"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

植苗 (千歳線) 1991

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国鉄の民営化時に旅客鉄道会社へ承継され無かったものに「客車運用(表)」がある。勿論、それ以降も客車列車は運転され、当然に運用表も作成されたのだが、その性格は異なったのである。運用に付される運用番号の記号が、国鉄当時の「北東」や「大」の鉄道管理局の略号から「尾」や「宮」の運用担当区所へと替わったのは、この際のことである。

鐵道院・鉄道省の時代より客車は、その地方組織である鉄道局に「配属」され、鉄道局が保守管理に運用受持とした常備駅に「配置」されるものだった。次第に常備場所は、駅の一部から現業機関として独立した客車区や客貨車区が大半となって往く。
鉄道創成期に、現場組織としてはそれしか無かった駅が上部組織の監督の下に、その管理・運用を行った名残であろう。戦後に日本国有鉄道も伝統的にこれを踏襲し、運用は鉄道管理局毎に定められ、運用表の運用番号にはその略号を冠し受持区所の配置区が併記される所以である。そして、運用は出区から帰区までが単位とされ、原則に暦日を単位とした機関車など動力車とは考え方が異なっていた。
これは、蒸機機関車の運用がその能力から狭い範囲に限定されていたことに加え、乗務員運用と一体で考えねばならない運用は人間の活動サイクルである暦日単位が自然であったのに対して、自走しない客車にあっては、当初には朝から一定区間を数往復して常備駅へと戻る運用だったものが、鉄道の延伸と共に運行距離も夜行運転など遠方に及んで戻るまでに数日を要する事例も生じても、機関車に牽かれて出発してから回帰するまでを運用単位とするに不都合の無かったためであろう。かくして、客車運用表には機関車1両や電車1編成にその日の運用の割り当てられた動力車と異なり、運用に必要な編成数が「運用行路表」「客車編成順序表」(優等列車の場合、普通列車では使用形式と両数)と共に「運用組数」として書き込まれたのである。
これが旅客会社の発足に、運用表の様式こそ引き継がれたものの、運用自体は動力車と同様に「仕業」の性格にて組まれることになったのだった。客車列車に固定編成で往復する優等列車と一定の線区や地域を出ることの無い普通列車ばかりの残存して、運用管理を各車種で統一したものだろう。伝統的且つ職人的な客車運用の手法は、この時点にて失われたとして過言では無く、冒頭に記した運用番号の略号の変化と共に、夜行の優等列車では上下列車にて別の運用番が付されたのが、それを如実に表していた。

植苗への築堤を駆け上がるのは5列車<北斗星5号>。
尾久客車区の受持つこの列車には[尾23]の運用番が与えられていた。上りの6列車が[尾24]である。(カニ24のみ荷物車運用にて[尾荷123][尾荷124]に付番)

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1983

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スキー競技のジャンプ場は規模の大きな施設である。そのサイズは2005年の規約改正からジャンプ台の終端点、カンテと呼ばれるテイクオフ地点から着地区域終点のL地点までの実距離を示すヒルサイズ(HS)で区分されているのだが、つまりはランディングバーンの総延長であるこれは、ノーマルヒルと云えど85mから109mと規定され、これにアプローチの90mのジャンプ台本体を加えた、凡そ傾斜度35度の200メートル近い斜面にジャンプ台の滑走始点位置はL地点と100mを越える標高差となる。
倶知安駅至近の町営旭ヶ丘スキー場に1963年12月に完成した倶知安ジャンプ場は、当時の基準で65m級のK地点位置75mで建設され、1970年の改修にて70m級のK地点84mとされていたから、現行規定なら僅かにノーマルヒルに及ばずミディアムヒルに区分されよう。ほぼ地形の斜度に沿うように造られており、この大仏寺山の斜面は天然の適地だったことになる。滑走始点は標高290メートルに10メートル程に鉄骨を組んで設けられていて、倶知安市街地との標高差は130メートルに及んでいた。

駅ホームに立てば間近に望め、その始点はスキー場斜面の最上部に位置しスキーリフトの到達点近くとも見えたので、樹木も取り払われたそこに登ってみたくもなるのは鉄道屋としては致し方ない。観光パンフレットにそこからの真狩山(後方羊蹄山)の姿も見ていたからでもある。
旭ヶ丘公園から夏草に覆われた麓のスロープを上り始めたものの、着地区域に至れば斜度は30度を越えて、それは土木や建築の世界では「崖」の範疇の傾斜である。ようやくにジャンプ台下部のカンテ位置まで達したけれど、それ以上には草をかき分けて登坂する気になれず、ジャンプ台上面を辿ることにしたのである。
鉄骨を2メートルばかりよじ登ったそこは木板の張られた斜度30度の直線の通路が遥か上まで続いていた。鋼索鉄道の最大斜度である高尾山登山電鉄の31度に匹敵する傾斜は、草の繁茂した「崖」とは異なり、少しばかり威圧感を覚えたものだった。しかも両側の安全柵を頼りに登坂を始めれば、床の木板は多くの個所で腐食して穴の開いていたのである。荷重の分散されるスキー板に乗っての滑降には問題の無いものなのだろうか。
標高に風速も感じ始め、急傾斜を一歩踏み出す度に軋む床板に次第に斜面からの比高も増せば、今に振り返っても鉄道撮影行動の中で最も恐怖だったと告白せねばならない。背後には奈落の急坂が続いていたのである。

写真は、ようやくに到達した始点待機台からの倶知安市街地の展望。着いた時には大汗をかいてしばらくは脱力したものだった。駅場内に向かう列車は、荷44列車。
頂上までクリアに見えた真狩山を背景のカットは 倶知安 (函館本線) 1983 にある。
帰路には、草漕ぎのスキー場の斜面を選んだのは云うまでも無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

旭浜 (室蘭本線) 1997

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停車場間の線路容量は、駅間距離も然ることながら列車の運転時分にて決まる。つまりは最も運転性能の劣る列車、かつてには貨物列車だったのだが、それの全列車に占める割合などによっても前後するものの、大まかには単線区間の5キロ程の駅間なら一日に80回程度が目安とされていた。
動力車性能の劇的改善の無い中で、これの拡大には閉塞区間の増設を要し、単線区間であれば当然に列車行違設備の設置、即ちは信号場が置かれることになる。その位置は、理想的には分割された両区間で容量の均衡するよう両端停車場間の距離的、運転時分的な中間が望ましいのは云うまでも無い。

アジア太平洋戦争戦時下の陸運転換政策により、1943年9月25日に長万部-静狩間10K600Mに開かれた旭浜信号場は、静狩原野のほぼ平坦な直線線形に、それぞれへ5.3キロの丁度中間の地点が選ばれた。長万部場内への着発に速度の低下する長万部方の運転時分がやや上回って、線路容量は静狩方の101回に対して92回と均衡しなかったけれど、目安の80回を超える容量は線形の良さゆえであり、D52ないしD51による1200t列車運転には多いに貢献したものと思う。1944年に米軍の偵察機が撮影した空中写真には本屋と少し離れて5棟の官舎が確認されるも、周囲に開拓農家も存在せず、原野の只中に置かれた停車場と知れる。1969年9月19日からの長万部-静狩間複線運転による廃止後(廃止は9月20日付)にも乗降場施設として残された土盛の乗降台は、この開設以来の設備と思われるのだが、写真の解像度では判別出来なかった(それらしきは見える)。 
当時、ここには地名のなかったのだろう。停車場名称に採られた旭浜は、5キロ彼方の長万部市街地北端、長万部川河口付近の字名であった。
なお、線増工事では信号場場内の上下本線位置がそのままに上下線に転用され、長万部方は現上り線が、静狩方は現下り線が増設線である。

長万部起点3キロで海側に遷移し、8キロ付近のR=2000曲線で緩く内陸へと左転するまでの線路は、どこまで走っても変わらぬ風景が続く。少ない停車列車で旭浜に降りたものの、上下方を見通しても全く同じ光景には歩く気も失せてしまい駅から然程遠く無い地点に三脚を立てた。
被写体は小雪に視界の効かぬ向こうから唐突に現れ、高速で目前を駆け抜けると再び小雪の舞う中へと消えて行く。列車は5010D<スーパー北斗10号>。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6+1/2 NON filter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落合 (根室本線) 1980

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1868年に幕府より政権移譲を受けた新政権にとって国家の近代化は焦眉の急であった。そのため、学術・技術の全ての分野に渡り諸外国の指導を仰いで、多くの外国人技術者が招聘された。「お雇い外国人」と呼ばれた一群である。主には米英独からの技術導入にて始まった官設の鉄道事業にも1888年までの20年間に670人余りが雇い入れられていた。日本人技術者や実務者の養成もまた彼らに課した職務であり、1870年3月に民部省鉄道掛の建築師長に就任したエドモンド=モレールは、着任早々に技術官養成の教導局を発足させた。これは1877年に工技生養成所に発展し、鉄道部内から選抜された24名に対して、数学、測量、製図、力学、土木工学、機械工学、鉄道運輸の7科目が教授されたのである。
勿論、授業には鉄道に特有の停車場設計の含まれ、その卒業生により停車場本屋、即ち駅舎の設計・建築は1880年代後半には多くが日本人技術者の手に委ねられることになった。以来に日本の国有鉄道は一貫して建築に関わる部署を内包し続け、大都市駅や特殊な建築等の例外はあるにせよ、自らがそれを設計・建築したのであった。
鉄道敷設が法定化され、幹線建設の進む1890年代に至ると多くが設けられる中小の停車場に対して早くも標準化の動きがあり、1898年に逓信省鉄道局は「停車場定規」を通達し、その中で鉄道工事設計参考図面に「停車場之図」を示した。これには第壱級から第五級停車場までの等級が定められ、本屋のみならず旅客便所に跨線橋や石炭小屋、貨物庫などから官舎に至るまでの停車場建築物全ての標準図面が提示されており、実際にこれに従って地方駅の建設が進められた。現在まで続く日本の鉄道駅の様式の定まったのが、この時代と云えよう。

一方で北海道内の官設の鉄道事業は、1869年7月設置の開拓使による事業開始以来、それの廃止された1882年2月8日より1886年1月26日に北海道庁が成立までの期間を除き、1905年4月1日の逓信省鉄道作業局への移管まで拓殖行政に組み込まれて運営され、その敷設事業も岩見沢旭川間鉄道建設に際して1896年5月8日付で置かれた臨時北海道鉄道敷設部が拓殖務省に、続いては内務省に管掌されたから、内部の技術者に人的交流のあったにせよ、逓信省の所管であった内地の鉄道とは些か異なる経緯を辿った。後に北海道型とも称された独特の駅舎建築は、米国技術を背景に気候風土ばかりでなく、この経緯にも源流のあるものと考えている。
1905年に管掌変更を受けた逓信省外局の鉄道作業局は、北海道内の計画路線に対しては、その輸送規模から1906年に「北海道線停車場定規」を別に示しながらも、異なっていた規格の統一上から本屋など建築物については先の通達の図面に準拠を方針としたのだが、様式までを定めることなく、これにて北海道型駅舎の原型の成立したものだろう。

1901年9月3日に北海道官設鉄道十勝線の終端駅として置かれた落合は、1897年11月2日付にて臨時北海道鉄道敷設部が鉄道部として北海道庁組織に組み込まれた時期の設計・建築である。
将来の狩勝峠越えの補機解結駅として機関庫を含む広い構内と運転上の重要駅には、マンサード屋根こそ採用されなかったが、重厚な北海道らしい本屋が建てられた。当時、ここに集落は存在せず、落合は駅名が先行し後に地名となったものである。
現在、Web上などには当時の本屋が100年を経て残ると記述されるのだが、近年に旧待合室部分が撤去されるなど原型が改変された上に、外壁・屋根などの更新も幾度か行われただろうから歴史的建築物としての価値は失われている。
写真は、往時の姿を伝えていた頃、その撤去されてしまった待合室へ正面出入口である。ファサードの三角屋根には質素ながらも装飾が施されている。他には見られぬそれには、石狩東端の停車場としてどのような意味の込められたのだろうか。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

函館ドック前 (函館市交通局・本線) 1979

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函館市は観光都市のイメイジで語られることが多いけれど、かつて四方に伸びていた市内電車に見た市街地は、どこか殺風景な印象がある。函館観光の核心に位置する末広町停留所から十字街、坂道と趣の在る街並の続いた宝来町から谷地頭の函館山山麓地域を離れれば、倉庫街に工場地帯を抜けて北へと向かった本線は勿論、湯の川線、東雲線も広い道幅に住宅の市街地を淡々と走ったものだった。
函館山の麓と云えど基坂を過ぎれば街並の様相の一転して、そこは函館ドックを中心とした工場労働者の町であった。

戦前期から函館の都市経済を支えたのは、北洋に船団を送り出した水産業に、もうひとつの柱が函館ドックとその下請企業による造船・機械関連産業であった。1980年代以降に市勢の振るわぬのは、その基幹産業の時を同じくした衰退によるところが大きい。市域人口も80年の345165人(国勢調査集計値)を最大に漸減を続けている。
函館市史には、1977年当時に市内の造船関連企業への就業人口は6200人に達し、函館ドックには従業員(所謂本工)の2300人に下請関連も同じく2300人が働いたと在る。市内電車はその通勤輸送に賑わい、昼夜の勤務に午前0時近くまで運行が行われた。
入舟町、弁天町、大町には労働者を当て込んだ飲食店が進出し、そこには函館で「もっきり」と呼ばれた立ち呑み屋が数多営業していた。
立ち呑みと云えば近年には鉄道会社の駅ビル商売のひとつとなって、洒落た店舗に待ち合わせスポットにも使われているらしいが、本来には文字通り土間にカウンターと簡易なテーブルの在るだけの安酒場である。金欠の写真学生時代には渋谷の桜坂下にも在ったそこへ冷や酒を呷りに通ったものだった。
これの始まりは酒屋、現在に云う酒販店である。酒がガラス製の瓶に封入されて売られるようになるのは1900年代以降のことで、その永い酒造史の中では至極最近に属する。それ以前には徳利を下げて量り売りを買いに往くものだったのである。そして徳利の無ければ、その場で呑みもした。これが転じて古の酒屋は呑み処でもあった。
ガラス製一升瓶の登場以後にも、この習慣は廃れること無く続き立ち呑み屋に連なる。函館の「もっきり」はこれであった。飲食店の営業許可を得ている訳ではないから、酒は現状売りしか出来ない。あくまで酒販であり、本来には燗酒の提供も御法度である。肴も調理品はあり得ず、袋入りの乾き物を客が購入してその場で封を切ると云う形態を取る。「もっきり」は一合枡など酒器一杯ずつの量り売りを「盛り切り」と称したのが語源とされる。

1960年代の最盛期には店に入り切れぬ程に客の押し寄せた「もっきり」であったが、1973年の第一次オイルショック以降に造船業界は長期の不況に見舞われ、函館ドックもまた縮小を余儀なくされて1984年には来島ドックの坪内敏雄に再建を託するまでに至る。関連の下請企業の相次ぐ倒産には「もっきり」の転廃業も続いた。最後の一軒となった千代盛商会の廃業は1999年12月と市史には在った。よくぞ生き存えたとの印象だが、函館どつくも一応の再建を果たしたその頃に、立ち呑み屋は最早時代の間尺に合わなくなっていたと云うところだろう。

まもなく終点函館ドック前(現函館どつく前)に到着する500形515は3系統に運用中。柏木町からガス会社前を経由しての系統だった。
市内電車を撮ると、どうしても街を横目で覗き込むような視線になってしまう。きっと、そこの生活者では無いからだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f4 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1988

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2014年3月の寝台列車<あけぼの>の廃止にて旅客営業から失われたものがある。寝台車の昼間座席代用利用、通称の「ヒルネ」である。(制度としては生き続けている)
起き抜けの寝台車に突然に現れる新たな乗客に遭遇した経験の向きは多いことと思う。立席乗車券での利用として発券を制限したはずだが、国鉄末期の九州島内では昼行特急群と等時隔配列ダイヤとした関係で自由席特急券所持のまま乗り込む旅客が絶えず、下り<さくら>での寝台のひと区画に8人から10人の詰め込まれる事態には観光利用客からの苦情が新聞に掲載されるなど、寝台利用客にはとかく悪評の扱いではあった。

この制度は1960年7月1日付の制度改正にて主には普通急行・準急行列車を対象に規定され、翌1961年7月1日発列車より特別急行列車を含めて実行されたのを嚆矢としている。それは寝台の余席活用による増収策に違いなかったのだが、当初には普通急行・準急行に限れば乗車制限も意図していたのである。
戦前期の旅客制度には疎いのだけれど、実は当時にも長距離運転にて運行時間も長い寝台車は、寝台利用時間(戦前にも21時から7時までだった)を除けば座席車と扱われた。寝台専用列車の存在しない時代には当然であり、おそらくは日本の鉄道に寝台車の導入されてまもなくからのことであろう。3等級制に定められての1等寝台車は、あくまで1等運賃を課する1等車であり、2夜行運転も珍しく無い当時に旅客は寝台利用時間に対しての寝台料金を支払ったのである。1931年2月1日に東海道線列車より導入された3等寝台車も同様で、これも昼間には通常の3等車と扱われた。急行に座席指定制の無い当時、それは自由席であった。
この扱いは戦後にも持込まれ、1958年10月1日付での大幅な制度改正でも継続されるのだが、こと普通急行列車に関しては1955年に3等寝台車が復活して些か問題を生じていた。国鉄がこの扱いを敢えて広く告知もしなかったこともあろうが、輸送力整備の追いつかずに長距離列車の混雑していた当時、それを知る旅慣れた昼行旅客が、座席車への行列を尻目に空いている寝台車へ先に座席を占める事例が多発して非難の対象となり、また寝台定員以上の乗車は寝台設営に支障したばかりか、その後にも退去しない乗客が通路を占拠する事例も見られたことも在って、それの寝台使用時間以外を座席指定車としての運用を可能としたのが1960年7月の制度改正だったのである。乗車抑制策であるのは、61年7月の実施に際して「座席指定券」を車内発売に限ったことにも明らかであり、1970年代に至れば対象列車は、羽越線の<天の川>など全車寝台編成の列車だけになっていた。

<あさかぜ>設定の1956年以来に戦後には原則的にこれを認めて来なかった特別急行列車については事情の異なり、こちらは本来的な余席活用と近距離利用促進の意味合いの強く、当初には<さくら>の下関-長崎間、<あさかぜ><さくら><はやぶさ>の静岡-東京間などが指定されたのだった。そして、それら区間には同時に設定された低廉な「特別急行の特定料金」が適用された。この時点でのそれは特急券の原則通りの指定席である。
東海道新幹線<こだま>で成功を収めた特急列車への自由席設定は、1965年10月1日付での制度改正にて在来線の一部列車全区間とそれ以外の末端区間に及んで夜行特急も含まれたのだが、それに限ればその全区間が「特別急行の特定料金」設定区間と重複した。自由席利用ゆえ、その特急券は座席の指定がなされなかったが、対象列車や区間が鉄道管理局長の通達にて指定されたことから、地方の実情により一部列車では座席を指定した特定料金の特急券も発売された事例も在る(料金は同一)。
この特急券は、座席指定を伴わないとしても乗車列車や区間は指定され、マルス上に寝台券の発売に連動して余席利用の理に叶っていたのだが、1969年5月10日の制度改正にて特急料金のキロ地帯に「200キロまで」が加えられた代替にこれの廃止されると、発売枚数に制限の無い自由席特急券での利用となり、上りでの自由席設定を廃したものの寝台の繁忙時期などに一部列車で混雑を生じることにもなり、さらには1970年10月1日の制度改正での特急料金を割り引いた「特定特急券」の規定に、適用区間が自由席設定区間と関わり無く上りも含めて設定され、また1975年3月10日ダイヤ改正では夜行急行列車の廃止にともなう輸送力不足に一部の寝台特急に座席車を連結(寝台電車編成の一部車両を座席にて運転)したことも加わって、所持すべき特急券が輻輳する混乱も起きていた。
これに対して、設定列車に区間を見直すと共にマルスの寝台券発券と連動させて下りを立席特急券、上りを指定席特急券での利用に統一した現行制度への改正は1978年10月1日発列車(同2日ダイヤ改正移替運転列車)からのことであった。

写真は礼文華山トンネルからの築堤を駆け下りる1列車<北斗星1号>。機関車次位に函館にて増結のスハフ14が見える。
この列車での寝台の昼行座席利用設定は、その運転により廃止された青函継送特急の道内旅客輸送代替と云う特殊事情に加えて、その需要を吸収出来ずに専用の座席車の増結を要した希有な事例であった。これについては、七飯-大沼 (函館本線) 1988 に詳述している。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f4 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 2012

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ひと昔もふた昔も前のことである。一目でそれとわかる重たそうな機材を列車内に持込んでいると、たまたまの合席者に良く声をかけられた。出で立ちからだろうが、山岳写真か、さもなくば道東の丹頂鶴の撮影者と見えるらしく、蒸機終焉時のブーム後にも関わらず鉄道が対象と答えると一様に驚かれたものだった。
それを切っ掛けに話の弾んだ、自身も写真を撮っていると云う相手から尋ねられたことがある。彼の疑問は、「走って来る汽車にどうやってピントを合わせるのか」であった。鉄道を撮ろうと一眼レフのファインダを覗いた瞬間に知り得て、以来にフレイミングと一体化して無意識な被写体のいない合焦の動作は、なるほど家族写真や風景を撮る限りには無縁のことに違いない。確かに、それを「置きピン」と呼ぶとはかなり後になって知った。1960年代の写真技術本にその用語は書かれていなかったと思う。

動線の予測可能なればこその置きピンに、その焦点面位置でのシングルシュートの基本的お作法は1966年以来に変えていないし、変えようも無い。
けれど、これのかなり厳しい場面の多々あるのも確かで、薄明や薄暮の時間帯に長玉で列車を引きつけようとすれば、開放の絞りに被写界深度の2メートル足らずは珍しく無く、その間を時速80キロの列車ならコンマ1秒で走り抜けるのである。
画角内での見かけ上の移動距離の小さければ、その一瞬はファインダに見えるしシュートの手応えも得られるものの、それの困難が予想されるコンテには、余計な重量と思いながらも仕事用に必需品だったモータードライヴを持ち出していた。F2の当時、廉価版のMD-1での秒速5コマ、F3のMD-4での6コマには狙ってのシングルシュートと微妙にタイミングのズレを感ずることも在ったが、何とか保険にはなっていた。
このような場面にはもうひとつの問題もあり、それは暗くてファインダにヤマの掴めないピントであった。これには、合焦させたい位置を、例えばレイルの繫ぎ目から何本目の枕木とファインダに確認し、そこにフラッシュライトを置きに行っては、その光にピントを合わせていた。ストロボ撮影前提の暗闇での人物へのピント合わせにライターの火を持たせたことの応用である。勿論、撮影前にそれは回収する。

日没までの快晴が予測されたこの日、8002列車はエントモ岬でと決めて柴田踏切に向かえば、数年振りのそこはススキの繁茂が著しく、定番の立ち位置からは線路が望めない有様だった。薄の原を黄金色へと傾くであろう日差しは季節の表現には相応しいとは云え、線路の見えないのは置きピン不能を意味する。フォーカスリングを回すと焦点面は薄の海を渡って往き、シューティングポイントにおよその見当はついても確認の仕様がないのである。
これにはディジタルの福音とそのカメラ機能に救われた。感度を上げて被写界深度を深く確保した上での秒速9コマという連写性能である。
勿論、フィルム撮影でも同じ手段を選ぶだろうが、増感に依る画質低下を覚悟せねばならない。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f9 C-PL filter ISO1600 W.B. 5560 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopCC & PhotoshopLR5 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1984

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ディジタルに持ち替えて、随分と変わった写真のお作法は夜間撮影だろう。フイルムでも出来ないではなかったけれど、使いモノにはならなかった高感度が実現して、僅かな灯りさえあれば走行撮影すら可能となった。そこまで往かずとも夜を夜としての肉眼視に近い情景描写はフィルム時代には手に入らなかった領域だ。
それでも、古い鉄道屋はシャッタを開け放った時間の経過が閉じ込められたバルブもまた、手放せない。三脚上に固定された写真機にゆっくりと夜の冷気を吸い込ませるのも撮影の実感に思える。
ディジタル写真機によるバルブは、基本的には機材の常用の最低感度まで落として行うのだが、それをフィルムと同等としても、当然ながら露光時間による濃度の乗り方は明部暗部とも異なり、画像エンジンによる差異はあるのだろうが、知るところのニコン社機材に限れば、低コントラス気味で双方とも「写り過ぎ」と感ずる。ソフトウェア上で創り出すことになる画像はバルブのそれに違いないけれど、しっかりと絞り込んだパース感のある深淵の描写はフィルムの、しかもモノクロの領分と云う気がする。
けれど、ディジタル機のバルブには福音もある。露光時間のブラケティングが出来た機関区に留置の車両ならば別だけれど、経験と勘に頼っていた本線運行中の列車の僅かな停車時間での意図した適切な描写に濃度は、必要なハイライトさえ飛ばさなければ何とかなるし、列車の起動しての光跡に、また点光源の光芒も固定画角の別データに撮って重ねれば良くなって、現場での多重露光は敢えて必要の無くなった。

小駅の夜は好きな題材で、深閑と静まり返ったそれを機会ある毎に撮っていた。特に積雪の構内は冬の冷気も写り込まぬものかと考えていたものだ。本屋を画角とするのは、勿論そこに駅員が詰め灯りが漏れていたからで、無人駅ばかりの昨今には撮らなく(撮れなく)なってしまった光景でもある。
写真は正月準備も終わった年の瀬の鬼鹿駅。海までの視界の効かぬ程の吹雪の収まった夜だった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor Bulb@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

川湯 (釧網本線) 1985

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釧網本線は貨物輸送の幹線であった。国鉄が全国の貨物扱駅の集約方針を表明した1977年8月18日時点で起終点と乗降場を除いた線内22駅中14駅で扱いが行われ、磯分内、中斜里、斜里、浜小清水の各駅には専用線も接続しており、線内中間駅発着一般貨物を担った混合列車4往復に、貨物列車の6往復(臨貨含む)が設定されていた。貨物列車の半数は北見を発着駅としていた専用貨物で釧路とオホーツク岸との通過輸送線だったとも知れる。旅客輸送も1982年11月15日改正ダイヤまでの線内急行の3往復は主要線区として良いだろう。
この当時に沿線で待てば、昼間に少なくとも10本はDE10形内燃機に牽かれた列車がやって来たから、機関車屋には堪えられない線路と云えた。それは函館山線や根室本線末端区間の撮影効率を遥かに上回っていた。
余談になるが、1968年夏に補機から始まったここでの無煙化は貨物列車が先行して全区間に波及した。1972年10月改正ダイヤで既に東釧路-斜里間に蒸機牽引の貨物列車は皆無となり、斜里-網走間でも2往復のみとなっていた。貨物重視はここにも見て取れる。
前記の貨物駅集約により1984年2月1日改正までに中斜里を除く全駅で貨物扱が無くなり(*1)、同改正では混合列車も一般車扱貨物列車も廃止されてしまうのだが、それでも専用貨物列車の多かったこの線区には5往復(臨貨含む)のそれが残り、道内行きのスケジュールからは外す訳には往かなかった。
弟子屈-緑間釧北トンネル越えの原則後補機が1985年3月14日改正ダイヤから次位補機の全線通し仕業が所定(*2)に改められれば、機関車屋には魅力が増したとしても良かったのである。
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(*1) 扱いの廃止状況は以下の通り。いずれも荷主との調整に手間取ったものか、国鉄の計画より2年から4年を遅れた。
1979年7月15日付 - 川湯・美留和
1982年9月10日付 - 磯分内・弟子屈・緑・札弦・止別・北浜・藻琴
1983年5月20日付 - 標茶・清里町・浜小清水
1984年2月01日付 - 斜里
(*2) 1984年2月1日改正のダイヤ上には弟子屈-緑間補機が維持されていたが、実際には重量貨物には通し運用が散見されるようになっていた。

写真は硫黄山を背景に重連で釧北トンネルへ向かう5692列車。日鉄鉱業東鹿越鉱業所専用線からホクレン農業協同組合連合会中斜里製糖工場専用線への石灰石輸送列車である。
この区間は、その位置も確認し、幾度か機会の在りながらも画角反対側に在った斜面に登らなかったのが心残りではある。この日もあまりの暑さにその気の失せてしまい、駅から少しばかりの線路端で誤摩化している。

網走から単行の気動車がひっそりと発車して往く釧網本線の現況は、かつてを知る身には「惨状」と云う言葉しか見つからない。季節に両端の区間に運行される観光列車や蒸機の展示運転に些かばかり賑わうけれど、それは鉄道がここでの使命を終えたことと表裏を成し、とても撮りに往く気にはなれないでいる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

遠軽機関区 (石北本線) 1971

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蒸機撮影に定番のジャンルだった「機関区詣」には幾度も往ったけれど、あまりまともな写真は手に出来なかった。
事務室で記帳すれば黄色い腕章なり安全帽(ヘルメット)を渡され、後は比較的自由に構内を歩けるのがほとんどだったけれど、そこは基本的に24時間稼働している輸送の現場であるから、機関車は必ずしも希望する位置に整った姿で止まっていてくれるでは無いし、庫の中ならば満足な光線の得られるでも無い。なんとか工夫して画角を見つけようとはするものの、足早にスナップして歩くのが関の山で、結局のところ「構内風景」がフィルムに記録されるのだった(もちろん例外はある)。 寧ろ、間近に機関車の鼓動を感ずるのが「機関区詣」の楽しさであり、その全てだったように思う。

駅本屋から大分に歩かされる機関区の多い中で、遠軽の庫は乗降場の指呼の間に在り、駅員に断りを入れて構内通路を辿ればすぐに往き着けて、少しの空き時間にも訪ねられた。
半円に至らない庫内14線の扇形庫は、配置が戦後まもない時期以降の配置が40両を越えていたと聞けば手狭にも思えたけれど、それでも1954年の台風マリー(同年台風14号-洞爺丸台風として知られる)にて倒壊した木造庫の改築の際に拡張されたものと云う。翌1955年10月に完成した現行の鉄筋ブロック造りは機能優先にて、些か情緒には欠けたように思う。扇の要に置かれた転車台は、1957年のキハ22配備に際して20メートル級に交換されていた(D51形蒸機は18メートル級に載れたのである)。
この1971年当時に、配置はD51の7両に9600の11両まで減っていたけれど、旭川からのD51や北見からのC58の入込みもあり、庫内は気動車も含めて常時満線に近かったと覚えている。DD51は石北トンネル区間の補機の一部仕業が達していただけだった。
1972年10月改正にてそれが本務機として北見まで進出し、翌年に常紋越えの補機仕業もDE10への置替が進むと、名寄本線運用だけの残された構内の煙は寂しくなり、それら9600はゼブラマーキングが大半だったこともあって足は遠のいてしまった。

扇の外側、つまりは扇形庫の裏手が東ないし西を向いていれば、朝夕の低い光線が内部まで差し込んでくれるのだが、背後に台地の縁を背負ったここではそうは往かない。頼りは入口からの外光だけだが、内外の輝度差はフィルムの有効露光域を軽く越える。天窓から床に差し込む光が少しばかりのアクセントになろうか。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/60sec@f5.6 NON filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1996

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北舟岡の列車行違設備は1994年3月1日ダイヤ改正を以て使用の開始されたものである。それは1986年3月3日改正まで同位置に存在した信号場当時の路盤を再利用し、直進構造の上下本線より海側に副本線(待避線)の分岐していた配線が忠実に復元され、その本線有効長もそのままに470メートルである。
この現在のコンテナ車編成貨物列車の最大20両組成、編成長の400メートルに十分に対応する輸送設備は、1963年9月30日の信号場設置に際して、当時にもD51による上りの定数1000tのワム車換算50両の列車長400メートルを根拠としていた。470メートルの有効長は、1950年代後半に室蘭・千歳線を主要経路とするに至った国鉄が標準とした模様で、北舟岡と同時期に開設の北入江信号場も同延長であり、待避線設置の構内改良の行われた美々に植苗の480メートル、線増時に移転した石谷の待避線の485メートルなどに事例がある。
ところが、これらの例はこの経路上各停車場の本線・副本線有効長としては短い部類に属した。多くの停車場での500メートル超は戦時下に実施された上りの1200t輸送に起因する。ワム車換算で60両の列車長は480メートルに及び牽引機の車長を加えれば500メートルが必要最小限となる。戦時下に開設された信号場は全てこの有効長を持ち、それの不足した停車場には延伸の工事が行われ、それが現在にも引き継がれているのである。
よって、北舟岡も伊達舟岡信号場として1944年10月1日に開設の際にはこれに従った有効長を持っており、現在に伊達紋別方場内信号機の向こうに本線と護岸との間に続く草蒸した用地が、1963年の北舟岡信号場開設時に用いられなかった路盤跡である。それは30メートルを軽く越えているから、伊達舟岡は550メートル程の有効長だったと推定される。

さて、1994年の行違い線設置の際には、客扱いしていた信号場当時には無かった設備が付加された。待避線側に増設された乗降場との間に架設の跨線橋である。高速運転区間の要員無配置駅での対向式乗降場を考慮したものであるが、製作費の節減による汎用歩道橋設計の流用は眺望に配慮したかのような設備にもなった。1993年10月の渡道の際に建造中のこれを見て早速に上ってみれば、眼前に噴火湾を一望する格好の展望台であり、後年の鉄道旅のブーム化に愛好者間でのこの駅の知名度向上は、その存在に依るところが大きいだろう。
けれど、せっかくの足場と云うのに鉄道の写真には不向であった。そこは上下方どちらを向いても中途半端に場内の写り込んでしまうのだった。

強い風雪の湾岸を往くのは5003D<北斗3号>。
この跨線橋から場内を排除した画角は伊達紋別方を切り取るこれしかない。万人が撮っても同じだから、光線か天候の自然環境で差別化することになる。
胆振地域は道内でも比較的穏やかな気候とされるが、それでも噴火湾は冬の北西風にも夏の南東風にも荒れる。河口を持つ河川へのダム建設などにより供給される砂の激減した1960年代以降に沿岸の砂浜は補給のなされなくなり流出が進んだ。この地点も1940年代の空中写真を見れば、その差は歴然であり、広い浜に多くの漁師小屋の並んでいたのが見て取れる。突堤形状に積み上げられた消波ブロックはその防止堤である。離岸堤の設けられないのは、ここは沿岸流の強いのだろう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 NON filter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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2013年3月29日の記事 一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972 に「この鉄道は転車台を持たなかったのではないだろうか」と書いた。実際に上り豊富行きの正向きに対して下りは逆向き運転であり、ポッパも所在したこの一抗の機関庫付近にも、その広い構内にもそれらしき設備を認めなかったことも推定事由だったのだが、訂正せねばならない。転車台は在ったのである。

但し、それはかつて睦町や新町と呼ばれた炭住街を通り過ぎた、三抗の構内だったと思しき位置である。Web上に数多在るその遺構の写真に見て取れる円形の浅いピットは、それ以外の築造物の可能性も無きにしも在らずだが、ほぼ転車台の遺構と考えて良いだろう。けれど、天塩砿業所三抗の開抗は1945年と記録されており、鉄道の一抗から1.4キロばかりの延伸がその際だとすれば、それ以降の設置と云うことになる。線路終端への設備に不思議は無いのだけれど、ならば1940年2月13日の開業以来に機関車転向をどこで行っていたかの疑問が残る。一抗構内から移設したものだろうか。
一方、豊富側の転車台は国有鉄道の構内に所在していた。天塩線の最終開業区間に含まれて終端駅だったことの無いそこへの設置を訝しくは思っていたのだけれど、これを国鉄機ばかりでなく日曹の機関車も使用したものだろう。設置時期は調べ得ないでいるけれど、この専用鉄道の開業に関連してのことならば合点が往く。或は、本屋から南側に離れた位置に社線豊富駅を設けての接続に、用地上の事由からそれを鉄道省より借用して日曹側が設けたものかも知れない。

1967年の坑内火災を切っ掛けに三抗を失なって線路の再び一抗までとなれば、転車台は移設されること無く放棄されたものと思われる。同時に豊富での転向も意味を成さずに中止され、以降に上り正向き、下りは逆向きの運転としたのだろう。開放型のままのキャブに乗務員の震えたのは、4度の冬だったと知れた。

最終運行翌日、有火のまま機関庫前に佇む9615。
テンダの向こう側に屋根の見えるのが給炭台、石炭の他点火に使われる薪も積み上げられていた。機関車後方に2線の庫があり、手前の建物が機関庫詰所である。
この時には自家用の貨車が留置されていた、一番手前の線路が、かつて三抗へと通じていた本線と思われる。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

塩谷 (函館本線) 1985

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鉄道省が1924年に発行したウィンタースポーツのガイド本「スキーとスケート」については、以前にここへ書いた。
それを通読していて驚いたのは、小樽周辺のスキー適地の紹介に塩谷駅の名が登場していたことである。それとは無縁と意識していただけに意表を衝かれたのだった。
スキーの導入期からそれのゲレンデスキーに移行する戦後の時期まで、今はトレッキングの対象として知られる標高629.2メートルの丸山が、小樽市街地の高等商業(現商科大学)裏手斜面から伍助澤開拓地を経て、その東斜面に取り付き、頂上から北斜面を塩谷に向けて下る、或はその逆経路がスキーコースとされており、塩谷は乗降駅だったのである。頂上北側に標高差200メートルに渡り広がる斜面や麓の現塩谷4丁目付近の緩斜面が滑降の好適地と紹介されている。コース上にスキー小屋などの施設は無く、登坂と滑降にほぼ一日を費やす行程とある。駅裏手に1912年に操業した北海瓦斯(現北海道ガス)の工場が斜面からは良い目印となったことだろう。

北海道鉄道(初代)は蘭島から小樽中央(現小樽)への経路を、標準勾配の20パーミルを介在させてもなお内陸に選定した。一部には、湾岸の通過が不漁に繋がるとした鰊漁網元による強硬な反対運動が伝えられるけれど、実際にはそこに連続した断崖地形に関わる隧道建設を回避したものだろう。これにて海沿いの塩谷村の中心集落から外れた山腹の開拓地に設けられた停車場に塩谷の名が与えられた。そこは、標高の50メートル程度ながら前山に遮られて海面を望めない山間の駅だからスキーの基点としても然程に違和感は無い。
余談だが、ガイドには丸山よりさらに奥の通称の遠藤山から毛無山を経て蘭島へと滑り降りるコースも見られ、この海水浴駅に冬にはスキー客の在ったことになる。

丸山から続く緩斜面の開拓地は、既存集落から至近の距離にあり、この1903年には鉄道まで通過したのだから恵まれた位置と云わねばなるまい。さらには時期を同じくして小樽市中心部から直接に連絡する道路が開削されていた。軍事道路と呼ばれた通行路である。石狩湾に面した小樽からの有事の際の連絡路として軍部が建設を急いだもので、その目的から敢えて山中を経路とした急造の道路は一般運送には使い物にならなかったとも云われているのだが、ここや伍助澤開拓地から小樽への人馬の通路には十分に機能したことだろう。現在の北海道道956号小樽環状線はこれの拡輻整備による。

写真は於多萠の峠を越えて塩谷に接近する102列車<ニセコ>。見えているのが塩谷の上り遠方信号機である。
この3月の改正で運用受持区が札幌運転区へと替わり、4両組成が所定となっていた。小樽築港機関区の運用は改正されなかったので、DD51の重連仕業はアンバランスだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1994

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環境に負荷を与えなかった鉱山と云うものは存在しない。露天もしくは地中深くから採炭する石炭鉱山-炭坑なら付随する地上設備や多くの関係者の生活による自然破壊に留まるかも知れぬが、多くの非鉄金属鉱山は目的とする金属の精錬過程を要して、深刻な環境汚染を引き起こした事例に事欠かない。足尾銅山の鉱毒災害は永く記憶されるところである。
長万部村静狩に1917年5月から本格採掘の行われた(通称の)静狩金山も例外ではありえない。当初には産出した良鉱の遥か小坂鉱山等への売鉱を目的に稼行したものが、それを得るための採掘量の増加に比例して貯留する低品位鉱の処理に、1920年8月に処理能力10トン/日の小規模な青化製錬所が稼働すると青酸塩を含む鉱泥と処理排水、それに大量の鉱滓の生ずるところとなった。浸出水と排水は沈殿池に導かれたものの、そこからの溢水はそのままに静狩川に流されたのである。
1923年に静狩金山は個人経営から川崎造船の傘下に入り、その中央資本の下で生産の拡大の続いたであろうが、沿岸での魚介の斃死などの異変も既に発生していたと伺え、精錬施設の一日あたり40トン処理への能力向上を画策していた1930年に至り、漁民による被害申し立てにより北海道水産試験場が行った排水の水質検査の結果、それが強い青酸カリを含有すると認定されたのだった。これに対する事業者側の対応は、多くの同様事例に並んで、排水との因果関係を認めぬものの被害に鑑みて補償だけは行い、施設においては溢水の減少・浄化に努めると云う口約束であり、その後も度々生じた被害に1935年には漁民支援を名目に「静狩水産組合」を設立し、静狩川河口付近で漁をする零細漁民と、被害の及ばぬ噴火湾沖合に船を出す漁民との分断工作までも行っていた。
以前に、静狩 (室蘭本線) 2010 に書いた事例のごとくに、長万部村議会の議員らを始め行政の有力者への買収工作も相当に進めていたことも伺え、長万部町史が静狩金山への協力を示す公文書に一切の保存が無いと記すのは、その何よりの左証であろうか。
1933年に隣接の来馬・小鉾岸鉱山を所有していた住友合資会社との合併にて静狩金山会社が設立され、翌年には一日あたり350トンの処理が始まり、1937年に勃発したアジア戦争の戦時下となれば金属資源の増産は国策となり、それまで廃棄していた程の低品位鉱も精錬対象にそれは1000トンにまで引上げられるのである。1941年、1942年には期間を限って強制的な増産運動も行われ、その1942年3月の水産試験場による調査では海岸に打ち上げられた無数の魚体が確認され、静狩川には溢流した鉱泥が堆積して河口部でのそれは1メートルにも及び、調査官を以てして「其の暴状は何人と雛も許容出来ないであろう」とまで報告せしめている。

ここに見られるのは、武家社会の封建制を内在させたままに発足した新政府の国家主義と誤った近代国家観に支配された資本側の利益優先主義である。民衆を犠牲としたその構図は姑息として良い対応に至るまで冒頭に挙げた足尾鉱毒事件と相似形を成し、戦後の水俣湾沿岸や阿賀野川流域の水銀汚染にも引き継がれたものである。現在にも福島県住民に対する放射能低線量被爆に対する自民党政権そして東京電力の姿勢も寸分と違わない。
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-参考文献-
(北海道大学経済学研究論文) 静狩金山-北海道産金史研究- : 浅田政弘 1987年
長万部町史 : 長万部町史編纂委員会編 1977年

写真は、礼文華からの断崖をくぐり抜け静狩側の築堤を駆け降りる8002列車。
この区間、車窓は高度を下げながら左から右へと旋回し、航空機の着陸を思わせる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 2001

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永いこと自宅を事務所替わりとした個人事業主だったので、1987年には数字、つまりは発信元電話番号の表示が可能となったポケットベルを導入して、その番号をクライアントの各方面に伝えていた。ある面で彼らからの連絡の容易さが仕事量を決めたからである。1985年には自動車電話のショルダーフォンが、1987年にはハンディフォンと称する端末も販売されて、それに加入する仲間達も居たのだが、その初期投資金額や利用料金に、ただでさえ重い撮影機材に加えて肩に掛けて運ぶ無線通信機モドキや鉄アレイのように重い受話器を持ち歩く気にはなれず、選択はポケベルだったのである。
その頃に移動体通信と呼ばれ始めていた通信網に小型軽量の端末の登場は、1989年の米国モトローラ社のマイクロタックが嚆矢であり、翌年には投資額の少額で済んだ日本移動体通信(IDO-現au)に加入して、それを手にしたのだった。
勿論、本業ばかりでなく鉄道屋の撮影への利用も目論んでことで、当時に通話が可能に過ぎなかった移動端末だが、情報ツールと云えばラジオ程度しか無い現場へのそれの持込みは撮影行動に大きな変革をもたらすと考えられたのである。電話を通じて177番の天気予報は勿論のこと、列車の遅延や運行情報をその場でリアルタイムで入手出来たし、他地域の役場あたりに電話して天候の様子を聞けば、直ぐにタクシーを手配しての移動すら可能となった。
1990年代末にインターネットへの接続が始まり、情報サイトの充実と相俟っての現在のスマートフォンやタブレット端末に至る利便性の向上は、改めて記すまでもない。

けれど、当時にはその目論見はすぐに崩れ去ることになった。この普及初期に各電波通信事業者とも全国に通話地域を拡大していたものの、それはあくまで都市とその周辺を除けば比較的居住者の多い地域に限られ、営業フロントから貰って来た日本地図上を調べれば、撮影に往きそうなところはことごとくに僻陬地や山間地に該当してサーヴィス地域の圏外だったのである。
それらに対して、総務省は早くも1991年度から基地局建設に関わる補助事業を開始し、それは制度の拡充と共に1990年代を通じてルーラル地域に整備の進められ、不感集落(行政はこう呼ぶ)の解消に向けては、2001年度から携帯電話等エリア整備事業として基地局までの伝送路構築も補助対象とされ、僻陬地山間地に及ぶのだが、それは集落単位に行われ、面的に広がりは持っても線状に貫通する鉄道線路沿線がそれに含まれるとは限らなかったのである。しかも事業者側はそれらを連絡する経路には道路のエリア化を進めたから、現在でも鉄道沿線にはそれと大きく経路の離れる区間を中心に多くの通話・通信困難区間が残る。
それには、宗谷線の勇知から抜海のサロベツ原野に旧神路前後の天塩川沿い、石北線の石北トンネル前後に常紋郡境区間、釧網線の釧北国境、根室線の別保から尾幌に至る原野区間に別当賀-落石間、函館線の旧上目名前後区間、日高線の静内以東で内陸に迂回する区間など、多くの撮影適地が並んでいる。

90年代以降足繁く通った豊浦町礼文華は、人口の凡そ400人規模だったに関わらず電波の到達は実に遅かった。この付近での基地局は、まず八雲に、続いて長万部・伊達に整備され、1990年代終わりには豊浦市街地に達するのだけれど、峠や岬で隔絶されたここや大岸の周辺はその迫間に落込んで、ようやくに2004年に至って鉄塔の建設を車窓に確認したのだった。
写真は、稜線に太陽光の差し込んだ夜明けの築堤を駆け下りる8009列車<カシオペア>。築堤に光の回ってしまえばには赤味も薄れるゆえ、10月末の太陽にはこのタイミングで善しとする。この朝の礼文海岸の日出時刻は6時06分、8009は定時で6時20分の通過である。

礼文華がエリア外だったこの当時、海岸線まで出れば対岸八雲の電波を捉えられたのたけれど、この築堤より奥の斜面ともなれば、なんとか電話の繋がるものの相手が何を話しているか分からず、使い物にはならなかった。
余談ながら、総務省のまとめによれば、人口カヴァ率が99.97パーセントに達した2013年11月末日のデータでも、全国で3万9千人がエリア外に居住し、集落数では3240箇所、この内居住者10人以下の集落が6割を占めると云う。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor85mm f1.8D 1/250sec@f4  Fuji LBA4filter Ektachrome Professional E100SW [ISO400/1.7EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

白樺 (深名線) 1981

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1995年9月3日まで深川-名寄間で存在した深名線は、本来にこの両停車場を起終点に計画されたものでは無い。『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)での法定線は名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)であり、これに幌加内村(当時)の有力者が政治力で実現させた深川より雨龍原野奥地、雨龍川流域への請願線へ雨龍(朱鞠内)で接続とした結果の線形に過ぎない。もっとも、建設線名を雨龍線としたこの請願線が幌加内線の名称で朱鞠内に達した1932年に、名寄-羽幌間法定線は予定線に留め置かれて調査線ですらなかった。鐵道省には、朱鞠内で区分される南部区間と北部区間とは計画はもとより建設動機、目的の異なる個別の案件だったのである。これを合わせて単一の線路名称を付与したのは両区間の大部分が通過した幌加内村への配慮とも思える。

北部、法定線区間の建設は1928年の雨龍電力株式会社設立に始まる雨龍川の電源開発計画による。沿線に入植の進展しつつあった南部幌加内線区間と異なり、予定区間はほぼ全線が人跡未踏の原生林地帯であったから、この計画のなければ建設のインセンティブに乏しい区間であった。
鐵道省は1932年に比較線として朱鞠内-美深間(37.3キロを想定)の踏査を行った上で、これを法定どおりに名寄起点を妥当として1933年度に朱鞠内までの区間を調査線とし、1934年4月1日付にて北海道建設事務所の所管線に編入、建設線名を名雨線として線路選定に着手した。
工事は、全線43キロを名寄-初茶志内-熊牛内-奥大学-白樺-宇津内-朱鞠内の6区間に分け、奥大学を境に名寄側からを東第一から東第三工区、朱鞠内側からを西第一から西第三工区として、1935年8月に朱鞠内口の西第一工区に、同年10月に東第一工区へ着工、他の工区も1936年の融雪を待って着工されている。
この作業拠点や飯場の置かれた工区区分箇所で、初茶志内に白樺と宇津内は開業に際しての停車場設置地点であろう。線路は名雨隧道出口近くで熊牛内川と交差していたから、この付近が熊牛内と推定されるも、奥大学の位置が良く分からない。おそらくは北海道帝国大学雨龍演習林の所在に由来した命名と思われるが、当時にも存在したはずの茂尻(後に母子里)の地名を用いなかったのは、母子里原野より西の原生林地帯に設けられたものだろうか。既に入植の始まっていた茂尻への飯場開設を避けたのは十分に考えられることではある。

前の年の訪問で白樺から道道638号名寄遠別線(当時に未成)とは名ばかりの林道へ至る通路を確認していたので、北母子里から延々と歩くこと無く、この朱鞠内湖の奥まった北岸を望む高台に到達していた。この夏の一日も誰一人出会わずに過ぎたのは云うまでもない。知識のあまり持たなかったせいなのか、ヒグマへの遭遇を心配した覚えも無い。
朱鞠内湖の湖畔を抜けるキハ22の単行は944D、朱鞠内行き。
それの去ってしまえば、チシマザサを揺らす風音しか聞こえない。

付記) 上記では飯場と記述したが、実態はタコ部屋労働である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1983

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塘路に通い始めた1970年代の半ば、その殺風景な駅前に公衆電話ボックスが設置されていた。都市部では四方がガラス張り、中折れ扉の組み立て式ボックスに取替が進んでいたけれど、そこに在ったのは旧来からの「丹頂型」と呼ばれたクリーム色に塗装された鋼製、窓付であった。赤く塗られていた屋根部を丹頂鶴に擬えてその名がある。
そこには勿論、赤い公衆電話が収められていたのだが、時折にこれが使えないことがあった。受話器を取り上げ硬貨を投入しても落下してしまうのである。故障と疑い、まだ要員配置の在った駅に尋ねると、時間をおけば使えるようになるとのことだった。都市部にばかり暮らして知ることのなかったのだけれど、それは団体加入電話の端末だったのである。

1890年の東京・横浜間での開通以来に電話通信網は都市部から整備の進められ、一般加入電話は戦前期を通じて役所や企業、商店などを中心に回線を増やすのだが、とても一般家庭にまで普及するものではなかった。まして、北海道のルーラル地域ともなれば、1910年代以降に「特設電話制度」により回線整備の図られたものの、加入者組合が組織され資金の準備もなされた上に工事の可能な一部地域に限られた。戦後にも1950年代まで、開拓地のごとき農山村や漁村は広大な無電話地域として取り残されたのである。
全国の電話通信網を受け継いで発足した日本電信電話公社は、1953年度を初年度とする「電信電話施設拡充・改良五か年計画」を策定し、ここでは僻陬地無電話地区救済のため「農村公衆電話」の制度を設けてその設置促進を図り、1958年度からの第二次五か年計画では1953年の『公衆電気通信法』を改正して(1958年5月6日法律第137号)「地域団体加入電話」の制度を創設、住宅への普及と電話空白域の解消に努めた。
この制度は、電電公社が整備地域内に加入組合側から場所の提供を受けて小型の手動交換機を設置し、さらには1本の加入者線を数人で共用する方式にて初期投資を低く抑えることにより、施設設置負担金を低廉として少人数の加入者組合(団体)での加入を促進したのである。ただし、手動交換の交換手雇用は組合の負担とされていた。
なお、これは当時に農林水産省が主導した「農山漁村特別助成事業」にて導入の進みつつ在った有線放送施設利用の地域内電話に、電電公社が危機感を覚えたためとも云われている。
1964年には、それをさらに小規模化、そして交換手を不要とした「農村集団自動電話」のサーヴィスが始められ(日本電信電話公社公示第40号)、それまでの電話加入区域を外れた地域の10戸程度からの加入も可能とされた。これにより、1970年代半ば以降に無電話地域はほぼ解消に向かったのだが、これも加入者線は共用であった。

写真は、件の「塘路の崖」(→ 塘路 (釧網本線) 1982)からの混合646列車の網走行き。
塘路駅前の公衆電話が、どの制度で何時に導入されたものかは知り得なかったけれど、度々の使用不能を生じていたのは共用加入者線ゆえである。それの共用者のひとり(一戸)が使用中には回線が占有されてしまう不便は、1960年代末から逐次勧められたダイヤル自動通話化が、1980年代半ばには僻陬地にも及ぶに至り一般加入電話に切替えられて解消した。
ところが、驚くなかれ1990年代半ばの岐阜県飛騨山中で同じ事例に遭遇している。これには別項としたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落部 (函館本線) 1994

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函館本線の石倉-落部-野田生の区間は、15.2パーミル勾配が4箇所に介在して補機を要していた北海道鉄道(初代)の建設になる海岸段丘上部の線路を、アジア太平洋戦争末期の陸運転換施策により海岸線に沿った現在線の経路に変更した区間である。その経緯については此処へ何度か書き、Websiteにもまとめている。→函館本線 石倉-野田生間の改良と線増
これにより、補機の廃止ばかりでなく本州連絡の主要幹線の輸送力は大幅に増強され、現在に繋がる高速運転にも寄与することになる反面、海岸線をトレースする線路は掘削された段丘土工面の崩落と噴火湾の波浪による路盤浸蝕の危険に直面して、要注意個所の続く災害線区でもあった。
ここで海岸に続く段丘面の堆積物を構成するのは砂礫層であり、さらには太古からの駒ケ岳噴火による火山灰層が広範に存在すると聞けば、崩壊の危険を孕むのはその方面の素人にも容易に理解するところである。北海道旅客鉃道への承継後に限っても、法面崩落による数度の不通を生じており、1988年7月に青函トンネルで繋がったばかりの物流を最初に止めたのもここでの土砂崩れであり、2013年の洗掘による護岸擁壁の崩壊も記憶に新しい。

近年に列車への直接被害の無いのは幸いであるが、過去にはそのような事例も記録されており、1967年3月4日の、落部-野田生間で発生した貨物列車脱線転覆事故が最大規模であろうか。この区間の線増工事中のことであり、既設線の山側の切取り法面を切り広げて増設線路盤を構築の際、融雪による地下水に地盤の緩んで崩壊を引き起こしたのである。同日21時55分頃、折から進行中の453列車がこの崩落土砂に乗り上げ、牽引のD52468が海側に横転、続く貨車も10数両が脱線して内2両が転覆すると云う事故であった。復旧は8日午前となり、1日に運転を開始したばかりの小樽回り<北海>を含む本州線連絡列車の全面運休を北海道新聞が報じていたのを記憶している。

写真は海面から40メートル近い比高の切取法面の続く当該区間での8002列車。幾重にも法面防護工が施される。
この事故での崩落地点は、列車後方、函館桟橋起点69キロ付近のR=600M曲線あたりである。
なお、北海道新聞のフォトデータベイスには1966年8月20日にも発生していた同区間での土砂崩壊の写真がある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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