"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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音別 (根室本線) 1999

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和人が蝦夷地と名付けたその島の東岸に進出を始めた17世紀初頭、福山(松前)との往来や沿岸の交通手段は専ら船であった。古からの先住民族の交易路として波打ち際に踏分道も開かれてはいたけれど、それの通行は天候に左右され、また流れ出る大小の河川に妨げられる通路でもあった。18世紀の後半、幕府はロシアの南下に対する北方警護を迫られ箱館(函館)からエトロフに至る軍事道路を建設した。河川には架橋するなど海辺の交通路を改修・整備しつつも、各所で波浪を避けて内陸側に新道を開削ながら、日高沿岸から様似山道を越え太平洋岸を北上して根室に至る交通路が1806年には一応の開通を見たと云う。
1868年に蝦夷地全域を植民地とした新政府は、拓殖の基礎インフラとしての道路整備を重視し、翌年に設立の開拓使を以て、この幕府による開削道に馬車の通行を可能とする拡輻などの改修を施工、1876年にこれを三等国道に指定した。そして1885年には内務省により、苫小牧を起点に浦川(浦河)-幌泉(えりも町)-広尾-大津-尺別-白糠-釧路-厚岸-根室間の國道43号線が制定されたのだった。

後には国道38号線の一部となったこの道路の、音別地内で海岸線を辿っていたpaskur(馬主来)原野側については、前に 音別 (根室本線) 1976 に書いたが、対してsak-pet(尺別)原野側は早い時代から海沿いの道を廃して内陸に付け替えられていた。幕府によるものか開拓使によるものか調べ得ていないが、cuk-pet(直別)からap-nay(厚内)方面に続く海岸の断崖下を通路には不適と判断したものだろう。
けれど、その経路は後背の台地から海岸湿原に伸びた尾根筋を分断して尺別からほぼ直進する現在と異なり、二箇所でその尾根を越える線形であった。現在に、鉄道の撮影者達が尺別の丘などと勝手に呼んでいる、音別町の火葬場のある尾根先へ国道から上る道が当時の道筋である。それは火葬場の裏側から急斜面を下りて横切っていたのだが、この部分の痕跡はもうほとんど残っていない。旧国道の迂回を短絡するように建設された新道の供用は1960年代前半のことであった。

火葬場の裏手側斜面には粗末な墓標の並ぶ墓地がひっそりと所在して、何やら謂れの在るものと思っていたのだが、かつての街道がそこを通過していたとなれば、それは集落の共同墓地と云うことになるのだろう。ただし、通常には集落を見渡すような位置が選ばれるから尺別側を向くのが不可解ではある。かつてには尺別が中心集落だったものだろうか。確かに1915年に白糠村から独立した際の村名は尺別村であった。

冬の低い斜光線に尺別川橋梁前後のR=302からR=402曲線を旋回する4005D<スーパーおおぞら5号>。
ここでは定番の画角ではある。
キハ283系は制御振り子機構と自己操舵台車により、この曲線を本則+30km/h、即ち95km/hで通過する。
墓地に不粋な立入りをさせてもらったゆえ、見渡す墓標に一礼してそこを後にした。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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張碓-銭函 (函館本線) 1983

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恵比寿岩の名は、1857年にota-ru-nay(小樽)からpes-poki(星置)までの通行路をこの石狩湾岸の断崖下に開削した恵比寿屋半兵衛に由来する。それ以前に先住民の命名も在っただろうが、それは調べ得なかった。
恵比寿屋半兵衛なる人物は、江州八幡の商人-岡田弥三右衛門(岡田屋)の、屋号を恵比寿屋とした松前での支店(事業拠点)にて当時の岡田家に仕えた番頭を指すらしい(特定個人ではなく世襲名か?)。つまりは岡田屋の蝦夷地での事業を取り仕切った支配人である。
岡田屋は1600年頃には松前に達して恵比寿屋の屋号にて呉服太物に荒物を商って財を蓄え、1700年代前半には場所請負人に進出し、幕末期には檜山・石狩から宗谷・利尻・礼文に及ぶ日本海岸と噴火湾岸室蘭周辺に日高浦河の十数箇所の場所を請け負っていたとされる。それは漁場の数なら百箇所に迫ったと思われる。
中でも小樽内場所の七つの漁場は収益の拠点であり、この通行路の開削は場所経営の必要からであろう。余談だが、事業の許可権限を持つ箱館奉行は、この際さらに千歳までの開通を命じ、恵比寿屋も原野の草刈道程度ながらこれに応えている。後の札幌越え街道である。

1869年に開拓使本府の札幌造営が決まると、恵比寿屋による小樽札幌間の粗末な通行路は改修の行われ、1872年6月には取り敢えずの馬車の通行が可能となったものの、増大する交通に対して同年に小樽から銭函の断崖に新道開削が開始され、翌1873年に幅二間(=約3.6メートル)の西洋式道路が通じた。一部では1857年恵比寿屋の開削路を拡輻利用したものと思われる。これが現在の同区間での線路路盤の始まりである。石狩湾の波浪に抗し難かったこの道路は、それへの転用を前提に1877年にお雇い外国人のジョゼフ=クロフォードの手に依り改修の始められ、1879年に完成、1880年の鉄道敷設(官設幌内鉄道)に至るのである。
この狭い路盤には、その後永くに鉄道と道路が共存し当然乍ら事故も多発したと記録に在る。軍部が日露戦争後に背後の山間地に軍用道路を開削するのも、その隘路性が動機のひとつとなっていた。これは1920年4月に国道へと編入されるけれど、軍事用途の悪路に通行者のほとんど無く引き続き線路路盤が利用され、完全な分離は1934年1月の断崖上への新道(現国道5号線)の開通を待たねばならなかった。この時期となれば道内にも8620・9600の配置される時代であり、大型の機関車列車との共存は危険極まりなかったことだろう。

国鉄バス西香春停留所近くの定番位置から恵比寿岩を見下ろせば、そこには浜番屋に漁師小屋も所在して国道からの急坂を降りて往きもした。小樽に暮らした幼い頃にも札幌へのお出掛けの車窓にそれは見ていたから、自然の防波堤でもあった恵比寿岩の背後は古より小舟の繋留に利用されて来たのだろう。
近くで見ればそれなりの規模の漁師小屋や桟橋に乱雑に引上げられた小舟や漁具が、先ほどまでの風雪に埋もれていた。
暮色間近いモノトーンに赤いテイルランプが走り去る。列車は13D<北海3号>。

積雪に通行を心配した急坂には漁師と思われる長靴の足跡を見つけて安堵した。けれど、それは坂道に対して横を向いていて、なるほどカニ歩きでないと降りられぬのだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/60sec@f4 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

留萠 (羽幌線) 1970

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石炭から石油への所謂エネルギー革命は1950年代に始まる。国際石油資本による中東やアフリカ、南米での巨大油田の開発はこの時代のことである。大型タンカーの就役とも相俟って供給価格が大幅に引き下げられ、それは資本主義の原則に従い世界中に供給されることとなった。日本も例外で無く、政府は1952年に重油の販売統制を解除してこれを受け入れている。それは、この機に高値に安定していた炭価の引き下げを誘導するためでもあった。ところが、1957年3月に第二次中東戦争が終結すると、主には経済復興を要したエジプトの増産により石油は1バレルあたり1ドルとも云われた安値となり、国内では転換の始まっていた工業用動力需要が一気に石油へと向かってしまったのだった。政府も将来の動力源転換を想定し、1955年に『石炭鉱業合理化臨時措置法』(1955年8月10日法律第156号)を成立させていたものの、その瞬く間の産業界の転換の速度には対応は後手に回ったと云うべきであった。国内炭の石油への対抗の不能なことは誰の眼にも明らかとなり、同法に定めた炭礦のスクラップアンドビルド政策を実行しつつも、1960年代を通じて国内生産からの漸次的撤退を図らずを得なかったのである。

苫前郡羽幌町に所在した羽幌炭礦の産出は灰分の少ない炭質で、煤の出ない性状から暖房炭に重宝され、その間も安定した出炭を続けて、道内でおよそ30パーセントのシェアを維持する優良炭礦だったのだが、1969年に保有した羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑ともに切り羽が断層帯に達して減産を余儀なくされ、1970年には債務超過に陥ってしまう。これに対して会社はその需要を背景に、1967年に成立の『石炭鉱業再建整備臨時措置法』(1967年7月5日法律第49号)での再建を可能と見て、同年9月1日に財産保全ため会社更生手続開始の手続きを申立てるのだが、これが従業員の動揺を招き、炭礦労組は10月25日に政府が1969年に策定していた「第四次石炭政策」に基づく「特別閉山」を求めるに至った。それによれば、会社清算に際しての労働者債務は国により完全保証されたからである。この従業員の離反を前に会社はやむなく11月2日を以て閉山としたのだった。会社更生法の適用申請までに債権者からの訴訟の動きは見られず、会社側の先走りが自らの首を絞めた結果の閉山であった。

これにより、深川機関区留萠支区に在って築別から留萠までの運炭列車に重連で専用されていたD61形蒸機は、その全機6両が仕業を失うこととなった。羽幌線の低い橋梁負担力からD51を軽軸重としたこの機関車は同線専用機であり、D51も余剰とされる時代には転用されるでもなく終焉を迎えた。もっとも出炭の減った時点にて本来の4両使用は2両使用となり、612/615/616には早々と第一種休車の措置が取られていた。
写真は、留萠の羽幌下り本線を出発する滝川からの鬼鹿行き(回送で羽幌まで)海水浴臨時9841列車。深川からの牽引にこの日はD611の登板であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

美留和 (釧網本線) 1977

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車内販売の廃止が続いている。
些か旧聞に属しようが、東海旅客鉃道は2013年3月改正時を以て在来線の全ての列車からそれを放逐し、西日本旅客鉄道も2014年秋に北陸線系統特急列車の管内区間での終了を告知しているから、これにて2003年からの四国旅客鉃道管内、2009年の山陰地区での廃止を含めて東海・北陸から中国・四国に至る広大な車販空白域を生ずることになる。ここに残るは、観光路線の紀勢線系統と四国旅客鉃道管内列車の丸亀から観音寺・琴平への運転時分の僅か20分ばかり区間の、それも一部列車のみである。
首都圏に住んで東京や上野、新宿から特急列車に乗れば大半には車販が同乗するが、それは最早特殊事例に属するやも知れない。
駅や市中飲食サーヴィス施設の充実による利用減を事由としたそれは、国鉄の分割・民営化以降に事業の収益源として業者を閉め出して関連会社による営業として置き乍らの身勝手とも写るが、関西圏から山陰・四国への鉄道利用減少は覆うべくも無いのである。同様の事業形態を採った北海道や九州旅客鉄道は健闘しているとすべきだろう。
かつて幹線優等列車には必須の旅客サーヴィスであり、地方線区のそれはもとより一部線区では普通列車にすら事例の在った事を思えば隔世の感を強くする。

当事者には失礼な話なのだが、時効であろうから書いてしまえば、車販女性の制服(日本食堂と記憶)には幹線特急と急行では差異があり、それは特急の方が高級感の在ったのは当然としても、中身の方即ち人間の方の容姿にも微妙な差の感じられ、営業所にてそれとなくの選抜を思わせた。ここにも特急組があったのだろう。
幹線列車は彼女らが大きめの車販ワゴンを二人一組で担当し、前後で牽き、押しながらのそれを鉄道屋は前機・後機などと呼んでいたものだったが、地方線区の急行となれば一人での担当が多く、これは単機牽引であった。そしてその牽引機は確実に車齢の上だったように思え、米坂線の普通列車で出会った単機はC57と9600くらいの差は在ったと書いておく。

70年代始めまでの優等列車は多くの乗客で混雑していたから、車販を装って途中から乗り込む闇業者も存在した。非冷房の車内に夏場のアイスキャンディやらアイスクリーム売りの多かったと記憶する。これには国鉄の構内営業許可を得た業者も存在して客の側からでは区別の付け難い。大抵は男性の売り子で、短区間の停車駅間を狙って慌ただしく商売し逃走するのである。腕に覚えの在る車掌が拘束して車掌室に閉じ込め鉄道公安官に引き渡した例の在ったとも聞くが、多くは乗客への万が一の危害を考慮して車内放送にて購入注意の呼びかけに留めていた。買い手の方も「国鉄の保証しない商品」などと放送されると手を出さなくなり、売り手のこそこそとデッキに引上げる姿を見たこともある。

この釧網本線に設定の急行列車にも、勿論車販嬢は乗っていた。3両編成以上なら中間組成車運転台の助士席側を車販基地にしていたけれど、ここでの2両組成ではデッキに在庫を置いての休憩場所も無い乗務だった。
冷え込んだ朝に霧氷の樹林を往く北見から釧路への611D<しれとこ2号>。
先頭のキハ22は斜里からの増結車である。その作業に斜里へは13分の停車が組まれていた。釧路機関区への帰区回送を兼ねての運用だったろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富浦 (室蘭本線) 2008

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ポントコ山の緩斜面が台地となって海へと突き出した蘭法華岬の、海面からの比高60メートルあまりは大きな岬と云えよう。その先端のみならず西側の斜面は断崖が続き、急激な隆起作用による海成段丘崖がそれゆえに海触を受けた結果であり、岬を含む段丘面上には古代の俱多楽・室蘭火山の活動による噴出物が厚く堆積している。(五万分の一地質図解説 : 北海道地下資源調査所 1953年)
鷲別岬からの淡々とした海岸線を遮るこの断崖の岬は、続く登別ポンアヨロと並んで古くから交通の難所であった。

先住民族が Ri-hur-ka(高い丘の上)と呼んでいたこの交通の障害を、彼らは崖を這うように屈曲した経路を見出して登った。それは hasinaw-us-i(幣場)でも在った上部への登摩路だったのかも知れない。18世紀前半に松前藩によりホロペツ場所が開かれると漁場間の移動に和人もこれを利用し、1838年に場所請負人となった松前の恵比寿屋(岡田屋)半兵衛により手を加えられたものとは思われるが(恵比寿屋は登別温泉への新道も開削した)、幕末には難所として知られていたと云う。近年に至るまで鉄道隧道の陸側にその痕跡が残っていたと聞く。
西洋式の道路(馬車道)として1872年に着工の札幌本道は、それを利用するには往かずに岬の断崖下を迂回する経路を採った。崖を開削し発生土砂で海側を埋める工事であったろうが、それの基準規格とした幅員の6.7メートルを確保したものかは怪しい。
この区間は1907年に國道43号線(1920年に國道28号線)の一部に指定されるのだが、落石や浪害の危険のままに放置され、1932年に至ってようやくに蘭法華(らんほっけ-鉄道と読みが異なる)隧道を含む新道が供用となった。このトンネルは、1952年に国道28号を改めた36号線に引き継がれて機能し、現在も道道701号登別港線で健在である。放棄された旧道は岬周囲の一部に痕跡の認められるけれど、先端部は波浪に崩落して跡形も無い。
1960年代に室蘭から苫小牧・札幌を連絡する交通量の増大から計画されたのが国道36号線の富浦バイパスである。これは富浦市街地を迂回し、且つ幅員を確保する必要から市街地背後を通過する線形が選ばれ、延長を増すトンネルを避けて急崖斜面の切取土工で岬を越えた。供用は1971年8月13日であった。
ここにさらに開かれた道路には1986年10月9日に登別東I.C.と登別室蘭I.C.の間を開通した道央自動車道があるけれど、これは遥か内陸の台地上を通過して岬を越えたとは云い難い。

一方、1892年8月1日に室蘭(現東室蘭)-岩見沢間を一気に開通した北海道炭礦鉄道は、鉄道の線形からここに蘭法華(らんぽっけ)隧道を穿つことになった。然したる障害のない建設区間にあって、その火山性の地質から湧水に手こずった難工事と記録されている。そして1926年7月10日の幌別-登別間の複線運転に際しては、既設線の山側に並行してもう一本の隧道が新設された。
この煉瓦積みの2本の隧道は、その後永くに幹線輸送を支えたが、1980年10月1日に予定された室蘭本線の電気運転に支障するため、複線断面の(新)蘭法華トンネルがさらに山側に掘削された。火山性地質に対しては当時に最新のNATM工法を採用、その一次覆工と二次覆工間に止水材および発泡断熱材を挟み込むことにより漏水と凍結防止を図った防水断熱工法の実用化モデルとして1980年1月に完工し、同年夏までに線路が切替えられた。使用開始日は明らかに出来なかったが、電気運転設備の通電開始が7月16日であったので、それ以前には違いない。
この切替新線はその後まもなくに災害に見舞われる。これについては別項を立てたい。

写真は、本輪西から北旭川に向かう石油輸送列車の5373列車。
このタンク車組成は、もう道内では見られない。この頃までなら、陣屋町-萩野間をシャトル運転したチップ輸送列車もここを走っていた。北海道の鉄道はどんどん面白く無くなる。

[Data] NikonF5+COLOR-HELIAR 75mm/F2.5SL 1/500sec@f5.6+1/2  NONfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

名寄機関区 (宗谷本線/名寄本線) 1971

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機関区詣での初めは小学生の頃の小樽築港機関区だった。休日に何度か遠目に機関車を眺めていたそこへ、意を決して正門から踏み入れ事務所を訪ねたのである。応対の職員に来意を告げると、子供ひとりを訝しくも思ったのか「どこから来たのか」「親は承知か」などを質問されはしたものの、備付けの帳面に住所・氏名を記入して待つように指示され、やがて現れた案内係の名札には「区長」とあって子供心にも恐縮した記憶がある。機関車を間近に運転台は勿論、煙室内部を覗き込み、ピットまで潜らせてもらっての見学の後には区長室で茶を馳走になり、青焼きの機関車配置表まで土産に持たされたのだった。今時の子供と違い、この当時にカメラは手にしていなかったは惜しいところだ。
これに味をしめて「また来たのか」と云われる程に通い、機関車台帳(機関車履歴簿)などの部内文書を写させてもらったりもしていた。鉄道趣味は機関車研究の方向には至らなかったけれど、今も貴重な資料として手元に残る。
ここで、開所間もない札幌運転区(現運転所)も見学したいと申し出て教えられたのが、鉄道管理局の広報担当部署を通じての手続きだった。早速に札幌駅に同居の札鉄局を訪ね、受付からの丁寧な応対に広報担当に面会して難なく見学日程を決められた。余談だが、子供の図々しさと云うのだろうか、この担当者氏をその後にも何度か訪ねて顔見知りになり、使い古しの運行図表などを頂戴したものだった。
この手続きを郵便によるやり取りにて試したのは、1968年夏の帰省先での勝田電車区の見学であった。水戸鉄道管理局文書課広報担当宛に依頼文と共に同封していた返信封筒には、希望の幾つかから選んでもらった日時に「お待ちしています」の一文が添えられていた。指定当日に訪ねれば、既に案内係りが待機しており「今日は見せたいものがある」として連れられた先には、その10月から東北・常磐線を上下する予定の583系電車の一編成が入区していた。運転経路上の検修区所に対する突発故障に応じた検修訓練のためだったろう。確かに思いも掛けないことで驚喜もしたけれど、何より印象に残るのは、それに同乗して検修指導を行っていると云う青森運転所の担当者が、留置中にて冷房も効かない車内で、たかが中学生ひとりを相手に寝台設廃の一部始終を汗だくで実演し、その昼夜での居住性を実現した画期的構造に付いて熱弁をふるったことだった。

これらの実体験にて知れるのは、運輸省が1947年8月に発表した「国有鉄道の現状」と題された白書の結びに使われた「国民の鉄道」「国民の国鉄」の意識が、1949年の発足後十数年を以て公共企業体日本国有鉄道の職員末端まで浸透していた事実であろうか。それは戦後に相次いだ国鉄を巡る謀略的事件や、桜木町、三河島、鶴見と云った重大事故からの信頼回復を教訓に国民への奉仕を部内に説き続けた結果にも思える。そこには国民経済を支える鉄道の職員としての強い誇りと職責も見て取れた。
事実、発足後の国鉄は広報活動に熱心であり、職用車に模型や資料を展示した広報車を用意し全国を巡回もさせ、また拠点においては自治体や地元新聞社の後援の元に鉄道博覧会も開催していたのである。現場の見学についても、その一環として垣根の無い受入が指示されていたものだろう。
私企業となった現在の旅客鉄道にこそ必要な姿勢とも思えるが、それを頑なに拒むのは、撮り鉄と称する一群の当時とは比較にならない数も一因だろう。

名寄機関区は、その地理的位置から幾度も足を運べたでは無かったけれど、直接に訪ねれば許可の下り、動きの少ない扇形庫にはじっくりと機関車に向き合えたものだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 O56 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌 (千歳線) 1994

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特別急行列車を指定して運送する普通扱小荷物の取扱は、1958年10月1日の<あさかぜ>への20系固定編成客車投入を機会に開始された。これが後年に「ブルートレイン便」と呼ばれることになる輸送の嚆矢である。
当該する特急列車の停車駅相互間に通常小荷物運賃にそれと同額の「運送列車指定料金」を課しての運送は、その頃にも一定の需要の在った航空便からの転移を見込んでの施策であり、扱駅の限られたとは云え、当時の数日を要して到着日時も全くに不明の小荷物輸送に在って、翌日着の速達は画期的なものであった。けれど、この扱いは配達を伴わず駅留に限定されていた。迅速な市中配達網の存在しないゆえである。
また、これには特例扱として特急列車に接続なり継送となる列車を指定した特急停車駅以外の駅相互間も認め、それは映画館に配給される上映フィルム輸送を想定していた。
但し、この時代にいずれも高額な費用を要する特別な運送であり、特急列車が高嶺の花であったのと同様に個人の利用するものでは無かった。

この当時の経済構造の変化に見事に対応していた付加価値の高い輸送への需要は旺盛で、1968年10月1日改正からは新聞輸送に急行列車に連結された荷物車の余剰輸送力の活用により、個数や重量、品目を限定しての積載も始められた程であるから(*1)、営業は続々と置替や新設の行われた20系運用の全列車にて行われたものと思われ、10年を経た同改正の運用行路表にも11往復の全てで荷物車に独自の運用番が見て取れる。但し、それらは新聞の朝刊輸送(*2)も担ってのことであり、それとの区別や営業区間までは知れない。
非営業の列車の現れるのは、そもそもその設備を持たない14系特急形客車や24系にマヤ24の登場した1970年代のことで、それは当時に国鉄が客荷分離の施策を進めたことに加え、関西-九州系統や東北常磐線など同区間に数往復が雁行する設定(セクショントレインと呼ばれた)の全列車での営業を要しなかったためでもあろうが、同年代後半に到れば、従来からの財源であった高級荷物の高速道路の延伸や地方空港の整備進展による宅配便なり航空混載貨物への流出に扱いを取り止めた列車も存在していた模様である。
1979年10月号の時刻表(交通公社版)から巻末の営業案内に、この輸送が「列車指定荷物輸送」として掲載の始まるのも、その危機感からであろう。
そこでは、東京-山陽/山陰/九州間系統と関西-九州間系統の全列車での営業が確認され、この頃までには拠点駅には一応の集配体制も立ち上げられ、接続・継送列車を含めた輸送網の整備も進んだことを背景としていた。東京-宇野間列車で宇高連絡船を介した高松・徳島が営業範囲に含まれるのが特筆されようか。地上側体制整備の遅れたものか、共通運用の関係で荷物車運用は組まれていた日本海縦貫線と上野-奥羽地域間系統列車の記載は見られない。
宅配便の進出に対しては、1982年の2月に至ってようやくに集配網と料金体系を整備した「鉄道宅配便」(商品名)が始められ、特急列車による列車指定荷物輸送もその一部に組み入れられた。日本海縦貫線列車での営業はその際に開始されている。
しかしながら、これら施策も時期を逸して早くも1984年2月1日改正にて、荷物営業線区に「鉄道宅配便」扱駅の縮小を余儀なくされる中、1981年8月に東海道・山陽新幹線から始められた定形軽量荷物運送の「新幹線レイルゴーサービス」の夜行版との位置付けにて特急列車輸送には「ブルートレイン便」の商品名が付与されたのだった。
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(*1) これも特急列車と同等の「運送列車指定料金」を収受するものであったが、それら夜行急行の特急寝台列車への格上げにより移行の進むと、1978年7月6日付の制度改正にて、到着明確化対象の拡大を意図して整備された荷物専用列車や普通列車(に連結の荷物車)を含む継送網に対して、荷物1個あたりに100円を課する特急列車以外の列車を指定する「列車指定料金」として制度化された。多分に、1976年から展開の開始されたヤマト運輸による宅急便を意識したものと思われる。
(*2) この新聞輸送については、内地版の 陣場 (奥羽本線) 1980 に書いている。

国鉄が荷物専用輸送から撤退した1986年11月1日改正以降も継続され、1987年4月1日には旅客鉄道会社に承継されたこの輸送は、新幹線利用が宅配便の及ばぬ領域だったのに比して、それの午前中の時間を指定しての速達サーヴィスの充実に利用を減らしながらも、特急寝台列車自体の廃止も相次ぐ中、2010年12月4日改正時点まで<あけぼの>と<北斗星>に生き残っていた。<北斗星>での営業は、それの運転を開始した1988年3月13日改正より改正前の<ゆうづる5・4号>での上野-仙台-盛岡間を引き継いだもので、5列車と2列車で行われた。
写真は雨のようやくに上がった大曲橋梁を往く5列車<北斗星5号>。
勿論、道内入りしたこの列車の荷物室はカラである。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

釧路 (根室本線) 1986

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母方の実家は戦前に茨城県水戸市内で大規模な養鶏場を経営していた。戦争末期の空襲で鶏舎の焼け、戦後の農地改革にて土地をも失ってしまうのだが、記憶に在る母の実家の敷地にも名残の鶏小屋が置かれていたのだった。鶏卵の自家採卵程度の施設ではあったものの、近所から買いに来る人も居たから、祖母の小遣い稼ぎ程度にはなっていたのだろう。食用での飼育ではないけれど、当然に廃用鶏が出ればそれに充てて、親戚一同が集合する機会や慶事などに祖母は鶏料理を振舞っていた。本格的にブロイラー鶏の出回る以前にて、まだまだ鶏肉の高価な時代である。そこには、お決まりの骨付もも肉の素焼きの他、唐揚げも並べられて子供らには馳走に違いない。
そのレシピを受け継いだであろう母の唐揚げは、タレに漬け込んで澱粉で揚げる製法であった。澱粉は戦時中の小麦粉の代用品の名残りであり、生姜や大蒜の擂り下ろされたタレを、母は龍田揚げとは区別していた。
1960年代を暮らした札幌で母自身も家族も違和感を感じなかったのは、それがたまたまに「ざんぎ」だったからではなかろうか。寒地ゆえにブロイラー導入の遅れた当時の北海道で、その呼称が家庭にも浸透していたものか分からぬが、製法は同等だったのである。

この家庭の味に対して、都内に一人暮らしを始めると定食屋や総菜屋での鶏唐揚げの薄味には唖然としたものだった。ずっと時代を下った1980年代の半ば、小樽駅前の食堂で出会った「ざんぎ定食」は食べて懐かしくも在る唐揚げだった。
食用油業界が設立を主導したと思われる「日本唐揚協会」は、内地での鶏唐揚げと北海道の「ざんぎ」を同一のものとしているようだが、確かにそのヴァリエイションには違いあるまい。
鶏肉の高価だった戦前の時代なら、その下味の作法や製法は全国の鶏料理屋独自に存在していたことだろう。道内に何店もは無かったはずのそこへはしっかりとした下味が移入され、料理屋のものだった唐揚げが、60年代以降に家庭へと普及する過程にてそれに収斂されて往ったと思われる。その語源には諸説が語られる「ざんぎ」の呼称と共にである。

霧の釧路川を渡って往くのは213D<ノサップ3号>。河畔の岸壁は既に使われておらず、ここの繋留されるのは廃船ばかりである。
現在に「ざんぎ」は釧路が発祥を名乗り、流行の地域グルメとして町起こしを担っている。ザンタレ("ざんぎのたれ"の意か)をつけて食するのは特徴的だが、同じような供食形式の店は昔から都内にも在った。とは云え、数回は立ち寄った市内末広町の呑み屋での「ざんぎ」は実に美味い。ビールが何杯でも呑めそうだ。
この「ざんぎ」は最近には内地にも進出を果たして、いつも都内と行き来に通る町田にも小田急電車の車窓に見えるところに「北海道ざんぎ旭屋」なる売店があり、繁昌している様子である。そして2014年4月には、女子学生御用達のファッションビル-町田ジョルナの2階、カフェの退店した跡に「釧路ザンギ食堂」が開店した。釧路でのオヤジ達の酒の肴は、ここ町田では女子高生のおやつと化した。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1998

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長万部での本州連絡特急寝台列車へのバルブ撮影には意図せずとも機会の多く、貨物積卸線撤去跡で度々にそれを待っていた。かつては立てぬ位置だったから尚更でもあった。
ここでのバルブのセオリーは、機関車前照灯の光軸から離れた位置(即ちは列車に接近した位置になる)から中望遠の画角を用いて、既に腕時計の判読出来ぬ程に暗い構内照明ではなく道路側の街灯光を利用することだった。とは云え、それでは当たり前の絵(→長万部 (函館/室蘭本線) 1994)にしかならぬゆえ、少なくとも105ミリからの望遠画角を考え、レンズを変えて何度か撮ったけれども、フィルム撮影の当時には満足する絵の得られぬままに終わってしまった。

ひとつには、前照灯の光軸に近づくことでのフレア・ゴーストの発生である。ビームの落としてあれば考慮せずとも良いのだが、それでは奇数の絞り構造にその倍を生ずる光芒が迫力不足で仕業途上の機関車のイメイジが弱くなると考え、ニコンサーヴィスに鏡筒内反射の低減改造を相談するも、強い直射光への効果に疑問を呈され、何より提示された見積もり額にこれは諦めざるを得なかった。
それに、画角に写り込むことになる照明光源への補正が難問だった。駅跨線橋や乗降場上屋の白色蛍光灯ばかりでなく、ここには乗降場のメタルハライドらしき水銀灯に、跨線橋からの階段にナトリウム灯、被写体後方で構内の跨線人道橋を照らすこれも高照度のナトリウム灯などの光源が混在して、現地で、Ektachromeに対するCCフィルタの組合せと濃度をテスト撮影してはいたものの、全てへの完全な補正は困難に違いなかった。

さらには、背景の空を群青色に出したいと云う目論みを持っていたのである。ご承知の通り、日没後の天空は残照の空となって次第に漆黒に溶けて往き、完全な夜空と化すには1時間程を要して、それまでならバルブ撮影に青く発色した。所謂航海薄明から天文薄明に至る時間帯である。日没時刻が19時を過ぎる夏至の時期を選べば、長万部を20時の2列車なら背景に取り込めると考えられた。けれど、光源への補正フィルタは効果の及ばぬ部分の暗黒を前提にしているから、それとは両立しないことになる。露光時間をf11での20秒前後と仮想して、決して漆黒では無く、且つフィルタの色乗りの気にならない程度に空の落ちるまでの経過時間を日没から50分程度と、これは自宅ベランダからの数日間のテスト撮影で判断し、20時の撮影とすれば19時10分あたりの日没、即ち6月10日前後に7月20日前後の数日が適切時期と推測された。

写真はそれを実行した中でのカットである。空の発色はほぼ目論み通りなものの、力強い光芒と引換えに異形の内面反射を生じている。これはフィルムそのものを反射体とした散乱光の二次像であろう。
列車は、勿論<北斗星2号>。
カメラ内部での散乱を含めて、このセッションでの数々の困難はディジタルに持ち替えてから気の抜ける程に霧散した。その福音を最も享受した撮影かも知れない。なので、このカットは習作に留まる。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  Bulb@f11 Fuji CC35M+CC05R+CC10B filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

江別 (函館本線) 1988

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現在もそれも走る太平洋石炭販売輸送臨港線はさておき、かつて隆盛を極めた道内国鉄線上における運炭列車が最後に走ったのは、いつのことだったのだろうか。記録は無いものかと調べても、それを記した文献資料は見当たらず、Web上からの明確な情報も今のところ得られていない。

1980年代後半当時に運炭列車の着駅となっていた港湾側では、留萌港南岸石炭桟橋への側線が1987年限りに運用停止となり、苫小牧港開発の運営した石炭埠頭臨港線での輸送も1988年11月21日に廃止されている。これ以降にも稼行した炭坑の南大夕張、芦別、赤平、空知、太平洋釧路の内、日本貨物鉄道に関わる移出輸送の発駅となり得たのは、三井芦別鉄道の連絡した芦別と住友石炭鉱業専用線の接続した赤平の他には無い。それは既に道内向け輸送であり、着駅は豊沼の三井東圧肥料専用線と江別の北海道電力専用線であった。末期の両炭坑の出炭の大半は、この二箇所に引き取られていたのである。特に、江別の石炭火力発電所は政策的に国内炭の使用が義務づけられていた。
よって、前記の専用鉄道・専用線が最終移出を行った1989年3月23日当日、もしくは翌日に芦別と赤平を出発した列車が道内最後の運炭列車と云うことになるだろう。現在ならばセレモニーのひとつでも施行されそうなものだが、当時の北海道新聞のデータベイスにもそれらしき写真は見つからなかった。情報をお持ちの向きには、ぜひご教示いただきたい。

新夕張川橋梁を往くのは、最末期の運炭列車の5490列車である。
頼城からの石炭車を継送して芦別を出発し、赤平にて専用線発の編成を増結、豊沼で一部を解放して江別に至っていた。工場専用線行きの運炭列車は、かつてにも駅着発線有効長などの関係にて港湾の貯炭場に向かうような長大編成は見られなかったのだけれど、それにしてもこれは寂しい編成と云わざるを得ない。石炭車は江別で2両を残して切り離され、それは着駅の札幌貨物ターミナルまで運ばれるのだが、半高架の取り下ろし線を要する石炭車荷役の引取先はわからない。
なお、機関車はこの直後にDE10の重連仕業に替わった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

厚岸 (根室本線) 1972

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能取湖の南岸、湧網線の卯原内付近を秋ともなれば赤く染めていた「サンゴソウ」群落は承知していたけれど、それの和名の「アッケシソウ」とは随分と後年に知った。観光ガイドブックやパンフレットの類いにサンゴソウ(珊瑚草)と紹介されてもアッケシソウ(厚岸草)の名はなかったのである。網走市にしてみれば観光資源に厚岸を持ち出したくも無いのが正直なところだったろう。

このアカザ科の一年生植物は、1891年に厚岸湖の牡蠣島で発見されたところから、その和名が付された。道内には厚岸湖、能取湖の他にサロマ湖や野付半島でも群落の確認されて北方系の植物かと思えば、宮城県や瀬戸内海沿岸にも自生と聞いて驚きもした。それの群落形成には塩分濃度の比較的高い汽水と緩やかな潮の干満差が条件と云う塩生植物である。牡蠣島の大群落は1921年に「厚岸牡蠣島の植物群落」として天然記念物にも指定されたのだけれど、牡蠣島自体が地形変動により水面下に没し始めて、以来に牡蠣島のアッケシソウは急激に減少したのだった。天然記念物指定も1994年に至って解除されている。厚岸湖から絶滅したでは無いものの、湖岸に残された自生地には陸路の通じない最深部にて、厚岸町はこれを観光資源とはしなかったのである。
決して繁殖力の弱い植物ではないらしいのだが、前述のごとくに生育条件が限られ湖岸の至る所とは往かない稀少植物であり、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧種2種に指定、北海道庁においても準絶滅危惧種である。

これを受けて、厚岸町は教育委員会が中心となって2005年よりその栽培を手がけている。栽培地は、かって鉄道の撮影位置でもあった線路沿い船溜りの埋立地である。陸上に区画を設けてのそれは定期的な海水の散布を要し、如何にも畑作地然とするのは頂けないが、釧網線の車窓にも見える。埋立地先にでも冠水域環境の復元を望みたいところではある。
余談だけれど、冒頭の卯原内地区では観光協会が自生地の保護を行って来たのだが、近年に主には潮位の上昇から土壌の流失や常時冠水域を生じたため、群生地への湖水流入を減少させる盛土工事を行ったところ、乾燥化が進行して生育不良に陥り、現在に群落は壊滅状態と云う。調査の結果、盛土に使用した能取湖港湾工事の際の浚渫土砂による土壌の酸化作用が原因と知れ、現在にその土砂と湖岸堤防の撤去が進められていると聞く。前述のとおり、環境にうるさい植物なのである。

厚岸湖岸の船溜りを車窓に旋回して往く列車は混合444列車。まもなく厚岸の場内に至る。
現在に前記の栽培地に埋め立てられた位置である。鉄道屋としてみれば、格好の立ち位置を失ったのだけれど、背後の丘陵も住宅街と化してしまい、どっちみち撮れたものではなくなっている。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f5.6 NON filter Kodacolor100 Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1983

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あまりにも間の空き過ぎてしまったけれど、石北本線の継子特急<オホーツク>の続編である。→常紋信号場-金華 (石北本線) 1982

現在、札幌-網走間に定期運転の優等列車は<オホーツク>の4往復が全てである。この区間での昼行優等列車の4往復設定は、函館や釧路発着を含めて、函館-網走間急行<オホーツク>がキハ80系の投入により特急<おおとり>に格上げされ、それにて捻出のキハ56/27にて札幌-網走間に急行<オホーツク>が増発された1964年10月1日改正のことで、実に以来50年間に渡り不変である。相互発の朝から午前に2本に、昼から夕方に2本と云う列車配列も変わらず、設定時間帯もほぼ同様である。即ち、この間の石北線利用動向は列車新設/増発を誘発するに至らぬばかりか、旭川-網走間の線内急行に旭川-遠軽-興部や名寄-遠軽-網走の支線区直通急行は廃止され、一日に4回の利用チャンスのみが辛うじて維持されたと見て良かろう。

とは云え、これは札幌-稚内間に比しても然程に事情の異なるでは無く、寧ろ1972年10月改正での<おおとり>と逆時間帯にあたる1往復列車の格上げによるサーヴィス向上(特急<オホーツク>の始まりである)は札幌発着特急の最初の事例であり、1982年10月のキハ183系投入も<北斗>系統に先駆けたものであった。
では、その継子扱いは、いつに始まったものなのか。183系気動車の使用方に大きな変動の在った1985年3月改正に、それと思われる事象が現れていた。特急列車の短編成化とそれによる捻出分にて増発の行われたこの改正では、特別車(グリーン車)の不足に量産試作のキハ184-901をキロ184-901とする改造の施工されたのだが、電源装備を撤去したものの走行機関を種車から流用した関係にて、それはキロ182-0(900)番台車に対して半分の出力に留め置かれた。当然に査定勾配における均衡速度の低下するこれの組成編成には限定運用を要して、選定されたのが札幌運転区の<オホーツク>運用であった。もっとも、この当時の<オホーツク>はキハ80系で残った<おおとり>との到達時分差の拡大を避けて速度をそれに合わせており、現況に影響しない運用を選定した結果ではあろうが、それはキハ80系定期運用の終了し183系の性能による速度に向上した86年11月改正以降も、1往復の運用にキロ184の機関が換装される89年3月改正まで続くのである。

これは国鉄当局が1980年代前半には、将来の並行する自動車専用高規格道路の開通を既定事実と認識し、線形の悪い山岳区間を二箇所抱える石北線のそれに対抗する改良を、とっくに放棄していたゆえであろうし、北海道旅客鉄道も認識を継承して経営資源を函館と釧路方面に集中するのである。86年11月改正で導入の新車、183系500/1500番台車も当初には広く各方面に運用されていたのだが、94年3月改正までに<オホーツク>運用からは撤退し、以来永くに老朽化の進む同 0番台とその改造車が貼り付き続けることになった。(現在には、その老朽廃車により遠軽方先頭車に1500番台が復帰している)

現在に石北線の石北トンネル区間は<オホーツク>運行のために存在するとして過言では無い。それの2010年に丸瀬布までの繋がった旭川紋別自動車道を経由する都市間バスとの所要時分差は遠軽・北見で僅か20分程である。2016年度にそれが瀬戸瀬までの11.2キロの開通すれば、さらに縮まることは目に見えている。その先、遠軽豊里ICまでの延伸は時期未定ではあるものの、その際には利用をバスへと誘導して少なくとも上川-白滝間を廃止したいのが北海道旅客鉄道の本音だろう。貨物の季節運行の存続するならば釧網線で釧路へ送れる。

雪の線路を音も無く滑り降りて往く31D<オホーツク1号>。後追いである。
特急らしいキハ183系の9両編成は当時に10両所定だった<北斗><おおぞら>に引けを取らない。キハ80系の7両組成からの置替は実質普通車3両分の増強になっていた。その意図はわからないが、この特急には些か輸送力過剰だったように思える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

本輪西 (室蘭本線) 2008

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東日本の太平洋岸を襲った過日の災禍に、被災住民の仮設住宅としての活用が報道されて存在を知った方も多いのではなかろうか。労働省傘下の特殊法人「雇用促進事業団」が設置・運営した「雇用促進住宅」である。
1961年のそれの設立に際しての根拠であった『雇用促進事業団法』(1961年6月6日法律第116号)が、その第19条に広域求職による就業者に対する宿舎の設置と運営事業を規定したのは、同事業団が既存団体の「炭坑離職者援護会」の事業引継ぎを想定していたからに他ならない。政府は1955年時点にて『石炭鉱業合理化臨時措置法』(1955年8月10日法律第156号)を成立させるなど、近い将来の石炭鉱業の大幅縮小を予期しており、炭坑閉山による大量の離職者の発生に対応を迫られていたのである。
その宿舎が雇用促進住宅と呼ばれた住戸であり、全国47都道府県の全てに設置がなされた。2Kから3LDKまでの規格化された各種間取りの鉄筋コンクリート構造の集合住宅である。
事業開始当初に主な対象となった炭坑離職者に対して、事業所・工場等の集中する都市部やその近郊への建設戸数が大半ではあったけれど、農林水産業や地方立地の工場などへの転職も視野にしてルーラル地域への建設事例も少なく無い。

鉄鋼業を中心に工業地帯を形成していた室蘭市は炭坑離職者の受け皿地域と目され、1972年度までに水元、高平、白鳥台の各宿舎の計10棟400戸が設けられるのだが(1980年度に蘭北宿舎の2棟80戸を追加)、雇用保険料を原資とした事業予算での建設は、いずれも当時には市街地を離れた周辺部に用地を求めてのことだった。特に高平宿舎の4棟160戸は港北地区高平町の後背台地の標高80メートル位置が選ばれ、かなり後年になって宅地開発のなされた八丁平方面への道路も開かれたけれど、1968年12月の入居開始当時なら台地上に唯一の隔絶された地とも云えた。山間の炭坑住宅に暮らした人々には気にならなかったのかも知れぬが、現在でも国道上のバス停から1.6キロ、小学校へ徒歩30分、中学校へは70分と、現運営受託者である一般財団法人 SK総合住宅サービス協会のWebサイトにある。

この台地斜面は戦後の食糧難の時代に耕作地とされて、かつては上部まで農地が広がっていた。現在には放棄されてクマザサに覆われているけれど樹木の取り払われているのは、それゆえであり、高平宿舎の近くに立てば白鳥湾、白鳥大橋に本輪西の市街地を一望に見渡せた。
本輪西の側線から本線へと進出するのは、8773列車。屋根の深いDF200のには、このタンカー編成が良く似合う。

当初に2年間に限られた雇用促進住宅への入居は、求職構造の変化と共に次第に条件の緩められ、現在には延長期限の5年を遥か越える長期入居者も多いと聞く。けれど、全国的に建物の老朽化も進み、また本来の役目も終えたとして2021年度までの全廃が決定し、ここ高平宿舎への新規入居もとっくに停止されている。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6+1/3 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩谷 (函館本線) 1984

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19世紀末の鉄道エンジニアリングでは、忍路半島から高島岬に続く石狩湾沿いの断崖に隧道を穿って通過するなど考えられなかったのである。北海道鉄道(初代)が1903年6月28日に開業した蘭島から小樽中央(現小樽)の区間は、蘭島川、桃内川、塩谷川の谷を隧道で繋ぎながら於多萠の峠に至る山間の経路が選ばれ、1/55(=18.2パーミル)から1/50(=20パーミル)勾配の断続する線形となった。15キロ程の距離には列車行違い設備を要して、ほぼ中間の塩谷川を遡った地点に塩谷停車場が置かれた。それ故、湾岸の塩谷村中心集落から直線で1キロぱかりに関わらず山間の駅であった。
現在に国道5号線上の塩谷バス停留所近くから駅へと至る道路がいつに開かれたものか、入植地であった丸山の麓斜面への通路として鉄道以前から存在したものか、或は鉄道の工事用道路に開削されたものかは分からぬが、地元では「停車場(ていしゃば)の坂」と呼ばれていたようである。それは駅まで延長1キロに満たぬものの、標高100メートルばかりの二つのこぶ山の鞍部を切通しで越える峠道となっており、そのピークからは塩谷駅を見通せた。
鉄道が交通の主体を担っていた時代には小樽への通学に、所用・買物にと塩谷沿岸地域の誰もが利用した主要通行路であり、集落からおよそ20分の徒歩となるそこには電柱毎に電燈(街路灯)も設置されていたと云う。歩いてみれば、国道からの緩やかな坂道は塩谷川へと下る斜面がやや急坂となり、冬には駅で荷物を満載した馬橇での通行には難儀したと伝わる。

追設された落雪防止柵の物々しい駅本屋。中線を持つ広々とした構内は、長距離優等列車の行き交った紛うこと無き幹線駅である。駅員の手になる瓜の栽培は些か育ちの悪い様子だけれど、やはり駅には要員の配置されてこそと思える光景だろうか。
列車は札幌-小樽間を快速運転の3532D、倶知安行き。この年2月の改正で<らいでん>から格下げられたこの列車には、急行末期の運用そのままにキハ56/27が組成されていた。
ここで降車した二人は用務客に見える。上りホームで列車を待っていたのは隣駅蘭島へ向かう海水浴の若い女性2人組だった。まだまだ鉄道の利用されていたのである。

小樽中心市街地や近隣との行き来が、ほぼ国道を往く自動車、バスの時代となれば、わざわざ坂道を上り下りする人もいなくなり、ここは標高50メートルに置き去りの駅となった。停車場の坂もまた昔語りである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

姫川 (函館本線) 1993

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あまり取り上げぬ時事ネタである。
ご承知のとおり、西日本旅客鉄道は先般、大阪-札幌間に変則的定期運行の臨時列車<トワイライトエクスプレス>の2014年度末までの廃止を公表した。2015年3月に予定される時刻改正を以ての実行であろう。同社はその理由を「車両の老朽化」としている。1970年代前半時期の新製車を種車としての改造車編成は、確かに車齢は40年前後に至る。
一方で、北海道旅客鉄道と東日本旅客鉃道は2015年度末の北海道新幹線の新函館開業に関連して、25000ヴォルトに変更される海峡線区間の電車線路加圧電圧に対応する機関車導入の予定の無いこと、新幹線列車運行の無い夜間に保守間合いを確保する必要から海峡線区間を運転する寝台特急列車の運行継続を困難と非公式にコメントしていた。
高い乗車効率を維持する<トワイライトエクスプレス>の、それを1年前倒ししての廃止は「車両の老朽化」だけなのだろうか。北海道旅客鉄道では数年前から14系・24系客車の延命工事を続けており、それは<北斗星><はまなす>を2015年度末までは運行する意思に読める。

以下は推定であり、しかも私見に過ぎないのだが、おろらくは2015年春に予定の北陸新幹線の金沢までの開業が関連していよう。この列車の運行継続には、分離される並行在来線を運営する第三セクター鉄道の3社区間の直通を要するのである。それに際して3社には二つの選択肢がある。旅客列車の例外として貨物列車同様に線路使用料を課して運行させる、もうひとつには運賃は勿論のこと特急料金に場合によっては寝台料金までも徴収し、その上で西日本旅客鉄道に車両使用料を支払うか、である。それの第三セクター鉄道、しいては出資自治体との交渉が決裂したのが真相ではなかろうか。上野発着列車の盛岡-青森間運行は、現在に後者にて行われている。利用者には負担増となったのは周知のとおりである。

さらに深読みすれば同社と沿線自治体との在来線分離を巡る確執も見え隠れする。富山県は新幹線の開業後も関西との連絡特急の第三セクター線を通じての富山着発を強く要望していたのだが、この旅客の利便からも至極当然の要求を新幹線収益に固執する西日本会社の拒否した経緯が在る。富山県が夜行特急だけの乗入れを認めぬのなら、それは意趣返しにも見えるし、応じての当該列車廃止の決定は西日本会社側の意固地にも写る。
いずれ歴史家が解明してくれようが、その背景は、もともと同社には在来線の流動も多い金沢-富山間の経営分離の意思の無かったことではないか。決定権は会社側にあるのだが、これに富山以遠の非採算区間のみを押し付けられる富山県が当然に反発し、いずれかのレヴェルで政治的決着の図られたものと思う。それの尾を引いているとしか考えようが無い。

ついでに言及するが、前記の北海道旅客鉄道と東日本旅客鉃道の見解には根拠が無い。初期投資に牽引仕業も貨物鉄道と協議の余地のあるし、夜間に保守間合いを確保したのでは物流に不可欠の札幌へ朝から午前に達するコンテナ列車の設定が出来ぬからである。それは貨物鉄道の経営を直撃することになろうし、広くは北海道経済に影響するだろう。

写真は、函館桟橋起点43K500M地点のR=301曲線を旋回する8001列車。頂上を雲に覆われた駒ケ岳はフレイムアウトするしか無い。
ここでの伐採を知って訪れた最初の際の撮影だが、その後の幾度かも夜明けまもない時間帯の天候には恵まれず、心残りの地点になっている。植林された杉の成長で、もう撮れなくなったからである。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor 50mm/F1.4D 1/60sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR5 on Mac.

七飯-大沼 (函館本線) 1988

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国道5号線の七飯町峠下から小沼湖畔の区間は、1998年2月に新大沼トンネル(l=747M)が供用開始となり、これを上り線に既設大沼トンネル(l=671M)を下り線とした4車線に拡輻・改良された。函館市内と峠下間に開通を予定した国道5号線自動車専用道(函館新道)の接続線としての整備であった。
その工事開始前まで既設トンネルの入口方に気に入った立ち位置の在って、幾度かリピートしていた。大沼から徒歩の凡そ40分は然程に遠い訳では無いのだが、そこに達するにはひとつ難関が待ち構えていた。その国道の大沼トンネルである。

函館から軍川方面への自動車道路は、1929年に峠下で当時の國道4号(札幌本道)から分岐して長坂峠を越え小沼畔へと下る経路にて開かれていた。かつてには乗合自動車も通ったこの道路は、それまでの人馬通行の峠道を改修したものであったろう。現在には地形図からも抹消されているけれど、峠下台場山の登山道への接続路としてご承知の方もおられるはずである。
同じように山間をジュンサイ沼畔へと向かっていた国道5号(旧4号線)の改良に建設されたのが、長坂峠直下を貫通して小沼畔に至る大沼隧道(開通時呼称)であり、供用は1964年のことであった。この際に大沼方面へもその出口で分岐するよう改められて、その名の通り長い坂道の続いた峠道が廃止され、森方面や軍川への利便は飛躍的な向上を見たのであった。
以来に、この主要国道上に介在したトンネルは通過交通量も多い上に、1950年代の計画・設計はやや狭小な断面とも思われ、歩道の設備されるとは云え、僅かに幅30センチばかりのそこを伝って徒歩にて通り抜けるのは至難の技だったのである。
同じ頃の自転車旅行者による記事をWebに読んだことがあるが、彼もまた「命の危険を感じた」と書いていたとおりに、まして大きな三脚も含めた撮影機材を背負っての徒歩通過は、決して誇張では無く「命がけ」であった。直線の洞内に車両は速度を上げて走り、大型車同士の離合ともなれば路肩に残る「隙間」など僅かであり、側壁に貼り付いてもなお文字通り鼻の先を走り抜けることになっていた。それは、或る程度に開き直らなければ通れたものではなく、671メートルを無事に抜ければ、緊張の解けて毎度脱力していたのを思い出す。

撮影位置は、藤城線の新峠下トンネル直上に架橋された道路橋である。ここも決して幅員の在る訳ではないので、やや厚みのあるコンクリート製の欄干に三脚の足の2本を置いて機材を装架せざるを得なかった。
列車は4時50分過ぎの通過だった1列車<北斗星1号>。函館からのスハフ14が機関車次位に見える。その機関車は国鉄制式塗色である。
大沼トンネルを通過せねば到達出来ない憂鬱と、この切通し区間の魅力を天秤に掛けては後者を選んでいたのだった。
往きがあれば帰りもある。撮影を終えれば、また覚悟でトンネルに踏み込むことになる。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/60sec@f4 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


中丿沢 (函館本線) 2009

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その昔には、どこの家でも備えていた家庭用品のひとつがハエタタキである。ずっと街中のマンション暮らしのせいか、1970年代からこの方に使ったことの無いこれを調べてみれば、その進化に驚かされた。商品名を「電撃ラケット」と称してネックに仕込んだバッテリィの電流をネットに流し、それに触れたハエに電気ショックを与えると云う、正に「電撃」ツールも存在するのだった。
使い方のお作法としては、空中を飛翔中のハエをネットに触れさせねばならないから、やはりそれを振り回して叩くことになるのだろう。勿論、旧来型の製品も売られていて、それ以外に変わり様の無い形態の昔ながらのハエタタキである。けれど、ヌメ革製の高級品などの存在には、やはり驚きもする。

まだまだ需要の残る本来のハエタタキに対して、1970年代を通じて消滅したのが、少なくても12線程度、多ければ100線以上の電線を装架していた通信線柱、その屹立した形状から転じた鉄道の「ハエタタキ」である。古い鉄道屋ならとっくにご承知だろうが、それを知らぬ世代も居られようから敢えて記せば、その時代までの鉄道景観に欠かせぬシーナリィであり(模型趣味の方など良く理解しておられよう)、写真の鉄道屋には重要な添景と知りつつも、往々にして画角の邪魔をする存在でもあった。
幹線・亜幹線系線区であれば、60から80線くらいなら当たり前に装架して線路沿いに延々とつづいていたこれは、偏に通信伝送技術が未発達だったが故の装備と云える。当然にアナログ信号であるから周波数の変調により多重伝送を実現していたものの、それでも1本のケーブルに乗せれる情報は限られたのである。
これに装架された通信線の主体を成したのは電話回線である。これは、運転や旅客、貨車操配、電力などの重要な指令元と指令先を直接に繋ぐ指令回線、運転上に停車場間を結ぶ運転専用線、保線区や電力区に信号通信区などが用いたそれぞれの保守専用線、交換機を通じた通常の電話回線、それを経由せず2駅間の閉塞作業などに用いられる端末同士を直接に繋いだ区間回線(通票閉塞器間を結んだ電鈴線もこれに含まれよう)、全国各地に置かれた電話交換所間を直接連絡した中継回線、駅間に置かれた搬送電話機の接続点と結ぶ搬送電話回線、無線電話機用の無線電話回線など、用途や通話先にて細かく設定され、また駅などの時計に信号を送る電気時計回線、警戒個所の風速計験測情報送信の風速計回線なども在り、それぞれが専用回線であった。
加えては電信回線である。これには印刷電信機(テレタイプ)に用いる印刷電信線、それに戦後には予備的存在ではあったが、モールス信号を用いる一般電信線、電話回線と同じく搬送電信機用の搬送電信回線、無線電信回線があった。
これだけが要求された回線に、ひと回線に回路の構成が実回路と呼ばれた電線2条を要する方式が採られたから、一つの回路を重信回路と利用した幻影回路方式を併用したとは云え、通信線はたちまちに数十本の単位となったのである。

通信技術の進歩は多重伝送を可能として、SHF回線通信網の整備や通信線の地下(側溝埋設)ケーブル化によりハエタタキは淘汰されるに至った。何より、1950年代後半から進展した交流電化区間では誘導障害により電信線は使用不能だったのである。現在では、道内に最新の海峡線区間はディジタル伝送にて空中には僅か3線が電化柱と通信線柱を兼用して装架されるのみであり、新得以遠に旧設備の残る石勝線区間も6線に過ぎない。けれど、そこにはハエタタキに替えて、そのまま電化柱に転用可能なコンクリートポールが連続して建植されて「往々にして画角の邪魔をする」ことには変わりが無い。

函館海線区間の山越と、この中丿沢の旧場内は、下り列車に対してではあるが通信線柱を画角外に排除出来る希少な位置である。中線の撤去されて棒線となり、上り線側から引きの在るすっきりとした画角の切れるところも共通している。ここへは、背景の植相に天空の質感の季節毎の変化に対して、立ち位置からの画角を細かに切り分ける必要の在って幾度も通うことになったのだけれど、未だに気に入ったカットは手にしていない。上下線間に雑草の繁茂して撮れない時期もあったからである。

澄んだ秋空を駆け抜けるのは1列車<北斗星>。
朝には線路東側の防雪林の影が落ちてしまうので、この列車には10月の半ばが限界になる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f4 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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