"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

釧路 (根室本線) 1983

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鉄道雑誌に見ていたDD51形式内燃機関車の実機との初対面は、1965年の冬、水戸への帰省に利用した204列車<第4十和田>の牽引機としてだった。青森駅のホーム外れで構内照明の灯に見たそれは、試作機の坊主頭のようだった運転台屋根は深い庇に改められ精悍さを備えはしていたけれど、センタキャブの形態はやはり誌面のとおりの入換機の印象を拭えなかった。
翌年春には道内への投入も始まるけれど、遠く釧路へのことで、それが札幌へ姿を見せるのは1968年5月に函館機関区へ配置の3両が、201D・202Dを夏季輸送で客車に置替えた201・202<アカシヤ>を重連で牽いた7月1日以降である。客車に内地から借入の軽量客車のないものかと眺めに行った折に、C57牽引とばかり思い込んでいたそれを牽いて現れ驚いた記憶が在る。この3両は、本来同年10月1日改正にて設定される隅田川-新札幌(現札幌貨物ターミナル)間の特急貨物列車牽引用であり、当時に繁忙を極めた夏季輸送に先行配備され、気動車急行の増結を要した車両需給から夏期のみを客車運行に替えた<アカシヤ>に充てられたのである。この本線用大型機の重連は<ゆうづる>でも目撃していて、さすがに威風を感ずるものの、DF50の後継機がどうして箱形車体でないのか、もどかしい思いで眺めたものだった。
翌1969年の春からは、函館機関区(後には五稜郭機関区)や鷲別機関区への本格投入が始まり、その夏に倶知安峠で「D51急行」を期待して待った8112列車<ニセコ2号>の5両編成を軽快に牽いて走り去りもした。山線への最初の仕業だったと思う。
1970年代前半ともなれば各線で蒸機を放逐して、以来35年余り、釧網本線と一時期の天北線を除けば道内で機関車列車の先頭を務め続けている。道内への最終配備となった1974年度第一次債務計画車ですら、運用の大半から撤退した2005年時点で車齢は30年に達し、2013年の現在も残る個体は38年にも及ぶ。<ニセコ>を牽いたC62の用途廃止時のそれは23年であったから、38年は如何にも永い。
全国的な地方幹線の電気運転化進展以降に、この機関車が長大編成の貨物列車や優等列車を牽いて幹線を疾駆する姿の見られたのは北海道に限られたから、それに惹かれて年間に幾度も沿線に立ったのだけれど、投入初期からの経年を思えば、そのほとんど全ての期間でファインダに在ったことにもなる。
1994年に至って、ようやくその本線機らしい箱形車体に永年の溜飲を下げた後継機のDF200の量産が始まり、画角にバラエティの生まれれば、正直なところ以来DD51には少しばかり食傷気味でもある。
DF200の石北本線への入線試験に牽引試験が幾度か繰返され、2013年度限りとされる同線に臨時運行の貨物列車への仕業を期待したのだが、蓋を開けてのDD51となればDE10を従えた常紋越えを見慣れた身には食指の動きそうに無い。

入換機然としたセンタ配置の運転台は、それでも本線機らしい風格の外観を見せてくれる。これに限れば、ボンネットを備えるゆえに蒸機のキャブを思わせるのも好ましい。
414列車<まりも>の先頭で釧路1番ホームに待機するのは、DD511055。
1973年度本予算にて発注され、1974年1月10日に日立製作所笠戸工場を出場して岩見沢第二機関区に配置された車両である。1982年12月6日付での同区から釧路機関区へ転入は、休車となった1966年度投入車の代替(*)であった。北海道旅客鉄道への承継を経て、1988年11月3日付で岩見沢第二区を改めた空知運転区に戻り、本州連絡特急寝台列車も牽いたが、1993年8月27日付にて余剰を事由に用途廃止が裁下された。
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(*) - 同年度末に釧路では1966年度の投入車に8両の休車を生じて、岩見沢第二区から3両、鷲別から1両、小樽築港から1両、遠く道外の岡山から1両、鳥栖からの2両にて、それを代替している。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S Bulb@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

網走 (石北/釧網本線) 1970

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網走まで初めて達したのは1967年のことだった。常紋信号場を夕方に乗って、長い夏の陽もとっぷりと暮れた後である。駅舎は現況に建替えられる以前の木造建築であった。
1番ホームに到着した列車から集札口を駅前に出れば、そこに多くの人々が集合しているのに驚いた覚えが在る。
軒先にシートや新聞紙を広げて談笑しているグループもあれば、シュラフにくるまって早々と横に成っている姿もあった彼らは、横長のキスリングを旅行の運搬具とした道内の放浪型長期旅行者達、所謂カニ族と呼ばれた一群であった。札幌駅でも良く見かけていたし、夜行急行は彼らに占拠されていたようなものだったから珍しい訳ではないけれど、この網走にこれだけ集合しているとは想像していなかったのだ。最果てや離島指向を持っていた彼らにとって知床は必須の場所とは後に知ることで、網走はその行動拠点だったのである。改札前には上り夜行<石北>で移動する一群が、また長い列をつくり、待合室もごった返していた。
父親同士が知り合いであった大学生に同行してもらっての旅では、遠軽に続いてここでもビバークを予定しており、彼らの傍らで一夜を過ごした。
こちらも銀箱に三脚以外は山道具を流用した装備だったから全く違和感は無く、その行動様式も含めて当時の鉄道写真屋はカニ族の亜種だったような気がする。
網走、釧網線へは、この後幾度も訪れたけれど、翌年にも盛夏を選んで以降はそれを外した季節ばかりだったからカニ族と出会うことは無く、1970年代の半ばまでにはその旅行スタイル自体が失われて、駅寝だとか夜行連泊などと云っていたのは鉄道屋だけになっていた。

写真は、出発信号機を越えて釧網本線に進出する5673列車。この北見からの釧路操車場行きは、斜里までが北見機関区のC58の運用で、以遠区間は釧路への帰区を兼ねたDE10に牽かれていた。
機関区支区が所在し、前年に移転した浜網走との間での貨車操車作業や気動車編成の入換に構内照明が設備され、活気に満ちていた構内である。

余談だが、初訪問には市街地郊外だったここに1931年に駅の移転したことなど知らず、翌朝に見た駅前から川を隔てた市街地には小さな街との印象しかなかった。北浜まで乗った釧網線の車窓もオホーツク海の記憶ばかりで、その東側に広がる中心街を見るのは後のことである。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/15sec@f2 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

黒石平 (士幌線) 1985

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士幌線の廃線跡に多数が現存するコンクリート製の拱橋群は、工場で製造して架橋現場に輸送せねばならない鉄桁に代えて、現地で調達可能な材料と運搬の容易なセメントを用いることで、1930年代の当時に多くが構想されていた地方開発線の建設費の低減策として試行されたものである。背景には、実現を可能せしめていたコンクリート構造物の設計や施工の技術革新があり(*1)、国立公園内と云う環境への調和も配慮した点も併せて近代土木遺産として評価される所以である。
国鉄精算事業団の保有であったこれらの解体撤去の事態に直面して(*2)、地元有志が遺産価値を認めて保存運動を立ち上げ、最終的に上士幌町が、その内の33基の買い取り(*3)に動いたことにて、これら拱橋群の存在自体が観光資源としても注目されるに至った。もとより行政当局に保存経費の予算化は困難で解体を一時回避したに過ぎぬのだが、それらの中の代表的5橋は、後に文化財保護法に基づく登録有形文化財とされた。
これには、ダム堪水域を保有する電源開発すら財産としていないタウシュベツ川橋梁(*4)が最も注目を浴びると云った皮肉な副作用も伴っていた。

ここには、これら1930年代の築造になるものの他に、1955年8月1日に切替えられた糠平ダム建設にともなう付替線上にも幾つかのコンクリート拱橋が残されている。ダム迂回線の性格から音更川右岸の急斜面に建設され、必然的に山間の谷や沢筋に架橋を要して、延長50メートル級の第一糠平陸橋、下の沢陸橋に中の沢橋梁など10から15メートルの径間を連ねるものを含め、ここにも拱橋が採用されたのである。
その位置から接近も難しく、1950年代半ばの建設にて技術的に目新しいところも無いせいか、土木方面からは注目されず、観光面にも案内パンフレットに国道から遠望される中の沢橋梁が記されるのみである。けれど、景観への配慮と云う先人の意思を継承して、ここにもコンクリート拱橋を多用した事実は、より評価されて然るべきであろう。
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(*1) 無筋による10m径間、鉄筋を入れた32m径間にて、橋梁負担力は乙線並みの活荷重KS-15を実現していた。鉄桁を採用した第一、第二、第四音更川橋梁の負担力は簡易線建設規程に準拠したKS-12の設計であった。
(*2) 実際にいくつかは撤去された。
(*3) 他に路盤跡および隧道の1本を含む
(*4) 水没物件であり、解体撤去を省略したものであるから存在していないと見なされる。

=参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
交通技術 : 交通協力会定期刊行物 1955年通巻112号
戦前期鉄道アーチ橋建設工事の計画と技術展開 : 土木学会北海道支部論文報告集 1998年

写真は、急峻な斜面に位置する中の沢橋梁の25パーミルを登る723D、十勝三股行き。周知の通り、列車運行は糠平までである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

西の里信号場 (千歳線) 2000

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北広島 (千歳線) 1988 から続く

苗穂-北広島間の新線切替により全線の複線化の成った千歳線は、以後本州連絡の主要幹線としては勿論のこと、1980年10月1日の電気運転化、千歳空港駅の設置を経て、札幌圏近郊輸送網に重要な地位を占め、また空港連絡線としても機能しているのは周知の通りである。続く1981年3月5日には全線でのCTC制御も使用を開始している。
千歳新線内には、その後に平和と西の里のふたつの停車場が設けられた。

1986年11月1日改正に際して札幌圏に5箇所が開設された臨時乗降場のひとつとして、苗穂起点5K800M地点に置かれたのが平和乗降場である。居住者の増加していた北都団地からの利便に応じて、この付近での千歳線上下線間用地を活用し、札幌貨物ターミナルを越えていた既存の柏山人道跨線橋(* )が出入口に利用可能なことから実現したものである。
当初には、人道橋からの階段下に待合所を置いて、鉄骨にスレートを乗せた簡易構造による幅2.5メートルの乗降場が上下線内側に相対して設けられていた。
北海道旅客鉄道の発足した1987年4月1日付にて旅客駅に昇格し、利用者の順調な増加に対しては1992年に離れていた上下乗降場間を板張りにて一体化(島式化)することで9.4メートルに拡輻し7月1日より使用とした。1998年10月には、階段下待合所の拡張・改築により駅本屋を設け、時間を限るものの営業要員が配置された。島式ホーム上への本屋は、東海道本線弁天島と並んで珍しい。
その後、2002年10月17日に柏山人道橋が若干位置を変えて架替えられたのに対応して、翌2003年11月には乗降場間とのエレヴェイタが設置され、2004年11月から12月にかけては乗降場の改修と上屋の設置工事が行われて、現状となっている。
なお、移転以来永く無人であった上野幌についても、1998年3月に盛土下に駅本屋を設けて要員が置かれた。

新千歳空港への支線の開業した1992年7月1日改正では、空港連絡の高速列車の頻発運転に対応して、苗穂起点18K100M地点に西の里信号場が開設された。この付近に1キロ程続く直線区間を利用したもので、偶然であろうが旧線にかつて所在の同名信号場と至近位置となった。
この珍しい複線区間での退避を使命とした信号場については、西の里信号場 (千歳線) 1999 に書いたので繰返さない。
付記すれば、その施設上の位置-18K100Mは、千歳新線上に移設された上野幌の距離更正後の位置、即ち起点13K900Mから実距離であるが、北海道旅客鉄道の実用する列車運行図表などでは、上野幌以遠を距離更正のないキロ程で示し乍ら、西の里のみをこの実位置で記載する。よってそこには上野幌との駅間6.5キロ、北広島と1.5キロと在るので注意を要する。施設上には、上野幌から4K200M/北広島へ3K800Mである。
構内全てが10パーミルの勾配上に存在し、その起動条件からは下り貨物列車の退避には不向きである。過去、積雪期に起動不能となった事例があり、現在の冬期使用停止はそれゆえと思われる。
(この項続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)
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(* ) 札幌貨物ターミナル(当時の新札幌)建設に伴い1967年12月に廃止された函館本線柏山踏切を代替したものである。但し設置は1971年10月であった。

写真は、西の里を通過する5774列車。ダイヤは専用貨物列車で引かれていたが、苫小牧(貨物)に着発線荷役線の整備される以前にて、札幌貨物ターミナルから同所へのコンテナ集配列車であった。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8S 1/125sec@f5.6 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

北広島 (千歳線) 1988

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上野幌-西の里信号場 (千歳線) 2002 から続く

千歳新線への切替が1973年度秋期ダイヤ改正を待たない9月9日とされたのは、新札幌の開業を待つ札幌市はじめ地元住民の要望もあろうが、貨物輸送の繁忙期となる10月の不慣れによる輸送混乱を避け、旅客の季節輸送も一段落した時期を選んだものである。
これにより、10月1日改正までは切替区間以外を現行ダイヤとした関係上、暫定ダイヤでの運転となり、旧線区間内中間駅で交換待ちのあった普通列車は極力札幌発着時刻にて調整を図ったものの、生じた余裕時分を吸収しきれない列車、特に北広島以遠への上りについては途中駅で時刻調整を要した。中には棒線駅の新札幌での事例もあり、734Dは5分、738Dは13分も停車していた。ここでの長時分停車に後の例は無いと思われる。
優等列車は苗穂と北広島の通過時刻を固定して新線内のスジを寝かせたから、高速運転対応の新線は低速運行での開業であった。
なお、厚別地区を営業区域とする国鉄自動車は、9月9日夕刻より新札幌ともみじ台団地、青葉町八丁目間に、札幌との通勤通学列車に接続するバスの運行を開始した。それぞれ方面への一日僅か7往復運行は、現在ここでの路線網と隔世の感がある。

複線化にともなう北広島の構内改良は、1965年に着工し1966年9月7日に使用開始した恵庭-北広島間線増に合わせて施工されたものであり、千歳新線工事とは直接に関連しない。
上下本線に相対した乗降場を置き、上下貨物列車に使用可能な中線を持っていた構内は、恵庭からの増設線を上り乗降場の外側に通して、これを島式に改築、従来の上り本線を新たな中線として旧中線を廃した2面3線構造とされた。将来の列車回数増に備えて上下旅客列車の退避をも可能とする措置である。現在まで残る上下線間(2番線と3番線間)の用地は、この際廃された中線の名残である。よって、基本的な乗降場位置は変わっていない。
上野幌方では、同じく1965年に着工の別線複線工事が先行して進められ、これへの接続を前提とした配線が整えられていた。輪厚橋梁を含むこの新線へ将来の上り線を使用した単線にて切替えられたのは1969年であり、1973年9月9日の千歳新線移行は、ここではそれを複線使用に改めるのみであった。
1980年の電気運転を経ても、この配線にて永く運用されたのだが、1988年11月3日改正における普通列車の全面電車化、空港快速の増発に際して、緩急接続体系の推進上から下り線(上り運転線)にも待避線が新設された。実際には、従来の下り本線外側に1線を増設、これを新下り本線として旧下り本線を下りの副本線としたものである。この際、従来の中線の機能も維持され、現在の3番線は引き続いて上下の副本線である。
この間の駅本屋の改廃については、北広島 (千歳線) 1972 に書いている。

写真は、1969年より供用を開始していた輪厚橋梁での3052列車、隅田川行き。画角の既出をお詫びする。季節毎の光線を期待して同じ位置へ幾度も出掛けているのである。
この高い橋梁にて、旧線の輪厚川への下り込み線形が解消されている。
(この項 西の里信号場 (千歳線) 2000 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

別当賀-落石 (根室本線) 1980

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DE10形内燃機関車の道内への投入は、1968年度の釧路機関区への0番台-12両に函館機関区への500番台-8両を嚆矢としている。前者は釧網本線の弟子屈・川湯-緑間の補機運用の、後者は五稜郭操車場入換え仕業のそれぞれ無煙化を目的としていた。
以後、丙線への速度制限の無い入線に軸重を13tに抑えて、C58や9600形蒸気機関車と同等の性能を実現していたこの機関車は、ルーラル線区へ続々と投入され、それら蒸機を放逐した。増備を終えた1981年度末時点での道内への配置両数は、除雪用途のDE15を含めて170両に及び各所でその姿を見ることが出来たのだった。
この投入時期には道内の支線区では旅客列車の気動車化を完了しており、混合列車の残存した釧網本線でも客車が独立暖房を採用していたから、ほとんどが蒸気発生装置(SG)を持たない500/1500番台だが、中にはそれを搭載した0/1000番台の16両が含まれた(このうち2両はDE15である)。

趣味的な興味は、この16両のSG搭載車の内、この時点で9両を占めた前記1968年の釧路機関区への投入分にある。
函館へのSGを持たない500番台車は当然だが、客車に石炭ストーブに替えて温気暖房機の搭載が進んでいた釧網線への、まして補機仕業へのSG搭載車は解せない。当初の釧網線完全無煙化の増備計画は当時の北見・釧路機関区のC58仕業をそのまま置替とするものだったのだろうか。ならば、夜行<大雪>や521・522列車の北見-網走間に根室線の441・442列車の牽引が含まれ蒸気暖房を要しただろう。
実際にはこれら仕業へは1974年から75年にDD51が投入され、この間に方針転換のなされたものと思う。釧路機関区への増備は500/1500番台となり、12両の0番台車は1982年度までに3両が内地へ去り、残る全車は道内に配転された。最終的に五稜郭機関区へ転じた4両は、そこで江差線の通勤通学の輸送力確保に残されていた客車列車に蒸気暖房装置をようやく稼働させたのだが、残る5両は1985年3月14日付で再び釧路機関区に集められ休車のままの86年3月31日付の用途廃止まで、それを使用することは一度も無かったのである。もっとも、1980年代の早い時期には、装置自体を取り降ろしてしまい500番台と同様となっていたと思われる。
さて、内地へ転じた3両、東新潟への1両と高松へと向かった2両だが、彼の地で越後線、高松近郊の輸送力列車に暖房蒸気を供給、有効活用は果たされていた。

根室本線釧路以東区間への投入は、五稜郭区から500番台の配転を受けて1972年の夏から開始された。C58と共通運用だったので、沿線で待ってのDE10に落胆した向きもおられよう。441・442列車の無煙化が1974年6月1日まで遅れ、結局はDD51形となったのは、やはりSGの稼働に結論の出なかったゆえと思う。
写真は、落石三里浜を見下ろす段丘上区間での1498列車、釧路操車場行き。夕刻近くともなれば、さすがに寂寥感を覚える光景ではある。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4 1/30sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

渚滑 (名寄本線) 1971

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1921年3月25日開業のここは大きな駅だった。開駅間もない1923年11月5日にここへ接続した渚滑線は沿線林産資源や農産物の輸送に多大に貢献したとあるから、この駅自体の貨物扱いに加えてその継送操車に、貨車の操配にと広い構内を要したものであろう。上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線を有した規模(*1)は、隣駅紋別を上回っていた。おそらくは紋別への貨車操配も担ったものと思う。
渚滑線開業時にはその機関車運用に機関庫も置かれ、検修庫に転車台を含む施設は遠軽機関庫の分庫を経て、この頃にも駐泊所として機能していた(*2)。
120メートルの有効長を確保した乗降場に線内では紋別と中湧別にここだけだった跨線橋の存在も、急行列車の停車する大駅の証と言えようか。永く駅弁当の販売駅(*3)でもあった。

この日の下車は、上興部を1時間前に出た1691列車に後続の625Dがここで追いつくからである。その後に、ここから移動出来る列車は無いけれど、しばらくすると上りの1692に北見滝ノ上からの1792も到着する。その都度に繰返される構内入換えを眺め、少ない撮影チャンスにカット数を稼ごうとの目論みだった。
トラック輸送への転移も始まっていた時代ではあったが、それでも貨物列車は多くの財源を牽いて走っており、構内は活況を呈していたと覚えている。
海沿いを走る線区のそれからは潮の香りがする、と沿線に立ち始めた頃に気がついた。海産物が積み込まれてまもなくに出発したものだったのだろう。この名寄本線の列車も白い冷蔵車が目立つ組成だったと思い出す。
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(*1) 駅本屋遠軽方には貨物積卸線2線があった。
(*2) ここの検修庫が、廃駅後に駅構内を転用してのパークゴルフ場の室内施設として現存している。
(*3) 1964年10月1日現在の国鉄旅客局資料では、幕の内弁当-100円、すし-100円とある。

写真は、渚滑を出発する1691列車の遠軽行き。貨車解結を繰り返しながら全線を7時間余りかけて走っていた。
この頃に、線内の貨物扱い駅は13駅を数えた。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 2002

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新札幌 (千歳線) 2001 から続く

千歳新線は当初目標とした1971年度(*1)に遅れたものの、1972年にはほぼ全区間で軌道敷設を終えていた。
新線区間への道床の突き固めや試験運転に供する車両の入線は、線路の繋がった白石構内からや1969年には敷設されていた北広島からの(将来の)下り線を使って行われた。このため、前述した起点19K200M付近の切替(仮接続)地点には、新線の上下線を分ける分岐器も仮設されていた。

こうして迎えた1973年9月9日の切替工事は、苗穂-北広島間ばかりでなく、札幌貨物ターミナルの構内も含む函館本線の札幌-厚別間を支障する規模となり、午前6時から18時20分まで日中およそ12時間を費やして施工された。
この間、一時的に信号現示を停止した工事区間は長距離優等列車など必要最小限の列車を手信号にて運転するに留められ、札幌発着列車には工事区間を通過しない列車も含めて小樽-滝川の区間で下り44本、上り37本、札幌から千歳の区間の下り12本、上り14本、さらには札沼線の上下7本に区間ないし全区間の運休が事前に措置された。貨物列車にも大幅な運休を生じたはずだが、これの詳細な記録は閲覧していない。
趣味的には、104<ニセコ>の所定で停車の無い手稲始発、401D<狩勝1号>の江別始発が興味深い。401Dの運用編成は前夜に岩見沢あて送込まれたと聞いた。
小樽駅-札幌駅-岩見沢駅(一部滝川駅)間と札幌駅-千歳駅間には区間便を含む多くの列車代行バスが運行され、これには国鉄バスばかりでなく民間バス会社も動員された。

千歳線では、札幌6時02分の722D苫小牧行きがキハ2219ほか3両編成に惜別のヘッドマークを掲出して運行した後に、6202D<すずらん1号>、22D<北斗1号>の上り2本を運転、札幌に8時57分到着の1D<おおぞら1号>の通過を最後に線路を切替え、上りは札幌10時20分発の8D<北斗2号>、下りは千歳10時16分の213D<ちとせ2号>より新線の使用を開始した。
この日、新札幌では札幌15時40分発のこの日のみを客車運行とした208<すずらん5号>を臨時停車させての開通記念式典が挙行された。但し、これに客扱いはなく、それの初列車は18時46分の1231D札幌行きであった。

この工事には既設の札幌貨物ターミナルから函館本線厚別方、千歳線新札幌方への通路線設置を含んでおり、同駅は白石からの函館線貨物支線の終端駅から函館・千歳両線の中間駅となった。共にCTC制御は未整備に付き、白石・厚別・上野幌の各駅は札幌貨物ターミナル構内に設けられた制御所からのRC制御とされた(*2)。これは、白石駅の運転扱い施設であり、これに関連して白石駅下り場内信号機から厚別駅場内信号機までと新札幌駅至近に置かれた上り第一場内信号機までが運転上の白石駅場内とされ、それは札幌貨物ターミナル構内を含んで延長5キロにも及ぶ。
なお、1968年10月1日のそれの開設時に開通の白石からの貨物支線は、線路は通路線として残るものの戸籍上は本線に編入となって消滅した。
(この項 北広島 (千歳線) 1988 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)
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(*1) 1972年春期ダイヤ改正での供用を想定していた。
(*2) 1981年3月5日の千歳線CTC施行の際に上野幌は中央制御所に移管。

写真は、椴山の起点17キロ付近R=800M曲線での5774列車。札幌貨物ターミナルから苫小牧(貨物)行きの高速貨物C列車である。
既出の画角を、晩秋編にてご容赦頂きたい。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/160sec@f5 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1996

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東室蘭(当時には輪西)が現在位置に置かれたのは、長輪東線が伊達紋別までを開通した1925年8月20日のことで、それの室蘭本線からの分岐に際して岩見沢方に移転したものであった。室蘭は既に市制を施行(*1)していたけれど、旧塵別村(*2)村域で、かつて開墾の屯田兵が中島台と名付けた一帯を当時の絵図に眺めれば、中嶋神社の高台周辺に商業学校と小集落らしきが描かれるものの、現在の東町あたりは馬市場に屠場、火葬場の点在する程度の海岸湿原の続いていたと見て取れる(*3)。
そのような原野に直線に敷かれていた線路上に新設の分岐停車場は、現在の東口側に駅本屋と駅前広場を置いて開駅した。そこには線路に併行して札幌本道(*4)が通じていたから当然の選択ではある。
この地域には、やがて輪西町と連続して製鉄所の社宅街が開かれ、アジア太平洋戦争戦時下に至る頃までには一般の住戸も市街地を形成して行ったものと思う。

1970年代初頭にここへ初めて降り立った時も、確かに駅は住宅街に囲まれて所在していた。東口も西口も駅前には商店こそ開かれていたけれど、商店街を形成するでなく、住宅地の一角であった。
この状況は、西口駅前通り周辺に業務区域が形成され、チリベツ川を越えて商業地らしきものが成立した現在でも基本的に変わっておらず、特に東口側にはその感が強い。
室蘭本線の主要駅ではあるが、旅客流動は各方面への乗換えに限られ、主には室蘭方面への貨物列車中継、貨車操配の拠点として機能を担い、周辺市街地との関連の希薄であったゆえ当然ではある。それでも、宅地化の進まなかった西側に街路の整備されつつあった戦後には、小規模な西口駅舎が置かれ、1970年6月に至っての橋上駅化はそこの業務地区としての発展を背景に、東口(既存本屋)側にも配慮した選択であろう。
永らく貨物フロントに使われた東口の駅舎は、この際に橋上本屋に吸収しきれない機能の事務所棟として旧本屋跡に建設されたものである。駅としては余りに愛想のない建築はそれゆえであったが、貨物拠点としてのこの駅の性格を期せずして体現していたとも云えよう。

ご承知のとおり、ここには旧本屋位置に接して1番線ホームが存在した。これの旅客扱いへの稼働に調べを入れてみたのだが、資料に乏しく分からなかった。設置は開駅時、使用停止を1940年度に着工して1944年度に竣功した鷲別地区への操車場施設建設関連の構内拡張工事の完了時と推定するものの、鉄道省資料は操車場工事に触れても本駅側での詳細は記録していないのである。当時には室蘭までを往復したガソリン動車の発着したことだろう。
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(*1) 1922年8月1日付
(*2) 室蘭港実地絵図 1902年 による。知利別とはされていない。
(*3) 室蘭市図絵 1927年/ 工都室蘭 1934年 による。
(*4) 当時には國道28号「東京市より第七師団司令部所在地(旭川)に至る路線」であった。現国道36号線。

東室蘭構内下り方の全景。1番ホームも原型にて健在な頃である。
列車は、4097列車。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopLR4 on Mac.

上興部 (名寄本線) 1969

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ここに蒸機の走る専用線の在ることは承知していた。国土地理院の地形図にも北へ分岐して往く鉄道記号が描かれていたし、書架から探し得ていないのだが、当時の「鉄道ファン」誌に、小石の藤田炭礦宗谷礦業所、豊富の日曹炭坑天塩砿業所と共に紹介記事が掲載されていたのである。そこには、運転は国鉄に委託して自社機は持たない、と在ったから本線機の入換え運転とも理解していた。北海道農材工業上興部石灰砿業所の専用線である。

1967年の初めての遠征で上興部に降り立つと、下りホームの後側直ぐに分岐が見えて、駅に聞いて運転は午前中に2回と知れた。けれどその日は運休と付け加えられて落胆したのだった。
上興部集落の北、右山・左山の石灰岩の大露頭による地域振興策として北海道庁(*1)が石灰工場の設置を計画・着工したのは1934年と記録されている。既に名寄本線は全通していたから製品搬出の専用線も翌1935年4月の操業開始より稼働したものと思う。
露頭を崩す発破の轟音が響き渡り、上興部は西興部村の役場が所在した瀬戸牛(*2)を上回る集落へと発展したと云う。駅も機関車駐泊設備に転車台(*3)や多くの貨物側線に積卸線を持った沿岸の興部を上回る拠点であった。永く同駅の名物駅弁であった「やまべ寿し」も当初はここで販売の開始されたものであったから、貨物ばかりでなく旅客輸送にも賑わったのだろう。
1960年代末に見た駅は、弁当販売こそ興部へ移転していたけれど、待合室では弘済会の売店も開かれ、駅務室にも多くの職員が詰め、貨車の屯する構内は活気に溢れていたものだった。
石灰工場は、1916年に道庁直轄から外郭組織の北海道興農公社に移管され、戦後に公社解体にて1947年5月5日に設立の北海道農材工業の経営となっていた。ここでの生産物は、土壌の酸性化を防ぐ炭酸カルシウム肥料と岩粉であった。

翌1968年に再び上興部を訪れ、午前の貨物列車撮影を早々に切り上げて駅に戻り、専用線での運転を待った。
それは、1690列車を重連で牽いて峠に向かった前補機が、一の橋から単行661列車にて戻ると構内掛数人がデッキに乗込み、そのまま逆向き運転で専用線に入るものだった。ほぼ本線と直角方向に向きを変えるR300の急曲線には、15km/hの制限が付けられていて実に緩慢な運転に見えた。
ほどなく財源を牽いて戻って来たところが写真である。ワム・ワラの有蓋車を8両も連ねていたから結構な出荷量が在ったことになる。この組成を側線に置くと機関車は再び単行で工場へと向かい、しばらくしてそのまま戻って来た。その訳は、専用線を工場へと辿って知れた。工場内にはY字分岐器を介して2線が引込まれており、積込場は右側の線路に面している。ここから積車を引き出した後には、左線路の空車を右線路に入換えねばならず、その仕事に往復したのであった。
この空車貨車の逆向きでの押込みは朝に行われ、工場へ上り勾配のこの専用線では唯一の力行運転列車だけれど、それはあまり絵にはならなかった。

この専用線は1982年11月15日ダイヤ改正を以て廃止され、製品の出荷は自動車輸送に切替えられた。線内に発する貨物はほぽこの扱いだけになっていたはずだから、それは国鉄側の申し入れによるものだったろう。
上興部石灰砿業所は、その後に露頭を崩し尽くして地下採掘となり、コストの増大と資源枯渇にて2001年9月末までに採掘を取りやめ、工場のみは他所からの原料供給にて稼働を続けたが、それも2006年8月31日を以て操業を停止した。
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(*1) 1886年から1947年まで存在した内務省直轄の地方行政機関。
(*2) 現在の西興部。村名に合わせて1945年に改称。
(*3) 1920年10月25日の上興部までの開通に際して、名寄機関庫上興部分庫として開設。1929年の分庫廃止の後に駐泊所として存続。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

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鬼志別 (天北線) 1986

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猿払村域の天北線には4駅(他に仮乗降場の2場)が存在したが、村の代表駅は村名を名乗る猿払では無く鬼志別であった。
ここに集落の形成が先であったか、停車場の開かれたゆえであったかは調べていないけれど、ここに鉄道の開通したのは1920年11月1日のことで、宗谷村から分村しての猿払村の成立は1924年と記録される。それから半世紀以上を経て見た駅は市街地の外れに位置していた。市街地とは云っても、駅前通りは鬼志別川を渡り2分も歩かぬうちに家並みは途切れ、右をみれば村営住宅と思われる住宅が続いていたから、本来の集落規模は極めて小さいと知れる。

駅は、その開設から2年間は宗谷本線(*1)の終端駅だったから、その設備として機関車の駐泊施設に転車台も置かれて、後には稚内機関庫の鬼志別分庫ともされていた。1922年11月1日に稚内(現南稚内)までが全通すると小石から曲淵へ宗谷丘陵を越える勾配区間の補機基地を要したゆえである。
頓別・猿払原野の開拓と樺太への連絡を目的に建設されたこの線の停車場は300メートル近い本線有効長が確保され、副本線を設備した例も多く、加えてここは客車留置に使われたであろう側線も有していた。それは、その地位
にあったのは僅か4年ばかりに過ぎないのだが、幹線駅の風格と云えた。
本線有効長に比しての客車で3両程度のアンバランスな乗降場延長は、その4年あまりの間に運転された小樽-稚内間や函館桟橋-稚内間などの長距離列車(*2)を例外として、混合列車での客扱いに対応すれば十分との設計なのだろう。
本多勝一氏の著作『北海道探検記』には、開拓地への入植の入口駅として機能した姿がルポされており、実際に利用の多かったものであろう、猿払村史には1941年に駅舎改築との記述がある。それが、新築であったか、増築をともなう改築を意味するのかは知れぬが、駅本屋の下頓別や浅茅野、猿払に比べて一回り大きかったのは確かである。

北オホーツクの早い秋空を空中の腕木信号機梃子のケープルが横切る、鬼志別駅の暮色。
キハ22の単行列車は、鬼志別下り本線に停まる727D稚内行き。ここで、後部に回1742Dで小石から回送され滞泊していた1両を併結、さらに曲淵では前部に744Dで到着した2両編成を加えて、稚内到着時にはキハ22ばかりの4両組成になる。
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(*1) この音威子府から鬼志別までの開業時に線名の宗谷線を宗谷本線と改めたが、1921年10月5日付で宗谷線に戻された。しかしながら、1922年11月1日の稚内(現南稚内)まで全通直後には11月4日付にて再び宗谷本線とされた。
(*2) 全通と同時に函館桟橋-釧路間急行に接続する小樽-稚内間列車を設定。稚泊航路の開設された1923年5月1日改正からは、これに替えて函館桟橋-稚内間急行の運転を開始している。但し、急行券所要区間は滝川までで宗谷線内は普通列車であった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

新札幌 (千歳線) 2001

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白石 (千歳線/函館本線) 1999 から続く

1967年3月までに苗穂-北広島間の全区間で着工した工事は、前にも触れたように、認可の先行した上野幌以南に含まれた起点19K200M付近から北広島構内までの輪厚橋梁を含む区間と、別事業とされていた苗穂至近の豊平川橋梁が先行して1964年から1969年までに使用を開始し、残る区間も1971年度内の供用開始を目標としていたのだが、幾つかの要因にて1973年度にずれ込むこととなった。
白石地区に計画された貨車操車施設の度重なる計画縮小と最終的な中止は、白石高架橋の設計・施工に影響し、下野幌停車場(現新札幌)の設置決定の遅れなど鉄道側事由も存在するが、その一因であった建設途中における反対運動と騒音問題に派生した設計変更に言及しておきたい。

建設の反対運動は、当時の白石区厚別市街地の通過に際して起こった当該地区住民によるものである。これは現在の厚別中央地区に厚別高架橋を構築するにあたり、それによる地区の分断、騒音公害を主な事由としており、代案には厚別駅にて分岐し当時には未開発であった東側丘陵部の通過を求めたものであった。対して国鉄当局は、1) 厚別経由案は技術的に困難、2) 地域分断には近隣に新駅の設置されることにより寧ろ飛躍的発展が期待されること、3) 騒音には線路構造の静音化などを挙げて説得を続けた。これの解決にはやや時間を要して、その間に高架橋工事の停滞により工期の遅れを生じた。
時系列に不明な点の在って、その詳しい経過の記録を白石区、厚別区に求めたが保存は無く、札幌市立図書館収蔵資料もしくは公文書を手繰るしかなさそうだが、今の所果たしていない。
国鉄の云う、1) については明らかに方便ではあるが、建設の或る程度進んだ時点でもあり手戻りの大きく国鉄としては譲れないものであったろう。2) は以来の年月を経てその通りの現状ではある。3) については改善効果空しく日夜騒音をまき散らし続けているのはご承知のとおりである。

騒音問題は高架橋ばかりでなく、現新札幌駅至近の国道12号線上に架橋予定の跨道橋計画にも生じた。
この跨道橋は国道12号線と札幌市道との交差部に計画され、市道の改修により経間が(計画よりも)延伸したことから市の負担金工事として経間62.4メートルの下路式トラス桁1連とされ、橋台工事に1970年10月に着工して1972年4月の架橋を予定したが、予想される騒音に札幌市から急遽対策を求められたものである(*1)。
これに対して国鉄は既に完成していたトラス桁の無道床構造から有道床への改造を行うこととし、その重量(死荷重)は当初の289.6トンが、300トン(*2)を加えた586.9トンとなった。検証の結果、下部構造-橋台部に補強を要しないとされて1973年6月6日に架設を完了したものの、そこに異常に重い構造物が存在することとはなった。けれど、騒音は相当に低減されたのには違いなく、その後の同様事例のモデルとされたのだった。
(この項続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)
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(*1) 厚別高架橋問題の最中であり、札幌市側が先手を打ったものと思われる。
(*2) 補強材75t+道床関係225t

写真は、国道12号跨道橋と8010列車<カシオペア>。これも既出の画角をご容赦願いたい。
堂々足る都市内トラス。背景が空に抜ける位置ゆえ、秋冬の夕刻向きのポイントである。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8S 1/125sec@f5.6 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E200 [ISO400 / 1EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

糠平 (士幌線) 1982

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十勝川水系の発電計画による音更川への糠平ダム設置にともない、士幌線が帯広起点53K850M付近から同66K360M付近までの区間で実延長14K850Mの付替新線に切替えられたのは1955年8月1日のことであった。
この新設線は、本来ダム建設の事業主体である電源開発株式会社の責を国鉄が受託したもので、1953年12月10日に両者間で覚書きが交わされ着手するも、年の明けた1月10日の着工から1955年9月に予定されたダムの堪水開始までに既設線の撤去をも含んで、路盤工事に1年半余り、線路敷設等の開業関係工事に2ヶ月程の工期しか許されぬ工事となった。
実は、これとは別に起点58キロ付近に建設されるダム躯体工事に支障する区間の仮付替も行われていた。それは、起点57K430Mから58K550Mの区間をダム左岸基礎地盤の斜面に延長385メートルの隧道を掘削して迂回する線形であった。1953年5月中に着工して年内には供用したと思われるのだが、ダム完成時には放棄するにかかわらず隧道まで含む仮線を建設した電源開発側の事情は分からない。国鉄側の資料によれば、この仮線の建設要請は1953年2月24日に電源開発の糠平建設所長よりなされ、付替新線のそれは同年3月13年に同社総裁より国鉄総裁宛に出されたとある。国鉄の工事受託の裁可は共に5月9日であった。

堪水域に在って水没した旧糠平駅は知り得ない。Web上に検索したそれは針葉樹の原生林に囲まれた好ましい木造建築と見て取れ(例えばひがし大雪アーチ橋友の会のサイト)、1934年に指定された大雪国立公園内を意識し、また糠平温泉への入口でもあった駅舎は簡素ながらもモダンな造りである。釧網線の川湯にせよ、この時代の観光駅舎は洒落ていた。
駅前には音更川が流れ、そこに架けられた木造の簡易なトラスで補強された橋を渡ってのアプローチは体験してみたくなるロケーションである。
広場に停まったボンネットバスは温泉とを結ぶものであろうか。糠平温泉はここから糠平川の広い谷を上った標高差100メートルばかりの原生林の斜面に存在した湯治場だったはずである。緩い斜面とは云え、駅からは原生林が遮って望めなかったと思え、その様子は1955年6月18日に米軍によって撮影された空中写真に見える。付替線は路盤工事を終え、堪水域の樹木の伐採も完了しつつあった時期だけれど、それら工事の開始前の原生林に覆われるばかりの様子が伺い知れる。
駅は開業から2年間程は終端駅であったから機関車の駐泊所が設置され、同時に開かれた営林署の土場までの専用線も有していたようである。

写真は、付替線の不二川橋梁(l=130M)を渡る726D、帯広行き。正午も間近と云うに北の光線はこんなに低い。
背後の湖面が糠平川の流下し、旧駅への道路の通じていた谷である。
新駅への移転に際して、そこの駐泊施設は十勝三股に移設されだが、営林署の積出線は維持された。

=参考資料=
士幌線の線路付替工事について: 交通技術1955年10月号(通巻112号)所載 交通協力会

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

深川機関区留萠支区 (留萠本線) 1973

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このD5186は石炭を満載していることに解る通り、用途廃止で放置されているでは無く、朽ち落ちそうな矩形の機関庫も現役の庫である。目前に迫った留萠本線/羽幌線の無煙化に際しては、検修区所としての廃止が予定されていたから、補修を見送られていたものだろう。
ここの機関区は、留萠本線と羽幌線の間に扇状に開いた広大な留萠駅構内の最も港湾側に位置して、船入澗の岸壁までは至近であった。もっとも、それは現在の錦町一帯に掘込まれていた船入澗の埋立に替えて戦後に築造されたもので、古い地図を見れば機関庫周辺には鉄道官舎が建ち並んでいたようである。
ここには、1910年11月23日の深川-留萠間開通と同時に終端駅設備として機関庫が設けられたが、規模の小さいゆえか1912年4月6日付にて旭川機関庫の留萠分庫とされ、1917年6月1日には廃止されてしまう。同日付で深川に設置した旭川機関庫深川分庫に機関車配置が集約されたものであった。給炭や給水設備まで撤去されたでは無く、駐泊所としては機能したことだろう。
ここが、深川機関庫の留萠分庫となり機関車が再配置されるのは1933年12月20日のことで、それは1932年までに開通した留萌鉄道の炭礦線に臨港線の運行管理を国有鉄道が受託したことにより、留萠での機関車常駐を要したためであった。写真の機関車庫はこの際に建てられたものと推定する。
戦後には、基本的に羽幌線/留萠本線を出ることの無かったD61形蒸機の全6両が、ここの配置であったのはご承知のとおりである。この1973年夏にはD613と614が車籍を有していたものの、614は深川区で休車となり辛うじて613のみが稼働していた。

当時も書類上にはD613の配置区であった留萠支区は、小さな機関区ながら庫内2線の矩形庫延長上の駅乗降場寄りに木造の検修台と背の高いの給水塔が、そのさらに先に小型のコールビンが存在し、転車台はその北側に隣接していた。庫とは別棟に修繕職場と事務室が付属したが、修繕職場はこの当時には既に使われていなかったと記憶する。
今、この旧留萠駅構内は、留萌市により船場公園と呼ばれる都市計画公園とされるものの、ただただ広大なグラウンドが存在するのみで公園とは名ばかりである。この機関区位置はそれからも外れて土埃が舞う。

[付記] D5186は、1937年に国鉄浜松工場を同工場製作のD51初号機として出場したものである。その縁でこの翌月に第二種休車に指定されると浜松工場に運ばれて整備の上、工場敷地に保管された。現在は、舘山寺フラワーパーク内に展示されている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

白石 (千歳線/函館本線) 1999

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白石 (千歳線/函館本線) 1992 から続く

駅本屋に接した乗降場と島式乗降場の2面3線に中線と西側に貨物積卸線を持っていた白石の構内は、この千歳新線計画にて大きく変貌した。複々線の中心線が駅の前後で一致しないのは、苗穂方での既設線北側に2線の増設が厚別方では南北に1線ずつだったゆえだろう。
先行した南側の東札幌から新札幌(現札幌貨物ターミナル)への連絡線新設にて駅本屋は南側に移設を要し、2011年まで使用された本屋は、1968年のこれの開通に際して建築されたものであった。この時、旧本屋に接していた乗降場は島式に改築の上、南側に将来に函館上り線となる路盤が用意された。また、連絡線にも乗降場が設けられ、これが新本屋に接することになった。
苗穂方での増設線は下り乗降場の副本線と既設函館下り線に接続され、厚別方では副本線側が増設線の函館下り線として厚別へ延長、既設線は千歳下り線に繋がれた。厚別川以西で既設函館上り線の転用となった現新札幌方からの千歳上り線は、ほぼ中線位置に接続、厚別からの増設線である函館上り線は、上記連絡線建設時に準備の路盤に延長され、それぞれは苗穂方の既設線に接続されたのである。
使用の停止された既設の函館上り線路盤は上り乗降場の拡輻用地とされ、それが旧中線よりやや南に移設の千歳上り線に接するよう改められたのだが、時代の下った1992年の千歳線への待避線建設に際して乗降場を削り再び線路が敷かれた。この札幌方面ホームの幅は旧に復し、中線も復活したように見えるのが現況である。
工事がこの構内に及んだのは1970年頃と記憶し、そのメモからも上下方向に食い違って配置の江別・千歳方面ホームに札幌方面ホームとも基本的に位置は変わっていないと推定するのだが、例によって資料に乏しく確証は得られていない。なお、2011年まで使用された跨線橋は1964年に架け替えられたもので、1968年の本屋移転に際してその位置まで延長されていた。

以前にも記述したとおり、厚別方水源地通り踏切の東側には操車場建設が計画されており、東札幌からの連絡線は分岐して抱き込み式本線の上り線を乗越してそこへも接続される予定であったが、1971年までに操車場設置自体が取り止めとなって乗越線も白紙に戻された。この付近にはその用地が永く残されていたのだが、現在では全てが市道の拡輻用地に転用されている。1976年度に跨線橋方式にて竣功した札幌市による水源地通り踏切の立体化も、この時点まで架道橋方式で検討されていたものである。
(この項 新札幌 (千歳線) 2001 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、場内に進入する8002列車<トワイライトエクスプレス>。既出の画角をご容赦いただきたい。
午後には列車側面に斜光を受けるポイントだったのだが、貨物積卸施設跡地へ1995年に11階建マンションの完成してからはそれに遮られ、曇天とか雨天でないと影が落ちる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8S 1/250sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

白石 (千歳線/函館本線) 1992

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上野幌-北広島 (千歳線) 1990 から続く

この千歳新線計画にて労せずして恩恵を受けたのが白石だろう。
切替直後でも函館本線上下56本(停車列車のみ)に千歳線の上下26本列車の停車増、同線電化直前の78年10月改正での上下38本列車は函館本線列車70本に対して35%もの利用チャンス拡大となり、電気運転化のなされた80年10月以降の両線による対札幌の頻発運転実現は、周辺地域、特に60年代に農地から宅地への転用の始まった北郷地区に居住地として飛躍的な発展をもたらした。
かと云って、当時に千歳線は都市近郊路線としての機能を持ち得なかったのだが、将来性を含めてそれを失った月寒、大谷地などの南郷地域が取り残されたでもない。ここには76年の白石まで、82年に新さっぽろまでの札幌市交通局の東西線が開通したからである。
公文書をめくった訳ではないので詳細は省くが、札幌市は1964年に「札幌市における将来の都市交通網計画」を策定し、そこには方式に地下鉄、モノレール、路下電車(路面電車の地下化)を挙げながらも南北/東西の2路線の構想が記され、翌65年には東西線をひばりが丘団地と発寒勤労者団地を結ぶ20キロ路線とする高速電車の基本計画が示された。
国鉄が単複は未定でもほぼ千歳線の別線化を固めていたと思われるこの時期に、札幌市は既設線廃止ならば路盤の高速電車線転用を打診していた模様である。構想段階では建設費から郊外区間の高架線を計画していた札幌市とすれば願っても無い案件だったに違いない。
これが、既設線を活用した単線別線案も最後まで保持した国鉄の決定に、どう影響したものかは分からない。少なくとも国鉄側の資料には記録されていない。結果的には、国鉄は1976年9月30日まで東札幌-月寒間の線路を維持し、その年6月10日に琴似-白石間を開業した東西線は東札幌から南郷通りを経路とした。

官設幌内鉄道当時の1882年11月13日にフラグステーションとして置かれて、1890年9月5日に廃止された白石の停車場が、函館本線上に再設置されたのは1903年4月21日のことであり、それは1896年5月に月寒へ独立歩兵第一大隊が創設(まもなくに歩兵第25連帯第一大隊に改組)されて以来の一帯の軍事基地化を背景にしていた。北海道鉄道(2代)の月寒駅開業は1926年8月21日で、時代を下がってのことである。
地元にも待望の停車場だったらしく、住民からの寄贈による用地の当初の構内は知れぬが、1920年頃とされる写真には、構内南側に駅本屋、それに接する上り乗降場と対向式する下り乗降場に中線を持つ規模と伺える。時期は不明ながら(戦時下と推定)、その後に下り乗降場北側に下り副本線と側線が置かれて、それは島式に改築され、この構内が基本的に千歳新線建設まで維持されたと思われる。
本屋西側の貨物積卸施設は、東京駅舎や北海道庁の庁舎建設にも使われたと云う煉瓦の積出拠点として、その工場の閉鎖される1922年までは活況を呈したものだろう。
この貨物施設の一角と思われる位置へは、定山渓鉄道が、その1918年10月17日の開業から1945年3月1日に戦時における不要不急路線撤去政策にて東札幌-白石間が廃止されるまで乗入れていたのだが、乗降場の具体的位置を確定出来る資料は閲覧していない。この区間の旅客営業は1941年には廃されていた。
また、東側からは1944年に開設の陸軍白石兵器補給廠への専用線が月寒方向へ敷設されたが、これの構内分岐(接続)位置も良く分からない。余談だが、跡地に現新札幌駅が置かれた陸上自衛隊厚別弾薬庫は、この白石補給廠の厚別常駐班が前身である。
(この項 白石 (千歳線/函館本線) 1999 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、白石西方での5列車<北斗星5号>。
背景に環状通り跨線橋を通して白石構内が見える。列車の走る千歳上り線(下り運転線)は旧函館下り線路盤であるから、ここから直線で延長すると現況の江別・千歳方面ホームに突き当たる。詳細は次回記事で述べる。

[Data] NikonF3P+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4on Mac.

平糸 (標津線) 1976

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現在の別海町域での拓殖事業は1869年の根室開拓使西別出張所の開設に始まるが、この遥か奥地の火山灰台地である根釧原野への入植が本格化したのは、1910年に北海道庁(現在の組織とは全く異なる)が拓殖15カ年計画、所謂第一次拓殖計画を策定し実行して以降と云う。
時代のかなり下がるのは、未開地の調査や入植区画選定、道路開削などのインフラ整備が遅れたものなのだろうか。同計画に追加された植民軌道も1925年の厚床-中標津間への試験的敷設後の多くは1930年代の設置である。
以来、多くの入植者と、また冷涼な気候と痩せた土壌に多くの離農者を出しながら開墾は進められ、次には酪農を核と定めての開発に切替えられたものの、戦後に進められたパイロットファーム事業の恩恵に外れた零細農家も数多く、本多勝一氏の著書『北海道探検記』には1960年代に至っても電気の通じない粗末な木造家屋に住む開拓農家がルポルタージュされている。これを出版された79年に読み、札幌で白黒のテレビ番組に興じていた子供の頃に同じ北海道の東端でそのような生活の在ったことに衝撃を受けたものだった。
淘汰された農家の開拓地は、やがて放牧地へと転換されて行った。

1970年代の末に乗った標津線の車窓は、ミズナラやシラカンバの林を散在させて、どこまでも放牧地や牧草地が続いた。開拓され尽くした土地を見ていたことになる。原野の面影は台地に浅い谷を刻む水流の周辺のササやハルニレ群落に残されるだけだった。
けれど、それは原初景観を見るようにどこか茫漠としていて、停車する駅名を読んでいないと自分がどこを走っているのかわからなくなるのだった。今思えば、酪農地として在るなだらかな畦りの開墾と変転の歳月が霞の彼方から立ち現れるように車窓を過ぎるのをぼんやりと眺めていたことになる。
列車設定が5往復しか無いここへ幾度か通ったのは、そんな漠然とした風景に誘われてである。一日に一往復などの蒸機列車の記憶も新しい頃ゆえ、撮影効率も気にならなかったのだろう。牧草地が緑であるよりも、それの雪原を好んだ。

この日は、平糸の粗末な木造乗降台に降りて線路際を歩き、ミズナラの林を過ぎた所で牧草地に上った。撮影方向と位置を把握してからでないと、自分の足跡を撮ることになる。
列車は355D、中標津行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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