"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

白老 (室蘭本線) 1972

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それは白貝(シロガイ)と言って関東地域では良く出回っており、横浜市場で取引している贔屓の魚屋でも見かける。何しろ大きいのに安いので、その昔には酒の肴に重宝し、剥き身を軽く湯に通して冷水で締めて刺身にしていた。要するには青柳(バカガイ)と同じ処方なのだが、それのような独特の旨味は持たず淡白ながらも酸の高めの吟醸酒などにはこれの方が勝るように思えていた。値段はバカガイの半分程である。

数年前の渡道の折り、北海道旅客鉄道が列車内で配布していた広報誌の写真に良く似た貝を見つけ、記事を読めば、その貝は「サラ貝」と呼ばれるらしかった。帰京後に改めて魚介類図鑑を開くと、この白くすべすべした手触りの扁平な二枚貝は、国内に46種の棲息するニッコウガイ科に属する「皿貝(サラガイ)」と記され、俗称に白貝とあった。その漁獲の大半が北海道の太平洋岸とも初めて知り、房総周辺の産とばかり思い込んでいたそれは遥々北の彼方から運ばれていたのである。
ならばと西胆振の地域紙「室蘭民報」のWebsiteで「サラ貝」をキーワードに検索すると続々と記事が見つかり、大半が白老町に関わるものだった。そのデータベイスは1999年7月以降に限られたが、ホッキ貝漁で混獲されるこの貝は、かつてには地元でも白貝と呼ばれての年間100t程の水揚げは地元漁師が食べていたくらいで、そのほとんど全量が首都圏方面向けに出荷されていたことが知れた。道内出荷の無かったのは、ホッキにツブにホタテなど競合する魚介のいくらでも在ったからだろうか。
これを、町起こし事業に「食材王国」を標榜した白老町(食材王国しらおい地産地消推進協議会)が2000年頃から地元や道内での消費を誘導し始め、「サラ貝」の名称でその地元食材に加えると共に、年に数回漁港で開催する朝市に出品する等で順調に消費を伸ばした様子が見て取れる。
2008年4月15日の朝刊には、《白老「サラ貝カレー」の研究会設立、商品化目指す》との記事があり、流行りのご当地カレーの食材に抜擢もされている。以前から漁師達の家庭ではカレーの具にしていたのをヒントに基本レシピを制定し、町内の幾つかの飲食店で「しらおいシーフードカレー」の名で提供を開始したもので、所謂B級グルメのフィールドにも名乗りを上げた、と云うことであろう。ただ、検索の限りではそのレトルトパックの販売は確認出来なかった。
カレーも美味そうではあるけれど、酒呑みとすれば、やはり湯通しの刺身にしたいところではある。

放牧の競走馬の背景を往く室蘭本線。列車は2286列車、旭川からの五稜郭行きである。
この馬産牧場は、この当時に「社台ファーム」と呼ばれていたけれど、それが地名では無く既に企業名だったとは随分後になって知った。競走馬の生産集団である社台グループの始まりの牧場は、この時期に「社台ファーム白老」だった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

遠軽 (石北本線) 1979

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遠軽の駅前通りは1970年代の初めまで、正面の駅舎に向けてその末端が急傾斜していた。しかも、それは土道だったと記憶する。これを掘り下げて平坦化し、駅へ階段で達するように改められたのは1973年か74年のことと思う。70年頃から進められた市街地幹線道路の舗装工事に追随して、国鉄が駐車スペースの取れる駅前広場の整備に動いたものだろう。この際、その一角に貨物積卸場の奥側に在った国鉄の物資部が店舗を新築、移転していた。駅前広場に店舗を構える物資部など全国的に希有な事例なので良く覚えている。

第一次世界大戦当時の1918年、その影響による米価高騰を端に全国で頻発した「米騒動」と呼ばれた市民争議を切っ掛けに、鉄道省は国有鉄道職員家族の生活不安払拭を目的に「国有鉄道共済組合購買部規程」(1918年8月達1043号)を整備した。共済組合資金の運用により、高騰する生活物資を安価に提供する事業であり、その組織末端の配給拠点として全国に設けられたのが配給所であった。販売所としなかったのは購買代金は全て給与からの天引きにより、そこで現金の支払いのなかったためであろうか。当初には個所数も少なく、そこから列車にて正に配給された様子であるが、次第に数を増やし遠軽への開設は1936年11月と記録される。1932年に石北線が全通し、遠軽機関庫が本庫へと昇格して、ここに暮らす職員と家族の増加に対応したものだろう。正式には共済組合購買部札幌地方部野付牛支部遠軽配給所であった。支部は鉄道の外部組織とされたから配給所は現業機関の遊休施設等が利用されるのが通例で、ここでは貨物扱い用地の奥まった一角の建物が転用された。

アジア太平洋戦争の戦時下においては肝心の物資の不足する中、職場での勤務用物資の需給と職員への糧末供給が主要業務と変質せざるを得ず、従来規定を廃して「国有鉄道共済組合物資部規程」(1944年4月達253号)を制定、全国一体の組織から鉄道局や管理部門毎の運営・管理とされた。
戦後に公共企業体日本国有鉄道が発足し、1948年に全ての国家公務員の福利厚生に関わる『国家公務員共済組合法』(1948年6月30日法律第69号)が施行されると、国有鉄道の共済組合もそれへの準拠を明文化する必要の生じて、新たに「国鉄共済組合物資部規程」(1950年8月総裁達422号)が制定された。これは、鉄道管理局や管理部門毎の運営を継承し乍らも、職員福利厚生の共済組合運営に回帰し深度化させるものであった。これにて、遠軽の配給所は旭川鉄道管理局長に所管される国鉄共済組合物資部旭川支部に属した。
この改正での配給所に関わる変化は、戦時下にやむなく黙認していた現金取引を正規に認めたことであった。これは配給所が次第に商品を並べた店舗化する布石となったのだった。

遠軽配給所の「国鉄ストア」と称しての駅前広場移転は1974年1月である。60年代の日本経済における高度成長は、職員家族にも生活様式や消費行動の変化をもたらし、スーパーマーケットの進出や大手流通資本による全国展開などにより物資部の利用率は年々に低下しつつあり、共済組合も利用回復とそれらに対抗し得る経営の近代化が課題となっていたのである。旧店舗でも受け入れていた一般からの利用を全面的に認めての駅前店舗進出は、それの一環であった。

冬の澄んだ西日の差し込む遠軽構内。冬至から間もないこの時期、それは願望岩の向こうに没する。暖冬で、まるで融雪期のような様相を見せていた。
駅前で営業していた国鉄ストアは、旅行者には無縁で興味本位に冷やかしただけと覚えている。
1987年の北海道旅客鉄道の発足に際しては、旧旭川鉄道管理局管内の共済組合事業を承継する「きょくてつ産業」が設立され、きょくてつストア遠軽店として営業を継続したが、売上の不振から1996年10月20日を以て廃業した。赤い屋根の建物も撤去され、跡地は駐車場となっている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/125sec@f11 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 2006

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城岱牧場は大野平野を見下ろす七飯岳西側の緩斜面に広がる七飯町営の共同牧場である。その沿革は古く、1920年に当時に成立して間もない七飯村が村内の畜産業の育成と振興に牧野と放牧地を開いたことに始まる。当時にも平野からその緩やかな斜面が仰ぎ見られ、おそらくは原生林ではなく灌木と熊笹の原が続いていたと思われ、それの転用、利用を図ったものだろう。
これにより牧畜・酪農農家は箇々に広大な牧野を所有すること無く、牧舎と付帯施設のみでの営農が可能となったのだった。
現在では、七飯岳頂上直下からの斜面の凡そ160haに排水路を設備するなどして牧草地の造営が行われている。

1970年代の後半に七飯高架橋の俯瞰を目論んで、その位置を物色していた頃、当然にここを候補には挙げていた。けれど、五万分の一地形図を前に机上で調べてみれば、高度差の500メートル、俯角で4キロ余りの見通し距離は超望遠の領域であった。七飯側から牧場へ通じていた唯一の登山路(現在の町道桜町8号線)の途上からでもと急坂を上ってみても、樹木に遮られて眺望は望めなかったのである。
ここでの高度の在る俯瞰の実現したのは1999年4月のことであった。牧場への新道としての町道上藤城8号線、通称の城岱スカイラインの開通である。城岱牧場を経由して上軍川に通じ道々43号線や同238号線に接続するこの道路は、函館の夜景を北側から遠望して、七飯町は新たな観光資源として活用もするが、本来には気象庁が札幌管区気象台に置かれた火山監視・情報センターを通じて24時間体制の常時観測・監視を行っている北海道駒ケ岳の噴火災害時に大沼地区や鹿部町域からの緊急避難路の二重化を意図しての建設である。
それの七飯本町の道々264号線の延長から山腹を北方向へつづら折りに登坂する経路からは、標高280メートル付近より眼下に高架橋を望めた。俯角距離の2.5キロ程度なら常用のレンズ群で十分に画角が切れたのである。

とは云え、結局のところここには二度しか立っていない。赴けば、それは区画整理のされた圃場の平野を見下ろすだけの凡庸な景観なのである。しかも近年には高架橋周辺に住宅の建て込んでしまっている。
せめての工夫は早朝の低い斜光を活かす程度であり、夜の明けぬうちから登坂することになる。ここで白眉の下り特急寝台列車もその時間にやって来るけれど、機関車を含めての14両組成も延長913メートルの高架橋全景には存在感が無い。それはやはり列車長で400メートル余りの高速貨物となろうか。
列車は3061列車。
出来るなら、農地の中に高架橋の伸びるばかりの頃に撮りたかった鉄道景観ではある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

門静 (根室本線) 1984

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2001年までなら通産省工業技術院に所管の地質調査所は、月刊にて発行していた一般向け地質情報誌「地質ニュース」の1971年7月号所載の記事にて、門静停車場北方の厚岸町太田宏場地区で採取の行われる砕石を「門静石」と書いていた。同記事には、それは中生代後期白亜紀のヘトナイ世での生成を示す二枚貝化石を産出する「門静層」から採取され、「堅硬な凝灰質粗粒砂岩で、白班を点在させる特徴を有する」とある。地質年代の区分によれば、ヘトナイ世とは6500万年から8300万年前を指し、この時代の火山活動による降灰にて形成された地層である。

その、そう云われても全くに合点しない程の古からの門静石が、現在にまで道東地域鉄道線路の道床材に使われている。軌きょうからの列車荷重を均等に路盤に伝え、走行毎に破壊の進む道床の構造材には堅硬な岩石を適度な大きさに破砕した砕石が、その稜角形状による「締まり」からも最適とされ、帝国鐵道庁は早くも1907年12月に硬質の砕石を精選品と定めて、既成線の砂利を順次これに入替えるとし、鐵道院により1912年1月に制定の最初の軌道構造に関する規定である「軌道整備規程」にも精選バラストとして標準化していた。
これには、当時に建設線の多くに地方開発線が予定されたことを背景に、既設幹線に精選バラストを、新設線と列車運転に常用しない側線に並バラストを標準とするよう定められていたのだが、この1917年12月1日に釧路の移転を伴って厚岸との間に開通した根室線には砕石バラストが用いられ、北海道建設事務所による1921年の「根室線建設概要」に明確な記載は無いものの、それは門静石であったろう。門静構内から分岐して採石場に達していた線路もこの際の敷設と推定される。

当初に北海道建設事務所による直営と思われる砕石事業は札幌鉄道局に引き継がれ、戦前の変遷は不明ながら戦後には民間により行われていた。国鉄の需要に対応しての採取には専用線も維持されて、1971年10月2日付の門静の貨物扱い廃止以降も積出列車の運転されたが、運行は必要の都度設定の臨時列車であり、その牽引機関車が専用線内も入換運転にて入線していた。
北側に分岐した専用線に繋がる側線が本屋と本線間に入り込む配線の駅構内は、乗降場が本屋から遠かったのを思い出す。
1982年までの稼働を実見していた専用線の廃止時期は明らかに出来なかった。1986年11月改正での釧路-根室間への電子閉塞導入に際しての棒線化までの間には違いない。けれど、現在にも重要な道床用砕石の供給元であり、採石場での事業は同所に事業所を持ち厚岸地区砕石事業共同組合を構成する5社にて継続され、北海道旅客鉃道は貨物側線の整理された厚岸構内に積込場を設けて対応している。

写真は門静から左転して湾岸に達した213D<ノサップ3号>。北緯43度の光線は、まだ14時を過ぎたばかりと云うのに陰影を引込む。舞い落ちる雪片も逆光に写り込んでいる。
画角の区間は、後年に押し寄せる波浪に路盤を流失して、現在では山側への移設線を通過する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

五稜郭 (函館本線) 1977

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現在に北海道旅客鉄道そして日本貨物鉄道の輸送遂行に重要な地位にある五稜郭停車場の開設に至る経緯詳細を記した史料の類いには出会っていない。1908年3月(*1)の機関車からの散火による機関庫出火に類焼し営業休止中(*2)の亀田を復旧すること無く、それを1911年8月29日付で廃止告示した上での1911年9月1日の開業は、その代替であろうとは容易に推定される。亀田の焼失を機会とした放棄は、それの沿革からも理解されるところだが、函館から2哩1分(約3.37キロ)の位置に新たな停車場を要した事由や、その位置選定の経緯は分からない。
亀田からは2キロ程を隔てた当時に函館区市街地郊外の集落(函館区大字亀田村村内地区)のさらに外側にあたる亀田郡亀田村の低湿地は、用地確保上から選ばれたものだろうか。列車回数の増加に対して函館-桔梗間の8キロ余りに行違い設備を要したとも考えられるが、建設を予定した上磯軽便線(*3)の接続点としての選定が正解であろうか。とすれば、構想は亀田の焼失にかかわらず持たれていたとも思える。
函館区市街地外れに位置しながらの駅名の亀田(*4)に対して、本来の亀田村地域にもかかわらず新駅が五稜郭を名乗った経緯も不明である。城郭の五稜郭は東へ2キロは離れ、それを由来とする地名も存在しなかった。亀田の名を引き継がなかったのは、それの機能を代替するものでは無かったゆえか。開業の告示に旅客と荷物とされていた扱いは、翌年までに貨物が加えられる。

屠殺場や火葬場の所在するのみだった周辺地域には、1912年の北海道瓦斯工場を始めとして1910年代から20年代にかけ、肥料やゴムの化学工場に製鋼所、製綿や縫製の衣料関係、製菓に牛乳の食品関係など各種の工場が立地して、後の函館における工業地帯の基礎が形成されて往けば、五稜郭は原料や製品集散の拠点駅となった。但し、この時期までは幾つかの工場に設備の専用線は下り方に分岐して函館の管轄であったようだ。
1922年6月15日付では停車場に隣接して函館構内から鉄道工場が移転し五稜郭工場とされた。これは函館における車両を直接航送とする岸壁構築を主眼とした構内改良に関連した措置であり、それの竣工を前にした1924年9月1日には函館-五稜郭間の線路が現行経路である海岸寄りの新線に切替えられた。
北海道鉄道による建設は、後の亀田である(初代)函館を海岸町に設けざるを得なくなった時点にて、そこから桔梗に向けて直線の経路が選ばれていたから、五稜郭函館方のR=400の曲線は、これにて生じたものである。函館が開通時より計画の若松町に設置されていれば、五稜郭の位置は海岸寄りであったとも推定され、この線路移設は本来計画の20年余りを遅れての実現とも云えて興味深い。

これにて廃止された旧線に言及すれば、かつての亀田構内からは1915年11月7日に亀田機関庫が函館構内に函館機関庫として移転していたものの、旧函館修繕場が引続き函館工場の修繕職場として稼働しており、旧亀田構内までは出入場線に使われ、また以北の五稜郭までの区間も北海道瓦斯の専用線を函館接続から五稜郭に変更した関係から、分断されながらもほぼ全区間が当面に存続したのだった。

五稜郭の現在に繋がる姿への転機は1937年からのアジア太平洋戦争にてもたらされた。これには別項を立てたいと思う。
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(*1) 4月12日とする資料もある。
(*2) 1908年5月1日付にて旅客・貨物取扱廃止、1909年9月26日付では当面閉鎖の措置が取られていた。
(*3) 1912年10月起工/1913年9月15日に開通し、五稜郭は分岐駅となった。
(*4) 1899年に函館区に編入の亀田村区域ではなく、当初からの函館区内に位置した。

五稜郭機関区から函館に単機回送されるDD51。当時のダイヤは手元に在るのだが、印刷が潰れていて列番が読めない。
画角右の側線群は、ここでの貨車操配の無くなって遊休化していたが、海峡線の稼働する現在には本州方面貨物輸送に欠かせぬ設備となっている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊富 (宗谷本線) 1971

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1973年の冬と記憶するが、羽幌線北部のロケハンからの帰路、幌延から乗った321列車のスハ32は白熱灯の残った車両だった。この日は午後から風雪が強まり、羽幌からの823Dの車窓はそれの吹き付けるばかりでロケハンの用を為さず、やがての暮色には遅延にも気を揉んだけれど、接続の321もまた40分近い遅れで到着したのだった。
C57に牽かれた列車は、吹き溜まりを警戒したものだろうか速度を抑えて走り、幌延で乗り込んだ決して多くはない乗客も豊富で皆降りてしまい、取り残されたのは自分ひとりだけになっていた。降雪は収まったようだけれど、強風に吹き上げられた雪が車窓を遮蔽するように灯りに浮かんでは流れ去り、そればかりか、風は地鳴りの響きを伴いながらやって来て、機器の少ない客車の床下を風音を残して通り抜けて往った。駅に停まれば静まり返る客車のこと、乗降場の側壁に阻まれた風が車体を軋ませ、閉めてあるはずのベンチレータから粉雪が舞えば、決して明るくは無い車内灯に心細さも感じたものだった。前方からは、機関車のコンプレッサ作動音と駅側との前途の確認だろうか、強風に怒鳴り合うような声が途切れ途切れに聞こえていた。
遅延はさらに増して、稚内での上り<利尻>への接続に不安も感じた頃、列車は100分余りの遅れで南稚内へ到着し、そこで前途打切りとなった。稚内ホームには既に<利尻>編成が据付けられていて、機回線の取り払われていた1番線に機関車列車は入線出来ないからだ。
無事に乗換えられた<利尻>のスハ45のまばゆいばかりの蛍光灯には何処か安堵感を覚えたものだった。

客車の客室照明への蛍光灯導入は、1955・56年度に為された戦前製の2等車(当時)オロ35に対する更新修繕での換装を嚆矢としている。1962年まで続いたこの更新修繕工事ではスロ51やスロ54、スロ60に加えスハ44/スハフ43の一部やスハ42(更新工事によりオハ36と称号変更)も試験的に対象とされ、1957年には新製時より蛍光灯を装備したナハ11/ナハフ11も製造されている。
この更新修繕での換装は、客車の電燈電圧である直流24Vを交流100Vへ変換するロータリインバータの追設や、当時の直管蛍光灯には従来の器具台座を撤去して配線も引き直すなどの工程を要したのだが、1960年代初頭までには東芝が1953年から製造していた環状管型蛍光灯が商品として一般化して、1962年度からの更新修繕工事を改めた近代化改造工事では従来の台座の転用が可能となり大幅に工程の簡略化されることとなった。これには道内の急行用スハ45/スハフ44も工事対象となり、1966年度までにその蛍光灯照明が実現していたのである。天井に二列の丸形の台座にサークル形状の蛍光灯の配列仕様を御記憶の向きは多かろう。
ところがである。せめての客室照度向上に白熱灯を二列配置としていた、これら戦後設計車は良いとしても、それの天井中央に一列であったオハ35などの戦前製車両への適用は、当時の30W型蛍光灯では白熱灯に比してかなり改善されるとは云え、換装効果の十分でなかったのである。これに対しては同時期に短尺の直管蛍光灯2本を一組とし、個別にトランジスタインバータを備えた台座取付け型の専用灯具が開発されたのだけれど、高価なことも在り、台座の一列配置車への本格的な蛍光灯普及は、高効率の大型環状蛍光管の開発を待たねばならなかった。これが、1970年代前半までスハ32やオハ62に白熱灯車の多く残存した事由である。もっとも、用途廃止も間近いこれらに投資する動機もなかったのが正解かも知れぬ。

これは真夏の遅い日没に、斜光を受けて豊富を発車して往く321列車。
旅客車は2両ともスハ32にスハフ32で揃えられている。運用区所の旭川客貨車区のこれらに蛍光灯装備車は無かった。引上げ線に置かれた石炭車が日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道の健在を示す。

[Data] NikonFphotomicFTn+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 O56filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 2000

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世の中がオウム真理教なるカルト教団の引き起こした一連の事件で騒然とし、その余韻の覚めやらぬ頃である。礼文駅前の豊年旅館の女将に予約電話を入れて断られたことがある。警視庁より指名手配された一部信徒の逃亡が報道されており、女将曰く「怖くて客などとれない」と云うのだった。鈴木旅館が廃業し、民宿礼ぶんげは未開業の頃だったから、これには困ってしまい、一見ではないことを伝え、もし当日に訪れて怪しいと感ずれば駐在に電話してくれて良いとまで述べて説得した覚えが在る。もっともこちらの風体も、長髪に髭面と十分に怪しかったのではあるが。

この頃に豊年旅館は、既に旅館とは名ばかりで年季の入った女将がひとりで留守居しているような営業だったのである。八室とされていた客室も二階は使われておらず、いつも同じ部屋に通されたから一階もそこしか稼働していなかったように思う。女将の歳のせいか掃除も行き届かないのだが、撮影の現地での一泊には十分な宿だった。未明に起き出せば、朝食がわりの握り飯を持たせて、見送ってくれたものだった。
あまり詳しくは聞けなかったのだが、戦後から1970年頃までは、駅前の商人宿と機能する傍ら海水浴シーズンには休憩にも混雑して「目の回る忙しさ」であり、集落の人口も多く食料品に雑貨の豊年商店に、豊年食堂も営業していたと云う。確かに、蒸機撮影で68年の夏にここを訪れた先達の「夏季は海水浴客ばかりで満員」との報告を何処かで読んだ覚えがある。
そのように蒸機の時代には写真の鉄道屋に高名な宿だったはずなのだが、女将にすればあまり印象の無いらしい。「写真の人も泊まってったね」程度である。この長万部-東室蘭間は道内では狩勝峠区間に次いで無煙化の先行した区間ゆえ、小沢駅前の武田旅館のごとくに蒸機ブーム末期に向けて撮影者の押し寄せたではないからだろうか。

礼文華山トンネルへの築堤された区間を目当てに通った礼文ではあったけれど、肝心のそこが樹林に覆われて見通しの利かなくなれば足も遠のく。その間に廃業してしまったと聞く豊年旅館は、建物だけはそこに残り、特急で通過する度に眺めては思い出している。女将は存命なのだろうか。

写真は、その大築堤を下る3列車<北斗星3号>。2往復化されてまもない頃である。この後数年で、編成を隠す程に築堤の樹木が成長してしまう。
10月下旬のこの日、直後に天候は急変して降雪となり数センチの積雪を見た。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F2.8S 1/250sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1965

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わざわざ記述する程でもなさそうにも思え、今更には何の役にも立たぬであろうし誰も有り難がることもなかろうが、経年でようやくに証明されたことだから、やはり書いておくべきか。
現像済みフィルム=ネガの長期保存の方法についてである。それは密閉の冷蔵に限ると。

写真と云うものを撮り始めて、ネガフィルムの手元に貯まり始めた五十年近くも前、ものの本には「風通しの良い乾燥した暗所」に保存せよと書かれていた。少し考えても日本家屋にそのような都合の良いスペースの手近に在ろうはずもない。結局は親父がそうしていたように、6コマずつにカット(*1)してロール毎にハトロン紙製のケースに収めたネガは、近所の菓子屋から貰った煎餅缶にシリカゲルと共に入れ、部屋の書架やら机上に置いていた。即ちは室温への放置である。
札幌の在住当時はそれで何の問題も起きなかったのだが、1971年に都内に転居すれば、そこには梅雨があり夏の高温にも些か不安を覚えたものの、当時にコンシューマー向け防湿庫は存在せず(在ったとしても高価で学生には手の出せるものではなかったろう)、単純に冷蔵庫での冷却をしようにも庫内スペースから母親に断られるのは眼に見えており、引続き乾燥剤に頼って部屋の隅に積み上げるしかなかった。但し、煎餅缶に替えては当時に出回りつつあった米国タッパウェア社のプラ製密閉容器を見つけていた。後に調べてみれば「海苔」の収納用に日本向けに開発されたクィーンデコレイターなる製品だったらしく、その平たい角形形状はネガケースがきれいに収まったのである。但し、大量に購入するには値段は結構なものだった。
湿度にはそれで良いとしても温度対策には冷蔵庫の活用しか無く、それを真剣に考え始めたのは家族が再び転居し写真学校に通い出した頃だった。未使用や未現像フィルムの保管にそれの利用が常識と知ったし、一人暮らしのアパートの部屋には専用の冷蔵庫が買い与えられていたからである。けれど、その庫内にも生育する種類のカビの存在にはしばし躊躇したのだった。常識的には乾燥する庫内なのだけれど、扉の開閉の度に内外温度差による結露の生じることも不安材料のひとつでもあった。
それでも、増え続けるネガの置場に困って結局のところタッパウェアを全て冷蔵庫に押し込み、以来自宅に仕事場に専用とした冷蔵庫を並べて現在に至るまで保管を続けた。

結果証明されたのは、ここでご覧頂いているとおりに、その70年代以降の撮影ネガは勿論、室温に10年程放置してから冷蔵とした60年代のネガもカビ発生やベースの経年劣化に画像劣化も無く現在にも現像当時の状態を保ったことである。
紙製のネガケースの経年変化も見られず、自家現像にてハイポの水洗を完全に実行したことで変色も無い、まったくの健全なネガである。
さらには、少数だが使っていたカラーネガについて申せば、色素の劣化も認められなかった。よってカラーバランスの崩れも無い。当時のそれからのプリントはとっくに色褪せてしまっているが、スキャニングしたデータも、試しに発注してみたプリントでも鮮明な画像が再現されていた。これは思わぬオマケと思っている。
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(*1) 蛇足だけれど、ネガのカットは当初には4コマにしていた。1950年代にはそれが一般的だったと聞く。

写真は1965年の夏、夕刻の倶知安で給水する17列車<まりも>。2台の蒸機の切るブロアであたり一面に排煙が充満する。
それに乗車の折り、1両目のデッキにて待ち構え停車と同時に飛び出しての早撮りである。カメラは同乗していた親父の一眼レフ(NikonF)を借出した。50年近くを経たネガもご覧の通り健全にスキャニングされる。
手持ちの低速シャッタは、拙い技術に微細なブレを生じてしまっている。低い鮮鋭度と軟調な現像はご容赦願いたい。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  (Data unknown)  KonipanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

大岸 (室蘭本線) 1991

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未成に終わったものを含め北海道の鉄道の計画や建設にかかわる資料を読むと、その大半の敷設目的に、地方開発、林産資源開発と並んで地下資源開発と記されるのを多々眼にする。鉱石移出の輸送手段として鉄道は資源開発に不可欠であり、採掘の採算性、強いては鉱山の規模をも左右する要件だったのである。

北海道に於ける鉱山開発は徳川幕藩体制末期に事例の見られ、幕府は1861年に米国より鉱山技師を招聘し渡島・後志地域の鉱床調査に当たらせている。政権を引き継いだ明治政府も1869年に開拓使を設置すると、雇い外国人の地質学者ベンジャミン=ライマンに全道の地質調査を命じ、これは1876年に日本最初の広域地質図である「日本蝦夷地質要略之図」として報告された。1886年に置かれた北海道庁も地質調査所(1882年に創立)のライマンの指導を受けた技師らを動員して数次に渡る調査を継続し、道内の地下に眠る鉱物資源の全体像が次第に明らかとされるとともに、これらに基づく試掘の行われ、道内には多くの金属・非金属の鉱山が開かれた。欧米や大陸の列強に対して富国強兵を国策とせざるを得なかった明治政府に、国内での資源確保は喫緊の課題だったのである。
採掘にはコストに見合う規模を要して、大規模化は移出手段の鉄道と不可分に在った。その延伸とともに沿線地域に鉱山の開かれて往ったとして良い。

1928年9月10日に長輪線として長万部-東輪西(現東室蘭)間の全通した室蘭本線の沿線にも、金・銀・銅を含む黒鉱などの熱水性鉱脈鉱床に倶知安周辺まで続く褐鉄鉱の鉱床が確認されており、鴻之舞での金産出に湧いた1910年代の北海道は全国から鉱山師(やまし)を集め、この長万部から虻田に至る一帯にも金鉱脈の試掘権申請が輻輳したと云う。ここでは、鉄道開通以前からの静狩に加えて、後に礼文、小鉾岸(大岸)、来馬、豊浦、虻田、伊達、仲洞爺、白竜などの鉱山が稼働した。
小鉾岸の鉱区では1921年の試掘にて鉱脈が確認され、これの鉱業権を隣接の来馬鉱山ともども買収した住友合資会社と川崎造船傘下の静狩鉱山との合併にて設立の静狩金山株式会社による1933年からの本格操業には、ペタヌ川の谷から馬車で運び出された鉱石は、小鉾岸(現大岸)から製錬所を持つ小坂鉱山、日立鉱山の遥か内地まで積み出された。出鉱の良質であったため大手鉱山への売鉱にて十分に利益の確保されたものだが、その長距離輸送をともなう取引も鉄道の存在があればこその採算と云えよう。
豊浦鉱区を加えての小鉾岸鉱山株式会社発足後の1941年に豊浦青化製錬所を建設・稼働したのは、折からの戦時下における金増産の国策により、良質鉱とともに大量に産出する低品位鉱の自家処理を要したためであった。
採算を度外視した低品位鉱の精錬は私企業としての体力を奪い、徴用による熟練労働力の不足からも1943年には閉山に追い込まれ、大岸の駅の賑わいも過去のものとなった。

道内の地質調査、鉱床探査は、戦前・戦後を通じて連綿と継続され、1958年10月の地質調査所北海道支所の報告には実に多くの鉱山・鉱床位置が記載されている。鉱山として採掘中のものが多いが、未調査鉱山に分類しての記載もかなり含まれる。鉄道がまだ輸送の主役に在ったこの時代までは、鉱床の確認されても鉱石の搬出や製品の移出手段の無ければ、余程の大露頭でも無い限り放置され続けていたのである。

写真は、大岸第一キャンプ場を駆け抜けて往く3059列車。それを小さな岩山から見下ろすのは好きな景観で、幾度かそこに立っていた。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

生田原 (石北本線) 1972

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生田原町(当時)は1993年に、この地域に関連した文学作品に関わる資料を展示する「オホーツク文学館」の町立図書館をそれに併設させての開設に際して、建設地を鉄道用地に求め、これを生田原駅舎との合築としたのだった。

この国鉄なり旅客鉄道会社が、地方公共団体や公的企業体に鉄道用地を提供しての駅本屋と公共施設との合築は1980年代に始まっている。財政の悪化していた当時に老朽化した駅施設の改築を迫られた国鉄と、その立地自治体との思惑が一致した結果であり、国鉄には輸送の縮小で遊休化していた資産の充当が可能となり、コンコースや待合室の共用により施設の簡素化の図れるメリットが在った。自治体や公益企業も施設を大抵は市街地の中心に位置した鉄道駅に併設出来れば、公共施設としての有利な立地条件が得られたのである。
1983年5月の陸羽東線羽前向町(現最上)の公民館との合築を最初の事例として、84年3月に磐越西線徳沢での簡易郵便局との例が続いて以降に全国的に波及した。この当時、羽前向町は要員配置駅であり、駅本屋部分も出札窓口を持つ駅務室に手・小荷物受付や休憩室に便所、浴室までも備えて、従来駅舎から待合室に旅客便所を分離したような規模であり、内部の区画も外観からも駅舎部分を明確に区別出来ていた。簡易委託の施行駅で規模のずっと小さい徳沢の例も然りであった。
ところが、この施策が旅客施設に占有床面積を要さない無人駅などに及べば、設計上やデザイン上に区別しない一体様式が現れる。公共施設側の規模が大きければ尚更に駅施設はそれに取り込まれ、建物の国鉄との財産区分は明確に為されているはずなのだが、まるで間借りをしているかのような形態が多くを占めた。

この生田原の事例もそれに属しよう。文学館・図書館は文化施設に相応しく大きな開口部に柱を配した石造り風の様式が採用されたから、規模の大きい上にとても駅舎には見えない。旅客施設には出入口から乗降場へ抜ける通路状の区画のみが充てられ、そこにベンチが作り付けられている。近年のカプセル駅舎や、ましてダルマ駅に比べれば遥かにマシであり、駅員無配置駅の機能としては十分ではあるけれど、峠越えの拠点であったかつての姿を知る鉄道屋にはどうにも侘しい。まして、東側に存在した営林署の土場に直結した貨物側線や、補助機関車の駐泊施設に転車台のすっかり取り払われたのは仕方ないにしても、肝心の列車はここの駅舎には不釣り合いな大きさの建物(ビル)の裏手にひっそりと着発するがごときである。
もっとも、大都市駅、例えば新宿にしても本来の駅舎位置に建てられた駅ビルに駅機能は収容されず、それは高架下にまとめられているのだから、要するには同じことと納得すべきなのかも知れない。

写真は生田原の下り出発信号機を越えて本線に進出する5091列車。苗穂から北見への急行貨物列車だった。
長い停車中に峠へ向けての投炭の行われて缶圧は十分に上がっているから、排気はほとんど蒸気である。勿論、最後部には9600の補機が付いている。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

森 (函館本線) 1998

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米国において1886年に発売された「コカコーラ」は1900年代初頭までには全米規模の炭酸飲料に成長し、コカコーラカンパニーの関わったものかは分からないが、日本にも輸入された記録があると云う。1919年には明治屋が輸入代理店となって国内での販売が開始され(販売名をコカコラタンサンとしていた)、アジア太平洋戦争後には進駐軍への供給にボトリング工場が進出して製造が行われた。正式に日本法人を設立しての国内向け製造販売開始は1957年のことである。
1962年の夏と記憶するが、母との東京目黒に叔母を訪ねての東京旅行の折、見物の東京タワーにその自動販売機が置かれていた。当時には都内でも珍しかったと見え、叔母が買ってくれたそれは苦く薬臭い飲み物だったと覚えている。その印象のせいか、その後にコカコーラを口にするのは10年以上を経てのことになる。

それと云うのも、その頃に子供でも納得する「大人」味の飲料が存在していたからでも在った。今や、道民に知らぬ者の無い「コアップガラナ」である。71年に上京すれば、それの何処にも売られていないのに困惑し北海道独自の飲料と思い込んでいたのだけれど、1958年の発売時には全国の各所で製造販売されたとは随分と後になって知った。
コカコーラの本格的国内進出に対抗すべく、全国の中小飲料事業者で組織する全国清涼飲料協同組合連合会がブラジル国大使館の協力の下に開発した飲料がガラナであり、共通ブランドとして用いられたのがコアップだったのである。当時に同連合会のフランチャイジィの下に全国で数十社が製造したと云われるが、多くはコカコーラの強力なマーケティングを前に敗退し、唯一そのボトラーズ進出が遅れた道内のみで販売シェアを獲得したのだった。確かに60年代後半の札幌のスーパーマーケットや近所の食品店の店先には、リボンシトロンやバヤリースのオレンジジュースと並んでコアップガラナが並べられていたものである。道内でも数社が製造に参加したらしいが、近所で見かけたそれの製造者名は残念ながら記憶には無い。

現在もほぼ独占的に供給を続けるのは、当時の小原商店、現在の株式会社小原である。それは1931年に森町にて果実酒の醸造業者として創業している。開拓使の七飯官園に始まった北海道の果樹栽培は、当然にこの駒ケ岳北麓に広まっていたから、産地に立地して林檎酒や葡萄酒製造を目論んだものであろう。清涼飲料への進出は戦後1950年頃とされ、当時にブームであったサイダー生産への参入による。その「銀星シトロン」も札幌の店先で見たことがある。コアップブランドでのガラナ発売は1960年であった。以来の50年は、なるほど道民飲料の地位を得るに十分な歴史である。

実はその50年間、内地でもガラナ飲料は生産され続けていた。幾つかの零細な業者の製造にて供給も地域に限定されたゆえに目立たなかったのである。これが1997年に、とある業界見本市をきっかけに注目され、その生産拡大や大手資本の参入を招きもしたのだけれど、近年にブームは沈静化している。東京や神奈川でも製造の続けられているらしいのだが、近所のコンビニの冷蔵ケースにも街中の自販機にも見ることは無い。引続き、それは北海道の飲料である。

写真は森を出発した6003列車<北斗星3号>。
この年の6月の渡道は天候に恵まれぬ蝦夷梅雨の日々が続いた。夏向けの装備には寒さに震えた覚えが在る。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/60sec@f4+1/2 Fuji LBA4 filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1981

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細岡には幾度も降りた。数えれば塘路を上回るだろう。
遠矢から岩保木山の裾を辿り、その北端を回った線路はここで中丿沢の釧路川合流部の鳥通(トリトウシ)湿原をR=362Mの曲線を描く築堤で渡っていて、それを辺りの丘陵から容易に見下ろせたし、その背景には宮島岬まで続く釧路湿原と遥か雌阿寒・雄阿寒までを見通す景観が得られたからである。そこまでその先に一戸の開拓農家への道路の通じていたのも有り難かった。

1927年9月15日の釧網線の標茶までの開通に際して設けられた停車場は、後背地拓殖への利便を図ったものであろうが、入植は僅かに留まり、戦後まもなくに米軍の撮影した空中写真(※閲覧はダブルクリック)には、駅周辺にはおそらく開拓農家と思われる一戸に鉄道官舎が建つ様子が見て取れるのみである。達古武川や中丿沢上流への入植も数戸であったろうから、釧網線各駅中で旅客・貨物ともに扱い量は低く推移して、1973年には早くも旅客、貨物に手・小荷物を扱う営業フロントは閉じられていた。
初めてここに降りるのはこの体制の頃だが、連査閉塞の運転要員は引続き配置され、簡易委託の乗車券類販売も駅前に引き受け手の商店などの無く、これも本屋窓口を利用していたから外見は通常の駅と変わらなかった。
冬には石炭ストーブが赤々と焚かれ、駅務室で茶などを馳走になったものだったけれど、1984年2月改正での貨物列車の削減により美留和や止別とともに棒線化されて要員が引上げられ、委託販売も打切られてしまった。それでも、夏の季節に無人となった駅舎の窓を開け放し、湿原の爽快な風力に野鳥の囀りを聴いた至福の時間は忘れられない。

鶴見台と呼ばれていた現在の細岡展望台への下車駅でもあり観光客の利用もあっただろうが、出会ったことは無い。1988年にその近傍へ釧路湿原駅が置かれれば、老朽化に駅舎は93年にログキャビン風に建替えられたとは云え、全くに忘れ去られた駅である。旧上り乗降場(釧路方面行き)は植生に覆われ、そこで列車行違いが行われたとは俄に想像し難い現況ではある。

降雪を纏った湿原を往くのは681列車。斜里から釧路(操車場)への普通貨物Aである。
釧網本線貨物は、この当時の定期4往復/臨時2往復が、84年2月改正で定期3往復/臨時1往復に減ずる。混合列車も全廃されたから機関車屋には大打撃だった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1982

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羽幌線は、貨物に手・小荷物運送上の通過禁止線区であった。1958年10月18日の初山別-遠別間の開業による羽幌線の全通に際して採られた措置だが、「通過禁止」と云っても貨物列車の運行や小荷物輸送のなされなかったのでは無い。これは、その前年に全通を果たした大糸線への適用が最初の事例であり、国鉄部内で「大糸線方式」と呼ばれた。
国鉄の貨物や小荷物運送の制度は些か複雑なのだけれど、それは原則的に実際の輸送経路に関わらず、発駅着駅間の最短経路を以ての運賃計算を原則としている。鉄道がネットワークを形成して往く過程にて、必ずしも効率的な輸送が最短経路とは限らない貨物や小荷物輸送に運賃計算の煩瑣を避けて定められた制度であり、1918年9月に一部の輸送経路に対して始めて明文化され、1921年10月の運賃改定に際して全面的に採用されていた。
これを大糸線の例で示せば、首都圏から北陸方面への輸送は引続き本線系統の信越・北陸線経由でなされるのだが、それの開通により実際には極めて輸送量の小さい(特に信濃四ッ谷以北区間)この線区が運賃計算経路となる。この時期での建設線は幹線間の連絡・短絡線とは云え地域交通線ばかりで、一方では幹線輸送力の増強に莫大な投資を要していた国鉄とすれば、それによる運賃収入の低下は是非とも避けねばならない事態であり、これには貨物運送規則、荷物運送規則の先の定めに、特定線区を運賃計算経路としない例外規定(*1)を設けるに至ったのだった。
この羽幌線は、それの二つ目の事例とされたもので、石狩沼田-幌延間通過輸送に限り従来通りの留萠・函館・宗谷線経由の運賃収受としたのである。従って、石狩沼田-増毛間の留萠本線区間を含む線内相互発着運送は含まれず、この区間に限ってみれば、当時でも対象となる貨物や荷物の着発は限られたであろうから、どれほど損失を補充したものかは疑問ではある(*2)。
けれど、設備投資の財源確保に直面していた国鉄は1961年10月改正時点にて、建設線のみならず既存線区の多くにこの扱いを拡大した。荷物輸送から全面撤退し、車扱い貨物もほぼ壊滅した現在には忘れられた制度でもあり、参考までに64年10月時点での指定線区・区間を以下に掲げておく。

羽幌/札沼/花輪/米坂/水郡/両毛/八高/相模/川越/越後/高山/飯山/宮津/加古川/赤穂/播但/姫新/津山/因美/福塩/木次/九大/筑肥/佐賀/和歌山/飯田/身延/大糸/小海/宮之城/(八王子-多治見間)中央線経由/(直江津-多治見間及び軽井沢-多治見間)信越・篠ノ井・中央線経由
以上30線区と3区間が存在した。
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(*1) 線名ないし区間名を示し、これを当該線区の営業条件と定めたのである。
(*2) 具体例を挙げれば、増毛発幌延着は羽幌線を運賃計算経路とするが、増毛発稚内着は留萠・函館・宗谷線経由で計算する。実際にも貨車はこのように操配され、輸送量の小さい線区の負荷を回避する施策でもあった。但し、荷物輸送もこの限りであったかは少し怪しい。

写真は初山別沿岸の短い夏を往く8804D<天売>。
夏臨期に札幌-羽幌間へ設定のこの臨時急行は、7月下旬から8月半ばまでは旭川発着編成も併結して4両組成となり、旧盆期間には幌延まで延長運転されていた。夏の最繁忙期をわざわざ選んでの渡道は、それが目的のひとつであった。この線区に在っては堂々の優等列車である。後追いにて前部2両が旭川行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

新大滝 (胆振線) 1970

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胆振線は勿体ないことをしたと思っている。
札幌からなら日帰り圏内に在ったし、内地から通うようになっても室蘭線に函館線を繋ぐ回廊なのでスケジュールにも容易に組込めたはずなのだが、前年とこの年と二度を撮っただけに終わってしまった。本線にC62やらC57、D51が健在で、ここの9600の古めかしいスタイルに魅力を覚えなかったことに加えて、車窓からのロケハンにてこれと云った地点の見つからなかったせいだろう。もう少し後のことなら、壮瞥や蟠渓あたりの風光に惹かれたと思うけれど、この当時に蒸機には、とにかく煙だったのである。倶知安に居た9600の前照灯をデフレクタ上の2灯とした装備にしても、本来は落石の多かったこの路線向けの仕様なのだが、それも共通運用の岩内線貨物に倶知安峠で多々対面していた。
この日も倶知安からの気動車にこれと云った位置を見出せないままに峠の向こうの新大滝に降りている。千鳥配置の乗降場の中央に接する通路の先に質素な駅本屋を記憶するが、まだ稼働していたはずの徳瞬瞥鉱山からの索道や構内に建造された硫黄鉱の大規模貯鉱槽には覚えが無い。この線に1往復の貨物運転の午前の下り、夕方から夜間の上り設定は、ここから東室蘭への鉱石輸送を配慮したものだった。
積雪の線路を足を取られながらも尾路遠トンネルに向けて道路が接近するあたりまで歩いたものの、結局気に入ったポイントの無く、駅から山裾に取り付いてまもなくの落石覆い手前まで戻って斜面を登ったのだった。

胆振縦貫鉄道がこの区間を開業したのは、徳瞬瞥(後の新大滝)までが1940年12月15日、西喜茂別(後に喜茂別)までの全通が1941年10月12日と、地方開発線としてはかなり遅い時期であり、それは1890年代末に始まり1910年代までには幾つかの中心集落を形成するに至った徳瞬瞥や優徳の長流川上流域への拓殖と一体ではなかったことを示す。当時より自治体が要請し、1922年の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)別表131項にも「膽振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈ニ至ル鐵道」が法定されながら、財政上の事由から鐵道院・鉄道省による建設は見送られ続けていたのである。
伊達町(当時)在住の早瀬末吉らを発起人とした胆振縦貫鉄道が、1930年12月22日に喜茂別-伊達紋別間の地方鉄道敷設免許を得たられのは、それゆえであったが、同社の本来の目論みは伊達と札幌との中山峠を介しての短絡に在り、その実現のための未着工の法定線を盾にした免許獲得と見るべきであろう。1928年には伊達紋別-静狩間の長輪線(後の室蘭本線)が開通し、短絡線をこれに結ぶところに商機を見いだしたと思われ、早瀬はこれに私財を投げ打ったと史料にある。
取り敢えずの喜茂別への到達は、ここに産出した鉄鉱石の倶知安回りであった輪西(現東室蘭)への輸送路を代替して、経営の安定に寄与するとの見込みからだろう。加えて、開業の1940年からは徳瞬瞥鉱山も本格操業を開始して、鉄道は活況を呈することとなった。
鉱石輸送の重要路線として戦時買収の対象となり1944年7月1日を以て国有化のなされるが、資源の枯渇も早く、最終的には共に日鉄鉱業が採掘していた倶知安(脇方)鉱山が1969年10月に、徳瞬瞥鉱山が71年3月に閉じられれば、その命運の決したとして良かった。

写真は尾路遠トンネルへと上る1891列車。新大滝へ午前に空車を解放し夕刻に積車を拾う列車設定には、倶知安機関区の9600形は鷲別機関区への滞泊を要していた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

苫小牧 (室蘭本線) 1999

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苫小牧 (室蘭本線) 1990 から続く

戦後の改良工事として特筆すべきは、1961年3月に着工して1962年12月1日より使用を開始した苫小牧操車場の開設であろう(*1)。前述した1950年代からの王子製紙に勇払の国策パルプの増産、戦後に専用線を接続した岩倉組の木材関連工場の拡張に増設(専用線も追設)に加えて、1960年10月の大昭和製紙(当時)白老工場の操業により操配貨車数は能力を遥かに上回り、さらには1962年度内に予定された苫小牧港の石炭積出を含む商業港区岸壁の稼働に対応を迫られたものである(*2)。
冒頭に苫小牧をさほどに広い構内では無いと書いたが、それは本屋の所在する構内のことで、実際にはこの操車場も操配設備の移転・増強とされて駅の一部であり、その本線上の構内延長は5キロに迫る。沼ノ端方へ3.4キロの苫小牧市一本松地区内長万部起点138K600Mへの設置は、苫小牧港の埠頭や後背工場用地へ予定された臨港線・臨海鉄道の接続からの選定であった。この位置は偶然であろうが、1917年6月1日に設置され1920年8月7日に廃止の一本松信号所(*3)と同位置であり、そこには1961年10月1日の一部仕訳線の前倒しでの使用に際して本線からの分岐に一本松仮信号場が設けられた(*4)。

上下本線の両側にそれぞれの着発線と仕訳線を設けた貫通式の採用は、貨車の持込み・排出を日高本線・千歳線線内列車を除いて通過列車のみとし、ここでの作業を本屋構内や萩野に勇払の専用線、臨港線との中継と、その小運転列車の組成・分解に限定したゆえである。新港の開削に関連して付替えられた日高本線の迂回新線が苫小牧起点9キロ付近までを室蘭本線に並列し、これを本屋との小運転線に兼用可能なことも事由であったろう(*5)。
使用開始時の貨車操配能力は、それまでの本屋構内での700両/日に対して1400両/日にて計画され、有効長600Mの着発線を上下に各3線(*6)と下り仕訳線7線、上り仕訳線8線、上下それぞれに有効長400Mの引上線を有する規模とされた。構内東側への上り側が本線を乗り越す上下貨車授受線の設備が特徴的だったが、これは計画時には下り側の本線下交差とされていたのが興味深い。苫小牧市の都市計画に組み入れられて、将来的に2000両/日の操配能力を想定した仕訳線増強に、機関区・貨車区の開設も視野に用地を確保していた(*7)。

これにともない本屋構内では、下り退避線だった2番線を小運転の到着線に、上り退避線の8番線を出発線とし、5番線を下り退避線とする配線変更が行われ、後の旅客第一乗降場の拡輻用地も生み出していた。なお、王子製紙貨物の扱いのみとなった下り仕訳線の多くは1964年度に同社へ売却された。
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(*1) 全体工事の竣工は1963年6月であった。
(*2) 1962年度の各専用線の着発トン数は以下の通り。
王子製紙-1082千トン/岩倉組-55千トン/(勇払)国策パルプ-114千トン/(萩野)大昭和製紙-391千トン
石炭の積出は年間100千トンが想定されていた。なお、苫小牧港商港区埠頭の運用(石炭積出)開始は1963年4月1日であった。
(*3) この信号所が列車行違い設備を有したものか、或は閉塞境界としての設置であるかはわからないが、列車回数の増加に対応しての設置は確かであり、1920年9月1日と記録される廃止は、この区間の複線化によるものであろう。なお、ここには永く一本松中間線路班が置かれていた。
(*4) 1962年12月1日付廃止。操車場の使用開始による。
(*5) この付替新線も1962年12月1日より使用を開始している。
(*6) 上りは450Mの1線も加えた4線。
(*7) ともに実現はしなかった。

写真は、室蘭上り本線から中線に進入した6170列車。北旭川から東室蘭(操)への石油返空列車である。
このカットでの注目は出発信号機にある。この99年当時には番線名称の変わってはいるが、日高線本線と室蘭線上り本線から室蘭線下り方への進出可能な信号設備とされていたのが分かる。当時のダイヤを読むと室蘭線の上下線を運転する日高線列車の数本が確認され、本来の日高線には苫小牧貨物と王子専用線間小運転の(列車種別での)高速貨物が走っていた。これは現在にも引き継がれている。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1988

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七飯から大沼への勾配緩和線、通称の藤城線については、ここへも何度か書き、それをWebsiteにもまとめている。→ 函館本線 七飯-大沼間の線増
それの調査の際、閲覧した資料により記述が異なっていたのが、アジア太平洋戦争の敗戦にて工事の中断された時点での進展状況であった。それには、隧道の掘削途中と記述するものもあれば、路盤・隧道のほぼ完成とするものまで工事各段階の記述が存在したのである。土木の世界でトンネルの完成とは、開業関係工事、即ち軌道設備や信号設備などを施工すれば車両運転の可能な状態を指すから、前記の「完成」とは貫通を示すものと解しても記述には差異がある。しかも、5箇所存在する隧道のそれぞれについて触れた資料は無かった。

米軍が戦後まもなくに撮影した空中写真には、現在の国道5号線との交点付近から藤城地区の山腹に向けて路盤工事に着工した状況が見て取れるが、完成路盤と判別出来そうな区間は無い。山中区間は開削の途上と云ったところだろうか。久根別隧道の出口側は工事用通路らしき痕跡の見えるだけである。
トンネルの掘削状況は、勿論見えない。それは通常には路盤工事に先行するから、1963年11月の着工、1966年9月30日に使用開始の、その3年に満たない工期に土木工事は2年程度だったと推定すれば、導抗くらいは貫通していたとも考えられる。但し、国鉄資料には久根別トンネルに工期24ヶ月の記述が見え、この隧道はほとんど掘削されていなかったとも思われる。
七飯町立七飯歴史館に伺うと、当時の近隣住民の話として、戦後に人の住み着いていたことや自分らの貯蔵庫代わりにしていたこと、子供の遊び場だったこと等が知れたが、その状態を推測出来るような聞き取りは無い。1960年代初頭と思われる、この線増の計画段階では当然に再着工前提の現況調査がなされたであろうから、やはり国鉄部内文書であるそれの報告書でも発掘されない限り、正確なところは知れぬだろう。

この戦後の桔梗-軍川間線増計画に際しては、藤城回り別線の比較案として渡島大野から直進して既設線西側を延長2590メートルの隧道を含むループ線で仁山へ上る経路が検討された。上り線に使用する既設線に下り普通列車運転が不要で線路容量は最大に拡張されるが、工事のある程度進展していた藤城回り線の在りながら建設費の最も嵩むこれを持ち出したのは、藤城線に想定される13億6千万円の工事費を国鉄理事会に納得させる「当て馬」的存在であったろう。ちなみにループ線案の想定工事費は16億4千万円であった。

写真は、延長913メートルに及ぶ七飯高架橋を駆け上がる5列車<北斗星5号>。
高架橋の内側には住宅の建ち始めていたけれど、まだこれに接するには至って居なかった。現状では、この仰角でも屋根の写り込んでしまうだろう。
88年夏前の撮影なので機関車は国鉄制式塗色である。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/500sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

塘路 (釧網本線) 1976

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塘路の地名が初めて記録に著されるのは、1797年の松前藩士高橋壮四郎らによる『蝦夷巡覧筆記』であり、そこにはトウロと記されている。高橋壮四郎は松前藩の『寛政十年(1798年)家中及扶持人列席調』によれば御近習列とあり、藩主より直接に蝦夷地の奥地調査を命ぜられたものであろう。文化年間(1804-1818年)の『東蝦夷地各場所様子大概書』にもトウワ(※ママ)トーとして塘路湖の記載がある。そこは蝦夷地の先住民アイヌ民族の古くからの集落(コタン)の地であった。

蝦夷地が明治政権の植民地たる北海道に改められると、1869年に川上郡トーロ村が佐賀藩の支配地として置かれ、それには開拓使根室出張所の管轄となった後の1875年に「塘路」との漢字表記が当てられた。
1880年には跡佐登硫黄鉱山からの硫黄搬出にかかわる道路、と云っても通路と呼ぶべき踏分道程度だったらしいが、それは塘路村を貫通して釧路まで開通し、ここには1885年に川上郡4ヶ村の戸長役場が置かれた。それらの地理的中心に位置したものであろう。
この地への開拓の集団移民は、1892年の高岡縫殿を代表とする香川県からの11戸48人による「貫誠社」を以て嚆矢としている。彼の地で製糖のサトウキビ栽培の農民であった彼らは、ここでもそれを目指しての移住と云うが叶うはずもなく、原生林に熊笹の大地に冷涼な気候に僅か半年にて開墾を諦めざるを得なかった。1930年にイソポウンナイに入植の山梨団体も同様の命運を辿り、与えるべき情報も営農技術も無いままに植民を急いだ政府による犠牲者と云うべきであろう。移民の主体が授産目的の士族から民間人へと移行した北海道庁成立初期には多々見られた事例であった。貫誠社を率いていた高岡は、その責任感からか団体の解散後も塘路に留まり、1895年に英国人宣教師が開設したアイヌ学校にて教鞭を取ったとの記録がある。農民とは云え学識の在る人物だったのであろう、ここはその彼にも想像を遥かに越える北辺の地であった。
ここへの入植の本格化するのは、麦や蕎麦すら育たなかったこの地で馬鈴薯や燕麦の栽培に目処の付き始めた1910年代以降のことである。

塘路への鉄道の到達は、1927年9月15日に至ってようやくに標茶までを開通した釧網線に、開拓地への利便として塘路停車場が開かれたことによる。ここに限ったことでは無いが、鉄道の開通は開拓地の換金作物の安定的な大量出荷を可能として農家の収入確保に寄与したばかりでなく、生活物資の供給と物価の低廉により生活の安定をもたらしたのだった。
さらには、有り余る天然資源に商品価値を与えもした。ここでは塘路湖のワカサギに開通した鉄道で内地から加工業者が買い付けにやって来たのである。その内水面漁業は鉄道開通を契機としており、塘路湖漁業組合は1928年に創設されている。当初には業者に安く買い叩かれるばかりだったが、1932年には漁業者自らが佃煮への加工を始めて現在に至って居る。

塘路湖畔の列車は634列車の網走行き。「塘路の崖」(→塘路 (釧網本線) 1982) のあまりの斜度に上り切れず、その途中で何とか身体を支え乍ら撮っている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

白老 (室蘭本線) 1966

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鉄道線路の道床材や道路舗装が主用途であった砂利は、1900年代以降に建設材料にコンクリートが普及すると、そのセメント骨材としての需要が急増した。主には、採取の容易さから川砂利が用いられることとなり、採取適地に近接して鉄道が通過していれば砂利積出位置まで線路が引込まれ、それの無ければ専用の運搬鉄道が敷設された。砂利搬出線を出自とする私鉄線や後の国有鉄道線の多いことはご承知のとおりである。
建設需要が頂点を迎えた戦後の復興期から1960年代高度成長期に架けては、全国各地の河川で採取風景の見られたのだが、河床低下による護岸洗掘などの支障と下流域から海岸への環境問題などから、60年代末には原則採取禁止となって現在に至っている。
白老駅近隣の白老川も採取地とされていて、下り列車で白老川橋梁を渡ると左手河岸に無蓋貨車が列を成す姿の見られたものだった。内地から旅すれば、鉄道の車窓には珍しくもない光景であったこれは、白老構内から延ばされた専用線であり、当時の五万分の一地形図にも記入されていた。それは構内西側で分岐して、ほぼ直線で北西方向に進み現在の旭化成工場構内跡地付近に到達し、もう1線が途中で左に分かれて曲線を描き南側の河岸に至っていた。室蘭線の車窓に見えたのはこちらである。

1966年に始めてここに降りた当時には、それは稼働していたはずなのだが、蒸機目当ての身としては側線の貨車には記憶がない。本線の蒸機が入線していたものか、今となっては興味が尽きない専用線ではある。1970年頃までと思われる撤去の後の路盤は北側への区間は道路に転用されて現存するが、分岐しての南側への区間や積出場跡地は、曲線部の一部が細道に残る以外は道道86号白老大滝線の用地となって消滅した。
なお、一部に記述される陸上自衛隊北海道補給処白老弾薬支処への専用線の存在情報は誤りである。ここへの弾薬輸送は設置当初より室蘭港からの道路輸送であった。

写真は、駅東方での7795列車。本来は夕張への石炭車編成の返空列車なのだが、この日は一般的な貨車編成と覚えている。苫小牧へと送られる操配貨車だったのだろうか。
道内では往々にして冬の気温にマイナスを省略する。内地からの転居当初には戸惑ったと、後に母から聞いた。この朝の待合室では、地元の人々が「今朝は6度もあった」と会話していた。この時期に最低気温の-6度なら、会話の通り確かに暖かい。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f2 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

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