"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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山越 (函館本線) 1999

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規模はどうあれ人の住む集落の駅に降りて里道を歩けば、必ずや蒼々とした樹木に鳥居の景観に往き当たる。北海道とて例外では無い日本の風景である。
この古からの宗教である神道の祭祀・礼拝施設として、同時にその信仰組織としての神社に、個人的には些か複雑な想いがある。世俗に穢れた身なればの神域への畏怖もあるが、なにより明治政権以来に国家の管理化に置かれ、宗教性を収奪されながら国民に天皇への隷属を強いる装置として機能した戦前の歴史に対してである。国家神道を狭義化して教派神道と区別する向きもあるけれど、それに加担したには変わりなく、戦後の神道指令、天皇の神格化否定を経ても一部宗教学者の助言にかかわらず神社本庁からの反省の弁は聞かれず、依然と反動的右派勢力の一角を成す。
それでも、神社のある風景にその神域とされる景観には惹かれる。例え粗末な鳥居でも、それをくぐり抜け境内に踏み入れずには居られないのだ。

1799年に幕府の直轄領となり、1800年に蝦夷地との境界とされて「関門」(関所)も設置の山越内には、1807年に「諏訪明神社」が創建された。関所に会所、下宿所等の役所の置かれての「通行人改メ」には飲食・宿泊施設も進出して急激に集落の発達したものだろう、ユーラップ場所も山越内場所と呼ばれて、住民の増加に福山(松前)の某が漁業繁栄と集落の氏神として祀ったと云う。
祭神は建御名方之神(たけみなかたのかみ)とあるから、確かに諏訪神である。元寇に風を吹かせた武神である風の神として知られるが、本来には風の悪霊を鎮め耕作を守る農耕神であり、田を守る水の神であり、狩猟を守る山の神である。その精霊は鎌に宿ると云われ、それを勧請する御神体は薙鎌とされる。
現在の諏訪神社は、山越駅の東方、山越内関所跡に隣接してその山側に鎮座する。そこの案内板にある江戸時代後期とされる絵図にも諏訪大明神として描かれているから、創建時からこの場所にあるのだろう。当時には会所から一丁ほど山手と記録されている。
ところが、1903年11月2日にこの地へ開通した函樽鉄道線(北海道鉄道-初代)は、礼を失してその参道を横切って建設されたのである。同様の事例は全国にも多くを見るが、民衆の信仰心を逆手にしながらそれを国民管理の道具としか見なかった明治政権の体質の現れに思える。現在でも参道は函館本線に分断され、代替に歩道橋が架けられている。

歩道橋を渡り境内に立てば、鳥居も拝殿も本殿もそれは神明造りである。先の絵図での諏訪大明神は入母屋造りに向拝を設けた造りに、鳥居も明神鳥居に描かれて、おそらくは戦前期の何時かに建替えられたものであろう。道内の社にはこれが実に多い。研究者によれば、入植地であり自由の気風のあった北海道の民衆管理に、序列化された社格体系の頂点、皇室の氏神たる伊勢神宮の印象化を目的とした半ば強制措置と云う。
国家神道はここにも影を残す。

山越を通過して往くのは5列車<北斗星5号>。既出画角の季節ヴァージョンにてご容赦願いたい。
後方に諏訪神社への架道橋が見える。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 C-PL filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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室蘭 (室蘭本線) 1971

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1872年3月、開拓使はモルランの対岸、エンルムのトキカラモイへの桟橋の築造と、そこから札幌本府へ向けての道路開削工事を開始した。函館の支庁と札幌本府を結ぶ札幌本道である。ここでの築港は函館支庁から森までの陸路区間を噴火湾上の航路にて中継するためであった。同年8月にはワシペツまでの山越えを含む開削を終わり、9月にはタオロマイへ、10月には本府まで僅かな地点まで達したが、積雪にて越年し翌1873年6月に全通した。
この砂利敷きの舗装を採用した国内最初の西洋式馬車道とされる道路は、当時の北海道の進まぬ馬車の普及からか、小樽より石狩川の水運が中心の札幌への物流には寄与しなかったと云われるが、トキカラモイからの沿道には官庁や行政機関が置かれて集落の形成され、やがては現在の室蘭に通ずる市街地へと発展する。道路は1885年に指定の国道42号線を経て同36号線となり、室蘭町内区間は名残の札幌通りと呼ばれた。
なお、トキカラモイの桟橋位置は1910年度より着工の室蘭停車場構内拡張にともない、1912年に埋め立てられて現存しない。

当初に測量山斜面を刻む5本の沢筋を境界に、トキカラモイより順に札幌通り1丁目から同6丁目に区分けされていた市街地は、絵鞆半島に限定され、かつ標高200メートル程の測量山の麓には不思議にも思えるけれど、豊富な伏流水が流れ、自然湧水は沢水と併せて生活用水や寄港した船舶への給水に用いられていた。
そして、良質な水は早い時期から酒造にも利用され、1886年には札幌通り4丁目(後の大町)に「登久仙・鳳仙」を酒銘とした津田酒造店が開業、1922年の室蘭町の市制施行時点にて、それに際して札幌通り各丁に付与された町名の泉町(旧3丁目)に「笑鷹・伊達誉」の栗林商店(1909年創業)、「宮錦・幸楽」の宮商店(創業年不明)、旧6丁目南側の本町に「彌生・繁昌」の小林酒造合名会社(1907年創業)、山麓を離れるが沢の多かった輪西町に「瑞穂の香・三芳正宗」の田中酒造(1918年創業)の各酒造場が稼働していた。今には想いもつかぬが、室蘭は道内での一大酒造地だったことになる。3丁目を改めた泉町の町名は、伏流水の室蘭八幡宮下からの湧出に因んでの付名であった。

中でも小林酒造は、創業当初より内地も含む積極的な拡販を行い、1920年代末頃よりの「香蘭」の酒銘を主力に戦前期には伊達や遠く佐瑠太(現富川)にも醸造場を持つ1万石の大蔵であった。それは年間で一升瓶でおよそ100万本の出荷にあたる。戦後には6千石に落ちるものの、合名会社を香蘭酒造株式会社に改組して室蘭の代表銘柄となっていた。1962年に小樽の北の誉酒造と合併して北の誉香蘭酒造の室蘭支店(酒造場)となるも、その曲折は知らぬが1971年に閉鎖、「香蘭」の酒銘も消えてしまった。酒造場跡地はボーリング場を経て現在に葬祭場となっている。

写真は、室蘭を出発する527列車の幌別行き。気動車化されて然るべき運転だが、それの運用に余裕の無いこの当時に高校生の帰宅列車には客車を要したのである。幌別に転車台を設備しないゆえ機関車は逆向運転となっていた。
手前が室蘭機関区の気動車庫、その後に扇形庫に室蘭客貨車区と続く。背景が浜町に大町(旧札幌通り4・5丁目)、斜面が葛西町、泉町(旧3丁目)は画角右手になる。煙の彼方には室蘭八幡宮の鳥居も見えている。
この年の消滅には、残念ながら「香蘭」を呑んだことは無い。幼少時、微かに近所の酒屋の前掛けに酒銘を記憶するだけである。それを中国酒と考えたのは、当時の歌手山口淑子こと李香蘭(リ・シャンラン)を思い浮かべての子供心のたわいない発想であろう。

[Data] NikonFphotomicFTn+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCC on Mac.

幌延 (宗谷本線) 1985

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以前の記事、南稚内 (宗谷本線) 1970 で触れた、1911年5月17日の「明治44年稚内大火」は、15日から増幌原野や更喜苫内原野方面に出火していた大規模な林野火災が、春先の乾燥に加えて、この時期特有の「ヒカタ風」と呼ばれた南西からの強風にて延焼し市街地を舐め尽くしたものであった。
内地の積雪地と異なり、北海道でのそれの融解は晴天の続く春先の乾燥に蒸発するように進む。消雪後の泥炭の原野は地表の湿潤を失って葦の枯れ草だけが残され、一度失火があればたちまちに延焼するのである。この時期での小規模な林野火災は、それこそ年中行事の如くに生じていた様子なのだが、この年は全道的に1896年以来の少雨が続いたせいか、渡島半島部から宗谷方面に至って相次いだ山林・林野火災が当時の新聞記事に見える。それはまるで北海道西部全体が炎上していた如き様相を伝えて、宗谷地域では稚内大火と前後して、枝幸から目梨泊に至る火災に初山別村の大火も報道されている。ここでは、1913年にも稚内・猿払・豊富・枝幸に報告が在り、1924年には稚内・沼川・樺岡での出火も記録される。
なお、稚内はこの後も1928年、1930年と続けて市街地に端を発する火災にも見舞われている。

幌延村域においても、1920年代後半に大火が続き、1926年6月7日にタンタシヤモナイ(現在の雄興地区)で2995haに及んだ林野火災、その二日後の9日にヌプカナイ(現在の問寒別地区)での665ha、1927年6月23日に上トイカンベツ(現在の上問寒)で900ha、1929年6月1日にオヌプナイ(現在の雄興地区)で1946haを焼いたと記録される。
10年を下った1940年にもトイカンベツにて900haを焼失する火災が在り、1946年6月半ばには豊富、安牛、オヌプナイ、エコロベツの各所で山林火災が同時多発的に発生した。

この1946年火災については、当時の幌延保線区の職員が残した記述がある。
それによると、数日来に燻っていた山林火災は6月18日午前9時に至り、折からの風速20メートルを越す南風に煽られて幌延市街地から500メートル程の疎林帯に飛び火し、全保線区員は勿論のこと消防団に市民らも駆けつけるも、10時30分頃には遂に樹齢20年程まで生育していた鉄道防雪林に延焼、火勢は線路南側を焼きながら12時過ぎには烈風に線路を越えて北側の防雪林へと燃え広がり、そこを流れるペンケウブシ川にポンプを入れての放水も空しく、遂には迎え火での消火を決断したと在る。
迎え火とは、延焼の進行方向前面に小規模な防火帯を造り、そこから火勢に向けて敢えて火を放ち、事前に燃焼物を焼失させてしまって延焼を食い止める消火方法である。防雪林の焼失を前提とするから苦渋の決断に違いないが、市街地南端に迫る火勢にはそれどころでは無かったことだろう。これは功を奏して、原野20町歩(=約19.8ha)、鉄道林3町歩(=約3ha)を焼いて16時30分頃に下火となったと云う。
記述から旭川起点198キロから199キロ付近に所在の防雪林と思われ、ここには再び育成されたそれを現在に見ることが出来る。

写真は、その防雪林をくぐり抜けて幌延場内に進入する321列車。前年2月の改正で旅客車はオハフ51の1両に置替られていた。
秋の始まりの北緯45度。低い太陽の強烈な西日が長い影を落とすけれど、原野の風はもう冷たい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鹿越信号場 (根室本線) 1977

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ご承知の通り、根室本線の金山-東鹿越間は、空知川への金山ダム建設にともない線路付替の行われた区間である。1966年9月29日に切替えられた付替新線は、滝川起点84K610Mの金山停車場より既設線(旧線)に接続する95K264Mまでの延長10K654Mであり、l=2256Mの空知トンネルほか2箇所の隧道とl=177Mの金山湖橋梁ほか11箇所の橋梁を建設するものであった。これにて同区間は2220メートルを短縮して実距離は10K970Mとなったが、営業キロ程の13.2キロは改キロされなかった。
この新線上に列車行違い設備を要して起点91K430Mに設けられたのが鹿越信号場である。水没した旧線の鹿越駅の代替だが、それの所在した鹿越集落は東鹿越駅周辺に移転してこの新線沿線は無人につき信号場とされた。
余談ながら、これを鹿越駅の移転とする記述を多々見かけるのだけれど、同駅は1966年9月29日付での廃止が公示されており、同日開業のこの信号場が同一停車場名を名乗ったとすべきである。千歳線上野幌のような事例とは異なるので注意を要する。

ここは無人地帯に置かれ、信号制御も東鹿越からRC制御されて要員の配置は無かったのだが、この翌日に開業した狩勝新線の信号場には無い鉄骨にスレートを載せた簡易乗降台が上下本線に千鳥配置に設備されて、当初より気動車運転の普通列車が停車していた模様である。
この扱いは狩勝新線の各信号場と同様で、列車運行図表上には普通列車の通過を示す矢印の付されるものの釧路鉄道管理局通達による保線要員の送込みに対応した措置と思われ、同じく車掌に申請すれば下車出来たし乗降台で待てば拾っても貰えた。
道内版の時刻表に記載されないのも同様であったのだが、73年頃よりここと古瀬信号場に限ってそれの開始されるようになる。釧鉄局の局報を閲覧した訳ではないので分からぬが、古瀬ともども仮乗降場として「達」の出されたものかも知れない。ところが、駅名の掲載されたは良いが、引続き気動車列車の停まっていたにかかわらず、その全てに通過表記の付されて停車列車は皆無と読めた。そして、石勝線の開業した1981年10月1日改正にて行違いの設定が無くなると、1982年10月25日付で廃止されている。仮乗降場としては存続した模様で道内版時刻表への掲載は続いたが、停車列車の無い表記に変わりはなく、1986年11月1日改正を以てそれも廃された。
この1981年以降に下車経験は無いけれど、釣り人の降りたとの記述をWebに読んだことがあり、時刻表不掲載当時と同じく便宜停車は継続され、申請すれば客扱いを行ったものと推定される。

なお、この付替新線に先立っては、ダム躯体が本線を支障して建設されるため、これを迂回するl=225Mの隧道を含む工事延長1キロの仮付替線が計画され、1962年12月に着工し翌年10月に完成して切替えられていたことを付記する。

鹿越信号場の構内を進むのは422列車、滝川行き。ここへの停車は気動車運行に限られて、この列車はゆっくりと通過して往く。画角、列車前方に上下千鳥配置の簡易乗降台が見える。建屋は本屋(待合所)では無く信号制御の機器室である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


長万部 (室蘭本線) 1996

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長万部の僅か1キロばかりの中心市街地を貫通して両側に商店なども並ぶ本町通りは、最近までの国道5号線であった。大型の貨物自動車が行き交い、向こう側の長万部食堂へ道を渡るのに信号無視など出来ない程に交通量も多い幹線国道だったのである。
これの市街地を海沿いに迂回する長万部バイパスは、ようやくに1996年に至って供用となった。おそらくその構想は1960年前後より持たれていたものと思われる、それの実現の遅れた事由は承知していないが、長万部川を2箇所で渡河する上流側の旭浜橋地点、国道37号/230号線の起点(接続点)より先の区間だけは1966年に切替えられていた。現在も長万部町長万部地内に町道にて残る旧道上には、室蘭本線との平面交差が存在し、その直後に二股に分岐して幅員の狭いことなどから改良の急がれたのだろう、その北側に迂回して新道が建設され、室蘭本線を越える橋長19.6メートル、幅員7メートルの長万部跨線橋は、この際に設置されている。現代ならばコンクリートラーメン構造なりPCコンクリート桁の渡されたであろうが、60年代当時ゆえ単純プレートガーダである。室蘭線はまだ単線だったけれど、これには当初より複線線路分の橋長が確保されていた。
1960年12月には、長万部市街地北端で行き止まりのT字路だった旧国道5号線は北へ延長され、国道37号線も、そのまま直進する線形に付替られていて、上記新国道5号線はそれに接続されたのであった。国道37号線の旧道は、それまでほぼ現在の室蘭上り線長万部川橋梁の位置で川を渡っており、橋自体はすっかり痕跡無く消滅しているが、右岸の取付け部は旧国道5号から分岐する生活道路として残っている。

長万部の付近で高さの在る視点はなかなかに得られない。駅には跨線橋のほか構内に二つの人道橋が架けられてはいたものの構内を見下ろすばかりである。その中で、長万部跨線橋は前後の盛土を含め線路路盤から10メートルに満たない高さながら、北側に続く噴火湾と原野の遮るものの無い視界が開ける貴重な立ち位置ではあった。浜沿いに旭浜の疎らな集落も続いていたはずである。けれど、ここを意識した70年前後に昼間の室蘭線上り蒸機列車は朝と昼過ぎの2本(定期列車のみ)にまで減っていた上、長万部進入の絶気運転には撮らず仕舞いだった。数年して再訪すれば彼方の栄原付近に長万部生コンの工場が操業を始めており、原野にやたらと目立つそれに落胆して、またも撮らずに立ち去っていた。
そのうちに長万部川放水路(新河道)の大規模な工事が始まってしまい、しばらくはとても撮れる位置ではなくなっていたのである。それの落ち着いたのを見届けて再び訪ねてみれば、今度は手前の海側で長万部町下水道の終末処理場が建設される有様で、20年近く抱いていたコンテの想いは、なんとも水泡に帰さざるを得なかった。時系列を遡ってみると、それの撮れたのはこの上り線の1969年9月19日の使用開始からせいぜい2年間程度しか無かったと知れた。撮れば良かったと悔やむ位置ではある。

長万部川橋梁上の列車は3056列車。
生コン工場のバッチャープラント塔を少しでも目立たなく済ますには、降雪の天候を選ぶしかない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec.@f5.6+1/5 Nikon L1Bc filter PKL Edit by PhotoshopCC on Mac.

苫小牧 (室蘭本線) 1990

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苫小牧は室蘭本線上の拠点駅ではあるけれど、それほどに広大な構内規模を持っているではない。1892年8月1日の北海道炭礦鉄道による岩見沢-室蘭(現東室蘭)間開通に際して、開拓使勇払郡出張所が移転していた勇払郡字苫細の原野に開かれたこの駅の、その後の拡張は周辺の原野を得て1910年に立地した王子製紙(初代)苫小牧工場の荷主としての要求によりなされ、同時にそれに囲まれたがゆえに用地に限界のあったとも云えよう。

苫小牧市史に1911年に本屋を改築し跨線橋設置とあるのは、それの本格操業にともなう着発貨車の増大や旅客増に対応して構内の拡張を要してのことと思われる。海側所在の貯木場(*1)に達していた王子製紙専用鉄道を改めた苫小牧軽便鉄道が1913年に構内へ乗入れ(*2)、1927年の762ミリ軌間であったそれの国有化に際しては、構内に専用の機関区(追分機関庫苫小牧分庫)と工場施設(苗穂工場苫小牧派出所)が設けられ、1929年12月9日の改軌完成による室蘭線接続に併せては現下り用の第二乗降場の設置を含む構内の大改良が行われ、本屋側の1番線から9番線までの本線を擁する現況に繋がる規模となっている。軽便線の乗入れていたと思われる本屋隣接乗降場の使用停止、同線(1番線)の通路線化もこの際であろう(*3)。なお、用途を失った苗穂工場苫小牧派出所は同日付で廃止されるも追分機関庫苫小牧分庫は存続した(*4)。
いつの改良かは特定出来なかったのだが、上記本線に本屋西側の王子工場専用線の分岐位置に1番から5番上り仕訳線が、構内北側に1番から4番の下り仕訳線が、本屋東側に貨物積卸線2線ほか側線の整備された規模が戦後の1950年代までの苫小牧であった。1950年2月10日には機関区に隣接して苫小牧客貨車区が開かれている。
この頃には王子製紙の増産に加えて、戦後に接続した岩倉組の木材関連工場への専用線(*5)の扱いも増え、上記設備による下り198両/日、上り514両/日の仕訳能力に対して、操配車は1957年度に754両、1959年度には814両に達していた。特に下りの能力不足が著しく、1955年度でも280両を負担して側線は勿論のこと本線2番に貨物積卸線も仕訳に用いる有様であった。この事態に拡張の余地の無い構内を3.4キロ沼ノ端方の一本松地区に求めたのが、苫小牧操車場である。苫小牧工業港の開港に臨海工業地帯の開発とも関連するこれについては次回に続ける。

上記の1929年の改良以来の特徴的な配線には、日高線本線との進入・進出の1〜3番線限定がある。日高線は室蘭線の構内を抜けぬうちに南へ分岐していたから、特に同下り線との接続はその有効長確保からも困難だったのである。これが1962年12月1日に日高線が勇払方へ操車場構内まで室蘭線と並列に付替えられた以降にも改められないのは、そこに相互の渡り線を設備したゆえであるが、様似から札幌への急行列車は室蘭線下りへの併結に際して上り方への本線引上げを要して、些か不可解でもあった。(この項続く)
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(*1) 現在の王子総合病院、白鳥アリーナ、中央公園一帯を用地としていた。
(*2) 省線との連帯運輸の開始は1922年7月1日からである。貨車の直通のあり得ず、それは旅客・荷物に限られた。
(*3) この1929年度の構内改良は、1952年8月苫小牧駅発行の『開驛六十周年記念誌』(北海道道立図書館収蔵)によるが、少なくとも1927年から1636年の鉄道省年報には記録されていない。
(*4) この際に山側へ移転か?
(*5) 現在の株式会社イワクラ。1944年から53年に駅北側に製材・床板・合板・パーティクルボードの各工場を操業、専用線が引込まれていた。1958年には現在の三光町にパーティクルボードの第二工場を開設して、ここにも専用線が追設された。なお、現在では全ての工場が臨海部に移転している。

写真は、苫小牧室蘭上り本線に停車の2列車<北斗星2号>。
陽の短い季節には札幌近郊でも走行撮影は困難だったから、それは必然的にバルブになっていた。苫小牧のこの位置は王子製紙の工場構内が背景にとなるゆえ、それを写したくなければ構内照明の反射を取り込めるように列車との角度を浅く取った上で、バルブ時間を切り詰めるしかない。逆に取り込んでしまったカットなら 苫小牧 (室蘭本線) 1994 に在る。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED Bulb@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北母子里 (深名線) 1973

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雨竜郡幌加内町字母子里の地名は、先住民族アイヌ言葉の mosir に由来するのだろうか。とすれば、彼らにとって特別の土地だったことになる。けれども1869年に蝦夷地が日本の植民地としての北海道と改められれば、ここも彼らに何の断りも無くその領土(国有地)に収奪されたのである。
この雨龍川上流部の奥地に位置した原生林の約3万haは、1901年にその運営資金の自己調達に内務省(北海道庁)より札幌農学校の財産林に移管、以降に同学第一基本林として運営され、1918年には農学校から農科大学を改めた北海道帝国大学の雨龍演習林とされて、現在の母子里には看守所と、学生の実習施設としての製材工場に教官及び学生の寄宿所が設けられた。この製材工場は官行伐採の山元製材により学生の実習に供し、あわせて道庁用材の自給を図るものであった。(ここは下記の開拓農家入植後には演習に支障のない限り、その自家用材の製材に応じて集落の建設にも寄与し、1976年まで稼働した)

ここへの開拓農家の入植は、帝大が公募した演習林内への1928年から1933年にかけての24戸が最初とされている。1922年の『鉄道敷設法』に予定線とされた名寄-羽幌間鉄道の内、名寄-雨龍(朱鞠内)間の計画が雨龍川電源開発計画と共に1928年頃より動き出しており、奥地への入植もその開通を見越してのことであったろう。
多くが同じ道内の美深村からの応募と云うのは、おそらくそこへの初期入植者の子弟世代が土地を求めたものと思われ、当時に、赤平の茂尻や士別の茂志利に対して「茂知」が当てられていた開拓地名も、1928年8月5日の若い入植者夫婦への第一子誕生を機会に、現在までの「母子里」に改められている(*1)。また、早くも1931年には尋常小学校の開校されたことでもそれは知れる。これに続いたとされる中頓別村からの13戸に常盤村からの5戸についても若い世代だったろう。

建設線名の名雨線を改めた深名線が1941年10月10日に全通し、ここに北母子里停車場の開かれれば入植者も増え、戦後の1950年に87戸618人の人口を擁するまで成長する。これには復員軍人や引揚げ者の入植も含まれたであろうが、この頃に開拓農家は駅周辺の市街地ばかりでなく、周囲に広く散在して小さな丘陵を隔てたモシリウェンナイ川流域にも集落が作られていた。1940年代には、戦時下の隣保組織だった隣組制度にて駅周辺を「市街班」した他は「一組」から「五組」にまで分けられ、それぞれが15軒前後の規模と伝えられる。
農家の生産物は寒冷気候に耐え得る馬鈴薯が中心で、隣組に1軒は澱粉加工場が在ったと云う。

母子里の人口は上記の618人をピークに以降減少に転じ、1960年代の高度成長期を通じて流失が続いた。それでも、ここに初めて降り立った1970年代初頭、駅前には石造りの農業倉庫に澱粉工場が並び、その先には数戸の農家に商店も存在して、駅も短い有効長にコンパクトな造りながら、島式乗降場を挟む上下本線に貨物側線と積卸場を備え、同時期の私設鉄道とは比べ物にならぬ鉄道省建設の停車場であった。
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(*1) 命名者は北大演習林関係者と伝わる。1930年に幌加内村議会の承認を受けて正式の字名となった。

その頃でもここを走る列車は既に単行運転だったけれど「汽車時間」ともなれば駅には多くの旅客が集まっていた。冬至を過ぎたばかりの早い暮色にやって来たのは947Dの名寄行き。
2013年現在の母子里の人口は36人と聞く。著しい過疎である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4  following data is unknown

沙留 (名寄本線) 1983

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1980年に成立の『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)には、その第二条に1985年度での事業収支の均衡が規定されていた。これを受けて国鉄は、職員の7万4000人削減による35万人体制、特定地方交通線77線3,100kmの廃止、輸送の重点化と効率化による列車削減などを含む「経営改善計画」を策定、81年5月1日に運輸大臣に提出して同月21日に承認を受けた。そこには、1978年10月、1980年10月改正と縮小を続けた貨物輸送に関して、貨物扱い駅の800駅までの統合と貨車操配施設の100箇所体制が目標とされていた。国鉄はこれを1982年11月改正に繰り上げて実行したのだが、この鉄道開業以来のヤード集結輸送はこの間にも輸送量の低下しながら労働集約型の作業に依る高い輸送コストから収支を圧迫し続け、同改正を前にした10月31日に運輸省に設置の「国鉄再建緊急対策推進本部」の圧力に、それからの全面撤退を表明するに至った。旅客・荷物輸送に関しても経営改善計画のより深度化を求められ、緊急実施を要求されるも準備期間から1983年度末のダイヤ改正を以て施行とした。
これが、鉄道貨物の輸送体系に一大変革をもたらした1984年2月1日のダイヤ改正である。通常に融雪期の3月に行われる年度末の改正が、成案の決定直後に、日々に巨額の積み上がる損失に対して即効的な効果を期し、積雪期の改変に依る輸送混乱のリスクを承知で急遽繰り上げられたものである。これは当時に如何に国鉄が追いつめられていたかを示している。施行期日決定の混乱による市販時刻表の1・2月号合併発行をご記憶の向きも多かろう。
データで示せば、一般車扱の貨物列車は改正前の2449本が1669本を減じた780本に、列車設定キロは372.0千キロが295.1千キロとなった。これには19本を減らしただけの高速・専用貨物を含むから差分の76.9千キロはほぼ車扱貨物の消失分である。貨車は1982年11月改正までの33000両に加えて45000両が不要となり、余剰気味であった機関車も新たに770両が仕業を失い、運転関係区所は165箇所が廃止された(ともに旅客列車削減分を含む)。そして貨物扱駅は85年度目標の800駅を遥かに越えて460駅体制となった。

この改正を線路端で眺めていた鉄道屋としては、多様な貨車を延々と連ねた快速や普通に解結の貨物列車が一夜にして消滅し、操車場や拠点駅の側線が運用を失った貨車で溢れる様を目撃することになり、暗澹たる想いに駆られたものだった。物流ニーズと乖離した結果の必然とは承知していたけれど憂いの事由はそればかりでは無い。
国鉄の貨物輸送市場からの大幅な撤退は、土光敏夫や瀬島隆三らの名を連ねる「第二次臨時行政調査会」を隠れ蓑とした財界の意を受けた中曽根政権による、1982年9月24日の閣議決定、即ち5年以内の国鉄改革(政権の本音は解体)を含む緊急対策10項目を盾にした恫喝の結果であり、彼らを利する国民の公有財産である国鉄用地収奪の一歩だったからである。用途を失った広大な操車場用地をはじめ多くはまもなくに時の政権党に蹂躙され、続いて鉄道用地は全てが資本の手に落ちることになる。

ヤード集結型輸送からの撤退とは、とっくに廃止もしくは臨貨に格下げされていた行き止まりの盲腸線は別としても、地方ルーラル線区・区間の多くに引かれていた貨物列車のスジの消滅を意味したから、機関車屋にしてみれば大打撃に違いなく、そこに向かう動機の無くなれば、以来には一度も足を踏み入れなかった線区も多い。この名寄本線もそのひとつでる。
1982年11月改正以降も興部、紋別、元紋別(専用線)に貨物扱の残り1往復のスジが引かれていたけれど、出荷は激減して運休も多かった。前日に名寄に尋ねて運転を確認したこの日、下り1691列車は僅かな財源を牽いていたものの、期待した上りの1690列車は機関車の単行で現れた。財源の無いだけで単行機関車列車ではない。列車掛(車掌)は機関車に便乗している(はず)。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1996

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倶知安 (函館本線) 1978 から続く

1970年代、冬期の渡道に上野からの列車に乗れば、そこには必ず少なからぬスキー旅客が認められた。郡山に福島、白石、盛岡など思い思いに下車して往くのだが、共に青函を渡る一群も存在した。早朝の函館で、<北海>へと乗り込めばニセコ方面への、<おおぞら>へなら十勝岳方面へのスキー客と知れた。その倶知安や富良野など、特急や急行の着発時にはスキー客で混雑し、待合室が彼らのカラフルなウェアで華やかだったのを思い出す。その利用の多い駅には待合室やホームにもスキースタンドの用意されていたものである。
道内を撮影地へ急行や普通列車で移動していても同席することの多かったと記憶するけれど、夜行急行に見かけなかったのは、当然に存在した札幌中心の道内流動は比較的短距離に限定されて、それを利用するまでもなかったからだろう。
道内でのスキー客輸送には、首都圏や関西発着のごとくに大規模な、ましてそれに常態の往路夜行としたスキー臨設定は見られなかった。戦前に鉄道省は北海道を送客先と認識し続け、戦後の国鉄はスキー場の地理的配置から、総じて道内発着のスキー旅客流動に深く関与することはなかったと云える。

戦後においては、前回記事に記したニセコ方面への<ニセコ銀嶺>の他には、1962年12月からの札幌-富良野間<北の峰銀嶺>、1965年からの室蘭-新大滝間(後に喜茂別)<いぶり銀嶺>、1966年からの札幌-上志文間<上志文銀嶺>を定例とする程度で、しかも新大滝と上志文着発は普通列車であった。
それぞれが1978年シーズンより<銀嶺>を<スキー>に改めて(*1)設定の続いたものの、いずれも1984年シーズンを最後に姿を消している。最長組成でも富良野行きの3両にて、もともと然して大きくは無かった需要の低下もあるが、末期には<ニセコスキー><富良野スキー>ともに全区間が定期列車への併結(*2)でもあり、実質的にその増結車同然であったゆえ、それで事足りるとの判断だろう。
既に内地からのスキー客の全ては空港からはバスでゲレンデに直行し、道内客は自家用車に移行の進んで、ニセコ、富良野地域と云えど鉄道の出番はなくなっていたのである。

この時代に替わって注目されたのが、当時に鉄道の開通しながら道路の未整備だった石勝線沿線地域である。1983年に開設のトマムスキー場、1980年からの狩勝高原スキー場に向けて、1983年シーズンより札幌-新得間に急行<石勝スキー>2往復が設定されている。特に、狩勝高原スキー場がサホロリゾートスキー場に改められた1985年シーズンからは、内1往復が、スキー場開発事業者と国鉄による共同運行を前提とした専用編成使用の特急列車<アルファコンチネンタルエクスプレス>に立替えられ、これは航空機との連携輸送により本州方面からの旅客取込みを意識したものとされた。この従来の国鉄には考えられなかった輸送方式は成功を収め、スキー人口が戦後最大規模へと向かう時期を背景に一旦は撤退した富良野、ニセコ方面にも拡大されて往き、道内におけるスキー旅客輸送は北海道旅客鉄道発足後の1990年代にかつてない隆盛を見せるのだった。
(この項終わり)
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(*1) <北の峰>も<富良野>とした。
(*2) <ニセコスキー>は1984年2月改正での<らいでん>廃止により、それの格下げの定期普通列車への併結になっていた。

=主要参考文献=(本文中に記したものを除く)
鉄道とスキーと山 : 渡辺公平 (鉄道ピクトリアル 通巻291・293・294号所載) 鉄道図書刊行会 1974
雪跡-小樽スキー連盟100年記念誌 : 小樽スキー連盟 2013
北大スキー部70年史 : 北海道大学スキー部OB会編 1982
北の山 : 伊藤秀五郎 茗渓堂 1935
倶知安町史 : 俱知安町史編纂委員会編 1951
ニセコ町百年史(上巻) : ニセコ町百年史編纂委員会編 2002

この1990年代に忘れてならないのが、海峡線の開業を機会とした首都圏発着や奥羽地区からの直通寝台列車の運行である。スキー臨時列車史上に例の無い長距離運転となったこれらについては、いずれ別項を立てたい。
写真は広内陸橋を下る9011列車<北斗星トマムサホロ>。
1994年シーズンまでのトマム着発の<北斗星トマムスキー>を、この95年シーズンより新得に延長していた。列車名称の変更はそれによる。もっとも、トマム行き当時より新得まで回送されていたから実態は変わらない。編成後部には夢空間車-3両が組成されている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/1000sec.@f5.6 Non filter PKR Edit by PhotoshopCC on Mac.

江別 (函館本線) 1988

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馬追丘陵北端を回り込んで長沼低地に流れ出ると蛇行を繰返しながら南西に貫流して千歳川(江別川)に注いでいた夕張川には、北海道庁による1910年度からの第一期拓殖計画の時代にクッタリ(現在の栗沢・南幌・長沼の三町境界付近)から西へ江別北方の越後村付近で石狩川本流に接続するまでの凡そ11.6キロに新河道が計画され、1922年に着工、以来14年の歳月を経た1936年8月17日に待望の通水を迎えた。夕張川新水路(放水路)である。これにて、長沼低地は千歳川の小さい流下能力による夕張川氾濫の危険から解放されたのだった。

この新河道開削により、江別から幌向へ石狩川左岸をほぼ直進していた函館本線は分断されるところとなり、河道に延長523メートルの新夕張川橋梁が架橋された。当時に橋梁設計は延長の短縮から河川との直交が原則であり、これにて江別方にR=400の、幌向方にR=600の反向する曲線の盛土区間を生じた。新設線路は、同じく架橋を要した並行する国道との関係から、これをその東側として江別川橋梁下り方の函館桟橋起点308K700M付近から新夕張川橋梁の盛土区間終点の312K300M付近の約3.6キロに及び、1935年11月に切替が行われた。
付言すれば、この工事は前後の盛土構築を含めた路盤を道庁が直轄で施工し、橋梁本体と開業関係工事をその委託により鉄道省が行った。これは、その後にダム建設等で多くの例を生じた鉄道の責に依らない工事受託の嚆矢となり、鉄道省は、急遽「鉄道請願工事ソノ他経費ノ予納金取扱手続」(1936年2月達69号)を制定して対応し、1939年に「鉄道請願工事経費負担規程」「鉄道請願工事経費負担規程ヲ準用スルノ件」「鉄道請願工事経費処理規程」(1939年6月、それぞれ達413号から415号)を整備する切っ掛けともなったのである。

既設複線区間ゆえ橋梁は当初より同規格で設計され、上下線に共用の橋脚を持った長大な上路式の鈑桁橋の出現は、戦時に向かっていた当時はいざ知らず、戦後には鉄道撮影の好適地なのは周知のとおりである。
1988年の幾度かの渡道は、勿論その日程の多くを運行を開始したばかりの本州連絡特急寝台列車に充てたのだが、関係者から秋の時刻改正での宗谷方面急行の再気動車化を聞けば、撮らぬ訳にも往かなかった。この年の旅に多用していたのは道南周遊券だったから、それは札幌の近郊に限られて江別には何度か降りることになった。

列車は、座席代用寝台車組成運用の302列車<宗谷>。
近年には橋梁周辺河川敷の樹木が成長して全長の見通しは堤防上からのみとなったが、この頃までなら橋脚に接近した仰角の画角が取れた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走 (石北本線) 1974

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旭川鉄道管理局管内石北本線で最後まで蒸機牽引で残ったのが、北見機関区のC58の牽いた北見-網走間の1527・1528列車であった。云わずと知れた517・518列車<大雪5号>(1975年3月10日改正当時)の末端普通列車区間である。

この列車の運転は、戦後間もない1949年9月15日改正(東海道線には特急列車の復活した改正である)にて函館-網走間に設定の503・504列車に始まる。但し、これは旭川-網走間を準急運転としていた。石北線末端区間を各駅停車とするのは1950年10月1日改正からのことで、列番を505・506列車に変じて札幌-北見が準急区間とされた。翌1951年4月1日で505の準急区間が遠軽までに短縮されるのは、燃料不足の当時に近接した時間帯の普通列車と統合したものだろう。これは1956年11月19日改正で旧に復す。そして、1958年10月1日改正を期して列番を503・504列車に戻して<石北>の愛称が付与されるのである。
1964年10月1日改正で普通列車区間を区別し、123-507-517・518-508-124列車とされ、1965年10月1日改正にて123-517-1527・1528-518-124列車に改められて、ここに1527・1528の列番が現れる。
これは1966年3月5日を以ての急行格上げ、1968年10月1日改正での愛称名の<大雪>への統合、1970年10月1日改正の函館-札幌間123・124列車の分離後も長く維持された。

この北見-網走間は、この区間での始発、最終列車として通勤・通学輸送を兼ねており、下り大垣夜行でのご経験の向きが多いと思うが、通勤客は乗り込んでも寝ている夜行客に座席を独占され、夜行客は通勤客に起こされで、双方が気まずい思いをしていたものである。
1980年10月1日改正に至って、ようやく同時間帯の北見発着<しれとこ>との振替が行われて、<大雪>は全区間が急行運転となった。82年には座席車の14系置替が予定されたから、それに定期客は乗せたく無かったと勘ぐりたくもなるが、現実には<しれとこ>の直通客も、また通勤利用客も2両編成の気動車で事足りる程に減っていたのである。

写真は網走で発車を待つ1528列車。通路線にも機関車が停まっていてそれも撮ったものなのだが、お陰で肝心の急行編成は見えない。
この当時の所定10両組成は第二乗降場の有効長を上回り、後部の荷物車/郵便荷物車をそれに納める必要から前部側の普通車2両はホームに掛からなかった。

以下は全くの蛇足である。
蒸機を機関区等の現場では「カマ」と通称した。ボイラを載せているから「罐」なのは、当時からの鉄道屋なら百も承知のことと思う。それは電機や内燃機に取って代わっても引き継がれ、それらも慣習的に「カマ」であった。
部外者であるファンに、これが専門家気取りに広まったのだろうが、蒸機の時代を知らぬ若い世代には「SLブーム」再来とは云え、由来が伝わらなかったと見える。最近に「凸釜」や「星釜」「カシ釜」云々の表記に出会い、申し訳ないが爆笑してしまった。確かに罐-火室に飯盒を放り込んだ話は機関士に聞いたことが在るけれど、本来に機関車は飯炊き道具では無い。
付け加えさせて頂けば、カマが一台とか二両などの数上げもあり得ない。罐とした以上水を呑み込むのだから、それは一パイ、二ハイと数えねばならない。これも慣習的に電機・内燃機でも同じである。
押し掛け趣味の代表でもある鉄道趣味にて、なにも部外者が現場の符牒をマネしなくとも良いだろう。「機関車」で十分と思う。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 Bulb@f4 Nonfilter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCC on Mac.

上野幌 (千歳線) 1989

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上野幌 (千歳線) 2008 の続きである。

1919年から札幌宮の森の三角山斜面に農場を経営していた馬場和一郎が、1927年に厚別旭町一帯に開いた種畜と牛乳加工の60haに及ぶ大農場が馬場農場である。この農場を1942年に内務省(北海道庁)が取得した経緯は調べていない。二代目の馬場忠の時代に恵庭へ移転とする資料(*1)があるから、その際のことであろうか。
米国とも戦端が開かれ食料の増産が叫ばれた当時、鉄道省は内務省からここの貸渡しを受け札幌鉄道局の「練成農場」に利用した。戦時下に陸軍省情報局が国民への啓発に発行した週刊紙『週報』の読者欄「通風塔」に拾えば、「戦時練成農場」とは家庭農園や隣組農園、或は団体での共同耕作の推進に行政側が貸与した耕作地ないし農場を指すものらしい(*2)。推定ではあるけれど、戦後の食糧難時期にも鉄道職員による耕作の続けられて、1947年の内務省の消滅以降には1949年に発足の日本国有鉄道に帰属したと思われる。

新産業都市建設促進法(1962年法律第117号)に基づいて道央地域が新産業都市に指定を受けたのは、1964年1月のことであったが、それは1951年からの北海道総合開発計画とも関連してその構想段階より既定だったと思われ、逆算すれば前述の国鉄札幌地区改良計画の実行されていた1960年頃までには、将来の大谷地地区への貨物施設設置案は国鉄部内にて検討され、単複は未定ながらそこに千歳線の別線を通す方針の立てられていたであろう。札幌市の協力により代替地に加えて広大な土地の確保出来、限界に近づきつつ在った苗穂の貨車操配機能を移転するには理想的位置であり、また対本州方面列車の順路構成には欠かせぬ配線だったからである。加えて函館本線の厚別川橋梁付近は千歳線上野幌と接近した位置となり、この間をR=800M程の逆エス字型線形で繋ぐのは自然な経路選定でもあった。これが初期の千歳新線構想である。苗穂からの新線延長は10.2キロを予定していた。
1970年代前半まで、ひばりが丘団地中央部の南北方向に残されていた未利用地が、旧馬場農場地内に国鉄の留保した線路用地と推定出来るのだが、確証を得る資料には出会っていない。永くグラウンド等に供された用地は駅の設置も可能な規模であった。現在には厚別西通のひばりが丘団地内区間その他に転用されている。

既設上野幌の維持を方針としたのも、そこが1961年から造成の予定された下野幌第一団地(青葉町団地)地区の南端に位置し、将来に旅客利用の増加の見込めたゆえである。それの放棄は、札幌市が1966年に取得した陸上自衛隊の弾薬庫(北海道地区補給処厚別弾薬支処)の移転跡地への設置を求められた新駅(現在の新札幌)を収益確保の代替と考えてのことであり、線形構成上東回りの経路を採らざるを得なくなった経路上に列車退避設備を要して既設線の起点13K700M近隣に置いた停車場を書類上に上野幌の移転としたのだった。後の新札幌に待避線を置かなかったのは、高架構造のそこでの用地の限界と建設費負担を嫌ったものであろう。この決定は、当時の国鉄の財務状況や組合との折衝に時間を要して1960年代末までずれ込んだと思われる。

移設の上野幌は当時には信号場としても良さそうに立地ではあったが、既設から直線距離で南東へ1キロ程の位置は、酪農農家が散在するのみだった上野幌地域からの利用に関わる距離のさほどに変わらず、その利便確保から旅客駅とされたのだろう。但し団地開発区域からの利用は丘陵地に阻まれて困難であった。
それゆえ運転扱いを札幌貨物ターミナルに置いた制御所からのRC制御としての無人駅は、1987年に札幌日本大学学園が近隣に移転し、近年に周辺地域まで宅地開発が迫るに及んでの利用客増加を背景に、1998年3月に小さな本屋を設け時間帯を限って外部委託に依る営業要員が配置された。開設から四半世紀目のことであった。加えて、2004年12月のここで交差する厚別東通り(札幌市道里塚上野幌連絡線)の開通にて里塚・平岡方面からの利便性が飛躍的に向上したけれど、バス便の設定は無いようだ。
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(*1) さっぽろ文庫 札幌地名考 : 札幌市教育委員会編 (北海道新聞社 1977年)
(*2) 週報 通巻405号 (陸軍省情報局 1944年7月26日)

写真は上野幌場内を抜けて往く35D<おおぞら5号>。後追いである。
上野幌を往来する列車を俯瞰出来たこの位置は、丘陵を越えて青葉町団地に抜ける細道の横断していた小さな斜面で、その下の辺りは地元の子供らの格好のソリ遊び場だったのだけれど、厚別東通りの建設で切り崩されて現存しない。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌 (千歳線) 2008

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以前に 上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998 から 上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1996 まで13回に分けて続けた千歳新線にかかわる記事の補遺である。これも2回に分ける。

先の記事では、その構想ないし計画の当初に上野幌の移設は含まれていなかったことを述べた。旧線上の東札幌の前後に存在した延長の在る急曲線の除去と、補機を要していた上野幌-北広島間の勾配に曲線の隘路区間の解消は、同時期に計画されたにせよ異なる案件とされていたのである。従って、当初の千歳新線計画とは苗穂-上野幌間を指していた。

手稲の西方に広がる現在の札幌運転所は、札幌地区での将来の貨物扱いの行き詰まりを予測した鉄道省が戦前期に確保した用地に立地している。当時に増大していた札幌地区各駅での着発貨物に岩見沢(操車場)での中継を廃した列車の設定を想定して操車場を計画したものである。手稲-銭函間へ選定は、排水のなされた平坦な農地であったことに加えて、その先の小樽築港にも貨物拠点を擁したためであろう。一部に着工していたことが1947年に米軍の撮影した空中写真に造成工事の痕跡として見て取れる。
この用地の旅客操車場への転用は、戦後の早い時期には構想されたものと思われ、それは1956年度を初年度に札幌の旅客駅化とその機能強化を目的とした札幌地区改良計画の立案段階に、貨物移転の一案とされた貨物扱いを集約する場合の統合貨物基地と貨車操配施設の位置を、新たに用地取得を要するはずの桑園-琴似間としていたところに伺え、そこの旅客車検修施設(札幌客貨車区業務)の手稲-銭函間用地への移転も含まれていたと推定される(*1)。

戦前からの用地を旅客操車場としての新たな貨物拠点の立案は、国鉄が戦後に厚別地区の旧馬場農場を保有していたことと無関係では無い。上野幌 (千歳線) 1988 において、旧馬場農場の所在、即ち買収を要しない用地の存在を厚別川橋梁付近から既設上野幌への経路選定の動機と書いたのだが、見解を修正する。国鉄はこれを札幌市当局との取引、即ち換地の財源に用いたのである。
札幌市の関係文書を閲覧しないままの記述をご容赦頂きたく、それゆえに時系列の判然としないのだが、1950年に白石村を合併した札幌市は、この新たな郊外域に住宅地の開発を計画、当然にそこに広大な土地を保有した国鉄との協議にて、その旧馬場農場用地を取得し(*2)、代替地に提案したのが札幌市中央卸売市場の開設を予定した桑園地区なのだった(*3)。当時には琴似の集落までの間は農地が続いていた。
国鉄は、都心からの距離による荷主の不便(アクセス道路の未整備)を事由にここへの貨物拠点設置を見送るのだが、1962年の新産業都市建設促進法に基づく札幌市を含む道央地区の新産業都市指定にともなう札幌市による白石大谷地地区への物流拠点設置計画(*4)に際して、そこへの代替換地取得に繋がるのである。1950年代に住宅団地開発用地を欲していた札幌市と貨物集約施設の建設を構想していた国鉄との利害の一致した結果であり、国鉄は旧馬場農場用地を有効に活用したことになる。
(この項続く)
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(*1) 結果的に、この1956年度から1962年度まで継続した札幌地区改良計画からは見送られ、1964年に着工、1965年9月1日に札幌運転区として開設された。1967年度を初年度とした新たな札幌地区改良計画に含まれたものだが、1966年度からの電気車両の受入に先行した。千歳線の複線化にともない増加する列車回数には札幌駅の拡張が不可欠であり、そのためにも必須の施設であった。区所としては新設であり、札幌客貨車区の主要業務を引き継いだものの移転ではなかった。
(*2) 市営ひばりが丘団地として1959年から造成工事を開始。
(*3) この市場の開設は1959年12月である。
(*4) 札幌市による事業区域は現札幌流通センター240ha中の中核を成す流通業務団地の154haであり、1967年度から1978年度にかけて事業が行われた。

茜空に上野幌場内へと進入するのは、2列車<北斗星>。ほぼ20年を経て同位置、同じレンズの同一画角で撮っている。→上野幌 (千歳線) 1988

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f2.8 Fuji LBA4 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhptpshopCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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倶知安 (函館本線) 1976 から続く

国鉄北海道支社札幌鉄道管理局は、1961年12月17日の「ニセコひらふスキー場」(*1)の開場に際して、その至近の下車駅となる比羅夫の北海道鉄道(初代)以来の駅舎をスキーロッジ風の観光仕様に改築し、臨時準急<ニセコ>を札幌-狩太間で毎週末に運転、比羅夫からスキー場には国鉄自動車の運行を開始したのだった。

倶知安までを準急、以遠を普通列車とした<ニセコ>の運転は、週休二日制の無い当時には札幌を土曜日の昼過ぎに出て、狩太で折返し日曜夕刻に札幌に帰着する苗穂機関区のキハ22の2両組成1組による仕業とされた(土曜下り/日曜上りは回送)。
これは、3月末までの運転予定であったのだが、それを待たずに1962年2月1日より逆時間帯に1往復を増発の上で、準急<ニセコ><らいでん>の定期運転となった。北海道における気動車準急の伸長期にあたり、用務客需要も相当に存在したのであろう。よって、臨時列車は1962年のシーズン以降には札幌を土曜朝発、日曜夜帰着の時間帯に、やはり狩太着発の<ニセコ銀嶺>に立替えられた。1968年10月改正ではこのスジも<らいでん>として定期化されるのだけれど、<ニセコ銀嶺>の愛称はそれに全区間併結の臨時急行として残された(*2)。
また、1962年シーズンに先駆けての10月6日からは胆振線に週末の臨時準急<いぶり>を運転して室蘭方面からのスキー客輸送に対応した。これも1963年10月に定期化されている。

国鉄自動車の列車接続運行についてを、この記述に際して調べてみたのだけれど、路線開設の公示はなされていないのである。札幌鉄道管理局の局報を閲覧出来ていないので推測だが、局長達による臨時路線若しくは貸切運行の形態だったと思われる。戦後まもなくの機動運営の当時はともかくとしても営業拠点を持たない倶知安地区での運行は、まだ冬期運休路線のあった羊蹄線関係喜茂別支所の要員・機材を一時転用したものだろうか。仮設であったと思われる車庫に検修場の位置など詳細は明らかに出来なかった。四輪駆動ボンネットバスの10メートル程の車長とは云え、それが比羅夫駅への狭い急坂を行き来したとは俄には信じ難い。
スキー場には1962年シーズンより倶知安駅からの道南バスが乗入れ、1963年からは狩太駅接続のニセコバスも運行されたゆえか、国鉄によるバス運行は1965年のシーズンを最後に取りやめられる。スキー客の乗降から駅前には数軒の民宿が営業したと伝えられる比羅夫の賑わいは、僅か数シーズンにて終わった。(この項続く)
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(*1) この際に「ニセコ比羅夫スキー場」を改称。
(*2) 札幌-江別間を単独運転の普通列車として延長した時期もある。急行区間の全区間定期列車併結は、実質的にそれの増結車と云える。

写真は倶知安構内北側の鉄道宿舎をかすめて走る905D<らいでん3号・いぶり・ニセコ銀嶺>。後追いである。
この頃、後部2両の<ニセコ銀嶺>には、せめてものスキー客サーヴィスだったのかキハ56/27が使われていた。その前位2両のキハ22が<らいでん3号>、1両が<いぶり>である。これには次の小沢で岩内からのキハ22-2両が連結され、札幌到着時には7両編成になっていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


倶知安 (函館本線) 1976

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倶知安 (函館本線) 1984 から続く

スキー北海道』は、1938年12月28日に鐵道省札幌鐵道局が発行した道内スキー適地の案内書である。勿論内地においても販売され、道内への誘客を促進するものであった。
詳細は調べ得なかったが、奥手稲へ山の家を開業した1930年に発行の『雪・スキー・北海道』、おそらくそれの改訂版と思われる1934年の『スキー北海道』のさらなる追補・改訂版であろう。戦後の1947年には、日本交通公社札幌支社に発行元を替えての『新スキー北海道』もある。
前述した1924年の『スキーとスケート』で、ニセイコアン地域に小樽・札幌近郊、旭川近郊程度だった案内は、同書で「将来の」との但書きを付けて2行程度の触れられるのみだった網走線、宗谷線沿線に加えて、函館・大沼地域や定山渓地域、十勝岳、大雪山系、帯広近郊など全道に及んでおり、この間のスキーの普及が伺える。
これら案内書に明らかなように、戦前期におけるスキーとは、山岳地帯の尾根筋を縦走する山スキーであり、縦走路途上の自然のスロープで滑降を楽しむスタイルであった。都市近郊やスキー適地の下車駅近くに滑降場も開かれてはいたが、それは『スキー北海道』には「練習場」と紹介され、ここからも山スキーが基本と知れる。その拠点ともされた山中の温泉地などへ冬期に道路は通じず、そこへも鉄道駅からスキーを履いて到達するのである。1930年代に、鉄道省が大々的に着地キャンペーンを展開した、先進地ニセイコアン地域にしても事情は変わらず、狩太(現ニセコ)から昆布温泉までに馬橇の定期運行が行われていた程度であった。

そのような山岳地の斜面や山麓がスキー場として整備され、スキーのスタイルがゲレンデでの滑降中心に移行するのは戦後ことである。北海道での国鉄の直接関与には、1961年からのニセコひらふスキー場(同年にニセコ比羅夫スキー場から改称)への接続輸送がある。
このニセイコアン・ヌプリの東斜面は、1920年代の前半にはその山頂から途中山田温泉を経て比羅夫駅に至る幹線滑降コースが開かれて、その広大なスロープでは長距離の滑走を楽しめた。ここのスキー場としての整備は、1961年12月17日より運輸営業を開始した特殊索道(スキーリフト)の設置に始まる。戦後に進駐軍がその専用施設として札幌藻岩山に持込んだこの設備は、この頃までに群馬県草津や新潟県野沢を始め道内でも荒井山や天狗山に設置が進んで、スキー滑降場には必須とされつつあり、このニセコ比羅夫スキー場では、第40回全日本スキー選手権大会の1962年3月の開催決定に際して、急遽計画の具体化したのである。設置された2基の索道の延長570メートルと500メートルは当時に国内最長であった。
これを運営したニセコ高原観光には、他にチセヌプリと昆布温泉からモイワ山斜面にも設置計画があり、国鉄山の家へのコースにあたるこれが、索道の設置されても山麓までの交通のなかった比羅夫側に国鉄を関与させる誘因であったように思える。
札幌鉄道管理局は、索道の営業開始に合わせて札幌からの臨時準急に、比羅夫からの自動車運行を開始する。国鉄によるスキー客輸送に特化したバス運行は北海道に於ける唯一の事例である。
(この項続く)

写真は、岩見沢から倶知安に終着した134列車。小樽行き1553Dの着発を待っての入換となる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


広内信号場 (根室本線) 1976

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優等列車と云えば特急ばかりとなった昨今には、それが「特別急行列車」の省略形であることを知らぬ世代も存在しよう。けれど、遅くとも国鉄が長距離輸送力や都市間輸送の主体をそれに転換する1968年10月改正までは、特急列車とは正にLimted Expressであった。
設定の準急列車に始まる列車までもが特急列車に格上げされている現況には想像も付かぬかも知れないが、運行途上の2点間を他のどの列車よりも速達し、必要最小限の駅にしか停まらないのが特急列車だったのである。勿論、それは機関車牽引の時代に在っては表定速度向上の要件に違いないが、何より列車の「格」を体現するものだった。
特急列車が全国に6往復しか無く、全てが客車運行であった1957年度の資料ではあるが、平均停車駅間距離は急行列車の大半が該当した45から55キロに対して、特急のそれは65キロであった。このデータは、戦前からの歴史的な事情も含めて、蒸機牽引による給水の必要上や機関車交換を要して選定の停車駅も含まれるのだが、電車や気動車の時代となれば、それはより延伸されることになった。1958年に東海道線へ登場の<こだま>は横浜・熱海・名古屋・京都の僅か4駅停車であったし、東北/常磐線の<はつかり>は気動車化後の1962年に一ノ関停車を、1968年の電車化後には尻内(現八戸)停車を廃して、これも宇都宮・福島・仙台・盛岡の4駅にしか停まらなくなっていた。線区の延長距離から特急運転を要しないとされていた中央東線に1966年に設定の<あずさ>でさえ、新宿-松本間に甲府・上諏訪だけの停車であった。
その反面、停車する以上30秒停車などはあり得ず、それは最低でも1分、拠点の大駅には5分停車が標準であった。これはその駅の「格」に対する礼儀と云えよう。

1960年度末時点で全国に48駅を数えた特急停車駅(始発終着駅を含む)には、特急列車網の整備の行われた1961年10月改正にて、それの新たな運転線区を中心に53駅を加えた。それらは基本的に駅勢圏人口や長距離旅客の利用動向などのデータにて選定されたのであるが、国鉄の内規には運転区間や線区にて差異のあるため全国で統一の基準は設けられず、県庁所在地クラスの駅は当然としても、それ以外の地方都市駅や観光地駅など地元利益の交錯した場合には決定までに紆余曲折の存在が伝えられ、これにわざわざ項目を割いた自治体の誌(史)書も見られる程である。
沿線に地元の要請が強く、同程度の駅勢との判定が複数存在した場合の国鉄側の対応は上下列車に割り振っての停車であった。山陰線<まつかぜ>での豊岡と城崎、北陸線<白鳥>でのそれぞれに温泉地を控えた大聖寺に動橋などである。鉄道側とすれば列車使命からは停車を要しないと推定されるものも含まれ、沿線自治体への配慮の範疇であったろう。
同改正にて設定の道内特急<おおぞら>の、東室蘭・苫小牧・札幌・岩見沢・滝川は、1960年当時に市制施行の都市を選定したもので順当と云える。5万余りの人口を擁した千歳の外されたのは、人口の大半が自衛隊関係者であることに加え、苫小牧との距離の勘案されたものだろう。深川は4万を越えながらも町制当時であり、千歳市とのバランスの結果にも見える。
そして、周遊型観光地であった北海道へ初設定の特急列車には、洞爺湖への接続駅である虻田(現洞爺)と登別温泉の玄関駅登別の二駅も選定され、これらには5月1日から10月31日までの期間に限っての停車とされた。特急列車における季節停車の最初の事例である。観光客需要の季節波動の大きい北海道ならではの措置でもあるが、道央対本州連絡の列車使命からは不要とも思われるその輸送の考慮されたのは、時期尚早とも云われた道内の特急運転への国鉄北海道支社の自信の無さの現れとも取れて興味深い。なお、これは1964年10月改正を以て通年停車に改められた。

写真は、狩勝新線を上る6D<おおぞら2号>。列車後方に広内場内が見える。
これと下り5Dは、1964年10月改正における<摩周>の格上げによる設定であり、1970年10月改正までは<おおとり>を名乗っていた。出自の急行列車ゆえか<おおぞら>系統では最も停車駅の多かったけれど、それでも函館-釧路間で11駅であった。(ちなみに1・2D/3・4Dは9駅)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※お断り
不在ゆえ、本日より3月10日の記事(内地版を含む)までは予約投稿となります。


北舟岡 (室蘭本線) 1997

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現在の伊達市、先住民族によりモンペツとされた地域の開墾が、奥州伊達藩の支藩であった亘理藩の藩を挙げての移住によることは良く知られた通りである。
幕末に伊達藩支配地であった新冠や沙流を希望しながら、賊軍ゆえに与えられた噴煙の火山の麓は結果的に道内でも温暖な地域であった。1869年に藩主伊達邦成自ら事前の検分に訪れた10月下旬(当時には旧暦)は降雪の季節であったが、膝も埋もれる積雪から突き出した枯れ草に肥沃な土地と確信したと云う。
集団移住は、1870年3月から1981年4月までの9次に分けて行われ、総勢2700人余りと伝えられる。これには家臣は勿論のことその郎党一族が含まれ、単身移住を認めなかったことが、このプロジェクトを成功に導いたとされている。
1871年には開拓使からの支配罷免の命により、そこでの亘理藩再興はならなかったけれど、邦成は住民取締役に命ぜられ引き続き開墾の指導にあたった。
現在の伊達市旧市街地が北海道の都市に通例の街区制を採っていないのは、藩再興に移住当初の支配所への築城を予定し、市街地も築城法に従ったためである。即ち城下町の街路が形成され、支配所の置かれた現在の梅本町付近を中心に支配所前を本町、裏を北小路、紋鼇川沿いを南小路・西小路としていた。如何にも武家らしい市街地形成と云える。
1871年の800余人の規模となった第三次移住により開墾地は周辺に大きく広がるが、そこでも基線を引いての区画割りとはされなかった。1880年・81年の移住最後の入植地である稀府や関内地区がそれに近い街路網となったのは、その頃に至ってようやく開拓使の指導が行き渡ったためであろう。
これら開墾地にも、これも武家らしい優雅な町名が付された。曰く、旭ヶ岡、網代町、青柳町、菖蒲小路、泉小路、乾小路、岩ヶ根町、梅本町、清住町、桔梗小路、桜小路、末永町、巽小路、竹原町、西小路、浜町、萩原町、松ヶ枝町、南小路、弄月町などである。1871年に移住の歌人佐藤脩亮による発案とされる。
但し、弄月町の海側、舟岡町の事情は異なる。ここは、亘理伊達藩と同じ境遇に在った仙台藩士柴田家一族が亘理藩の集団移住に同道して入植した地であり、その旧領地船岡にちなんで命名されたものである。このシャミチセ川沿いの旧市街地も城下町風の街路構成となっている。

ここの海岸線を通過する室蘭本線上へ、1963年9月30日に設けられた信号場への北舟岡の付名は、東北本線船岡との区別を要してのことである。
白波の立つ噴火湾の強風下を通過して往くのは、5列車<北斗星5号>。画角の既出はご容赦願いたい。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f2.8+1/2 Fuji SC42 filter PKR Edit by PhotoshopCC on Mac.

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