"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

苗穂 (函館本線/千歳線) 2009

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苗穂 (函館本線) 1990 の続きである。

1871年に苗穂村とされた地域一帯は、その100年程前までは先住民族が「sat-poro」(*1)と呼んだ豊平川が曲流し、それの形成した扇状地ゆえに mem(湧水地)を水源とした水流の多く見られた。湿地の点在する原野には違いなかったここへの1870年代以降の工場立地は、その豊富な伏流水に依る。当初は官営であった、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、味噌醤油醸造所、製糸場、製糖所などである。これらが民間に払下げられると併行して、鉄道工場や北海道製酪販売組合連合会(*2)、福山商店(*3)が工場を開設し、陸軍秣本廠札幌派出所(*4)も言わば食料工場であった。他にも、北海道瓦斯が工場を新設し、鉄工所に木工所、機械工場など中小の工場が立地して往けば、原料に製品の輸送需要が増大して札幌から延伸された貨物側線を分離した扱い拠点を要して、それら工場地帯立地過程の1910年に設置されたのが苗穂駅なのである。貨物主体の駅として置かれたとして良い。
そして、道路交通との接点となる北三条通りを始めとした周辺地区に倉庫群が集積し、工場労働者向けの住宅も建設の進んだものであろう。1916年の陸軍参謀本部陸地測量部による地形図「札幌」図輻には、通り沿いに市街地の形成されつつある様子が伺える。この前年、1915年1月20日には馬力動力の札幌市街軌道が市内の物流を担うべく東2丁目から苗穂町(*5)までを延伸していた。
この馬車鉄道は、札幌電気軌道と社名を変更後にその名の通りに各線の電気運転化を計画し、この軌道を1918年に一旦全面撤去の上、電車運転設備を再敷設して部分延伸を経て1922年12月31日に道庁前から苗穂停車場前まで2.1キロの営業を開始した。この頃までには沿線人口も増え、工場通勤者などの需要も相当に生じていたものと思われる。また、1925年に苗穂に接続した北海道鉄道(2代)は、当面実現しない省線札幌への乗入れに替えて、この札幌電気軌道線と連帯運輸(*6)を行い市内への交通を確保した。
札幌電気軌道は、1927年6月に買収により札幌市電気局軌道線となった。札幌市公営交通の始まりである。

苗穂には国鉄自動車も発着していた。1934年6月10日に、道内で最初の鉄道省監督局陸運課の自動車路線となった札樽線であり、それは苗穂を起点に手宮までの43.8km(*7)であった。
当初には、旅客自動車5台と貨物自動車1台が北三条に置かれた車庫に配属され、同区間に4往復の運行を開始した。苗穂の起点設定は、前述のように或る程度に交通の結節点化していたこともあるだろうが、この当時の札幌停車場はその構内南側にも、東方には運輸関係機関とその裏手に小口貨物積卸線が引込まれて倉庫群が建並び、西方には札幌鉄道局局舎が広い敷地を占めていて、自動車の発着場や操車施設を追加する余裕のなかったものであろう。札幌は自動車線の連絡駅ではあったけれど、それが構内に乗入れることはなかった模様である。
戦時にともなう1944年からの休止を経て1947年に再開し増便もなされた札樽線は、1958年7月5日に札幌駅構内に上記側線に倉庫群を整理して国鉄バスセンタが開設(*8)されると運行はここを起点に改められ、苗穂方面には戦後の1947年3月20日に開設の長広線長広本線の札幌-由仁間41km(*9)のみが運行されることになった。けれど、この路線は西2丁目から国道27号線(現12号線)を運行して、苗穂至近の停留所は東橋であった。

1960年代前半の記憶だが、道庁前から乗った市電4系統の電車から見た北3条通りは商店の散在する古い街並が続いて、終点の苗穂駅前に降りれば、その先は工場ばかりで札幌の街外れの印象であった。都心から2キロ程の至近距離にありながら南を豊平川に北を鉄道線路と工場群に抑えられて広がりを持てず、札幌の発展からは取り残された地区となっていたのである。
* 脚注は追記にある
(この項 苗穂 (函館本線) 2000 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、苗穂東方の複々線区間での8010列車<カシオペア>。
73年の複々線化事業についての詳細は後述するが、この豊平川橋梁までの区間は最も北側の現函館下り線が増設線である。<カシオペア>の往く千歳下り線(上り運転線)が旧函館下り線、千歳上り線が旧函館上り線、函館上り線が旧千歳線位置になる。その左側にはかつて構内側線が伸びていた。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f4+1/2 Non filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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女満別 (石北本線) 1973

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近年に鉄道沿線に立ち始めた撮影者にはそれが鉄道線路であろうが、永年の観察者には違和感がある。変化は1990年代から起きていた。まずは線路伝いが歩き難くなった。犬走りへの夏期の植生の進出は当然だが、それが覆い被さる様相には、放置されていることに気がついた。さらに年月を経て周囲の樹木が成長すれば、沿線は鬱蒼とした植物群に囲まれるに至った。
宗谷線や石北線、函館山線などで撮られた緑の海を往くがごとくの光景を作画上の演出と思いつつも現地に立ってみれば、列車の走行空間が明らかに小さくなっていたのは、2000年前後からこの方のことである。冬期の積雪にて枝が撓り運転に支障した等の事例を多く聞くに及んで、Web上に発表の写真を検索すると、緑の切通しを抜けるようなロケーションが次々と見つかり唖然としたのもこの頃と記憶する。
民営化後の旅客鉄道各社では線路の保守基準を国鉄当時よりも緩めたであろうことは、疑いの余地がない。路盤に道床が夏草に覆われようと運行が確保されていれば良い。国鉄の時代に枝が払われ、周期的に伐採もされていた沿線樹木も建築限界を基準にそれを支障さえしなければ良い。駅員無配置駅の構内が草蒸したところで、最小限のサーヴィスが提供されれば良い。
利潤に直接的でない経費は、それを確保するに足る最低水準に固定化される。資本の論理である。

鉄道の線路は走行に要する空間ばかりでなく信号の見通しを要して、支障物の除去は保守基準にも明確化されて来た。これに応じて保線区は巡回しては枝を払い、周期的に伐採も行ったのであるが、民営化後に要員の減り続け、実作業も保線部門を分離した子会社への委託とあれば、これも経費削減策であるからとても手の回るところではなかろう。かくて必要最低個所の作業に限定せざるを得なくなった。機械化にて作業通路としての犬走りの必要度も低下し、手作業ではないから雑草を処理することもなくなる。
かつて保線業務遂行の最小単位とされた保線分区の線路班は、細分化された担当延長間の線路は仕事場としてばかりでなく、そこに官舎の存在したから当然かもしれないが、自分の庭のごとくに手入れをした。隣接班と競い乗務員(機関士)をして優秀な線路と言わしめることを誇りとしていたのである。

「マル生運動」への敗北で苦渋を舐めた保守勢力が右翼政治家中曽根康弘を為政者に仕立て上げ、土光敏夫経団連名誉会長や戦犯瀬島隆三伊藤忠商事顧問による第二次臨時行政調査会を後ろ盾に、公労協の分断を図り「戦後労働運動史の終焉を目指し」( * )たのが、「国鉄改革」の実体であり、それは、保線現場に限らぬ「誇り高き鉄道員」達から、所属組合を差別した人権無視のありとあらゆる不当労働行為により「誇り」を収奪することで実現された。
保守勢力の本音は、労働運動を弱体化し、解体した国鉄の資産を手中に収めるところに在って(それを民営化と云う)、決して「再建」ではなかったから、後は与り知らぬことだったのである。
昨今に噴出している一連の北海道旅客鉄道における諸問題の根源は全てここに在り、もの言わぬことで設立会社に採用された者達が四半世紀を経て経営幹部となり、その間に入社した「会社員」達が従業員組合をして安全施策を積極的に会社側に要求することも無い。まして、子会社に分離されてしまえばなおさらであろう。
時の政権の後裔であり、財界の意を受けた点に於いては優るとも劣らぬ安倍右翼政権の官房長官菅義偉による北海道旅客鉄道への非難は、「オマエらだけには云われたく無い」類いである。
( * ) 当時に国鉄「再建」監理委員長に就任していた財界出の(住友電工労務管理担当役員)による『文藝春秋』1986年9月号での発言。

写真は、西女満別-女満別間新旭川起点215キロ付近を走り去る1527列車。云わずと知れた<大雪>の普通列車区間である。女満別 (石北本線) 1973 の後ろ姿になる。
奇麗に整備された線路で、路盤から除雪車のウイング幅目標のポールまでは植生が刈り取られ犬走りも機能しており、防雪林までの用地の樹木も取り払われている。夏の始まりと終わりとの差異はあるのだが、2010年時点の現状との比較をzouketsu3さんの動画にお借りする。再生時分の2分から3分経過あたりが当該区間である。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

苗穂 (函館本線) 1991

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苗穂 (函館本線) 1996 の続きである。

苗穂駅にかかわる新たな資料を閲覧したので、これまでの記事の補遺および訂正としたい。
ひとつは、1958年度に行われた札幌地区改良工事の資料である。
この改良は、札幌の機能が旅客・貨物とも限界に達したために計画されたもので、札幌の貨物扱いを桑園・苗穂・東札幌に分散吸収させ、着発線容量を緩和して構内作業の隘路を解消し旅客列車の増発を図ることを目的としていた。
苗穂には、札幌地区における小口扱貨物の全ての集約化と札幌から札幌用品庫関係と石炭専用線扱いを除く特殊扱い貨物(*1)の移転が計画されていた(*2)。これにより苗穂では、年間で40万トン余りを想定する扱いに駅本屋西側の貨物積卸ホームを幅11m・延長140mから15m×180mに拡大し、さらに15m×110mのホームを新設、上下の仕訳線群の増設も行われた。その後から現在までの用地規模はこの際に決定されたことになる。完成は1958年6月と記録され、同1日付にて札幌駅は旅客駅となっている。
そこに添えられた工事完成時の構内配線図には本線列車運転の7線が見て取れる。本屋に接した1番線から下り仕訳線群に隣接の7番線までであり、それぞれの使用方は以下である。
 1番 - 東札幌小運転線(*3)
 2番 - 通路線(*4)
 3番 - 千歳線上下副本線
 4番 - 函館上副本線
 5番 - 函館・千歳上本線
 6番 - 函館・千歳下本線
 7番 - 函館下副本線
加えての、南側に1・2番線に接続して上り仕訳線の5線と北側に下り仕訳線の9線が専用線接続側線を除く苗穂駅配線の全てである。当時に一面のみだった島式乗降場は当然5・6番線に面していた。
興味は駅本屋に接した1番線に乗降場の存在だが、この図面からは読み取れない。その東端には行き止まり線が1線あり、これが前年まで定山渓鉄道の電車が着発していたホームであろう。既に営業線でないためか番線表示は無い。

この1958年当時の図面と、同時に発掘した1966年時点での構内配線略図、および1947年の米軍撮影の空中写真からこれまでの記事を訂正する。
1935年から36年にかけての貨物設備増強工事に際して移設、改築されたと思われる駅本屋は、同じく移設の北海道鉄道札幌線着発乗降場と一体に建てられたことは、それから10年後に撮影の空中写真に見て取れる。
本屋西側に貨物積卸施設が隣接して、乗降場は本屋位置から東側に延長を持っており、現在の改札口付近から駐車場に転用されている敷地の東端に至っていた様子である。そこには機関車牽引の混合列車の発着したものであろう。その島式ホームの向かい側が行き止まり線であり、単行のガソリン動車に使われたと思われ(*5)、後年には架線しての定山渓鉄道列車の乗入れ線である。1958年の配線略図は前述のとおり1番線の状況は読めないものの、ほぼこれを裏付けていると見て良い。
これの7年後、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線化に際して島式乗降場の一面を増設した以降を示す1966年の図面では、島式ホームから本屋側に線路は6線を数える。これは、前に推定したとおりに不要となった旧札幌線ホーム(*6)を取り壊し、そこに貨物関連の1線を増設したものと思われ、乗降部の無い乗降場を土台に本屋の建つ現状に一致する。また、この際の増設乗降場はやはり現在の岩見沢・千歳方面ホームであろう。(この決定的な資料はまだ見つからない)
前回記事の1960年代に実見したホームから本屋側に5線の線路は、見誤りか記憶違いと云うことになる。
この時点での本屋側からの各線使用方を記して置く。島式ホームに面するのは3番から6番である。なお、操配線の番線表記は記されておらず、以下は便宜上の区別である。
 操配1番 (使用方不明)
 操配2番 (使用方不明)
 操配3番 (使用方不明)
 1番 - 千歳上下副本線
 2番 - 函館上副本線
 3番 - 千歳上本線
 4番 - 千歳下本線
 5番 - 函館上本線
 6番 - 函館下本線
 7番 - 函館下副本線
* 脚注は追記にある
(この項 苗穂 (函館本線/千歳線) 2009 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、苗穂構内での4列車<北斗星4号>。それの3往復定期運行の頃である。
これも札幌駅の高架化で可能になった画角だけれど、この位置に今は立てない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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茶屋川 (瀬棚線) 1971

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北海道のルーラル鉄道の多くは政治路線として良い。それらの建設計画を推進させたのは、沿線に広大な土地を所有していた貴族や華族と彼らの意を受けた政治家だったのだが、普通選挙の実現しない当時に政治家自身がそれら階層の出身である例も多々存在し、その場合には政治路線ですらなく、個人利権路線そのものであった。
背景には、軽便鉄道法の成立(1910年4月21日法律第57号)とそれの拡大解釈による鉄道省建設線への適用を議会が容認していたことがある。

瀬棚線の建設は、第一次世界大戦戦後恐慌下の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で決定され、1923年に北海道建設事務所の所管となって着工した。沿線地域の大地主であり埼玉県選出の政友会代議士であった加藤政之助が、弟勘助が入植していたこの地の、豊富な木材と鉱物資源の開発利権を目論み請願運動に成功したものであり、個人利権型路線の典型が見て取れる。鉄道省はその敷設理由を「沿線に擁する豊富な資源を始め中間に抱く利別沃野の開発」(瀬棚線建設概要 : 鉄道省 1932)のためとしていた。
1922年に制定の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)の別表には、その130項に「 膽(胆)振國八雲ヨリ後志國利別ニ至ル鐵道」が規定されていたのだが、これが顧みられることはなかった。

函館本線の大型蒸機を差し置いても、この線へと通ったのは渡島利別川が曲流した花石盆地の風景に誘われてであったが、勿論茶屋川から稲穂峠への25パーミル勾配区間にも立っていた。
茶屋川駅は既に駅員の無配置化がなされ木造の待合所のみが残されていたが、それは正面からみれば大きな三角ファサードの玄関が全てを占めるようで、おそらくは無人化時に不要となった木造本屋の駅務室部分を取り壊したものと思われた。無用となれば放置される例の多い中で、1961年と云う早い時期ゆえ国鉄にも余裕の在ったのだろう。

写真は、山瀬トンネル(786M)手前での1993列車。雪の線路伝いに随分と歩いた記憶がある。
C11形蒸機は、元はと云えば都市近郊の小運転用に計画された機関車なのだが、地方丙線にも多くが送込まれ、ここと言い、会津線と言い苦手な勾配線に挑んでいたものである。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

中丿沢 (函館本線) 1997

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大気が寒冷な季節となれば、暖房のなされた車内や宿舎内などとの環境変化にて機材には結露を生ずる。外部への結露なら防滴構造のカメラにはそれほど気にするでなく拭えば事足りる。問題は内部結露に在った。

冬の朝、その日の最初の撮影で巻上げ/巻き戻し共に不能となるトラブルを以前に Nikon F3 で経験していたのだが、→[番外編 2] 新得 (根室本線) 1980 それが、この当時に導入したばかりの F5 でも発生したのである。
F3 での事故の際には、何らかの事由にてフィルムに付着した内部結露による水滴がプレシャプレートへの固着を誘発したものと推定して、十分に加温した機体を冷凍庫にて急速に冷却する実験を幾度か繰り返し、内部への結露発生を視認したものの事象は再現せず、フィルムもバトローネのスリット部にあるテレンプへの水分吸収による進行阻害を疑って、スポイトで吸水させて確認しても動作は正常であった。
機体をニコンに持込んでの検証でも、プレシャプレートに(巻上げ/巻き戻しによる)過度な力の加わった形跡の無く、確かに撥水性を持つ樹脂製のそれへの固着は考え難いとの結論だった。
念のため、当該パトローネを添えてコダック社に検証を依頼した個体差からの物理的不良についても、後日受取ったテレンプの顕微鏡観察まで含めた詳細な調査報告書には正常な製品と結論されていて、結局のところ原因特定に至らなかったのである。

これらを踏まえれば、この F5 での事象で疑うべきは最早ひとつしかなく、それはカメラ内部のパトローネ室に収められたパトローネのさらに内壁への結露である。
実験はカメラに装着状態ではなくフィルム単体で行ったのだが、加温から急冷却させたパトローネを開封してみれば、内部には僅かな曇りが確認された。金属だから結露は生ずるのである。フィルムを少し引き出してスプール軸を回さずに戻し入れた個体、即ち内部でフィルムが緩く巻かれた状態で事象は遂に再現され、巻軸から乖離した状態のフィルムベースが全周に渡って張付けば固着状態に至ることが確認されたのだった。
外気温の影響からは最も遠い位置にあるのだが、過度に加温されたカメラを、三脚上に据え付けて列車を待つなど寒冷な環境に放置すると、その冷気は次第にこれも暖められたパトローネに達して内壁を結露させ、そこにたまたま撓んだフィルムがあれば起こり得る事象だったのである。
要は機材を暖めなければ回避出来るのだが、宿泊や夜行列車移動など現実にはそうも往かず、以来には暖房の室内にカメラを取り出さず(それでも暖まってしまうのだが)、列車を降りてからの移動にはバッグのファスナーを開けて緩慢な冷却を心がけ、また気がつけばスプール軸にフィルムを巻き込むようにした。

写真は、その時の事故フィルムからのカット。列車は、夢空間車を組成した9009<北斗星トマムサホロ>の新得行きなのだが、故意か誤用か<夢空間北海道>のヘッドマークを掲出していた。
事故はこれの撮影後のアドヴァンスで発覚したのだった。その夜の宿舎でバスルームを全暗黒にしてフィルムを取り出し、フィルムケース代わりに持参していた45判のフィルム箱へパトローネに巻き戻さずにそのまま密封して持ち帰り、撮影結果には事なきを得た。
余談ながら、驚いたのは F5 のコマ送りモータがフィルムをパトローネから引き出すに必要かつ十分な最低限のトルクに設定されていたことである。ニコンは、このような事態の在ることを知っていたのではないか。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f2.8 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

苗穂 (函館本線) 1996

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苗穂 (函館本線) 1989 の続きである。

札幌から苗穂への高架橋と斜路の建設用地は、札幌停車場の高架設備が主に旧札幌客貨車区用地を利用したゆえ既設線群の北側に求められ、その工事期間を通じてこの区間の5本の線路は維持された。南側構内側線は北海道瓦斯への専用線機能を擁したし、北側線は苗穂機関区との回送線として欠かせなかったためである。
琴似から苗穂までの高架線は1988年11月3日より使用を開始し、ここは本線4線の複々線区間となった。11月2日夜からの苗穂構内での線路切替工事は翌始発までの完了に約800名の作業員が動員されるものであった。
苗穂運転所の出入区線と工場線は、各線間の渡り線で上り外側線まで進出可能な位置にて下り外側線への接続とされた。

古くは停車場設置以前の札幌の構外貨物扱い施設に始まって、鉄道工場用地に機関庫や貨車検修施設の移設、近年では貨物扱いの吸収に荷物関連施設の移転と、広い構内を、その時々に本来札幌が担うべき機能の代替に隣接駅として努めて来たのが苗穂駅と言える。
1994年11月1日に実施の札幌圏輸送改善では、札幌駅の上り方留置線を桑園まで延長して、これを函館本線下り線とし既設の下り線を札沼線列車運転線とする桑園-札幌間の3線運転化にともない、これにて不足する札幌での列車留置線を苗穂構内に求めて、小樽方面行き乗降場を駅本屋側の旧操配線を整理して移設し、その跡地に2線の留置線の設置がなされた。この移設乗降場は最長でも6両組成の停車列車にホーム有効長は156メートルと短いものとなっている。この留置線の使用は10月1日より開始され、同日付でもこれにともなうダイヤ修正が行われた。

牛舎由来のマンサード屋根こそ持たないものの、中規模な北海道型駅舎の典型と云って良い駅本屋は、建物財産票によれば1935年10月の登録となっている。それは国有鉄道固定財産管理規程に定めた固定財産保管簿への記載であって必ずしも建築年とは必ずしも一致しないのだが、鉄道省年報にはこの年から翌年に貨物施設の増強工事が行われたとある。(駅本屋には触れられていない)
1925年8月にここへ乗入れた北海道鉄道(2代)は、その接続方向から構内南側に乗降場を設置したと考えられる。開通当時の同札幌線は機関車牽引による混合列車だったから、行き止まり式の乗降場ではなく、機回線も付帯した設備を要し、苗穂機関庫未開設につき転車台も設置されたと思われる。
それが1935年の貨物設備増強工事に支障し、乗降場を東寄りに移設の上でそれに面して駅本屋を建替えたのではなかろうか。現状で明らかに乗降場の上に建築された実態にも説明がつけば、1948年の米軍による空中写真にも駅本屋に接しての乗降場が確かに見て取れる。その乗降場を本屋土台部を残して取り壊し、貨物側線に転用した残滓が現況と思われ、1960年頃の実見でも既にこの様相だったと記憶する。1957年までここに出入りしていた定山渓鉄道の電車は、その向かい側に設けた行き止まりのホームに着発していた。
現在の乗降場番号付番の3番から6番ホームを以て、かつての1番2番ホームがそこに存在したゆえとする説があるが、確証は無い。1965年の島式乗降場増設以降に、苗穂駅の本線/副本線であった1番線から7番線で乗降場に面したのも3番から6番だったのである。1・2番線は上りの、7番線は上下の貨物列車の着発に使われた。1番線の本屋側には貨物操配線が2線在った。
94年の小樽方面行きホームの移設に際しては、旅客に浸透した3・4番付番を継承したものである。
(この項 苗穂 (函館本線) 1990 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

札幌からの斜路を駆け下りて苗穂場内に進入した2列車<北斗星2号>。
これは立体交差事業の完成で可能になった画角である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor ED300mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopCS3 on Mac.

新世橋前 (函館市交通局・宮前線) 1979

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2013年に100年の節目を迎えたと云う函館の市内電車である。それの歴史は1897年の亀函馬車鉄道に始まるゆえ、とっくに100年を経過と思えば、その後身-函館馬車鉄道の路線を函館水電が買収し、電化工事にて電気運転を開始しての100年とのこと。確かに車体への公式掲示には「路面電車100年」と在った。
全線が健在だった頃の各路線は、函館の街の造作そのままにそれぞれ特徴を持っていて楽しめたものだった。観光の核心地域を抜けた終点が信じられない程に殺風景だった本線のどつく前方面、対して広い道幅に雑然とした工場と住宅の混在した街並の続く五稜郭方面、急坂に趣の在る沿線の宝来・谷地頭線、郊外線の面影を残した湯の川線沿線と記憶する。
あまり特徴的では無かったのが、東雲線から湯の川線の堀川町あたりへ続く区間に、この宮前線だったのだが、路線はここで川を渡っていた。

陸繋島である函館山の、その砂嘴上に成立した函館旧市街地に川の流れの在ることには、不思議にも思ったものだった。横津山系袴腰岳の南斜面を水源とした亀田川である。
調べて見れば、かつては砂嘴手前を曲流して現万代町付近にて函館湾に注いでいたものを、1888年に東流する人工河道(掘割)を築造し大森浜へ流したものと知り納得した。函館市電の路線上に存在したのは、この通称-新川への架橋であった。
専用橋とは往かず道路併用なのは残念だけれど、街並の続く路面中央を往くばかりの中では変化を与えてくれるロケーションではある。現在も電車の通る湯の川線の昭和橋よりも撮り易かったものか、この新世橋にばかりに立っていた。
函館に暮らした訳では無いので、ここがどのような地区だったのか分からないままなのだが、瓦斯会社の工場と五稜郭の商業地が、僅か2キロ程の宮前線を介して隣接しているのには不思議な感覚を覚えたものだった。

500形電車は、この当時に製造の30両中の2両が失われていたけれど、新製・就役から約30年を経ても主力車両に違いなかった。3系統に運行中の512は1948年11月の新製出場、この後さら1991年まで12年を稼働して用途廃止とされた。1978年11月1日付での系統改正による3系統は、駒場車庫を起点にガス会社回りで函館ドック前を往復する系統であった。
新世橋西詰めから柳川町方向。背後で後に西武デパートの入居するビルやHBC函館放送局を建設中の敷地が1973年に廃止の梁川車庫の跡地である。その手前、函館トヨタカローラ販売は建物こそ建替えられているが、今もこの位置にある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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苗穂 (函館本線) 1989

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札幌 (函館本線) 1985 の続きである。

戦前より苗穂地区には大小の工場が立地して苗穂駅は多くの専用線を所管していた。
前述のように1890年の札幌製糖専用線に始まる札幌から苗穂を結んでいた側線には、その歴史的背景から札幌方に向けての接続となっていたサッポロビール札幌工場専用線の他、ホクレン札幌ライスセンター専用線などが接続し、機関区脇から苗穂通りを横切り陸軍秣本廠札幌派出所へ続いた引込線には、1918年に福山商店(後の福山醸造)苗穂工場の、1926年に保証責任 北海道製酪販売組合連合会(後の雪印乳業)札幌中央工場の、1961年4月に日本セメント札幌包装所専用線が、それぞれ接続していた。
構内南側から札幌方へ延ばされた側線は、当初には1912年に操業した北海道瓦斯(後に北ガス)札幌工場へ引込まれたものであったが、後には多くの倉庫への専用線が分岐することなった。また、白石方へも豊平川橋梁近くまで側線が延ばされ、これには東洋鉄球札幌工場への貨車が出入りしていた。
これら専用線を分岐する側線に特徴的であったのは、南側白石方へのものを除いて電車線の設備のあったことである。狭い電気運転区間に閉じ込められ運用効率の良く無い電気機関車-ED76を入換え運転にも活用する方策であった。

1978年5月に国鉄と札幌市が発表した札幌駅を含む札幌市内函館本線の高架化事業(正式には、札幌圏都市計画都市高速鉄道日本国有鉄道函館本線札幌駅付近連続立体交差化事業)の計画では、札幌から苗穂への斜路部にあたり支障する専用線の撤去はやむを得ないものの、大口需要のあった南側の北海道瓦斯と北側のサッポロビールについては分岐位置を変更しての維持とされていた。
今、東8丁目架道橋まで伸びる引上線はサッポロビール専用線への操車に残された施設であるが、専用線自体は物流構造の変化にて高架線切替を待たない1986年に廃止されてしまい、工場自体も1989年には恵庭市に移転した。北海道瓦斯専用線については本輪西からのナフサやLPG輸送で2001年3月まで稼働したのは記憶に新しい。

札幌より移転を要した郵便・小荷物扱い施設は、千歳新線の使用開始直後の1973年10月1日付にて専用線扱いを除く貨物扱いを東札幌に集約して遊休化していた苗穂の貨物施設跡地が転用され、計画時点では1986年11月の国鉄の小荷物輸送からの撤退は予期出来ず、これは恒久施設として建設されて1984年2月1日より運用が始められた。これにて荷物/郵便車組成列車は同改正より苗穂発着にて設定され、構内南端の荷物積卸線へ本線全てが相互に渡り線で連絡した苗穂独特の配線を使い、本線を次々に横断して出入りしていた。ダイヤ構成上の隘路ではあったと思える。夜行急行列車も同様で、上下とも1番・2番の副本線に運転停車して郵便・荷物車の解結を行った。これについても、苗穂 (函館本線/千歳線) 1992 に書いている。
駅本屋を間近に見る位置への停車は、鉄道屋には物珍しい体験ではあったものの、多くの乗客には札幌を出て直ぐの、終着を目前にしての5分を越える停車は煩わしい事態であったろう。
この施設は、前記のとおり1986年11月改正にて使用を停止し、僅か2年余りの稼働に終わった。
(この項 苗穂 (函館本線) 1996 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、苗穂3番ホームに着発する946列車。滝川からの小樽行き。
ED76の貫通扉に取付けられた金枠は、88年11月改正から使用の直径89cmサイズにて製作されたトレインマークの受け具で、余計なモノである。大型のヘッドマークは機関車には似合わない。
延伸や改築・改変は在ったにせよ、この3・4番ホームが開駅以来の乗降場位置と推定される。94年度に取り壊されて現存はしない。背後に放棄された荷物扱い施設が見える。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 2004

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「鉄道の町」を標榜する新得町だけれど、勿論最初からそうだった訳では無い。新得停車場は、1907年9月8日の釧路線落合-帯広間開通時にその途中駅として開駅して、これにて旭川-下富良野(現富良野)-釧路間が全通している。当時に狩勝峠区間の運転拠点は、1901年9月3日に十勝線にて開業していた落合停車場が担い、そこに終端駅施設として在った機関庫が引続き使用された。
当時の新得は、1898年に人馬の通行を目的とした石狩道路が狩勝峠を越えて開削され、1899年のパンケシントク原野への13戸を最初にペケレペツ、フシコペツ、クッタルシの各原野の入植の始まったばかりであった。それでも、同年バンケシントクに人馬継立所、後の駅逓所が開かれてそこが市街地化する端緒となっており、官設鉄道の新得停車場の設置がそれを加速したのであろう。
1917年4月16日の落合に替えての新得機関庫の開設、同年11月の保線区の同所からの移転設置は、多くの鉄道職員とその家族を受け入れ可能な都市インフラが、この時期までに整備されたことを意味している。以降に新得市街地は鉄道拠点化を梃子に地域の行政中枢としても発展したのである。

新得駅から至近の新得山は標高こそ455.3メートルなのだが、市街地との比高は250メートル程で小山の印象である。東斜面には古くから町民向けのスキー滑降場が開かれ、それは根室本線の車窓にも見て取れる。斜面下には新得町によりD5195の車体が保存展示されているのを御存知の向きも多かろう。山全体が町立自然公園に指定され、頂上までの車道も通じている。
1970年代初めの頃、スキー場のリフトに(スキー板を履いていないので)滑降区域に立ち入らないことを条件に乗せてもらい、頂上からの眺めをロケハンしたことがある。雪混じりの風に視界は良く無い中にも、予想通り増田山から西新得信号場に至る狩勝新線の南半を見通せることは確認出来た。けれども、直線の見通し距離は4キロから5キロに及んで、超望遠など保有しなかった当時には諦めざるを得ない地点でも在った。
天候も大気の状態も考慮せねばならぬゆえ、ずっと躊躇していたここに登るのは1999年のことだったが、タクシーで降り立った頂上は山腹や周囲の樹木がすっかり成長してしまい視界を遮っていたのだった。過去のロケハンは葉の落ちた冬の季節だったから見落としたのかも知れない。

大型三脚に脚立までをも持込まねばならなくなった撮影の再挑戦は2004年にまで持ち越した。5キロも先の被写体を狙う撮影もここぐらいのものだろう。撮影地点は新得だけれど、列車は遥か広内陸橋上を走行している。
列車は2073列車の帯広貨物行き。
秋と言うのに大気は心持ち湿度を帯びていて決して満足の往く条件ではなかった。中央の高峰は日勝峠の南、ペケレベツ岳(1532M)と思われる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6+1/3 C-PL+SC42 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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塩谷 (函館本線) 1986

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小沢 (函館本線) 1984 から続く

青函連絡船の深夜便と継送となる<北海>は、キハ183系運転となっていた14Dが1984年2月1日改正にてキハ80系に戻され、以降11・14Dの上下ともに1967年の設定以来の姿が復活していたのだが、特急列車の編成短縮とその捻出分にて増発の行われた1985年3月14日改正において、それに従い食堂車を含む3両を減じての6両組成化がなされた。
この際には、函館運転所における同じく80系運用の継続した<おおとり>の183系<オホーツク>と編成順位と乗降場位置を極力整合化する措置によるキロ80の方転に関連して、それは北側先頭のキハ82の次位に当たる5号車に組み込まれた。特別車の5号車組成は、同改正で道内の(特別車を組成する)全特急列車に統一されたものであった。
この組成変更により、本改正にて183系の6両組成に置替られた13・12Dと全区間で乗降扉位置が揃うことにもなっていた。詳しくは、Websiteの記事に書いている。
この編成は、札幌での長い間合いに同改正にて新設の札幌-帯広間33・38D<おおぞら3・8号>(正確には下り33Dは改正前5023Dからの承継)に運用されたのだが、札幌からの逆編成は1・2号車の自由席車と5号車の特別車が183系による<おおぞら>と組成順位が同一ともなり、さらにはその2往復とは乗降扉位置も合致して、その実に良く考えられた運用と編成の組成には当時の担当者に敬意を表したくなる。

とは云え、その食堂車も無く短くなった編成は、系列の末期を、そして函館山線の最後を感じさせて寂しさも禁じ得ないものではあった。付言すれば、キハ82の前頭にも及んだ絵入りの列車名板は、どうにも不似合いに感じられたのだった。183系のロール式愛称幕ではそのデザインに違和感を覚えなかったから、前頭部形状のデザイン自体がそれを想定していなかったゆえとしか思えなかった。

写真は、通票授受に塩谷をゆっくりと通過しオタモイ峠に再加速する11D<北海1号>。
最早、本州連絡特急の貫禄は失われていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1985

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苗穂 (函館本線) 1988 の続きである

1965年9月25日に札幌-苗穂間は函館本線の3線運転となり、ここには北側・南側の構内側線を併せて5本の線路が並んだ。本線列車運転の3線は北側から、下り線、上り中線、上り線と区別され、上り中線には上下列車が運転された。この際に島式1面が増設された苗穂の乗降場は南側一面が千歳線用、北側が函館本線用に使われたから、その振分けは苗穂の札幌方にて行われ、上り中線の供用により両線列車の並列運転が可能となっていた。苗穂の乗降場の番号付番の3番から6番ホームはこの時からと記憶する。

1967年には白石方で大規模な工事が着工される。
1926年8月21日の(2代)北海道鉄道札幌線として開通以来の線形の残る千歳線を苗穂から北広島までの区間(書類上は苗穂-上野幌間)で複線の別線に付替えとする実質の新線工事であり、それの苗穂から白石までは函館本線の複線と並行させ、内側2線を千歳上下線、外側線2線を函館上下線とする方向別の複々線を構築するものであった。
この別線は1973年9月9日に使用を開始し、苗穂停車場では上記のとおり増設されて島式2面となっていた乗降場の、南側の3・4番線を函館本線/千歳線の小樽方面行き、北側の5番線を千歳方面行き・6番線を岩見沢方面列車の着発とする現行に改められた。豊平川橋梁の架替を含んだこの工事の詳細は後述する。
苗穂の白石方配線は引き直され、ここにも札幌方同様に各線を相互に結ぶ渡り線が挿入された。札幌方の3線と続く札幌の着発線を有効に活用するためであり、この苗穂の特異な配線に就いては、以前の記事 苗穂 (函館本線/千歳線) 1992 で触れている。
この時点以降には、札幌から上り中線を運転の千歳線列車は、そのまま苗穂の千歳下り線(上り運転線)に進入するが、下り線運転列車は苗穂構内に入ったところで渡り線にて転線していた。函館本線下り列車はその逆である。
対して、岩見沢方面からの函館本線上り優等列車は、苗穂白石方のシーサスクロッシングを渡って千歳線上り線に転線する運転が大半で、乗降場を通過後に上り線に直進もしくは上り中線への転線を選んでいた。この3線運転では、上り列車には苗穂構内の千歳上り線が直進ルートであったためであり、函館上り線に入るのは主に停車列車であった。白石から札幌構内まで両線で併行ルートを構成するには、勿論その限りでは無い。

1960年代後半より北海道・札幌市から要請の在った札幌停車場を含む札幌市内函館本線の立体交差化事業は、市、道、国鉄による協議をまとめた1975年の札幌市による原案を翌76年に国鉄が同意して、1977年に北海道が事業計画を認可、1978年11月27日に起工した。
当初の札幌市の提案は発寒川から豊平川までの7.8キロ区間であり、苗穂停車場を含むものであったのだが、鉄道工場や運転区所を地平に置かざるを得ず、出入区線が残って東9丁目踏切を除去出来ないなどから見送られた経緯がある。また、国鉄側には、高架化後の札幌に存置出来ない荷物・郵便扱い施設を、近隣で用地も確保可能な苗穂への移転を要した事情もあった。
(この項 苗穂 (函館本線) 1989 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

札幌-苗穂間の5線区間は、ここの高架線工事期間を通じて維持された。
写真は、苗穂から上り中線を運転して雨の札幌構内に進入する838列車。停車場部の高架躯体が立ち上がった頃である。
岩見沢からのこの列車は、函館上り線より苗穂の場内信号で千歳上り本線に転線し4番線ホームに停車、発車後にさらに上り中線に転線するルートの運転であった。
なお、この小樽-岩見沢・滝川間のシャトル運用は1979年2月1日からオハ51・オハフ51形が積極的に投入され、82年度内に完了していた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8ED 1/60sec@f2.8 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

千松仮乗降場 (羽幌線) 1983

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冬にばかり通ったのが鬼鹿だった。
日本海岸の厳しい季節を撮りに往くのだが、悪天や吹雪にやられ翌シーズンに再訪すれば、また悪天に遭遇の繰り返しで、思ったような「程よい悪天」に巡り合えず毎年通うことになっていた。
鬼鹿の留萠方も幌延方も、海岸線に低いクマザサの段丘の景観が続いて何処からでも撮影は出来たのだけれど、下り方だと「バンビ」が画角の邪魔をしていた。ご記憶の向きも多いと思う。大きな三角屋根に「バンビ」と大書きされた建物である。正体は国道ロードサイドの喫茶店(飲食店)なのだが、市街地からやや離れた元浜に一軒だけが建つものだから、矢鱈と目立っていた。それだけでも画角からは排除したくなるのに、屋根に「バンビ」である。
それを避けるべく歩を進めれば、いつの間にか千松の乗降場に往き着いたものだった。

留萠起点29K590Mの地点に設けられていた千松仮乗降場は、旭川鉄道管理局第二代局長の斉藤治平が設置したものでは無い。その1950年代半ばを離れた1963年6月1日の開設である。鬼鹿から3.5キロ程の距離なのだが、当時に国道232号線は、名ばかりの悪路であったから要求の在ったものと思う。1947年の米軍による空中写真でも千松川の谷と海岸沿いに集落の続いているのが見て取れる。
けれど、まもなくに国道も改修整備されれば顧みられることの無くなったのであろう、除雪もされず人の降り立った痕跡も無い姿を何度か目撃している。それでも、当時ここには上下5本ずつの停車列車が設定されていた。
忘れられた乗降場は何も此処ばかりでなく、天北線の寿だったと記憶するが、手動で開けた扉の目の前が腰までに積んだ雪で一瞬下車に躊躇した覚えが在る。

列車は853D、幌延行き。先頭のキハ21の改造によるキユニ21は、この頃深川機関区に2両のみの稀少車。
留萌本線/羽幌線での荷物車連結順位は、幌延を基準にしていた。深川では函館本線と逆位となるのだけれど、そこでは函館線列車と乗降場を共用しないためである。
列車後方が「バンビ」である。Web上を検索していたら、この建物が2009年時点までは放棄されながらも健在と知れた。
画角右上は周辺光量が不足しているのでは無い。海上に次の吹雪が接近しているのである。既に雪混じりの風が吹き始めている。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

七飯 (函館本線) 1988

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続発した列車火災に当該形式・車両の運行停止により特急列車の長期運休措置を取っていた北海道旅客鉄道は、先般それを継承するばかりか最高運転速度の低下までも含むダイヤ修正を公表した。道内紙のみならず全国紙もこぞって記事化したそれは、到達時分の短縮を至上命題としてきた鉄道界にあっての運転速度抑制にニュース性を見いだしたものであろう。
283系運用が削減対象となり、運用復帰の目処が立たない(とされる)183系500番台系列の4往復を含めて当面定期列車の5往復体制となる函館方面については、地元経済への打撃にも焦点が当てられていた。臨時運行を含めてもこの区間での優等列車の7往復程度の運転は、現在と人的交流の比較にならない1968年10月改正以前の水準であり、それも当然のことと思う。
これもまったく異なる道路整備の状況を差し引いても、函館の主には観光経済への影響は避けられない。関係者にとって、傍観者を以て「気に入らねば乗るな」などとの暴言を許すほど悠長なものでは無い。

北海道旅客鉄道当局は、この措置を車両への負荷を軽減し、併せて検修予備車の確保を図るものとしている。これは実際そのとおりであろう。
同時に、この減量ダイヤにより約16億円の減収との社内試算結果も公表している。その根拠は示されないが、運転すれば需要の在る列車を削減するのだから当然減収となる。しかしながら、当局側も報道も触れていないが、自明の理として運転しなければ経費も発生せず、なにより速度低下により軌道破壊も相当に緩和されるから、その保守費用も低減するのである。気動車特急ばかりでなく、当該列車と運行区間の重複する電車特急に空港快速にも減速の及ぶのはダイヤ編成上ばかりではなさそうである。自己操舵台車を装備する283系による釧路方面列車の20km/hの低下も軌道破壊の低減策でもあろう。

減収相応の経費とするこの縮小再生産とも云える施策の固定化を危惧する。平たく云えば、これに味をしめる事態であり、バス交通に離反した利用者を呼び戻さずとも収支の均衡すれば良しとする態度である。陸上の基幹交通機関を運営するとの意識が薄弱と感ずる昨今の事例に鑑みれば穿ち過ぎとも云えまい。
今般の事象の根源には、機械相手の検修技術が継承されなかったことが在る。国鉄の解体時にそれをコンピュータ化可能として現場の熟練技術者の多くを切り捨てたゆえである。経営基盤の脆弱とされた北海道会社にはそれが顕著であった。四半世紀を経過して表面化したこれは、国土骨格を民間に委ねた弊害であり、時の政権党有力者の懐を潤すのみであった「国鉄改革」とは、あまりに代償の高くついたものと云わざるを得ない。
なによりも、この施策が何も関係部署とは限らない自社職員の士気をどれほど奪うものか、影響は計り知れないだろう。

ところで、相次いで同一個所(部品)の不良により出火したキハ183系500番台系列車は、原因の究明と対策の完了まで運用停止措置がとられ、それゆえに<北斗>系統に<サロベツ>に「運用復帰の目処が立たない」(新聞報道)運休を生じたと理解するものの、ならば<オホーツク>系統の遠軽方先頭車は200番台には置替わらないのだろうか。まして、臨時特急の組成中に500番台系列車を見るのは何故なのか。函館や稚内の運休の影響を憂慮する関係者のみならず納得のし難い北海道旅客鉄道の説明では在る。

写真は、七飯のランドマークを往く183系500番台編成、5001D<北斗1号>。勿論後追いである。
城岱牧場の上空に気持ちの良い夏空が広がる。
北海道旅客鉄道函館支社広報課を通じて許可を得て撮っている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Kodak No,9filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

西の里信号場 (千歳線) 1999

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上野幌-北広島間へ1992年7月1日に置かれた西の里信号場は、懐かしい停車場の復活だった。
千歳線起点側の苗穂-北広島間21.9キロが現在線に切替えられたのは1973年9月9日のことだったから、それはおよそ20年を経ての出来事であった。

1955年までに戦前の輸送水準に復した国鉄は、戦後の経済復興とともに伸長を続ける輸送需要に対して1957年度から第1次5カ年計画を、1961年度から第2次5カ年計画を遂行して輸送力の増強を図るも、道内の幹線線増は石炭輸送の重要線区であった室蘭本線の室蘭から三川までが複線となった他は、函館本線の41.9キロと計画外予算による室本線静狩-小幌信号場間6.9キロが着工されたのみであった。函館/室蘭/千歳線の残る区間の大部分は1965年度を初年度とする第3次長期計画にて線増対象となるのだが、それの完成までの応急的措置としてこの区間には1961年から65年に架けて信号場が相次いで開設された。多くは戦時下の陸運転換政策にて設置され、戦後に廃止されていた箇所の復活だったのだが、この千歳線旧線上に位置した西の里信号場は新設であった。
その1961年1月14日の使用開始から間もない頃、親父に連れられての日曜ドライブで存在を知り(→上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1992)、停車列車を選んで車掌に申告すれば降ろしてももらえたので、そこの短い板張りの乗降台から曲線の構内の写真も撮っているけれど、ハーフ判カメラの拙いそれは、とてもお見せ出来る代物ではない。
上野幌から5.2キロ、北広島へ4.3キロのそこは、野幌丘陵の中央部に位置したものの孤立していたのでは無く、付近にはジャガイモ農場の耕作地も広がっていたし、60年代半ばからは周囲で千歳新線建設の土工工事が始められていてブルドーザが唸りを上げていた。構内下り方では本線に隣接して新線路盤が築かれ、20年を経て同名の信号場はその位置に設置された。

新線上の西の里信号場は、千歳飛行場の新旅客ターミナル建物地下への新千歳空港駅開業に際しての、同駅発着快速列車をほぼ20分間隔とする頻発運転に対応して設けられた施設である。その1992年7月1日改正ダイヤでは、主に普通列車の優等列車退避に稼働し、ここで1時間近くを停車する専用貨物列車の設定も在ったのだが、近年では大半の優等列車が130km/h運転となり、高速貨物列車の速度も向上して北広島や上野幌で先行普通列車に追いついてしまい、下り162M、上り482Mの本線(待避線)有効長を持つ施設が半ば遊休化している。適切な投資であったか疑問も残るところだ。
電車線路の支持構造が上下4線を跨ぐ構内は広々として編成列車の撮影には適地なのだが、構内であるだけにどれも停車しているように見えてしまうのが難点ではある。
周囲にフェンスが設置されてしまって以降には、それをクリアしても思った通りの位置には立てぬゆえ訪れていない。
列車は9050列車、隅田川行き。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

苗穂 (函館本線) 1988

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札幌 (函館本線) 1970 の続きである

苗穂駅についての公開されている資料は実に少ない。おそらくは歴史の節目毎に記録は編まれてはいるのだろうが、関係者に配布されるのみで公的機関に収蔵されることも無い。
1910年5月16日の開設時に設置された乗降場位置は、1994年まで稼働した小樽方面列車の発着ホームと推定されるものの確証は得られていない。
1926年8月21日にここに接続した(2代)北海道鉄道の札幌線(現千歳線)の乗降場が何処に設けられたのかも定かでない。1931年7月25日から1957年8月まで、この線を経由して乗入れた定山渓鉄道の電車は、構内の南端、駅本屋の東側に出入りしていたのを写真に見ているから、これが(2代)北海道鉄道乗降場の位置とは推定される。現在の改札を抜けて跨線橋までの通路部分がホームの一部であろう。この様子は、戦後(時期不明)の構内配線図にも見て取れるし、1948年に米軍の撮影した空中写真にも駅本屋に続く乗降場が確認出来る。
1943年8月1日の同鉄道の戦時買収による国有化後については、札幌直通のため構内東側に函館本線との渡り線を設けて、千歳線列車は函館本線ホームに発着して、この本屋隣接ホームは使用していない。但し、札幌線列車の札幌直通は1940年10月26日から行われており(列車本数は不明)、渡り線はこの際に設備されたのかも知れない。
この間、1937年3月10日には苗穂工場敷地に新たな現業機関である苗穂機関区が、1950年2月10日には札幌客貨車区苗穂支区がそれぞれ開設されている。苗穂支区は貨車検修区である。
なお、鉄道省の札幌工場は1915年4月に苗穂工場と改称し、同年10月には手宮・岩見沢工場の業務を吸収している。

苗穂に駅が置かれた頃には、札幌からの構内側線から分岐する工場線や専用線のための貨車操配線は存在していたと思われ、それは苗穂の設備として受け継がれた。ここでの貨物積卸設備は本線南側に置かれたから、ここにも操配用側線が並ぶことにもなり、その後に繋がる構内配置の形態は既に整えられていたことだろう。この広い構内は、後々まで札幌の機能を補完・代替する上で活用されることになる。なお、苗穂の貨物扱い設備は1935年から36年に架けて大幅に増強されている。
この本線南側でも周囲に立地しつつ在った工場への専用線需要から札幌方に向けて側線が延長されて往き、やがては札幌駅構内から通運業者の倉庫線などへの引込みで苗穂方へ伸びていた側線と接続されたのであろう。よって、戦前にはこの区間に4線の線路が並ぶことになっていたと推定される。
これは戦後にも維持されて、前回記事の冒頭に記した光景となるのである。内側が函館本線の上下線、外側は苗穂・札幌両駅の構内側線であり、北側の側線は実見した1960年頃には苗穂機関区や札幌客貨車区の出入区線にも兼用されていた。これも戦前からのことであろう。

全国の幹線線増を目的とした国鉄の「第二次五カ年計画」では、運転回数の増加していた千歳線列車と函館本線列車が輻輳する札幌-苗穂間の線増が計画された。工事は、南側構内側線に隣接して線路を新設し、従来の南側側線を函館本線上り線に、上り線を上下列車運転の増設線に転用するもので、1965年9月25日に3線での運転が開始され、以降ここは5線区間となった。
併せて苗穂停車場には、既設乗降場の北側に島式乗降場一面が増設され、これは主には函館線列車が着発した。なお、前述のとおり94年までの小樽方面ホームが既設との確証はないので、増設は南側かも知れない。
既設4線を複々線とせずに貨物側線を維持したのは、まだまだ専用線需要の旺盛な時代ゆえである。札幌は1958年6月1日付にて貨物扱いを廃止していて、それらは全て苗穂駅の所管となっていた。
(この項 札幌 (函館本線) 1985 に続く- 参考文献はシリーズ最終記事に別掲する)

写真は、5016D<北斗16号>。
札幌の高架化間近の頃である。高架線の工事中も札幌-苗穂間の5本の線路は維持されていた。
札幌から函館下り線を運転した千歳線への列車は、苗穂構内に入ると渡り線で千歳線の下り線(上り列車運転線)へと転線する。背後にほぼ完成した高架橋の斜路が見える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f1.8 Nonfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

小沢 (函館本線) 1984

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張碓-銭函 (函館本線) 1978 から続く。

石勝線を開業した1981年10月1日改正にて、函館本線の<北海>は設定以来の旭川着発を札幌に改め、急行<宗谷>の札幌以南区間の格上げ列車を加えて函館-札幌間に2往復の運転とされ、内13・14D<北海3・4号>に量産車が新製配置されたばかりのキハ183系が使用された。改正13Dが現305Dからの格上げ、14Dは現12Dである。
それは、注目の石勝線特急を函館運転所配置のこの新系列車で運転するための送込み/取込みを兼ねたものと云え、10両組成の2組使用にて、[函13札5005釧](ヨ)[釧5004札14函]との仕業が組まれた。5005・5004Dが石勝線運転の<おおぞら5・4号>である。室蘭線<北斗>系統を差し置いての充当、5005・5004Dがもう1往復の5003・5002Dと逆編成運転となるにも関わらずの選択は、5005Dに繋がる時間帯に<北斗>の設定がなかったためだろう。
それの下りは札幌のホーム在線のまま運用が渡っていて、さながら函館線経由の函館-釧路間列車の様相であった。
青函深夜便から接続の11Dは、現306D格上げの12Dとの運用となって、これには<北斗>運用と共通のキハ80系列の基本7両組成の南側に2両を加えた編成が使われたから、格上げの12Dはキハ56/27編成から一気に食堂車組成列車に変身したのだった。
なお、山線特急は1980年10月改正より黒松内、ニセコへも停車するようになっていて、この急行格上げでの変化はない。

これ以降、183系の増備とそれに供なう80系の運用離脱により道内特急の運用は86年11月改正まで目紛しく変わり、84年2月改正では前記の13・14D<北海3・4号>が80系に置替られ、2往復とも同系列運転となるものの13・12Dについては<北斗>系統と共通運用とされた。
函館運転所の前述の編成による[函3札12函7札](ヨ)[札2函13札6函]と回る仕業によるものであり、札幌にて<北斗>と<北海>を渡る運用は定期列車ではこれが初の事例であった。それの避けられて来たのは、云うまでもなく札幌で環状運転となり編成が方転してしまうためであり、この運用では、13・12Dと7・2D<北斗7・2号>が函館を逆編成での着発となっていた。この運用については、Websiteの記事に詳述している。

11・14D<北海1・4号>は上記と同編成にて再び単独運用が組まれたものの、それは札幌で10時間余りを滞泊して系列の凋落を思わせたけれど、<北海>は1年後の1985年3月改正では食堂車を廃止し編成も短縮されてしまうから、それを組み込んでの9両組成による2往復運転は、最後の輝きとも云える姿に違いなかった。
85年3月改正での運転については、前に ニセコ (函館本線) 1985 で書いた。

倶知安峠の小沢方は、役者がC62重連急行だからこその舞台とも思え、近代化車両にはめぼしいポイントは見当たらない。
写真は、方転編成にて倶知安トンネルへの20パーミルを登る12D<北海2号>。この列車は、81年10月改正でのキハ80系9両運転から84年2月改正でこの方転編成となり、85年3月改正ではキハ183系の6両組成と変遷した。
(この項続く)

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

稀府 (室蘭本線) 1998

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稀府あたりの近年の変化と云えば、黄金漁港の設置・開港だろうか。1998年のことだから、それでも15年になる。
駅から防砂林手前、北黄金川橋梁までは海側に回って道道779号南黄金長和線を歩く。時間があれば、粟嶋神社の鳥居越しに噴火湾を眺めていた。その前浜に築港工事を認めたのは、まだモノクロで撮っていた1995年頃と思う。岸壁の構築に土砂を満載したダンプトラックが忙しく行き交ったのを覚えている。
伊達市が主体となって整備したここは、主に地元漁業に利用される第一種漁港である。漁港漁場整備法に従い伊達市が指定し管理者となる。
噴火湾岸を歩いていると、ここと同様に船溜りすら無かった海岸に第一種漁港が築港された例に多々出くわす。山越に国縫や長万部、大岸、虻田の新港と全て近年の整備である。けれど、水産庁の2009年版漁港港勢データによれば、全国的に第一種漁港は1980年の2137港が2009年でも2168港と、その総数に大きな変動は見られない。極く小規模な第一種を統合する例の多いことを示すデータと思うが、噴火湾岸での新設は、内海ゆえに国の補助による整備の遅れたとのことなのだろうか。
この黄金漁港は、稀府から黄金地区で浜に引揚げられていた漁船の利用に供するものではあるが、それを上回る規模で築造され、伊達市にはプレジャーボートなど遊漁船を収容してレジャー基地化する目論みもあるらしい。
平坦な海岸線には突起物にも違いなく、潮の流れの変わったものか隣接する牛舎川(稀府川)の河口には、この15年で砂州が形成され水鳥も集めている。

室蘭本線は、洞爺から有珠火山群の麓を通過するけれど、それを画角に捉えようとすれば海上に視点を置かねばならない。緩やかに弧を描く湾岸に従い、北舟岡を過ぎてようやく列車の後方に山容を取り込めるようになる。何の変哲も無い、駅から防砂林の直線区間に立つのは、そのためだ。
列車は、隅田川からの臨時貨物9051列車。
DF200なら、視点を低くすれば通信線柱を機関車の背後に隠せる。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f5.6 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

札幌 (函館本線) 1970

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1988年11月3日の札幌駅の高架化(第一次開業)に際して、札幌-苗穂間の函館本線は複々線となり、苗穂-白石間の函館本線・千歳線の並列複線と接続して札幌からの両線列車の分離運転が実現した。けれど、札幌に在住当時の1960年代始めに意識してそれを数えた頃も、苗穂までの線路は4線だったのである。函館本線の上下列車は内側の2線を運転し、外側の線路には時々貨車の走るのを覚えている。

札幌から当時の苗穂村方に鉄道の開通したのは、云うまでもなく1882年6月25日の官営幌内鉄道札幌-江別間仮開業による。1878年作成の『北海道札幌之図』によれば、この頃の苗穂は、豊平川の本流が旧雁来川に転流した残滓である伏籠川が曲流しており、札幌の北側市街地は東2丁目(当時には雨竜通り)までが区画割りされたのみで、監獄支署の向こう側には原野の広がるばかりの隔絶された地であり、幌内鉄道の次駅は白石のフラグステーションであった。
当然に単線の線路であったここには、1890年に本線北側に沿ってもう1本の線路が敷設される。苗穂に立地した札幌製糖工場への専用線である。これは1897年までに工場の操業停止により休止されてしまうのだが、その工場跡の大日本麦酒札幌工場製麦場への転用に際して1909年11月8日付にて、その専用線として復活する。
専用線延長の0.66キロは、この旧札幌製糖専用線の工場内引込部と思われ、この事実は1906年の北海道炭礦鉄道(旧幌内鉄道)の国有化を経た鉄道院は旧専用線の本線並行部を札幌駅の構内側線として自己財産化したことを示している。おそらくは、1908年に豊平川に接した位置に置かれた陸軍秣本廠札幌派出所(現陸上自衛隊第11旅団苗穂分屯地)への線路引込みを要求され、合わせて同年12月8日に大日本麦酒工場東側に開設の北海道鉄道管理局札幌工場(後の国鉄苗穂工場)への出入場線としての利用を目論んだものであろう。
一方で、北海道炭礦鉄道線は1905年8月1日には小樽(現南小樽)にて(初代の)北海道鉄道線と結ばれて、翌年9月8日からの函館-札幌間直通列車の運転開始など運炭列車に加えての旅客列車の増加からか、国有化後に小樽-岩見沢間の複線化が計画され、1909年12月6日の札幌-野幌間使用開始により、ここは3線の線路が並ぶ区間となったのである。豊平川橋梁の架橋記録から判断すれば、上り線が腹付けの増設線と思われる。

この頃に、増え続ける苗穂地区の貨物需要にその物流拠点を要して、翌1910年5月16日にようやくその先に停車場が設けられ、札幌の隣駅は苗穂となった。その位置、函館桟橋起点289K180Mには前述の専用線や鉄道工場への操車上から札幌から伸びた構内側線に並列して数本の操配線は存在していたものと思われ、本線の上下線間に島式の乗降場が設置された。駅本屋の設置位置は調べ得なかった。
札幌から書いているけれど、これより苗穂駅に関わる記述を数回に分けて続ける。
(この項 苗穂 (函館本線) 1988 に続く - 参考文献はシリーズの最終記事に記載する)

地平時代の札幌は、当然ながら冬には積雪に埋もれた。高架化工事着工はまだ先のことで、札幌客貨車区も健在な頃である。
写真は札幌駅4番ホームの817D<なよろ2号>名寄行き。後部への旭川止まり編成の連結を待っている。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 NeopanSSS Y48filter Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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