"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

北檜山 (瀬棚線) 1972

kita_hiyama_01-Edit.jpg

戦後まもなくに、発足したばかりの日本国有鉄道により非採算線区に区分けされていた瀬棚線の最大のトピックは、1966年10月のダイヤ改正における函館連絡の急行列車設定だろう。
当時に、函館経済圏に含まれた桧山支庁北端の瀬棚線沿線地域は、函館-札幌間設定に限られて函館へ午前の到達の無い優等列車配列から日帰りでの用務が困難な陸の孤島とされていたのである。この空白域を埋める優等列車の設定は、道内各方面に続々と気動車準急の設定の進む中で関係自治体から強く要望されるところであった。青函船舶鉄道管理局も年間凡そ2500万円の増収の見込めるとして1963年度から北海道支社と検討を進め、ようやくに需給増となる気動車1両と運転上丹羽停車場に必要となる行違設備を地元引受の利用債にて賄うことを条件に実現に至ったものだった。
当時の北海道新聞の記事によれば、運転開始当日の10月1日、まだ夜も明けきらぬ早朝と云うのに瀬棚駅での出発式には多くの町民が押し寄せ、乗務員への花束贈呈から紅白のテープカットにくす玉の紙吹雪を発車して往く列車を見守り、途中停車駅の北桧山に今金でも学校のブラスバンドが繰り出した中、両町長によるテープカットの発車式が行われたとある。ここにも多くの町民が集まったことであろう。また、同列車には地元募集の函館観光団体240名が乗車して、彼らは下りの函館においても出発式を挙行したと云う。
沿線にとって函館直通は全通以来の悲願とも云われ、経済中心地へ日帰りの可能となったインパクトは大きく、それは沿線での日用品等の物価までも引き下げたとは爾来50年を経た現在には想像もつかない。その末期とは云え、鉄道が陸上交通の王者だった時代のことである。

瀬棚線は延長50キロ足らずの路線ながら、渡島半島基部の横断に半径300メートルの曲線が続く25パーミル勾配の分水嶺越えから後志利別川流域の水田地帯に海岸線を望む区間まで、一通りの車窓が存在した。蒸機撮影には二つの峠に挟まれた広い谷間を利別川が曲流する箱庭的風光の花石に惹かれながらも、一度だけ日本海岸まで足を伸ばしていた。
そこは、国縫起点45.5キロ付近の半径300メートルで右に旋回してから瀬棚までの3キロに満たない区間に過ぎず、立ち位置はこれしか考えられない国道背後の段丘によじ登って機材をセットしたのだった。
雪混じりの強風下にやって来た1991列車は、緩急車も無く無蓋車1両を牽くのみだった。ここでの貨物の多くは北檜山に発着して瀬棚の扱いは僅かだったのである。
背景は後志利別川の河口。この海岸低地には今は電源開発瀬棚臨海風力発電所の2000kw級風車の6基が立ち並ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f2.8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

スポンサーサイト

白石 (千歳線/函館本線) 2000

shiroishi_06-Edit.jpg

ドーム式の球場が増えて以前程に出番の減っているけれど、試合の雨天中止の際、野球中継に急遽差替えて放送されるプログラムを彼の業界では「雨傘」と呼ぶ。テレビならシーズンを通じて映画などが仕込まれるのだが、ラジオはそうも往かず、かつてには季節感も時事ネタも排除した音楽番組などが事前に制作されていた。夜間帯にもワイド情報番組などが生放送で設定される昨今には、それの放送開始の時間繰り上げも多いようだ。
この「雨傘」番組に倣っては、幾つかの「雨傘ポイント」を決めていた。余程の豪雨でも無い限り、大抵はフィールドに出ていたし雨宿りしながらの立ち位置など、そうそう在るものではないから、それは晴天と並んで降雨の情景も相応しかったり、曇天で撮るくらいなら雨天の方がマシだったりの位置のことである。雨でなければ撮れない光景もある。

とは云え、降雨下での撮影行為は機材の取り回しが面倒ではある。当たり前に傘を差し掛けながらでは片手の塞がってしまうゆえ、当初にはスタジオ撮影用のクランプとアンブレラホルダを持ち出し、ビニール傘の柄をバウンス傘宜しくカットして三脚に取付けていた。これで機材のセッティングは傘下で行えるようになったけれど、そもそもがバウンスライティング用なのでフィールドでは使い勝手の悪い上、重量の嵩む余計なモノを持ち歩かざるを得ないのは、徒歩の鉄道屋には痛し痒しなのだった。
そこで考えついたのが、幅30ミリ長さ150ミリのアルミ板をL字形に折った上で前側へ突き出すように、センターポールへプレート(カメラは2台を載せていたのである)で挟み込んで取付け、これにアンブレラホルダーをネジ止めするアイデアだった。早速に東急ハンズで加工してもらうと、強度としてやや弱く傘の揺らつくもののクランプ分の重量を減らした上に、ほぼ三脚のセンターへの設置には満足の往く出来映えだった。1980年代始め頃の話である。
アルミ板の厚みを増すなど強度対策を施しつつ10年程を使うと、良くしたもので浅沼商会(キング)とハンザ社が相次いで、この自作品とほぼ同構造の傘ホルダを製品化していたに気がついた。早速にまだまだ写真屋らしかったヨドバシカメラで現物を確認すれば、ハンザ製品が強度は抜群と思われたものの10ミリ程の厚みのベイスが自分の機材には取付けられそうになく、永年の自作ホルダはキング製に置替られたのだった。自作に不便はなかったのだけれど、それは傘の柄を切ること無く取付けられたからである。造りの華奢なビニール傘は旅の途中で大抵は壊れてしまい、コンビニで仕入れてはホテルでニッパなど借りて加工していたものの、それは本当なら糸鋸を用い板ヤスリで仕上げねば切り口が危険だったのである。
最近のカタログを眺めると、どうもこの製品は製造中止となったらしい。替わってはベルボン社がクランプタイプの製品を発売している。挟み込み式のクランプに専用傘は、スペアにはまた柄を切らねばならぬゆえ触手は伸びない。

この白石駅第一乗降場の西端は「雨傘ポイント」のひとつだった。線路際に北海道ジェイアール都市開発による11階建マンション(レイルシティ白石)の建てられて以降、晴天の午後にはその影が画角に落ちるようになり、然りとて曇天での背景の空が白く抜けるばかりには雨天の選択だったのである。ホーム上だけれど、上屋の架かるで無くホルダに傘の出番だった。
付記すれば、線路に接せず第一乗降場から突き出したようなこの立ち位置は、おそらく1968年10月1日に開通の東札幌-新札幌連絡線建設で失われた貨物積卸場の一部と思われ、1941年までの定山渓鉄道旅客列車の着発ホームの遺構だったかも知れない。2011年からの本屋橋上化工事で失われた。→ 白石 (千歳線/函館本線) 1999
列車は8010列車<カシオペア>。画角の既出はお詫び申し上げる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f4 Fuji LBA1filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

姫川信号場 (函館本線) 1977

himekawa_06-Edit.jpg

姫川信号場の設置は1913年8月1日と記録される。国有化直後の1907年12月ダイヤで10回であった函館-森間の列車回数は、1912年度末でも18回を数えるのみではあったのだが、日露戦争後の経済変革により食料・資源の供給地と目された北海道と内地間の増大する物流需要に、その翌年には青函間の貨車航送開始が予定されており、それにともなう飛躍的な列車回数の増加を見据えての措置であった。
なお、開設時には当時の建設規程に従い「姫川信号所」と呼称された。

これの開設当初の姿は知り得ない。1966年に南側に隣接して国道5号線の新道が開通し、今は自動車の走行音の聞こえ来るのだが、当時には駒ケ岳裾野の原生林に隔絶した札幌本道からの小径の通ずるだけの信号場であった。ただし、その南側には開拓地の存在した様子である。
当時の道内での例に従えば、1/50勾配(=20パーミル)のこの区間には票券閉塞に加えて双信閉塞が併用されたはずである。また、翌年には全国一斉の空気ブレーキの採用と自動連結器への取替(*1)により列車単位の増強も計画されていたから、停車場有効長も大きく取られていたことだろう。近年まで原型を留めていた本屋もその際の建築と思うが、確証は持てない。

写真は1977年当時の本屋である。ここは1969年11月と云う早い時期に道内最初のCTC制御施行区間に含まれて要員が引揚げられていた。この頃、コンクリートの土台を構築して乗降場に張出した部分が旅客待合所とされていたのだが、おそらくは三面に窓を取って場内の見通しを確保したここに転轍機に信号扱梃子の置かれていたものだろう。場内監視に本屋を二階建てとした信号場は多々見かけるものの、梃子までも上げた例は珍しいとは思うが、他にそれを設置した痕跡は見当たらなかったのである。木材で塞がれた土台コンクリートの窓部からケーブルワイヤの牽き出されていたと推定する。
旧駅務室部分を覗き込むと伽藍として石炭ストーブに机の置かれただけだったから、CTCの補助制御盤は隣接して建てられた信号機器室に収められていたのだろう。
上下の乗降場は旅客扱の公告された戦後の設置とされるが、これも信号場の例に倣えば開設時より短い乗降場は存在したものと思う。通票の授器は良いとしても受器設置にはそれを要し、鉄道官舎(戦後には宿舎)に暮らした職員家族の乗降にも配給列車からの用品取り下ろしにも必需の設備ゆえである。
公式の客扱い開始に際して、客車列車の停まる下りは有効長を延長して改築し、気動車列車のみとなる上りには従来の土盛をほぼそのまま利用したのではなかろうか。
本屋の左手に見えるのが職員宿舎である。戦後に米軍の撮影した空中写真には6棟程が確認出来るのだが、この頃に残されたのは、この1棟だけだった。当然に空家である。

写り込んだ駅名標のなんら変哲の無い標準に忠実な表記は腑に落ちない。ひらがな、漢字、ローマ字表記(*2)の何処かには示されたはずの「信号場」が欠落しているのである。青函局の公告した仮乗降場を表記したものかも知れぬが、同様の施設ながら漢字表記にそれを示した仁山信号場との整合性が無かった。
.......................................................................................................................................
(*1) 道内はそれに先行して、この信号場開設直後の8月13日から17日に施工された。翌年の全国施工に備えた予行演習を兼ねたと云われている。
(*2) 通常は、シグナルステイションを示す「S.S」が付記される。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/60sec.@f8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

青森 (津軽線) 1988

aomori_02-Edit.jpg

東北/奥羽両本線の終点ならば内地版の記事とすべきかも知れないが、やはり青函連絡列車は北海道のものだろう。
海峡線の開業に際して、航路普通旅客運賃のみを収受し、当然に青函間を直行した青函連絡船便の代替と位置づけられたのが、青森-函館間に設定の快速<海峡>である。これの運用車として函館運転所に配備されたオハ・オハフ50 5000番台車の15/16両(オハ50/オハフ50それぞれの両数を示す。以下同じ)には趣味的に興味深い点が存在した。余り知られない事柄でもあるので書き留めておきたい。

海峡線運用転用車捻出の直接の起点は1986年11月1日改正を以ての福知山/山陰線の宝塚-城崎間電気運転であるが、それは1985年3月14日改正にて一斉に施行された12系急行形客車の格下げ転用と仙台地区における普通列車の電車化に端を発していた。これにて捻出の電気暖房装備車-15/17両が弘前運転区、秋田運転区、仙台運転所、金沢運転所、岡山客貨車区の各区から、それを稼働しない竜華客貨車区亀山支区と福知山客貨車区、浜田客貨車区に配転されていたのである(*1)。これらから、1986年11月改正において福知山線運用の電車化で福知山区の7/6両、捻出の12系に非電暖車の配転にて米子客貨車区(*2)の1/5両、同じく気動車の配転にて亀山区の7/4両の捻出が行われた訳である。残るオハフ50の1両はここからは困難で、同改正で2両が需給減となる秋田区からとされた。
海峡線の列車体系がいつ頃から検討されていたものか知り得ていないが、国鉄の分割民営化にて発足の道内管轄会社は経営基盤が脆弱との想定から、海峡線開業投資は1986年度内に国鉄による実行とされる中で、実に見事な需給計画である。
なお、同線は気動車の運転が禁止され、貨物列車運行に専用機関車の配備には青函連絡船便代替列車の客車運行は既定方針であった。一時期に12系急行形の転用も検討された模様だが、初期車の経年の問題も在り、将来的に大量の余剰が予測された50形の選定となったものである。財政上に専用電車の新製など考えられぬ時代であった。

青函連絡列車運用への転用改造を受けた5000番台車が、0系新幹線電車の廃車発生品であるW12型腰掛を装備していたのはご承知であろうが、実は国鉄による1986年度の転用工事の際には、オハ50に対してのみの取替施工だったのである。これは当時の列車計画でオハ50の指定席車、腰掛を種車のまま存置したオハフ50の自由席使用を前提とした措置で、列車単位での輸送力確保を考慮したものであった。しかしながら、これが函館で長期休車となっていた1987年度の北海道旅客鉄道と東日本旅客鉄道との協議により、普通船室でも特急車と同等の腰掛が設置されていた連絡船の接客設備に鑑みて見直され、オハフ50への工事が追加されたのである。定員減による輸送力低下には東日本会社が自社14系客車での多客臨乗入れを、この時に決めている。
付言すれば、客室妻面扉上部に取付けられていた「青函トンネル内列車位置表示装置」も、この際に北海道会社の企画にて全車への設置がなされた設備である。

車体幅2800mmへのW12型腰掛の配置は少しばかり窮屈で、570mmの通路幅の確保には窓側の肘掛を撤去して無理矢理に押し込めたように見えた。シートピッチの940mmは従来の特急形車両よりも拡大されていたものの、窓側席に着席すれば固定式にユニット交換された窓下部の框(かまち)の張出しが丁度肩に当り、居住性は快適とは云い難い車両ではあった。昼間の青函移動には、可能な限り<はまなす>間合いの14系編成を選んで乗っていたものである。
.................................................................................................................................
(*1) 計画全体では高松運転所への9/4両を含む、24/21両規模の配転であった。
(*2) 1986年3月3日付にて浜田区の業務を移管。配置全車が配転されていた。

写真は青森駅6番線ホームで発車を待つ3129列車<海峡9号>。
トレインマークを掲げたED79のトップナンバーならスナップしておく価値はある。蟹田行きや三厩行きの気動車がひっそりと発車していた青森第三乗降場には、売店や蕎麦スタンドが増設され、すっかり青函連絡列車着発用に粧いを改めていた。
乗車した3号車オハ505007は1979年に弘前運転区へ新製配置の502107が種車であり、福知山区に去ってから3年を経て青森駅ホームへと舞戻っていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

徳満 (宗谷本線) 1973

tokumitsu_01-Edit.jpg

今や西日本旅客鉄道が承継したクモル145とクル144の1編成 2両のみとなったのが国鉄/旅客鉄道会社における配給車である。まもなくに、それを示す形式記号-配るの「ル」は消滅するだろう。
配給車とは勿論客車に始まり、文字通りに鉄道運営に要する資材や部品、用品などの各現場への配給に用いられた事業用車を指す。
この用途への新製車投入は客車には事例の無く、戦前に鋼製客車の時代となると木製の営業用客車が格下げ使用され、ナル17600や27700形などが1950年代前半まで残っていた(*1)。鋼製車もスハ32など20メートル級車登場以降には17メートル級のスユ30からのオル30やオハ31からのオル31が永く使われた。
それの運転は列車運行図表にあらかじめ組み込まれた定期、不定期運転の配給列車もあるが、多くは必要の都度1両単位に旅客列車や場合によっては貨物列車に連結して行われた。近年まで残った工場や検修区所などへの資材・部品輸送が知られるけれど、歴史的には駅を始め各現業機関の現場への事業用品輸送は全てこれにて賄われて来たのである(*2)。そして、配給車の運んだものは決してそればかりではなかった。

道内には、戦前は勿論のこと戦後にも交通に鉄道の他に無い山間や原野の僻陬地に駅や線路班などの多くが所在した。官舎(戦後には宿舎)に暮らす職員家族の生活必需品の買い出しにも、映画鑑賞などのたまの娯楽にしても近隣の都市までの往復に丸一日を要する位置は数多あり、中には1950年代後半に至っても未だランプを灯す生活さえ存在していた。
配給車は、このような職場への国有鉄道共済組合購買部(戦後には物資部)の要請による生活物資の配給にも用いられ、車内に商品を陳列した移動販売車と云うべき車両も存在したのである(*3)。加えて、戦後1950年代の旭川鉄道管理局管内には、映写機にスクリーンを積込んで巡回し「娯楽」を配給した記録すらある。勿論、同様事例は道内他局管内にも、或は内地にもあったことと思う(*4)。
運用に就いての詳細は不明に付き想像を逞しくする他ないが、おそらくは貨物列車などに併結されて送込まれ、貨物積卸線などに留置の上で「営業」したものだろう。
....................................................................................................................................................
(*1) 戦前の鐵道院・鉄道省に「ル」の記号は存在せず、配給用途車は職用車「ヤ」に含まれた。
(*2) よって形式記号は付されなかったが、貨車の配給車代用車も存在した。
(*3) かって開拓地に暮らした入植者が綴ったエッセイに「国鉄の販売車が定期的にやって来た」との旨の記述があり、国鉄職員家族ばかりでなくそこの住民にも広く開放されていたものだろう。(申し訳ないが、その出典は探し得ずにいる)
(*4) これを国鉄の部内広報誌「国鉄線」のコラム記事に拾えば、「映画上映車」と記されていた。車内の写真が、北海道新聞の写真デイタベイスに「レクリエイションカー」とのキャプションにて在る。車体断面形状などから電車からの戦災復興車の70番台系列に見えるが形式は分からない。

写真は徳満付近の上サロベツ原野での372列車。稚内から音威子府への解結貨物列車Bである。
上サロベツ原野への開拓は1899年に始まったとされ、戦後には「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)に基づく、外地からの引揚者の開拓入植も受け入れた。農林省による1950年の農業センサスによれば、徳満地区の農家は30戸、耕作面積は一戸あたり平均で42.6反(≒42.2ha)とある。まだ酪農へと誘導される前のことで、主な作物は馬鈴薯に燕麦であった。未だ電気の通じなかったここにも、当然に「娯楽」や「売店」の配給車はやって来たことだろう。
1958年の客車配置表には、旭川客貨車区にオル31を始めナル17600など5両の配給車の配置が見て取れ、そのどれかが移動販売車だったと思われる。
1960年代ならば、スハニ3117を改造のオル321が小樽築港客貨車区に置かれて、それの全道を一定の運用順にて巡回したのが知られている。これには長期の巡回に同乗する販売担当者用の寝台設備が設けられていた。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 2003

rebun_08-Edit.jpg

民宿礼ぶんげの主人や豊年旅館の女将に今野旅館のご夫妻のことは前に書いた。幾度も通った礼文で想い出すことは、まだまだ在る。ひとつは豊西ハイヤーである。
今となれば礼文華にタクシーの在ったこと自体信じられぬ気もするが、それは1999年まで営業していた。

気にしたことがなかったので、それが会社組織だったのか個人タクシーだったのかは分からない。度々配車を依頼するようになるのは、早朝の本州連絡寝台列車をここで撮りはじめた1988年以降のことで、8時30分前に通過の5列車、或は10時少し前の8007列車までを撮り終えてから千歳線内で上り列車群を捉える移動に、国道37号線の沿いの斜面を藪漕ぎして降りてから駅までの3キロ強を歩いたのでは数少ない列車に間に合わぬゆえ、その間を乗っていたのだった。
携帯電話通信網のサーヴィス圏外域だった頃には、前夜のうちに宿舎から時間を指定して配車依頼していた。その電話は2本在ったのである。記憶は曖昧なのだが、配車毎にドライヴァは異なったようにも思えるから、多分事業所だったのだろう。けれど90年代の半ば以降にはいつも同じ、小柄で無口な年配のドライヴァだったとも覚えている。社員が彼しかいなくなったか、彼が社長だったのかも知れない。車庫は礼文駅前通りの少し海岸寄りに所在していた。
1995年の3月に渡道した際に、長万部のホテルから礼文までを彼の運転で未明に走ってもらったことがある。長万部に投宿の後に予定を変更したゆえだったのだが、走り始めてバックシートから何気なく運転を見ていると、彼の身体が次第に前傾しながら縮こまると次の瞬間に背筋を伸ばす動作を繰返すのが見て取れ、居眠りかと肝を冷やしたのだった。けれど、クルマは他に走行車の見当たらない国道を法定速度を維持して淡々と走り、無事に切取法面下のいつもの空き地に到着した。尋ねはしなかったのだが、おそらく何かの持病だったのだろう。
その日の10時過ぎの迎えにも彼が現れ、今度は豊浦までを乗れば、やはり同じ動作で走るのだった。
分かってしまえば、その後の幾度かの利用には不安も無く、寧ろ歯痒い程の安全運転にお世話になったのだけれど、それの悪化したものか、2000年の秋に予約を入れようとした電話にて廃業を告げられた。

2012年の豊浦町礼文華の電話帳を調べると、個人宅と公的機関以外は帆立貝からの魚醤製造の事業所1箇所に商店らしきが3店(営業の有無はわからない)、スナック1店が全てである。2012年度国勢調査での178世帯376人の集落は経済規模を成さない。

礼文華山トンネルからの10パーミルを駆け下りるのは、3列車<北斗星3号>。
画角の数度の既出は、秋季のヴァリイションにてご容赦頂きたい。この季節に海側から低く差し込むのは好きな光線だった。
築堤盛土の法面は1989年の一斉伐採から14年で、このような有様となっていた。毎年にここへは立っていたけれど、この頃が撮影の限界だったろう。さらに10年を経た現況はご承知のとおりである。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec.@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1982

oshamambe_17-Edit.jpg

機関区に貨車検修区、貨物扱い関連施設の撤去された長万部の構内は随分と小さくなった。不夜城のごとくにそれを照らし出していた、北部に二基、南部に一基の構内照明塔も消灯され、闇に沈み込む姿は前にもここへ書いている。けれど、列車運転に常用される本線の構内配線とその規模は、1965年の中丿沢方、1969年の旭浜(静狩)方の線増以来の構内配線が分岐器・出発信号機建植位置もそのままに、本屋側の1番線から7番線までに維持されているのである。函館山線の衰退に貨物列車削減など輸送環境は激変したものの、当時にも現在にも必要且つ十分な設備であり、完成された配線と云うべきなのだろう。
唯一の改良は第一乗降場2番ホームに接する3番線の有効長を、2番線との渡り線を使用停止として320mから535mへ延伸したのみである。施行期日は明らかに出来なかったが、貨物入換のなくなった以降に中丿沢方線増時に場内信号機直近に設けた両渡線へ代替してのことと推定する。
各線路の使用方は変遷したものの室蘭線列車の運転上からの現状では、2番線を上り本線、3番線を下り本線とし、1番線が上り副本線、4番線が上下副本線、5番から7番線が下り副本線である。函館線倶知安方面との運転列車なら5番・6番線がそれぞれ上・下本線となる。なお、1番と2番線を除き中丿沢・二股・静狩の各方向と進入進出の可能な配線に信号設備となっている。

対して、大きく変貌したのが旅客営業施設である。北海道旅客鉄道発足直前の1987年1月に駅本屋が改築されている。建替では無く、山線に通った諸兄にはお馴染みの木造本屋を存置しての大幅な「改築」は、関連事業施設の併設のためであった。
駅業務の縮小に持て余していた、かつての駅長事務室(駅務室)部分に待合室を移設、出札窓口兼みどりの窓口と旅行センターの営業フロントのみが待合室内に再配置され、そこへの出入口(正面玄関)も従来の三角屋根の正面出入口の右側に隣接して、それに合わせたやはり三角屋根の新たな出入口を設け、従来口は旧集札口位置への増築分と合わせた面積の商業施設への出入口に転用されたのである。その分だけ本屋規模は大きくなったのだが、広かった待合室をかなり縮小する設計であった。板張りの外壁をパネルに置替えただけだった外装も、この機会に一新されたものの厚化粧の感は否めなかった。
入居した商業施設は、子会社の「ジェイアールはこだて開発」が営業した食品スーパー「アーク」で、長万部に因んで「あいりす店」を名乗っていた。云うまでも無く、旧青函船舶鉄道管理局管内における国鉄共済組合の事業を承継した企業体であり、店舗は同組合物資部長万部配給所の後身ということになる。系列店舗は森店として森駅本屋にも入居していた。
これに先駆けての1979年3月20日使用開始にて旅客跨線橋の架替も行われ、従来の木造跨線橋の函館方に現橋を新設の上で旧橋を撤去したものである。また、第一乗降場のかつては札幌方端部近くまで伸びていた上屋の先端側が撤去されているが、これの施工時期は全くにわからない。

低い斜光線に長万部6番線(4番線ホーム)から室蘭本線に進出するのは247列車、室蘭行き。
<ニセコ>に14系の投入された後とあって、編成中には転用のスハ45も見られる反面、スハ32は姿を消していた。
第一乗降場の260m、そしてこの第二乗降場の270mのホーム有効長も、知り得る限りの1960年代末より変わっていない。かつてに最大13両組成を数えた函館山線経由の<まりも>や<大雪>などの優等列車着発に対応した第二乗降場は、今や2両編成程度の気動車着発には無用の長物と化しているが、90年代の一時期に寝台特急<エルム>の<北斗>に対する長万部退避は、この設備の在ってこそだった。
なお、画角に写る1番から9番までの線路が今も全て健在である。8・9番線はこの当時から留置線に用いられ、今も気動車が滞泊する。但し画角右にも同程度の構内を有していたのが、この頃の長万部である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

奥白滝 (石北本線) 1983

oku_shirataki_05-Edit.jpg

今、遠軽町域に含まれる旧白滝村がソバの産地とは、そこに暮らすJamさんのBlog「しらたき徒然草」に教えられるまで、恥ずかしながら蕎麦好きと云うのに知らなかった。全国至る所で育つ作物ゆえ少量の栽培はされているだろうとは思っていたものの、車窓にそれを認めた覚えの無く、道内産地ならば幌加内町に代表される雨龍地域に、旭川市から和寒町、音威子府村に至る宗谷線沿線地域とばかり理解していたのである。
調べてみれば、或る程度の作付け面積を以ての栽培は近年のことらしい。史料には畑作物の薄荷に多くの頁が割かれ、他には馬鈴薯、玉葱、麦、豆類に加え工芸作物の除虫菊の登場してもソバの記述は見られないのである。それでも、かつてに薄荷の研究や品種改良を手掛けて来た道立農業試験場北見支場では、それが国際競争に敗れて栽培の衰退した1980年代半ばより、やはり高地作物としてのソバに着目して研究を続けていたものと云う。
けれど、薄荷の後継作物には国の寒冷地農業政策が畜産に傾斜していた時代でもあり、大部分が牧草やデントコーンなどの飼料作物、従来からの主要作物でもあった小麦や馬鈴薯に転換され、奥白滝など僻陬地では打ち捨てられた農地も在ったろう。
同試験場が試験栽培を繰返して富良野産の牡丹ソバから選抜固定した新品種「キタワセ」が、農水省に品種登録されたのは1989年のことである。ソバではその第一号であり、記念すべき「農林一号」の名が与えられた。これの試験栽培地が遠軽試験地だったとも寡聞にして知らずにいた。
夏型で生育日数の85日は牡丹ソバに比して早熟、小麦の前作が可能な道内栽培に適した特性を示し、且つ、それに対して2割を上回る収量に製粉後の食味も良好となれば、瞬く間に道内作付け面積の90パーセントに達したのも頷ける話である。
奥白滝での作付けの拡大もこれ以降のことではないかと思う。過去の白滝村の資料を探し得ず、2013年度の最新データとなってしまうが、遠軽町のソバの作付け面積は111ha、95tの生産高と在った。その道内シェアは僅か0.5パーセントに過ぎないが、上位10の市町村だけで50パーセントを超えるのだから、そんなものだろう。

紅葉黄葉の峠を下って来たのは1595列車。
特急の車窓から斜面に僅かばかり開いた草地を見つけて、数年振りに奥白滝に降りたのである。この年の1月に石北線にはCTC制御が施行され、無人となったその光景には思わず嘆息したものだ。
1982年11月15日改正ダイヤで、この区間の補機は上下とも中越-白滝間に統一され、夜行急行と貨物列車の全てに仕業が組まれていたのだが、国鉄の貨物輸送からの大幅な撤退の既定となったこの時期には、荷主のトラックへの誘導も進んで列車の財源は先細りとなり、補機仕業の省略が常態となりつつあった。
石北線撮影の終焉を思った頃である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1983

sapporo_14-Edit.jpg

以前の記事に、駅本屋に接した1番線ホームは「特別な」ホームだと書いた。→旭川 (函館本線) 1983
勿論、札幌駅1番線ホームも例外では無く、優等列車の優先的な着発には、駅蕎麦スタンドや弁当に(鉄道部内に云うところの)雑貨の売店の多くが据付けられ、立売人(後年にはワゴン売り)も屯した華やかな乗降場だったのだが、札幌駅の特殊事情から1980年代には不遇を囲った。

ついこの間までの札幌駅4代目駅舎は、駅機能の他に非現業管理部門庁舎、民間の商業施設を兼ねた総合ビルを民衆駅方式にて、1951年9月に第一期工事として地下1階地上4階建ての東半に着工、翌1952年12月25日挙行の開業式を以て駅と商業施設が営業を開始し、続いて西半の第二期工事に着手して1957年5月29日から北海道支社と札幌鉄道管理局が入居していた。間口96メートル、奥行18メートルのビル用地は1908年12月5日に使用開始の三代目駅舎正面直前の駅前広場に求め、一期工事完成後の1952年にそれの取り壊されて新駅舎と(旧)1番線ホームとの間の広い更地となっていた。この貴重な用地の遊休化には、札幌駅の旅客駅化を主眼とした1957年度からの第一次札幌地区改良計画による東側の車扱貨物施設の撤去を待って着発線の2線に乗降場2面が増設され、それが4代目駅舎に接した1番線ホームと対向の2番線ホームとされたのである。使用開始は1957年9月であった。なお、旧1番線ホームは増設2番線と島式構造の新3番線ホームとなった。

1番線ホームは以来、函館線上り副本線としての使用方に本州連絡列車の函館本線経由が主体の当時には上り優等列車の着発に用いられたのだが、1961年10月改正にて千歳線経由で設定の特急<おおぞら>は、敢えて本線を横断して、上下ともそこに入線とされた。特急旅客に跨線橋を昇り降りさせない配慮である。ここでの「特別な」ホーム化はこの際に始まったとして良い。この措置は特急の増発により輻輳の生じるようになっても「原則」として維持され、それの7往復運転となった1972年3月改正でも14本中の8本が着発し、特に自体も3往復運転となった<おおぞら>は下り2号を除く上下全列車が1番線着発を継続していた。
千歳線列車運転の複線が札幌に達しての1973年10月改正では着発線使用方の変更により、着発する特急列車は函館線から到着して千歳線に向かう上り8本に限定され、他ホーム使用の9本に逆転されてしまうのだが、函館上り線、千歳下り線を横断しての千歳上り線進出は「特別な」ホームの証にも思えたものだった。
しかしながら、1975年7月に運転開始の電車特急<いしかり>7往復は着発を3番線ホームに固定するなど、優等列車着発の主体が第二・第三乗降場、2番線から5番線ホームに転移しつつ在ったのも確かであり、1980年10月の室蘭/千歳線電化による同線列車の増発、1981年10月の石勝線開業にともなう<おおぞら>の経路変更を経て次第に「普通の」ホームと化して往くのである。
やはり、苗穂方の複々線化以降には優等列車着発の比重が圧倒的にその方向に偏る札幌駅の特殊性から、1番線の使い勝手は函館線上りの通り抜け列車を除けば決して良く無かったのである。そのような優等列車の皆無となれば地位低下は自明の理であろう。いつしか立売りワゴンも姿を消し、売店の幾つかの撤去も進んで閑散としていた印象であった。
1985年3月改正に至れば、長距離優等列車では上り<おおとり>と<ニセコ>の発車に使われるだけとなり、他には札幌止りの<まりも><大雪>に<オホーツク6号>が到着するのみだった。昼間に旭川から室蘭への短距離特急<ライラック>7本が入線したのが、せめての救いだったろうか。

写真は早暁の札幌1番線ホームに終着した414列車<まりも>。マニ50・スユ15を苗穂で解放しての7両編成に、機関車はホームの端まで往かずに停まる。
105ミリで1/8秒は手持ちの限界。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/8sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1997

jomon_13-Edit.jpg

銚子口 (函館本線) 1971 の続編である。

1971年度の根室本線[落合]-[釧路]間の後、道内線区へのCTC制御導入は10年余り停滞するのだが、この間も「営業(体制)近代化」政策の下、閑散線区にあっては運転要員を残しての「停留所」化、閉塞区間の併合により棒線駅としての要員の撤収など駅の無人化は進展した。とは云え、駅務の集中管理化などにより駅長配置駅の激減したにせよ、要員配置駅も多く残されていたから(*1)、鉄道駅本来の姿の見られた最後の時代として良かろう。
1980年代に至り、1980年10月の室蘭/千歳線の[室蘭]-[札幌貨物ターミナル]間でのCTC施行では、既に線内の多くの駅での貨物扱い廃止を背景に要員無配置化が一挙に進展(*2)、それは1983年1月の石北本線全線、2月の根室本線[滝川]-落合間、3月の札沼線[桑園]-石狩月形間へと続いた(*3)。
この時点で通票閉塞や連査閉塞の残存して要員配置駅の多くが残されたのが、CTC制御の導入経費に対して合理化効果の薄い閑散線区であったが、1986年に車上から閉塞指令が可能な電子符号照査式閉塞装置が実用化され、これの信号制御、方向梃子を省略した汎用パーソナルコンピュータ利用の簡易型CTC制御には、国鉄本社は民営化に際して経営基盤の脆弱とされた北海道地区に対する餞別とも云えた積極的設備投資の一環として、1986年11月1日改正を以て、それの試験線区でもあった日高本線(苫小牧-苫小牧操車場間を除く)を始め、宗谷本線[永山]-[南稚内]間、函館本線[長万部]-[小樽]間、根室本線[釧路]-根室間、釧網本線の全線にこの設備を導入、また、同時に幹線系線区で残されていた函館/室蘭本線の森-[東室蘭]間にもCTCが設備され、これにて、対象線区・区間上の多くの駅から要員が退去した。
加えて、残された非自動区間においても、列車削減からの閉塞区間の統合(実際は統合の必然による削減)は深度化され、行止り線に在っては全線の一閉塞化により、ここでも駅の無人化は推進されたのだった。
札幌の都市圏を別にすれば、駅に駅員の姿を認めることのほうが珍しい現況は、これ以来のことである。
.................................................................................................................................................
(*1) 但し、国鉄職員とは限らない。日交観への業務委託もかなり進んでいた。
(*2) CTC化に先駆けて1980年5月15日付にて実施済みであった。したがって、その間運転要員だけは留置かれていた。→ 稀府 (室蘭本線) 2011 を参照
(*3) この1982年度の施行以降は、無人化へのクッションとしての業務委託・簡易委託化も省略され、各駅営業窓口の一斉閉鎖が常態となった。

以上により、2013年度末現在に非自動閉塞で残る、札沼線石狩月形-新十津川間と留萌本線留萌-増毛間を除くほとんどがCTC制御線区となっているのだが、自動化されながらCTCによらない運転区間が二箇所所在する。宗谷本線の南稚内-稚内間と留萌本線の深川-留萌間である。
前者は南稚内以南区間に電子符号照査式閉塞化された以降も通票(票券)閉塞が施行されていたのを、1993年3月に進路構成を南稚内からのRC制御とした軌道回路検知式特殊自動閉塞を導入、この時点では局地的CTCとも云えたものの、2010年1月31日の棒線化にて失われた。後者も1997年から98年に軌道回路検知式特殊自動閉塞が導入されたものだが、ここでは列車行違いの閉塞境界が中間に峠下を残すのみのため、そこに自動進路制御(ARC)を付加して閉塞扱いを省略、高価なCTC設備導入を避けたのである。

写真は、常紋越えの25パーミルを登る8556列車。
常紋信号場も1983年1月10日の石北線CTC制御化により要員が引揚げられ、山中に無人の信号場となった。冬期除雪要員の省略には巨大なスノウシェッドの掛けられ、様相の一変したのは周知の通りである。
ここでの職員の生活には、近くの沢を水源にした簡易水道が設備されていて、それはそれは美味しい山清水だった。無人化後も給水源に期待していたのだけれど、旧本屋外側に立ち上がっていた配水管からは一滴の水も出ずに落胆した覚えがある。
なお、道内におけるCTC方式導入過程をWebSiteに一覧している。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec.@f5.6 PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

銚子口 (函館本線) 1971

choshiguchi_01-Edit.jpg

CTC制御方式による運転扱いとは、列車指令と乗務員間に駅を介在させない方式であるから、列車運行は単純であることが望ましい。例えば、駅を制御所から切り離して行わねばならない本線を支障する入換運転が各駅から要求されると集中制御のメリットは失われる。よって、この方式の導入は先行或は併行して貨物扱駅の集約が進められることになった。貨物扱と運転扱いの無くなった駅には旅客フロントの機能が残るのみとなって、その業務量の少なければ何らかの代替の下に要員の引揚げが可能であり、線区運営の合理化に資した。
1958年の伊東線での試験運用の後には、1962年の横浜線へ本格導入、1964年の東海道新幹線での実用化と続いたように、当初に国鉄はこれを高密度運転線区での保安度向上設備と捉えていた節のあるだが、1967年から69年に架けての土讃本線、高山本線への導入を以て線区運営合理化の推進基盤との認識に至るのである。
これにより、1970年代以降、 CTC制御方式はその前提となる閉塞の自動信号化と合わせて、原則的に単線区間の保安方式として導入が推進され、1980年代半ばまでにその施行累計距離は10000キロに達する。
国鉄線上に要員の撤収した無人化駅(業務委託化駅を含む)の爆発的な増加を見たのがこの時期であった。従来からの棒線駅等の無人駅を合わせれば、大半が要員無配置と化したのである。1970年度から国鉄本社が押し進めた線区運営の総合的な合理化策「営業(体制)近代化」政策の協力なツールだったことが伺える。

1969年8月3日に試用の始まり、11月26日から本格運用となった函館本線[五稜郭]-[森]間(*1)への設備が、道内に置けるCTC制御運転の嚆矢である。本州連絡列車の集中する区間であり、地域内列車を加え100回を超える列車回数から、これは保安対策上の選定であった。導入時点で区間内(両端駅を除く)に6駅の貨物扱い駅を残し、施行に際して営業要員までの引揚も行われなかったことで、線区運営の合理化とは切り離されていたと知れる(*2)。
これが道内の次例となった1971年3月施行の根室本線[落合]-昭栄信号場間、8月の昭栄信号場-[釧路]間では、高山本線にて「営業体制近代化」効果の確かめられた後となって、同年10月2日改正を以て10駅が貨物扱いを廃して要員無配置とされた。けれど、現在に比すれば遥かに大きかった旅客需要に荷物扱いの要請から多くで営業フロントが業務委託ないし簡易委託にて維持され、完全に無人化されたのは尺別のみに留まっていた。
........................................................................................................................................................
(*1) CTC制御の施行区間の両端駅、即ち非CTC区間との境界駅については、被制御駅となる「CTC運転取扱基準規程」(最新改正-1984年4月1日運転局長達第3号)に定める「非運転駅」とする場合とそうでは無い場合がある。当該駅は往々にして構内作業の輻輳する線区拠点駅であり、構内の運転扱いを駅制御とした方が有利なため制御対象から除外する事例の多かった。この場合にCTC制御区間とは、同駅場内を除いた場内信号機の外方からと云うことになる。
このような駅を規程上に「一般駅」とするが、誤解無きよう付言すれば、運転の自駅扱い故の「一般駅」ではなく、CTC区間の隣接駅は全てがそれに対しての「一般駅」である。区間末端駅を「非運転駅」とした場合、自駅で制御を行わずとも隣接の「一般駅」間との閉塞扱いには要員配置を要した。
この五稜郭-森間の事例では、両端駅は運転扱いの「一般駅」とされ、正確なCTC制御区間とは、五稜郭上り場内信号機(操車場場内に対する第一場内信号機)-森下り場内信号機間になる。これからは桔梗-姫川・尾白内間とする資料もあるのだが、本記述では、[五稜郭]-[森]間の例で表記している。
なお、CTC区間が延伸された場合、「非運転駅」に組み込まれることもあれば、制御の自駅扱いのまま残ることもあり、その場合には規程上に「運転取扱駅」とされた。森は長万部まで延伸の1986年11月1日より「非運転駅」に含まれる「入換駅」となった。
(*2) この区間での「営業近代化」は、導入から2年を経た1971年10月26日付にて実施された。
(この項 常紋信号場 (石北本線) 1997 に続く)

写真は砂原線を上るD52牽引の250列車。銚子口の駅から少し大沼方に戻った地点と記憶する。
CTC線区と云えば近代路線のイメイジがあるが、1969年当時はまだ蒸機の時代である。CTC設備もまたリレイを用いた原初的装置であった。
なお、道内へのCTC制御の導入経過をWebSiteにまとめている。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 NON filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1983

nanae_19-Edit.jpg

客車運用の昼行急行列車は、1972年3月15日改正で上野-青森間<十和田1号>、上野-金沢間<白山>が電車特急に格上げされて以降には、寝台車を新潟回転として以北を座席車組成で走った<きたぐに>と、この<ニセコ>だけになっていた。冷房を装備した電車や気動車運用との格差に対して、<きたぐに>には1973年10月1日改正より、それの最初の定期運用として12系急行形客車が投入されていたけれど、<ニセコ>の体質改善は道内運用に不向きとされたそれに替えて、1980年10月1日改正における関西-九州間夜行急行2往復の廃止による14系特急形の捻出を待たねばならなかった。
熊本客車区から直接の6両の他は、同区および早岐客貨車区からの転出を名古屋客貨車区、尾久客車区、品川客車区で差替えた24両が、耐寒耐雪改造工事を経て函館運転所に配置されたのは1981年初頭のことで、スハ45/スハフ44組成からの置替は2月7日の下り101列車からであった。[函1]運用の所定7両組成2組使用の需給に対しての30両配置は多客期波動輸送対応も意図してのことであった。

晴れて同区間を往来した特急形気動車と同等設備を手にした<ニセコ>ではあったのだけれど、それは時遅しとせねばなるまい。この列車が本州連絡優等列車の貫禄を保ったのは、せいぜい1983年の夏まで、1984年2月改正以降はその地位すら危ういのである。
予定臨時列車に格下げされる1986年11月1日改正までの関連の動きを拾うと以下のようになる。

81-10-01改正
前年10月改正からの黒松内に加え蘭越も停車駅に追加。
82-11-15改正
所定の7両組成は引き継がれたものの、2号車(自由席)の季節減車期間が拡大され、実質的には季節増結。
83年度夏季輸送終了後(?)
季節減車対象が2・3号車(自由席)と6号車(指定席)に拡大。4両組成が常態化。
84-02-01改正
<らいでん>の快速格下げに関連して上りの時間帯が繰り上げられ、青函接続便が変更。上下列車とも、それまでの5時間30分から40分の到達時分が6時間に延伸。特に下りは長万部で30分余りを停車。
85-03-14改正
所定編成を4両とし多客期に6両まで増結。下りの長万部停車時間を削減して函館時刻を繰下げ、運用を1組使用として受持を札幌運転区(当時)に移管、<天北><宗谷>と共通運用([札5]運用)。
長万部-小樽間の補機仕業を臨運用化。
86-03-03改正
季節増結を取りやめ、これにより長万部-小樽間の補機仕業を廃止。

特急輸送力の整備と旅客のそれへの転移を背景に、84年2月改正以降の<ニセコ>は、青函接続の保持したにせよ実態は<らいでん>を代替した線内急行だったと見て良い。客車運用での存続、函館着発は偏に下りが3両、上りも1両を連結していた航送荷物車・郵便車ゆえである。この当時に乗られた方なら、4両組成でも閑散とした車内を目撃されたものと思う。

写真は藤城線の10パーミルを登る101列車。当時のキハ80系特急列車に引けを取らない速度で駆け上がる。
余談になるけれど、手前側に見える土道が 七飯 (函館本線) 1971 に書いた、戦時下での線増工事にて開削された路盤を転用した町道桜町8号線である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初田牛 (根室本線) 1971

hattaushi-Edit.jpg

国有鉄道における業務委託駅の嚆矢は、アジア太平洋戦争戦時下の『陸運統制令』(1940年2月1日勅令第37号/1941年11月15日勅令第970号にて改正)に基づく私設鉄道の買収に起因する。1943年8月1日付で戦時買収の現飯田線を構成する私設鉄道4社に所在して、会社がその業務を外部に委託していた計20駅の非直営駅を委託契約そのままに引継いだ結果であった。
これら20駅は何れも閉塞を扱わない所謂棒線駅であり、乗車券類販売を外部業者に委託していたのである。この国有鉄道線に想定していなかった停車場の運営形態に、鉄道省はジャパンツーリストビューロ(JTB)での乗車券類代売が対象であった「乗車券類委託販売規程」(1942年5月1日鉄道大臣達第267号)に条文を付加して対応したのだった。
ただし、この時点では「業務委託駅」と云う明確な概念は存在しなかったと思われる。

戦後に多くを抱えることとなった地方非採算線区の運営に苦慮した日本国有鉄道(以下国鉄)は、そこでの駅業務の簡素化、要員の削減に飯田線の例に倣っての業務委託の導入を方針とするのだが、同時期に自動車線駅の駅務全てを受託させる組織として日本交通観光社(以下日交観)の設立が国鉄主導にて進み、またジャパンツーリストビューロを改めた日本交通公社以外にも乗車券類の代売を認める動きの在ることに鑑みて、前記「乗車券類委託販売規程」を改正、1954年9月に公示として「乗車券類委託販売規程」(1954年9月9日国鉄公示第262号)を、総裁達として「乗車券類委託販売細則」を制定し、そこでは駅務の委託と乗車券類の委託販売は明確に区分されるところとなった。
調べ得なかったのだけれど、この際に「営業線等管理規程」などの規程類や基準規程に停車場業務の委託が明文化されたものと推定する。国鉄の定員を置かずに停車場業務の一切を外部に委託した個所を「業務委託駅」と規定したのであった。よって、飯田線に始まる事例以降は全てこれに含まれた。
けれど、運転保安上から閉塞扱や貨物扱の在る停車場の受託者には、訓練された国鉄からの出向者やその退職者が在籍した前記の日交観のみに限られていた。これは国鉄の内規であったろう。
ご承知のとおり、列車運行図表に業務委託駅は、停車場名に左半円を塗りつぶしたマル記号を付して表示されるが、日交観の受託個所にはそれの省略されていた。業務の一切を丸ごと受託したそこは運転上に区別を要さなかったゆえである。その記号の表示されていたのは日交観以外の受託個所であり、RCやCTC制御の普及以前には、確かに棒線駅ばかりであった。従って、それらは荷物営業を含む例の多かったとは云え、実態は乗車券類の委託販売である。

初田牛は1920年11月10日の根室線西和田までの開通に際して設けられた停車場ではあったが、周辺原野の開墾が進展せず、1962年には貨物扱いを取りやめ、1964年4月1日付で行違い設備を撤去して業務委託駅となっていた。この区間では花咲も同様の経過を辿っている。当時の受託者は調べ得ていない。
ここでの下車は特に当ての在ったで無く、濃霧の晴れ間を追って移動した結果に過ぎない。けれど、列車を待つ間に移流するそれに追いつかれてしまい、せっかく見つけたポジションを諦め、急ぎ線路端まで移動することになった。
やって来た列車は1492列車。根室港発の冷蔵車を連ねた編成だった。それの潮の香りのしたことは前に書いたと思う。シャッタタイミングの少し早いのは拙さ故とご容赦願いたい。

ついでなので、乗車券類販売の簡易委託制度に触れる。
この制度は、1970年度に「乗車券簡易委託発売基準規程」(1970年9月28日旅客局達第201号)としての制定による。
前述の「乗車券類委託販売規程」「乗車券類委託販売基準規程」(1958年に[細則]呼称が改められた)が、一般の乗車券類の他、周遊乗車券や遊覧用の特殊委託クーポン乗車券類などの代売に主には旅行業者を受託者とした制度であるのに対し、これは国鉄線内相互発着の常備片道乗車券と常備急行券に限り、資格を特に定めること無く国鉄の認めた者に受託させる制度である。地方公共団体から公的機関、果ては個人に至るまでを受託者に想定していた。
従来に、停車場業務の一環として業務委託を要した駅窓口での乗車券類の委託販売を分離したのは、1970年度を初年度に全国規模で実行された「営業体制近代化」施策に対応した措置であった。1950年代から60年代の線区別経営政策の当時に、要員の引揚げられた駅の地元から代売の申し入れの在っても、業務委託以外に制度の無かったことに応じたのである。それは旅客制度の専門知識を持つ要員の他、帳票作成や報告に国鉄内部と同程度の経理を要求され、簡単に受託出来るものではなかったからである。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f4 Nikon L1Bc filter  Unknown Film(ISO100)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1995

362-30LSS-Edit.jpg

北海道における鶏卵生産量は、ここ20年ばかり10万5千トン前後にて推移している。道外への移出や内地からの移入は僅かで、ほぼ半々とされる家計消費に業務・加工消費ともに全量の道内消費は地産地消である。本来に鶏卵は破損等の問題から長距離輸送に不向きとされ、生産地周辺での流通・消費が基本であったから、図らずもそれの実現されていることになる。生産の中心は石狩、胆振、十勝地域である。
けれど、それはホクレンによる「北海道養鶏団地事業」などの推進により、雌成鶏の飼養羽数が全道で600万羽を達成する1980年代後半以降のことで、養鶏農家一戸あたりの飼養羽数が数百羽程度に留まる小規模経営が大半であった1970年代までは、需要のおよそ3分の一を移入に頼っていたのである。そして、その多くは鉄道により輸送されていた。

近代以降の社会構造の変化により、それの長距離輸送が必要となった頃、使われていた輸送容器は竹籠であった。当時に鶏舎での人手による採卵作業に使われたのは竹で編んだ籠や笊だったから、おそらくはそれからの発想なのだろうが、籾殻を詰めた中に卵を埋めたところで強度的には耐えるものではなかった。まもなく、それは木箱に取って代わられる。
これで有蓋貨車一杯に天井まで積み重ねられたにせよ、緩衝材としての籾殻の詰められるに違いは無く、輸送効率の悪いことは変わらなかった。箱詰も取出しも全てに人手を要し、それは恐ろしくコストの掛かる輸送だった。内地から転居し1960年代を暮らした札幌で、卵が高いと母が嘆くのを聞いた覚えが在る。鶏卵が籾殻とともに箱に詰められ青函を渡っていたのは、その頃のことである。
余談ながら、総合スーパー(GMS)もコンヴィニエンスストアの姿も形も無く、食品スーパーマーケットがせいぜいの当時、商店街には鶏卵屋が店を開き、そこには籾殻に埋まったままで卵の陳列されていたものだった。

道内の自給が達成されると共に経営の大規模化も進展し、採卵養鶏を営むのは1981年度の5940戸に対して2013年度末には僅か73戸、それの多くは最早農家経営ではなく会社形態の事業体である。しかも、上位10社で総量の90パーセントを生産する寡占化が進んだ。
1973年に札幌手稲に創業した株式会社トーチクも、65万羽を飼養し年間におよそ1万トンを生産する大手採卵業者である。千歳や岩内を始め、伊達市内に5箇所の大規模養鶏場を擁して、その大きな施設は室蘭本線の車窓にも目立つ。

白波の立つ噴火湾を背景に進むのは5007D<スーパー北斗7号>。冬の走りの悪天である。
この定番の立ち位置は、余り選択肢のない画角に列車の編成長が微妙なところの在り、それは7両程度の気動車特急の収まりが一番良い。だれが撮っても同じゆえ、せめてこの季節を選んだ。
伊達市北稀府町の道道779号南黄金長和線沿いにはトーチクの伊達第四農場の延長100メートル程にも及ぶ鶏舎が所在して、この立ち位置への横道の良い目印なってくれる。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4+2/3 NONfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

赤井川 (函館本線) 1982

akaigawa_01-Edit.jpg

赤井川は、1904年10月14日の(初代)北海道鉄道線の歌棄(現熱郛)-小沢間開通による全通に際して、既設区間に山崎や中丿沢、蕨岱と共に開設された停車場である。これら4駅は10キロから12キロ程の停車場間の中間に位置したから、全通にともなう直通列車の運転などの列車回数増に対応したものと推定され、当該区間の開通から1年を経ての設置は線路計画時からの既定方針だったろう。

ゆえに、赤井川も上下本線を設備した配線だったと思われるのだが、現況の駅本屋に接した乗降場と島式のそれの有効長のあまりの差や、上下本線を区別しない線路使用方が些か不可解である。本屋側乗降場は途中に段差がついていたので、後年に嵩上したとも見えるが壁面石積にも本屋の土台にもその痕跡は見られず、低い部分が延長されたものかも知れない。本来には島式側とほぼ同延長だったならば、それを(千鳥配置では無く)並列配置とした故の片側使用の配線も説明は付く(*1)。
本屋に信号扱梃子の撤去跡らしきの見られないのも不思議で、それは別小屋だったのだろうか。ちなみにそれの使用停止は1969年8月のことである。
本線有効長の500メートルは明らかに後年の(おそらくは戦時下)の延長であり、乗降場延伸もその際と考えれば、本屋側だけのそれには当時より、これを上下本線としていたものだろうか。
いずれにせよ、この駅の沿革をぜひ知りたいとは思うものの、その資料には出会えそうにない。

写真は、副本線(待避線)に停車の123列車と本線を通過する102D<せたな>。
画角外の123列車の客車はオハ51系列の4両組成で、後部2両はホームを外れている。
1966年10月1日改正にて設定の函館-瀬棚・長万部間急行<せたな>は、当初のキハ21・22の使用から1972年3月15日改正ダイヤより下りが本線急行<すずらん>に国縫まで併結されるようになると、キハ27の2両組成に置替られ面目を一新していた。もっとも、これの運転開始に際しての車輛費は沿線自治体による利用債にて賄われ、その際に国鉄の発注したのはキハ56/27だったから当然の措置でもあったろう。
この1982年当時の102Dは、瀬棚発(瀬棚-国縫間普通)のキハ27-2両の[増1号車][増2号車](*2)に、熱郛発(熱郛-長万部間普通)の号車札の無いキハ40(若しくは22)-2両を国縫で併結していた。
...............................................................................................................................
(*1) 対向式乗降場の採用には、列車在線時の利便から旅客乗降場を千鳥に配置して、その中央に本屋を置くのを原則とするが、諸般の事情にて並列配置とせざるを得ない場合に採用された使用方である。石北線の安国から東相ノ内間に留辺蘂を除き事例がある。
(*2) 下りの<すずらん>編成函館方の[1号車]に続く併結に要した号車札である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走 (石北本線) 1983

abashiri_05-Edit.jpg

冬場、観光のオフシーズンの夜行急行は空いていた。流動はほぼ道内旅客だけだから、週末等を除けば向かい合わせ4人掛けのひと区画を独占出来ることも珍しくはなかった。肘掛けを枕替わりに完全とは往かないものの身体を伸ばして休めたので連日の夜行移動には福音ではあった。けれど、座席での睡眠は秋冬期、それ故の車内暖房に泣かされた。
云うまでも無く、当時は機関車から編成に延々と蒸気を送込む蒸気暖房だった。従って原理的に編成の前部と後部とでは蒸気温度にかなりの差を生ずる。厳寒の予想される一夜の運行など後部車両への十分な供給には勢い送出蒸気圧を上げることになり、編成前部には暖房過剰とならざるを得ないのだった。
道内夜行は稚内、遠軽方が自由席車だったので下り乗車には要注意で、機関車次位は避けてなるべく後の車両に席を採ったものだが、一番空いていたのは一両目なので悩みどころではあった。逆に後位となる上りでは前位の寝台車での過剰暖房を避けるためか、蒸気供給が及ばず深夜の気温低下に目を覚ましパーカを着込こむことさえあった。特に悲惨だったのは上り<大雪>の北見回転車で、遠軽までは機関車次位なのだけれど、十分に暖まらぬうちに進行方向の変わってしまい白滝方向へと進むうちの車内温度低下を体験している。
塩狩や石北隧道越えの補機が蒸機の時代には、外気温によってはそれが後部からも暖房蒸気を供給して補ったものだろうが、1967年から置替に投入のDD51の6両は蒸気発生装置を殺した補機専用機で、その後に増備されても補機運用にそれを使用することはなかった。

1982年11月のダイヤ改正から電気暖房の14系特急形客車に置替えられれば、この不均衡は改善されたのだけれど、実はこれが曲者であった。今度はR51型腰掛に装架されたヒータが暑過ぎたのである。室温を検知しての自温度調節機能も付加されたものの、それはあくまで室温であって座席表面温度では無い。腰掛けて旅するには快適なのだが、そこに横になっているとTシャツの1枚でも汗の吹き出してそれどころでは無い事態に幾度も遭遇し、固定窓には貫通幌から粉雪の吹き込む乗降台へと避難し身体を冷やさざるを得ないこと度々であった。

写真は網走で発車待ちの516列車<大雪>。
1982年11月15日改正以来の14系座席車と在来型寝台車の混結編成は、この年の夏の寝台車への14系投入にてようやくに解消していた。この疑似ブルートレインとも云えた編成を眺め、ほんの10年前に同じ位置からC58の牽く在来型客車で組成の同じ列車を撮ったことを思い起こせば、変転の早さを感じたものだった。
DD51は、最後部の荷物車向けに蒸気発生装置を稼働している。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S Bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

石倉 (函館本線) 1989

otoshibe_14-Edit.jpg

石倉停車場周辺の集落はそれを東端に置いて海岸沿いに西側へ1キロばかりの間に民家が散在する。一連の集落ではあるけれど、茂無部川を境に駅の在る東側が茅部郡森町、西側が二海郡八雲町(*1)に属する行政の狭間でもある。茂無部川を境界とする歴史は古く、松前藩により設置の野田追場所と茅部場所との境を1695年に pon-nay(ポンナイ=小さな川の意)と呼ばれたこれと定めて以来のことである。
現在には落部栄浜漁港の構築により失われているが、ここは海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形となっていて、イナウサキと呼ばれ、かつてには稲穂岬の字が当てられていた。 その名のとおり先住民族が inaw(イナウ=木幣)を神に捧げた hasinaw-us-i(ハシナウシ=幣場)であった。この岬を回り込んだ段丘下には、おそらくは先住民の小集落(コタン)に始まったと思われる集落が開かれ、幕末期(19世紀半ば)の松浦武四郎らの記述(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌)によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。地名をモナシベ(茂無部)と云い、現在の栄浜の一帯にあたる。町村界を越えて森町側への拡張はそこに鉄道の停車場の開かれてのことである。

北海道鉄道(初代)による函館小樽間鉄道の第三工区であった森から熱郛までの、1903年11月3日の開通に際して設けられたのが石倉停車場であった。当初計画では落部への設置を予定していたものが当地住民の忌避により断念され、森から野田追(現野田生)までの13哩余りに是が非でも列車行違い設備を要したものか、その代替に置かれた。当時より集落を成していた茂無部中心部への設置の叶わなかったのは、ここより先、海岸線に迫る段丘崖の開削を避け段丘面上を経路とした線形ゆえである。
おそらく当初の計画では、現在の第五石倉トンネル出口付近から緩い勾配で段丘上への到達する設計であったろうが、予定外の停車場を可能な限り集落に接近させる変更の結果、この鉄道での最急勾配にあたる1/50(=20パーミル)が介在することとなった。これは国有化後の1913年10月に1/66(≒15.2パーミル)へと緩和する大規模な改良工事が行われたが補機を要する難所には変わりなかった。
行政区画が異なっても隣接集落名を名乗る事例の在る中で(*2)、森町域に属したこの停車場に落部村茂無部の名が与えられなかった事由は分からない。石倉は「駅名の起源」(札幌鉄道局 1938年)によれば、付近に石地の多かったことからの付名と在り、地名に駅名の先行したものと知れる。現在にはかつてにヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)南側地域までが石倉町とされる。一方で茂無部の名は川の他には茂無部簡易郵便局に残るのみである。
....................................................................................................................................................

(*1) 1957年度までは茅部郡落部村
(*2) 当の北海道鉄道でも当時の市ノ渡村に置かれた停車場に隣接の本郷村の本郷が与えられた。現在の渡島大野である。

写真は、かつてのイナウサキを背景に噴火湾を巡る3065列車。
背景が茂無部集落の西端である。画角右に段丘崖を15.2パーミルで上っていた旧線路盤の痕跡が微かに判別出来る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。