"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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厚岸 (根室本線) 1972

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同一地点での撮影を繰返すのは昔からのことらしく、この1972年の夏も前年の行程をなぞるような旅をしている。以降、根室本線の釧路以東区間となれば幾度となくここへ降りたけれど、1984年2月改正で貨物列車が消え、1985年3月改正にて441・442列車の機関車列車が無くなり、1986年11月改正を以て優等列車のキハ56/27が単行運転の快速列車に置替えられれば撮る気の失せてしまい、この区間へは足の向かなくなって久しい。
以来四半世紀の厚岸の変遷をWebに拾って往くと、ここにも及んだ地域中心都市への人口移動から、旧市街地後背の段丘上の原野に住宅地が切り開かれて市街地の外縁拡大を知る。となれば釧路との間の鉄道利用者の増えそうなものだが、ここに限らず自動車交通を前提とした住民の生活様式は都市構造に面的広がりを与えて、停車場間を線状に連絡する鉄道には既に出番はないのである。
列車単位の縮小と運転回数の減少に、厚岸停車場の設備も随分と小さくなったのが見て取れる。ここでも遊休用地が他に転用されるではないから、かつての構内は空間のひろがるばかりである。ここでの列車行き違いの減って、1998年度末に上り本線外側に乗降場を増設し、これを本屋と平面連絡としたのは良いのだが、その仮乗降場然とした様相は些か悲しい。かつてそこには上り1番線(浜厚岸本線)が通り、貨物積卸場も存在した関係で本屋は乗降場レヴェルに在るのだから、本屋側を土工し本線を移設できなかったものかと残念に思う。
駅前広場も整備された様子が伺えるけれど、商店の撤去されてここでも空間が目立つ。氏家待合所が空き地の片隅でブレハブのような建物で営業するのは、そこが最早事業の拠点ではないからだろう。

糸魚沢方の丘で撮り終えてヒッチハイクに成功、トラックの荷台に駅まで乗せてもらえば、先ほど撮った470列車が停車している。ここでは1時間半ほど停まるダイヤであった。切り離された機関車は構内掛をデッキに乗せて構内側線の貨車数両を拾うと浜厚岸へと推進して往く。しばらくして積車を引き出して来れば、それを470の前位に連結して発車を待つのである。浜厚岸と云う貨物駅の存在は、前年の訪問で承知していた。運転扱い上は厚岸の構内とされて、この間は入換え運転になる。
写真は、厚岸湾を背景に出発して往く470列車。デフレクタのJNRマーキングならC5833とは周知のとおり。
昨夏に霧に沈んだ厚岸への再訪は晴天に恵まれた。

あまり記録されていないので付記すれば、厚岸の駅本屋は1965年にRCコンクリート建築に建替えられたが、1972年に火災に遭っている。現行本屋は焼け残った構造を活かして外壁・内装を復旧したものである。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.
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倶知安 (函館本線) 1984

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ニセコ (函館本線) 1983 から続く

鉄道省が1920年代後半に制作した「スキーは北海道へ」のポスターがイメイジ戦略に留まらなかったのは、1931年12月20日からジャパントゥリストビューローを通じて発売したスキー・スケートの季節遊覧券に、上信越や奥羽方面と共に十勝岳、洞爺湖、小澤、倶知安、比羅夫、昆布が回遊地に加えらたことにも明らかであった。これは1933年夏季(5月1日から10月末日に発売)より設定の全道を対象とした北海道遊覧券(発売名称-北海道巡り乗車券)に先駆けてのことであり、1935年のシーズンからは、それの冬期版である「冬季北海道巡り乗車券」も発売した(*1)。この時期、内地から北海道へとスキーに向かう旅行者は少なからず存在していたのである。
その着地営業に、鉄道省札幌鉄道局は1930年12月10日に奥手稲山の南方、ユートピヤと呼ばれた984メートル峰の中腹に「奥手稲山の家」を開設する(*2)。木造高床式3階建て、総面積150平方メートル、 収容人数の定員48名(最大80人)は当時に破格の大きさであり、その設備も本格的な山岳ヒュッテであった。銭函駅を起点に天狗山から奥手稲山へと続くスキー縦走経路終点に位置し、その前庭にはスロープも広がっていた。当初に電燈はなかったけれど銭函から鉄道電話の電信線も引かれていた。
1974年に国有財産として北海道大学に移管され、大規模補修を受けながら現在も同大ワンダーフォーゲル部の管理下に健在である。

鉄道省は、1935年のシーズンに現在のディスティネイションキャンペーンとも云えるニセイコアン地域のプロモウションを大規模に展開、前記の「冬季北海道巡り乗車券」はそれに際して設定したものである。
そして、1937年12月11日には、2軒の旅館が営業していたニセイコアン・ヌプリの中腹五色温泉へ「ニセコ山の家」を開設する。ここも冬期に道路の通じない位置ではあったが、奥手稲での山小屋的性格から温泉地を選んでの保養地的性格の加味は、この間のスキーのより大衆化を示すものであり、内地方面からの長期休暇でのスキー旅行も意識した結果であろう。温泉は通年での営業も可能にした。特別室に洋式の食堂も併設した定員44名の、これも最新設備の山岳ヒュッテであった。
当時にスキーにて到達するスキーの拠点であったのだが、戦後には山岳スキーの衰退、山麓へのゲレンデ整備とともにそれが嫌われ、無雪期はまだしも冬期の利用は低迷することになる。これに対して国鉄北海道総局は、1937年以来の地域観光への貢献を梃子に北海道に対して道々314号線の冬期除雪を要求し、それに併せて全面的な改築を行うこととした。鉄筋コンクリート三階建て、洒落たロビーに食堂、ラウンジ、テラスを持ち、洋室に和室も持つ宿泊棟の収容定員を128名とした、セントラルヒーティングの新施設は1974年9月に完成している。外部に委託とした運営を続け、1987年には北海道旅客鉄道に引き継がれたが、施設老朽化と利用減を理由に2002年に営業を廃止した。
その後、売却を受けた民間企業が日帰り入浴施設として営業するけれど、冬期休業はその沿革に逆行する不幸であろうか。
(この項続く)
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(*1) 遊覧券とは、1925年9月25日に制度化され同年10月25日から発売されたクーポン式旅行券であり、戦後制度での一般周遊乗車券の嚆矢である。北海道遊覧券は自由乗降の均一周遊乗車券にあたる。宿泊券や会社線の乗車船券を含み、販売窓口はジャパントゥリストビューローに限られた。
(*2) この開設を記録する鉄道省年報には「奥手稲スキーの家」とある。小屋開きは1931年1月17日に行われ、これを以て1931年開設とする資料もある。また年報は営業期間の12月1日より4月30日と書く。無雪期の営業はなかったのだろうか。

暴風雪を衝いて倶知安を出て往く137列車、小樽行き。それでも定時運行である。
朝の<北海>でここに降りたものの、この日は一日中吹雪いて写真にならなかったのを思い出す。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f5.6 Protection filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

音別 (根室本線) 1976

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この1970年代の終わり頃、音別から古瀬方向の海岸区間を線路が馬主来湿原へと回頭するところまで幾度か歩いていた。その当時には尺別方の原野よりも、太平洋に面した景観に惹かれていたものと思う。背後の海岸段丘は何処にでも上れたし、そこからの光景は、それまでに見たどの海よりも広かったのである。そして何よりも、その広い視界に人影を見ることは稀であった。

この海岸線には線路と並行した土道が開かれていたから、砂地を延々と歩かされた落石の外浜より随分と歩き易かった。段丘からの小さな流れに木橋の架けられていたこの道が、1960年代半ばまでの国道38号線と知って些か驚いたものだった。
砂浜の海岸線とは先住民の交易に行き来した古代の交通路である。やがては人馬の踏み分け道となり、1700年代にここへ漁場を開いた和人もまた釧路とを往来し、1800年に尺別に宿泊した伊能忠敬が、1858年に松浦武四郎の歩いたのも、この海辺の道に違いない。開拓使の時代に馬車道に拡幅され、以降には架橋や路肩の整備はなされても大きな改良の無いままに半世紀以上を経て、戦後の1952年に北海道に7本の一級国道のひとつに指定されたのであろう。この先は、白糠手前に存在する断崖を避けて内陸に迂回して馬主来峠を越えていた。国土骨格とされた一級国道とは云え、当時にはそのようなものだったのである。
一時的には賑わいもしただろうが、とても増大する物流に耐えられるものでは無く、国道38号線の第一次改良は1960年代に始まり、音別から白糠への区間は段丘上をほぼ直進する新道が建設された。そして、この海辺の道は音別町に引き継がれ町道風連別馬主来線として残されたものの、交通路として顧みられずに古の静寂に還ったのだった。そこには轍は残されていたけれど、幾度か歩いても自動車に出会ったことは無い。

北緯43度に近いこの海岸で、冬の太陽高度は南中時刻でも30度に届かない。それは一日を通じて低く海上を移動し、15時を過ぎれば夕刻の様相を見せる。
写真は、透明な大気の斜光線に反射する 1D<おおぞら1号>。函館を未明に出て、ここまで10時間を走り続けている。
この反射光を除けば、これは海辺の道を歩いた古の旅人の視界と寸分も違わぬ光景であろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Nonfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

大沼 (函館本線) 2002

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前に 大沼 (函館本線) 1989 に書いた宇喜田秀夫の宇喜田農場では、『七飯町史』によれば多くの小作人を抱えて、主には馬鈴薯・燕麦・大豆・小豆などを生産していたらしい。そして、農閑期の冬に手がけた事業に採氷がある。

『函館市史』は、函館(箱館)での採氷はそこが開港場となり外国人が居留するようになった1855年には行われていたと書く。彼らの飲料や食肉の保存に必需であったためである。亀田川や願乗寺川が利用されたらしい。
この事情は同じ開港場の遠く横浜でも同様であり、寄港の多かった外国航路船での需要も加わって、ここでは米国ボストン近郊で切り出された氷(ボストン氷)が遥々輸入され、その極めて高価な取引は外国人に独占されていたと云う。それには当の居留外国人にも不満や反感のあり、この市場へ参入を図ったのが愛知県人の中川嘉兵衛であった。
英国の横浜駐在兵団の食料調達を請け負っていた彼は、1864年までに横浜に氷室を建設し、富士五湖方面を手始めに山梨県の鰍沢や秩父、赤城山、日光から奥羽地方北部にて採氷したものの、品質でボストン氷に敵わず、1870年に函館願乗寺川にてようやくにそれに対抗する氷を得られたのだった。
1871年には五稜郭でも採氷し、その函館産の氷は670トンが横浜方面に移出され、翌年には1061トンと記録されている。この「函館氷」は品質と価格にてボストン氷をまたたくまに放逐し、1873年にその輸入は絶えたとされる。
中川は、その1873年に開拓使に対して、道内からの氷移出に関しての専売願いを提出し、同年2月13日付にて専売税450円の上納と引換えに5年間の専売許可を得ている。

厳冬期に厚さ30cm程に氷結する大沼・小沼での採氷は、おそらく札幌本道が森まで開削され、馬車による函館への輸送が可能となった1872年の冬には始められたものと推定される。これが五稜郭に進出した中川の手に依るものかは分からないが、何れにせよ函館に氷室と内地への販路を持つ彼の元に納められたであろう。
その専売許可の切れた1880年代に至れば、京浜地区では生活様式の変化とともに市中での氷消費も伸びて往き、『函館市史』には東京・横浜ばかりでなく名古屋・京都・大阪・神戸・下関などへの出荷が記録され、1881年の函館からの移出量は3000トンを越え、1886年に3800トン余りとある。

宇喜田農場がそれに参入したのは、勿論農場創設の1897年以降であるが、その頃までには漁港や農園、あるいは医療関係、宿泊・飲食関係など保冷を要するあらゆる業種にも広く氷室や氷蔵施設が設備されて多くの需要が生じており、開通したばかりの函樽鉄道線が全道各地への移出を可能としていた。
その事業が自ら販路を持ったものか、或は切出しに出荷の請負であったかは分からないが、大沼駅構内には氷積込みを待つ無蓋貨車が列を成したと伝えられている。
ここでの積出は1970年まで続けられたと云うから、幼少時の微かな記憶だけれど、1950年代の末に小樽の家の台所に在った氷蔵庫に用いられたのは大沼の氷だったのかも知れない。

小沼畔を峠下トンネルへと向かうのは、4092列車。
ついさっきまでの荒天は急速に回復し、雲間から低く強烈な西日が差し込む。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhptpshopCC on Mac.

ニセコ (函館本線) 1983

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倶知安 (函館本線) 1977 から続く

北海道は積雪地であったから、スキーの普及の各段階全てに先行して、後にも鉄道省が積極的に関与した形跡は見られない。鉄道省には当初より送客の着地側と認識されていたものだろう。それは初期には、札幌・小樽近郊に始まり、富良野からの十勝岳、そしてニセイコアン地域であり、これらは札幌や小樽のスキー愛好者らによって開拓されたフィールドであった。

北海道においてもスキーの普及初期には札幌や小樽の学生達が行動した。東北帝国大学札幌農科大学(後の北海道大学)文武会スキー部は1912年の9月21日に、小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)交友会スキー部も同年10月に創部されている。在京の各校に数年を先行し、北海道庁立の各学校(後の道立高校など)や私設校もこれに続いたのは、やはり東京と異なり滑降地の身近な積雪地ゆえだろう。
スキー先駆者であった軍人や教員、官公庁での愛好家に学生、一般市民を加えた「スキー倶楽部」の発足も同年のことで、小樽が10月28日、札幌で12月23日と記録されている。両スキー倶楽部は、幾度も開催した講習会等を通じてその普及に努め、札幌の三角山に開かれていた馬場農場や、小樽市内なら花園公園(現小樽公園)の斜面が会場や練習に使われたようである。後にくり山(現在の月寒小学校裏手斜面)や荒井山のスロープが加わり、小樽では緑町一帯の斜面が滑降場に整備されていった。スキーの実践にも藻岩山、手稲山に天狗山、毛無山と事欠くことなかった。
学生達の動きは、農科大学スキー部による翌1913年12月を初回に恒例化する真狩山(後方羊蹄山)へのスキー登山やニセイコアン連峰踏破、1919年からニセイコアンベツ青山温泉で始まる農科大改め札幌帝国大学の、1922年からの同宮川温泉での小樽高等商業の、それぞれの定例合宿などにて倶知安を中心とした地域に及んだ。

1910年代のニセイコアンベツやマッカリベツ原野は、中心市街地の倶知安ですら電燈の灯らぬ開拓地であり、それにともない発見された幾つかの温泉に、1904年に小樽と繋がった鉄道にて訪れる人の現れていた程度であった。学生達がこの地を選んだのは、日本にスキー技術を伝導したオーストリア=ハンガリー帝国軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒによる1912年4月の真狩山へのデモンストレイション登山に倣ってのことである。彼が日本におけるスキー講習の仕上げを蝦夷富士とも呼ばれたこの山としたのは、前年に富士山登頂に失敗していたゆえと伝えられるが、ならばその存在がニセコ地域の命運を定めたとしても良いかも知れない。
ここでも、レルヒが登山練習を兼ねて行った倶知安市街地隣接の大黒山(現旭が丘スキー場の一部)での滑降を切っ掛けに、見よう見まねの手製スキーに始まり、スキー製造業者も現れるなど住民に普及しつつ在ったのだが、札幌に小樽の学生団体が牽引してのスキー愛好者らは周辺の山々に滑降コースを開拓し、この地域のスキー適地、また保養地として発展の基礎を形成したのであった。
1920年代を通じてのスキー普及とともに都市部からの入込み客は増加したものと思われ、1929年には札幌からの初のスキー臨時列車が倶知安へ運行されている。これの往路は、内地のそれに従い札幌を夜間に出発する設定だったが、その運行距離から倶知安に旅客乗車のまま朝まで滞泊した。
冒頭に記した鉄道省による「スキーは北海道へ」との勧誘は、この頃のことである。(この項 倶知安 (函館本線) 1984 に続く)

第5尻別川から第4尻別川橋梁へと進む列車は荷43列車。
真狩山を望むこの位置へは、細道が雪に閉ざされてしまう前の、その降り始めに立っていた。山の全容を見たのは数える程も無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1977

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倶知安 (函館本線) 1979 から続く

鉄道省が1924年11月15日に発行した「スキーとスケート」は、樺太を含む全国のスキー適地の紹介を主とした案内書ではあったが、そればかりでなくスキー発達史やスキー用具に技術、雪質の研究記事までも加えた総合ガイドブックであり、その意気込みを感じさせる書籍である。鉄道省はこの年、スキー紹介の短編映画「雪国の旅」も制作(*1)、全国にてこの上映を含むスキー講演会を開催し、また実際のスキー用具やポスター、写真などの展示も行い誘客に努めたのだった。
1919年9月1日の制度改正で制限の緩められていた旅客の付随小荷物にスキー用具を加えて、これの車内持込みに無賃託送を認めたのは勿論、その最初の事例は調べ得なかったのだが、乗客へ割引運賃を適用した募集団体列車や臨時列車を運転し、一般のスキー・スケートへの旅客に対する3等運賃の割引も1925年12月1日より制度化している。募集団体のスキー道具を持たない旅客に対しては現地で貸出し業務も行い、また週末ごとのリピータには、用具を現地駅にて保管するサーヴィスまでも「スキー特別一時預かり」と称して1932年11月25日より始めている。
スキー実践地にて、鉄道管理局や駅が主催したスキー講習会(教室)まで開いていたことも珍しくは無かった。

そして、鉄道省はまだ十分とは云えないスキー適地での宿泊や供食、休憩施設の設置・運営にも進出する。後に「国鉄山の家」として知られるヒュッテである。この当時としては本格的な山岳ヒュッテは、1930年に札幌奥手稲への開設をその最初の例に、1937年までに北海道ニセコ五色温泉、福島県吾妻、長野県志賀高原熊の湯、新潟県上の原、鳥取県伯耆大山へと開業している(*2)。また1932年からは、上越地区に限られたけれど沿線自治体が鉄道省の監督の下に営業する形態も出現し、土合、中里、岩原第一、同第二、布場、土樽、湯沢の7箇所が営業した。言わば、山の家のフランチャイズチェインであった。
今はあまり見られなくなってしまったが、1930年前後よりスキー旅客出発地側各駅の駅頭での各地スキー適地の積雪量の掲出も始められた。これは戦後には新聞社にも提供されて、「スキー場たより」などの名称で掲載されるようになる。そこに「国鉄調べ」と記されていたのをご記憶の方もおられよう。

さらには、下車駅から交通アクセスの不便或はそれの無ければ、省営バス路線の開設までも行っていたのである。1933年に諏訪線/和田峠線を開業して下諏訪に拠点を持っていたのを活かし、同年のシーズンより上諏訪からゲーロッ原手前の清水橋までに季節運行したのが嚆矢であり、以降、菅平に草津方面や青森からの酸ケ湯などに拡大された。戦後には北海道にも事例がある。後の観光地としての発展に鉄道省/国鉄を抜きには考えられない地域も多い。
(この項 ニセコ (函館本線) 1983 に続く)
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(*1) 鉄道省自らが、本省および各鉄道局に活動写真機を導入して撮影を開始するのは1925年度のことであったから、これは外注によるものと思われる。導入後の取材対象には、当然に各積雪地域でのスキー・スケートの現況が含まれ、これにて多くの誘客映画が製作された。
(*2) 鉄道省/日本国有鉄道が建設・運営した全ての「山の家」を明らかには出来なかった。1960年1月現在では、以下が営業していた。
国鉄奥手稲山の家、ニセコ国鉄山の家、国鉄もみ山山荘(八幡平に所在)、国鉄吾妻山山の家、国鉄上の原山の家、国鉄土樽山の家、国鉄志賀高原山の家、国鉄藪原山の家、乗鞍山荘、国鉄道後山山の家、国鉄三瓶山山の家、国鉄大山山の家、以上12箇所である。おそらく、これが全てとは思われる。

写真は、暮色濃い倶知安を発車して往く荷42列車。終着函館は、まだ遠い。
この頃のホームには駅蕎麦スタンドに弘済会の売店も開いていた。その手前にスキースタンドが少しだけ見える。スキー客の利用の多い駅には必須の設備だった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/16sec.@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1979

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1920年代末の冬の季節、帝都東京の省線各駅に「スキーは北海道へ」とのポスターが掲出されていた。鉄道省は、この1920年代を通じてスキーへの誘客を冬期増収施策とし、それは上信越や奥羽方面、関西からならば北陸・山陰方面を加えた各地域への送客を主体としていたが、ここに遠く北海道が登場したのである。
当時、スキーの余暇旅行に北海道へ向かい得た層は確かに限られたけれど、銀嶺の世界に大衆を誘い出すに北海道の持つ北国のイメイジは十分に戦略的であった。しかも、鉄道が戦前の黄金時代を迎えつつ在ったこの時期の鉄道省のポスターは実にモダンで洒落ていた。
とは云え、倶知安を中心とした今に云うニセコ地域を筆頭に、北海道にスキー客受け入れ準備の整いつつあったのも確かであった。

国内におけるスキーの事始めはともあれ、それの普及と大衆化に鉄道省は大きな役目を果たした。この舶来のスポーツの冬期増収策としての活用には、その切っ掛けに些か面白いエピソードが伝わる。
1917年か18年の冬のことである。鉄道省の運輸局旅客課に勤務する職員のひとりが、公務か私用であったかは明らかでないが信越方面への旅行の際、新潟県高田ではじめてスキーに接する。軍隊が教練し、郵便配達人が雪上の移動手段として用い、子供らが遊びに興じる姿を物珍しく眺めるが、一番の驚愕はそれを目的とした東京からの学生達の存在だったと云う。
とすれば、この職員は承知していなかったことになるが、1912年に鐵道院の外郭団体として設立のジャパントゥリストビューローは、早い時期から外国人観光客誘致や在日外国人の冬期旅行にスキー・スケートを提案し、併せてこれの国内への普及運動にも熱心であり(*1)、1910年代後半には在京の学生を中心に信越あるいは奥羽方面に向かう一群が少数ながら現れていたのである。東京帝国大学、女子高等師範学校、早稲田大学、慶応大学などのスキー部は皆この時期に創部されている。
この、まだか細い冬期独特の旅客流動を新たな増収対象と捉えた旅客課の提案は上層部の承諾を得て、スキーへの誘客は鉄道省の方針となるに至ったのである。鉄道省は戦前の鉄道黄金時代に踏み出したこの時期、従来からの観梅、観楓、観瀑、観月など花鳥風月や神社仏閣を対象とした誘客に加えての資源を求めており、それにも合致したとも云える。ただし、鑑賞物では無く旅客自らの参加を求められるスキーにはそれの普及と人口拡大が不可欠であり、必然的にプロモウションはそれまでのポスター掲示などの誘客宣伝に割引運賃設定などの営業施策だけに留まらず、スキー大衆化のありとあらゆる施策を鉄道省自らが展開したとして過言ではない。それが、この時代にほぼ陸上交通を独占していた鉄道の運輸収入に直結したゆえである。
鉄道省とスキーとの関連に送客着地としての北海道での施策の概略を、以下数回に分けて記述する。(この項 倶知安 (函館本線) 1977 に続く)
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(*1) 一例を挙げれば、1918年1月に在京大学の学生約500名を集めての先覚者による講演と映画上映の「スキー講演会」、および一般大衆を対象に、スキー用具の展示に実地講習、ポスター・写真展示の「スキー博覧会」を主催している。これは帝都におけるスキーコンヴェンションの先駆けであった。博覧会は4日間の会期に2800名の入場と記録される。また、月刊で発行の協会広報誌『Tourist』には、毎号にスキー関連記事を掲載していた。

真狩山(シリベシ山)を背景に峠へと向かうのは、荷41列車。
冬の北4線踏切には、道路の閉ざされてしまうゆえ線路歩きしか到達手段はなかった。随分としばらく、ここに立っては居ないけれど、今も同じだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

洞爺 (室蘭本線) 2001

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室蘭本線下り線クリヤトンネル出口上部に所在の老人福祉施設庭園から見下ろす位置で、2002年から続けられて来た漁港の築港工事がようやく2014年度で完工する。外郭にあたる東側護岸延長の365メートル、南側防波堤延長の355メートルに構築位置水深の最大13メートルの規模はそれほど大きいとも云い難いけれど、随分と永い工期を要するものである。北西風の季節には波浪に工事の出来ないせいだろうか。
これは、北海道水産林務部が水産基盤整備事業として洞爺湖町(旧虻田町)大磯地区に第一種漁港を設置する事業であり、入江地区に既存の虻田漁港に対して、虻田漁港-大磯分区と呼ばれる。以後に虻田漁港-本港とされる既存港の、漁船の大型化による岸壁不足に作業区画の狭隘を事由としており、それの拡張としなかったのは用地事情の他、その入江地区が周期的に活動を繰返す有珠山に近接して、噴火発生時に住民の海上への退避経路も担うべく虻田地域の西端を選んだものと云う。漁港拡張を計画していた2000年3月に実際に噴火を生じたことも影響していよう。
港は北西に開口して、2009年度までに南と西の防波堤と東の護岸の外郭工事の、2012年度までに岸壁に物揚場、船揚場の大半を完成して、一部を使用開始しながら付帯の建造物や道路工事を2014年度に終えることになる。

北海道はこの地元漁船のみが利用する第一種漁港の整備に熱心である。多くの入江海岸を有する府県では、そのひとつひとつの湾奥に所在するそれの集約に腐心する現状なのだが、地形から海岸に築港を要する地点の多い道内では、寧ろ設置の遅れたと云うことなのだろう。噴火湾沿岸だけを見ても、鷲ノ木、蛯谷、石倉、栄浜、東野、山越、山崎、黒岩、国縫、大中、長万部、大岸、大磯、黄金の各港が近年のことである。貧弱な防波堤の設置されたのみだった静狩に礼文への岸壁整備も加えて良いだろう。
裏を返せば、70年代初頭に至っても森、落部、八雲、豊浦、虻田、有珠、伊達の程度しか漁港の存在しなかったことになり、水揚げにこれらまで往復し、地元では浜に揚船せねばならなかった沿岸漁民には必要とされる施設だったのである。勿論、貧弱であった既存港の設備も拡張・増強されている。

それの築造された大磯地区の海岸は、虻田市街地の外れの普段にはひっそりとした浜で、多くの水鳥が羽根を休めていたものだった。ここでは気に入ったカットの撮れずに幾度か通っていた最中に、車窓から大型クレーンの設置を見て何らかの工事着工を意識したものの、それの10年余りの工期とは思わなかった。
前にも何度か書いた浜番屋に漁師小屋も含めて漁港風景にも惹かれるものがある。ようやくに今度はそれの俯瞰が叶うのだが、あの老人福祉施設庭園の展望台は健在なのだろうか。

写真は、築港工事着手直前の大磯の浜を上り線黒岩トンネルに向かう、宮城野行き2050列車。
10月の半ばなのだけれど、恐ろしく風の冷たい日と記憶している。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f2.8+2/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

標茶 (釧網本線) 1982

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標茶町字多和の京都大学北海道研究林官舎に隣接した線路端に一つの木柱碑が建てられていた。標茶停車場の磯分内方、東釧路起点47キロ付近の線路用地である。
それには「国鉄機関士山下利夫殉職之地」とあり、1945年7月15日午前7時頃、この地点で米軍機により攻撃を受けた上り列車に乗務し、殉職した北見機関区斜里支区所属 山下利夫機関士(当時に26歳)の霊を慰めるものであった。(*1)

太平洋戦争末期の7月14日と15日には道内各地への空襲が集中的に行われた。三陸沖を南下しつつあった米国海軍第38任務部隊として作戦行動中の第一機動艦隊第一航空戦隊の5隻の空母から飛び立った艦載機による攻撃であった。その本来の攻撃目標は北海道内全ての飛行場にあったのだが、両日とも悪天候にて大半が視認の出来ぬため、臨機に市街地や工場、港湾、鉄道、電波施設、灯台など攻撃機から眼についた施設が目標とされた。民間輸送船である青函連絡船が壊滅的に被災したのも、この両日のことである。
標茶町市街地を襲ったのは、空母レキシントンを北緯40度50分/東経144度58分の位置から午前3時30分に発艦した第94飛行隊戦闘爆撃機分隊の16機であった。12機が250ポンド爆弾1発と5インチロケット弾4発を積んだ攻撃機であり、3機の護衛機と1機の写真撮影機を随伴していた。美幌飛行場の破壊を第一の任務としていたのだが、厚岸湾上空から内陸に進入したところ、屈斜路湖付近にて対空砲火に備えた回避行動を取る内に厚い雲に地上を見失ったため、南転して第二攻撃目標であった標茶北方の工場を爆撃した後に市街地に向かい、道路、橋、駅、列車、倉庫、無線施設などに無差別にロケット弾および機銃掃射を行ったものであった。市街地に軍事施設のないことは米軍も承知していたと思われ、明らかに駄賃的な民間人攻撃である。偵察に軍需工場と目されて爆撃目標となった工場も、実際には製粉工場(*2)であった。
この日の第94飛行隊の報告書によれば、山下機関士の乗務した(と思われる)機関車にはロケット弾2発が命中、爆発して全壊と在るが、実際には列車至近への着弾にて機関車が脱線転覆したところへの機銃掃射によりボイラから高温蒸気が吹き出し、それをマーカーにされてもう1発が命中した模様である(*3)。山下機関士は全身に熱傷を負い乍らも自力で這い出し、多和の陸軍医務所に搬送されるも同日深夜に亡くなった。

標茶町が空襲を受けたのは後にも先にもこの一度きりであり、山下機関士は出征軍人を別にすればここで唯一の公務中民間人の戦争犠牲者であった。それゆえ、なおさらに関係者や人々の記憶に残り、アジア太平洋戦争終結翌年と云う早い時期に慰霊の墓標の建てられたものであろう。以来毎年の旧盆には、標茶機関区員など国鉄関係者が親族を招待し供養が行われたと云う。
標茶町の資料には、この木柱碑の建立を1974年7月15日としているが、おそらくはこの29年目の供養に建替えられたものと思われる。歳月を経て標茶の運転区所も無くなり、残念乍ら木柱は撤去されてしまっている。
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(*1) この列車攻撃では乗客の朝鮮人1名の死亡も記録されるが、現在までその氏名は明らかになっていない。
(*2) 亜麻工場との記述もある。
(*3) 第94飛行隊の報告書には破壊に至らなかったもう1台の機関車攻撃が記載されるが、これに日本側の記録は無い。

=参考文献=
北海道の鉄道碑めぐり : 太田幸夫 (鉄道ピクトリアル 通巻541号所載)
北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録 : 菊地慶一(北海道新聞社 1995)
標茶町史 通史編第二巻 : 標茶町史編纂委員会編 (標茶町 2002)
米軍の攻撃詳細は、無署名によるWebsite「連合国海軍による日本本土攻撃 」を参照させていただいた。

標茶駅の夏空に浮かぶ旅客上屋。70年前のそこにはグラマン攻撃機の機影があった。
戦前の治安維持法に匹敵する特定秘密保護法制定、道徳の教科化など教育への国家関与強化、独善的外交政策等、戦争へと走った1930年代に酷似する。好戦国家へと進む極右安倍政権の策動は阻止せねばなるまい。
山下機関士の、そしてひとりの半島出身者の冥福を祈る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1981

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国土交通省北海道開発局では、冬期の道路路面を12種に分類していると云う。降雪や凍結、融解に再凍結などにて変わる路面の状態である。鉄道と徒歩の鉄道屋なのだが、冬期に渡道すると、いつもそれを気にしていた。
引き絵や俯瞰にて画角に入り込む道路がどのように写るかが気になったのである。モノクロームで撮っていたからなおさらに、アスファルトの乾燥路面はまだしも湿潤路面やシャーベット路面、氷膜路面に氷板路面(ブラックアイスバーンを含む)とされる道路は、白い画面に黒々としたコントラストを刻んでしまうのである。
特に、線路が海岸線を往く区間には、その多くで道路もまた併行していて、海面を背景にしようとすればそれを画角から排除出来ないから、この羽幌線や興浜北線、釧網本線などを冬の訪問を旨としていたのは、積雪でそれの目立たぬことを期待してのことだった。雪中に路面の露出してしまうと緑の中のアスファルトより始末に困ったのである。

路面状態を決定するのは、それを融解させる自動車の走行熱やブレーキ時の摩擦熱だから交通量にもよるけれど、やはり外気温である。これら線区での撮影を予定した渡道では、天候もさることながら毎日の気温予想にも注意していた。
写真的には理想的な圧雪路面や圧雪アイスバーンに粉雪路面、粉雪下氷板路面、許容範囲の粒雪路面、粒雪下氷板路面が日中を通して維持されるには、気温は氷点下でなければならない。所謂真冬日である。それも1度や2度程度では、自動車の走行熱が上回って轍の度にそれが残り、やがては路面全体に及んでしまうから、少なくとも曇天のマイナスの5度は欲しいところなのだ。そこを走る運転者には厄介なことではあろうが、鉄道写真屋はそう願っていたのである。
けれど、厳冬期の道北・道東とは云え日中に0度近くまで上昇することは珍しく無く、また陽も差せば道路には瞬く間に轍が刻まれて往くのだった。それを予想すれば、その日に予定したコンテから路面の目立つ画角は朝の内に済ませるなどの対策を取るものの、そうなるとせっかくの晴れ間に光線が思うに任せないなど不満も残ったものだった。

この2月の鬼鹿も、吹雪の止んだのは良いにせよ気温も緩んでしまい、国道を往く自動車は水溜りに飛沫を上げる始末だった。仕方なく、道路との距離のある地点を選び、逆光を反射させている。
列車は、823Dの幌延行き。
駅へと戻るのに、飛沫を浴びても国道を往くか、緩んだ雪に足を取られつつ線路を歩くか思案した。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f4 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 1970

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北海道に限らないが、各地域の町史や村史に付された年表を読んで往くと、戦後に「何々地区電化」と云った類いの記述を多々眼にする。これは、戦前の早くから電気の通じていた市街地に対して、そこから離れた集落などにようやく送配電線が設備されたことを意味している。
1882年に民営会社として始まった国内の電気事業は、小規模事業者の乱立から1910年代に所謂5大電力会社に集約されたものの、収益優先から農村や山村への配電は一向に実現しなかった。戦時の電力国家管理化もそれの促進を事由のひとつとしていたのだが、国家事業による推進は、占領軍の意向からの1951年の電気事業再編政令にて全国に9社の電力会社の公益企業体としての発足を背景に、1952年の「農山漁村電気導入促進法」(1952年12月29日法律第358号)を待たねばならなかった。この法律は文字通りに、僻地集落における小規模発電設備や電力会社送電線の引込みの、資金貸付や補助金の交付による促進を目的としていた。対象となる集落は「未点灯集落」と呼ばれた。

広大な土地の奥地にまで拓殖の進められた北海道では、そこに電気の通じないことは常態であった。前述の年表への記録には、中心集落からさほどに離れていない地区も散見されて、未点灯集落は奥地ばかりでなかったことも知れる。人の生活する開拓地すらの状況であるから、より奥地へと伸びる鉄道の駅もまた同様であった。
国鉄の部内誌「国鉄線」の1952年11月号に所載の道内拠点駅の駅長を集めた座談会記事には、帯広駅長による「釧路局管内に9箇所の駅と3箇所の中間線路班に電燈が無い」との発言がある。おそらく、そのような事例は全道に存在したものだろう。信号灯や閉塞器には蓄電池を用いるが、駅本屋や詰所に官舎の灯りはランプである。特に集落も無い駅間の原野や山中に在った中間線路班での家族との生活は想像するに余り在る。この時期、国鉄もまた線路沿いに電力・電灯線の延伸を進めねばならなかったのである。

千歳線の植苗に降りて、1969年に増設の上り線(下り運転線)に沿う小径を歩くと、やがてそれを越える踏切(*1)に往き当たる。この40年前には蛇が我が物顔で横切っていた人気の無い土道の踏切は単車の通行がやっとの細道であった。そして丘陵を巻いて湿原に降りると室蘭本線と千歳下り線の交点まで伸びていた。そこに在った東植苗中間線路班への連絡道だったのである。
この線路班が何時頃に設置されたかは分からないのだが、1948年に米軍の撮影した空中写真(*2)には現千歳下り線(上り運転線)沿いに詰所や官舎の並ぶ様子が伺える。
湿原の直中を往くばかりの沼ノ端-遠浅間8.9キロの中間となれば集落から電灯線を引く訳にも往かないから、苫小牧の至近にもかかわらず、かなり遅くまでランプ生活だった可能性が高い。
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(*1) 苗穂起点57K080M-当時に名称表示は見当たらなかったが、現行の植苗東通踏切である
(*2) 上り線の増設工事が認められるが、これは戦時下に着工され、その後に放棄された痕跡である。現在の上り線位置とは異なる。これに沿っての建築物は線路班ではなく工事関連とも考えられる。
なお、当該空中写真の閲覧には検索画面表示の後にもう一度クリックが必要。

植苗東通踏切に接近するのは、臨貨9755列車。本輪西から白石経由新札幌(現札幌貨物ターミナル)への石油輸送列車である。
道内未点灯集落の電化工事は、北海道電力によれば1973年まで続いたとある。
札幌で白黒テレビの番組に興じていた子供の頃の、同じ北海道での電気の通じぬ生活を後年に知り愕然としたことは前に書いた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

北入江信号場-有珠 (室蘭本線) 2013

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1945年8月1日に長万部起点43.9キロに設置されたのが北入江信号場である。
1942年10月6日の閣議決定「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」に定められた、北海道炭の京浜地区軍需工場への年間300万トン陸上輸送の非常体制緊急施策(*1)に基づき、函館/室蘭本線上に設けられた16箇所(*2)の信号場のひとつであり、ここには出発補助線(通称に加速線)が設備されていた。
Web上に拾えば、相変わらずにこれを以て北入江を「戦時型信号場」や「スウィッチバック式信号場」とする記述が散見される。おそらくは、検索エンジンにピックアップされる頻度の高いWebSiteの記事が検証なく転載されたものだろうが、これは事実誤認ないし誤解である。

「戦時型信号場」とは戦後の、それも鉄道史研究が先行しての付名であり、決して当時にそう呼ばれた訳では無い。ゆえに誤解の生ずる余地は認められるものの、それは「国有鉄道建設規程」の許容する上限である10パーミルを越える勾配途上でありながら、「国有鉄道建設規程戦時特例」(1944年1月25日運輸通信省令第5号)を適用してスウィッチバック式構造を採らずに通常の行違い線式とした信号場を指しての名称である。当然ながら、そこに停車した勾配上部へ向かう蒸機列車の前途運転継続には出発補助線が必須であったが、これは戦時型の信号場に固有の設備では無い。非力な蒸気運転の時代には少なからず事例の存在した。
北入江は10パーミル勾配上に位置して戦時特例の適用を要せず、出発補助線はD51ないしD52形蒸機の一台にて牽引定数1200と云う特殊な運行に対してのことである。戦時下ゆえ土工が速成工事であったり、本屋建築など簡略化のなされたかも知れぬが、信号場設備自体はそれまでと何ら変わるところは無い。部内実務者や研究者は厳密に区別してきたのだが、その「戦時」非常体制下での設置と云う性格と、「戦時」特例での設計の形態とがいつしか混同されたものだろう。
また、スウィッチバック式とする誤解も、そこへの停車・出発に際して必ず退行運転をともなう配線の停車場がそれであるから(*3)、出発補助線は折返運転を行うものの、勾配方向への主には重量貨物列車に限られて該当せず、通常の行違い線構造に付帯したに過ぎない。

ポツダム宣言受諾の僅か2週間前の開業であった北入江が前述の戦時下輸送に貢献したものかは分からない。用途を失って1948年7月1日付にて廃止、設備は撤去された。
以来15年余り、高度成長にともなう切迫した輸送需要に対して、1964年9月30日に600メートルを岩見沢方に寄った起点44.5キロに同名信号場が開設されるのだが、これを「移転」とする記述や、それの廃止後に同位置への1994年1月24日の再設置を「復活」とするのも誤りと云える。この3代に渡る北入江信号場は当然ながら書類上相互に関係せず、全てが「新設」である。

第三次長期計画に含まれて1968年4月着工の70年10月複線使用開始を予定しながら、それを放棄しての現在までの単線運転は、5キロばかりの洞爺-有珠間に信号場を置けば、1964年度の算定でも洞爺-北入江で132回、北入江-有珠で153回の線路容量を確保出来たからであろう。ちなみに信号場の無ければ、それは100回前後に留まる。
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(*1) これを(狭義の)陸運転換施策と云う。
(*2) 内2箇所は軍川-森間増設線(砂原線)開業時に設置
(*3) 国鉄の定義は「着発本線が折返運転により列車の発着を行う中間停車場」である。

写真は、(1994年1月24日設置の)北入江を1キロばかり下ったR=300からR=360の反向曲線区間での8001列車。
近年には高名な撮影位置と云うけれど、いつものように畑作地の縁とする。

[Data] NikonD3s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6+1/3 Non filter ISO320 W.B. Auto Developed by CaptureOne5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1984

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常紋信号場 (石北本線) 1998 から続く

湧別軽便線の常紋郡境区間に、現況で金華から熊の沢川の谷の標高差およそ100メートルを遡り、延長506.9メートルの常紋隧道内での施工基面高345M10を頂点に八重沢川の谷に出て、生田原まで167メートルを下る経路の選定された事由は調べ得ていない。
『遠軽町史』は、湧別への鉄道が網走分岐によるオホーツク・サロマ湖沿岸経路が有利とされた当初の踏査結果を覆すため、1910年の融雪期から誘致関係者自らが山中に入り好適な経路を発見し、その調査資料をもとにした改めての関係官庁への陳情や議会への請願が認められ、鐵道院による再踏査の行われたと書くけれど、それが現況経路であるのかは分からない。

ムカ原野のルペシュペからイクタラ原野へは、パナワルペシュペ川(東無加川)を遡り一旦サロマ原野奥地に至って旭峠を越える経路か、ポンムカ川(奔無加川)から直接にイクタラ川(生田原川)流域への経路の他に考えらないが、前者は後世に「囚人道路」として名高い北見道路が開削されていた経路であるものの、その迂回延長と二度の山越えから当初より排除されたと思われる。後者にて、現況の熊の沢から八重沢に抜けるので無ければ、奔無加川から支線沢に抜ける経路しか考えられぬから、当然に調査され比較対象とされたであろうと思われるのは、奔無加川の谷を上り金華峠を経て生田原川の流域へと達する現国道242号線の経路である。当時には踏分道程度は在ったかも知れぬが道路の通されていなかったのは、熊の沢経路と同等であるけれど、国土地理院の地形図に当たるだけでも、素人目にはこちらの方が地形は緩やかで、隧道も抗口を基面高330メートルあたりに置いてなお、延長500から600メートル程が可能に見える。ここでも25パーミルは避け得ないだろうが、その総延長は短縮され、また曲線も緩和されただろう。これの不採用は、些か延伸する距離と隧道延長を嫌い、土工工事と資材の増加、工期の延伸を回避したものだろうが、石北本線の現状に鑑みれば後年には禍根を残したと思われてならない。

常紋隧道の工事は1912年6月に両抗口より着工して同年12月に導抗が貫通、直ちに路盤工事を終えた留辺蘂からの軌道工事に着手の上1913年2月に完了させ、これを隧道覆工などの資材搬入に活用して1913年10月には竣工した。これを以て、この下生田原(現安国)までの区間の工事はほぼ終了したのだが、『湧別線建設概要』には「時局の結果事業繰延の影響」にて開業を延期したとある。この延期期間中に設置を決定したのが、常紋隧道南口への停車場であり、山中に付きそれは信号所とされた。後の常紋信号場である。奔無加-上生田原間15キロでの行違い線や勾配運転の補機の解結に給水の必要が見直されてのことであった。それの当初計画に含まれなかった事実は興味深い。
1914年6月より土工工事に着手して、同年10月2日のこの区間の開業に間に合わせている。正に速成と云うべきか。
以降各年度の『鐵道院/鉄道省年報』を読めば、補充工事の項に常紋隧道の名が散見される。低予算の速成工事には、今に云う保全工事や追加工事も多々要したのであろう。1930年度には「常紋信号場線路移設その他工事」との記述もある。

もっとも、鐵道院とすれば旭川-網走間連絡線の本命は、名寄経由ではなく石北峠に長大隧道を穿って留辺蘂に至るものと想定し、この湧別軽便線も一時に幹線と機能するもいずれは支線化すると考えていた節も資料には伺えるけれど、それの確証を得るには至っていない。結果的に、石北線は北見峠を越えて湧別川流域を東進し、この常紋郡境区間は幹線上に残ることになったのだった。
(この項終わり)

写真は、峠を金華へ下る1557列車。本務の旭川区DD51、補機の北見区DE10は無煙化以降の常紋越えでの正調形態だが、これは1985年3月改正でDD51での通し仕業に変更されて、峠からDE10の姿が消えた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f5.6 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

上目名 (函館本線) 1975

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静寂の戻った上目名。喧噪の頃には撮れなかった構内風景である。
この信号場のようだった駅の開業は、線路の開通からおよそ10年を経過した1913年9月21日と記録される。列車回数の増加にともない熱郛-目名間の15キロあまりに列車交換の必要を生じての設置であろう。寿都郡・磯谷郡を分ける分水界を頂点に五十分の一勾配(=20‰)が連続する区間ゆえ、その頂点位置となる第二白井川隧道の出口側に用地を求め、函館桟橋起点147K637Mから148K150Mの500メートル区間にレヴェルを得て構内としていた。

先住民族による「mena」とは「細い支流」の意であり、現在の尻別川支流の目名川を指したものであろう。蘭越町の町史を読むと、その合流点の一帯、メナフトと呼ばれた地域が当初の目名と知れる。尻別川流域への入植は河口部から始まり、モリベツ(現在の初田)周辺地区を経て、1883年にメナに至った。現在の名駒地区である。ここが目名の中心集落となり、その上流域が中目名、上目名と順に名付けられた。中目名が現在の目名町であり、上目名とされたのはカイカラ沢と呼ばれた貝殻沢川の流域あたりであった。このカイカラ沢には1901年に駅逓が置かれ1906年には教育所が開所とあるから、その頃までには開拓の進んでいたのだろう。
1913年に開設の函館本線の停車場は、もっとも近い集落であったこの上目名を名乗ったのである。これを信号場とせず旅客も貨物も扱ったのは、当時に鉄道の建設や駅の設置は周辺の開拓に資することが求められたゆえと思われる。実際に構内下り方に続く長い雪覆いを抜けて左に回る辺り、起点149キロ付近で車窓左下に見える樹林に還りつつある平坦地は、かつての開墾地である。その先の上目名川沿いに開拓農家が在ったと云う。
加えて、1935年にはその上流の大玖山に黒鉱の鉱床が発見され、1940年より本格的な採掘が行われた。大玖鉱山である。上目名駅は鉱石の積出駅となり、それは国富の製錬所に送られた。蒸機ブームに湧いた1970年頃を30年遡って、駅本来の賑わいがここに在ったことになる。ここは確かに、峠の駅には不釣り合いな駅前広場を持っていた。積出には不可欠のスペースだったのだろう。

函館山線区間において唯一、ここは島式乗降場の駅でもあった。上下列車の扱いの便から互い違いに配置の対向式乗降場ばかりの中に在っての島式の採用の事由は知れない。峠頂上と云う用地の制約からだろうか。このお陰で、本屋側の下り本線に先に列車の入ってしまうと、上りから降りてもすぐには本屋に向かえず、それに乗ろうとすれば下りの客車のデッキによじ登らねばならなかった。写真のごとくに、である。
列車は121列車。524Dとの行違いを待つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

西新得信号場 (根室本線) 1977

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新得市街地西側のオダッシュ山に続く緩斜面は畜産試験場の場地である。その面積は1573.32haに及び、広大に過ぎて想い浮かばぬが、国内最大のヤードと云われた新鶴見操車場のそれが凡そ83ha(8263.88㎡)であったから約20倍にあたる。およそ半分の770ha余りを放牧地と牧草地(採草地)に利用し、残り半分は山林原野と云うから山麓ばかりでなく、オダッシュ山の斜面も含むのだろうか。
狩勝新線はこの場地内を14キロ余りに渡る大きなU字型線形にて通過し、そこに三箇所の停車場が設けられた。石勝線として開業した、建設線の紅葉山線と狩勝線に計画された停車場の多くが駅を予定していたのに対して、ここでは当初より信号場であった。試験場の場内にて集落は存在しないから当然ではある。開業時より閉塞に単線自動信号を採用、広内停車場のみに要員を配置し、新狩勝、西新得の分岐器操作についてはそこからのRC制御(上落合を含む)と云う、当時に最新の技術が投入された。それまで豪雪地帯の設備であったスノウシェッドが設けられたのは、珍しかった無人信号場に対する配慮であり、要員の常駐した広内では省略されていた。

かつて、この区間を運転する気動車の普通列車からは、車掌に申告すれば下車の出来たことは以前に書いた。降りるのはそれで良かったのだが、乗車には少しばかり難があった。停車位置に特段の指示がなければ出発信号機直前まで進むのが運転取扱であったから、そのあたりで待てば良いのだが、運転士によっては遥か手前に停まられたり、停車の本来の意図である保線職員の下車から機器建屋前に停まることのあり、大慌てに走らされたりもした。ここには乗降場の設備は無く、下車に飛び降り、乗車にはよじ登って手動ドアを開くことになっていた。

酪農地帯であれば大きなサイロの農家の点在するはずなのだが、牧舎をはじめ業務施設が一箇所にまとめられた試験場地内は、条理に整備された農道に放牧地、牧草地が広がるばかりである。農場風景としては特異な景観かも知れない。
もっとも農家も存在した市街地寄りの西新得周辺も、放牧も作業も行われない冬ともなれば無人と化してひっそりと静まり返り、農道に轍も足跡も無い。振り返れば自分の付けたそれだけが続いていた。

西新得へ向かう列車は4004D<おおぞら2号>。
根室本線内の7両は、滝川で旭川からの6両編成に併結されて函館本線では13両の長大編成になる。この頃、釧路から函館まで10時間丁度で走っていた。
手前はパンケシントク川。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 2001

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以前にシリーズで続けた千歳新線にかかわる記事の番外編である。
その記述に際しての資料調べにて、国土地理院による1967年発行の五千分の一国土基本図-図葉番号「12-NC-75」に興味ある記載を見つけた。千歳線旧線上の西の里信号場に隣接した広島町椴山地内に道路が碁盤目に通された宅地造成地らしき記載があり、そこには「西の里駅前団地」と記されていたのである。

当時の空中写真などと突き合わせてみると、造成工事の始められたのは1960年代半ばと推定され、札幌厚別地区ですら最初の団地開発である市営「ひばりが丘団地」の工事が終わって「下野幌第一団地(青葉台団地)」に着手した段階にあり、北広島地区での道営駅前団地は未だ着工もされていない当時に、現在でさえそれの及ばぬ野幌丘陵の只中での宅地開発は無謀に思える。まして、一部列車に乗降は可能だったとは云え開設されたばかりの信号場に対して、その「駅前団地」を名乗ったのである。札幌への通勤・通学に列車を利用出来たとは思えないから、その開発名称は詐称に近く、大言壮語に属しよう。
現地は、北広島市道(当時に広島町道)大曲椴山線から現在の西の里信号場へ向かう市道(線名不明)の南側、現住所で西の里246番地とされる一帯であり、地形図上からの推定だが、開発面積の幅90メートルで延長540メートル程の5ヘクタール足らずは極小規模開発である。造成の終わったであろう1974年の空中写真に見れば、数戸の住宅らしきものが判別されるのみにて開発の目論みは失敗したとしか思えない。現在の西の里信号場への往き帰りにはその市道を歩くゆえ、ご存知の向きも多かろうが、現況とて建物は疎らで原野・森林に帰った区画すら認められる。

北広島市役所の都市計画課や市立図書館に問い合わせても、市の文書に「西の里駅前団地」との記載は一切く、当然に民間デヴェロッパの開発であろう。けれど、これも当時の広島町が開発計画の提出を義務付ける以前のことにて記録されず、地形図記載に際しての国土地理院から広島町へなされたはずの地名確認文書も保存期限の30年を経過して廃棄されてしまっていた。
結局のところ何の資料も手に入らなかったのだが、西の里地区在住の市立図書館学芸員の方が個人的に聞き取りをして下さり、ここが当時「はしづめ(はしずめ?)団地」と呼ばれていたらしいことが知れた。漢字表記は不明である。
これは付近の地名には無いから、開発者の会社名もしくは個人名、或は地主の個人名と考えたものの、取っ掛かりの無くて途方に暮れている。渡道の際に現地居住者への調査しか無さそうだが、何かしらご存知の方がおいでなら是非ご教示をお願いしたい。

ここでの定番位置からの8009列車。
画角左を外側に続くのが「西の里駅前団地」と称した宅地開発地である。千歳新線工事の頃、その用地を通過してこの立ち位置あたりに工事用通路が設けられていた。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D 1/500sec.@f2.8 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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