"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

比羅夫 (函館本線) 1991

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自らもその渦中に在った蒸機ブーム末期に至る狂乱に嫌気の差してしまい、以来40年近くを蒸機の展示運転は勿論のこと、撮影者の集合しそうな機会には一切関わらぬことを信条として来ているのだが、それを一度だけ破ったことがある。
前夜に長万部へ宿を取り、本州からの下り特急寝台列車群の撮影を予定していたその日、生憎なことに前日夕刻の首都圏での架線障害に仙台付近の信号機故障が重なって、<北斗星>系統は1列車と3列車が函館で、5列車が本州内(後に聞けば盛岡)での打切りが決まり、加えて日本海縦貫からの8001列車も運転日に当たらず、撮る対象の無くなってしまったのだった。この状況下に仕方なく向かったのが、意識的に避けていた函館山線でのC62の展示運転であった。その倶知安峠をはじめ沿線の騒乱を聞き及んでいたから、撮影は下りのみとし、なるべくに人出の無さそうな位置に比羅夫を選んだのである。そして、念入りにも比羅夫トンネル付近の集中を避けて桟橋起点185.5キロ付近のR=300の連続する区間に立った。それでも曲線ひとつひとつの外側の茂みには後方からの画角にはいらぬように撮影者が潜んでいたのだった。

1979年に山口線にて産業遺産としての動態保存を本意に始められたはずの蒸機列車の展示運転は、1987年4月の国鉄の分割・民営化を契機に、同線での運用客車のアコモデーション改装や豊肥本線における<あそBoy>の運行を契機に観光列車に変質する。それを民間資本に預けてしまったのだから当然とも云えた。
対して、ほぼ同時期ながら「北海道鉄道文化協議会」なる非営利団体が主導したここでの運転は、北海道におけるC62の現役晩年当時の運行の再現に意が注がれ、展示運転のひとつの理想が実現していた。隧道に入れば車内に煙の充満し、窓を開けて旅すれば顔は煤で汚れ、ホームの洗面台はそれを洗い流すために在ったことを思い出させてくれたのである。
しかしながら、欧米での多くの事例に範を取ったこの試みも、歴史に敬意を払わぬ民族には挫折を余儀なくされる。この運行に集った多くの人々は、北海道鉄道文化協議会が全ての責を負った運行の仕組みを知ってか知らずか、自家用車で沿線に乗り付けては、同協議会は疎か鉄道会社にも一銭も寄与することの無く立ち去るだけなのだった。この辺りについては、内地版の 小国 (米坂線) 1972 にも書いている。

ほぼ10年を経て降りた比羅夫の惨状は以前にも記したけれど、優等列車廃止後の山線の情報には疎く、1961年にヒラフスキー場への下車駅としてスキーロッジを模しての観光駅舎に改築された駅本屋が、宿泊施設と化していたには驚かされた。それを目的の嬉々とした観光客を横目に、撮影を終わって下りの気動車を待った鉄道屋としては、どうにも居心地の悪い思いをしたものだった。
さて、撮影を終えて駅に戻った鉄道屋は3人だけだった。あれだけ居た撮影者の大半はやはり自動車利用と云うことになる。

夏の日の9163列車。列車名だけはどうにも戴けなかった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.


北浜 (釧網本線) 1972

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江戸時代中期の流行に「参籠」がある。本来社寺に一定の期間宿泊しての祈願、これを「籠り」と云うのだが、この信仰行為を、自分の名や居住地を墨書きした札を神社仏閣の建造物に貼付けて納礼することにより代替した参詣・参拝形態である。これに用いられた札が千社札であり、単に貼札とも呼ばれた。
この民間信仰は日本人の血脈に永く残り、現在でも見事に貼札の貼られた社寺を見かける。しかしながら、現代ではこれが一種の願掛け祈願と物見遊山ついでに混合され、個人の持ち物などを観光地に存置する行為が行われるようになった。
けれど、これを鉄道の駅舎に見るとは思わなかった。例を幾つか知るが、ひとつはこの北浜駅である。

いつ頃から始まったものかは知らないけれど、主には名刺、使用した切符、メッセイジカードの類いの貼付けは明らかに参籠信仰に願掛奉納を混同した流れにある。Web上に掲げられた写真などで、その惨状(敢えて惨状と書く)を見てはいたが、そこに走る観光列車への乗車での久し振りの訪問に目の当たりにすれば、自分の足跡を示す一種のマーキング行為に過ぎないと知りつつも圧倒的な数で壁面に天井を埋め尽くす紙片の一枚一枚が、何やら怨念の隠った祈願の護符に見えてしまい、その様相には鬼気迫る妖気すら感じさせるのだった。
このルーラル線区の車窓を活かした観光路線化は、北浜 (釧網本線) 1968 にも書いたけれど、それが線区経営に寄与して線路が維持されるならば推進すべきには違いない。その過程で駅の存在が注目され、そして駅自体が観光資源となるも流れであろう。
けれど、古い本屋の今に残るルーラル線区の停車場であればこそなら、それを鉄道が輸送の主体を担った時代に復元し、駅員を模した人員を置いての観光フロント化が本筋であろう。列車のやって来る限りにそこは輸送業の施設である。喫茶店やら展望台やら護符の待合室などはいらぬのである。
1970年代から80年代に幾度となくこの駅を訪れ、海鳴りに風音を聴き乍ら待合室のベンチで時間を過ごし、時には顔見知りの駅員氏に茶を馳走になっていた身には、記憶も鮮やかなだけに惨憺たる現況には言葉も無い。

最近に、列車の来なくなった「駅」の信じ難い報道にも接した。旧広尾線幸福駅の「改築」である。ここは無人駅であったから駅本屋では無く単なる待合所なのだが、護符にまみれて観光地化していた建物を老朽化により建替えたと云うのである。元の駅舎を転用した観光施設(自治体にすればそうなのであろう)の建替えと云えばそれまでだけれど、どうにもおかしい。どうしても腑に落ちないのである。注目された、その幸福駅の駅舎であったからこそが(観光客目当てとは云え)「保存」の意義だったのではないのか。これも笑えない冗談に思える。
もっとも、観光客だけはお構い無しにやって来て「お札」を置いてゆくのだろう。液晶モニタまで設備された新築でのご利益とは如何なものか。他人事ながら案ずる。

北浜と云えば、これも定番画角だったと思う。国道244号線が拡幅されて撮り難くなってしまっている。
列車は、混合634列車。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f2.8 Nonfilter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR4 on Mac.

抜海 (宗谷本線) 1984

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宗谷本線の321・324列車をご記憶の向きは多かろうと思う。中でも機関車屋には外せない被写体だったはずである。その線内の259.4キロをほぼ日中の8時間弱にて走る設定には塩狩の峠でも、北辺の原野でも出会うことが出来た。

このスジが引かれたのは、浜頓別経由での旭川-稚内(現南稚内)間の全通、即ち稚内への鉄道の到達時点にまで遡れる。その全通にともなう1922年11月1日改正にて設定の小樽-稚内間11・12列車である。この列車は翌1923年5月1日に稚泊航路が開設されると、函館桟橋-稚内間1・2列車とされた。後世に樺太連絡急行と呼ばれることになる列車だが、急行区間は夜行運転となる滝川以南にて宗谷本線(当時には浜頓別経由)内は各駅に停車した。
そこまで遡らずとも、敗戦後まもない1945年11月20日改正ダイヤでの函館-稚内(桟橋)間の13・14列車が札幌以南を夜行区間として、宗谷本線内はほぽ同じスジで走っていた。宗谷線全通以来に継承された設定とも云えるが、稚内を朝に出る上りに、夕刻から夜間に帰着する下りは、その使命が輸送上不可欠な故とも云える。
1956年11月19日改正にて小樽-稚内間311・312列車とされ、321・322列車を経て1969年10月改正にて函館線内を分離、旭川-稚内間321・324列車となった。

そのような古は知らぬが、周遊券片手に宗谷方面へ遠征を始めた頃なら、旭川客貨車区のスハ32/スハフ32を所定に同区のスユニ60、隅田川客貨車区のマニ60ないし36を組成した4両編成を、旭川に数両の残ったC55が牽いていた。荷物車は配置区に見る通り、青函を渡る航送運用車である。
1974年に牽引機のDD51に置替られても、その編成組成が続いたが、1970年代の末に郵便荷物車がスユニ50に、航送荷物車がマニ50に置替られ、編成の旭川方が青色15号塗色車となった。80年以降に急行列車への14系投入にて余剰のスハ45/スハフ44が旭川区に転入してスハ32/スハフ32を淘汰すると、それらや121・122列車用だったスハ43 700番台/スハフ42 500番台が運用されるようになる。実見はしていないが、青色に揃った編成でも走ったことだろう。
その運転も長くは続かず、1984年2月改正で旅客車がオハフ51の1両に置替られてしまう。それでも気動車化のなされなかったのは、郵便・手小荷物輸送の使命故であり、この編成は3両組成ながら50形系列に揃って、それなりの編成美を見せてくれたのだった。
気動車置替は、ここでの郵便路線の廃止を待って、荷物輸送も<利尻>併結の航送運用車に統合の上1986年3月3日改正で行われ、北端に達する客車普通列車が消滅した。
輸送使命に忠実なスジであるから、以来四半世紀を経た2013年11月施行の現行ダイヤでも、名寄で分断されながらも同様時間帯の運転だけは残っている。

写真は、抜海南方での324列車。
積雪期なればこそ上れたここの丘からは幾度か撮っていたけれど、天候には恵まれなくて満足するカットは手元に残らなかった。
84年の1月はオハフ51に置替られる直前の記録である。タイトルバックもそうだけれど、C55牽引当時の姿は 南稚内 (宗谷本線) 1970 に在る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

国縫 (函館本線) 1998

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先日、内地版の方に1970年頃の米坂線沿線の道路事情を書いた。→ 羽前沼沢 (米坂線) 1971
そのように、当時の旧2級国道は勿論のこと、主要道の旧1級国道でもバイパス建設や曲線、幅員の改修を終えたのは一部路線や区間に限られ、まして県道や市町村道の農村地帯に山間部など推して知るべきと云えた。それらは農道に林道と大差無く、降雨に糠るまない砂利敷きなら上等だったのである。
何より首都圏などから到達しようにも、高速道路網は整備の端緒に着いたばかりで、鉄道の撮影に自動車を使おうにも困難なのが実際であった。それゆえ、鉄道屋は誰もが列車で駅に降り立ち、そこから歩いていた。
勿論、当時にも自動車での撮影行動を実践していた人々も居たのだろうが、それを最初に標榜したのは1984年2月号を創刊号としたRail Magazine誌ではなかったかと思う。そこには創刊号から自動車利用前提の撮影ガイドが連載されており、1983年度末までに、東名・名神に中央道の他、東北道が鹿角八幡平まで、北陸道が米原より分岐して富山県下朝日まで、中国道・九州道が八代まで(小倉東-八幡間未開通)繋がったのを背景としていた。
以来に、鉄道撮影に自動車利用は当たり前となって今日に至るのだが、この間も鉄道に徒歩の鉄道屋を通して来た身として申せば、現在に撮影のマナー云々とされている問題の大半は、皆が自家用車使用を停止すれば霧散してしまうのではなかろうか。

とは云え、徒歩の移動に頼ったのでは到達に困難な地点が、地形的事由以外にも確かにある。ここ国縫の早朝撮影がそのひとつであった。
その駅前に在った大きな商人宿は、とうの昔に失われており、そこへ早朝に立とうとすれば長万部からの移動を要したのである。いくら鉄道利用と徒歩を旨としても、大型貨物自動車の行き交う未明の国道を10キロ近く歩く気にはなれず、勢いタクシーに頼らざるを得なかった。(それでも中丿沢までの5キロなら歩いていた)
ところが、長万部のタクシー会社「おしゃまんべ交通」の営業は朝6時からなのである。その周辺地域の八雲にせよ、虻田(洞爺)にせよ、小規模な豊浦ハイヤーでさえ24時間営業の原則にもかかわらず、ここだけは早朝に動いてくれない。何処に移動するつもりだったか覚えていないが、1970年代の終わりに既にそうだったと記憶する。これを会社に問うと、函館からの始発特急の到着に合わせてのことらしい。当時なら青函深夜便から接続の<おおぞら><北海>、今なら<北斗星>と云うことになる。
その<北斗星>が目当てなのだから、仕方なく前夜に電話もしくは駅前の本社に出向いて交渉したものだった。10キロはそれなりに長距離(業界で云う"ロング")なので、その前夜から夜間勤務のドライヴァによっては勤務時間を越えて朝に走ってくれたからである。けれど、こればかりは数日前から交渉と云う訳にも往かず、とにかく長万部に宿を取って現地に向かうしかなかった。
交渉不成立の代案は、1・8001・3列車までと5列車との間の90分程の時隔を幸に、前者を撮り終えてから7時過ぎの函館行きバスでの移動としていた。早朝のこの便に同乗者の在った記憶はない。

国縫と云えば、国縫住宅前バス停に降りて至近の国縫跨線橋からの定番画角になる。既出をご容赦頂くしかない。
列車は、5列車<北斗星5号>。今にも残るこのスジは、函館以北がほぼ日中になって光線こそ安定しているけれど、写真的な面白味には欠けた。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

銀山 (函館本線) 1981

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ここにも幾度か書いているけれど、銀山は山間の停車場でも無ければ、山中に位置する訳でも無い。稲穂嶺麓の東斜面に置かれた駅なのである。それゆえ構内は明るく開放的なイメージがある。東の余市川の川底平野と凡そ80メートルの比高に眺望も開ける。

1905年1月29日の開駅が北海道鉄道(初代)函館-小樽中央間全通に3ヶ月を遅れた事由はわからない。その際に廃止された山道から稲穂隧道を穿っての小沢までの開通は1904年7月18日であるし、積雪時期の開設には工事の同時に進められていたものと思われる。
開駅時に付与された銀山の駅名は、近隣、稲穂峠の北約2キロのルベシベ川上流に存在し銀を産出したルベシベ鉱山に由来とされているが、これは少し怪しい。1911年に農商務省地質調査所の発行した「鉱物調査概報」によれば、同鉱山は銅鉱山とされている。しかも稼働したのは1890年頃のことで、この1911年当時には既に廃鉱状態に在ったと云う。もっとも、採掘されたのは黒鉱だったから銅鉱石であると当時に周囲には金・銀も濃集されて、精錬により銀の採取も行われていて不思議は無い。銅よりも高級金属の銀山を名乗ったのは、ルベシベ川の余市川に注ぐあたり、当時に馬群別原野と呼ばれた地に開かれた鉱山関係の集落の方であった。この集落が鉄道の開通した頃まで存続したものかは分からないが、仁木町史には銀山小学校が1901年に開校と記され、周辺には入植者の集落も成立して(馬群別原野への入植は1894年からとされる)、地名としてはより南へも拡張して残り、馬群別原野を見下ろす位置に開設の停車場名に採用されたのが正解であろう。

ここが鉱石の積出にて賑わったのは、ルベシベ鉱山では無く1890年以降に探鉱が行われ1913年から本格採掘のなされた明治鉱山による。余市川上流白井川の右岸に在ったそれより銀山駅下までの約13キロに馬車軌道が敷設され、そこに運ばれた鉱石は索道にて駅構内積出場まで牽き上げられたと云う。ここでの産出も銅鉱石の黒鉱であり、移出先は国富の製錬所であった。1927年までに約10万トンの粗鉱を出鉱したが、同年銅価格の下落により休止状態に陥った。主力はさらに上流に開かれていた同系の轟鉱山に移るが、ここの黒鉱は金品位が高く1933年に自前の選鉱場と青化製錬所が完成しており、1938年には明治鉱山も再開されたものの、銀山駅からの積出がいつまで行われたものかは分からない。

国土地理院の地形図を開けば、銀山駅の南、稲穂嶺から稜線の続く標高640.5メートルの三角点峰に「銀山」の名が見える。これも銀山集落の名称が地名、字名となり、それの転嫁されたものと推定され、如何にも山の名らしいのだが、銀山地名の発祥したものでは無いので注意を要する。但し、現在ではこの三角点が国土における基本基準点のひとつ、2等三角点の「銀山」とされている。誤解を招きかねない命名である。

夏の日の朝、光に溢れる東斜面の駅。
通票の授受に速度を落として通過するのは、この季節なら函館から陽光を走る11D<北海>。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1996

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都市が、その外縁に向けて成長を続けるのは今に始まったことでは無い。高度成長期の三大都市圏や地方中核都市に顕著であったそれは、1970年代を通じて地方の中小都市にも波及した。近年には地域の総人口は減少しているにかかわらず、そこの経済の中心への人口集中化が進む。
それは他地域からの人口流入のみならず中心市街地からの移動をもともない、都市近郊の農地などが住宅地に転換されて往くのだが、とりわけ北海道においては、人の居住を拒んで来たような原野が一面に姿を替えて驚かされることがある。稚内市の東部や苫小牧市の沼ノ端地区、釧路市の行政境界を越えての釧路町域西部もこれの一例であろう。
周知の通り、この外縁膨張は、一方で既存市街地中心部の人口過疎化の要因でもある。大都市圏であれば、その資本集積により業務地域や商業地が代替して都市機能の充実の図られもしたが、地方都市にあっては商圏人口の限界から商業地もまた郊外に分散して、そこの空洞化が劇的に進行した。
加えて、広大で移動の時間的距離も大きい道内においては、地域内において多くの無人地帯を出現させることにもなった。中心都市の拡大と同地域での過疎進行は、同じ現象の表裏である。

都市外縁部で無秩序に開発の進んでもたらされる都市側の諸問題に限れば、それの波及の遅かった道内の地方都市では時間的猶予から対策の有効に作用した事例が多々あり、ここ伊達市をもそのひとつであろう。
委細は省くが、1970年代初頭に弄月川西側に留まっていた市街地を越えて舟岡町側への町営団地建設を契機に、1976年度より弄月町を含む同地区における土地区画整理事業に着手し、街路に学校や公園用地を確保しつつ行政主導の都市計画として開発を推進した結果、良好な住環境の住宅地が生まれ、都市規模的に既存市街地近くに残っていた農地を転用して核となる商業施設の誘致にも成功し、それは旧市街と新市街のほぼ中間付近に位置することになった。
1970年に3万人台に到達以来、2004年に3万5千人あまりを記録した伊達市人口は以降に減少に転じたものの、2012年度末でも34993人(住民基本台帳による ※旧大滝村域を除く)を維持して、舟岡町・弄月町はその25%に当たる8780人の居住する一大住宅地となっている。また、同市の推進する内地や道内各地からの移住・定住の受け皿宅地としても実績を挙げている様子である。
この地域の比較的若い世代の多い人口構成を背景に、北舟岡は室蘭方面高校への通学駅として利用を伸ばしている。朝の時間帯にはここへの自家用車での送りに一時の賑わいを見せるのだが、通勤や昼間の用務利用にまで至らないのは、国道を往くバスに比しても少な過ぎる列車頻度であろうか。

短い夏の名残の頃、噴火湾の風と空に季節は傾く。
列車は、8002<トワイライトエクスブレス>。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC40M filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1968

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北海道炭は京浜工業地帯の重要な動力源であり、1937年の日中戦争以来の戦時下に至れば、最優先の輸送体制が敷かれる戦略物資ともなり、戦後には復興とその後の経済成長を支える資源であり続けたのである。それの室蘭港までの輸送路として計画された室蘭本線は、1892年8月1日の北海道炭礦鉄道による岩見沢-室蘭(*1)間開業以来、永きに渡り運炭の重要幹線として機能した。
1962年度のデータによれば、105億円の収入に29億円の利益を計上して営業係数72の大幅な黒字線であった。収入の87億円が貨物営業にて確保され、大半が石炭輸送によるものである。列車回数も旅客の67本を貨物が76本で上回っていた。

ここに運転された運炭列車の当初の姿は僅かに残された写真に伺うのみであるが、山元から室蘭へ向けての下り勾配と長い平坦線形を活用して大単位の輸送に特質が認められる。国有鉄道がこれを買収した直後の1907年には、機関車もまだ非力であったこの時代でも既に1200t牽引の記録があり、おそらくは9200形あたりの牽いたものと思う。1917年に後に主力となる9600形が配備されると、その翌年に試験的ではあるが3000t列車(*2)を運転し、これはD50やD51配備後の常態での2400t、最大2800t牽引に繋がって往く。
2800t列車とは、30トン積石炭車のおよそ60両で組成され、列車長は500メートルを軽く越える。それは途中各停車場の本線有効長を上回り、山元側発駅から室蘭までを原則的に無停車で直行する列車であった。
前に 恵比島 (留萠本線) 1972 にも書いたけれど、室蘭本線に限らず、運炭列車は機関車の交換や途上での給水を除外すれば山元の発駅から積出港の着駅まで原則的に無停車で運転した。それは石炭定数と呼ばれた独自の牽引定数により経路上各停車場の本線有効長を越えて貨車を組成するからで、同組成で戻る返空列車も含めて列車交換に停車することの無い「殿様列車」なのだった。遅延などにより交換のために停車しても、当然乍ら本線を支障して停まる。室蘭-輪西(現東室蘭)間が早くも1910年に複線化され、苫小牧-追分間に幌別-敷生(現竹浦)間を1926年までに複線運転としたのも線路容量の行き詰まりと云うより、当時に計画された2000t運炭列車同士の行違いの必要からであった(*3)。

この1968年は、前年の「第三次石炭政策」の基本方針に示された「経営基盤回復対策と、ある程度の需要確保策を講ずれば、今後とも5,000万トン程度の出炭維持は可能」との政府の空手形に、大手炭礦が体力をすり減らしていた時期に当たる。大規模炭礦の所謂「なだれ閉山」の始まるのは、翌年に発表の「第4次石炭政策」に「安定した出炭・供給体制の構築」を基本方針と掲げながらも初めて生産目標が明示されなかったことによる。
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(*1) 現東室蘭。但し位置は異なる。
(*2) 当時の24トン積石炭車75両組成
(*3) 幌内鉄道としての開業した南小樽(開業当時の開運町)-岩見沢間が1911年までに全線複線となったのも、2000t運転では無いものの同様な事由による。

写真は、この頃には本数もかなり減っていた運炭列車。沿線に待ってもなかなかそれのやって来なかったのに落胆したものだった。これは清水沢から苫小牧操車場への5792列車。それの積出港も掘込み式新港の稼働で輸送距離の短い苫小牧に移っていた。もはや2800tの長編成など神話の世界であった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1998

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常紋信号場 (石北本線) 1983 の続きである。

将来の幹線鉄道を低規格線として建設せざるを得なくなった鐵道院であるが、この網走線とユウベツ原野との連絡線の経過地には、網走を起点に常呂からサロマ原野を通過する案と、野付牛からムカ原野を通過し常紋郡境の山稜を越えてイクタラ原野に達する案との常呂郡・紋別郡ともに地元同士の争いが在った。
その経緯の詳細は省くが、最終的に鐵道院は地形的には険しい常紋郡境越えの後者を選択した(* )。野付牛を経由することに加え、留辺蘂や生田原など沿線に集落が発達しつつ在り、集貨集客の利を判断したものであろう。道庁には何れの経路にせよ沿線の拓殖に資するに違いはなく、後は速成を要求するのみであったと思われる。

ここでの762ミリ軌間の採用は、帝国議会の協賛した185万6400円の予算にての全線喫緊の開通に、さらなる低規格化を要してのことであった。野付牛-留辺蘂間の1067ミリ軌間での建設は網走線を通じた建設資材搬入のためとされる。
しかし、建設誌には、常紋隧道を含む土工工事は1067ミリ軌間に対応して施工とあるから、762ミリ軌間は開業関連工事の費用低減を意図してのことである。その工事費は153万8611円と記録され、予算との差額は、この区間のみに用意される軽便規格の機関車や客車・貨車の車輛費であったろう。それが予算に収まったものかは調べ得ていない。

留辺蘂以遠区間は、1912年に着工して難工事であった常紋隧道を含む下生田原(現安国)までが1914年10月5日に、社名淵(後の開盛)までが1915年11月1日に開通し、さらに下湧別までの延伸工事を行っていたこの年に至り、第一次世界大戦による軍需景気を背景に北海道庁への拓殖費は増額され、また北海道鉄道敷設法第二条に規定された名寄から湧別への区間の1917年度よりの予算化も明らかとなった。
鐵道院は、この予期せぬ事態に着工していた社名淵-下湧別間を急遽1067ミリ軌間に変更して1916年11月21日に開通させると共に、これに先駆けて留辺蘂-社名淵の改軌に着手して同年11月7日に完成させたのだった。現在までに唯一の存在である国有鉄道における762ミリ軌間の41.9キロは僅か2年余りにて消滅、投下した車輛や留辺蘂における貨物積替施設などが無に帰して、道庁との行政二元化が二重投資を呼び込んだと見える。
そればかりでは無い。低規格の速成工事に、中間に常紋信号所(当時)を置いた奔無加(現金華)-上生田原(現生田原)には、当時の鉄道建設規程に規定された許容値一杯の40分の一勾配(=25‰)と半径15鎖曲線(=302M)の連続する線形が残されたのだった。
(この項 常紋信号場 (石北本線) 1984 に続く)
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(* ) これにて、サロマ原野通過線は1935年から36年に湧網東・西線としての一部区間の開業と、20年を遅れた。まして全通は戦後の1953年のことである。

落葉松だけが残されるのは、常紋の峠で一番好きな季節だった。それは道南では紅葉黄葉の時期に重なり、毎年に欠かさず渡道する動機となっていた。
黄金色に見下ろされて峠に向かうのは8556列車。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4+2/3 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

大沼 (函館本線) 1989

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北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定された予定線 「後志國小樽ヨリ渡島國函館ニ至ル鐵道」の仮免許を1897年4月29日に得て、1899年10月に設立された函樽鉄道株式会社が当初に計画した経路は、本郷(現渡島大野)から無沢峠に隧道を穿って小沼畔に至り、その西岸を通過して宿野辺(現駒ケ岳)に達するものであった。ほぼ現在の国道5号線に該当する経路である。
これが東岸経由に改められ大沼に停車場の置かれたのは、そこ入植していた宇喜田秀夫の尽力によるところが大きい。

1863年、香川県香川郡一宮村(現在の高松市一宮)の、おそらくは素封家に生まれたであろう宇喜田が、そこでの開拓を志して北海道に渡ったのは1892年のことであった。北海道庁に勤める傍ら道内各地を探索した末に、その景観に惹かれて大沼の地を移住先と決め、道庁を辞して一旦故郷へと帰ると、1897年5月に同郷の5家族22人を引き連れてそこに入植、自身は宇喜田農場を創設して金比羅山から吉野山山麓の一帯を開墾したのだった。金比羅山とは宇喜田が故郷讃岐の金毘羅宮の棟札を納める祠を建てた開墾地の流山への命名である。
従前よりその動向を注視していたと思われる宇喜田は、入植後まもなくに函樽鉄道による鉄道敷設計画の具体化を知ると、1898年に会社発起人へ鉄道の軍川村への誘致の陳情を行い、農場内の用地の提供も申し出たのだった。
会社側も東岸迂回により湖中の土木工事を要し、また距離も延伸するものの、然したる集落の無い西岸経由に対して開墾も進みつつあり、また鹿部村への道も通ずる優位性を認めて経路を見直し、併せて現位置への大沼停車場の設置も決定したのである。
1903年6月28日の開駅により軍川村・鹿部村への入植は促進され、その後の農地拡大への基礎インフラとなり、函樽鉄道改め北海道鉄道(初代)を1907年に買収した鐵道院も、その際に大沼・小沼の近接地に大沼公園停車場を設け、それは観光地としての発展に寄与した。

この本郷-森間には峠下隧道までと宿野辺から森へ下る区間に1/50勾配(=20‰)が介在して、遅くとも小樽まで全通して列車単位の増大してからは補機を要したと思われるのだが、函館市立図書館の収蔵する1900年代初頭の撮影と推定される絵葉書には小沼畔の下り列車に北海道鉄道のC2形と思しき重連が記録されるも、狭戸付近での撮影は上下列車ともにそれらしき連結は見られない。おそらくは列車本数も少ない当時には運用効率からも片勾配の終端で解放していたと考えられ、その当時より大沼はその作業駅であったろう。
七飯町歴史館の広報誌に所載の写真から開通時の大沼は、上下本線に中線を持っていたと伺えるが、左画角外には機関車の通路線も存在したのではなかろうか。それは、鐵道院年報によれば1911年度に増設と読める。1960年代の実見では、その函館方に赤い円錐形の屋根の給水塔に転車台も設備していたと記憶する。これも古い時代からのことと思われ、ここで解放された補機は水を呑んでから本郷へと単機にて転がって往ったのである。連結駅の本郷側にはなかった設備は、ここに良質の水の得られた故だろう。
本線有効長はともかくも、大沼は開業当時よりほぼ現在と同じ構内規模を有したと推定され、所載写真の3線は現在の1番(砂原上下本線)・中線(砂原副本線)・3番線(駒ケ岳上り本線)に該当して乗降場位置は動いていないことになる。

写真は、上り列車の到着を待って駒ケ岳回り線に進出する3065列車。背景が吉野山である。
宇喜田秀夫は、大沼への砂原線の接続による要衝化を見届けて1948年に没した。藤城経由線の未成は心残りだったのではなかろうか。
(文中敬称は略させて頂いた)

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

門静 (根室本線) 1981

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内燃車の暖房設備にかかわる記述、銭函 (函館本線) 1975 の続きである。

1950年代に入るとドイツのWebast社にて鉄道車両向けの機関独立型暖房装置、所謂ウェバストヒータが実用化され、国産のライセンス生産製品が1954年に製作のキハ44600に試行的に搭載された。国鉄における温気暖房機である。国鉄での形式をRH80型(8000Kcal/h)・RH85型(8500Kcal/h)と称し、形式名の後にWと付されるのが三国商工の、Gが五光製作所による生産品である。
この軽油燃焼式の客室暖房装置は使用成績も良く、続く新製内燃車を始め、前述の暖気暖房方式車についてもそれのガソリン機関からディーゼル機関への換装に際して差替えられて往き(*1)、組成上機関車からの蒸気供給の困難な線区運用の客車にも装架が進んだ。
余談ながら、混合列車の多かった地方線区で石炭ストーブに替わる客室暖房の開発は喫緊の課題とされており、1955年度に客車3両程度の容量の小型蒸気発生装置を荷物室に搭載(*2)しての実車試験が阿仁合線で行われてもいたが、温気暖房機の実用化はこの問題も一挙に解決するものであった。

ところが、容量8000Kcal/hないし8500Kcal/hの温気暖房機2台搭載の方式は北海道など寒冷地においては能力不足が明らかとなり、同じく寒冷環境下で問題となっていた機関起動時の予熱対策も兼ねて30000Kcal/hの容量を持つ、これもウェバスト式とされた温水暖房装置を試作し、機関の冷却水回路とこれの配管回路を接続した温水暖房の実車試験がキハ12を使用して1958年3月に旭川にて行われ、この結果をもとに同年に新製のキハ22よりこの方式の採用が決定された。
とは云え、このウェバスト式温水暖房機は1957年度の電気式気動車を液体式に改造したキハユニ15に機関の予熱を行う1000Kcal/hの機関予熱器として搭載され、これにより暖められた温水は運転室や郵便室に設けられた放熱管を循環させて暖房に用いられてはいた。キハ22での方式はこの機関予熱器の回路と機関冷却水回路を並列に繋ぎ暖房容量を向上させたところが異なり、キハユニ15の段階では客室暖房は郵便室床上に搭載した温気暖房機によっていたのである。
この機関予熱器を用いた温水暖房方式は、1962年度新製のキハ58の系列車より全ての内燃車の標準方式に採用されるに至り、キハニ5000の温水式が機関独立形の加熱器を得てようやく完成したことになった。

さて、これら気動車系列には客窓を狭小化し室内側を木製とした二重床構造など極寒地向けの仕様が存在した。前記キハ22やキハ56/27などである。実は、これらは温水暖房の限界から保温力の強化を要した結果なのである。それは極端に外気温の低下した環境で露呈していた。
かつて、厚床から釧路への移動に乗った急行<ノサップ>は、乗車時に既に室温の低く感じられ、放熱フィンのカヴァに触れても「温かい」程度で、脱いだパーカを再び着込まざるを得ない状況であった。機関は走行動力を提供し機関予熱器も稼働しているはずなのだが、縛れる外気温に走行風も加わって冷却水温が上がらないのである。同様の事例には釧網線の<しれとこ>でも遭遇して、それを網走の呑み屋で話のネタにすれば、聞いていた地元の客は「冬には一番前(の車両)には乗らない方が良い」とアドヴァイスをくれた。多々生じていた事例の経験則だったのだろう。(この項終わり)
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(*1) 燃料の軽油への統一からも当然である。
(*2) どんな地方線区とは云え手小荷物輸送は行われていた。

写真は、風雪の厚岸湾岸を札幌へ急ぐ402D<狩勝2号>。1978年10月改正までは<ニセコ>として函館まで直通していた列車なのだが、キロ26を含んだ組成は失われて、それは釧路から連結される。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

銭函 (函館本線) 1975

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苗穂工場敷地にガソリン動車キハニ5000の5005が保存・展示されている。1929年に鉄道省最初の内燃動車として製作された形式であり、札幌鉄道局には2両が配属されて東室蘭-室蘭間に市内交通のフリークエントサーヴィスを提供した。事業用車への改造を経て廃車後に苗穂工場で倉庫代用となっていたものを、同工場の70周年記念事業にて原型復元したのである。ただ、車体の所属表記の[名カキ]や取付けられた行き先札の[仙䑓-塩竃]は、確かにこの形式の現役当時の配置先や運用区間ではあるが、苗穂での保存には些か腑に落ちない。
前置きが長くなってしまったが、話は同車の外観上の特徴ともなっている車体端の屋根に設置された機関冷却水の放熱器である。この冷却水は機関からここに至るまでに客室内に回された放熱管を経由した。即ち、この車両の暖房装置は温水式であった。
機関廃熱の有効活用は内燃車の暖房としては理想的であり、1962年度以降に国鉄気動車の標準方式となった温水暖房の嚆矢には違いないけれど、それはこのままに順調に発展したものでは無い。キハニ5000の原初的とも云える温水暖房は機関の出力から、このような小型車はともかくも広い客室の暖房には容量が満たせなかったのである。

従って、これに続く機関を床上に装備した大型車体のキハニ36450は、蒸機発生装置を荷物室に搭載する蒸気暖房方式が採用された。やや時代の下って1937年に総括制御をねらって製作された3両固定編成の電気式ディーゼル動車-キハ43000も中間車のキサハ43500に重油燃焼式のボイラを積んでいた。しかしながら、これらは暖房容量を満たしても車体重量の増加をもたらして普及すること無く、内燃動車の暖房には、機関の排気を循環させる排気暖房の試行を経て、客室内への漏洩事故の危険からそれにて暖めた空気を室内に送気する暖気暖房に落ち着いたのだった。但し、当初より暖房を設備していない形式も多々存在した。
と偉そうに書いているが、実はこの暖気暖房がどのようなものであったかを見たことが無い。1960年代の地方私鉄には自社発注や国鉄から払い下げられた機械式内燃車が残存していたのだけれど、この時期ともなれば後述の温気暖房に換装された例が多く、暖気式を維持していたのは江若鉄道に21両がまとまっていた以外は10社で64両に留まっている(温気暖房との併用を含む)。道内では留萌鉄道にキハ1000と1100の計3両が記録されているが、残念ながら乗っていない。これらは1955年と59年製にもかかわらずの暖気式の採用は、後に述べるように道内のごとき寒地に温気式は容量が不足したのかも知れない。
せめて、室内への暖気吹き出し口の形状でも見たいと写真を探すも見つからなかった。ご存知の向きがおいでなら御教授願いたい。

キハニ5000での温水式暖房は紆余曲折を経て、戦後のキハ22にて国鉄気動車の標準方式となる。それに不可欠であった温気暖房器の開発も含めては次回とする。
(この項 門静 (根室本線) 1981 に続く)

写真は石狩湾岸区間での堂々足る遜色急行、904D<らいでん2号・いぶり>。
後追い撮影の後部1両が小沢解放の岩内行き、2両目が倶知安からの<いぶり>、前部2両が上目名行きである。
この頃、苗穂には21両ものキハ21の配置が在りキハ22と共通使用されていたのだが、さすがに急行列車を含む運用は区別されていたと見え、それが<らいでん>に入ることは無かった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y52 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 2000

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肴屋の店先で「天然」とした帆立貝を見かけることがある。それは、中間育成した稚貝を漁場海底に放流して4年程成長を待つ「地撒き放流」と呼ばれる「養殖」の一形態による漁獲物であり、決して「野生」を採取したのでは無い。とは云え、帆立貝の養殖・増殖とは、それが養殖中の親貝が産卵したにせよ、海中を浮遊する幼生を捕獲(採苗と云う)して、それを条件の良い環境で自然に育成させることだから、生育に「野生」との大差も無い。
これら養殖技術は1960年代半ばに確立され、1970年代に後に主要産地となるオホーツク沿岸や噴火湾、陸奥湾、三陸沿岸に普及したのである。
それまでの本来の天然資源対応の漁獲は主にオホーツク沿岸であり、この地域の町史・村史には、内陸開拓以前からそれにて繁栄した歴史が記されている。当時から養殖移行までの漁法は、浅海からの採取であるから地引き網や小型船による底引き網によっていた。底引き網は現在の地撒き放流増殖の漁獲法でもある。

それは漁師の余暇だったのかも知れないが、この他には沿岸からの小規模な「釣り」漁法も在ったのではなかろうか。近年に一部の愛好家に流行した「ホタテ釣り」の元祖である。その方面には門外漢ゆえ聞き書きだが、ハンガー型の仕掛けを竿より海中に投下し、海底にて開殻した帆立貝を刺激して閉じさせ釣り上げるものと云う。海底が砂地であれば、岩場や防波堤からも可能で、場所に恵まれれば結構な釣果と聞いた。オホーツクはもとより、太平洋岸に噴火湾などでも釣れると云うから、天然資源ばかりでなく養殖施設からの落下や捕獲されなかった幼生の成長した個体も含まれるのだろう。
ところが、数年前より北海道は、これを『北海道海面漁業調整規則』をタテに規制に乗り出したのである。それが遊漁者に許可される漁法・漁具を規定した同規則第44条に反する「引っ掛け釣り」に該当するとの見解からであった。引っ掛け釣りとは、本来に河口付近での鉤型釣り具を用いてのサケ乱獲を、釣り針の餌の捕食を受動的に待ち受けるべき遊漁にそぐわぬ行為として規制対象にしたものなのだが、ホタテ釣りも釣り人の能動的な採取行為との解釈である。
それは職業漁師の範疇と云いたいのかも知れぬが、どうにも解せない。例え、養殖貝からの派生としても沿岸からの竿釣りなどたかが知れている。遊漁船で海上に進出する輩には養殖海域への進入禁止を講ずれば良い。漁業者との調整は他の魚種と同様であろう。釣り人の間では、時折の貝毒発生時に規制の掛けられない個人採取個体による中毒からの風評被害を想定したもの、との憶測が語られるが、案外と正解かも知れない。

豊浦町では商工会内に「 世界ホタテ釣り協会」なる組織を立ち上げ 「TOYOURA 世界ホタテ釣り選手権大会」を、個人戦、団体戦、ジュニア戦と年3回開催している。勿論、町起こしのイヴェントに違いないのだが、この町の拳闘競技世界選手権王者輩出を意識しての発想であろう。河口湖のバス釣り選手権宜しく、勇壮に小舟で海上へと繰り出すものと思いきや、先の規制から決戦場は室内に設けられた水槽である。それの夜店の金魚掬いとさほど変わらないところが、冗談半分本気半分で「世界戦」を語る味噌である。

豊浦定番位置の既出はご容赦頂きたい。列車は8001<トワイライトエクスプレス>。
この背景斜面の広葉樹の落葉寸前の時期に、それの貫気別川橋梁の通過時刻 6時37分(定時)が太陽中心の日出時刻(太陽中心高度0度)と一致するところから企画したコンテなのだが、天候に左右される上にタイミングも合わず、このカットの撮れた3年目で止めてしまった。列車の影がほぼ水平に落ちるのをコンテとしたものの、これはあと1分タイミングが早い。
対象を青色塗色の<北斗星>としなかったのは、この光線下での客車の発色が気に入らなかったからである。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8S 1/125sec@f7.1 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

釧路 (根室本線) 1985

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1960年5月22日15時11分(日本時間5月23日04時11分)、南米大陸チリ国中部の都市バルビディア近海にて歴史時代を含めても最大と云われるマグニチュード9.5の海溝形巨大地震が発生した。海溝に幅200キロ、長さ800キロに渡り最大20メートルの逆断層を生ずる活動による津波は、約15分後から波高18メートルでチリ沿岸に達し始め、同じく平均750Km/hの速度で環太平洋地域に向かった。
この津波は、およそ22時間から24時間後に日本列島の太平洋岸に到達して各地に被害を及ぼした。気象庁が「チリ地震津波」と命名した災禍である。

子供の眼には、白黒のニュース映像として放映された宮城県塩竈市や岩手県大船渡市の船舶が市街地にまで流された惨状(50年後にデジャブのようにそれを見るとは思わなかった)が強く印象に残っている。勿論、津波は北海道の沿岸にも押し寄せて、最大波高は浦河で3.2メートル、11人の犠牲を出した浜中町の花咲港では4メートルと記録されている。
当然に海岸線の鉄道も被災し、旧釧路川に架橋された釧路川橋梁もそのひとつであった。釧路への第一波の到達は検潮所の自動観測記録によれば5月24日午前2時40分とされ、潮位変化は4時45分に記録の2.34mが最大である。
これにて、釧路川橋梁は全ての鉄桁に最大300ミリのズレを生じ、列車運行が不能となった。国鉄の記録では、この桁を移動させた最大波高は3.50mとある。桁下高さの低い橋梁であるから直撃を受ける波高であろう。落下、流失のなかったのを幸に鋭意復旧に努め、翌25日夕刻には運行を再開したのだった。
この他道内では函館駅構内が全水没し、これは当時にも報道されて承知していたのだが、この釧路での橋梁被災は最近になって資料をめくるまで知らずにいた。

釧路の4月から9月の半年は海霧の季節である。年間の平均霧日数は約100日とされるから、この季節の二日に一日はそれに沈むことになる。大半が移流霧と呼ばれる遥か三陸沖に発生し、南風に押し流されて北海道東岸に達した霧なので、それが続けば晴れことがなく一日がその底にある。
夜行で釧路に到着したものの、気象予報に諦めて至近の釧路川に立った。乳白色の大気が画角を単純化してくれるに気づけば、それも楽しい。
橋梁を往く列車は 212D<ノサップ2号>。
左岸に在った漁業施設は取り払われていたけれど、まだ岸壁には廃船の繋留されていた頃である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/125sec@f4 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1979

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1962年以来、永く3往復運転が維持された釧網本線の優等列車は、1984年2月1日改正にて普通列車での北見発着も廃して線内の2往復となり、1986年11月1日改正で全廃された。
その後裔にあたる快速列車は通過駅が数駅とは云え、同改正にて投入のキハ54の動力性能を以て、急行時代とさほど変わらない到達時分にて釧路-網走間を連絡したものの、それの輸送量は単行運転にて事足りるものになっていた。
経営基盤が弱いとされた北海道の承継会社に引き継ぐダイヤとして運転、保守ともに経費のかかる老朽車の2両組成を新形式の単行運転とする施策であったろうが、この区間の3時間余りの運行は、もはや急行料金を徴収できるものでも無かったのである。
とは云え、この時点でここに並行する都市間バス便の存在したで無く、急行廃止に呼応してすぐに代替運行を始めた訳でもなかった。バス会社をしても市場性を見いだせぬ程に直通旅客は減っていたのである。

ここに都市間バスの運行されるのは1993年末に至ってからであり、その網走を無視した釧路-北見間は国道240号線から39号線を運転して釧網本線と併行する区間は無い。多客時運行より始まったそれは、翌年には定期運行となったものの現在まで午前午後の2往復運行のままである。
所要時分の3時間は、同区間に直通の急行列車設定の在った当時の4時間20分余りを遥かに短縮したけれど、旅客はその程度に過ぎない。
この80年代始めでも、釧網線急行へそれなりに乗っていた乗客はいったい何処に消えたものか。自家用自動車への転移としても、全てでは無かろうに。沿線人口がそれだけ減ったと考える他にない。確かに、1970年と2000年の比較では、両端の網走市と釧路市に大きな変動の無いものの(* )、沿線で急行停車駅を擁した標茶、弟子屈、清里、斜里、小清水町の各町ではそれぞれ3000から4000人を減じて、ここの輸送市場からは2万人近くが退場している。もともと分母の大きく無い中での2万人は、旅客車の80名程の座席定員に空席を目立たせるには十分な数なのだろう。
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(* ) 釧路市は2万人余りを減じたが、隣接する釧路町で1万5千人を増やしている。単純な図式ではなかろうが、ベッドタウン化にて釧路からの流出人口の多くを吸収したと見える。

北浜定番の濤沸川橋梁を往くのは、612D<しれとこ4号>。
記録に1月13日と在るのに濤沸川の凍結せず積雪も見られないとは、余程の暖冬の年だったのだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

宝来町 (函館市交通局・東雲線) 1976

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函館山の麓を半周するような本線の函館ドック前-十字街間と宝来・谷地頭線の計3キロ余りの区間は、路線と直交する坂道が幾つも通じていて、市内電車の撮影には良い足場ではあった。
函館港を望み、観光の核心地域に所在の基坂や八幡坂が定番ではあるけれど、それを外れたドック寄りの幸坂あたりも好ましい坂道と覚えている。但し、道幅からは電車を捉えるのは一瞬に限られた。
電車道そのものが青柳町電停を頂点に急坂を越えていた宝来・谷地頭線に入ると、坂道は古くからの住宅街に伸びていて点在する趣の在る建物と共に好ましい景観を見せてくれる。中には、今で云うところのカフェに転用された建物もあり、そこでの一休みも市内電車撮影の楽しみであったのだ。
ここでのポイントは、坂の名は失念したけれど宝来町の電停から、老舗すき焼き店「阿佐利」の角を上がる坂道であった。ここからなら、宝来町で接続する東雲線を見通せたからである。坂上からだと、基本的に電車の側面を見るしかないのだが、ここならば正面気味にも撮れて何度か立ったものだった。
1992年3月一杯での廃止から既に20年を経過して、函館市民の記憶には風化の進んだものかも知れないが、松風町で湯の川線・大森線に繋がる1.6キロの路線が存在していたのである。沿線には住宅地とも業務地区とも云えない平凡な街並の続くばかり区間と記憶している。五稜郭駅前への路線の健在な頃でも、そこからガス会社、五稜郭公園前、松風町を経由して宝来町からドック前までを往復する系統のみが走り、廃止前時点では駒場車庫から末広町で折返す系統が都市内交通にはあり得ない程の永い時隔で運行されるだけとなっていた。その頃には需要の完全に消失した路線だったのだろう。
この撮影当時には、1系統のみとは云え15分間隔程度に運行されていたから撮影チャンスは少なくはなかった。寒い一日で自動車の通行でも路面は露出しない。

実は最近に、この坂道を再訪しているのだが、30年を経過してここに写る建物の多くが健在なことに驚かされた。
函館の旧市街地とは、そんな地域なのだろう。羨ましくも思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

石倉-落部 (函館本線) 1999

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落部駅が上下線で個別に存在するなど特異な経過を辿った石倉-野田追(現野田生)間の線増については、Websiteの記事 "函館本線 石倉-野田生間の改良と線増" に詳細をまとめた。
戦時下のことゆえ記述も少なく、各資料をつき合わせて見えて来たのは、この区間の線増計画は1938年度を初年度とした輸送力拡充4カ年計画に含まれて複線の別線として立案・設計の進められながら、戦局の悪化にともない1942年10月6日の閣議にて決定の「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」に従い、積車の運炭列車を運転する上り線だけにて開通の急がれたことなどである。これにて、未着工だった第3落部隧道は単線断面に変更され、既設線を下り線とする関係から落部駅の別駅並立を招いたのである。

この海岸段丘下への新設線を上り運転線とした石倉-野田追間の複線運転の開始は、その根拠は鉄道公報と思われるのだが、以降どの資料にも1945年7月20日と記述されている。
ところが、1983年に刊行の『改訂八雲町史』(原著は1957年の八雲町史)は、「昭和20(1945)年6月に石倉-野田追間上り単線工事が完成して」と書きながら、一方で「日本が敗戦国となった終戦直後に」「工事は一時中止となり、21年に再開されて石倉-落部間のトンネルはこの年10月に完成」としていた。石倉-落部間のトンネルとは、複線断面にて掘削の第1/第2の落部隧道の他には無い。
これには思い当たる節があり、鉄道研究家として知られる川上幸義氏は労作『新日本鉄道史』の函館本線の項にて、「落部-野田生間(の新設線)は20年7月20日単線で開通」「その後、石倉-落部間も使用を開始し」と書いていたのである。
双方とも、この記述に至った一次資料の提示がないものの、同一資料の可能性の考えられるため、八雲町の町史編纂室にレファレンスを依頼したところ、残念ながら町史執筆からの時間経過にて資料の散逸しているとの回答であった。けれど、担当の学芸員の方がご親切にも地元の元鉄道関係者や郷土史家らに聞き取りをして下さり、工事に仮設線や線路切替の過程の存在したらしいことが知れた。
仮設線とは工事用軌道を指すとも考えられるが、線路切替なる言葉は本線に対しての用語であろう。何分にも70年近くを経過して推論の域を出ないのだが、国鉄の記録する1945年7月20日に使用開始は落部-野田追間の新設線であり、石倉-落部間については1946年10月にずれ込んで、戦時輸送には間に合わなかったとも考えられそうである。この間に新設線と既設線が最も接近する落部駅上り方付近に、双方を繋ぐ「仮設線」(所謂接続点)が存在し「線路切替」のなされたのかも知れない。
1946年に工事再開となれば、当然に連合国軍司令部の指示ないし輸送上の要請によるものと思われ、確証を得るにはGHQやMRS、RTO関係の資料発掘を要するだろう。けれど、それはなかなかに手に負えるものではない。

写真は石倉栄浜付近での8002列車。
ここを17時36分頃に通過していた8002には、夏至近辺の数日間しか陽が回らない。海岸段丘に切られる斜光線だから、そこの国道を大型貨物自動車にでも併走されると、その影すら落ちてしまい気が気で無い撮影だった。
列車の走行する現行の上り線が、当時に部内で海岸線と呼ばれた1946年10月開通も疑われる増設線路である。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 Fuji LBA1 & C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1983

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アイヌモシリ、即ち北海道島の日本の権力機構による組織的植民政策は、1869年7月設置の開拓使により一元的に所管された。もちろん鉄道事業も例外ではない。
1882年2月8日付でのそれの廃止、函館・札幌・根室の3県への分権にともない、一時的に植民、農林水産事業が農商務省に、工場、炭礦、鉄道などが工部省に移管されるも、1886年1月26日に北海道庁が成立すると戦後1947年の地方自治法制定まで、道内におけるそれらは再び一元的な開発行政機構により統括されたのである。
しかしながら、鉄道行政・運営のみは1905年4月1日と云う早い時期を以て当時の逓信省鉄道局・同鉄道作業局に移管されてしまう。当時の日露戦争戦時下に議論されていた鉄道国有化を踏まえての施策であり、それは規格の異なっていた線路系統の統一上からも、交通政策上、国民経済上にも必要とされた政策ではあったが、鉄道建設を不可分とした植民途上の北海道にあって行政の二元化は時期尚早であったかも知れない。
それの典型は、当時に敷設運動の進められていた現石北本線の遠軽以遠区間に見て取れる。

現行の石北本線を構成する一部、遠軽-北見間は、湧別軽便線として網走線の野付牛(現北見)を起点にオホーツク岸の下湧別(後の湧別)までの81.2キロに計画され、1911年3月に議会の協賛を得て建設の決定したものである。
国有鉄道における軽便線とは、鉄道国有法(1906年3月31日法律第17号)施行後の民間資本による地域交通線建設促進を図って制定の軽便鉄道法(1910年4月23日法律第57号)を、国有鉄道線の「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」にまで拡大解釈して適用した線区に付された名称で、必ずしも線路規格を示すものでは無い。
ところが、湧別軽便線の野付牛での網走線連絡から当然に1067ミリ軌間を採用して1912年11月18日に留辺蘂までを開通した線路は、その延長を762ミリ軌間とされてしまう。
当時の建設主体であった鐵道院とすれば、この区間は、道内鉄道の所管が北海道庁であった1896年に成立していた北海道鉄道敷設法(1896年5月14日法律第93号)第二条に規定された「天盬國奈与呂ヨリ北見國網走ニ至ル鐵道」の一部に該当して、将来の幹線鉄道が想定されていたにもかかわらずである。

北見から網走(後の浜網走-初代)が釧路線の池田で分岐した網走線により道央と連絡されたのは1912年10月5日であった。鐵道院とすれば、これを以て戦時賠償のなされなかった日露戦争後の国家財政からも、この「天盬國奈与呂ヨリ北見國網走ニ至ル鐵道」は当分に予算化のなされないものと考えており、湧別を網走線に連絡する鉄道の計画は北海道庁の主導にて進められたものであった。1906年に着任した長官河島醇は拓殖に鉄道は不可欠として各地に統一組織の「北海道鉄道期成会」を組織させ、住民を巻き込んで鉄道敷設促進を政府・議会に働きかけたのである。
静観していた鐵道院も、1909年に総裁後藤新平を道内視察に送込まざるを得なくなり、同年以降に期成会の提示した予定線の調査に着手、網走線から湧別への連絡線を低規格線として建設する意思を表明するに追い込まれたのだった。
(この項 常紋信号場 (石北本線) 1998 に続く)

この1982年11月改正当時、ここを通過する貨物列車は6往復が残存していた。高速貨物列車は設定されていなかったけれど、コンテナ車組成列車は普通貨物のスジに乗っていた。
新緑の峠を越える列車は576列車。直行貨物1551列車の折返しとなる、北見から新旭川へのコキ/コキフ50000による普通貨物Aである。新旭川から直行貨物1356に承継された。後補機もDD51なのだが、カーブに切れて見えない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1970

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宗谷本線の旭川起点251キロ地点は、列車を南稚内に降りて6キロ近くをひたすら歩く位置だった。線路歩きは歩き難いことこの上無く、1時間半から2時間近くの行程となっていた。現地に下を走る道道までの比高30メートル余りに保線用通路を認め、西浜集落の坂の下までの宗谷バス運行を知れば、歩きが2キロばかりで済んだものの、肝心のバス運行が一日に数本とあってはあまり利用の機会はなかった。
現地に達すれば達したで、ポジションの確保に身の丈ほどの熊笹との格闘を強いられる難儀な場所でもあったが、何よりもここまでを歩く動機の利尻の島影を気に掛けざるを得ないのだった。それは、南稚内近くからでも適当な丘陵を目指して上れば、大火で森林の失われて露となった周氷期地形を縫う線路と共に画角に収められたけれど、島と認識するにはここまで歩く他に無い。

稚内に着いて遠望が効かないと判断すれば最初から歩かないから、ここではいつもそれを見ていた。けれど、島影は認めても鮮明に捉えたことは数える程にも無かった。
特に、この地点で列車編成と画角に切るには、やや稚内方に戻った位置からの下り列車に限られるゆえ、幾度か早朝に下る<利尻>に南稚内の呑み屋で時間を潰して午前3時前から行動したものの、満足の往くカットを得られないままに機関車列車は消え失せた。
例え降雪であっても、宿をとっていない以上朝の晴天を願って厳寒の線路をひとり歩いたのだが、随分と後になってWeb上に同様の経験の記事をみつけて、御同輩は居たのだと感慨した。鉄道屋の考えることは皆同じである。

最近になって、ようやく植生の回復している様子ながら、「利尻富士」の標柱の建植された場所は70年代の始めに初見した時に既に地面の広く露出していた。ほか数カ所の裸地を不思議に思っていたのだが、おそらくは、且つてここに中間線路班詰所が、少なくともその用具収納小屋なり材料置場は存在したのではなかろうか。勇知-抜海-南稚内の長い停車場間距離からも、ここにそれの置かれておかしくは無い。その上で1947年に米軍が撮影した空中写真を眺めれば、確かに建物らしきものが見える。
この当時に機関士に聞いた話では、抜海を早発してここに停まって休憩したことも多々あったらしい。それは、機関士仲間に伝わる、かつて停車位置だった名残とは考え過ぎか。

利尻の島影を見る列車は1391列車。始発の音威子府を5時に出て途中14駅で貨物を扱い、稚内到着は12時過ぎになる。
北の沿岸の透明な夏。40余年前、ここへの初訪問に見た景観である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 UV filter  Kodak unknown film(ISO100)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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