"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

五稜郭 (函館本線) 1982

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五稜郭 (函館本線) 1982 から続く。

青函間貨物輸送量が連絡船17運航による年間440万トン台に達した戦後の1950年代以降に、有川航送場は航送貨車の70パーセントを扱うようになる(*5)。五稜郭操車場も拡張の行われてもなお操配能力が不足し、1967年度よりここで組成・分解を行わない有川発着列車が設定され、この通路線に本線列車の直接乗入れが始められた(*6)。これに対しては、操車場場内で上下着発線と接続する亘り線の設けられた他、有川には着発線と機回線が追設され全区間の軌道強化も行われた。
また、函館構内貨物積卸線へのコンテナ施設設置にともない、そこの荒荷線の航送場南側用地への移転もこの際に手配された事項である。なお、その用地は有川3岸(函館5岸)を築造しての航送場拡張に鉄道省が確保していたものであり(*7)、戦後まもない1946年3月から1948年2月まで実施の米軍供与のL.S.T(上陸用舟艇)による貨物輸送(Website参照)の際に積替えの荷役線が敷設され、1950年にはそれを利用して五稜郭の貨物扱の一部が移転していた。

青函間の年間貨物輸送量は1971年の8,553,033トンを最高に以降減少の一途を辿る。国鉄がヤード系輸送から全面撤退した84年2月1日改正を以て五稜郭操車場は使用停止となり、合わせて有川航送場も閉鎖、当然に通路線の運転も無くなった。けれど、航送場南側には1980年5月から従来の設備を増強して函館地区各駅の貨物集約施設が稼働しており(*8)、調べ得なかったのだが、70年代に線路の撤去されていた五稜郭本屋構内からの専用線路盤への再敷設は、これに替えてのことと思う。桁の撤去され、永らく築堤と橋台の遺構が残されていた乗越部は近年に西側部分が宅地と化して消滅した。
有川航送場は久しく荒れた姿を晒した後に埋め立てられ現存しない。貨物施設の方は1987年4月の国鉄分割・民営化に際し、五稜郭貨物駅と称して日本貨物鉄道の運営に承継され、2011年3月12日付にて函館貨物駅と改称したのは周知の通りであるが、法規上には現在も北海道旅客鉄道五稜郭停車場の一部であり財産上も同社に帰属する。
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(*5) 1953年のダイヤで青函航路17運航中、函館駅若松桟橋が8運航で180両、有川桟橋が9運航で420両であった。運行数が半々での差は、勿論車載客船/車両渡船(貨物船)の差異による。64年度より津軽丸形の客載車両渡船が就航すると差は縮小した。
(*6) 1968年10月改正ダイヤで急行貨物等5往復の設定が在った。
(*7) 有川3岸は計画時より車両航送設備を持たない機帆船岸壁とされていた。
(*8) 部内では五稜郭本屋駅と区別して(五稜郭)貨物駅ないし有川(貨物)駅と呼ばれた。1980年10月1日には函館構内からコンテナ積卸場も移転した。

夏の始めの朝を函館に回送される単機は、この時間に青函151便の船腹から牽き出されつつある3051列車の牽引機である。通勤時間帯前で国道5号線も閑散とした光景には単機が似つかわしい。
五稜郭は函館地区の北部工業地域に位置して多くの専用線が接続していたけれど、多くは戦中から戦後のことである。戦前からの事例は、北海道瓦斯会社と東京人造肥料会社であり、いずれも1924年9月1日に行われた函館-五稜郭間の線路移設にともない函館から移管されたものであった。
3本の線路の内、真ん中の下り線がその移設線であり、左の上り線は1942年12月27日に使用開始の増設線である。そして右端が三井東圧肥料(旧東京人造肥料)函館工場専用線を分ける貨物側線で、その分岐点も見えている。
この専用線は1907年に設置され、その当時には旧線の亀田構内から途中に北海道瓦斯専用線を分けて延々と本線に併行し、おそらくは左画角外で分岐して画角中央を左右方向に横切っていたものだろうが、勿論痕跡は全く見られない。これを新線分岐に付け替えるに際して、五稜郭方からの分岐としなかったのは鉄道省の五稜郭工場が支障したためだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

五稜郭 (函館本線) 1982

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函館本線の上り列車が桔梗を過ぎてしばらくすると整然と住宅の建ち並ぶ区画が左車窓に続く。かつて、そこには多くの線路が敷かれて上り本線はその東縁を通過していた。通称の五稜郭操車場である。また函館から下り列車に乗れば、五稜郭の構内を出るあたりで江差線の本線の向こうに分岐して往く単線の線路が見える。その先には函館3・4岸(*1)と呼ばれた青函航路貨車航送の有川航送場が存在していた。これら施設は五稜郭停車場の構内拡張とされて、ここは貨物輸送の重要拠点駅だったと知れる。

1925年8月1日を以てとされる青函間貨車航送の開始以来に貨物輸送量は激増を続け、同年度の年間464,632トン(*2)に対して1935年度には957,523トンと倍増、これには船腹の増強や民間機帆船の活用、函館・青森の陸上設備の改良にて対応して来たが、両駅とも能力は限界に達しつつあった。加えて、函館側においては1941年度に戸井線(未成)・福山線(後の松前線)の全通が予定され、北海道庁の第二期拓殖計画に基づく函館港の拡張も1946年の完工を目処に着手されており、貨車操配の増加は目に見えていたのである。これに対して計画立案されたのが、拡張余地のない函館構内に替えて五稜郭-桔梗間への操車場設置および港町地先有川地区海面への航送埠頭の築造であった。その構想自体は貨車航送開始の直後より語られ、1930年代半ばまでには具体化されていたと思われるのだが、実現を急がせたのは1937年に開戦した日中戦争から太平洋戦争の戦時下輸送であった。この「陸運転換」と呼ばれた国策と、両設備の使用開始への経緯については、Websiteの記事「戦時下の陸運転換と函館/室蘭本線の輸送力増強 」に詳述している。

有川航送場へは当然に五稜郭操車場との間にも通路線が設けられた。上下仕訳線の函館方で分岐し、R=240で右に回りながら1/80勾配(12.5‰)の盛土を構築して江差線と予定された函館線の増設線を乗越え、1943年9月に敷設とされる五稜郭から浅野町岸壁までの専用線(*3)に並行して有川に至る2キロ余りである。これには通路線としてばかりでなく、道庁や函館市が計画していた埋立地区への臨港線機能も担うべく航送場手前から南北への分岐線も計画されており、特に南側へは若松埠頭の拡張計画に前記専用線を海岸沿いに延長して、1927年からそこに存在した橋谷株式会社(*4)の倉庫専用線に接続するものであった。浅野町の岸壁へは敗戦間際に半高架式石炭積出桟橋が設けられ機能したとは記録にあるが、万代埠頭をへて若松埠頭(後に中央埠頭)への延長の時期は確認出来なかった。有川分岐の油槽所への専用線も含めて戦後のことであろう。北側への分岐も、これも戦後に貯木施設への専用線に実現した。
(この項続く)
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(*1) 函館構内若松岸壁1・2岸からの通し付番である。稼働当初には有川1・2岸と呼称された。
(*2) 輸送量データの出典は、青函船舶鉄道管理局の「航跡-連絡船70年の歩み」(1977年)による。以下同じ
(*3) 所有者・敷設目的は調べ得なかった。ここの倉庫街に通じたものと推定する。
(*4) 倉庫業者である。現在も同所にて盛業中。

この通路線は勿論、操車場でも有川桟橋でも写真は撮っていないものだから、本屋構内でのカットをご容赦願いたい。
列車は大沼からの通勤通学列車の624D。
ここでの貨物扱いは1980年5月に有川へ移転して、既に積卸線・積卸場ともに撤去されていた。操配線の貨車は三井東圧肥料(旧東京人造肥料)函館工場専用線への配給待ちである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

函館 (函館本線) 1984

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函館駅の水陸連絡施設を含む構内設備は、1925年までの車両航送岸壁の運用開始を受けて、1928年から翌年にかけて行われた駅前若松町所在の鉄道官舎の市中移転、機関庫に客車庫の構内北部への移設を主とした構内拡張工事(第二次構内改良計画と呼ばれた)にて、ほぼその後に繋がる構内の骨格と規模が確定していた。
その後も1935年前後頃より、貨車操配設備の五稜郭-桔梗間に用地を求めての移転と有川地区への航送岸壁の新設(増強)、万代町・海岸町沿岸にバラ積み輸送用の機帆船岸壁の新設などが構想され、前者のアジア太平洋戦争戦時下での実現に先駆けては函館から五稜郭までの複線使用が1942年12月17日より開始されていた。
但し、この際の増設線である上り線は、函館の場内信号機を越えた位置にて既設線の下り線に合流して、乗降場までの約600メートル(運転扱い上は場内信号機からの1100メートル)は単線区間が残された。これは同位置にて航送線に繋がる貨物着発線(当時の副本線1番から3番)が分岐して、乗降場までは旅客列車のみの運転に加えて、限られた用地に貨物関係配線が優先されたためであった。

戦時輸送を経て戦後にもこの設備は維持されたのだが、1960年度に至ると青函航路の年間輸送人員は274万人に達し、それにともなう旅客列車増発にて構内の単線区間が輸送上の隘路と化したのだった。頭端駅の宿命として列車は営業・入換に関わらず必ず折返しを要して、乗降場への編成据付け・引上げが本線運転と競合し、加えて本線横断にて行われる構内東側に所在した貨物積卸線への貨車入換も線路容量の圧迫要因であった。1961年10月改正ダイヤでの函館-五稜郭間列車回数は131回(ダイヤの引かれた臨時列車含む)に達して、計算上の容量である140回に迫っていたのである。なお、この場合の余裕9回は、既にダイヤ混乱時などの運転整理に相当の時間を要することを意味していた。
一方で、この頃には配置も増えていた気動車の検修設備が従来施設に追設だった関係にて、気動車列車の出入区線が客車列車に必須の入換引上線と平面交差して機関車操車と競合が生じていた他、気動車設備自体の拡充も要したのだった。

この事態に対して計画されたのが、「1962年函館地区改良計画」であり、機回線を延伸して引上1番と接続、これを気動車操車線として客車入換と分離して63年1月に運用を開始し、そして上り貨物仕訳作業の一部を五稜郭(操車場)に移して仕訳線を整理し、ここに新たな下り本線640メートルと回転線3線を整備して各旅客着発線と結び1963年10月に使用を開始としたのであった。
気動車施設の拡充には、函館客貨車区の従来からの客車庫線である客留10・11番線が支障するため、これを撤去して既設気動車検修線の8番線隣りに9番線として追設し、新たに引き直した10・11番線と共にこの4線を覆う検修庫を新たに設置した。1964年10月に完成したこれが、現在にも車庫4番から7番線として函館運転所の施設に引き継がれている。

函館駅は、この直後に今度は青函航路への津軽丸形近代化船就航にともなう、旅客桟橋施設とワム換算48両航送に対応する設備改良に追われることになる。これについては項を改めたい。
暮色近い函館駅2番ホームに到着するのは、長万部からの126列車。客車の普通列車は全て砂原線回りだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

島松 (千歳線) 2001

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ホレス=ケプロンやトマス=アンチセルなどの建言に開拓使が現役の屯田兵にそれを禁じたとしても、水田への転用の容易な低地、或は農地化には大規模な排水を要するような低湿地への彼らや民間入植者には稲作だったのである。それは至極自然な選択に思える。
道内での稲作経営は17世紀末に函館(大野)平野での成立が記録されるが、石狩地域においては寒冷な気候、とくに苗の育成時期の低水温から開拓使招聘の農業技術者らは、それを困難としていたのである。
ならばと、天日による水温上昇を狙って水源から水田までに迂回水路の構築や苗代へ風呂焚きした湯の注水を試みたのが、1871年に札幌郡月寒村の島松川の谷、島松沢に入植した中山久蔵であった。発想は明快だけれど、実行には多大の労苦をともなうこの方式にて、彼は1873年には1反(=約10a)の圃場で2石あまり(=350kgほど)の収穫を得たと云う。年間の自家消費の域を出るものでないが、開拓使が札幌に造成した水田での試験栽培の失敗が続く中での実績であり、月寒村から分村した広島村や望月寒村を改めた白石村での稲作の進展に、しいては石狩低地全域への拡大の礎となった。現在に残る、彼が4代目の取扱人を勤めたと云う島松駅逓所建物の傍らに「寒地稲作この地に始まる」との石碑が建てられている。

広島村や島松村の水田開発がどの地点から始まったものかを調べてはいないけれど、おそらくは中山久蔵の圃場のごとくに丘陵に浅い谷を刻んだ水流沿いの低地から、しだいに広大な低湿地であった長沼低地側へと及んだものと思われる。古い地形図を辿ると、緩やかな勾配に蛇行を繰返し乍ら丘陵地を削った谷には低地側から上流に至るまで水田の開かれた様子が伺え、入植農民の稲作への執着が感じられる。
陸上自衛隊の島松演習場の所在する二翁谷に水源を発するルルマップ川も同様で、柏木川との合流地点から周囲の畑作地に対して現在もその氾濫原だけに同島松駐屯地北側付近まで水田が入り込んでいる。

北広島から丘陵部の東縁を直線で南下する千歳線は、長沼低地へと流れ出る河川と交差する度に、その谷へと降りて往き架橋する線形を繰返す。島松の北方でのルルマップ川橋梁の前後にも10パーミルの下り込み勾配が介在した。開けた平野部を直進するばかりで、これと云った撮影位置の無いこの区間では、この鋸歯状の縦断面線形の見通しを写材とすることになる。
南19号線踏切(苗穂起点27K587M)からルルマップ川橋梁方向のこの画角では、南中時刻を過ぎれば東側の樹林帯の影が線路に落ち始める。それを利用するのもひとつの手ではあるが、回避するには14時30分頃に通過の8002列車でも夏至の前後を選ぶ他にない。その時期なら北海道だけの透明な大気感もいっしょに撮れた。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f4 C-PL+SC42 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

小幌 (室蘭本線) 1997

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最初にカメラを買い与えられたのは1963年のことだった。当時に発売されたばかりのRICOH社製ハーフサイズカメラ「オートハーフ」である。線路際に立っていて別段にカメラの欲しかった訳では無い。けれども直にそれは必携品となり、線路端趣味に欠かせぬ道具と化した。戦後に写真を趣味としていた親父の術中に嵌ったと云うことである。
それは35ミリフルサイズ換算でほぼ50mmレンズ相当の画角を持ち、感度を設定して絞りダイヤルをAに合わせさえすれば良い自動露出カメラであり、しかもゼンマイ仕掛けの自動アドヴァンス機構まで搭載していた。押せば写るフルオートカメラは露出のイロハの勉強にはならないが、まずは写真世界に引込もうとの親父の作戦だったのだろう。天秤を使った薬品の調剤に溶解に始まる現像処理の「化学」も、夜間に襖を締切っての暗室代わりの客間での焼付け・現像も面白く、家に在った写真本やらアサヒカメラを隅々まで読み漁ったものだった。
但し、このカメラは鉄道撮影には不向きであった。勿論、自動露出にシャッタ速度が追随する故であり、光量豊富な晴天下はまだしも条件の悪ければ被写体ブレが量産された。基本的に家族写真に山岳風景しか撮らなかった親父には気の回らなかったのだろう。それもあって3年後には Nikonのレンズ資産を親子で共通化するNikomat FTnを宛てがわれ、一眼レフに移行したけれど、このRICOHカメラも随分と後まで併用していた。口径比F2.8の25mmレンズは近距離への固定焦点ながら結構写ったのである。現在の眼で当時のネガを検証してみても、無限遠はさすがに苦しいけれど、接近して撮った停車中の機関車などにはシャープなピントを結んで、立体感もそこそこ在る。もちろん当時の光学技術にハーフサイズを差し引いての話ではあるが。

写真を職とするに至ってしばらくはコンパクトカメラを手にすることは無かったけれど、撮影現場をメモ的に記録する必要の生じて巡り合ったのが、またRICOH社製の「35EFL」と云うカメラだった。決してマニアでは無かったので自分の機材以外には疎く、新宿東口に在った「さくらやカメラ」の店頭で「安くて良く写るカメラ」と条件を告げて店員の持ち出したのがこの機材だったのである。最初のF3HPのボディと同時に購入しているから1981年のことと思う。
シャッタは1/125秒の固定だけれど、広角系の多いコンパクトカメラにあっての40mmレンズは都合も良く、それが口径比F2.8まで開けば文句は無い。焦点調節は目測合わせと云ういい加減さではあったものの、フィルムを通してみれば、このレンズも良く写って驚かされた。絞り込まれたと思われるコマなど、六つ切程度に伸ばす限りには十分に実用レヴェルだった。レンズには COLOR-RIKENONと刻まれ、RICOH社の前身、理研光学以来の光学設計は侮れないとの印象を強くしたのである。仕事での役目が終われば鉄道屋の旅に持ち出し、スナップカメラに使った。
これの後継機種を期待したのだけれど、以来のRICOH社製には見るべきコンパクトカメラの無いままに10余年を経過する(この間中堅職業写真屋の見栄で ContaxTなぞを使っていた → 猿払 (天北線) 1986)。そして、ようやくに現れたのが「R-1」であり、それに新設計の28mm/F2.8のレンズを搭載した「GR-1」であった。

1996年の発売前後には業界でも話題となり、先輩写真家のひとりが盛んに触れ回ったことで広くブームを引き起こしたからご記憶の向きも多かろう。その優れた光学性能には多くが語られているので繰返さない。氏のごとくに仕事カメラを標榜するでは無いけれど、一度楽屋でのモノクローム撮影をこれで済ませてしまったことはある。勿論、鉄道屋の旅にも持ち出して、この頃には旅のスナップまでリヴァーサルフィルムを通していた。
当時の記録からのカットは小幌での491D。乗車列車の到着をスナップしたものである。
一部で秘境駅などとは囁かれていた思うが、集団で押し掛けてのB.B.Qなどには出会わず、この頃にはまだまだ静かな場所ではあった。

銀塩時代の掉尾を飾ったカメラに違いないが、ディジタルの急激な普及を前に、GR-1vまで進化し乍らその在位期間は10年に満たなかった。勿論、後継には光学性能を引き継ぐディジタル機が用意され、迷うこと無く現在にはそのユーザーである。

[Data] GR1 GRLens28mm/F2.8 Aperture-Priority AE(f5.6) Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富浦 (室蘭本線) 1984

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他の調べ物をしていて、室蘭本線の長万部起点92K300Mにも線路班の在ったことを知った。富浦中間線路班である。設置時期など一切は不明ながら1950年代には存在していたらしい。1948年4月や1953年8月に撮影の空中写真を確認するも、その詰所や官舎らしき建物は当時の幌別村(1951年4月1日町政施行)字富浦の集落に紛れてしまい判別は出来なかった。深山や原野に所在する事例の多い中では恵まれた環境での中間線路班だったことになる。
その通例に従えば、簡易な乗降場の設けられて、少なくとも朝夕に特定列車の停車していたと思われるそこが、1953年12月20日と云う早い時期に正規の停車場とされるのも集落からの利用者も多く存在したゆえだろう。2005年に延伸されるまでの短い土盛の乗降場は線路班当時からのものではなかろうか。

古くは蘭法華村である。登別川右岸を海へと落ちて往くポントコ山の緩い南東尾根から続く台地は岬に張出し、その西側斜面が切り立った崖を成して、先住民族はそこに崖を這うような急坂の通路を設け、坂の下を意味する ran-pok-keの名を与えていた。東蝦夷地に進出した和人もホロペツ場所の漁場間の移動にそれを交通路とし幕末時期には難所として知られていたと云う。やがてはそこに定住した和人により蘭法華の字が当てられ、先住民が Ri-hur-kaとしていた岬は蘭法華岬と呼ばれたのである。
標高60メートル余りのその懐は入江となり、小舟の巻揚げに適した砂浜の存在からも登別に自然の潟を開削した掘込み式港湾の整備されるまでは、この地域での良港であり、早くから漁労集落に発展したものと思う。幌別村消防組が1924年に腕用ポンプを配備したとの記録からも、それは伺える。1960年代の車窓にも大きな岬を背景にした浜に多くの漁船がひしめき、漁師小屋の建ち並ぶ様を眺めた覚えがある。
言葉の響きも書き文字も奇麗な地名と思うのだが、当時の幌別村は1929年(1931年との記述もある)に難読を理由にこれを富浦と改めてしまう。岬にその名の残ったのを幸とすべきだろうか。
現在にも登別市の指定する第一種漁港の富浦漁港に違いないものの、戦前に築造されたと思われる防波堤のみの施設は往時と変わらず、船影のない浜には既に利用されていないと見える。上記の登別漁港に近接しており、確かにそこに係船して自動車で通えば事足りる時代ではある。
それでも、旧蘭法華村であり中心市街地の登別市富浦町一丁目には漁協の支所が設けられ水産加工場も数多く所在して、かつての水揚げの中心地を偲ばせる。地方の過疎の時代にも集落規模はさほどに変わらぬように見え、2010年国勢調査では118世帯273人が暮らす。

保線区史がまとめられたとの記憶は無く、線路分区や線路班の設廃など国鉄文書に埋もれて調べようがない。富浦中間線路班もいつまで存続したものか分からないが、おそらくは多くの事例と同様に保線方式の近代化と機械化の進んだ1970年代前半までには廃止されたものと思う。

写真は蘭法華トンネルを抜けた222列車、岩見沢からの室蘭行き。この頃には富浦通過列車も存在し、勿論客車列車は停まらなかった。
富浦漁港に巻き揚げられた船は全て廃船と見て取れ、既に漁港としては機能していなかったと思われる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

新冠 (日高本線) 1969

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1967年、クラスメイトの兄に聴かされた Sam & Dave/Hold On, I’m Comin’ が始まりである。退屈な教科書音楽に白黒テレビの歌番組しか知らぬ耳への衝撃は忘れられず、以来に黒人(系)音楽に魅入られた。趣味分野は鉄道屋だけれど、仕事写真をそのフィールド回りとした切っ掛けでもある。
コレクターとは思っていないが、興味はR&Bを起点に、勿論Rock音楽にBlues・Gospelとディープに広がり三万枚近くのレコード盤を所有するに至っている。かつては、これが引っ越しの悩みの種で、見積もりの業者に唖然とされたこともあれば、(その頃には一万枚程度だったにかかわらず)荷物搬入当日にそれを見た大家からアパート2階への入居を断られもした。
60年末から70年代に国内盤LPの価格は1800円から2400円辺りで推移し、中学生にはなかなかに買えるものではなかったのだが、73年にプレトンウッズ体制が崩壊すると、それも恐ろしく高価だった輸入盤価格が下落して渋谷のヤマハは勿論、上野アメ横の蓄晃堂や開店したばかりの吉祥寺芽瑠璃堂などへ物色に通ったものだった。そこでは再販制度下の国内盤にはあり得ない、カットアウト盤と云う廉価な廃盤商品が流通していて、欲しいアルバムの多くがそれに含まれていたのである。
その内に「Schwann」なる米国の月刊音楽カタログ誌を知り、その広告にラックジョバー(小売店鋪内に売り場を設ける卸問屋)による在庫整理、カットアウト盤の定期的な大量放出を見つけて早速に手紙で問い合わせると取引に応じるとの返信が在り、それから個人輸入による大量購入を始めたのである。当然に船便での輸送ゆえ秋から冬に限ることとし、夏の終わりに発注すれば、すっかりと忘れ去ったクリスマスの頃に横浜税関から引取要請のハガキが届くのだった。在庫リストを送って貰い、一度に400枚から500枚の発注に、運賃に関税を含めても一枚あたり300円から500円は格安に違いなかった。これは、後には為替レートの変動で200円台まで低下した。

こうして集めたレコード盤には、ジャケットを差替えただけの同内容リイシュー盤や既に所有していた楽曲でのコンピレイション盤など(これらは手にしてみないとわからなかった)が含まれ、それらを整理した20年程前に細やか乍ら新冠町に寄贈させていただいた。音楽業界で少なからず世話になっていた先達からの呼びかけに応えてのことで、彼は、竹下内閣当時の通称-ふるさと創生事業による交付金の使途に端を発したと云う、そこでのレコード収集構想に関わっていたのである。この総額25億円を掛けたと云う事業では、保管・展示・活用施設として1997年に「レ・コード館」が建設された。
今のところ国内でほぼ唯一の施設であり、その収蔵数は2012年度末に86万枚余りに達したと聞くが、資料として利用の困難が不満である。著作物であるだけに法律上の規制はやむを得ないとしても、収蔵盤のデータ、即ちタイトルに演奏者など基本情報は勿論のこと発売年、レーベル、収録楽曲の詳細などがジャケットにレーベルの写真と共にWeb上に公開されて然るべきなのに、十数年を経てもなお実現していない。現地に赴いてようやくにリストを閲覧出来るのみである。まして、研究者が学術的体系的に利用しようとしてもサポートは期待出来そうにない。おそらくに、使えそうな学芸員がいないのである。町当局は目先の町起こしとやらにばかりに気をとられ、自分達の興してしまった事業の重大性を理解していないと思われる。本来なら国家事業、国会図書館が手がけても不思議の無いのである。最高学府のアーカイヴ専門課程を経たばかりでなく、少なくともタワーレコードのバイヤー並のマニアックな知識を持った学芸員がジャンル毎に必要なはずなのだが、地方自治体の事業としてはやはり限界なのだろうか。企画展は疎か、そこからは何の発信も無い。Websiteでは「思い出をお預かりします」なぞと宣うが、それとは無関係にレコード盤は民衆文化そのものである。

写真は新冠を出発する6883列車。
この当時、追分機関区静内支区(1969年11月1日の追分機関区苫小牧支区の本区格上げにて苫小牧機関区静内支区となった)には8両ものC11が配置されていたにかかわらず、撮影に行く度に巡り合ったのが210号機だった。73年10月の日高線無煙化に際しては検査切れ機の代替として石巻線に転じ、そこでも再会している。
1974年5月28日付での用途廃止後には、これも当時の自治体に流行した「機関車欲しい」病に従って、縁は在っても縁は無い野辺地町に展示されるも、40年を経て朽ち落ちつつある。ここにもまた文化は果つる。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

札幌 (函館本線) 1999

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貧乏旅行の頃、駅蕎麦は馳走の部類だった。持参の固形燃料で湯を沸かしての即席麺や駅前商店で買い込む菓子パンの毎日に、それは立喰いでも上等だったのである。
何を以て「駅蕎麦屋」と定義するかは意見の割れるところだが、やはり第一義的には「日本国有鉄道旅客構内営業規則」(1949年7月27日公示第75号)の第4条に準拠した[構内旅客営業]の店舗とすべきだろう。同規則の1954年の改正にて追加された[構内公衆営業]に基づくものと相違は、国鉄による監督・指導を常時受けるところにある。これは構内における供食が国鉄の旅客輸送上に不可欠との認識から本来に直営とすべきを事業の専門性に鑑みて部外に依拠したに過ぎず、駅業務と一体と見なされるゆえである。よって本来の駅蕎麦屋は乗降場ないし待合室などに、専有面積の関係から立喰い主とした形態を採った。

この旅客乗降場での営業は、日常に観察可能な東京圏には比較的多くを確認するものの、地方幹線上の各駅では絶滅の一歩手前に在る。マクロには生活感覚の変化や鉄道旅客の減少があり、市中飲食施設の充実もあろうが、そこに着発する列車が指定席主体の特急列車ばかりとなり中近距離区間の頻発運転のそれへの乗車に旅客が乗降場に滞留することの無くなったゆえだろう。
道内においても、1971年度末時点にて24駅を数えたものが現在では函館・札幌・旭川に残るのみである。ただし、最近に函館のそれの営業は実見していない。時間帯のズレているのだろうか。網走も本屋に接した乗降場に所在するが、本屋外のラッチ内設置は待合室の狭隘ゆえにて、実態はラッチ外の遠軽と変わらない。
乗降場営業を廃して待合室へ移転した例を含めて、そこでの営業駅を数えても11駅に過ぎず(数え漏れがあるかも知れない)、相当数が廃業したことになる。倶知安や稚内の例は記憶に新しい。

蕎麦の汁は東京から北へ向かえば次第に色濃くなり、北海道のそれは蕎麦の見えぬ程に黒い。更科・砂場・薮と江戸蕎麦の老舗も食べ歩いて、その鰹出汁は実に美味いのだけれども、やはり北の育ちにはこれだと思ってしまう。夜行で到着した初秋の朝の寒さに思わず搔き込んだ北見駅や、氷点下10度以下だったはずの富良野で湯気が髪の毛や眉に凍り付きながらの味は忘れられないでいる。
日本食堂と札幌立売商会が分担して各乗降場で営業していた札幌でも、夜行乗車前の腹ごしらえに随分と利用させてもらい(主に札沼線用だった第五乗降場での営業には記憶がない)、そこには同じ思いの多くの旅客が集っていたものだった。1988年の高架駅化に際しても第二と第三乗降場にて札幌立売商会が、第一、第四、第五乗降場で日本食堂の後身であるにっしょく北海道が営業、この分担は地平駅でのそれをそのままに引き継いだものだった。
しかしながら、ここに於いてさえも撤退の動きがあり、2007年に北海道フードサービス(旧にっしょく北海道)が駅蕎麦営業から撤退し札幌立売商会に一本化されるも、終着列車の多く出発も小樽方面が大半だった第一乗降場の店舗はこの際に廃止され、2012年には主に札沼線発着にて営業時間も短かった第五乗降場の店舗も姿を消してしまった。

写真は札幌駅 5番線にて発車を待つ6004列車<北斗星4号>。
この第三乗降場を千歳空港連絡快速に譲り、有効長を延伸した第二乗降場着発となった今では失われた光景である。もっとも、例え存続していたとしても入線に人だかりの出来る昨今には撮れたもので無さそうだ。
第三乗降場の駅蕎麦屋は最近には卓に椅子まで用意されて「店舗」然としている。これも失われた風情とでもすべきだろうか。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/30sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

厚岸 (根室本線) 1980

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懇意にしている近所の魚屋に頼んで築地の東京市場から引いてもらっていた厚岸産が、牡蠣とすれば松島湾から三陸沿岸に広島産ばかりだったその店頭にも度々並ぶようになった。取引の横浜市場にもコンスタントに品物の入荷するようになり、得意客の評判も良いと云う。
それは、厚岸町や厚岸漁業協同組合が取り組んで来た厚岸湾産のブランド化の成功を意味し、養殖技術の向上が生産量の増加と安定供給を可能とした結果でもあろう。まずは慶事としたい。

厚岸大橋から湾側を見通せば、水面下に続く牡蠣殻の自然堆積にて形成された多くの浅瀬を湾内に見る。ここは太古より天然牡蠣の繁殖・生息地だったのである。そのひとつに鎮座する牡蠣島弁天神社の創建は定かではないが、存在は1871年の記録に残されていると云うから、それ以前より先住民族は勿論、遥々と和人による牡蠣の採取が行われていたのは間違いない。(余談だが、厚岸が先住民族アイヌ言葉で牡蠣を意味したakkesiに由来するとのバチェラー説は怪しい。at-ke-us-iが正当と思われる)
これが開拓使の支配以降に乾燥牡蠣や缶詰、醤油やオイルなどの加工に用いられ始めるとたちまちに資源は枯渇してしまう。低水温に幼生の定着率の低く、成長も遅いのだから当然ではあったけれど、当時にそれは知られていなかったのである。1910年代に3年間の禁漁措置を取り、その後にも漁期等の採取制限を行ったものの効果無く、松島湾やサロマ湖からの稚貝移植も技術的にことごとく失敗したのだった。
これのようやくに叶うのは1935年のことで、輸送技術も発達して宮城県産稚貝の牡蠣殻の浅瀬への大量散布により資源の復活を見たと云う。これは翌年以降にも継続されて地蒔き式養殖の始まりと云えなくもないが、本格的な養殖事業は遥か後年に1983年の大量へい死を切っ掛けとした垂下方式の導入以降のことであろう。とは云え、稚貝は引続き松島湾を始め三陸地域からのマガキの移入によるもので現在まで生産の主力ではある。

これに対して1999年に「厚岸町カキ種苗センター」を開設して始められたのがエゾガキと呼ばれた天然牡蠣の復活であった。厚岸町の姉妹都市であり日本原産のマガキ養殖産地でもあるオーストラリア・タスマニア州のクラレンス市から技術を移転した「シングルシード方式」による養殖は、2003年秋からの本格出荷に際して「カキえもん」のブランド名が与えられ、グルメブームを背景に極めて少量の生産を逆手に取ったネット上でのプロモウションが功を奏したと云うべきか、産地厚岸の名を知らしめたことにより、地元でマルガキと呼ばれる主力マガキの販路拡大にも寄与して、それの首都圏進出を果たしたのであった。

厚岸市街地の湖岸を走る列車は265D。キハ40が新製配置車だった頃である。
手前は、この当時の新興住宅街。それを見下ろした立ち位置の台地斜面も今ではすっかり市街地化している。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/250sec@f5.6 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

桂川臨時乗降場 (函館本線) 1984

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巡った先々では、そこの住民に随分と世話になりながら写真を撮っていた。見ず知らずの来訪者へのそれには感謝としか云い様が無い。
徒歩行脚の水筒に補給させて貰うのは日常茶飯事だったし、夏場なら庭の井戸や水道で顔を洗い汗を流させてもらいもした。前にも何処かに書いたけれど、自炊道具を装備しての貧乏旅行の当時には、調達に勿論代金を支払うつもりで訪ねた農家でバックパックに入り切れない程の食材を持たされもしたし、時にはそれに菓子やらパンの混じることもあった。鉄道屋はその頃には外部からの訪問者の珍しいような土地にまで出掛けていたからかも知れない。水を貰いに寄っただけにも、食事を振舞われた挙げ句に自家醸造のドブロク(所謂密造酒)まで馳走になり、風呂に寝床まで頂戴した経験もある。
時代は下っても、携帯電話の無い頃ならタクシーを呼ぶにせよ電話を借りるには民家を訪ねる他なく、逆に降雪の無人駅で列車を待てば、駅前住民に時間まで炬燵で暖まれと声の掛けられたのも一度や二度では無い。徒歩に距離のある地点への移動にヒッチハイクすれば、大抵は地元の軽トラが停まり荷台に乗せてくれた。

フィルムのトラブルに目についた民家に駆け込んで暗室代わりの押し入れにまで入れてもらったことは、前に書いたと思う。突然の見ず知らずの訪問者を善くぞ、と思えば本当に言葉も無い。切羽詰まってのことは他にもあって、どうしても入り込めなかった薮の斜面には民家まで戻ってカマを借りたことあれば、積雪が邪魔をした無人駅のホームの除雪にスコップを借出しもした。
どうしても、そこしか考えられない撮影位置には民家の庭先に立ち入らせてもらったし、見通しの良い二階の部屋まで案内されて、その家の婆様と茶呑み話をしながらの撮影さえあった。
俯瞰の高さの足りなくて土建事務所から長尺の脚立を借出した件も、前にここへ書いたと思う。
これらには可能な限り、当日のプリントを添えて礼状を書いたのは云うまでもない。

この桂川トンネル上部へもポータルの横から斜面を這い上がれず、反対側の高さ3メートル程の擁壁を越えるにハシゴを頼みに近くの民家を訪ねている。住民は無愛想な老人だったのだが、裏から勝手に持って往き、終わったら戻しておけと言われ、その大きく頑丈で重たいハシゴをトンネル脇まで運んだものだった。
写真は、それに味を占めての二度目の時で、件の老人の奥さんらしき老婦人が今度は愛想良く返事をくれたのだった。
噴火湾を眺めてトンネルへと走るのは123列車。この荷物車組成の無い長万部行きは、51形客車の函館所投入と同時に置替られた運用であった。

国道5号線の旧道に面した鷲ノ木の潮焼けした集落に、海岸沿いの漁師小屋を画角にする足場は、このトンネル上しか考えられなかったのである。
一時間ばかりを留まりハシゴに向かうと、大きな青大将がそれを伝って這い上がって来るのに出くわした。降りるに降りられず、日陰の低温にスロウモウな動きを見守ったのを思い出す。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1971

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鉄道と云うものは程度の差こそあれ、敷設計画に際しては政治路線である。この釧網本線には斜里(現知床斜里)付近の線形に、それは端的に見て取れる。

この北海道の太平洋岸とオホーツク岸とを短絡する鉄道の建設は、「北海道ニ必要ナル鐵道」を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第二条に規定の旭川-十勝太-厚岸-網走間鉄道を根拠としていた。同法第一条に基づき予定線を調査した「北海道官設鉄道調書」(1896年)によれば、その北見国側の想定経路は標茶から本鉄道に転用予定の釧路鉄道を辿って跡佐登に至り、硫黄山を経て釧路・北見国境を4箇所の隧道と4箇所の橋梁にて越え止別川の流域を下るものとされ、これは現在の国道391号線に近似の経路と推定される。敷設計画が沿線地域への入植の遅れから見送られる中で調査の行われた1910年の「北海道北部線路調査報告概要」では、北見国側での経路がより具体的に示され、それは止別から濤沸湖南岸・藻琴経由とされていた。当時にヤンペツとされた地域は内陸部に至るものと思われ、これは国境から網走への最短経路としたものだろう。
いずれにせよ、当時の斜里村小清水近郊を通過する経路であり、これに対して小清水ではそれを集落に近づけ停車場を設置させる請願が行われた。1917年に制定の『北海道拓殖鉄道建設費利子支出ニ関スル法律』(1917年7月21日法律第10号)を背景に拓殖計画へ網走-斜里間鉄道が追加されると、それを小清水にて分岐の支線とするよう陳情もなされて、鐵道院もこれらには一応の同意を与えたのだった。この時点で鐵道院の計画した経路は小清水村水上付近から小清水集落を経由して古樋でオホーツク岸に達し、北浜、藻琴を経て網走に至るものであったが、小清水より稲富(現網走市稲富)を経て呼人にて網走線に接続する経路も比較線として保持していた。また、水上以南では止別川流域から札鶴川の谷へと遷移する現道道805号線の経路も検討された模様で、この時期までの線路選定作業において、これにより国境越え区間を隧道の1箇所に減じられることの判明していたものと思われる。現行の釧北トンネルである。
この小清水村通過案に対して、1919年に小清水村を分村していた斜里村では製材業者らが中心となって、網走-斜里間鉄道と厚岸-網走間鉄道の一体建設の協力な運動を展開し、同じ斜里郡内とは云え、自治体ばかりでなく地域住民を巻き込んだ激しい誘致競争を繰り広げたのである。その詳細は省くけれど、最終的には斜里に大農場を所有していた三井財閥の政治力により斜里側の請願が通り、釧網本線は斜里付近にて凡そ270度を転回する不自然な線形となったのだった。政治路線の所以である。
もっとも、鐵道院〜鉄道省が大幅な迂回となるこれを容認したのは、上記の釧北トンネル経由線により迂回経路に関わる建設費増加を相殺可能との判断も働いたものと思われる。小清水村には恨みのトンネルだったことになる。

釧網本線には、この他にも標茶までの経路を巡る釧路町と厚岸町(ともに当時)経由の、それぞれの経過地自治体を巻き込んだ争いも存在した。これについては改めて別項を立てたい。

北浜後背の丘陵からオホーツク海を背景に抜くのは好きな画角だった。
鐵道院が稲富経由案も検討していた頃に、藻琴村内での内陸と沿岸での誘致争いはなかったのだろうか。この線路が小清水から稲富を通り呼人に接続していれば実現しなかった景観でもある。
列車は、混合635列車。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1993

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以前にも書いたけれど、北海道における国鉄スキー臨時列車の運転規模は内地に比すれば極めて小さく、それの隆盛を極めるのは、寧ろ北海道旅客鉄道への承継後の1990年代のことであった。その頃に高速道路の開通していなかった石勝線沿線の新興スキー場であったトマムやサホロへ向け始められた、専用編成による航空機との連携輸送は、勢いを駆ってニセコ方面にも及んだ。そして白眉は横浜からトマム・新得へ遥々と運行された特急寝台<北斗星トマムスキー>であろうか。それは国内最長距離運転のスキー臨でもあった。

1988年冬臨にて下りのみに89年1月9日と2月13日の2回が設定の、6003列車を沼ノ端-札幌間を運休して行き先をトマムに変更した試験的な最初の運行については、落部 (函館本線) 1988 に追記しているので繰返さない。
翌1989年冬臨期1〜2月の設定では、6003列車の89年3月11日改正での定期格上げにより、88年夏臨期に<カートレイン>運行に引かれた予定臨9009・9008のダイヤが恵比寿-沼ノ端間で利用され、首都圏側発着が東海道貨物線(品鶴線)経由にて横浜に改めての9010-9009-9011・9012-9008-9007としての運転であった。
尾久区の予備車にて組成の定期<北斗星>と同等設備の11両編成(定期列車に1両の減)一組運用は、下り運転の前日に尾久を出区し上野から東大宮に向かい、折返して山手貨物線を運転して品川運転所に収容、運転当日には品川より一旦恵比寿に送られ、折返して大崎から蛇窪分岐より品鶴線・横須賀線運転線を運転、横浜を通過した保土ヶ谷で折返していた。上り運転後の帰区回送も同経路であるが品川には入区せず、大崎から東大宮に直行した。下り運転の際の一旦の恵比寿回送は、これによる編成方転を回避するためである。
<カートレイン>ダイヤの転用により前年運転同様に東北線-海峡線運転は青森信号場経由であり、トマムから新得までの回送も同じである。よって、函館・室蘭線上では89年3月11日改正にて全て青森経由とされていた定期<北斗星>と方転編成となっていたが、新得と札幌運転所の石勝・千歳線経由の回送により同所入区の編成方向の揃えられる妙味には感嘆したものだった。なお、このシーズンからは続く90年春臨期の3月にも設定がなされ、上下7往復(7回)の運転であった。

そして、90年の冬臨設定から東日本旅客鉃道による次世代寝台客車を銘打った試作車-3両、所謂「夢空間」車が組成されるようになると、上記の運転経路には趣味的に興味深い事象を生じていた。これについては追記へ記したので興味のあればご覧頂きたい。

写真は広内陸橋への築堤を上る9062列車。下り運転後の新得から札幌運転所への回送列車である。
<北斗星>編成の狩勝越えとなれば、是非とも撮りに往きたい列車ではあったのだけれど、89年の2回は勿論のこと、90年の1月から3月の7回、91年以降の8回ないし10回の毎週末運転にも、この頃には本業の撮影がかち合ってしまい、ようやくの対面は93年正月開けのことになる。感材にリヴァーサルフィルムを持込んだ最初と記憶し、F4カメラには Kodachromeを仕込んでいた。
88年冬臨、89年冬臨と重連だった機関車は、90年冬臨期からは<カートレイン>仕業所定の一台運転に変わっていたのは些か物足りないが、回送でも掲出していたトレインマークも無くなったのは、あまり好まぬデザイン故それはそれで好都合だった。
この列車の運転は、追記した回送区間の運航経路ばかりでなく、設定毎に尾久区の需給状況(捻出可能な予備車)に左右された組成形式に本州内の牽引機関車、展望食堂車やラウンジ車の営業なども興味の尽きない。
それらについては、いずれWebsiteへのとりまとめるつもりで居る。

[Data] NikonF4s+AFAiNikkorED180mm/F2.8D 1/125sec.@f4 Fuji SC42 filter PKR Edit by PhotoshopCC on Mac.

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深川 (函館本線) 1973

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深川は深名線や留萠・羽幌方面への乗換駅だったから幾度もホームには立ったものの、集札(改札)をくぐって本屋に出たことは数えるくらいしかない。一度、午前0時過ぎの網走行き急行を待った以外は、全てそこや稚内からの夜行を未明に下車した時ばかりである。それは<利尻>なら午前4時前となり、夜行移動にはなかなか難儀な位置ではあった。

ここの駅本屋は、深川市の引受による利用債にて1959年度に予算化され1960年6月30日に使用を開始した建物で、同年度予算での旭川や倶知安と同様に直線で構成された、いかにも戦後設計の近代的建築に見えた。冬期の暖房も同じくスチーム式が設備され、件のFRP製のベンチを除けば居心地は良さそうだったが、その必要のなかったので駅寝をしたことはない。もっとも、深夜帯に約3時間の着発の空白があったから待合室は閉鎖されていたものと思う。
未明なので駅を踏み出すこともなくて、静まり返った街には印象もほとんど無い。駅前にアーチ型の「歓迎」看板が建てられ、その先の駅前通りは右側だけにアーケードの架けられていたのを不思議に思った覚えが在るだけである。

この留萠線蒸機の末期に留萠へと運転されていた運炭列車は、赤平と芦別発着の1往復ずつが設定されており、積車となる下りは2本とも留萠石炭桟橋での作業に合わせて線内を未明から早朝に通過していた。当然に夏の季節以外の走行撮影は困難で、深川へ未明に下車して、やっとこれを構内照明の下に捉えられた。
そこでの蒸機の出発シーンはドレインの白い蒸気が夜目にも美しく、機会の都度に被写体にしていたものである。天への凄まじい排煙が照明光源を遮ってシルエットと化すのも近代車両には出来ぬ演出である。展示運転に蒸機が復活し夜間の運転の行われることが在っても、肝心の煌煌と灯る構内照明が失われては再現されない光景であろうか。
列車は5781列車。赤平から滝川で継送されたこの列車は、1973年10月改正にて午後の定期列車との差替えにより臨9781列車から格上げされていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8  1/8sec@f4 NONfilter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1986

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鉄道での塩狩越えは然程に大きな峠では無い。その最高所は塩狩より300メートル程起点よりの28K130Mに在って、その施工基面高の260メートル余りは、蘭留との比高で凡そ80メートル、和寒とでも120メートル程度に過ぎない。しかも、この和寒方は起点32K903Mから35K347Mまでの2.5キロの連続を含め20パーミルが断続的に介在するにせよ、ほぼ直線的に上ってしまう。山間らしい区間は蘭留山の裾を巻いて230メートルの等高線に達するあたりから塩狩構内までの2キロ足らずに過ぎないのだけれど、そこは機関車が積雪を踏み締るように上って来る、雰囲気のある峠道であった。針葉樹を屈曲する線路なら、常紋越えも奥白滝からの石北トンネル区間も似たようなものだが、これと云った足場の無いにかかわらず塩狩へは冬場に随分と通った。
積雪期と云うのは、それをかき分けて往けば夏場に到達出来ない位置にも立てたからだが、ここは小さな峠に似合った開放感からか、写り込む背景との距離感が絶妙だったのである。なので線路際の雪山の上からでも楽しめた。加えて、1985年3月改正以降なら客車急行が昼間に通過し、客車の普通列車にコンテナ貨物(夜間・早朝で撮れなかった)、キハ56/27の気動車急行も健在だった。それは、紛れも無く幹線の姿でもあった。

写真は、20パーミルの雪道を確かめながらゆっくりと上って来る321列車。
このカットを見ていて、抜海 (宗谷本線) 1984 への書き漏らしに気がついた。1984年2月改正でマニ50(マニ36)+スユニ50+オハフ51の3両組成に改められた321・324列車は、1985年3月改正にて[北東航6]のマニ50が[旭荷1]のスユニ50に置替られた際に、護送便となった[旭郵1]をこれに統合してスユニ50+オハフ51と云う2両組成になっていたのである。写真でのオハフ51の2両は何らかの都合での増結であろう。気動車化されるひと月程前の撮影である。

最近のことと思うが、塩狩構内近くに「塩狩峠」と表記した標柱が建てられた。地名としての峠名称は古くからの人馬の交通路へ付名が通例であり、鉄道のものでは無い。しかも、記された標高274メートルとは国道40号線での最高地点と思われ、そもそもそこに建てられるべき標柱とは思えない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1993

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東室蘭は、移転による開設当初より旅客・貨物とも終始、室蘭と伊達紋別・苫小牧方面との中継駅として機能して周囲に商業地や飲食街をともなうことがなかった。そのあたりの経緯は 東室蘭 (室蘭本線) 1996 に書いている。
東口と西口に一軒ずつだった食堂は早くに店仕舞してしまうから、ここへの宿泊での遅いチェックインには食事に困り、勢い、西口右手側線路沿いの横道にほんの数軒が軒を並べていた焼き鳥屋に踏み入って知ったのが、所謂「室蘭焼き鳥」だった。

現在のような大衆酒場としての焼き鳥屋の成立は、1923年の関東大震災を切っ掛けとした屋台営業の形態が全国に波及したものと云われている。そこで供されたのも当時には高価だった鶏肉に替えての豚のモツが中心であり、関東地域では「焼とん」と称したのである。にもかかわらずの「焼き鳥」の名乗りは、それ以前からの屋台が鶏のスジ肉やモツの他に雑多な獣肉を扱い乍らの「やきとり」に倣ったものである。1930年代初頭と推定される室蘭への移入も同様の形態であり、1937年に始まる日中戦争戦時下の食料増産に政府が豚の飼育を奨励したことにより、軍需産業となった製鉄所に労働力の動員された室蘭には、周辺農村から多くの豚モツの食材の集められたものと思う。戦後復興期の闇市営業も同じであったろう。
これは、関東をはじめ多くの地域にてブロイラー鶏の普及により鶏肉価格が低下する1960年代以降に、それを使用した正真正銘の「焼き鳥屋」へと転換して往くのだけれど、室蘭では豚の使用が続く。ブロイラー鶏生産の寒冷地への技術移転の遅れ、鶏肉は引き続いて高価だったのだろう。
豚モツとともに串に刺されていた長ネギも、戦後に入手難だったそれに替えて、産地ゆえの安価なタマネギが使われるようになったと云う。確かに、豚にはその方が相性も良さそうに思える。
塩焼きならまだしも、基本的にタレ焼きを「洋カラシ」にて食するのは、これこそが室蘭焼き鳥に独特であるけれど、かつてには全ての店で供されたものではなかったらしい。おでんからの転用説にトンカツからの転用説のあるそれの、いつ頃にどの店で始まったものか定かではないが、来店者からのリクエストで多くの店に広まったとされる。

2013年のデータによれば同市内所在の焼き鳥店は56店、人口1万人あたりの焼き鳥店数の6.1店は、鉄板焼き鳥で高名な愛媛県今治市の3.7軒はもとより久留米市の5.9店を上回って全国一である。56店は焼き鳥店を名乗る店舗数であり、それの品書きに在る居酒屋の類いは含まれていない。消費量データは見つからなかったのだが、おそらくは子供のおやつ代わりを始め家庭にも浸透しているだろうから、市民一人当たりのそれは相当なものだろう。
製鉄所の高炉が全て稼働していた高度成長期には、さらに多くの焼き鳥店が営業していたはずであり、前述の呑み屋街とは呼べない規模の東室蘭駅横道にも、1980年当時でも4軒が並んでいた。

写真は東室蘭に停車する4列車<北斗星4号>。雨の匂いのする9月の夜だった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S Bulb@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

沼ノ端 (千歳線) 2009

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1929年のこと、鉄道省は東京-下関間に運転していた特別急行列車の2往復への列車名付与を企画、一般公募により5583通の応募を得たと云う。同年9月15日のダイヤ改正を以て、この中から得票の最多であった<富士>を1・2等特急の1・2列車に、三番目の<櫻>を3等特急の3・4列車に命名し、国有鉄道に於ける列車愛称の嚆矢となった。
そして同年12月1日より列車名をデザインした表示板を列車の最後部に掲げ、これが所謂トレインマークの始まりとされている。初期は不明ながら1930年代後半の写真には、内部に電球を保持した行灯式に見て取れる。
時期は調べ得ていないが、鉄道掲示例規(1927年4月7日達第296号)にも「列車標(テールマーク)」として追加された。
列車後部への掲出は、1・2列車に連結の展望車デッキ部への装飾を強く意識したものと思われ、不連結の3・4列車も後尾とされた。両列車とも(最後部車の)形式も運用も限られたからほぼ車体の一部の扱いで半固定式だったろう。この戦前期に前頭側、即ち牽引の機関車への掲出はなされなかった。

戦後に特急列車の復活した1949年9月15日改正での<平和>もまた展望車に列車標を装備したのみだったのだが(列車標への表記は<へいわ>)、1950年1月1日にこれを<つばめ>と改称した際に、大阪鉄道管理局が主導して、浜松-大阪間を牽いた宮原機関区のC62(当初はC59)にも掲出されるようになった。列車標の前頭掲出の最初の事例であり、国鉄は1954年12月1日付にて「国有鉄道鉄道掲示規程」「同鉄道掲示基準規定」に指導標として列車標第一種(後尾用)と列車標第二種(前頭用)を明文化したのだった。
この列車標、通称のトレインマークについては、内地版の 大館 (奥羽本線) 1972 にも書いているのでご参照頂ければありがたい。

そこには書き漏らしたのだが、その際に大きさ・形状も第一種が直径80センチ、第二種が66センチの円形と決められた。何れも現物が先行したから、それを追認したものである。大阪局における66センチの経緯は分からないけれど、幹線用大型蒸気機関車に設置した際の納まりから、当時の工作職人の用いた尺貫法での二尺二寸(=約66.66cm)に落ち着いたものと推定している。
それは、機関車用列車標が電車や気動車の車体に埋込まれた電照式愛称表示器とともに「トレインマーク」として一本化された1973年9月29日付の規程改正にて、サイズ・形状規定の撤廃された後にも現在まで標準寸法である。

戦前からの客車特急を始め、当時に国鉄臨時車両設計事務所に勤務した黒岩保美氏による優れた仕事である1960年代の特急寝台列車の機関車用トレインマーク(当時の規定では、列車名標第二種丙号)の意匠は、その列車名称を図案化したものであったが、それから20年余りを隔てた1989年運転開始の<トワイライトエクスブレス>は事情が異なっていた。これの運用車両には前年の<北斗星>と同じく、車体装飾に1800年代後半の欧州における国際寝台車会社の保有車両に範を取ったと思われる紋章(emblem)が取付けられ、トレインマークはその独自にデザインされた紋章と統一した意匠とされたのだった。
ホルンと思しき笛を吹く古代ローマ風衣装をまとった女性のモティーフが黄昏急行とどう関係するものか、不勉強にして謂れを知らぬが、ことトレインマークに限れば愛称名の字体デザイン処理も含めて成功しているとは云い難い。
この列車には、寧ろエンブレムそのものを掲げた方が相応しかったのではなかったろうか。ただ、幸いなことに、青色20号塗色と云う愚行を犯した北海道旅客鉄道の機関車には、それが映えた。

写真は沼ノ端東方での8001列車。
こんな曇天なら尚更に存在感のある、鉄道屋には有り難いトレインマークには違いなかった。
画角の既出はお詫び申し上げる。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4 Fuji SC39filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[番外編13] 糠平 (士幌線) 1983

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士幌線には、1978年末からの末端区間での自動車代行輸送を書いておかねばなるまい。[番外編 11] 糠平 (士幌線) 1980 の補遺でもある。

国鉄が、巨額の赤字の積み上がる糠平-十勝三股間の列車運行を休止しバス代行輸送に踏み切ったのは、それによる影響が当時に想定利用者の三股集落に居住の5戸14人に留まったゆえである。国鉄に前例の無い措置には違いないけれど、それは本社や北海道総局には勿論のこと、所管の釧路鉄道管理局にしても軽微案件であった。鉄道施設の全てが物理的にも法規上にも維持され、輸送実態も搬器を除けば変わることが無い。よって、これは釧路局の局長達および関係部署の通達にて処理され本社の関わることはなかった。事実、そこでの資料や統計には記録されていない。全国版の時刻表に反映されず、当初に道内版にすら記載の無かった所以である。
本来ならば、糠平に達する日常利用者か、たまたまに訪れた旅行客以外は知り得ず、且つ知らずとも良い措置だったのだが、これに興味を抱いた記者による新聞報道にて全国から衆目を集めるところとなったのだった。
なお、その要因となった最盛期に100人を越えていた三股からの人口流失は、輸入材に対抗し得なかった国内林業の衰退ゆえであるが、1974年に国道273号線の三国トンネルが開通し糠平からの砂利道が舗装道路に改修され、残った林業従事者の自動車による通勤が可能となったためでもある。

この区間の搬器が鉄道車両から道路上のバスとされた1978年12月25日を以て、幌加、十勝三股からは要員が引上げられ(幌加への配置は運転要員だけだった)両駅は要員無配置駅となった。路面からも位置的には利用可能ながらの駅舎の放棄は、老朽化していたそれの維持管理を回避したものであろう。乗車券販売はバス代行運行とともに上士幌タクシー有限会社への簡易委託とされ、バス乗務員が販売した。硬券だったそれに対しては、通常のダッチングマシンを運転台に紐で固定して印字していた。
代行化と当時に道路上に置かれたスキー場入口と幌加温泉入口は形態こそバス停留所ではあるが、釧路局の開設した仮乗降場の扱いであった。当然に営業キロ程の設定は無く、乗降に外方駅から(まで)の乗車券を要した。
また、列車を引継いでの新聞輸送を1984年2月改正まで行っていた。

バスには詳しく無いので形式まではご勘弁願うが、代行運行を受託した上士幌タクシーはこれに際して、登録番号89の日野自動車製小型バスと、まもなくに登録番号644のこれも日野製マイクロバスを導入、輸送波動により使い分けていた。事由は不明だが、登録番号89のバスは、この1983年までに登録番号258のやはり日野自動車製小型バスに取替えられ、マイクロバスも1986年には登録番号1110の三菱自動車製に更新された。これら車両はリース会社を通じての中古車の調達だったと思われ、それゆえの車両交替とは推定する。

鉄道代行とは云え乗合自動車を沿道の丘に登り待ち受けるバス趣味は持たないので、駅頭でのスナップをご容赦願いたい。後方の駅名標は代行化に際して、この位置に建植されたものである。
写真のとおりに、ここに運用された自動車の登録番号標は自家用を示す白地、即ち「白バス」であった。これには門外漢にて承知しないのだが、営業車としなかったのは『道路運送法』(1951年6月1日法律第183号)で自家用車による有償運送の禁止を定めた80条(当時)の但書き-公共の福祉を確保するためやむを得ない場合-を適用したものだったのだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S (exposure data is unknown) Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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