一の分離・逆走車両の検知には相手方停車場への確実な到着確認を要した故である。
票券閉塞式に替えてタイヤー氏式タブレット閉塞器(当時の呼称、後に通票閉塞器)を導入すれば同等の保安は達成されるが、双信閉塞器はそれより遥かに低廉でもあった。

1907年度の帝国鐵道庁年報に見れば、北海道帝国鉄道管理局の管轄線に双信閉塞器は44台の設置とあり、閉塞区間とすれば22区間であろう。具体的設置個所の記載はないのだが、同年7月に買収した北海道鉄道線の駒ケ岳山麓区間や渡島半島基部縦断区間、9月に開業の釧路線落合-新得間など当時の急勾配区間への導入は、ほぼ完了していたと読める。
けれど、1910年度の鐵道院年報では36台/18区間へと減少を見せ、早くもタブレット閉塞器への更新の始まったことが知れる。それの国産化により導入経費の低下したゆえであろう。以後に道内線のみのデータの無いが、おそらくは1910年代後半までには一掃されたものと推定される。急勾配線に、あくまで一時的な保安設備だった双信閉塞器だが、本来の複線区間用途には1965年まで生き延びた。

写真は、塩狩構内へと上る324列車の後ろ姿。角形の背板は塩狩の遠方信号機である。
宗谷本線における腕木式を廃しての色灯信号は1965年3月22日に全線での使用を開始している。閉塞方式の連査閉塞式施行に歩調を合わせてのことであった。この方式は通票閉塞式からの転換を低コストで実現するものとして開発され必ずしも色灯化を要しないのだが、要員合理化や保守コスト低減、積雪地域などでの通票授受解消も目的にしていたから、それとの同時施行事例が大半であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

植苗 (千歳線) 1967

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蒸気機関車は石炭が無いと走れない。国鉄は戦後数回に渡り、実際に石炭の無くなって計画運休の列車削減を余儀なくされたことがある。

アジア太平洋戦争下で重要な戦略物資として増産の重ねられていた出炭は1945年8月の敗戦とともに激減し、その年の11月には月産55万トンにまで落込む。それは、この当時の国有鉄道の一ヶ月の使用量さえ下回る生産量であった。
敗戦直後の国有鉄道は全国の貯炭をかき集めて運行を確保し、激減した出炭の90パーセントの配炭を受けていた。つまりは出炭をほぼ独占して使用していたことになる。
しかしながら産業の復興とともに次第に制約を受け、1946年の冬期に至って遂に需給を賄いきれずに1947年1月4日より暖房炭に余裕を生ずる4月27日まで急行列車の全てを含む、旅客・貨物列車の大幅な運休に追い込まれたのだった。これを国有鉄道の第一次石炭危機と呼ぶ。その時点での鉄道75年の歴史で前代未聞の事態であった。
1947年度には出炭の増産の図られたものの、産業界での需要増がそれを上回り、国鉄も夏期に貯炭に務めるもその冬の暖房炭需要とともに再び需給不足に陥り、1948年1月から3月にも列車削減に踏み切らざるを得なかった。第二次石炭危機である。
この2年連続での異常事態に、国鉄はありとあらゆる石炭節約策は勿論のこと乗車券の発売を制限するなど旅客列車運行の抑制に努め、1948年夏過ぎには2年前同時期の12万トンに対して32万トン余りの貯炭確保に成功し、冬期の通常運行に目処を付けたのだった。続く、1949年度となれば出炭量も年間3700万トンまで回復、ほぼ月間の使用量に見合う入手の可能となり、月毎の貯炭も30万トン台を確保して危機を脱していた。

ところが、その4年後に思わぬ事態に巻き込まれることになる。1952年10月から年末に掛けて打ち抜かれた、日本炭鉱労働組合が資本と対決した大争議、所謂「炭労スト」である。
この講和条約発効後の主導権獲得を賭けた労働(日本労働組合総評議会)と政府・財界との激突に関しては、労働運動史に譲るが、あおりを受けた国鉄は、まずは北海道内において11月21日より列車キロベイスで旅客列車(混合列車含む)の12パーセント、貨物列車の25パーセントの削減に追い込まれたのである。これによる石炭の節約量は一日あたり440トンであった。炭鉱を抱えた北海道では、それゆえに平常に多くの貯炭を持たぬことが仇となり、11月20日時点で9日間分の25000トンに減じ、本州側から石炭を逆送して凌ぐ状況に陥っていたのである。青函連絡船は17運航を14運航に減ずる措置がとられた。
計画運休は一週間後の11月28日に内地に拡大され、同じく列車キロベイスで旅客の8パーセント、貨物の10パーセントを削減、道内では旅客列車運休が強化され14パーセントに及んだ。国鉄当局は争議解決の見通しの立たないとして、さらに12月11日より全国で旅客の28パーセント、貨物の33パーセントの運休を実行、次いで同月20日過ぎには旅客貨物ともに56パーセントまで削減する計画を立案していたのだが、この異常事態を看過出来なくなった政府は12月16日夕刻に至ってストに対する緊急調整発動を閣議決定、炭労・総評側は国家の強権介入を引き出したことを勝利としてスト中止を指令したのだった。
これを受けては、18日より優等列車の一部に道内旅客・混合列車の一部を復活するが、急激に集炭の進むでなく、年末始の帰省輸送の事情も加わって完全な復活には翌年1月一杯を要したのだった。
全くに石炭が無ければ列車は走らない。運転動力の大半をそれに依存していた時代の出来事である。

千歳線の植苗には、この後も何度か降りるのだけれど、この(二代)北海道鉄道由来の下り線(上り列車運転線)を撮った記憶はあまり無い。これと云った位置は無かったのである。
写真は、澄み切った冬晴れの下を往く1792列車。線内貨物を集配した苗穂から苫小牧操車場への解結貨物列車であった。
蒸機の時代、線路端を歩くと随分と石炭が落ちていた。山積みする運炭の貨車からと思っていたのだが、覆いの無い炭水車からも落下していたのである。この機関車からも、たまたまカメラ直前にそれの飛んで来て肝を冷やした。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

斜内 (興浜北線) 1981

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午前3時に音威子府で下り<利尻>を凍てついたホームに降りれば、向かい側に天北線始発列車の据付けられているのは有り難かった。それには運用車送込みを兼ねた興浜北線直通北見枝幸行きが組成されて、6時には斜内へ到着する。誰もいない車内に駆け込み直ぐに睡眠の続きとしたものだった。

1月半ばの北オホーツク岸の朝は冬至をひと月程過ぎたとは云え、まだ夜明け(常用薄明)に至らない未明である。外が吹雪いていようものなら、そこにひとり気動車を降りるには勇気の要った。氷点下の冷気に照度の上がらない蛍光灯の薄暗い待合所に逃げ込んで風雪を凌ぐけれど、枝幸から折返して来る列車は7時なので、神威岬の燈台へ向けてはすぐにでも歩き出さねばならない。昨夜来の積雪に地吹雪の様相の国道を急ぐのも難儀には違いなかった。
けれど、そうでもしないと、この北辺のルーラル鉄道には撮影チャンスの確保が出来なかったのである。神威岬に列車のやって来るのは、この7時の上りの後には8時・9時と12時・13時に通過する一ヤマずつに15時半の下りの計6本、日没を過ぎた17時前のそれの折り返しはもう撮れない。
午前中の3本で切り上げ、11時の宗谷バスで浜頓別へ引揚げも出来たけれど、それから稚内方面に移動したとしても今度は撮るべき列車のなくて、結局は一日を斜内山道で過ごしたのだった。
とは云っても、訪れる度に風雪の吹き荒れた神威岬である。2度の3時間近いの空白には駅待合所までの避難も考えたものの、そこへ往復するのも面倒に思え、結局は風の岩陰に身を縮めてやり過ごすのを選んでいた。
長い列車間隔の暇つぶしにはならぬにせよ、持参の断熱シートを尻に敷いて座り込み、いつものように固形燃料で湯を沸かしてコーヒーをドリップすれば、それはそれで最高の贅沢に違いなかった。ただし、低温と回り込んで炎を乱す風には、燃料の浪費と引換えである。

夕刻の近づいてようやくに強風の治まった中を北見枝幸へと走り去るのは927D列車。スノウプラウの雪掻きでようやくに線路が現れた。
これの折り返しにて浜頓別へ戻るので、手早く機材を撤収せねばならない。
ここで、丸一日を風音と波涛の響きを聴いて過ごすと、帰りの夜行で眠ろうにも耳鳴りのして困ったものだった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

追) この記事より、しばし予約投稿です。

苗穂 (函館本線/千歳線) 2001

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酒に負けず劣らずビール好きでもある。
呑み始めは、当然に当時にはそれしかなかった国内4大醸造会社の定番銘柄だったけれど、まもなくにアイルランドのスタウトやらベルギービール、ドイツのヴァイツェンやケルシュを知ると国産ビールは物足りなくなってしまった。特にギネスのスタウトは今に至るまでのお気に入りで、これに初めて接したのは特急の食堂車だった。知り得る限りの1970年代から食堂車には必ず積込まれており、車窓を眺めながらは至福の一杯でもあった。

ビールに限らず、酒とは本来には地域毎に小規模な酒造所の所在してそこの住民達に供給するものだった。日本でも、外来酒であるそれの移入黎明期の1890年頃には主要な消費地だった都市部を中心に100箇所ほどの小規模な醸造所が稼働したらしいのだが、1900年に勃発した北清事変への参戦を契機に酒税の課せられると、それらは淘汰され、国内のビール産業は数社の大規模醸造会社による寡占が始まるのである。
これは日本の麦酒呑みには不幸だったと云わざるを得ない。それぞれが全国を市場としての数社間での競合では必然的にビールの多様性は失われ、どこの醸造所も下面発酵のピルスナータイプに収束することとなったのだった。加えては、日本人の味覚や嗜好に合わせるとの事由にてコメ(屑米)やコーン(粒や粉)を副原料に用いた軽い吞み口に画一化するに至った。 
それを日本型ビールと云えば聞こえは良いのだけれど、伝統的ビールを知ってしまえば香りも濃くも遠く及ばず水っぽさだけが目立ち、日本へのビールの定着は失敗だったと思ったものだった。
以来に、それはビール風アルコール飲料と割り切って飲む内に、福音は1994年の4月にやって来た。酒税法の改正により小規模醸造が認められたのである。全国各地に醸造所を生んだこれにて日本のビールは多様性を取り戻し、麦酒呑みの楽しみは広がったとして良かったのだけれど、それらは販売に苦戦を強いられることになる。
少量生産ゆえの高価格も一因であろうが、何よりは消費者側が先の日本型ビールに馴らされてしまい、基準となるべき本来のビール(の味)を知らぬことが大きかった。
伏線は1987年にアサヒビールが発売のスーパードライにあった。これは爆発的な販売高を記録し、各社が追随して90年代に掛けてドライ戦争とまで呼ばれた販売合戦が繰り広げられたのだった。限りなくビールを逸脱したこの手の不味い飲料の横行した市場での小規模醸造の苦戦は眼に見えていたとも云える。余談になるが、これで利を得た大手醸造各社は、小規模醸造所でのオールモルト醸造を逆手に取り、自社のそれを高級品としての定着にも成功してしまうのである。プレミアムビールと称される一群であるが、それとて水っぽさには日本型の範疇を出るものでは無い。

1966年に大手の一角、サッポロビールが札幌工場内に開いた「サッポロビール園」は、この手の飲食施設の走りであろう。ここで当初に供されたのは専用に醸された、彼の「ビール純粋令」に忠実なドイツビールであった。サッポロを冠した醸造会社の地元での矜持だったと思える。ビールを飲み始めた頃には製造されなくなり、残念ながら口にしたことは無い。けれど、以降にもここでは工場内と云う地の利を活かして流通製品とは異なる少量醸造のビールが供されて、熾烈な販売競争を続けていた大手サッポロビールの良心だと思っていた。食べ放題のジンギスカンばかりが強調されるも、確かにビール呑みに応えてくれていた施設だったのである。

ここは、かつてに工場へ専用線が通じていたように苗穂駅から地理的には至近の位置なのだが、それ自体と鉄道工場などによる南北分断にて、交通の利便は札幌駅からになる。それを最寄り駅は苗穂などと記したガイドブックが存在したものかは知らぬのだが、数年前に駅から上白石橋へと歩く途上の東苗穂架道橋のところで、東京からと云う女子大生グループに呼び止められ、ビール園への道順を尋ねられたことがある。そこまで歩いてしまった以上、鉄道工場の外郭に沿って進み 4車線の北八条通りに出たら左へひたすら歩けと教えたものの、3キロ強の徒歩には小一時間を要して、随分と遠いところと思ったことだろう。
当時でも、歩くなら東11丁目の人道跨線橋を往けばゆっくりと歩いても30分も掛からずに到達したけれど、札幌アリオを通り抜けられる今ならもっと早い。もう苗穂を最寄り駅と書いても良さそうだが、当のビール園の案内にもそれは無い。

写真は、苗穂東方の函館桟橋起点290キロ付近を往く8002列車。
画角の何度かの既出をお詫びする。渡道の度に、この位置には立っていたのである。札幌の紅葉黄葉ヴァージョンにてご容赦願いたい。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/200sec@f5.6 PLfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

曲淵 (天北線) 1986

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この駅に降り立ち駅名標を眺めれば、そこには「稚内市」と記され、些か意外だった覚えが在る。平成の大合併とやらで広域に及ぶ自治体の珍しくもなくなった昨今ならいざ知らず、線路は南稚内まで32キロ余りを残していたからである。
この地は1879年に開拓使が宗谷郡を置いた際、声問村戸長役場の管轄区域に含まれた。宗谷湾岸声問川の河口付近に漁業者と思われる和人の定住が在り、その集落に先住民族による地名 koy-tuyeに声問の字を当て村名としたものだが、声問川の上流域に向けては宗谷丘陵に至るまで無人の原野(上声問原野と呼ばれた)が続いていたゆえだろう。1900年7月1日付で施行の北海道一級市町村制(1900年5月19日内務省令第19号)にて稚内村が指定されると抜海村と共にその一部となり、声問村の名は大字として残された。稚内が村から町、そして市へと改められた1949年4月1日以来、稚内市大字声問村字曲淵なのである。大字としての旧村名の存続は先の内務省令によるが、その後の改正で「村」を省略ないし廃する例が大半の中、ここではそれが現在まで残るのが珍しい。

そして、曲淵の地名はこの鉄道停車場名からの派生である。ここは、鬼志別まで達していた宗谷線の最終区間として1922年11月1日に稚内(現南稚内-但し位置は異なる)までを開通した際に、閉塞距離のある宗谷丘陵越え区間の西側に行違い設備を要して上声問原野の只中に設けられ、そこに集落なり人家の存在したでは無かったのである。命名者は知らぬが「北海道駅名の起源」(1939年鉄道省北海道鉄道局編)によれば、付近を流れる「ウベ、ウタン川」(宇流谷川を指すのだろう)の「淵を成し」且つ「甚だ湾曲」した流れからの付名とある。鉄道職員の居住に稚内町も、この年に大字声問村に曲淵の字を置き、鉄道を頼りに入植者や林業従事者の定住が始まって次第に集落の形成されたのである。
ここには、1940年に天北石炭鉱業が稚内坑(通称-稚内炭坑)を、宗谷炭礦が曲淵坑(通称-宗谷炭坑)を開き、戦時下には軍部による炭油抽出の指定坑として盛業し、戦後1950年前後の最盛期にはそれぞれが年間7万トンを出炭していた。その輸送に天北線の用いられたのは云うまでもなく、両坑のホッパまで専用線が引込まれていた。当然に炭住街が成立し、炭坑従業員だけでも500人を越える人口を抱え、多くの飲食店に劇場も営業する「街」であった。稚内との人的往来も盛んであったと思われ、天北線に最後まで残った稚内-曲淵間列車設定はその名残だったろう。
1958年に稚内坑が、1963年に宗谷坑が閉じられると個人経営の赤松炭坑による露天採炭が細々と続けられたものの、集落は衰退し、2010年国勢調査データでは61世帯113人が暮らすのみである。

夏の訪問で虻の大群に集られて散散だった線路沿いの林道へは、その秋に再訪した。→小石-曲渕 (天北線) 1986
高い緯度での紅葉黄葉に選んだ時期は、まだ尚早だったのだけれど、今度はゆっくりと心地よい林道歩きを楽しめたのだった。
列車は、勿論304列車<天北>。

余談だけれど、Web上に散見される、この駅が開業時に「曲渕」と名乗ったとか、読みを「まがりぶち」とする記述は誤りである。この区間の鉄道運輸営業開始の告示(1922年10月27日鉄道省告示第144号)に記載の通り、開業時より「曲淵」であり、曲渕であったことは一度も無い。読みも「まがりふち」とルビの振られている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1968

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現在に釧網本線を構成する線路は、1921年4月1日付にて鉄道省北海道建設事務所の所管となり、線路設計に着手されている(1921年鉄道省告示第39号)。
これの鐵道院による調査・計画段階にて北見国側の経路は上札鶴(現緑)から小清水経由であり、そこから網走までは古樋(現浜小清水)にてオホーツク岸に達して西進する海岸線としながらも、稲富を経由して呼人で網走線に接続とする内陸線も比較線として保持していたことは、以前の記事 北浜 (釧網本線) 1971 で述べた。
それは海岸線の網走から鱒浦の間が、網走川河口近く右岸に終端駅として位置した当時の網走からの分岐に市街地南側の迂回線形となり、ここの段丘に延長527メートルの隧道を要し(現網走トンネル)、鱒浦までの段丘崖下の経路にも84.5メートルの隧道(於将府隧道/現鱒浦トンネル)に加えて、多くの法面防護工と護岸工を要するにかかわらず、崩壊性の地質には難工事が予想されたのに対して、内陸線は東藻琴付近に500メートルの、中園付近に800メートルの隧道掘削が想定されたものの、地質は良好で施工に難は無いとされていたからである。
しかしながら、これも以前に記したとおりに、斜里村に大規模農場を所有していた三井財閥の政治力により、この線路を斜里経由とする『北海道鉄道敷設法』の改正が1919年に為されて、内陸線案は放棄されたのだった。

線路選定を終えた網走-斜里間は、網走線の工事線名にて1922年12月に網走-北浜間を第一工区、斜里までを第二工区として着工された。「釧網線建設概要」(鉄道省:1931年9月)には、隧道を含んだ第一工区の工事は難行したと読める。泥岩の網走隧道の1メートル当り建設単価の709円、砂岩の於将府隧道の809円は、後の釧北隧道の290円を遥かに上回り、この第一工区の1メートルあたり竣工単価(建設費)の82円92銭は、大規模な地盤改良を要した釧路川流域泥炭地帯通過の細岡-塘路間(釧路第二工区)の50円82銭を越えて、この路線の各工区中最も高額でもあった。
意外にも思えるが、釧網線工事の中で資材も人手も要した難所は網走-鱒浦間だったのである。そればかりか、開通後にも段丘崖法面の崩落や浪害を受ける災害区間ともなってしまった。資本の横暴が国費を浪費したばかりでなく後々まで禍根を残した悪例の見本として良かろう。

定番の北浜橋梁を往くのは混合633列車。
牽いているのは、切欠きデフレクタから釧路機関区のC58385と知れる。その後藤工場式G2型デフレクタは後にC5833に譲られたとはご承知のことと思う。
この濤沸川橋梁の他にも止別川や斜里川の河川をはじめ原野から流れ込む小水流への架橋が多かったけれど、ほぼ平坦地への敷設にて土工量の少なかった第二工区の竣工単価は16円29銭であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1982

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春立 (日高本線) 1971 の続きである。

線区別経営による対象線区の合理化が進展する最中の1964年度、国鉄は初めての赤字決算を計上し、以後にその額の累積するばかりには、経営の建直しは喫緊の課題とされて往く。全国規模での駅運営体制の刷新が求められ、その合理化、即ちは運営経費の削減が本社主導の下、強力に推進されるところとなった。管理局が線区単位に総合的計画を策定し実行したそれは「営業(体制)近代化」と総称された。
1970年度を初年度に結果的に国鉄の解体まで継続されたこの政策は、地域交通線に限らず幹線に都市交通線までが遍く対象とされ、それぞれの線区に応じた施策の施行により、地方幹線・地域交通線上においては要員無配置駅の爆発的な増加を見たのであった。1968年度に設置の高山本線で経営改善効果の確かめられた運転へのCTC制御方式の導入がそれを後押ししたのではあるが、その非導入線区においても貨物扱の廃止や列車削減を前提の閉塞区間統合により要員の撤収が進められた結果でもある。
実際の運用には線区や地域事情の考慮されたものとは思うが、1970年当時に本社の提示した要員引揚げ、無人駅化の目安は、一日平均の乗降客数の1500人以下とされ、それの800人から1500人の駅は「業務委託」の対象に、800人以下についても「簡易委託」とする方針が示されていた。低下したとは云え地域輸送に一定のシェアを確保していた当時、まだ窓口閉鎖には慎重だったとも受取れるが、予想される駅勢圏地元住民の強い抵抗を想定しての懐柔策でもあったろう。これには、自動車線駅の業務委託に実績の在った国鉄の外郭団体である日本交通観光社(日交観)を、鉄道からの要員の出向や退職者の再雇用促進などにより鉄道駅の受託に誘導し(これは1960年代からのことである)、また「乗車券簡易委託発売基準規程」(1970年9月28日旅客局達第201号)を制定、個人などの受託も想定した規定整備もなされていた。
国鉄監査報告書に拾えば、当初目標とされた1972年度までの3年間で697駅が「停留所」化され、165駅が業務委託駅となっている。「停留所」の中で乗車券類簡易委託販売の行われた個所数は記載されていない。

以下に「営業(体制)近代化」の一例として羽幌線の例を述べる。
ここは、道内の地域交通線における初期事例であり、築別-幌延間が1970年9月7日付にて、以南区間が1972年2月8日付で実施された。駅の営業体制の変更は以下のとおりであった。

要員配置を継続 : 小平・古丹別・苫前*・羽幌・天塩
業務委託**を継続 : 築別
業務委託化** : 鬼鹿・初山別・遠別
簡易委託化 : 大椴力昼天塩有明豊岬更岸北川口
業務委託***解除-簡易委託化 : 丸松
業務委託***解除-無人化 : 三泊臼谷上平
無人化 : 歌越振老
* 1973年10月改正時に業務委託化。受託者は不明、日交観では無い。 ** 日交観 ***受託者不明。丸松・歌越は日交観と推定。

線内の要員配置駅中の15駅でそれの引揚げられ、要員69名を削減と記録に在る。下線を引いたのは、この際に行違い設備を撤去した駅、斜体が従来からの棒線駅を示す(これ以前に撤去された駅を含む)。簡易委託化・無人化としたのが、国鉄の云う「停留所」に該当する。
日交観への委託個所では駅務長の下に駅務員がそれまでと変わらぬ業務を遂行したから、販売乗車券類の発行駅名に付された記号を見ない限りは国鉄の直営駅と区別は付かなかった。簡易委託でも販売員が列車の着発時間前後には旧駅務室に詰めて、駅本屋の完全に無人となったのは全21駅中の5駅に留まったと分かる。
この例のように、利用者の利便を最大限に確保しつつ実施されたのが、この時代の「営業(体制)近代化」であった。1970年代は、多くの駅に(広義の)駅員の所在を認める鉄道駅本来の姿の見られた最後の時代だったと云えよう。そして、その様相は1980年代に至ると一変する。
(この項つづく)

初秋の透き通った朝、第三金駒内陸橋を往くのは851D、幌延行き。後追いである。
日交観には独自の制服の定められず、それは国鉄のものを着用していたから外見上に業務委託駅とは全くに区別出来ない。この頃の初山別駅務長は地元の出身と伺い、このような里帰り人事も可能な限り便宜を図って貰えたと聞いた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 NON filter ri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 2010

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ウトナイ湖は、ご承知のとおり海跡湖である。約4万年前と云われる支笏火山の大噴火にて形成された火砕流台地に水流が深い浸食谷を刻んだ地形へ、約8000年前の縄文海進期に海水の浸入して溺れ谷となり、やがては海蝕により約7000年前に「古勇払湾」が形成される。ここへは強い沿岸流により砂が堆積して砂丘や砂州へと発達し、約3000年前に始まる海退期には徐々に閉塞の進んで、汽水の「古勇払内湾」から「古勇払湖」を経てウトナイ湖や遠浅沼に丹治沼、弁天沼を内水面に残し、苫小牧川、勇払川、美々川などの谷底平野に後背湿地を生じたのだった。
この海退、閉塞の過程にて安平川以西で太平洋に注ぐ河川の運んだ大量の土砂が、安平川河口を扇の要に砂州・砂堆を列状に形成して往き、陸地となった勇払平野には多くの砂堆列が残された。苫小牧市史によれば、「勇払の市街を基点に一本松附近を中心に9本が、かつては確認され」「最高標高約9m、平均8m程度の高度を持ち、1本の長さは8km、幅 20mぐらい」であると云う。苫小牧市街地や苫小牧新港後背の臨海工業地帯はそれを取り崩して立地したのである。
今には人工的に合流させられ直線で海に注いでいる有珠川(マーパオマナイ)や苫小牧川(マクオマナイ)は、この砂堆に行く手を阻まれ海岸沿いに東流して、ようやくマコマイに河口を持っていた。現在に真小牧の字名の残る真砂町付近である。東流の途中、砂堆列の谷間に幾つかの沼を生じて to-mak-oma-nay(沼のマコマイ)と呼ばれ、苫小牧の地名由来ともなっている。

市史の云う9本の砂堆列の最も内側は沼ノ端市街地付近を東西に伸びていたのだが、より内陸のウトナイ湖近くにも小規模な砂丘列の数本が確認されている。ウトナイ湖はその北側の完新世段丘と呼ばれる、低地との比高1メートル程度の海食による段丘とその南側に形成された砂州(砂丘)に水面の封じ込まれたものである。陸地化の早かった段丘面や砂州間の谷に残った湿地には泥炭の堆積が進み湿原の形成されるに至った。
その南岸の砂丘列は現在にも残り、最新の衛星写真にも明らかな植生の相違に確認出来る。ミズナラの樹林の中で、ここだけはハンノキなのである。1970年代までなら地表の露出していたらしく、空中写真には白色に捉えられていた。そして、千歳線に室蘭本線は、勇払川橋梁の北側でその中央部を貫通している。遠大な年月には風化の進んで平坦化し路盤工事を障害するでは無く、両線とも全くのレヴェル区間である。

写真は、千歳下り線(上り運転線)の勇払川橋梁上での2082列車。強い西日を正面から浴びている。
この札幌貨物ターミナルから苫小牧貨物までの集配列車は、永らく機関車次位が回送コンテナ車で写真には様にならなかったのだが、この年の3月改正でようやくに解消されていた。
ウトナイ湖からの美々川周辺に至る落葉樹の中に巡らされた細道を歩けば、足元は確かに砂地混じりだったことを思い出す。それが7000年から6000年も前からそこにあるとは、どうにもピンと来ない。

[Data] NikonF5+COLOR-HELIAR 75mm/F2.5SL 1/1000sec.@f2.8 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

春立 (日高本線) 1970

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国有鉄道線における無人駅の始まりは承知していない。けれど、旅客運送にかかわる規則が体系的にまとめられた最初の事例である1920年の「国有鉄道旅客及荷物運送規則」(1920年10月25日鉄道省告示第99号)を受けて同年12月に制定の「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の第17条には「車掌携帯用片道乗車券」の規定を置いて、条文に「駅員無配置駅」の文言が見られるから、この時点で少数例にせよ無人駅の存在が伺われる。
当時の文書では「定員を置かない」と表現される要員無配置駅の明確に現れるのは、1929年からのガソリンカー運転に際して営業戦略上に置かれた通称のガソリンカー駅(後に気動車駅と呼び替えられる)である。これらは公示に依らず鉄道局長の公告にて設置の事例も多いのだが、公示された例を官報に拾えば(一例として東北線仙台付近)、「旅客ニ限リ取扱ヲ為ス」との記載にそれと知れる。その前段には着発する旅客扱いの区間も限定されており、車掌による車内発券に配慮したものであろう。それらガソリンカー駅として開業の中にも、小荷物に手荷物を扱った要員配置駅の例もあって(一例として室蘭線母恋駅)、無人駅とは極めて特殊な例外だったと知れる。
その例外が一挙に増加するのは戦時下の『陸運統制令』(1940年2月1日勅令第37号/1941年11月15日勅令第970号にて改正)に基づく私設鉄道の買収の結果であった。そこには簡素な乗降場だけと云った多くの無人駅が含まれていたのである。また、買収私鉄4社の路線にて構成の飯田線にはそれに加えて会社の直営しなかった20駅が存在し、これをそのまま引継いだ国有鉄道には、定員外のこれらが業務委託駅の最初の事例となっていた。

戦後1949年に発足した日本国有鉄道が早速に直面した問題のひとつが、全国に数多存在した非採算線区の運営であり、対策として選択されたのが線区別経営だったことは、内地版の 大湊運転区 (大湊線) 1973(2014年7月20付記事) に書いた。
それの具体策として、1950年代から60年代に続々と設けられた管理所や運輸区、管理長制度下での経営改善とは、とどのつまり線区運営の合理化・簡素化であったから当然に管轄駅の運営形態に踏み込むこととなった。ここで行われたのは要員の削減を意図した諸施策であり、駅長を廃しての管理駅化、特殊勤務の拡大など勤務体制の見直し、夜間運転のなければ当直勤務の廃止、駅作業の整理、一部業務の外注化などは勿論のこと、究極には閉塞扱いを廃しての要員引揚げ、即ち要員無配置化であった。この後に続く駅からの要員退去、停車場の無人化はここに始まったのである。国鉄はこれを部内でも対外的にも「停留所化」と呼んだことは 稀府 (室蘭本線) 2011 に書いている。
しかしながら、閑散線区と云えど、地域の生活や経済活動は駅の所在を前提に営まれていた時代であり、外部委託による営業フロントの維持は望まれたのだが、実現したのは一部に留まった。国鉄が1954年9月に告示した「乗車券類委託販売規程」(1954年9月9日日本国有鉄道公示第262号)に「乗車券類委託販売細則」の総裁達ではそれの認められず、施行には駅業務を一括した業務委託を要したからである。その実際は運輸帳票類の作成や報告等事務手続きの煩雑に、決して閑散線区小駅での受託の容易いものでは無く、これは線区別経営による合理化推進の障害ともなっていた。
なお、本記事には先の 初田牛 (根室本線) 1971の記事もご参照頂きたい。

(この項 初山別 (羽幌線) 1982 につづく)

道内における線区別経営は、瀬棚線・胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線の各線区で実行された。
日高本線と富内線を運営した日高線管理所は、1959年11月1日に静内駅構内に設けられ、200キロを越える管轄営業キロに、職員定員の592名(発足時)は線区別経営体として全国でも有数の規模であった。ここでも上記のごとき駅運営の合理化は進められたのだが、当時に線区の置かれた環境から要員引揚げは3駅に留まり、共に閉塞扱いを廃した上で業務委託化されたので窓口の閉鎖駅は生じなかった。

写真は東静内への小さな峠越えに向かう1892列車。様似から静内への区間貨物だった。
春立は、この当時にも行違い設備を持った一般駅である。こじまりとした質素な駅舎は、1930年代に鉄道省により建設されたこの区間各駅に共通の設計であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

門静 (根室本線) 1981

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撮影に出ると、例えそれが周遊乗車券の二週間から三週間は在った有効期間を目一杯に使う行程だったにせよ、ただひたすらに鉄道を撮っていた。本業との兼ね合いから短期間の渡道を繰返すようになれば尚更で、あれだけ渡道を重ねて置きながら観光地を知らない。様似までは乗っても襟裳岬には行ったことが無く、川湯に何度降りても屈斜路湖も摩周湖も見たことは無い。最も鉄道線路から離れたのは、宿泊に二股のラジウム温泉を選んだ時くらいだろうか。
撮影自体も「鉄道」と一口に云っても、正確には列車の在る鉄道光景ばかりであり、ついでの風景や旅のカットなどは当然に、鉄道情景のスナップすら満足に撮っていない。当時には、道内なら札幌でしか手に入らなかったTri-Xのコマを節約せねばならない事情もあったとは云え、今に思えば些か惜しいことをしたものだ。駅本屋(駅舎)も同様で、当初には余程に特徴的だとか、光線の陰影が良いなどの条件が無ければ撮らなかった。必ず記録を残すようになったのは無人駅の増え始めて、訪問の証の入場券が手に入らなくなって以降のことだった。

幾度か降りていた門静は道内のルーラル駅らしからぬ造りに記録していたものと思う。調べてみればそのはずで、これは戦後まもない1947年の建築であった。そのような時期に改築を要した事由は調べ得ないが、公共企業体日本国有鉄道の発足前であり、設計に施工は運輸省鉄道総局の管理下ということになる。
北海道型とも呼ばれた重厚な駅舎建築とは決別して、戦前期のモダニズムの余韻をも感じさせるのは、互い違いに設計された屋根だろうか。線路側に傾斜する屋根が一段高く掛けられ、その段差間の白い漆喰が板張り外壁とコントラストを見せるファサードの、写真では木板で塞がれてしまっているけれど、そこに通風窓を設けたところも洒落ていた。高さ方向の開口を大きく取った窓も特徴的で、上下二段に分けられたそれの上部は、当初には桟の無い一枚硝子が用いられたと思われる。これも残念ながら上部の塞がれてしまうが、竣工時にはモダンな佇まいだったことだろう。戦時下の抑制を解放したかのようなデザインは札幌鉄道局ではなく、やはり本局でのそれに思える。
砕石搬出の専用線の接続して詰める職員も多かったものか、駅務室の広く取られて堂々とした本屋だった。
これは2003年には失われてしまうのだが、1950年の厚岸を挟んでその先の糸魚沢の改築に際しては、間口を縮小しただけの同設計が流用され、こちらは現存している。但し、そのファサードの屋根の窓は採光窓だろう。
なお、写真では駅務室に休憩室窓がアルミサッシに更新されて見えるけれど、これは保温目的で窓を二重化した外窓であり、内側には本来の木製窓が健在であった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/125sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1971

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宗谷本線の旭川起点251キロ地点は、かつてには南稚内に列車を降りて線路伝いに延々と歩いて到達する位置だった。坂の下まで宗谷バスを利用し、比高40メートルばかりの斜面下まで歩いて、そこに取付けられた保線用タラップを昇る手もあったけれど、バスの南稚内から日に2本だけの運行には使い様もなかったのである(稚内からノシャップ経由なら9往復があったが50分程を要した)。
けれど、最近の鉄道撮影ブームとやらではタラップ下に自動車で乗り付けるのが大半であろう。その手のお手軽撮影者は斜面にクマザサをかきわけてポイントを採るのを嫌って線路端で済ませる事例の多いものか、この地点には「立入り禁止」の札の建植されてしまっているらしい。それ自体は田畑の畦が線路を横切る位置に呪文のように建てられていた「線路内横断禁止」と同じく、鉄道側の免罪符に過ぎないものの、ここで線路端に立たれてしまうと背丈程のクマザサと格闘する写真屋の画角に入り込み、その苦労が無に帰すのも事実である。

この施工基面高42メートルの位置からの景観は、海上遥か利尻の島影をさて置いても雄大な眺めとして良い。眼下に見通す北の西浜から南の抜海に至るまで10キロあまりの海は、坂の下湾と呼ばれるらしいのだが、その緩やかな海岸線には呼称はあるのだろうか。
そこは環境省の公開している2万5千分の一植生図によれば、立ち位置一帯を覆うクマザサ群落は道道までの急斜面に尽きて、それに沿うようなミズナラ群落、その外側の低層湿原にヨシ原が続いて、海岸の砂丘地はハマナス群落とある。2006年の調査に基づくと云うが、この当時は云うに及ばす、太古から何一つ変わってはいないだろう。
それは1970年以来幾度となく眺めても、距離感を喪失する光景でもある。地図上に海岸線までは直線で400メートルあまりと読めるのだが、建物のひとつも人影すら見当たらないそこに比較するものがないものだから、いつも指呼の間に、海まで手の届きそうに感じられてしまう。

前の年の初訪問で透き通った天候に恵まれ、気を良くして翌年にも再訪したものの、利尻島の望めぬのなら画角を変えるしか無い。
R=302の急曲線でサミットの251K096Mに差し掛かるのは324列車。夏場なので、絶気となれば白煙もない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

大岸 (室蘭本線) 2009

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1928年9月10日の長輪線(現室蘭本線)の全通は、長万部-東輪西(現東室蘭)の短絡に留まらず、岩見沢へ最急勾配の10パーミルに抑えられた線形による定数の向上は全道の貨物輸送に一大変革をもたらす出来事だった。道内各地域は勿論のこと樺太からも内地に至る輸送能力は大幅な拡充を見たのである。

旅客列車についても函館桟橋-岩見沢間は7.2キロと僅かな短縮ではあったのだが、同日の時刻改正により根室行きを振り替えた函館桟橋-稚内間急行203・204列車が長輪線室蘭線経由にて運転された。一等寝台車・食堂車を組成した樺太連絡急行である。
噴火湾北岸の峻険な地形を断崖中腹に連続する隧道で貫いた車窓は、垣間見る風光が評判ともなったものだろうか、当時に多くの旅行者を惹き付けた様子である。
開通当初の1931年5月から6月に各地での講演のため北海道を訪れた与謝野寛・晶子夫妻は、その帰路に洞爺湖に遊んでの函館までの車窓から噴火湾の風景を、
 「有珠の峰 礼文の磯の大岩の ならぶ中にも我を見送る」 与謝野 寛
 「数しらね 虹となりても掛かるなり 羊蹄山の六月の雪」 与謝野晶子
と詠んでいる。
また、翌1932年8月には斎藤茂吉が、弟高橋四郎兵衛と同道しての中川村志文内(現中川町共和)の志文内診療所で拓殖医を勤めていた次兄守谷富太郎を訪ねる旅の途上、礼文華付近の車窓に、
 「白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ」
の歌を残した。

その噴火湾北岸に位置する豊浦町は、これらが詠まれた車窓風景とされる礼文華海岸の、道道608号大岸礼文停車場線の岩見隧道出口付近に、それぞれの歌碑を建立し周囲の2769平方メートルを「豊浦町文学碑公園」として整備した。石碑には1987年7月18日建立と記されるが、東屋1棟に便所1棟、駐車場を含む公園の開園は文書上には9月18日となっている。
室蘭線旧線の廃トンネルを転用したチャストンネルは未成ながら、この位置の道道の新道切替に合わせてのことと記憶する。行政とすればその機会に何かしらの観光施設を希求したものだろうが、彼らがこの海岸に立った訳でも無く、静かな海岸の趣を打ち壊すようなそれは「柄をすげる」感が強い。
そこには、北海道に縁の深い小説家随筆家である伊藤整が、北大で教鞭を取っていた1946年に初めて室蘭本線に乗った体験を綴った随筆「千歳線風景」の一節から、
 「五月の初め頃私は噴火湾の沿岸をとおって函館の方から札幌への汽車に乗った
 初めて乗るこの長輪線と言う海沿ひの汽車の風景が、風景そのものの楽しさで眼に映った」
と刻んだ文学碑も建てられているのだが、どう善意に解釈してもこじつけは否めない。
ここに公園の存在意義は希薄であり、無くもがなの施設であろう。「何も無い」ことが最大の観光要素であることが日本人にはなかなかに理解されないのだ。

写真はチャス岬から遠望した8002列車。類似画角の既出はお詫びする。
余談だが、個人的には1931年には既に室蘭本線に編入されて消滅した長輪線の線名を、戦後にまで北海道人の伊藤整が用いていたことが興味深い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f5.6+1/2 C-PL+SC40 filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 /0.5 EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富良野 (根室本線) 1975

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後志・石狩・空知管内の21事業者の戦時統合により発足した北海道中央バス(当時には北海道中央乗合自動車)は、その営業域に含まれた道央の基幹交通軸での都市間輸送に熱心であり、1962年4月15日には札幌-旭川間と同芦別間に直通特急便の運行を開始していた。
第一期北海道総合開発計画の進展にともなう道央地域の活発な経済活動を背景とした旅客流動の増大に、国鉄が気動車による都市間準急列車網(ビジネス準急と呼ばれた)の整備を進めていた時期であり、多分にそれを意識してのことだろう。
上芦別への運行は、芦別・赤平地域が人口13万人余りを擁する炭都であった故である。国鉄準急の2時間の所要時分に対して3時間を要したけれど、日中に30から40分毎の運行頻度と低廉な運賃に需要を確保したのである。これの都市間高速バスへの再編と富良野への延長は1984年9月1日のことで、1981年10月の石勝線開業にともなう富良野経由優等列車の激減以降に、国鉄が積極姿勢を採らぬのを見極めての施策であろう。前年11月9日の北海道縦貫自動車道の札幌ICと岩見沢IC間の供用開始も背景にしていた。当初に朝方と夕刻の2往復は次第に利用を伸ばして増便を重ね、87年発足の北海道旅客鉄道が一時本線急行に併結の直通列車(根室線内快速)を復活して対抗した時期もあったものの、バスのフリークエンシィに敵うはずも無く鉄道側の完全撤退を呼び込むことになった。1990年の富良野・芦別・赤平を合わせた沿線人口の7万人余りは、最早鉄道に新たな投資を呼び込むインセンティヴとはなり得なかったのである。現在に富良野連絡はバスが独占する。

幹線駅の地位を失った富良野は往時に比すれば一回りも二回りも小さくなった。シーズンに観光列車で暫し賑わうものの、それも近年には縮小傾向に在る。同じ境遇の倶知安と異なり貨物(コンテナ)扱い施設の維持されたのが救いかも知れないが、方や将来の新幹線駅ではある。
幹線の主要駅らしく乗降場の大半を覆った木造上屋は、多雪に対応してその重みを負担する腕木が各柱に設けられていた。それの連続する様は鬱陶しく、重苦しくもあったけれど、多くのスキー客の乗降したこの駅には相応しい景観にも思えた。
但し、重厚な趣の木造本屋は1974年12月20日に現在のRC構造に建替えられて、この上屋とは如何にもアンバランスではあった。

1番線ホームの跨線橋下に到着したのは442D、落合からの札幌行き。この間を5時間を費やして走っていた。ここで上下<おおぞら>を退避して30分ばかりを停車する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f8 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

旭川 (函館本線) 1978

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家族で水戸から転居し小樽に、そして手稲に暮らしたのは1958年からの僅か12年間である。今や、遥かに内地の生活が永くなったのだけれど、毎年に冬ともなれば違和感を覚え続けている。札幌なら一年の三分の一を占めた白い風景の無いことにである。
積雪はソリ滑りにスキーと子供には楽しい遊び道具でもあった反面、住宅地の細道まで除雪の行き渡らない当時、低学年には踏み締め道を自分の背丈ほどの積雪に囲まれて登校せねばならなかったり、下校すれば玄関回りの雪掻きを手伝わされたりの余計モノにも違いなかったと云うに、どうにも物足りなくて落ち着けずに過ごすことになる。ここでは夏が先細りしながら緩慢に秋につながり、11月末頃の急激な気温の低下にようやく樹木が染まり始めるけれど、それの落葉してもいつまでも季節の間延びして、いつの間にか桜の咲く印象なのである。いつものように降り始め、いつものように根雪となる白い景色は時間軸のマーカーに違いなく、上京してもそれの確認に雪の道内には通い続ける動機にもなっていた。
北での暮らしは父親の転勤での偶然に過ぎないのだけれど、上野からの夜行列車には、いつも「帰郷」感を抱いて乗っていた。今の新幹線でもそれは変わらない。

以来に積雪期の渡道を欠かさない中で、北海道の雪景色は懐かしく、撮影地点への移動に列車に乗れば白い大地の車窓には何処までも乗り続けたい誘惑に駆られ、10日とか2週間の長い旅なら1日か2日はスケジューリングしていた休養日をそれに当てていた。日程は勿体無いけれど、連日の雪中行動の負荷に加えての夜行連泊には何より身体が保たなかったのである。大抵は前後をホテル泊として日中を長距離の移動に当て雪の車窓を楽しんだものだった。弁当の総菜を肴に酒を舐めながら車窓を眺め、とろとろと眠りながらも目覚めれば相変わらず白い景色の流れ去っているのは至福の汽車旅でもあった。
実は、これに味を占めてこの40年来に、ひたすら列車に乗り続けるだけの渡道を夢想し続けているのだけれど、生来の貧乏性か、限られた日程をそれに充てるに忍びなく実現していない。どうしても撮らずには居られなくなり雪中からそれを眺める側に回るのだった。そうこうしている内に、周遊券も肝心の夜行急行も過去帳入して久しい。

この冬に2回目の冬旅では9日間の日程の真ん中の1日を休養日に充てた。夜行ではなかなか下車し難い旭川での連泊として日中も食事に出るだけのつもりだったのだけれど、食料を仕入れに出向いた駅で828列車に、スチームに包まれたスハ32の組成を見つければ乗らずにはいられない。
写真の32821は、1939年に北海道仕様として新潟鉄工所にて新製された22両中の1両である。全検出場からまもないと思わる美しい車体で、撮影した自分が車体に写り込む程でだったのだが、2年後の1980年11月6日付にて用途廃止となった。14系投入にて捻出のスハ45に代替されてのことである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f1.8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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