"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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稀府 (室蘭本線) 2011

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札幌鉄道管理局は1980年5月15日付にて、室蘭本線・千歳線・胆振線の管内21駅を「停留所」化、15駅の貨物取扱を集約する「営業近代化」を実施した。貨物扱い廃止駅のうち5駅は「停留所」化駅と重なる。
通票閉塞施行の胆振線は勿論のこと、室蘭・千歳線でも転轍機の無い停車場(所謂棒線駅)以外には方向てこ扱いを要したから、最小限の運転要員を残しながらの営業業務の撤収には、日々積み上がる損失に対する当時の切迫した事情が伺える。
「停留所」化とは、当時に国鉄がこのような措置に対して多用した言葉であった。国有鉄道が準拠した法規上に「停留所」は存在しないが、部内で慣例的に要員配置の無い棒線駅を指して用いられており、それを準用したのである。営業上には「無人」なのだが、然りとて要員は配置されると云う、まるで信号場での客扱いのような従来に国鉄の想定しない駅の運営形態の出現には、対外的にそれを無人駅とも呼べなかった事情もあろう。1979年2月1日付での札沼線の「営業近代化」では全線の貨物営業廃止により対象駅を棒線化して要員を引揚げたのだが、幹線系線区や元来に閉塞区間に延長の在った胆振線では苦肉の策と云えた。同様の手法は続いて「営業近代化」施策の対象となった函館本線や、旭川局管内の宗谷本線などにも及ぼされることになる。
この1980年度施策での「停留所」化駅を列挙すれば以下の通りである。
[室蘭本線]
大岸・有珠・長和・稀府・黄金・虎杖浜・竹浦・社台・糸井・遠浅・安平・三川・古山・栗丘・栗沢
[千歳線]
美々・植苗
[胆振線]
久保内・新大滝・御園・寒別

幹線の「営業近代化」の初期事例でもあり、減じつつ在ったとは云え、現在に比すれば遥かに多かった利用客に対して、これらではサーヴィスの激変を避けた経過措置として外部への業務委託が行われ、それには荷物扱を継続するなどの実態に合わせて、本屋窓口を引続き開いた旅客・荷物業務の日交観への総合的委託から駅前商店などへの乗車券類販売の簡易委託までの様々な形態が選ばれていた。使われなくなった本屋窓口に板を打ち付けての閉鎖はこの頃からで在り、鉄道輸送の衰退を眼に見える様で教えてくれていた。
駅に要員は詰めているから、冬なら待合室にもストーブの燃えていたものだけれど、駅務室と隔絶されたそこで時間を過ごすには、とてつもなく違和感を覚えたものである。

写真は有珠山を背景に稀府の東方を進む1列車<北斗星>。
空気の澄み始めて風景の枯れ草色に染まる季節か、さもなくば残雪の頃に限定の位置である。
稀府では簡易委託ながら本屋の窓口が塞がれること無く利用され、それは1988年度の築60年を経過した本屋建替に際しても引き継がれて、その吹き抜け三角屋根の新駅舎にも窓口の設けられたのだった。永く、矢印の金額式B型硬券が売られていたが、近年にMR型端末出力の総販システム券に替わると、いつの間にか窓口は閉じられてしまった。調べてみると2009年10月1日に簡易委託契約解除と在った。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f10 C-PL filter ISO320 W.B. 4480 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopCC & PhotoshopLR5 on Mac. 続きを読む
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礼文-大岸 (室蘭本線) 1990

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山塊が海岸線に落込む地形の続く噴火湾北岸の交通路は、1799年に幕府が箱館からニムオロ(根室)、海路キナシリ(国後)までに至る軍事通行路の一部として松前藩に開削を命じたことに始まる。峻険な地形には先住民族も海岸線に点在したであろう小集落間の移動には小舟を用いていたのである。
工事は難航し翌1800年には幕府が直轄工事に乗り出すものの完成に至らず、放置の後、この地域の警護を幕府に命ぜられた津軽藩の手により1803年から再開され、三年の歳月を要してようやく1806年に幅三尺の通行路が通じたのだった。1メートル程の道幅は静狩・礼文華の峠に加えて弁辺から虻田へと続いた厳しい地形に人馬の通行を最低限に保証するものだったろう。
しかしながら、その余りの険しさと、それゆえの高額な通行料には沿岸の交通は引続き海路が選択され、せっかくの陸路は荒廃の進み、開拓使の時代となって1872年から整備の進められた札幌本道も森-室蘭間を海上連絡となれば、これの顧みられるのは1890年を待たねばならなかった。
1886年に成立の北海道庁は、天候に左右されない海路に替わる室蘭への重要交通路との認識の下に、この古の交通路の馬車道への拡輻・改修を開始、一部区間には新道を開削する難工事の末の1894年に長万部から室蘭に至るそれを完成させたのだった。これがその後の部分的な改修を繰返しながら戦前から戦後の自動車交通に対しても道南の往来を支えた道路の原型である。

意外なことに、この険しい交通路に対する抜本的改良の最初の事例が礼文華川の谷と小鉾岸川の谷を山越えで結んでいた区間であり、ここに海岸線を迂回する新道を開削したのである。既に1928年に長輪線(現室蘭本線)が通過していたそこへの工事はアジア太平洋戦争の戦時下に着工され1944年に完成した。九十九折の難所であった礼文華山道など1960年代の改良工事に関わる資料は多いのだけれど、この新道については探し得ていない。
戦時下での工事は軍需上に迫られてとも思えるが、東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない。工事の比較的容易な区間から着工したと云うことだろうか。確かに、断崖下に開削する延長の短いことに加えて、長輪線建設時の工事用道路の一部転用が可能ゆえのことと推定するも確証はない。「長輪線建設概要」(鉄道省北海道建設事務所 1928年)に所載の写真には完成した線路に併行する工事用と思われる道路が現行位置にて写り込んでいるのが見て取れ、それは少なくとも(鉄道の)岩見隧道入口抗口までは通じていたはずである。但し、途中に二箇所の岬の通過には、短いながらも(道路の)岩見隧道と達古武隧道が掘削された。
この道路は1953年に一級国道37号線を構成する一部に指定され、大岸トンネルで芝伏川の谷へと出る新々道の供用にともない1968年3月30日付にて路線認定の道道608号線の一部と変転した。

秋風に耳を澄ませば波音が繰返すだけの噴火湾岸。複線新線の礼文浜トンネルから眼下の新達古武トンネルへと5列車<北斗星5号>が駆け抜ける。
画角中央の廃隧道が1928年9月10日に開通の旧線茶津隧道、さらに海側がこの当時に現役だった道道608号線の岩見隧道である。この静かな海辺の風景も1996年から97年の室蘭線旧線茶津隧道と達古武隧道を転用した道道新道の建設にて失われてしまった。
国道37号線に対しても道道としても旧道となり、打ち捨てられた隧道は以後も閉鎖されながら現存する。それに巻かれたコンクリート壁には実見で1970年との刻印があり、道に移管後の改修によるものと知れる。隧道半ばには素堀のままの個所も残されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

増毛 (留萠本線) 1979

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単線区間における線路容量増加の抜本策は、閉塞区間の分割、即ち停車場(一般的には信号場)の新設となるが、複線区間においては、それまでの双信閉塞方式に替えての自動閉塞方式の導入であった。連続した軌道回路により検知される列車自体により自動的に閉塞および信号現示の行われるこの方式は、駅間軌道回路を幾つかに分割すれば複数の閉塞区間設定を可能としたのである。後には、列車回数の増加した単線区間に対しても、通票閉塞器操作の煩瑣やそれゆえの錯誤の防止による保安度の向上、また閉塞作業に関わる時間の省略による運転時分短縮、通票授受時の通過列車の速度低下回避、ダイヤ混乱時の回復力確保などの事由から導入が進んだ。

自動信号による自動閉塞方式は1904年の甲武鉄道(現中央本線の一部)御茶ノ水-新宿間での施行を最初の事例として、続いては複線化の進んでいた東海道/山陽本線へと整備されて往った。
北海道内における導入は1936年度の小樽-南小樽間を嚆矢としている。以後に施行日の確認出来たのは1940年10月7日付での室蘭-東室蘭間、1942年7月20日の朝里-桑園間に留まるが、1937年に勃発した日中戦争にともなう「陸運転換」政策下においての運炭列車増発に対応して、この当時までの複線使用区間に設備されて往き、同時期に線増の進められた区間については併せて施工の行われて、戦争終結の1945年度までに函館本線の函館-桔梗間、小樽-砂川間、および室蘭本線の本輪西・室蘭-敷生(現竹浦)間が自動閉塞施行区間となっていた。
なお、複線区間ではあるが、石倉-野田追(現野田生)間にはタブレット式通票閉塞が、苫小牧-追分間では双信閉塞が維持された模様である。

戦後、1950年代始めまでに戦前の輸送水準を回復した国鉄は、1957年度を初年度とした第一次五カ年計画、それを打切っての1961年度からの第二次五か年計画を通じて、幹線の近代化と輸送力増強を推進した。主には線増に電気運転化であるが、それの及ばぬ単線線区に対しても冒頭に記した事由から閉塞方式の近代化、即ち信号の自動化が進められた。
北海道線においても、1970年度末までに既施行区間に加えて、函館本線、室蘭本線、千歳線の全線に根室本線の東釧路までの区間、及び宗谷本線の旭川-新旭川間が対象線区・区間となり、順次着工された。道内における自動閉塞施行の計画はこれが全てであり、旅客も然り乍ら貨物輸送の幹線が選ばれたことになる。この時点で長万部-小樽間が含まれたのは、そこに多くの優等旅客列車が運転されていたゆえであろう。旭川-新旭川間は当時に単線ながら宗谷・石北線列車の輻輳に応じた措置であった。

1960年代を通じて進展した計画は、函館本線の長万部-小樽間を中止とした上で1969年度の帯広-厚内間の完成を以て打切られる。残る厚内-東釧路間は落合-釧路間へのCTC制御導入と同時施行と計画の改められたためであった。
自動信号による自動閉塞式を大前提とするCTC制御の導入経過については別項に譲るが、1971年8月に使用開始した同区間の後、道内の自動信号化は10年近くの沈黙を経た1980年代にそれを伴って急速に進み、特に、民営化に際して経営基盤の脆弱とされた北海道地区に対し、国鉄は閑散線区への電子符号照査式閉塞導入の餞別とも云えた投資を実行し自動化はそこにも及んだ。
この1986年11月改正時点で廃止予定の地方交通線を除けば、江差線木古内-江差間、札沼線石狩月形-新十津川間、留萠本線全線、石勝線新夕張-夕張間、深名線全線、函館本線砂川-上砂川間、宗谷本線南稚内-稚内間が非自動閉塞線区・区間として残るのみとなっていた。

写真は、増毛港漁港区域(通称-増毛漁港)を車窓にする735D。
留萠本線の留萠-増毛間は、1921年11月5日の開通時以来には礼受・舎熊を閉塞境界とした票券閉塞式が施行されたと推定するのだが、1978年10月改正での貨物列車廃止にて続行運転の無くなれば、既に礼受・舎熊が棒線化されていたこともあって全区間を一閉塞の通票式に切替えられた。閉塞の扱い駅は留萠のみであり、列車は通票を携行したままに折返す。これは増毛が棒線となった現在まで30年来変わらない。
ご承知の通り、前記の非自動区間の内、江差線、深名線、函館上砂川支線は既に無く、留萌線の深川-留萌間と石勝線新夕張-夕張間、南稚内-稚内間には北海道旅客鉄道により自動信号が導入される現状となっている。
なお、道内における年度別自動閉塞方式導入区間を WebSite にまとめている。興味の在ればご覧頂きたい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1977

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最近の認識には「宣伝カー」と云うと、ヴァンボディ全体に広告を描き大音量の騒音をタレ流しつつ、新宿やら渋谷の街を巡回運転しているトラックとなるらしい。けれど、一昔前ならそれは後部にオープンデッキを備えたマイクロから大型までのバス車体を指していた。国内におけるルーツは戦前にまで遡れるらしいが、全盛期は戦後1950年代から60年代となろうか。本来のバス用シャシに意匠を凝らした特注車体を載せたものだった。
商品やその見本なりレプリカを積込み、装備のスピーカからコマーシャルソングを流しつつ全国の街々を巡回し、街角や広場に停車して宣伝イヴェントを行っていた。オープンデッキは即席のステージ替わりであった。その名の通りのカバを象ったカバヤ、商品パッケイジそのままの塗色だった明治キャラメル、テレビの積込まれて移動街頭テレビとも云えたナショナルの宣伝カーなどをご記憶の向きも多かろうと思う。高価な特殊装架車だけに一つの企業が同型の多数を保有していたとは思えないのだが、それは札幌の街角にもやって来たから、フェリィの一般的でない当時には貨物船で航送したものだろうか。
テレビの普及と共に、そのマスプロモウションの役目を譲って衰退した宣伝カーだけれど、今でも選挙運動の際などに登場して、まだ在ったのかとの驚きと共に懐かしく眺めもしている。

実は60年代の日本国有鉄道もこれを保有していたのである。サテライトカーと呼ばれ、1965年に開設の始まった「みどりの窓口」に倣って「みどり号」と命名されていたそれの道内導入、北海道支社札幌鉄道管理局への配属は1967年7月22日のことであった。国鉄の広報車であるから、さすがに奇抜な車体形状や派手な装飾のなされるで無く、通常のマイクロバスの車体をオープンデッキ構造に改造したものであり、愛称通りに白地と緑のラインに塗り分けられていた。
車体側面には移動販売用の出札窓口の2箇所が設けられ、車内には2人掛けと6人掛けソファの二組にスライド映写設備が装備され、オープンリール式のテープレコーダと拡声装置も持っていた。
運用担当とされた札幌局旅客課では、早速にこれを朝に札幌駅前広場に停めて海水浴場への切符販売の特設窓口とし、午後には銭函海水浴場近くに移動して帰路の切符を売り、拡販と銭函駅の混雑をも回避したと記録に在る。また、官庁街や企業工場、自衛隊駐屯地、或は団地等に出向き、車内設備を利用して旅行相談や旅行商品の説明・販売を行った他、貨物課にも貸し出されて荷主所在地でのコンテナ利用促進キャンペーン等にも使われて札幌局の増収に寄与した。おそらくは道内他局にも貸し出されたものと思う。
目的外には、沿線通信網へ接続可能な通信設備を持ち(当時には有線通信)、災害事故や異常時などでの現地対策本部としての機能も考慮されていた。「みどり号」の写真は、道新のフォトデイタベイスに在る。

写真は銭函の沿岸を走る711系電車は、872M列車小樽行きである。
夏場のカットを撮っておらず、波浪の光景をご容赦いただきたい。ここが海水浴場とされていた1980年代半ばまで、写真背後の狭い石の海岸は立錐の余地の無い程に海水浴客を集めて、それを「込み」で撮ろうなどとは思わなかったのである。自動車で到達出来ないこの位置へは多くが鉄道利用だったろうから、銭函での「みどり号」による特設窓口は的を得ていたのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/250sec.@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌 (千歳線) 2004

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停車場は勿論のこと、隧道に橋梁、架道橋、跨線橋、踏切など線路上の構築物には名称が付されている。「日本国有鉄道建設規程」や「地方鉄道建設規程」のような政令がそれを求めているでは無いが、国鉄で規程類近代化のなされて以降なら内部統制規程の「線路管理規程」(1964年4月1日総裁達第179号)や「建造物管理規程」(同総裁達第180号)に定めが在った。
線路起点からの位置にて同種施設を特定出来ないでは無いけれど、管理上の便宜からである。旅客に貨物を扱う停車場には当然として、公衆との接点となる踏切などにも必須であろう。私設鉄道や海外には、これを「一号隧道」とか「○○駅(基準駅名)三号踏切」などの事例のごとくに番号とした事例もあるが、国鉄線では固有名称が大半である。
利用者への案内や地元自治体の意向も考慮せねばならない駅と異なり、信号場などの非営業停車場や公衆には無関係の隧道や橋梁への付名は国鉄独自の判断で行われ、原則的に地名や山名、河川名に準拠したのだが、それらには実態にそぐわなかったり、出自の不明な事例も多い。区別さえ出来れば良いのだから、それで部内には何の不便も生じないのかも知れぬが、それを覗き見させてもらう鉄道屋には不思議な事例も多々あった。

千歳線の上野幌-西の里信号場間には三箇所に橋梁が架けられている。いずれも新線建設に際して、築堤により施工基面高30M50を確保した上野幌から椴山地内の最高地点60M00に向けて10パーミルを維持する縦断線形に、野津幌川低湿地の丘陵への陥入部に架橋されたものである。水流を渡るでは無いのだが、橋脚にPC桁の構造に橋梁と区分され、上野幌方の延長231メートル橋梁には「大曲」の施設名称が与えられていた。
北広島市史などを調べれば、同市大曲の地名の起こりは、札幌本道(現国道36号線)の札幌市との境界にあった谷(現大曲川)へと急坂で降りていた屈曲した道筋に在ると云う。現在の大曲並木付近である。大曲橋梁からは直線でも南西へ4キロあまりも離れる。
nup-or-o-pet(野津幌川)の最上流であるこの地域は、古にはそのヨシ原以外は原生林に囲まれて固有地名のあるでなく、開墾の進展とともに広島村の開拓地名であった西の里が西へ拡張し、南に生まれた大曲の地名もこの付近まで北上したのだろう。加えて、本来なら奥野幌とでもすべきだった上野幌駅が名称そのままに移転して、このあたりの地名に混乱を与えている。
所在地名に従って西の里橋梁とし、続く二つを第二・第三としても良さそうにも思えるが、旧線上に西の里を名乗る信号場が存在して、その位置からは離れることに加え、野幌の名は駅や橋梁に既存だったゆえにやむなく大曲を採ったと推定する。かくして、札幌市里塚地区からの延長で住宅街として市街地化の著しい大曲地区とは関わりのない位置に、それを冠した鉄道施設の存在することになったのであろう。
余談ながら、車窓が渡辺養鯉場の養殖池を見下ろす位置の延長82メートル架橋に与えられた「橋本」の由来は全くに分からない。

近年まで西側のクマザサの丘から全体を見通せた大曲橋梁だけれど、道路沿いの樹木が成長してそれは困難になってしまった。けれど、南側地平からの仰角は健在で、背後に写り込む西の里小学校に続く丘陵が色づく頃の景観は好ましい。澄んだ天空と僅かに黄色味がかった光線は、確かに10月の風光だ。
橋梁を高速で駆け抜ける列車は、5007D<スーパー北斗7号>。その速度にはシャッタ速度1/500秒でも微細にブレる。
ところで、この立ち位置を含め、付近の水田は最近に耕作が放棄されている。とっくに業者の手に渡っていて、宅地開発でも始まるのだろうか。

[Data] NikonF5+AiAFMicroNikkor105mm/F2.8D 1/500sec@f4 NON filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1982

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長万部輪西間鉄道の必要性は、函館-室蘭間が小樽、岩見沢経由で北海道鉄道と北海道炭礦鉄道の私設鉄道にて結ばれ、北海道の鉄道が道庁鉄道部の所管であった当時から関係者には認識されていたものと思われる。それは両都市間の、しいては青函を経ての本州との距離を凡そ270キロあまり短縮するのに加え、小樽回りに比して勾配を緩和するからであった。しかしながら、山越郡長万部村静狩から虻田郡虻田村まで30キロ近くに続く峻険な地形の海岸線には難工事の予想され、着工に躊躇して居たのである。

その建設促進を熱心に運動したのは意外にも函館の財界とその意を受けた函館市当局であった。先の私設鉄道が『鉄道国有法』(1906年3月31日法律第17号)により相次いで国有化されると、1909年に周辺町村を巻き込んで函館商業会議所会頭を会長とした「渡島開発期成会」を結成し、同年に視察のため来道した後藤新平逓信大臣(鐵道院総裁を兼務)、大浦兼武農商務大臣への陳情を皮切りに、函館地域の政界財界を挙げての熱心な運動を繰り広げたのだった。
函館財界は、その開通により函館と室蘭の短絡ばかりでなく、この路線が函館線に加えての樺太に至るまでの各地との幹線路となれば、本州連絡の中継地の地位を背景に道内物資集散の中心拠点と成り得ると目論んでいたのである。
それが功を奏したものか、長万部輪西間鉄道は1918年に政府の取り上げるところとなり、第41回帝国議会で審議の『北海道鉄道敷設法中改正法』(1919年3月25日法律第21号)にて第二条に規定の予定線に追加、1919年4月1日付にて北海道建設事務所の所管に組み入れられ(1919年3月31日鐵道院告示第16号)、長輪線の建設線名により同年度から8年間の継続事業として建設に着手されたのだった。

計画に2年を遅れたものの、1928年9月10日の長輪線としての全線開通は道内の貨物輸送に一大変革をもたらし、函館市・財界の目論見を成功に導いたのは勿論のこと、道内産業に様々なインパクトを与えもした。鉄道省は直後に公表の「長輪線建設概要」の冒頭に「本線は北海道に於ける所謂拓殖鉄道と其の趣を異にし都市より都市を結び港湾より都市を連絡する本道中最も優秀なるエコノミカルライン」と記し、この新たな幹線鉄道を自賛する程であった。

函樽鉄道そして函館本線の中間駅に過ぎなかった長万部にとっては、幹線鉄道の結節点として要衝化する契機となり、1923年12月10日の静狩までの開業時点にて、まずは構内の拡張と改良の行われたものと思う。同年度の鉄道省年報の長輪線の項には「機関庫の移転」との記述があり、この時点で機関庫施設も開かれていたと知れる。但し、本格運用は見送られていたとも思われ、それは長輪線全通時に黒松内機関庫の分庫となり、1932年5月15日付にて本庫に昇格した(長万部町史による)。機関区に限らず客貨車検修区や保線、工務関係区所の移転・開設の続いて国鉄職員・家族の数百人規模での居住には商業の活況を呼び込み、鉄道の開通により宿場町として衰退していた長万部は、今度はその鉄道により発展したのであった。
鉄道の官舎群は当初に構内南の線路山側に置かれ、戦後に架けてこの一帯が市街地化する切掛けであったのだが、駅の縮小とともに全てが取り払われ、現在には住宅街に広大な原地を残すのは皮肉にも思える。

初夏の宵、薄暮の長万部6番線(4番ホーム)で発車を待つのは125列車、小樽行き。
ここで小一時間ばかり停車する。乗務員詰所へと引揚げるのは、この列車に函館から乗って来た車掌であろう。
扇形庫は取り壊され配置車両も無くなっていたけれど、乗務員区として機関区の名は健在な頃である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/30sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

浜頓別 (天北線) 1985

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旭川稚内間鉄道は1896年に成立の『北海道鉄道敷設法』(1896年5月14日法律第93号)第二条に規定の「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」を建設の根拠とし、この年7月の臨時北海道鉄道敷設部による調査をもとに早急に建設に着手すべき第一期線に組み入れられたものである。法定条文に経過地の記されないこれに対し、同敷設部は音威子府以北区間について「天塩川・サルペツ原野回り」と「頓別・猿払原野回り」の比較検討から、距離の短く且つ北見・天塩国境越えにも勾配の緩い前者の採用を前提に、名寄以北区間の工事を1909年9月に着工したのである。
しかしながら、この1900年代初頭は、道内における鉄道敷設の主導権が、それまでの大地主たる華族集団から当時に台頭しつつあった新興資本とその代弁者たる政治家・政党へと移行する時期と重なり、鉄道の誘致は各所において、巨大政党であった立憲政友会とそれに対立した同志会(後に憲政会)の地盤と利権確保の具とされ、この音威子府以北区間もその政争に巻き込まれるところとなった。ここで予定の天塩経由維持を主張したのは政友会であり、反政友会系の大同クラブ(同志会)が、頓別原野経由とする『北海道鉄道敷設法』改正案を提出した1912年2月の第28回帝国議会にて両者は厳しく対峙し、線形からも建設の容易さからも天塩経由の優位性は疑いの無いところではあったけれど、その激烈を極めた政争に鐵道院の正論の入り込む余地も既に無かったのである。
これは鐵道院総裁後藤新平の政治判断をして頓別回りにて決着するのだが、そこには同時期にやはり海岸線と山手線との争いの在った湧別原野網走間鉄道の政友会が主張する山手線採択と相互に裏取引の存在も囁かれるものの、確証は残されていない。
いずれにせよ、鉄道線路は、この頓別原野経由線と云い、常紋国境越えの山手線と云い、比較線のありながら難工事の想定される経路に建設せざるを得なくなるなど、最早鐵道院が自主判断で合理的に選定出来るものではなくなっていたのだった。

頓別原野線は、この決定を受けて同年10月に小頓別まで区間から順次着工したものの、そこの天北隧道が軟弱地質に加えての強い土圧に難行し、頓別川流域から猿払原野に続いた泥炭地への路盤構築にも難儀して稚内への到達は1922年11月1日にずれ込み、それは政友会の巻き返しにて着工された天塩回り線の全通に僅か4年を先行したに終わった。しかも、距離の長い上に宗谷丘陵越えに半径300メートル台の曲線に12.5パーミル勾配の連続する線形は、それに樺太連絡の幹線の地位を譲らざるを得ないものであった。
とは云え、開通した線路は頓別・猿払原野の開拓に資したには違いなく、中頓別町史や浜頓別町史には入植の促進による沿線駅周辺集落の発展と現在には想像も出来ない繁栄の様子が記録されている。

建設距離の短縮のためであろうか、常盤付近からクッチャロ湖西岸の通過を予定していた線路を当時の頓別集落に近づけ東岸経由とさせたのは、その一帯に土地を所有していた菅野栄助であった。菅野は用地の提供を申し出て、そこに浜頓別停車場が置かれた。そればかりか原野であったそこへの市街地形成にも私財を投じたと町史にある。浜頓別の駅名は頓別川流域原野の最も海岸寄りの所在から鉄道院の付名したものだが、やがては新市街と呼ばれていたその地名となり、後に町名とまでなった。なので、浜頓別市街は頓別市街よりも内陸に所在する。

写真は浜頓別に到着する303列車<天北>。
この日、上川地方大雨による80分の遅延は日没直後となって、7月とは云え露出の苦しいのは否めない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8ED 1/30sec@f2.8 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1990

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去る2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による津波は北海道内浦湾(噴火湾)岸にも到達し、豊浦町の本町地区では同日19時05分に最大波高3.4メートル(札幌管区気象台速報値)を記録した。人命の失われこそしなかったものの、豊浦漁港に面した、いぶり噴火湾漁業協同組合豊浦支所や一般住宅36戸が床上床下浸水し、ホタテ養殖施設には約30億円に上る損害を与えた。1960年のチリ地震津波の最大波高2.06メートル(北海道庁公式値)を上回り、近年では最大の津波であったのだが、噴火湾岸は過去に二度、これとは比較にならない程の大津波に襲われている。どちらも地震では無く、その湾名由来の火山噴火にてもたらされたのが特徴的である。

ひとつは歴史時代を遥かに遡る、およそ7000年から8000年前とされる有珠成層火山の大崩落、今に云う「善光寺岩屑なだれ」により引き起こされた大津波である。これによる堆積物が駒ケ岳周辺を始め多くの内陸地点で見つかり、その規模が推定されている。
対して、その駒ケ岳の1640年の大噴火による大津波は、全て後年の聞き書きながら「内浦嶽発火動山海蒼海水溢人夷溺死者甚多人里破壊船百餘隻 」(松前年歴捷径 1799年)、「ウスノ善光寺如来堂ノ后口山マデツナミ上レリ」(雑羅記録 年不明)、「十三日午後ヨリ内浦ヨリ東夷地マテ津波商船夷舶夷船人数七百餘人溺死」(福山舊記 1834年 )、「山峯焚頽而堕于海木 石飛散,海嘯大起」(日本災異志 1894年)など多くに記録された。
標高1700メートル程と推定された成層火山だった内浦嶽(当時和人はそう呼称した)は、同年7月31日(旧暦6月13日)のプリニー式大噴火の直前に山頂部の500メートルを吹き飛ばす水蒸気爆発を起こし、これによる岩屑なだれは東および南斜面を流下して噴火湾に没入し大津波を生じさせたのである。
近年の研究(※)によれば、この津波は土砂の海面突入後20分で室蘭母恋半島南岸に、40分後までには噴火湾全岸に到達し、堆積物の発掘調査と堆積物没入量と速度から計算される遡上標高は、森町鷲ノ木で6.8メートル、伊達市アルトリ岬で8.3メートル、伊達市黄金で10メートルと推定され、それは前記の「雑羅記録」から伺える善光寺如来堂の標高8.5メートルを裏付ける結果となっている。それは発掘地点の地形から最低遡上高であり、総じて湾岸には6メートルから11メートルを越える波高の津波が押し寄せたとされる。それは先の災禍での大船渡や気仙沼、久慈に匹敵する。海溝性地震によるそれと異なる短い波長には、まさに壁として来襲したに違いない。

700人を越える溺死者とは、全てがこの当時に湾岸に暮らした先住民族アイヌである。文字を持たなかった彼らは、その被害に教訓を口碑として残した。それを採取した人類学者-吉田巖は1915年に人類学雑誌に発表した「アイヌの天地山水説話」にこう書いている。
「内浦湾沿岸のアイヌ間にも昔大海嘯のあつたと衆口一致してある。膽娠元室蘭はそのため寳器什物遠く對岸の禮文華エコリの岬に漾ひ附きてエコリの名を留めオシャマンベヌプリ(長万部山)、コンポヌプリ(昆布岳)は、鰈(シャマンベ)、昆布(コンポ)がその山に打揚げられたからの命名といふ。斯く海岸からかけ離れた山にまで海に因んだ命名を在するのは必ずしも海嘯の結果とのみ解することはできぬがその多くは海嘯に因むようである。」
津波によって長万部岳や昆布岳に鰈や昆布打ち揚げられるとはあり得ない話だけれど、その遡上の高さや内陸深くまで達した浸水の様子が伝承されたものであろう。
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(※) 北海道駒ヶ岳噴火津波(1640年)の波高分布について : 西村裕一・宮地直道 (火山第43巻第4号 1998年)

礼文華浜を背景に峠への築堤へと向かうのは150列車。萩野からのロール紙輸送のワキ5000編成にコンテナ車を併結編成した運転だった。
津波は、この狭い開口部一杯に押し寄せ、推定波高からは、海岸線より2.7キロ余り離れた現在の鉄道築堤付近にまで遡上したと思われる。画角に写る平野部は勿論全てが水没域となる。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

新札幌 (千歳線) 2002

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千歳新線は厚別川橋梁に続く厚別高架橋(l=1115M)の東端で、左55度33分の斜角にて国道12号線を上空に交差し、ここに支間62.4メートルの並行弦下路式単純ワーレントラス橋が架けられている。国道12号線跨道橋である。
都市内でのトラス橋の採用は、もちろん幅員のある道路を中間に支点を設けずに架橋するところにあるが、より考慮されるのは路面からの空頭確保である。ここでは国道を越える40メートル程の支間に鈑桁橋ならボックス桁を要して、必然的に上路式となるそれの見送られたものである。
よって、当初よりトラス桁構造にて計画されたのだが、その間に札幌市による都市計画道路(*1)のこの位置での交差が決定し、支間の延長を要したのである。これには協議により設計変更分を札幌市の負担として1972年4月の架設予定にて現行のトラス桁が発注されたのだった。
ところが、当時に厚別高架橋の通過地域で騒音を理由に建設反対の声が挙がり、これに反応した札幌市当局の要請により国鉄は桁に発生する騒音の防止対策を求められるところとなった。既に桁自体は通常の無道床構造にて完成していたため、前例の無い有道床への改造を迫られたのである。この時点で橋台などの下部構造も完成しており、問題は有道床化によるレイル面のこう上(*2)と重量増加であった。現地での調査により下部構造の強度は十分とされたものの、レイル面の変動は220ミリ以内に収めねばならず、これにはかなり設計に腐心した様子であり、このための補強材も追加された。
結果的にその重量(死荷重)は、当初の289.6トンに対して300トンを加えた589.6トンにも達して、1973年6月5日深夜に行われた架設作業では大型クレインの使用は困難となり、全面通行止めとした国道上にレイルを敷設し、油圧ジャッキを装備した台車を用いる移動ベント式にてなされたのだった。
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(*1) 現行の厚別中央通である。なお、この国道12号線交点より南側は1996年2月29日付にて道道1138号線に認定されたものの、引き続き札幌市の管理下にある。
(*2) 「こう」は、てへんにエの字である。Macにインプットされていない。土木用語。

この大構築物の撮影は高架橋の連続する区間ながら、幸いにも近隣に所在の新札幌停車場乗降場から可能であり、札幌往来には定番の位置となっている。それしか採れない画角には、これを背景としたカットを多く見かけるけれど、ここはやはり前景だろうと思っている。背景が空に抜けるから、それで印象を差別化出来る。
写真は、8010列車<カシオペア>。
ヴァリエイションは、新札幌 (千歳線) 2001新札幌 (千歳線) 1999 にある。

[Data] NikonF4s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f4 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

花石 (瀬棚線) 1973

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以下を、茶屋川 (瀬棚線) 1971 の記事の補遺とする。

1910年に制定の『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)とは、それに準拠して鉄道が建設されると云うのに僅か8条の条文しか持たなかった。その法定の意図は、1906年に鉄道国有法を制定して国家骨格の幹線鉄道を買収した結果、新線建設への資金余力を失った政府に替えて民間資本による必要とされる地域交通線の建設促進を図るものであった。それらが輸送量も少なく、簡易な規格にて済むものと考え、零細資本での参入に配慮して大幅に規制や規格を緩和したゆえの8条なのである。しかも、開業後5年間に限り建設費に対して年間5パーセントの収益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月27日法律第17号)も定められ、さらには従来の私設鉄道法からの転換も認められたので、以後に所謂軽便鉄道ブームが続いた。この時代に開業した私設鉄道は実に多い。
ところが、この法律自体が成立からそれを織込み済みとの推測も成り立つのだが、すぐに政治的に利用されることになる。時の帝国議会は、民間資本を想定していた当法の解釈を拡大し「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」に限り、当法に準拠した簡易規格の国有鉄道線を帝国議会の予算承認のみで建設可能としたのである。これにて時の政権党立憲政友会は勿論、対抗した同志会(後の憲政会に民政党)にしても自らの意になる地盤獲得手段を手に入れ、以降に国有軽便線の多くが政治路線と化すこととなった。現在まで尾を引く地方交通線問題の全てはこれに端を発したとして良い。

前記の記事にも書いたように、軽便鉄道法の下に計画の進められ、第一次世界大戦後の戦後恐慌期の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で建設の協賛を得た瀬棚線は政治路線の典型であった。そればかりか政友会代議士加藤政之助の個人利権路線ですらあった。彼の弟が沿線の大地主だったからである。
部分開業を経ての1932年11月1日の全通は沿線住民には福音に違いなかったが、20年の運営を経て、発足直後の日本国有鉄道が1953年11月に通達した「線区別経営改善計画」にて既に経営の困難な非採算線区とされ、北海道支社は1958年10月1日付でこれを青函船舶鉄道管理局駐在運輸長の管轄から分離、局長直属の瀬棚線管理長による運営として経営改善に乗り出さざるを得なかった。
ちなみに、この時期に道内で管理所や管理長、運輸区方式にて運営の分離されたのは、胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線があった。
国鉄による1959年の資料で、管理長制度による瀬棚線の同年上期の経営成績は前年同期に対し、3駅の要員無配置化(=棒線化)、1駅の業務委託化、夜間当直の廃止等による17人の要員減をともなった機動的運営により、営業係数を226から180に改善し、赤字額は7,622千円を圧縮する31,347千円とある。貨幣価値は現在と異なるが、大きな改善効果を挙げたには違いない。けれど、この線区別経営の制度は主には合理化による経費の圧縮を目的としていたから、それの往き着いてしまえばそれ以上の改善は見込めないものであった。
1966年の待望の函館直通急行の設定は、青函局に年間25,000千円の増収をもたらしたとは云うが、それは瀬棚線内旅客ばかりではなく長万部、黒松内方面を含んでのことであり、経営改善の端緒とはならなかった。

第二渡島利別川橋梁上の列車は1992列車。日中の上りはこれしか撮れなかったのだが、1993列車とは花石で行違うダイヤには場所の移動は叶わない。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1986

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北海道東部で太平洋岸とオホーツク岸を連絡する鉄道は、『北海道鉄道敷設法』(1896年5月14日法律第93号)第二条に「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」として法定されたものであった。これは同条の第一項に掲げられ、政府は道央と十勝、釧路との連絡と共にオホーツク岸に最初に達する幹線鉄道として、同法に定めた路線中で最も速成を期すべく第一期線に編入していた。途中、標茶から跡佐登の間は既設の釧路鉄道を買収の上利用する計画であった(1897年10月31日付で買収)。
厚岸経由は、この時代まで釧路を凌ぐ中心都市であったことに加え、1890年に旧士族440戸が国策の下入植した北・南太田屯田村への交通確保を目論んでのことである。しかしながら、この根釧原野の只中への入植は厳しい自然条件に屯田兵村以外には進展せず、政府は1903年に、それを理由に厚岸-網走間を第二期線に格下げ、これに替えて『北海道鉄道敷設法』第二条二項に規定の「十勝國利別ヨリ北見國相ノ内ニ釧路國厚岸ヨリ根室國根室ニ至ル鐵道」の前段を池田-野付牛間とした上で建設に着手し、これが網走に達した最初の鉄道となった。沿線官有林の払下げを受けていた産業資本の意を受けた立憲政友会の画策が功を奏した結果だった。
これにて、釧路-網走間鉄道は10年あまりを遅滞することとなり、この間の釧路の発展とturi-tuye-us-i(鳥通)原野やkuma-us-i(熊牛)原野など釧路川東岸台地への入植進展を背景に、釧路線からの分岐を釧路に改めて標茶までの区間が1914年8月にようやくに着工を迎えたのだった。

1927年9月15日に釧網線として開通した別保信号場(後の東釧路と同位置)から標茶の区間は、釧路湿原に根釧台地の尽きる縁端をトレースする線形が選ばれ、ここに両端を除いて5箇所の停車場が設けられた。何れも旅客・荷物・貨物を扱う一般駅であり、それによる開拓地の換金作物の安定的大量出荷は農家の収入確保に寄与し、生活物資の供給と物価の低廉は生活の安定をもたらしたのだった。
けれど、戦後に至って、1880年の開削以来に悪路であった釧路標茶間道路(現国道391号線に相当)の整備が進むと、開拓地を貫通していたそれに輸送は次第に転移して往き、遠矢と五十石の貨物扱いは1960年度と云う早い時期に、細岡・塘路・茅沼についても1973年2月5日付にて廃止され、併せて塘路を除く各駅からは営業要員が引揚げられてしまった。
この際には、連査閉塞の運転要員だけは残されたのだが、その後もこれら各駅の縮小は進み1824年2月1日改正にて細岡の閉塞扱が廃止、1986年11月1日改正での電子閉塞の施行には残る全てが要員無配置となり、茅沼では閉塞扱も廃止されて現況となっている。
ここは、1970年代には既に釧路-標茶間の通過連絡が主体だったのである。

写真は中丿沢川橋梁付近のR=362曲線を旋回する5690列車。釧路操車場から北見への石油輸送列車である。
所定は重連仕業だが、荷の軽い夏場には単機牽引だった。
余談だが、釧路町役場遠矢支所によれば、とっくに無人と思っていた細岡駅前には現在も2戸が居住とのことである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小沢 (函館本線) 1975

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小沢駅構内には特徴的な形態の旅客跨線橋が現存している。乗降場との昇降階段部屋根が跨線部より一段低いそれは、跨線部端より通路を階段とし、階段部の上部に踊り場を設置した設計による。
これの建築年は今のところ調べ得ていない。そこには「明治」と打ち出された金属製の建築物財産票(財産種別は旅客上屋とある)が打ち付けられているのだが、既に「年月」の刻印は読み取ることが出来ない。もっとも、北海道鉄道(初代)の開設であるこの停車場では、その当時より当該跨線橋の存在したとしても、刻まれたのは1907年7月1日付での買収以降の「年月」である。
古い写真や絵葉書を閲覧すると、同じ北海道鉄道出自の八雲に倶知安の他、帯広、岩見沢、苫小牧、栗山にも同形態の跨線橋の存在が見て取れる。この内、岩見沢での1898年、帯広の1909年、苫小牧の1911年の設置が鐵道院年報等で明らかであり、八雲も二代目駅舎への改築に合わせてならば1915年となる。北海道炭礦鉄道運営当時の岩見沢を除き、いずれも鐵道院北海道鉄道管理局による建築である。
おそらくは小沢も同時期と推定され、最も可能性として考えられるのは1912年11月1日の岩内軽便線の接続時点だろう。その開業は鐵道院年報に只の一行が費やされるだけなのだけれど、本線本屋側への乗入れには乗降場の増設は勿論、本屋の改築も伴ったかも知れない。翌年に国富停車場が開設されて国富鉱山への専用線が分岐すれば、ここからの貨車の煩雑な出入りに跨線橋を要したのだろう。
ところで、その1912年を考えれば、1898年の「鉄道建築定規(鉄道工事設計参考図面-停車場之図)」に、1900年の「停車場内建築定規」の共に鉄道局通達により停車場建築の標準化の進展した時期にあたり、1912年11月に設置の野付牛(現北見)の跨線橋は、確かに1909年12月達第1044号の「停車場内跨線橋定規」に示された図面に準拠したと思われるのだが、小沢のごとき設計はそれには見当たらないのである。1898年の北海道炭礦鉄道による岩見沢への設置に端を発したものとすれば、これは北海道の私設鉄道に流れを汲む例外的形態となるのだろうか。

永年の風雪に耐えたその外観の、絵葉書に示された往年の八雲や倶知安の姿との比較では、跨線部に架設の鈑桁や階段部の屋根まで延長された一部の鉄骨は後年の、おそらくは戦後の補強・改修と見える。さらに踏み込めば、木造の上部構造とて腐食には更新の行われたことだろう。かつてには木製だった窓戸(写真のごとく)も然りである。従って、1912年の設置と仮定しても100年を経て残る部材は一部に過ぎないだろうが、他駅のそれが全て失われた現在では往時の姿を伝える希有な存在に違いはない。歴史的建造物としての保存に十分な価値がある。

外の強風を避けて列車を待つ親子。上りへの乗車は倶知安までの一駅だろうか。
踊り場からそっとスナップさせてもらった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f5.6 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1997

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函館でも25度、稚内ならようやくに20度を超えるに過ぎない太陽高度による低い斜光線に、冬至を挟む12月に1月の渡道を永いこと定番にしていた。冬の枯れ野にせよ、風紋の雪原にせよ、それは列車とその背景に深い陰影を落としてくれたからである。
けれど、それと引換えの遅い夜明けには、海峡線の開業して本州からの特急寝台列車が道内の朝を走り始めると、それの冬姿には敢えて避けていた2月の末から3月を加えねばならなくなった。1998年の冬までなら1・8001・3(6003)列車が30分程の間に雁行する上に、冬期のみには8009のスジで<エルム>の走ることもあり、それらは函館を4時台後半、長万部でも6時台、東室蘭でようやく7時台だったから、函館線内は諦めるとしても長万部での常用薄明時刻が6時を繰り上がる2月下旬以降を待たないと、室蘭線非電化区間内でも撮れなかったのである。
積雪の始まる12月初旬のそこでの常用薄明は早くも6時30分前後に繰り下がって、選択肢は他に無いので致し方のないところだけれど、北海道とは云えども3月の道南噴火湾岸は融雪期に入って線路は黒く露出するばかりか、北岸斜面に多くを占めるブナ、ミズナラ、シナノキ、イタヤなどの落葉広葉樹の樹林が針の山の如く残雪に突出し、撮影地点や画角を考慮せねばならなかった。

豊浦の国道沿い寺院裏手の緩斜面から貫気別川橋梁前後区間を望む画角は、背景のそれを避け得ず、降雪直後に限定されていた。
写真は、待望していた3月半ばでの雪景色。新雪を蹴立てて貫気別川橋梁を渡るのは6003列車<北斗星3号>である。
177に聞いた翌日の胆振方面降雪の予報に予定を急遽変更、夜遅くに洞爺の浅野旅館に入り、未明にタクシーで豊浦へと向かってみれば、予想外の激しい降雪に1列車に8001列車は白いカーテンの向こうだったけれど、その30分後の小康にどうにか出会えた6003列車である。この時期に至れば豊浦での常用薄明時刻は5時20分台に入り、7時の通過だったこの列車ならLBフィルタを外しても撮れた。

3月の渡道には福音もあった。融解と凍結を繰返す南斜面の積雪は表面が固く締まりズボることが無い。雪面ならどこまでも踏み込めたのは痛快にすら思えた程だ。ただし、積雪にクマザサの埋まっていると、その生体熱で内部に大きな空洞を生じ、表面層を機材と体重で踏み抜いてしまうと難儀なことになった。雪の深い常紋では身体全部が嵌り込んでしまい、脱出に30分余りを要すると云う痛い目にも遭っている。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f8+1/2 NON filter EPL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

山越 (函館本線) 1993

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1700年2月に松前藩が幕府に提出した「元禄御国絵図松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」という地図(北海道大学北方関係資料室収蔵)には、噴火湾西岸の「ゆふらっふ」の地名に続いて「膃肭臍有」と記され、また、1717年の幕府巡検使による「松前蝦夷記」(同前)にも、彼らの持ち帰った「土産」のひとつであった「膃肭臍」の産地として噴火湾一帯の地名が書き込まれており、そこは古より、このアシカ科の海獣オットセイの生息域だったと知れる。

これを狩猟して食用とし、また毛皮を防寒着に利用して来たのは沿岸に居住した先住民族アイヌの人々であった。膃肭とは彼らがこの海獣を指したonnepの中国語に転訛した表音に当り、オットセイの語源はアイヌ言葉に発する。彼らがそれを承知していたかは調べ得ていないが、中国ではその陰茎や睾丸が強壮剤など漢方薬の原料として珍重され、それを膃肭臍と呼んだのである。
ここに進出した和人は、それの対中国輸出品としての商品価値や自らの処方に、アイヌ民族に対し米や酒、煙草などの物資を獲物あたりに与えて猟を奨励したのだった。これらは、何れも和人との接触以降に彼らの生活に入り込み、自らの生産は叶わぬものであった。酒の例ならば、狩猟の民としての儀礼などに当然に固有のそれは存在しただろうが、その原始的な発酵酒と異なり、彼らの持たない米を原料に並行複発酵と云う特異な過程にて造り出された清酒や濁酒に取り込まれてしまったのである。本来、必要以上に資源を搾取しない彼らではあったが、酒、煙草欲しさに猟に出た者の居て不思議は無い。ここでの乱獲の始まりであった。

1799年に北方警備の要から東蝦夷地を直轄領とした幕府は、1801年に箱館亀田に所在の関門をヤムクシュナイ(山越内)に移し、ここで東蝦夷地への通行を厳しく監視した。これは国防上の事由であったから、蝦夷地に居住したアイヌ民族の撫育が課題であった。「撫育」とは礼を失した言葉だが、このためにも彼らが交易上に不満を持っていた民間の運上屋を廃して、これを直轄の会所として価格の適正化や品質管理を徹底、分量や量目の不正も排除し、その生活に配慮することにもなった。ここでも彼らが味を覚えた(覚えさせられた)酒も、また手段として欠かせぬものとなり、松前からの移送に替えて幕府直営の酒蔵、酒造場がこの山越内をはじめ様似、釧路、国後に建てられ、周辺に酒を供給したのだった。
山越内の酒造場は、現在に旧山越構内を横切る酒谷踏切付近に所在したと言われ、それは1809年の「東蝦夷地山越内場所村鑑帳」(新北海道史第7巻に収録)中の酒造方記録によれば、75坪(約248平方メートル)の居宅向柾板葺、同規模の酒蔵、36坪の板蔵に、20間(約36メートル)に及ぶ水車小屋を1棟とあり、小蔵ながら現在にも通ずる規模である。この水力精米には当時とすれば品質の良い酒の醸されたことであろう。なお、醸造高の記録は無い。造りには下北大畑からの酒造集団が当り、毎年に12名が越年していたと伝わる。
1858年の「蝦夷実地検考録」(函館市立図書館郷土資料室収蔵)には、「会所ヨリ西北五町酒屋川ハ昔銅鉱ヲ掘シ時川ノ二町奥ニ売酒屋有シ故ノ名也基礎猶存ス」とあり、これより以前に酒造場は廃されていたようである。国鉄の踏切名称は酒谷だけれど、水車の掛けられていた川に酒屋川の名を残している。

写真は、八雲町浜松の噴火湾岸を往く臨時特急9016D<リゾートエクスプレス北海道6号>。この団体向け観光仕様編成の就役から間もない頃である。
ここも、短いながら波打ち際をトレースする区間なのだけれど、背後に水産加工施設が邪魔をする。近年には海側防護壁の嵩上げも行われて、撮影地としては不適となってしまった。この浜松跨線橋にもフェンスの架けられれば脚立が必須である。
噴火湾のオットセイは、絶滅寸前の1911年に保護の網が掛けられ、以来個体数を回復して現在にもアシカやアザラシと共に姿を現す。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR5 on Mac.

糠平 (士幌線) 1982

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先住民族の意志を何一つ諮ることなくアイヌモシリを植民地とした薩長新政権は、1869年に拓殖を管轄する中央官庁たる開拓使を置く。その本庁が1873年に札幌へと造営されれば、開拓のインフラ施設の整備、即ち奥地への道路開削と各地域への開拓拠点の設置が喫緊の課題となり、これに使役されたのが1881年の樺戸以来、空知、釧路、網走へと置かれた集治監の収容者(囚人)達であった。
道内にこれだけの集治監の設置は、当初には矯正労働として農地開墾に従事させ、放免後の道内定住化を意図してのことだったが、1885年に政府より北海道三県巡視に派遣された太政官大書記官-金子堅太郎が翌年に提出した復命書を切っ掛けに変質したのだった。少し長くなるけれど、それの当該部分を再録する。

「彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。」

民衆による革命ではなく、単に武家社会の封建制の看板を差替えたに過ぎなかった新政府の体質を如実に示す物言いである。当時の内務卿伊藤博文が採用したこの提案は、その後のタコ部屋労働を誘発する起点となったばかりか、現在に至るまで保守支配層に内在する階級是認の反動的体質そのものでもある。ここに使役された囚人達の大半は、佐賀の乱や新風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南の役などで新政府に対峙した政治犯とされた人々であり、決して犯罪者ではなかったのである。

1895年に開かれた北海道集治監十勝分監も、その設置そのものが十勝開拓への収容者の使役を目的としており、早速に拠点とされた帯広市街造営のための森林伐採に原生林の広がるばかりだった音更川上流のユウンナイと呼ばれた一帯へと送込まれている。当時には川筋を遡る他に道は無く、現地に越冬しながら伐採を進め、これを夏期に筏に組んで流下したと云う。そして、1918年の士幌村からユウンナイに向けての道路開削もまた彼らの使役により為されたのだった。当時に音更山道と呼ばれた後の糠平街道、現在の国道273号線にあたる。ここにも「囚人道路」の存在は忘れてはならない。

写真は強い西日に付替新線の不二川橋梁を渡る728D列車。
福島県相馬から1907年に本別村活込入植していた島隆美による原生林中への源泉湧出の発見は、その人馬交通路の開かれてこそである。島は1924年に湯殿山と名付けたそこに小屋掛けの湯坪を設け、糠平温泉の始まりとされる。
ユウンナイに達した道路からその位置までの通路は島が自らの手で開いたと云うが、その四半世紀後にダム建設に伴う付替で道路も鉄道もそこへ直接に達するとは露にも思わなかったことだろう。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1971

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あちらこちらに引用されて、ついつい読んだ気にもさせられていたイザベラ=バードの著作「Unbeaten Tracks in Japan(邦題:日本奥地紀行)」を通読したのは、それの新訳本の出たつい最近のことである。当時の英国上流社会に属した人間の極東の未開地に対する見方に新たな発見はなかったけれど、1878年の夏を費やした横浜から越後地方を経ての奥羽地域から北海道への旅の記録は、19世紀末の日本辺境の自然や生活、習俗が細かく書き留められた、近代以前の日本の民衆の暮らしを記した貴重な資料には違いなかった。

バードは、8月17日に箱館から小沼畔の宿へと向かう途上に通過した七重(現七飯)について「整然とした洋風の村が立派な農作物に囲まれている」と記している。これは1870年から1894年まで置かれた「七重官園」の描写に違いない。現在に七飯町が町民憲章の序文に「近代農業発祥の歴史をもつ七飯町」と書くのは、その存在ゆえである。ここでの近代農業とは西洋式農業を指す。その実践と人材育成に設けられた施設が官園であり、後の農業試験場の嚆矢である。七重官園はその最初の事例となったのだが、それは、ここで起きたプロシア人リヒャルト=ガルトネルによる土地租借問題の顛末と云う歴史の偶然の結果に思える。この薩長新政権を揺るがした「ガルトネル開墾条約事件」については、北海道のポータルサイト「なまら北海道」のコラムが簡潔にまとめている。
ガルトネルは本格的な農園経営と条約に忠実に日本人への西洋式農法の教授を実践し、1868年から開墾の始められた農園にはリンゴやサクランボ、ブドウ、セイヨウナシなどの果樹や、大麦に馬鈴薯、キャベツなどの西洋野菜に、牛や馬、豚などの家畜をヨーロッパより持込み、その飼料にアルファルファやクローバー等の牧草の栽培も行い、また農耕にはプラウなどの洋式農具が取り入れた他、温室栽培までも手掛けていた。
莫大な補償金を支払って条約を破棄した新政権は、これらを財産として入手したことにもなり、ガルトネルに教えを受けた多くの農民も残ったのだった。開拓使がこれをそのまま開墾場としたのが、七重官園の始まりである。正式には1873年に七重開墾場と命名、1875年には七重農業試験場と改称され、同年より稲作試験、1877年からは傾斜地を利用した大規模水車による水力製粉、1880年からは葡萄酒醸造、ハム・ソーセイジの畜産加工や久根別川での鮭の人工孵化まで始められた。
バードが目にしたのは、西洋式の建物も多くが建てられていたであろう官園初期の風景である。

40年ばかり前、連絡船から乗継いだ気動車急行は五稜郭の操車場に貨車の群れを見ると、横津岳斜面から続く緩い傾斜地を横切って軽快に飛ばし、両方の車窓には畑作地に牧草地、果樹園の交互に過ぎ去る光景が続いて、やがては右転しながら高架橋に駆け上がれば、それらが一望に視界を占めた。それは、確かに美しいと評しても良い官園からの名残の風景だったろう。市街地化の進んだ現在には失われた光景でもある。
写真は暮れなずむ七飯での2153列車、五稜郭操車場からの小樽築港行きだった。と云っても函館本線を直進するでなく室蘭・千歳線回りである。
ここに40分程停車して、特急に急行、普通列車までを先行させていた。長い停車時間にはブロアを開いて蒸気を保持する。太いボイラのシルエットは長万部までを牽くD52である。
背景には今は伊達市に移転してしまったクレードル興農のアスパラ缶詰工場が写り込んでいる。町内に多くの農産部加工場の成立も官園所在に由来した。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 Bulb@f11 NON filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 2000

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東日本旅客鉃道が1998年度末に新製したE26系列に属する各形式車は、日本の鉄道における客車の最終形式と思われたけれど、2013年度に至って九州旅客鉄道に77系列客車が登場した。客車史の新たな一行を喜ぶべきだろうが、心境は複雑ではある。とするのは、それが近年に顕著となった新たな形態の旅行需要に対応した極めて特殊用途の車両群であるからで、やはり一般的な旅客営業車両としての客車史はE26系を以て終わったとして良かろう。
もっとも、これで組成された<カシオペア>の全てを二人用個室式A寝台とした運転にしても、移動の必然による従来の夜行列車ではない。寝台の個室式化は新製時点の旅客嗜好から当然としても、一人用やB寝台の用意されなかったことが、それを物語る。

この仕様決定がどのようなマーケティングによるものかは知らないが、存在した個人需要には、2人用個室-販売名カシオペアツインの1名利用を前提とした企画券の設定にて対応がなされていた。1999年夏の運行開始から最初に迎えた秋冬の閑散期に乗車効率の芳しくなかったものか、その時期の空室対策と云う消極的な事由乍ら、2000年度の最初の全検を出場後の12月17日から3月31日の乗車分にまで発売された「カシオペアシングルユース券」である。
寝台券・特急券の効力を持つ,¥19450の発売額は,これまでの個室寝台料金に加えて定員分の特急料金も要していた1名利用に対して極めて低廉な設定であった。おそらくは<北斗星>の一人用A寝台個室-販売名ロイヤルを意識しての価格設定だったろう。ただし,本来の定員利用に配慮して,発売開始を利用日の2週間前に制限し,その際に空席のある場合にのみ発券された。東日本と北海道会社の企画券ゆえ、他の旅客鉄道営業窓口では取り扱われず、そこでは旅行会社に限られた。
これは、2001年度にも10月20日から3月31日乗車分までに価格を¥19400に改めて設定され、さらに2002年度にかけて夏期繁忙期を除いた4月1日から6月30日、9月17日から全検入場による運休前の11月13日までの乗車分に継続発売された。

設定の定着するものと思われたのだが、残念乍ら2003年度以降には発売されなかった個人利用の企画券は、2005年に「カシオペアひとり利用券」として再設定される。けれど、これは北海道旅客鉄道単独の企画券で上り列車での設定のみとなり、価格を¥19800に改訂、その期間も2005年1月8日から4月25日の乗車分に狭められて、発売個所も道内に限られたのだった。よって、内地からの旅行者に決して利用し易いものとは云えず、肝心の道内でも駅頭やチラシ等にて積極的にプロモウションされるで無く、閑散期の空室対策とも云えなかった。それでも、2010年まで毎年1月10日前後から4月20日前後までの設定がアナウンスされていたのだが、2011年以降には無くなっている。
<カシオペア>の予約状況を東日本旅客鉃道の専用サイトに見れば、夏期の旅行シーズン以外は空室を持って走ることの多いのが伺え、下りを含めた再設定を望むところである。

写真は、薄暮の苗穂へ進入する8010列車。既出の画角をお詫び申し上げる。
札幌駅の南口総合開発ビル(後のJRタワー)は着工していたけれど鉄骨は立ち上がっていない。その替わりに「そごう」のネオンサインが健在。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E200 [ISO400 / 1EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

美留和 (釧網本線) 1976

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地球の赤道傾斜角、自転軸の公転軸からの23.4度の傾きは、緯度の高い北海道に冬期間の遅い夜明けに早い日没、そして低い太陽高度をもたらす。本州からの特急寝台列車の走り始めてからは、それを電化区間でしか捉えられぬゆえ避けるようにもなったけれど、かつてには12月の渡道を定番にしていた。この時期なら浅い角度で差し込む斜光線を日中でもふんだんに使えたからである。
そして、曇りや降雪では意味の無いこれには、晴天確率の高い道東方面へスケジューリングの大半を充てていた。例えば12月半ばでの釧路における太陽の南中高度は25度に達せず、積雪の少ないこの地域の心象風景には、それの織りなす陰影の濃淡も相応しく思っていたのだった。日中を通じての黄色味を帯びた光線に加えて、16時前と云う日没時刻(太陽上辺)には15時を過ぎれば夕暮れに暮色の光景も見せてくれたのである。
ただし、短い昼間時間には撮影チャンスが持って往かれて、長い夜にバルブの対象を探すことにはなっていた。

その当時の12月渡道では釧網線中央部の弟子屈から美留和のあたりに必ず降りていた。標高150メートル程の高原状の沿線にはシラカバにミズナラやカラマツ、それにトドマツの樹林帯と牧草地が交互に続くだけで、これと云った立ち位置のあるで無かったけれど、南から西側が開けて屈斜路湖カルデラ西端の低い山稜を越えて斜光線が遮られることなく届いて、それらに陰影を与えてくれたのである。昼間の日射と夜間の冷気に融解・凍結を繰返して表面の固くなった積雪をサクサクと踏み抜きながらの線路端歩きも楽しいものだった。

列車は612D<しれとこ4号>。
基本編成のキハ27-2両の所定にこの日はキハ22が入っていた。後部の同形式は斜里までの増結車である。
凍結した雪面への降雪は強風に風紋を描いて、道東ではどうしても撮りたくなってしまう素材だった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f5.6 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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