"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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浜頓別 (天北線) 1985

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1970年代の後半に毎年のように通った興浜北線へは、札幌からの夜行<利尻>を午前3時の音威子府に降りて、一時間後に連絡する天北線列車に乗っていた。これは北見枝幸行きを併結していたから、それに乗ればまだ薄明の斜内に直通出来たのだった。けれど、長旅に深夜の起床も辛くなったものか、一度だけ浜頓別に泊まっている。駅前の浜頓ホテルである。
塩狩で一日を撮り終えての移動は23時の到着で、寝るだけの宿の一階フロントから2階への階段壁面に架けられた北オホーツクの油絵が見事で思わず見入った覚えが在る。ホテルでは無く旅館と承知していたけれど、予約の電話では洋室か和室かを問われ、洋室と答えていたそれにはバス付のツインルームが用意されていた。ツインルームは閑散期ゆえの便宜ではあろうが、道内では都市部のビジネスホテルでもまだまだバス無しが一般的だったこの時代に、それの設備には驚いたものだった。ここには駅前商人宿ばかりでなく観光需要も存在したのだろう。

80年代半ばに、思いもかけない天北線客車急行の運行で、ここへは再び足を運ぶことになった。けれど、それには朝の<宗谷>を稚内で捉えてからでも十分に間に合ったから、浜頓別に宿泊することはなかった。食事に寄った浜頓ホテルの食堂メニューには惹かれるものがあって(勿論酒の肴に)、ここを拠点にした天北線撮影も目論んではいたのだが、実行の機会の無いままに線路自体が消え失せた。

下りの<天北>は陽の短い季節には天北線に入ると日没を迎えてしまうから浜頓別でのバルブとして、上りを撮り終えればそこに移動して待っていた。
写真は風雪の中を稚内から到着した726D、音威子府行き。ここで15分程停まる。
この頃には、経費節減とやらでホームの蛍光灯は消灯されており、構内はほの暗くて駅の活気も感じられない。ここは興浜北線ホームへの通路だったのだが、この7月に廃止されてその先は雪に埋もれるばかりだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/125sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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静狩 (室蘭本線) 2010

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此処にも何度か書いているが、室蘭本線の長万部起点2キロから3キロ付近に所在する反向曲線は、線路を海岸線に移行させるために選ばれた線形である。ここで直進を阻んだのは、長万部川河口の低湿地から静狩まで10キロ余りに渡り続いた、600ヘクタールを越える面積の静狩湿原であった。湿原の呼称は近年のことで、当時には開拓すべき平坦地、即ち原野と呼ばれた。
しかしながら、海進期に海水の浸入した潟に数千年を経て厚い泥炭層が形成された高層湿原には、学術的価値が早くから認められ、その国内でも稀な水蘇泥炭地の植物群落の一帯は、国により1922年10月12日に「天然記念物保有地」に指定されていた。
この一大湿地帯が、日露戦争後の国力充実の必要性から更なる北海道の拓殖が叫ばれ、未開地の農地化がより奥地へと進んだ時期に至っても放置されたのは、その開拓に要する大規模な排水事業に目処の立たなかったゆえであり、決して希少な植物群落の保護を意図したのでは無かった。事実、1940年1月22日付でのおよそ170ヘクタール部分に始まり、戦後の1951年までに湿原全域で指定を解除されてしまい、農地への転換が図られたのだった。

ここで、1940年の最初の指定解除に至る経緯には静狩鉱山が深く関わっている。1937年からの日中戦争の戦時下に金属増産を国策として求められた同鉱山は、1938年に製錬所施設を拡張し、新たな鉱滓捨場と鉱毒沈澄池の建設地を必要として、それを静狩湿原に求めたのである。そして、それを後押ししたのが当時の長万部村であった。
村当局には鉱滓のズリを客土として湿原を埋立てての牧畜地化の思惑があり、鉱山からの税収増と合わせての一石二鳥を狙ったのであろう。「天然記念物保有地」の指定解除に「固有未開地売払出願」や「天然記念物保存の解除出願」を村議会での紆余曲折の在り乍ら国へ提出し、鉱山側と協調して北海道や文部省への陳情にも出向いて、それを手にしたのだった。長万部町史によれば、この間の公文書の保存は一切無い、とあるから、余程に村や議会幹部は鉱山に薬を嗅がされたと見て良い。
ところが、この鉱毒沈澄池は予定地の泥炭層があまりに深くて遮蔽の堰堤すらままならず、鉱滓ズリの投棄もまた湿地に阻まれて運搬用索道が山際にしか設置の叶わぬ有様で、村の思惑はことごとく外れてしまったばかりか、戦後に結局湿地外に築かれたズリ山を崩して埋立に用いようとしたところ、それはとても客土として使えない性状であった。このズリ山は、現在でも標高43メートルのピークとして室蘭本線の車窓に眺められる。
戦後に食料増産と外地からの引揚者の入植地を要して、静狩湿原には1951年5月から大規模な排水と埋立の事業が開始され、1954年の竣工にてそれの大半が失われた。現在には、不在地主の所有する6ヘクタール程が開発を免れて残るのみである。その数百人と云われる土地所有者の数から法的保護策も講じられず、稀少植物の盗掘が後を絶たないと聞く。

なお、先に述べた「天然記念物保有地」の指定解除に公文書の廃棄や村議会での紆余曲折の存在は、静狩鉱山が鉱毒公害の元凶でもあったからである。その被害の実相や水俣や阿賀野川公害と変わらぬ会社側の姑息な責任逃れについては、項を改めたい。(本記事に参照した文献資料もその際に併記とする)

国道39号線静狩跨線橋からの定番画角の既出をご容赦頂きたい。低い斜光線を往くのは8009列車。
近年に通信線柱が線路側に移設され、加えてのコンクリート柱にてうるさくなってしまった。遠く無い将来には背景に黒松内トンネルに向かう新幹線の高架橋が併走して失われる鉄道景観でもある。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

千歳空港 (千歳線) 1988

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夕張 (石勝線) 1989 の続きである。

追分線は1965年12月28日に路盤工事認可を得て、1966年1月に延長1954メートルの第一追分隧道から着手して1967年度内には路盤の大半を完成し、1968年10月改正時の先行開業を予定して、大方の軌道の敷設も同年度内に終えていた。
ところが、石狩・十勝連絡線としてばかりでなく夕張地区と道都札幌の短絡機能も十分に認識していたはずの国鉄は、炭礦の衰退にともなう旅客流動の減少や道路交通への転移から、追分線区間のみの単独経営を困難と見て公団からの引き取りを拒み、新得までの全線の同時開業に方針を転換してしまう。
その紅葉山線に狩勝線も当初の1975年度の開業予定が、70年代前半の所謂石油ショックや政府による総需要抑制策などにて工事が遅延し、国鉄の緊縮財政下における要員問題など様々な事情も加わって延期が重なり、ほぼ完成していた追分線の施設は放置され続けることになった。

その認可書類図面を閲覧せずに書いているので、千歳線との分岐点とされた停車場の計画時の呼称や施設上の設置位置は調べ得なかった。鉄道建設公団と国鉄北海道支社は、1968年10月の線路開業時にここへの駅設置を予定して「千歳空港前駅」を仮称としていたようである(*1)。ところが国鉄本社における空港連絡は時期尚早との判断にて信号場とされた経緯が在る。
構内規模はほぼ現行位置であろうが、後の設置の本屋位置は空港ターミナルビルとの連絡橋にて選ばれたから施設上の中心線は移動したはずである。計画では分岐線を中線として将来の千歳線(複線化)増設線がそれを乗越す配線とされていたのだが、その盛土は当面に構築されず、1968年11月25日に使用を開始した増設線は地平に既設線腹付けで建設され、追分線の敷設線路はその傍らに並行して延ばされたまま放置されていた(*2)。
線路は千歳線と接続されていないから信号場の実体は無いのだけれど、その用地と地点は永く千歳空港前信号場と呼ばれていた。その国鉄部内での論争を含む紆余曲折の末の空港連絡駅としての開業は1980年10月1日であった(*3)。

10年以上も放置され続けた追分線も一年後の1981年10月1日に、ようやく石勝線として開業を迎え、それに際しての起点は千歳では無く千歳空港に置かれた。開業の時差から、ここが石勝線分岐の信号場であったことは運転上も施設上にも一度も無かったことになる。
(この項終わり)
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(*1) 石勝線工事誌は、これを最初から千歳空港停車場と記している。
(*2) 千歳線増設線(下り線-上り運転線)との立体交差施設は、その後1970年までに建設された。
(*3) 委細は省くが、1968年の追分線開業時、そして1975年度とされていた石勝線開業時にも見送られた駅の設置は、国鉄部内での議論整理の後、再度旅客駅化を決定したものの、要員問題を理由に再び中止されてしまう。これには、当時に建設の始められていた新千歳空港の開港が当初に1970年代後半を予定していたことも一因と思われる。至近にあった千歳空港ターミナルが移転となれば投資は意味をなさないからである。結局は開港が80年代半ば、新ターミナル完成が80年代末以降にずれ込むことが明らかとなった1976年秋に至って設置に踏み切ったものである。再々度の事業計画変更の認可を1979年9月27日に得て、同年12月に着工した。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
石勝線建設工事誌 : 鉄道建設公団 1982
増補千歳市史 : 千歳市 1983 
北広島市史 : 北広島市 2007
千歳市石勝線関係資料

下り本線のー番線(当時)に停車の711系電車は、3785Mの快速札幌行き<空港ライナー>。
北海道旅客鉄道は、1988年7月20日の新千歳空港開港を控えた同年3月13日改正にて、従来の優等列車の輸送力を活用していた空港連絡を見直し、札幌-千歳空港間に大幅に快速列車を増発し、これを<空港ライナー>と称した。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

夕張 (石勝線) 1989

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千歳 (千歳線) 1985 の続きである。

1950年頃より、広島村と千歳町の間で燻っていた追分線の分岐地点問題については、『北海道鉄道百年史』に1961年5月に北広島から千歳に変更した旨の記述が在る。けれど、これは国鉄部内に留められた了解・決定事項と推定され、公表されることは無かったのである(*1)。おそらくは、1958年に双方を含む関係自治体より分岐点や経由地点に関しての国鉄当局への一任を取付けていたためでもあろう。
1964年3月23日には日本鉄道建設公団が発足し、石狩・十勝連絡鉄道建設の所管は同公団に引き継がれ、同年6月25日付にて日本鉄道建設公団法に基づく「工事線」(*2)に位置づけられて着工が決定した。けれど、これも直ちに公表されるで無く、正式に地元が知るのは1965年4月7日に発表の「1965年度日本鉄道建設公団事業計画書」であった。そこには、建設線名追分線として千歳-追分間17キロと記載されていた(*3)。

このように、追分線は石狩・十勝連絡線を札幌に直結する経路として注目され、それと一体に扱われたが、本来には夕張地区との短絡線である。1950年代初頭時期には千歳町と追分村に夕張市(何れも当時)も加えての関係個所への陳情活動が行われたことがある。
これは、1976年まで千歳から分岐していた陸上自衛隊東千歳駐屯地への専用線の存在を背景にしていた。この専用線は、アジア太平洋戦争末期に日本海軍が千歳第二飛行場の建設資材運搬用に敷設したもので、戦後に進駐米軍が接収し1950年当時には千歳から約9キロの延長を有して追分まで直線距離にて8キロの位置まで達しており、米軍もその利用には好意的であった。千歳町には途中駅を設け開発に資する思惑も持っていた様子である。
石狩・十勝連絡線が工事線となり、前記の追分線の分岐が千歳に内定していた1961年当時、国鉄当局もこれに興味を示し、管理の移管されていた陸上自衛隊と千歳市による協議会に参加して調査も行っている。結果、線形が改良を行っても高速運転に不適として転用はしないものの、その一部路盤の利用は可能と結論していた。
ところで、この協議にかかわる千歳市の資料によれば、この頃、行政側ばかりでなく国鉄も千歳分岐に関して航空機との連絡上の利便性も念頭にしていたとある。首都圏-北海道連絡では、分担率の浸蝕が始まっていたとは云え、まだまだ鉄道が優位に立っていた時代であったが、北海道支社が将来の連携の必要性を意識していた発言とも取れ興味深い。この認識は、後に鉄道建設公団にも共通のものだったろう。

千歳からの分岐には、東千歳駐屯地は良いにしても延長上の馬追丘陵に北海道大演習場(東千歳演習場)が存在して、その地内は勿論隣接しての通過に自衛隊が難色を示したため、鉄道建設公団は演習場を南側に迂回する経路を選択し、千歳より3キロを南進した起点44キロ付近に停車場を設けて分岐する線形を代案としていた。公団の文書には将来の航空機との連携も前提に、その位置を当時の空港ターミナルビル至近位置としたとある。自治体も国鉄当局も一部で共通認識となっていた空港連絡が、経路迂回にともなう地理的分岐位置の南転により、ようやく一歩具現化したと見て取れる。ここに将来に千歳空港駅となる停車場が計画上に登場したのだった。
(この項 千歳空港 (千歳線) 1988 に続く)
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(*1) 1961年5月と云えば、同年4月25日付にて前回記事の脚注(*1)に述べた石勝線が建設線名狩勝線の新得-日高間として着工線に昇格している。これの先行は通称-狩勝新線の建設が目的であり、同年7月14日に路盤工事認可を得たのは、追加された落合線の落合-上落合間と狩勝線の新得-串内間であった。この工事は鉄道建設公団に承継された。
おそらくは、この石勝線の着工線昇格に併せて追分線の分岐点も決定したものと推定している。
(*2) 鉄道敷設法に基づく国鉄における着工線に当たる。
(*3) 他には、金山-夕張間紅葉山線、新得-日高間狩勝線である。狩勝線は(*1)に述べた通り鉄建公団線としての再掲である。

追分線列車の一方の始発駅、夕張での1828D千歳行き。
1985年10月13日に新夕張起点16K890Mに移転していた夕張駅である。1971年11月15日に廃止された夕張鉄道の終点夕張本町とほぼ同位置となり、市役所裏手に位置し市中心部に至近ではあったものの、旧駅の堂々とした本屋に比すれば棒線で簡易型乗降場にダルマの待合所は地域の衰退を体現するような駅だった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

千歳 (千歳線) 1985

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千歳線と室蘭本線を馬追丘陵を越えて短絡する石勝線の千歳空港-追分間は、建設線名を追分線として建設された区間である。
鉄道敷設法(1922年4月1日法律第37号)別表第137項の「石狩國白石ヨリ膽振國廣島ヲ經テ追分ニ至ル鐵道及廣島ヨリ分岐シテ苫小牧ニ至ル鐵道」の規定を根拠に、1957年4月3日の鉄道建設審議会第20回総会における石狩・十勝間連絡鉄道建設の答申にて、その一部の北広島-追分間広分線として調査線となり、1959年11月9日の第25回総会の決定を以て工事線に編入されている(*1)。
以降には、工事線の総称にも用いられた石勝線の構成区間として一体に扱われて、1981年10月1日の開業に至るが、勿論予定線としての法定化時にそれの意識されたでは無い。その条文どおりに室蘭本線の苫小牧に追分を札幌に短絡するもので、前者は北海道鉄道(2代)の札幌線苗穂-沼ノ端間として1926年8月21日に実現した。追分への路線は長沼地域の開発を意図してのことだろうが、予定線とされてまもなくに鉄道省北海道建設事務所の実施した調査にて、北広島から千歳川流域長都原野一帯の低湿地の横断が鉄道建設に不適とされていた。上記北海道鉄道も夕張方面と札幌との自社札幌線を介した短絡を目論み、1922年に免許を得ていたが、それは千歳にて分岐する計画であった(*2)。
この当時から国有鉄道内部では、この路線の建設に際しての起点は追分に近く、自然な線形にて夕張線からの直進経路が採れ、経過地の地質も良い千歳が共通認識であったと思われる(*3)。
けれど、法改正を要するゆえ法定線としては北広島-追分間が残り、将来の幹線鉄道に対して広島村(当時)が調査線昇格が明らかとなりつつ在った頃より北広島分岐を主張する根拠となっていた。ここが札幌市の衛星都市として発展するのは後年ことで、この1955年頃には都市圏とは隔絶された農村に過ぎず、幹線の分岐地点化は経済的拠点化を意味した。輸送の基幹が鉄道に在った時代である。
対する千歳町(当時)も千歳分岐の請願活動を展開し、注目すべきは、その請願事由のひとつに空港利用者の利便向上が挙げられていることである。手元にそこまでの資料は無いのだが、1950年代後半の千歳飛行場と云えばプロペラ推進のダグラスDC4やDC6の数往復が飛来していたに過ぎないだろう。専用駅設置までを視野にしたとは思えないが、航空機との連携輸送の萌芽に取れる。市制を視野に入れていた時期ではあるが、自衛隊の基地拡張にともなう人口増であり、ここにも主要産業は存在しなかったのである。
(この項 夕張 (石勝線) 1989 に続く)
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(*1) 追分線ほかの石狩・十勝間連絡線の構成線区とは、鉄道敷設法別表134項の「膽振國鵡川ヨリ石狩國金山ニ至ル鐵道及ペンケオロロツプナイ附近ヨリ分岐シテ石狩國登川ニ至ル鐵道」による金山-紅葉山間、142項の2の「十勝國御影附近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」による御影-右左府間である。両線は共に中間の占冠付近を予定経路とし、これらを東西に繋げた北広島-御影間を石狩・十勝間連絡線としていた。調査線名は、石勝線と辺富内線である。調査線昇格の時点で早くも石勝線の名が登場し、既に中間に既設の夕張線の活用も織込まれている。
ペンケオロロツプナイは現むかわ町域穂別付近、右左府(うさっぷ)は日高町のことである。
余談だが、戦前期に鉄道省内では十勝への短絡線を、旧北海道鉄道(2代)が正に金山線として建設した富内線を延長する別表142項の2と想定しており、それは日勝線と呼ばれていた。
実際に1939年より辺富内から着工したが、戦況の悪化にて中止、敗戦にて放棄された。戦後にも1950年代まで日勝線の名は国鉄資料に度々登場する。
(*2) 1922年2月18日免許。1925年3月31日失効。会社は、これを追分線と称していた。
(*3) 鉄道審議会資料が調査線広分線を延長16.5キロとしているのを根拠とする。それは千歳起点の計画距離である。

追分線本来の建設目的であった道都札幌と産炭地夕張との追分を介しての短絡は、十勝連絡の石勝線の一部としての開業後に同線内でここだけの区間運転、千歳-夕張・楓(2004年3月まで)間での普通列車運行に名残を見ることが出来る。1986年3月3日改正までは手稲-札幌-夕張間直通列車も走っていた。
追分からの852Dで到着した気動車は、853Dでの折返まで40分余りを千歳駅2番線(当時)で過ごす。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 SC40M filter Tri-X(ISO3200) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 2003

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長万部から直進した室蘭本線は、1969年に架橋された新長万部川橋梁を渡ると起点2キロ付近からR=800の曲線で右に回り、続く3キロ付近までのR=600左曲線で海岸線と並行する。この区間の敷設当時に静狩で山塊に遮られるまで広がっていた海岸湿原(静狩原野)の軟弱地盤を避け、敢えて幾本もの小河川の形成した砂州上に経路を取ったものだろう。
この反向曲線区間が高名な地点とは随分と後になって知ったが、周囲には産廃集積場が存在するなど優れた景観を持つでも無いここは、その開けた風景の中でR=800にて内陸から海岸線を向くところが全てであろうか。その西南西から東北東方向の線路と海岸との位置関係は、噴火湾岸でここの曲線間に100メートル余りの直線部が唯一である。

上り列車には、山側に通信線柱を置いて海上の夕空を背景に抜けたから、17時過ぎにやって来る8002列車の定番ポイントにしていた。しかも、その時刻なら西からの低い光線に列車は半ばシルエットになってくれるのだった。
対しての下り列車だと、背景にその通信線柱を避けれず、機関車に角の生えた風の絵柄はあまり好ましいとは云い難く、普段は敬遠していたのだけれど、3月と10月の半ばだけは別であった。日出時刻が5時50分前後を推移し、その方位が90度から100度を越えるあたりとなるこの時期、ここを6時10分から30分前にかけて通過していた下り寝台特急群は、ほぼ80度方向の進路に正面を僅かに回った斜め前方からの低い光線を受けたのである。それは重連の機関車だけを画角に浮かび上がらせてくれる。
日出位置となる静狩峠から礼文華への山地との仰角を算出し、基準位置を太陽下辺とした机上の計算で、3月なら13日、10月なら15日を中心の一週間程度が適期と知れば、後は早暁からの天候次第ゆえ、これを目的にのみ数日を留保しての渡道もあった。それは秋の方が安定していたのは云うまでもない。
これの撮影に出ると、連泊の宿に東向きの部屋を押さえてもらい、未明に起床すれば東方の空を眺めて観察していたものだった。天空が秋晴れであっても水平線近くの低空に雲が生じていれば叶わないカットなのである。
しかも、低く赤い斜光ならば主役は赤いヘッドマークに限るけれど、その8001列車は隔日にしかやって来ないのだった。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f4+1/2 Non filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1983

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旭川 (函館本線) 1972 から続く

さて、北海道電化の第一期区間開業の際に投入される一方の電気車両の電車は、当初には同じ交流電化の東北線や北陸線に倣っての急行形-30両と、そこには無い近郊形-94両で計画されていた。
急行形はキハ22も使用していた小樽-旭川間にて完結する優等列車網の整備に必然であろうし、近郊形の配備は老朽化の進むスハ32や接客設備で劣るオハ62が主体であった普通列車の大半を電車化する計画であったから、これの代替を気動車化等で余剰の本州地区から客車配転に求めれば、耐寒耐雪改造を伴うゆえ経年客車への投資を避けたものだろう。
この車両計画が早い時点で近郊形の59両に一本化された経緯は調べ得ない。第二期区間までを考慮しても電化区間は道央地域に留まり、将来に優等列車を全て特急化する方針の囁かれていた頃ゆえ、長距離運転の優等列車用は特急形として第三期の函館電化時に先送りした結果と推定する。独立した出入台を持つ車体構造の寒地仕様を盾にキハ22を座席指定制急行にまで運用した前例を以て、汎用の設計としたものであろう。
711系近郊形電車は、内地の近郊形-111系初期車の1395ミリに対してキハ56/27並みの1460のミリシートピッチを確保し、客室化粧板も薄茶色を採用して窓下にテーブルも設けた急行形仕様で設計されていた。
近郊形の由来は、幅1000ミリの客用乗降扉に通路幅の急行形気動車の526ミリに対する650ミリや客室車端部の8人分の横型腰掛に見て取れるが、この711系の縦型腰掛の幅は窓側座席の肘掛を省略したもののキハ22の987.5ミリを越え急行形の1095ミリに迫る1025ミリである。ここまでの設計ならば、電車化による小樽-旭川間到達時分の気動車に対する大幅な短縮もあり、寧ろ完全な急行形として出場が電化開業に対する誘客効果も高かろうに、近郊形に拘った理由はわからない。1967年度第二次/第三次債務計画による量産車の新製事由には、「ローカル列車の電車化及び急行列車増発用」とあった。
けれど、1968年8月28日の滝川電化、1969年10月1日の旭川までの開業時の運用図表に一目瞭然のとおり、そこには明らかに急行列車主体の運用が組まれていたのだった。

この電車は2012年10月改正にて電化の成った札沼線にも進出した。函館線電化時の投入車は既に失われ、それは1980年度の新製車なのだけれど、この系列の登場時の札沼線と云えば一日に僅か10往復20本の気動車が上下するばかりの線区だったから、「北海道電化」の初期を知る身にはことさらに感慨の深い出来事であった。
(この項終わり)

札幌駅頭での711系列車は3724M、千歳空港行き。出庫を兼ねた手稲からの各駅停車がここから快速運転となる。この当時の空港連絡は、企画乗車券「エアポートシャトルきっぷ」による特急・急行利用が主体であり、快速列車は朝に上り、夜間に下りのそれぞれ2本が設定されるのみだった。
なお、この系列の研究記事等において、1966年度末に登場した試作車4両の新造費を「1966年度本予算」とする記述を見かけるが、正しくはクハ711-901/902の2両が該当するのみである。クモハ711の2両については寒冷地での電気運転そのものへの試験供用から電化工事費より支出され、車両予算ではなかったことを付記する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f1.4 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

旭川 (函館本線) 1972

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張碓-銭函 (函館本線) 1974 の続きである。

北海道電化の第一期区間の開業に際しての運転計画は、電化区間内の旅客列車のほとんどを電車化し、客車運行で残る非電化区間との直通列車の全てと貨物列車の大半を蒸機より電機に置き換えるもので、機関車は41両の投入を予定し、この内26両に蒸気発生装置の搭載を想定していた。即ち、ED75 500番台も量産計画は在ったのである。
180キロ余りに限られる区間の電化開業には過剰とも思える41両とは、第二期予定区間の岩見沢から室蘭方面運炭列車を見越してのことだろう。その要求された10パーミル勾配での1200t牽引の性能は、明らかに同区間での2000トン列車牽引を意識していた。
これが早期に見直されたのは、国鉄自身の財政事情もさることながら、1962年の原油輸入自由化に、石炭鉱業からの漸次的撤退の誘導策に出ようとしていた国の石炭政策を見極めてのことであろう。
結果的に、蒸気発生装置を搭載して、それゆえED76の500番台枝番に編入の22両に留められた投入も、非電化線が蒸機運転の当時には積極的に接続駅で機関車交換を行って、宗谷線・石北線旅客列車に芦別・赤平や万字炭山と小樽築港間の運炭列車など多くの貨物列車も牽いたものの、それらが内燃機となればその手間が嫌われ、運用効率は低下して行った。旅客列車においては、そのほとんどと急行の小樽-札幌間など短区間仕業にも永く運用され、貨物でも一部駅の専用線を電化しての配給運転などにも積極的に使われたのは、それの向上策であったろう。
結局のところ、機関車運転の特性からはこの程度の区間では持て余し、函館までの電化延長がなければ無用の長物だったのである。
第二期区間から石炭輸送の衰退に沼ノ端-岩見沢間が除外されたことや、計画自体の1980年度への遅れ、未だに実現の見込みすらない第三期計画が、この機関車に増備の無いまま終焉を迎えさせたのだった。
(この項続く)

写真は旭川駅頭でのED76 514。レストアされた姿は最初の全検出場の直後だったろうか。遠軽からのD51を引き継いで札幌まで522列車の変じた832列車を牽く。電気機関車のスチームは蒸気発生装置搭載の証である。
この514号機は、新製から20年を経た1989年6月9日付にて海峡線運行用設備を搭載して551号機となり、五稜郭の青函運転区に転じて生き延びた。ほぼ<エルム>に専用されたのをご記憶の向きも多いだろう。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR4 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1974

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北海道電化の頃のことは良く覚えている。札幌地区の鉄道には一大変革であったから鉄道雑誌や北海道新聞の記事をむさぼるように読み、1966年11月からのED75の、1967年2月からの711系電車の試験運転は何度か眺めに行っていた。ハーフ判カメラを手にしていたけれど、拙い画像は個人記録の域を出るものでは無い。
「函館線電化」では無くて「北海道電化」とは不思議な言い回しだが、当時にはそう呼ばれていた。これは函館本線ばかりでなく室蘭本線に千歳線も含めた道央/道南地区の電気運転計画の総称であり、1958年に着工の門司港-久留米間「北九州電化」と同様に、中央の国鉄本社から見ればそうなるのであろう。

1958年2月に国鉄部内に設置された動力近代化調査委員会は、40回に渡る専門委員会の開催を経て1959年6月19日に総裁に対して答申を行った。そこでは、1958年度末の既電化区間2500kmに加えて「主要幹線約5000kmを、遅くとも15年以内に電化」すべきとされ、これには道内の長万部-小樽間を除く函館本線、室蘭本線、千歳線が含まれていた。
この答申を受けた道内の電化計画は、1964年1月に国鉄北海道支社に設置された「電化計画委員会」に始まる。北海道開発庁による1963年度からの「第二期北海道総合開発計画」において旭川・小樽から室蘭に至る道央各都市への第二次産業の誘致・育成が盛り込まれ、当時に陸上の基幹輸送機関であった国鉄は、対本州の輸送力増強と輸送時間の短縮ばかりでなく道都札幌とこれら都市を結ぶ輸送網の整備をも迫られていたのである。
この委員会にて立てられた計画案は道内の電化を三期に分割して実施するものとされ、第一期の小樽-旭川-永山間を1968年度に開業、第二期を室蘭-岩見沢間と千歳線区間として1971年度に、第三期を函館から東室蘭の区間にて1973年度を目標にしていた。この内の第一期計画は1965年11月に国鉄理事会の承認にて着手が決定、直ちに工事認可(1965年12月3日運輸大臣認可)を得て、銭函-手稲間と定めた試験区間の手稲構内に電化1号柱が建植されたのは翌1966年5月のことであった。
滝川までを1967年度、全区間を北海道が開基100年と位置づけた1968年度の開業を予定したのだが、車両側に生じた誘導障害や試験区間で明らかとなった冬期間の設備保全などの技術面の解決などに時間を要して、小樽-滝川間は1968年7月25日に通電・加圧され、試験運転を経た8月28日に開業、以遠旭川までは、1965年8月に着工していた納内-近文間の別線複線の神居トンネルにおける難工事から、それの完工を待っての1969年10月1日の開業と、それぞれ1年を遅れた。けれど、現在に至るまで道央の基幹輸送路に欠かせぬ設備となっている。

第二期と位置づけられた区間については、北海道総局からの計画概要に本社にて検討の開始されたのは1977年2月のことであり、同年12月12日の常務会にて計画決定され、翌13日の理事会の承認を以て、1978年1月9日に運輸大臣の工事認可を得て直ちに着工された工事は、1980年10月1日の開業と計画に9年を遅れることになった。そして、第三期区間の着工は見送られ続け、今後の着工もあり得ないだろう。
この遅れは、切迫していた財政上の事由もあるが、当時に政府内で進められていた北海道新幹線の経路問題が影響していた。それが1974年に小樽を経由する「北回り」に決着したことで、第二期計画区間との重複投資が回避されて、ようやく計画の進行したのであった。当時に整備新幹線は近い将来の着工が見込まれており、それも無理からぬこととも思える。
北海道総局の提出した計画では、石炭輸送の衰退から室蘭本線の沼ノ端-岩見沢間は削除されていたが、代替に第三期の函館-東室蘭間を先取りすることは無く、この時点で既にそれは放棄同然であったろう。その区間こそ新幹線の並行線ゆえである。であれば、この時点で室蘭から苫小牧の区間も削除されて然るべきなのだが、それの見直しの無かったのは、室蘭市を始め沿線自治体への対応と国鉄の官僚体質からだろうか。
1970年代前半の計画停滞が、その後の北海道電化の命運を分けたとして過言でなく、それに少なからず新幹線計画が影響した事実は覚えておいて良い。
周知のとおり、今その区間には数往復の特急電車のみに大規模施設が稼働を続けている。
(この項続く)

激しい降雪の石狩湾岸を往くのは、荷41列車。
銭函-手稲間の試験区間は1967年10月に朝里まで延され、ここの電車線路設備はそれ以来のものである。複線分を片持ちする巨大な鉄製電化柱は、ここに試用された独特の形態で他に例は無い。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 L37filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

音別 (根室本線) 1999

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基本的に時事ネタは取り上げぬつもりではある。けれど、先に禁を破って 七飯 (函館本線) 1988 に書いた危惧が現実となりつつ在る様相ゆえ、続編としたい。

先日の北海道新聞のスッパ抜き(2013年12月5日付経済面)によれば、北海道旅客鉄道が2015年度以降に新製を計画するキハ261系車両の28両に対して、同系列が本来に装備する車体傾斜機構の搭載を見送る方針であると云う。同記事の推測通り製作費の低減と高速運転による軌道破壊、それの保守費削減を意図してのことと思われる。2015年度以降とは、新幹線の函館開業を見据えての車両計画であろう。
この報道にて、訝しく思っていた2013年11月1日改正における釧路特急のみの最高運転速度の110km/hへの抑制を納得した。先の記事で指摘したように、北海道旅客鉄道は少なくとも札幌-釧路間に限れば、運転縮小と到達時分延長にともなう旅客の離反を前提に、それによる運転・保守の経費低減からの収支均衡を図る方針を選択したと見て良い。2015年度には北海道横断自動車道(道東道)の釧路インターまでの開通が予定されており、これは一種の敵前逃亡に等しい。
過日の北海道新聞(2013年9月7日付経済面)は、減便・減速ダイヤの釈明に釧路市を訪れた同社幹部による「新車導入」発言を伝えて、増備の261系はここに投入されるものと推定される。110km/h運転とは車体傾斜装置を稼働しない運転を前提としたものだろう。
個別の形式を考慮しない概算ではあるが、1往復を削減した現行ダイヤでの283系の車両需給は、57両の配置に対して26両の使用である。これには、函館方面と帯広特急からの撤退による予備車が過大に含まれている。この運用を261系の28両に置替えても、配置-27両/使用-15両の帯広特急運用と予備車を共通化すれば予備車率25%を確保出来る。

背景には、新幹線函館開業時点を予定したハイブリッド方式特急車の製作に技術面からも資金面からも目処の立たぬ事情があるものと思われ、釧路特急から捻出の283系-57両は、経営資源を集中化すると見られる函館方面に転用されるのであろう。速達の要求される新幹線接続には、自己操舵台車を活用して曲線通過速度をさらに向上した130km/h運転への復帰は欠かせぬ要件である。57両の配置は、予備車率26%に当たる15両を差し引いても、6両組成の7本運用とすれば1時間ヘッドと予想される新幹線に接続する12往復運転が可能である。
この時点で、さらなる増発に281系の1編成を温存するかも知れないが、おそらく、それの27両は稚内と網走方面へ現行で22両使用の183系置替に転用されて、使用休止中の函館方面運用も含めてそれを淘汰する計画と推定する。
ここからは、183系500/1500番台の出火原因が特定されても大幅な改修を施工する意思の無いことも明らかであり、現在の使用停止措置は廃車前提の休車措置に等く長期化するであろう。

繰返すが、釧路方面に克明となった、この2013年11月改正ダイヤの固定化は輸送の前線からの撤退を意味する。1987年の民営会社発足時には、「国鉄改革」を内部から推進した「声の大きい」者達が功労賞的に各社の経営幹部に就任した。以来、四半世紀を経過してその後を引き継いだのは、「もの言わぬ」ことで新会社に採用された、当時の中間管理職である。この者達による、高速道路開通を前にした縮小再生産型の施策が、どれだけ鉄道会社としての活力や、その源たる従業員の士気を奪うことか。自明である。
加えて、国鉄民営化時の反動中曽根内閣に優るとも劣らぬ、安倍右翼政権には将来の北海道旅客鉄道の東日本会社への吸収・統合を画策する動きの伺える。同社も同意せざるを得なかった技術社員の長期派遣は、その布石であろう。「国鉄改革」の本質とは、国民の購い続けた国鉄資産の収奪と労働運動の分断であったから、「民営化」の目的が達成されれば「分割」は目眩ましだったのである。政権党有力者の懐を潤すには巨大企業が好都合に違いない。

写真は、183系500/1500番台にて運用されていた当時の4010D<おおぞら10号>。既出画角の冬期ヴァージョンにご容赦を頂きたい。
車体傾斜制御を行わない261系の走行性能は、ほぼこれと同一である。線形の良い千歳・石勝線内では最高速度120km/h運転、新得以遠は283系導入時の軌道改良を幸に、183系運用時へ15〜25km/hを上乗せした110km/hとなる。但し、曲線制限を各所にて受けよう。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f5 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

小沢 (函館本線) 1974

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道内線区には幹線として開通しながら、後にその地位を奪われた例が幾つか存在する。何れも、より短絡線に代替されてのことで、釧路連絡線の一部であった富良野線、宗谷本線として開通の天北線、かつての網走本線だった池北線、それに替えて北見・網走連絡を担った名寄本線などである。
この函館本線の長万部-小樽間、通称の函館山線区間もその類型には違いないけれど、やや事情は異なっていた。噴火湾北岸の断崖地形を越えての長輪線の開通は岩見沢との短絡であったから、内地とを結ぶ貨物幹線とは成り得ても、その際に札幌連絡の旅客輸送が転移することはなかったのである。戦後に進駐軍専用列車の運行を契機に室蘭・千歳線経由運転の優位性が実証され、国鉄部内で地域交通線化が幾度か検討されながら、1961年10月改正で道内最初の特急列車が東室蘭経由とされた後に至っても、なお幹線の地位を保ち続けたのは偏に沿線の小樽市の存在ゆえであろう。
1904年10月15日に函館-小樽中央(現小樽)間全通を果たした北海道鉄道(初代)が、当時の幹線鉄道中最悪と云われた線形を以てしても渡島半島の縦断経路を選択したのは、噴火湾岸の断崖を避けたと言うより、札幌を凌ぐ経済拠点であった小樽を、そこに達していた北海道炭礦鉄道線との接続を無視出来なかったからに他ならない。
以来、小樽を経過地とする内地連絡列車は連綿と温存され続けたのだが、戦後においてその市勢が縮小して札幌経済圏に吸収され、内地への旅客流動も千歳空港方向となるに及んで、ようやくに(?)山線は幹線より没落したのだった。

国鉄が永年の懸案であった山線の地方交通線化を断行したのは、民営化を目前に控えた1986年11月改正である。先に記した各線区での事例が1900年代前期の鉄道が陸上交通の主体を担った時代のことゆえ、長距離優等列車が転移しても、そこは引続き主要な交通路であったのだが、希有な近年の事例となったここでは、ドラスティックに変化が進んだ。行き違い設備の撤去など施設の簡素化は云うに及ばす、線路等級の格下げにより保守基準も緩められたから、線路はたちまち細道と化して、女満別 (石北本線) 1973 にも書いたように、最近では列車走行空間も確実に小さくなっている。
棒線の上にダルマ駅と化した二股に蕨岱や、大きな駅本屋に10両編成対応の長い乗降場を持て余す倶知安もそうだけれど、この区間の零落を最も強く感じさせるのは小沢だろう。倶知安峠と稲穂峠の谷間に在って上下列車とも峠への緊張感を持って出発して行った駅は、岩内線の接続駅として多くの駅員を収容したであろうマンサード屋根の大きな駅本屋がすっかりと取り払われ、跡地への小さな待合小屋周囲には空疎な空間の広がるばかりの光景を見せる。風雪を刻んだ重厚な跨線橋だけが残されれば、なおさらの感がある。構内北側の側線跡へは周囲の植生が進出して、構内は一回りもふた回りも小さくなった。

蒸機運転の無くなって間もない頃、雪の降り始めの小沢駅。
積雪に備えて準備されたのは、ホーム上での手小荷物・郵袋の運搬用の橇である。永いこと使われたであろうそれは、無骨だけど丁寧に木を曲げて創られていた。岩内線ホームには朝の線内輸送を終えた気動車が佇む。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/250sec@f5.6 Y52 filter  Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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桂川信号場-石谷 (函館本線) 1977

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北海道警察森警察署が公表しているヒグマの目撃情報によると、2013年10月17日に湯の崎で桂川方向に進む姿が目撃されている。「国道湯の崎トンネル北東側旧道上」とあるから、湯の崎の海沿い、1969年まで国道5号線が、1971年まで函館本線が通過していた路盤跡に違い在るまい。毛無山方向から道央自動車道の鷲ノ木遺跡トンネル上を越えて移動して来たものだろう。
子供の頃、手稲の新興住宅地にも熊は出没した。その個体群は絶滅の危機に在る山域もあると云うが、今も昔も生息域が生活圏と隣接しているのは変わりがない。

以前にも書いたけれど、この桂川から石谷の区間の線増は、桂川-石倉間線増として「第三次長期計画」に組入れられ、大半の区間が複線別線で計画されていた。それは、建設省函館開発建設事務所の所管する、森町域の森川町地内から石倉町地内までの国道5号線の改修工事と密接な関係にあった。
この桂川信号場-石谷間の計画は、湯の崎を海岸線に沿って迂回していた区間の複線断面の隧道新設による短絡であり、森市街地を避けて直進する「森パイパス」建設にて進められた国道もまた、湯の崎には函館本線山側に隧道を穿つものであった。ここでは、既設の国道は桂川方の海側が湯の崎の途中の踏切にて山側に移り石谷に至る線形だったから、函館本線線増を単独で進めると隧道出口方に平面交差を生じてしまい、また石谷までの区間も海側に路盤を新設せざるを得ず、国道改良工事との連携とそれの先行を要したのである。
1966年度に着工した両工事は、国道の「湯の崎トンネル」が1969年に竣功して「森パイパス」が開通、函館本線の「桂川トンネル」も追って貫通して、石谷方では旧国道の用地を増設線路盤に転用した複線化が進められ、1971年7月28日に増設線である将来の下り線を使用した単線運転に切替えられた。使用を停止した既設線の改修工事の後、複線運転は同年9月21日の開始であった。
石谷から本石倉信号場を経て石倉までの区間は、両端停車場付近を除く全区間が山側に第一から第五の石倉トンネルを掘削しての別線複線新設となり、1973年12月11日に石谷から函館桟橋起点58K880Mまでを将来の下り線を用いた単線使用、以遠石倉までを複線使用として切替られた。起点58K880Mとは新設線の濁川橋梁(L=30M)付近であるが、ここまでの単線は第一石倉トンネルと第二石倉トンネル間で新線の複線路盤構築に既設線が支障し、それの切り崩しを要したためである。その施工を待って、ここは1974年10月31日に複線使用を開始している。
そして廃止された旧線路盤の多くが国道の拡輻に転用された。桂川トンネル付近と同じく国道の旧道用地を増設線路盤とした第五石倉トンネルから石倉までの区間との用地の相互交換である。

桂川トンネルの石谷方は下り線が増設線だから、この風化して骨材の砂利が露出した護岸は、1903年11月3日のこの区間の開通に際してか、その直後に築造されたものと思われる。
列車は、102列車<ニセコ2号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

黒松内 (函館本線) 1975

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8620の牽く水郡線列車の木造客車に乗る姿は親父の撮った写真に残るけれど、幼少の自分に記憶は無い。オハ31には微かに記憶の在るものの、1950年代の末に小樽から札幌への「お出掛け」に乗った、窓と座席の合わない客車がそれと後になって知った程度である。この形式は700ミリ幅3個組の客窓に二つの座席区画が割り振られた設計だったから、子供の眼にはそう見えたのだろう。
魚腹台枠を持つ17m級鋼製客車だったこれが、その構造ゆえに1960年代半ばまでには一掃されたのに対して、経年で大きくは変わらない20m車体のスハ・スハフ32は80年代まで生き残ったから、その組成列車を良く眺めもしたし乗って旅もした。オハ35からの1000ミリ幅の広窓も良かったけれど、ひとつの座席区画に高さ740ミリ/幅600ミリの客窓の2個が並ぶ、その「ひとりひと窓」が気に入って、編成にこれがあれば選んで居場所を決めたものだった。
もっとも、道内に限ればオハ35(オハフ33)の配属は以外に少なく、急行列車の14系化でスハ45・スハフ44が大量に捻出される以前の本線系統の長距離普通列車は、この形式が主力ではあった。函館本線の121・122列車に宗谷本線の321・324列車や石北本線の521・522列車、根室本線の421・422列車などである。旅客車がこれで揃った美しい編成をご記憶の向きも多かろうと思う。
内地の、例えば東北線筋の同形は古びた印象が強いのだが、道内車はいつも奇麗に整備されていた記憶があり、特に、函館本線系統列車は函館客車庫以来の伝統なのか、必ず順位票(号車札)を差して優等列車然としていたことや、温気暖房機搭載のオハ・オハフ62主体の石北線列車にあっては札幌直通の521・522は別格の存在だったことも思い出される。同線仕業のDD51は、夜行急行とこの列車のためだけに蒸気暖房装置を稼働させていた。
函館山線夜行や根室線夜行(後の<からまつ>)にも組成されて、その窓側に肘掛けの無い、シートピッチ1455ミリは、閑散期にひと区画を占拠して対角線に横になるにはスハ45よりも快適であった。遅い時期まで白熱灯照明の車両も残存しており、減光の必要も無いような(実際にその仕様にはなっていなかった)古の夜汽車の旅も味わえたものだった。

写真は、121列車の旭川行きに組成された函館運転所のスハフ32。
この頃のダイヤで函館を6時20分に出て20時06分の終着は、全区間に乗って見たいような、乗りたくも無いような列車であった。
内地で多客期の臨時急行への組成を見かけると、あまりの格差に愕然としたクルマだったけれど、北海道のこれで揃った編成は優等列車のように美しかった。

[Data] NikonFphotomicTN+P-AutoNikkor105mm/F2.5 1/125sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

黄金 (室蘭本線) 1996

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鉄道のエンサイクロペディア、1958年に国鉄の発刊した『鉄道辞典』によれぱ、鉄道林とは「樹木の特有な保安的機能を利用して、線路および建設物等の災害発生の根源を断ち、列車運転の安全をはかるために設置育成された森林または買収した既設林」と在る。道内で鉄道林と云えば、吹雪防止林や雪崩防止林などの防雪林が一般的であろう。道央から道北、道東の各線沿線には防風林も含めてその例は多い。
雪原ならば程良いアクセントになり、良いポイントの見つからずに線路際からとなれば、背景の空に抜けるのを遮ってくれて重宝したものである。

室蘭本線の稀府から黄金の丁度中間あたり、長万部起点61K600M付近から63K500M付近までには、室蘭本線沿岸区間で何故か静狩付近とここだけの鉄道林がある。
それは防雪林に在らず、防風林もしくは飛砂防止林と思われるが、どちらなのかは分からない。海側と山側の両側への設置は、おそらくは双方を兼ねて育成されたものだろう。この区間だけが特に砂害の生ずるものか、育成の記録は無いものかと幾つかの資料をあたったけれど記載はなかった。それが途中150メートルばかり途切れるのも不可思議ではある。
何れにせよ、そこを線路は直線的に通過するだけなのだけれど、海・山側とも道路が並行して住宅も点在する凡庸な沿線を鉄道林が遮断して、雰囲気の在る閉鎖空間が構成されていた。つまり、それは余計なものが画角に入り込まずに、必要なものだけが写り込むことを意味して、それ目当てに幾度か通っていた。「必要なもの」とは真狩山(後方羊蹄山)である。
稀府からの直線区間を正面気味に画角に切ると背景は有珠山になる。その先でR=804の曲線にて右に回って、この鉄道林区間に入れば、その後側に隠されていた真狩山が姿を現す仕掛けなのである。空気の澄んだ秋冬期には、それは鉄道林の上に浮かんでシンプルな画角に収められた。

ここは、おそらく保線用と思われる側道も通じていて歩きも楽しめたし、何より林の中に腰掛けて高速で駆け抜ける列車を眺め乍らコーヒー沸かすのは至福と云えた。
真狩山を背景に防風林を駆け抜けるのは、5005D<北斗5号>。沸き立つ陽炎が鮮鋭度の邪魔をする。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8D 1/500sec@f4+1/2 Fuji SC40M filter Ektachrome100PLUS (EPP) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

厚賀 (日高本線) 1980

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日高本線の車窓が静内を境に一変するのは、その沿革の相違からである。
苫小牧-佐瑠太(現富川)間は、1909年に鵡川まで、1911年に佐瑠太までを延伸した王子製紙の運材軌道の改修により1913年10月1日に開業の苫小牧軽便鉄道、佐瑠太-静内間は1926年12月7日に全通した日高拓殖鉄道の共に762ミリ軌間の軽便鉄道を出自としている。対して、これらを1927年8月1日付にて鉄道省が買収、1931年までに改軌の上で、その延長線として1933年から1937年に建設したのが静内以遠様似までの区間である。
苫小牧から水平線を眺めた車窓が、静内を過ぎて内陸に向かい小さな峠越えを繰返すのは、それによる。鉄道省は線路規格こそ国有鉄道簡易線建設規程に準拠したとは云え、海沿いの断崖を避けた線形を取り、民間資本により投資を最小限とし速成を意図した区間は、その後に永く浪害に悩まされることになった。

特に海岸段丘が直接に海岸線に接する浸蝕性地形の続く清畠から節婦の区間にそれは激しい。軽便鉄道当時から築堤崩壊などの続いたこの区間に対し、国有化後の鉄道省は護岸構築の防護策を講じるものの、護岸基礎の波浪による洗掘からの倒壊も続き、1950年代の厚賀漁港の築造が浸蝕に拍車をかける結果となっていた。このため、後背地に余裕の在った清畠-厚賀間では、1960年に苫小牧起点62キロ付近からの約3キロ区間で最大220メートルの内陸移設を行い同年12月25日に使用を開始している。けれど、浸蝕性段丘直下の区間ではそれもままならず、強固な護岸にて凌いでいる現況ではある。
加えて、そこは陸側の断崖にも注意を要して防災上の問題が大きい区間でもある。1979年7月6日には60km/hにて進行中の下り急行<えりも3号>が、厚賀-大狩部間にて線路上の落石に追突して脱線、乗客に14名の負傷者を生ずる事故の記録も在る。

反面、海岸線の線路は日高山系からの流れの河口を長大橋にて渡り、さながら海上を往くような景観を見せてもくれる。厚別川、新冠川、静内川などへの架橋である。中でも陸側からの視点の取れる厚別川橋梁は定番であろう。
定番の位置での定番のカットをご容赦いただきたい。これは、撮らされてしまう画角なのである。
列車は839D、様似行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkorED180mm/f2.8S 1/500sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1978

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札幌と釧路を結ぶ気動車による優等列車は、1961年4月15日に函館線内を夜行運転としていた函館-釧路間準急<狩勝>(*1)に、これを札幌発着へ立替えの上で投入したことに始まる。気動車運行による大幅な到達時分短縮から、同時に急行列車への格上げもなされた。
これは、苗穂機関区への1960年度民有車両計画によるキハ56-5両/キハ27-12両/キロ26-5両の配備を待って行われた施策であり、後に続々と増備される、この急行形気動車系列による全国で最初の急行列車への運用事例でもあった。この22両の配備は、<狩勝>の5両編成-1組運用の他にキハ55/26(*2)を使用していた函館-札幌間座席指定制急行<すずらん>の置替とそれぞれの増結、および日高本線への季節準急運転を考慮したものであった。
根室本線系統へは、続いて1961年度本予算車の出場により同年10月1日改正で客車運行の札幌-釧路間多客臨(*3)を定期化の上函館-札幌間<アカシヤ>と繋いで気動車化した<摩周>が設定され、以降1962年2月1日に帯広発着の<十勝>、1963年6月1日には札幌-根室間に<阿寒>が相次いで増発されて根室本線の気動車優等列車群の骨格が形成されて往くのである。1962年10月1日改正で特急<おおぞら>が運転を開始し、1964年10月1日改正での<摩周>の<おおとり>への特急格上げもあるが、本州連絡を使命とするそれらに対して線内優等列車として機能を果たす列車群であった。
1968年10月1日改正を以て、その代表として<狩勝>への愛称統合(*4)が行われた後も1往復が季節列車に格下げされた時期もあるものの、3往復の設定は永く維持された。

石勝線の開業した1981年10月1日改正では、帯広発着を除く2往復が編成を短縮されながらも滝川経由にて残存したけれど、以後、1984年2月1日改正にて上りの根室発の廃止と1往復の帯広-釧路間の普通列車格下げが行われ、1985年3月14日改正でグリーン車の組成廃止、1986年11月1日改正では、1961年に客車準急を置替えた<狩勝>本来のスジの廃止など運転縮小が続いた。終末期にはキハ56の2両に富良野回転車としてキハ40を併結する遜色急行となって1990年9月1日改正にて消滅した。
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(*1) この列車は、1950年10月1日改正で設定された小樽以遠を普通列車とした函館-釧路間準急を、1955年6月1日に全区間準急列車に格上げしたものであるが、この際には新設の函館-網走間準急列車に函館線内のスジを譲り、それの附属編成となっていた。客車の配置と運用の都合であろうが、函館発着は1両が網走編成に併結されるのみで列車本体とも云える2等車を含む4両は小樽解結とされた。実質の小樽-釧路間昼行準急は、現在まで繋がる根室本線系統昼行優等列車の嚆矢に違いなく、当時に同線内夜行優等列車の函館-釧路-根室間急行<まりも>と対をなす代表列車であった。<狩勝>の愛称は1959年9月22日(1958年7月15日とする説もある)に付与されたもので、同時に網走準急は<はまなす>と命名された。
(*2) 2等車はキロ25。冬期間に3等車はキハ22に置替られていた。
(*3) これも<狩勝>を名乗っていた。
(*4) 上りの<阿寒>のみが運用の繋がっていた函館本線急行と統合して根室-函館間<ニセコ>とされた。

写真は、広内信号場からの馬蹄形曲線を駆け下りる401D<狩勝1号>。
前2両は1962年5月1日以来の旭川発着附属編成。キロ26を含む8両組成は幹線急行の風格十分である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1976

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その冬、まだ年も明けてまもない頃だった。塩狩の待合室で朝から夜までの一日を過ごしたことがある。
旭川での小雪模様は宗谷線を北上する程に激しい降雪となって、降り立った塩狩は沿線に立っても視界の取れない程だったのである。177で聴いた天気予報(当時の情報収集はそんなものだ)は一帯の悪天を告げていたし、列車本数も少なく、国道を往くバスの利用も考えたけれど、なにより何処へ移動するにせよ時間が中途半端だったものだから、仕方なく駅から離れない撮影に切替えて、その日は休養日とも決め込んだのだった。

駅を出ればその日の撮影予定をこなすまでフィールドで過ごすのが日常の中で、たまたま撮影地点が駅からさほど離れず、長い列車間隔に時間を持て余せば、線路の無いところへは往かない鉄道屋なので駅に戻り待合室で過ごしていた。
駅が当たり前に駅であった時代、冬の季節にはストーブの焚かれた待合室に腰掛けて、降り積む雪を眺め窓や扉の風雪に軋むを感じ、海沿いの駅ならば遠く海鳴りを、風鳴りを聴いた。夏には夏で、開け放たれた窓を吹き抜ける風速に佇み、うるさい程の野鳥の囀りに耳を傾けるのは至福の時間でもあった。
北浜に鬼鹿、細岡、門静、銀山、抜海、猿払、北母子里と思い出す駅はいくらでもある。

塩狩は樹林帯に囲まれて外界から隔絶されていたから、列車の通り過ぎてしまえば深々と積む雪の静寂に駅務室で事務を取る駅員のペン先の走る音すら聞こえた。ストーブの薬缶の湯気をぼんやりと眺め続けるには時を忘れる。
尽きぬ降雪にも列車は定刻にやって来る。下りの蘭留出発を告げる電鈴が鳴り、開けられたラッチ扉からの冷気に我に帰るけれど、これを待つ旅客はいない。簡素な松飾りの駅。
列車は345D、幌延行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.


上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1996

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西の里信号場 (千歳線) 2000 から続く。

まだ手稲に住んでいた頃、おそらく1970年の秋だったと思う。千歳線や函館線の車窓には見えなかった千歳新線の厚別から大曲の区間を自転車で札幌市街地を越えて眺めに行っている。
新厚別駅(*)周辺は、拡幅された国道12号線の北側に高架橋が立ち上がりつつあり、南側に盛土の構築工事が見えたけれど、駅予定地と思しきあたりは丘陵を削った切通しのような路盤に草ばかりが生い茂る様相に些か落胆した覚えが在る。この駅の設置は、札幌市から強い要請に国鉄も市場性を見いだしてはいたものの、部内に要員の増加には財政上の事由から異論も存在し、また組合との協議にも時間を要して決定の遅れたのだった。
そこから周辺で宅地造成の進む野幌川沿いの田舎道を往くと築造されたばかりの盛土脇に出て、広島街道との交点では盛土幅が広く橋台が上下線で間隔を持って、そこが移転の上野幌と知れた。築堤に上がってみれば一部に軌道が敷設された広い駅用地が見えたのだった。周囲に人家は疎らで、その利用者のあるとも知れぬロケーションではあった。
築堤沿いの砂利道が旧線の線路を越える踏切から農道を野幌川に下りると、車窓にも見えた長いコンクリート橋に往き当たった。その大曲橋梁の周囲の景観だけは今も変わらない。
帰路に選んだ広島街道には、厚別川あたりでまだ改修前の二股に分かれた細道に迷ってしまい、羊ヶ丘の方角に沈む夕陽に心細かったのを覚えている。
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(*) 計画での下野幌、開業時の新札幌駅のこと。当時の北海道新聞にはそう書かれていた。

以下に参考文献を掲げて、13回に分けて続けた千歳新線にかかわる記述を終わる。
写真は大曲橋梁での8773列車。本輪西から札幌貨物ターミナルへの石油輸送列車である。

=参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
札幌駅116年の軌跡 : 北海道ジェイアールエイジェンシー 1996
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992
交通技術 : 交通協力会 1946年より各号
国有鉄道 : 交通協力会 1947年より各号
国鉄線 : 交通協力会 1949年より各号
交通年鑑 : 交通協力会 1947年より各刊
北海道の電化と線増について : 土木学会北海道支部技術資料第22号 1965
新札幌市史(第5巻通史5上) : 札幌市史編纂委員会 1988
北広島市史 : 北広島市史編纂委員会 2007
線路一覧略図 : 札幌鉄道管理局 1966 / 国鉄北海道総局 1975
列車運行図表 : 国鉄北海道総局 1970 / 北海道旅客鉄道 1994
(73年)9月9日時刻表 : 国鉄-利用者向け配布チラシ 1973

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8 1/500sec.@f8 Fuji SC42 filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

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