"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1972

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根釧地域の地形の基盤は、有史遥か以前の阿寒・知床火山群による火砕流堆積台地である。海進期に海食崖や海岸段丘、堆積海食面を形成し、湾口に砂州が発達してそれを塞いで、海面が後退すればそこに低湿地を生じた。
厚岸湖北岸に河口を有する別寒辺牛川と、尾幌川、大別川、チライカリベツ川、トライベツ川、フッポウシ川などの支流の流域に発達した8300haにも及ぶ湿原を別寒辺牛湿原と呼んでいる。この呼称は近年のことで、厚岸町により1980年代に命名されたものである。ここが厚岸道立公園に含有された1955年以来には厚岸湿原と呼ばれていたのだが、それは1980年当時の厚岸駅の名所案内標にも記されていなかった。

1919年11月25日に厚岸から厚床までを延長した根室線(当時に滝川-釧路間は釧路本線と呼称)は、厚岸に停車場を設けた以上、厚岸湖西岸からこの湿原をチライカリベツ川沿いに糸魚沢の台地に取り付く線形が選ばれた。ここは火山灰と腐敗植物による土壌が凍結と融解を繰返して形成された泥炭湿地帯であり、路盤構築には非泥炭地の数倍の設計土量の投入を要する工事であったに違いない。
道内には、この泥炭湿地が広く分布しており、必然的にそこへの線路敷設も避け得ない。1950年代の資料によれば、この根室本線総延長の15.4%に当たる69.4キロが泥炭地への敷設であり、釧路湿原を通過する釧網本線は33.3%が、オホーツク岸の海岸湿原への北見線(後の天北線)は実に42.4%、全線が石狩低地に在った札沼線に至っては72.3%が該当していた。

建設ばかりではない。泥炭地線路は軟弱地盤に不安定であり、同資料には年間の恒久的沈下量が普通路盤に対して2から3倍に及ぶことや、9600形機関車通過時弾性沈下の最大量が普通路盤の1・2mm程度を遥かに上回る最大56mmを記録したこと等の報告が在る。当然に軌道狂いを生ずる原因となって、軌間、水準狂いに極端な差は見られないものの高低と通り狂いは、2から3倍の発生量となり、これに軌道の輹進も大きいから保線作業量は、年間に1kmあたりの比較で非泥炭区間を100として158に達していた。
もちろん、線路部材や砂利などの保守資材も多くの投入を要して、人手も経費も掛かる線区だったのである。
現在では、重軌条化が達成され、道床厚増加にそれの砕石化による軌道強化を完了し、枕木や軌条締結方式への技術進展、さらにはセメントミルクの地盤注入によるそれ自体の強化も行われて、この報告当時の状況からは遥かに改善されてもいるのだが、泥炭上を線路の通過する限り根本的に解決されたではない。
冬期には、凍上と融下が繰返され、積雪地ともなればその間の保守作業が困難であることに変わりは無く、「手を焼かされる」線路なのである。

写真は、厚岸湿原を往く1493列車。
これは、良く云われる「手前側の丘」からの撮影。「向こうの丘」がベストとは承知していたけれど、厚岸から炎天下6キロ近くを歩いて、それ以上の気力がなかったのである。
この頃までは、モノクロ撮影に絞りきれずにカラーネガを併用していた。

=参考文献=
泥炭地線路の特性とその対策について : 旭川鉄道管理局施設部保線課 小川清 (1955年 土木学会研究資料)
日本の自然 北海道1 : 岩波書店編

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Nikon L1Bc filter  SakuraColor100  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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倶知安 (函館本線) 1978

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クッチャン原野への入植は1892年の47戸に始まると記録されている。以来10年程の間に、ここには村が開かれ戸長役場も置かれて、駅逓に郵便局も設置され原野の各所に尋常小学校の開設も進んだとあるから、入植人口も順調に増加したものであろう。現在位置に小規模ながら市街地も形成されていた様子である。

北海道鉄道(初代)による倶知安駅は歌棄(現熱郛)-小沢間開業にともない、その市街地の西側クトサン川沿いに1904年10月15日に開駅した。なお、北海道鉄道線はこれにて函館-小樽中央(現小樽)間が全通している。
ここには黒松内に続いて機関庫が設けられ、山岳線用マレー式B+B型タンク機関車D1形(11号機関車)などの配属されたものと思う。この機関庫は国有化後の1913年6月2日付にて駅から独立した現業機関-倶知安機関庫(後に機関区)となった。運転区所としては、客車配置の小樽築港客貨車区倶知安支区に駅から分離の倶知安車掌区も置かれて、長万部-小樽間の運転上の拠点化が進められたのだった。こればかりでなく、ここへは、保線区に信号通信区、建築区、電務区などの現業機関の出先に、宿泊所や物資部の配給所なども置かれることとなった。山線区間のほぼ中間に位置する地理的条件に加えて、それに従事する大量の職員を受け入れるだけの都市機能も、既に備えていた訳である。
駅の貨物扱いも多かった当時には駅の拡張も進められ、広大な構内を擁するまでになっていたのである。

写真には、ここの拠点機能を維持していた、その末期の構内全景が見える。
左端の機関区には機関車の配置は無くなっていたけれど、キハ22の10両が居て岩内線と胆振線に運用を持っていたし、奥の客貨車支区の庫には機関区に常駐のスエ30が収められていた。右の貨物積卸線には停泊車の姿があり、コンテナも積み上げられている。但し、これは日本通運のデポに利用されたもので、コンテナ貨物の扱いが在ったのではない。
胆振線の本線に多数の側線も健在であるし、夜間にも入換えの有る構内は照明に煌煌と照らし出されるのだった。
出発して往くのは、荷42列車函館行き。

今、構内西側は、駐泊庫として使用のかつての客車庫を残して建ち並んでいた鉄道官舎も全て取り払われ、スポーツ施設に公園と化した。駅本屋側の官舎も無くなり貨物施設跡ともども駐車場に転用の空間が目立つ。持て余し気味の二階建て本屋は、1960年7月の改築に際して、ここに在った多くの現業機関事務所を収容するものであった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/8sec.@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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ニセコ (函館本線) 1984

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考えても見れば、文字を持たなかったとされる蝦夷(えみし)が、そこに「郡領を置け」と進言したにせよ、地名をメモにしてよこすはずも無い。
『日本書紀』の、659年阿倍比羅夫による東征の記事に在る「後方羊蹄(しりへし)」は同書の凝った当て字である。「しりへ」を「後方」と表し、タデ科植物のギシギシの漢名「羊蹄」を「し」に当てて洒落込んだものだろう。この用法は万葉集にも例が在ると云う。
この「後方羊蹄」とした地が現在の後志地方との確証は得られていないのだが、それが蝦夷地シリベツ川の流域との説を最初に唱えたのは、江戸中期の学者 新井白石[1657-1725]と云われている。一方で、1700年代末から1800年代に蝦夷地を探検した最上徳内や近藤重蔵などにより、シリベツ川流域にひときわ目立つ独立峰を以てして「シリベツ山」との報告がなされる。
これが、幕府内において、白石の著作を通じて定説化していた蝦夷の「しりへし」と誤って記録される例が在って、「しりべつ」との混同を招いてしまい、この独立峰を「後方羊蹄山(しりべしやま)」と記する端緒となったのである。
江戸時代末期に幾度も蝦夷地を旅した松浦武四郎は、それを理解してもなお「後方羊蹄山」と書いたし、1868年に発足した明治政府は、天皇回帰とそれに基づく蝦夷地の植民地化の意思を明確化するものとして「後方羊蹄山」を、敢えてこの独立峰の名称としたのだった。
陸軍参謀局の整備する国土基本図(地形図)にも、その名称を表記して定着を図るものの、学術上からは先住民族の付したマッカリヌプリとする文書も多く、両者が併用される時代が戦後まで永く続いた。
その間に、国民の間には「しりへし」を知らずに、これを「こうほうようていざん」と読む者が現れ、後方があるならと尻別岳を「前方羊蹄山」とする余りに無知な動きにも連鎖したため、1960年代に至って倶知安町が裁定に乗り出す。その際、一方のマッカリヌプリを転じた「真狩山」とすれば良いものを、これは地名に敬意を払わぬ日本の行政に共通する悪癖なのだが、「後方羊蹄」を難読として、一体であるべき「後方」を切り離して「羊蹄山」としてしまった。おそらくは当時に関係した5町の長たちが、その文字面に語感をお気に召したからなのだろう。
かくして、この優美な山容を見せる山への「ようていざん」の読みは、先住民族に礼を失するのは当然として、日本書紀の記述は疎か、それを国家主義に利用したはずの為政者をも裏切り、歴史に配慮しない言わば「創作」名称となったのだった。

そんな近代ご都合主義にはお構い無く、「真狩山」は澄んだ冬の大気に浮かぶ。
列車は荷43列車、苗穂行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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長万部 (室蘭本線) 2000

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長万部構内から直進した室蘭本線は、長万部川橋梁と新長万部川橋梁を経て起点2キロから3キロ付近のR800の右回りからR600の左回りの反向曲線にて海側に遷移する。長万部川放水路開削に関わるものかと思っていたら、1923年12月10日の開通以来の線形であった。
この先、静狩までの内陸側が広大な湿原であったことによる経路選定で、ここには静狩付近の湿地を水源とした細い水流が激しく蛇行しながら海側の砂丘を越えれずに長万部川本流まで約10キロ近くを横流し、周囲に湿原を形成していたのである。1960年代末でも静狩側の原野開墾が進んだのに対して、旭浜信号場付近以西には湿原の未だに続いていたのが、当時の空中写真に見て取れる。現在のその僅かな名残がこの反向曲線の海側、マリノス長万部前付近の原野である。そこには改修されていない水流が残る。

長輪線の最初の開通区間となった長万部-静狩間は、それは当時に静狩鉱山の山元街として長万部以上に繁栄したと云う静狩との連絡に資したであろうが、それの目的は人的移動に海上行路を要し、貨物輸送には苫小牧から岩見沢経由であった函館と室蘭間の鉄道距離を6分の1にまで短絡するものであり、意外なことに、それの建設運動を最も強く推進したのは函館市であった。
室蘭と、そして岩見沢と直結することにより道央から道北道東に至る地域が函館の広義の後背地となることを意識しての行動であり、事実函館市は名実共に人や物流における北海道の玄関に発展した。
鉄道省もそれを強く意識していたらしく、『長輪線建設概要』(鐵道省北海道建設事務所 1928)にて「本線は北海道に於ける所謂拓殖鉄道と其の趣を異にし都市より都市を結び港湾より都市を連絡する本道中最も優秀なるエコノミカルライン」と書いている。

ほとんどが直線の高速運転区間に在って、振り子式特急形気動車でも110km/hの制限を受ける反向曲線ではあるが、ここでの鉄道撮影では変化をもたらしてくれる存在でもある。将来には、その傍らを新幹線の高架が並走することになる。
列車は8002列車、<トワイライトエクスプレス>。
既出の画角だが、Ektachrome撮影をご容赦頂きたい。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/500sec.@f4 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1982

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国鉄の保有する気動車が5000両の大台に達したのは、1968年2月14日に67年度本予算計画車の追加として製造されたキハ58 1509-1511の3両の日本車輌名古屋工場からの出場により、この日工場では国鉄による記念式典が挙行された。5000両の中核を成した、このキハ58系列車は1969年5月まで増備が続けられ、その総製造両数は1818両に及んだ。
国鉄はこの系列を以て全国への気動車急行(準急)網の整備を進め、1968年10月の改正はそのピークに違いないが、それは同時に陸上輸送の基幹としての鉄道の終わりの始まりでもあった。
気動車による優等列車網は、一般型形式使用の所謂遜色急行を含めて地方幹線は元より、かなりのルーラル線区にまで及び、道内においても札幌と、或は支庁所在地とを結ぶネットワークが支線区末端まで形成されていた。それの無いのは一握りの線区に過ぎぬ程であった。

羽幌線の優等列車は1961年1月15日より小樽(上り札幌)-築別間に運転を開始した準急<るもい>に始まる。60年10月1日改正ダイヤにてスジだけは引かれたものの、車両の新製出場を待っていたものである。函館本線内は<かむい>への併結にてキハ22の1両が運用された。支線区直通列車としては早期の運転開始であり、羽幌線沿線からの道央への用務客の利便を図っての設定は、日本海岸業務都市である留萌に炭礦で活況を呈していた羽幌地区の重要視されたものであろう。
翌62年5月1日には、これを増毛着発に改め、羽幌線内には幌延-築別間を延長した<はぼろ>が種別を急行列車として設定され、函館本線内を同時に設定の名寄回り札幌-遠軽間<紋別>と併結した。これは、札幌-網走間<大雪>の加わった時期も含めて、86年11月1日改正での列車廃止まで続いた。2両に増結された編成の1両には配置の始まったばかりのキハ27が使われたのは、急行列車としての面目だろうが、一方のキハ22の置替は66年10月改正を待たねばならなかった。
編成が3両に増強されるのは80年10月1日改正でのことで、道路網の整備も終わり鉄道への旅客誘発効果の期待出来ない時期であり、それは道内幹線急行の特急格上げや廃止による捻出車の活用とも云え、遅きに失した感がある。ともあれ、66年10月改正から併結していた留萠回転車を延長運転した多客期の最大4両組成も見られたのは、この頃である。
この<はぼろ>に限らぬが、乗客専務の車掌に車内販売の係員が乗車したその姿は、キハ56/27気動車末期の状況やルーラル線区最後の日々からは想像もつかない程の、堂々の優等列車であった。
写真は、羽幌線撮影の核心とも云えた初山別陸橋での4802D<はぼろ>。北の低い朝日が海岸段丘の谷を通してステージライトになる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

七飯-大沼 (函館本線) 1973

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七飯で分岐する下り列車専用に勾配を緩和した増設線、通称-藤城線に位置する新峠下トンネルは、この線増線の開通に先駆けて1956年12月15日より使用を開始している。仁山回りの既設線上の峠下トンネルが経年による覆工剥落や変状を生じていたため防災工事として先行し、この日函館桟橋起点22K700M付近からの3.1キロを新峠下トンネルを含む新線に切替えたものである。

この時点で、新設区間が単線運転の函館本線となり、その線上に距離標が移設されたのだが、注目すべきは起点23K000Mの甲号標である。その建植位置は、新峠下トンネル手前の切通し区間となっていた。
その後、上記防災工事にて放棄された旧峠下トンネルには曲線改良をともなう改築工事が行われ、新線へ切替えた22K700M地点に熊の湯信号場を置いて、軍川との間でこの復活旧線を上り線とする複線運転が1962年7月25日より開始された。
これにより下り線となった新峠下トンネル経由線は、予ての計画どおり1966年9月30日に藤城線が開通するとその一部となり、同日を以て熊の湯信号場から藤城線との接続点までは廃止されたのだが、どうしたことか、その地点より軍川寄りに位置した前記の23K000M甲号標は、そのまま存置されたのである。勾配緩和の迂回によりやや距離の伸びた藤城線上にも久根別トンネル出口方に23K000M甲号標は存在し、同線上には2箇所の同距離標が併存する事態となっていた。このような事例を他には知らない。

写真は、藤城線の久根別トンネルを抜けた1191列車。五稜郭操車場からの砂原回り長万部行き区間貨物列車である。
手前側に藤城線の23K000M甲号標が見える。対して、存置された熊の湯信号場経由線上の同標は、七飯-大沼 (函館本線) 1981 に見て取れる。その間350メートル程の間隔である。それを84年頃までは車窓に確認した覚えがあり、少なくとも20年程に渡ってこの状態が続いていたことになる。その事由はわからない。付記すれば、この23K000M甲号標をはさんで藤城線本来の同標基準の23K300Mと400Mの丙号標が建植されているのだが、その間隔はせいぜい50メートルである。これは現在も変わっておらず、どうにも謎の多い地点である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

白樺 (深名線) 1981

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線路伝いにしか到達出来ない地点と云うのは幾らでもあって、ずいぶんと線路歩きをした。
鉄道写真屋ばかりでなく、1970年代あたりまでなら架橋など道路の未整備にて集落間を結ぶのは鉄道だけと云った地域も多く、住民たちもまた歩いていた。そこはあくまで線路だから歩き難いことにはこの上無く、特に枕木の間隔に歩幅を合わせざるを得ないことには閉口したものだった。なので、これにはそれの大きい丙線、中でも簡易線が向いていた。けれど、炎天下のむせ返るような枕木防腐剤の匂いも懐かしく、陽炎の道は至福の空間としても記憶に鮮やかである。
これも積雪期の様相は一変し、枕木間隔に囚われないそこは通常の雪道と変わらなくなる。度重なる除雪車運行で圧縮されれば、靴の沈み込むことのない快適な歩行路にさえ変貌したものだった。
冬季の深名線は、母子里から蕗ノ台付近に通じていた道道688号名寄遠別線とは名ばかりの砂利道が閉ざされてしまうから線路を辿るほかなかった。

良く知られるように、深名線は沿革の異なる線区を朱鞠内で接続したものである。深川からの南部区間は沿線有力者が政治力により実現させた請願線で、第一次世界大戦の影響はあったものの1911年の初請願から20年余りで朱鞠内に達した。一方の北部区間は鉄道敷設法の別表第143号に「天鹽國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」と規定されながら、その時点でも南部区間とは無関係に放置されていたのである。この内「天鹽國名寄ヨリ石狩國雨龍」区間の着工は、1928年設立の雨竜電力株式会社による雨竜川の電源開発計画に伴うもので、工事資材運搬ばかりでなく広大なダム堪水域および周辺からの木材搬出線と目されたゆえであり、それの無ければ戦後に名羽線として着工の「石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌」区間に連鎖して未成に終わった可能性も高い。
中間に設けられた宇津内、蕗ノ台、白樺の各駅は木材積出拠点であり、宇津内には第二堰堤工事の資材搬入施設も設けられた。工事の完了し、駅の在るゆえの開拓入植も失敗に終われば存在意義を失うのは当然の帰結ではある。

この日は冬期休止中の白樺駅を越えて歩き、泥川手前の切通しの斜面を登るつもりだったのだが、雪が深くてこれを断念し、いつものように湖水側に出た。泥川の運んだ土砂の堆積した位置に渇水のまま降雪のあっただろうから、足元は氷ではないと思われた。
列車は945D、名寄行き。

=参考資料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
雨龍川水力発電工事概要(1938年7月17日土木学会第二回年次学術講演資料) : 松野辰治
新幌加内町史 : 幌加内町 2008年

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1997

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有史以前、約11万年前の洞爺火山の巨大噴火により周辺には火砕流堆積台地が形成された。エントモ岬はその数十メートルに及んだ堆積の海食崖と思っていたのだが、国土地理院が1998年の調査を元に作成した火山基本図には、岬そのものが善光寺岩屑なだれによる流山地形とある。この8000年前と云われる有珠成層火山の山体崩壊による岩石・土砂の到達東端がエントモ岬とは聞いていたけれど、成因自体がそれによるものとは知らなかった。

1928年9月10日にここに開通した長輪線(現室蘭本線)は、有珠より流山の丘陵地を避けて南下し海岸砂地に出てエントモ岬の最も海側を隧道で通過する線形が選ばれていた。延長309Mのエントモトンネルである。
幹線の輸送力増強を目的としていた1965年度からの「第三次長期計画」では、現在も単線運転とされる洞爺-稀府間の内、この有珠-長和間のみが線増対象となり、1968年9月5日の複線使用開始と記録されている。
それは、エントモトンネルの山側に新エントモトンネル(364M)を新設するものだったが、山側への線路増設は柴田踏切手前から起点50K278Mまでの間で、それ以外の区間は海側への腹付けであった。既設線海側への隧道掘削が困難であったことにもよるが、併せてトンネル前後に存在する曲線径の緩和を図ったものである。現在、柴田踏切から現下り線山側に見える空間は、旧線の路盤跡であり線路はそこからエントモトンネルに繋がっていたのである。
長和方も含めて新下り線は既設線に比して55メートルの短縮となって、その50K223M地点を前記50K278Mに読替えるブレイキングポイントが設けられている。
また、長和駅近傍の共有横道踏切(50K645M)付近からの曲線に就いてもR600への緩和が施工され、ここは海側へ複線の線路を新設している。ここの旧線路盤も農道に転用されて健在である。

この柴田踏切には幾度も通って、16時16分頃に最良の斜光線の得られるのは10月20日の前後、せいぜい一週間と知る。後は西の低空に雲さえ生じなければ良い。
Ektachrome に完全に移行した97年頃には、函館/室蘭線上の地点はほぼ掌握していたから後は光線を待って一箇所に留まるような撮り方をしていた。発色を留保せねばならないカラー撮影なら尚更だった。
既出の画角なのだが、Ektachrome撮影にご容赦願いたい。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4+1/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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山越-八雲 (函館本線) 1970

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この区間の線増は、1965年度を初年度とした「第三次長期計画」にて予算化され、1969年9月26日に複線の使用を開始している。
全区間が海側への腹付け線増であり、その工事で特段に困難で事象は無い。敢えて記せば、函館桟橋起点79K500M付近で平面交差していた国道5号線を、その際に立体交差としている。当時に国道の改良を進めていた建設省函館開発建設部と連動したものである。
平面交差部に隣接した熱田川橋梁を複線路盤のコンクリート橋とし、これに接して上流側に小型のコンクリートケーソンを連続して水路となし、その上部に跨線橋に至る盛土を構築した。

函館本線の森-八雲間での災害は、過去には石倉から野田生に至る区間で生じていた。主には波浪による護岸決壊に、長雨による海岸段丘崖の法面崩落であり、多々不通の記録が在る。近年においては土木技術や管理体制の進展もあってか88年以来発生を見ていない。
代わっては、予想せぬ豪雨による中小河川の計画水量を上回る流下にて運転を抑止する事例が多発するようになっている。それらの計画・設計時と気候が変動しているのだろうか。
野田生手前の野田追川橋梁は、水流による橋台洗掘も生じたと聞く。

この熱田川の国道盛土下の水路も計画を上回る水量に溢水を引き起こし、その急流が函館本線の道床を流失させる事態となっている。道床自体は絶対的に路盤固定される構造物ではなく、これを防止するにはコンクリート道床化が考えられるも、線路を越える水流には運転抑止を避け得ない。現実的には水路の拡張と流路の改修を要して、鉄道側で対処出来るものではなく、函館開発建設部八雲道路事務所ならびに八雲町に早急な行動を望むしか無い。

架設まもない八雲跨線橋からは、遠く山越跨線橋までを見通せたものの、手前を横切る送電線がうるさく、下り方は国道沿いに建物の続いてあまり良いポイントではなかった。それでも、高い位置の取れないこの区間では貴重でもあったのだけれど、近年には例によって背丈を超えるフェンスが設置されてしまい撮影は困難となった。
写真は、4081列車の白石行き。コキ5500を連ねた青函航送の急行貨物列車である。

[Data] NikonFphotomicTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4on Mac.


生田原 (石北本線) 1971

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北見から普通列車となり、C58に牽かれて網走を目指した517-1527列車<大雪6号>は、誌上やWeb上で見かけるし、ここの記事でも取り上げている。
けれど、遠軽からのD51牽引の姿や、まして9600の補機を従えて常紋を往くカットには、たまたまかも知れないがお目にかかったことはなく、かく言う本人も撮っていない。
それは生田原を4時46分だったから夏の時期であれば十分に撮れたはずである。近年に本州連絡の下り寝台特急を海峡線内や函館近郊で捉えるならば、午前3時には行動を開始すると云うのに、この当時にそれを考えもしなかったのが不思議でならない。深山の常紋信号場での夜明かしを避けたのだろうか。とは云え、そこは当時に有人の停車場だったし、トンネルの徒歩通過に内部照明を点灯してもくれた時代でもある。
結局のところ、昼間に被写体は豊富だったから、夜行急行は宿代わりであって撮るものではないとの認識だったのだろう。実に惜しいことをしたものと思う。

この頃の夜行<大雪>は、マ級-1両/ス級-9両/オ級-2両の12両組成で列車重量は500tを超えており、当然ながら常紋越えには補機を要していた。上下とも連結区間は生田原-留辺蘂間であった。
それは、機関車が本務機-DD51に補機-DE10の組合せに変わってからも続いたのだが、いつまで施行された仕業なのか、手元に資料が無い。運行図表上には客車編成が減車も伴って14系に置替えられ重量の軽くなった83年度以降にも認められ、85年3月改正でのDD51の補機による(上川-)遠軽-北見間の通し運用化を経て86年11月改正ダイヤで消えている。しかし、85年の秋に乗車した際に補機の使用されないのを目撃しており、所定編成が7両となったこの春の改正以降は多客期などでの増結以外には省略されていたものと推定する。

写真は、これしか手元に無い<大雪6号>の補機を務める9600である。
生田原でこの列車を降りて補機の連結を眺め、その出発をスナップしたものだ。長い編成に後部は遥かホームを外れて停車した。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1975

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夜行急行を宿代わりに行き来していると、深夜の上下乗換えのとんぼ返りでも無い限り、二日に一日は道央地域の何処かで撮ることに成る。早暁の深川や滝川への下車もしたけれど、大抵は札幌まで乗ってそこからの始発で南を目指すことが多かった。それでも、当日に再び下り夜行に乗ることも考えれば、行動時間から函館線なら倶知安、千歳/室蘭線を辿るなら室蘭あたり、足を延ばしても長万部が限界だった。なので、札幌から近い函館山線の海区間と云える銭函の海岸には幾度も立つことになった。
苦手な電化区間ではあったけれど、1980年代の半ばまでなら電気車両ばかりでなく気動車に機関車列車も多く通過していたし、小樽の富岡町の丘に住んでいた子供の頃に「御粧し」して札幌のデパートへ汽車に乗って「お出掛け」した懐かしい風景でもあった。

銭函から恵比寿岩の向こうまで歩き、そこから上の国道へエスケイプしてバスで戻るか、その逆がいつものことで、画角の限定されてしまうのに難はあったものの、行き交う列車を背に護岸に腰掛けて海を眺めるのも悪くなかったのである。
そこは石の浜で、夏休みには祖父母の暮らす水戸に帰省して大洗や阿字ケ浦などで泳いでいた身には、俄に信じ難いけれど夏場の海水浴場なのだった。決して広くは無い海岸にかなりの人出のあったことを何度も目撃していたここは、石狩浜側に施設の整備された今には閉鎖も無理は無い。

函館山線を経由する特急<北海>の設定は1967年4月1日のことで、青函夜行便に接続して特急券の入手難の続く<おおぞら>の救済に同列車の旭川編成を独立させたものであった。5分間隔で雁行するセクショントレインも検討された模様だが、この際に地元からの要望の強かった小樽・倶知安回りとしたのである。この当時に室蘭/千歳線も現在のような高速運転とは往かずに札幌への所要時分も勾配区間に15分を延伸するだけだったから、直通客への利便低下も無視出来る範囲との判断であろう。このため、函館機関区には1966年度本予算にて80系気動車-9両が増備され、<北海>に同系列基本組成の7両編成を充当、<おおぞら>は旧旭川編成の5両中2両を釧路編成に移してこれを増強、3両は札幌回転とした。旭川へ1車分(と食堂サーヴィス)、釧路へ2車分、札幌へは6車分の輸送力増強であった。なお、この新製が同系列の最終増備となり、ベネシャンブラインドを試行したキシ8037はこれによる製作である。
これの10両組成化は1972年10月改正からのことで、同改正にて485系電車に置替られた羽越線/常磐線特急<いなほ><ひたち>運用からの捻出によっていた。(秋田から向日町での車両差替を含み4両が函館に転入)
北海道連絡のメインである"1"系統の列車であり乗車効率は高かったのだが、<おおぞら>に知名度で劣るせいか、最混雑期でも最初から<北海>を指名しておけば特急券は比較的容易に確保出来たものだった。
(この項続く)

<北海>は、この後も1981年10月改正まで大きな変化無く運転された。1972年の夏臨期より施行の網走への延長運転については、網走 (石北本線) 1973 に書いている。

[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

中湧別 (名寄本線) 1975

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キハ23/45を鉄道雑誌の新車記事に見た時、そのパノラミックウィンドウを採用した前頭形状に強く惹かれた。やはり紙面に見ていた153系や111系電車のスマートなそれに比して、見慣れたキハ22やそれを高運転台化しただけのキハ27/56の気動車然とした平面顔を歯痒く思っていた身には溜飲の下がる想いだったのである。
その3扉の近郊型電車を2扉にアレンジした車体構造に両開き扉の採用にも気動車の地位向上を感じていた。同時に紹介されていた道内向けキハ24/46は、キハ22の構造を踏襲したものだったけれど、整然と並ぶ客窓が1.3メートル延長された車体長と相俟って好ましい印象を与えていた。

キハ28/58を受け継いだ機関と走り装置に目新しいものは無く、機械式気動車の淘汰も一巡した時期の新製により総数で179両に終わった地味な車両群ではあったけれど、近郊型を標榜した接客設備の車体構造に幅広の乗降扉は、そのプロトタイブとして417系電車やキハ40/47に、道内向けのそれは711系電車にオハ/オハフ50(51)にまで及び、この点においてはもっと評価されて良いだろう。その精悍で端正な前頭形状もキハ58(56)/28(27)の66年度本予算車以降に引き継がれている。

心待ちにしていた配置は、1966年12月に苗穂機関区へのキハ46の4両だった。宣伝も考慮したものか、当初にはこの形式だけでの組成にて函館/千歳線に運用されたのを思い出す。増備されるものと期待していたのだが、結局のところキハ46-6両に翌年4月のキハ24-10両に終わってしまい、道内では極めて少数派であった。特に、キハ24は函館に旭川と釧路の配置で札幌周辺で見ることは出来なかった。
キハ22の初期車とでも8年程度の経年差だったせいか、80年代の列車キロ削減やルーラル線区の廃止による気動車の余剰と云う事態に、それと運命を共にして95年度までに全廃されてしまった。

この名寄本線や石北本線に運用されていたのは、旭川機関区に配置のキハ24-2両であった。その特徴在るパノラミックウィンドウを間近に見る。
列車は、625D遠軽行き。
余談だけれど、同じくパノラミックウィンドウを採用しながらデザインに失敗しているのがキハ40と思える。それは高々運転台となったことで貫通扉窓の高さ方向寸法と位置が運転台窓と揃わない点に起因するのは明らかだ。

[Data] NikonF2+AutoNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

留辺蘂 (石北本線) 2001

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それの醸された土地に想いを巡らすのも酒呑みの楽しみのひとつだ。
人の定住するところに酒蔵の在って、地産地消だった原初形態の時代であればなおさらだろうが、原料米の産地からの移出/移入が自在で、それの地産とは限らなくなっても、そこの水に気候に風土が酒を創って来た。
内陸の農村地帯と海沿い地域の酒質は明らかに異なるし、山間の酒には深山の趣がある。
同じ日本海岸を南下しても、青森西海岸の凛としたそれは由利地域から庄内で軽快感を増して下越地方に続き、中越で奇麗に澄み、上越から大地溝帯へ向けて鋭く立ち上がりながら富山平野を経て、能登半島で嶮先に至る。加賀ではたおやかな滑らかさに転じて、福井嶺北でふくらみを加え、若狭でキレを取り戻す。
水も勿論だけれど、そこに在る暮らしの様が人々への酒質を決めて来たのである。平たく云えば、肴が酒の味を規定するのだろう。

近年、酒蔵の淘汰されてしまった地域で地酒を復活する動きがある。休場/放置されていた蔵を再興する例も見られるが、多くは地産の米、場合によっては水も稼働中の酒造場に持ち込んで醸造を委託するものである。
北見地方では、北見市酒販協同組合による地元産の「はくちょうもち米」(*)と、水も摩周湖伏流水で仕込む「白杜の雫」の例が在る。醸造は札幌の大手、日本清酒である。2012年6月には、美幌町の町内酒販店有志(びほろ酒倶楽部)が地元産「ななつぼし」による仕込みを小樽の田中酒造に委託した「純米吟醸びほろ」が発売された。
状況は異なるのだが、休醸して久しい北見に現在に残る唯一の酒造免許場である山田酒造も、その「栄光摩周」「北見寒菊」は以降金滴酒造にて委託醸造されて来たのである。
(*) - 2012醸造年度より原料米は酒造好適米の「吟風」となった。これが北見産であるかは不明。

さて、酒呑みとしてはこれらを前には複雑な心境なのだ。これらを北見の風土の酒と見るべきか。
戦前に、この地で醸され道内各地にも出荷されたと云う、馬場酒造の「北乃天」を知ってもいれば判断もつきそうなものだけれど、それは叶わない。「栄光摩周」も金滴酒造醸造以降しか知らないのである。もっとも、北見駅で手に入れた「白杜の雫」は美味い酒ではあった。

この地方では、個人商店単独での動きも見られる。
端野駅前に古くから在る田嶋商店は、釧路の福司へ委託した「純米吟醸 福の蔵」と栗山小林酒造での「大吟醸常呂川」を発売している。これらは、プライヴェイトブランドとして扱いだから実にすっきりしている。「福司」に「北の錦」として呑めば良い。
対して、留辺蘂駅前の酒販店高野商店(留辺蘂地酒倶楽部)が、1998年から新十津川の金滴酒造へ委託醸造にて発売し、近年には小樽の北の誉酒造へと委託先の変わった「馬喰一代」は、留辺蘂の地酒を標榜しているのである。それはきっと美味い酒だろう。酒呑みとすれば、ほんとうに困ってしまう。

写真は、留辺蘂に進入する8557列車。この重連運転の頃、落葉松の季節には常紋に誘われた。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8S 1/250sec@f6.3 C-Polarizing filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1991

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モノクロ撮影での「長万部」と記録されたカットには圧倒的に夜間のものが多い。
かつては、この周辺での撮影から翌日に移動する中継地にしていたし、本州連絡の寝台列車が走り始めると、日の暮れてしまうそれの上りのポイントにしていたからだろう。函館本線の分岐する北部構内や、機関区を見下ろす人道跨線橋の架けられた後はそこが定番だったけれど、本屋南側の貨物積卸線群が整理されればその跡地に立っていた。今は広い駐車場になっているところである。
この南部構内の外れには屋根付きの跨線橋が渡っていて、その手前の信号扱所建物と共にここでの構内風景の一部を成していた。この跨線橋は、構内西側に在った鉄道官舎の集中した地区と東側、駅前側の本町通り(国道5号線-現町道)を連絡していた踏切道に替えて、1960年代半ばに架けられたもので、その頃までには西側地区に一般住宅も増え、列車回数の増加や引上線での支障などから設置されたものと思う。国鉄の財産で、乗降場間の旅客跨線橋と同じ鉄骨構造に木造の建屋をもっており構内の添景には申し分無いものだった。特に夜間の窓灯りの写り込めば、画角に趣を与えてくれていた。
けれど、この跨線橋も2001年にやや上り方に開通した道道1041号長万部公園線のふれあい大橋に併設の歩道に代替の上で解体されてしまった。とっくに官舎は取り払われており、跡地は奇麗に整地されて西側で通じていた路地跡だけが残っている。
以来、長万部で構内南側を向いた写真は撮っていない。

写真は、長万部を出て往く6列車<北斗星6号>。
まだ構内掛による気動車の入換業務が存在して南部構内の照明塔が機能していた頃である。この明るさで列車の画角内の見かけの移動距離は小さいから、列車後部を除けば十分に写し止められる。

[Data] NikonF4s+AFNikkor105mm/F1.8S 1/4sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1988

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意外なことに、噴火湾北岸を通過する室蘭本線が車窓に海面を間近に見るのは、北舟岡付近の僅か2キロばかりに過ぎない。豊浦-洞爺間に連続する隧道の明かり区間もあるけれど一瞬のことで、しかも上り列車だけである。
それゆえ、1994年3月1日改正での列車行違い設備の復活に際して設置の跨線橋が、最近に撮影者を集めているのも分からなくは無い。別に鉄道目当てでなくとも噴火湾の展望が楽しめる。

ご承知のとおり、この復活は2度目のことで、最初の事例は高度成長期に増大する輸送需要に対して、線増までの応急措置的に1963年9月30日付で北舟岡信号場が伊達舟岡信号場跡地に置かれたものであった。
伊達紋別-稀府間6K110Mの線路容量増加に貢献し、室蘭線の多くの区間で線増の進んだ1976年10月1日改正ダイヤでも一日十数回の列車交換が設定されていた。
やはり同時期に再設置された北入江信号場も含む洞爺-稀府間が、線増を阻むような地形や用地取得上の問題の見当たらず、主要な構築物も長流川への架橋程度であるにかかわらず、有珠-長和間を除き「第三次長期計画」による線増計画から見送られたのも、十二分に機能を果たしていたこれら信号場の存在に依るところだろう。
これは、線増の間に合わぬゆえに設置されたものが、その存在自体で当該区間の線増を阻害したとの見方も出来て皮肉ではある。
それも、70年代末期からの減量ダイヤ、特に84年2月の貨物列車の大幅削減以降には一方が予定臨時列車である列車交換の設定されるばかりとなり、同改正でのそれも一日に僅か5回であった。
この現況では、ダイヤ編成上の工夫にて交換個所の変更も可能なことから、国鉄の分割・民営化にともない民間会社へ承継すべき資産とされずに、1986年3月3日改正を以て廃止されたのである。

再度行違い設備の撤去され、80年から開始されたと云う客扱の乗降台が残されたここは、単線の直線区間を高速で走り抜ける列車が魅力であり、待避線の路盤跡空間の「引き」が画角に開放感も与えてくれていた。なにより、護岸に腰掛けて海を眺める列車の待ち時間が快く、何度も降り立ったものだった。
再々度待避線の置かれた現況となってからは海側では撮っていない。
列車は、1列車<北斗星1号>。機関車次位は函館からのスハフ14である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f8 Kodak No,9 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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姫川信号場-森 (函館本線) 1983

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この区間に、アジア太平洋戦争末期から2年に満たない期間を存在した信号場があった。森川信号場である。
戦時下の陸運転換施策による列車回数増と沿岸の制海権に制空権を連合軍に奪われるに至って至上命題となった、内地向け1200t石炭列車の運転に際して、経路とされた函館/室蘭線および東北/常磐線・奥羽/羽越/上越線には線路容量を上げる多数の信号場が増設され、道内には16箇所を数えた。信越/北陸線にも一部例がある。

それらの設置位置には、当然ながら国有鉄道建設規程の停車場設置に係わる規定に抵触する勾配区間も含まれ、スゥィッチバック式の停車場とされた事例の他、数カ所では鉄道大臣(1943年11月1日以降運輸通信大臣)の特認を以て通常の行違線構造が採用された。地形上の制約や、或はそれに供なう工費に工期などから石炭定数による長編成列車を収容する着発線や折返線(スゥィッチバック線)の新設の土工を避け、工程を簡略化したものであろう。加えて、スゥィッチバック式では停車に必ず要する退行運転による運転時分延長からの線路容量の低下を嫌ったものとも思われる。これには、同時期にスゥィッチバック式の基本構造から敢えて変更を受けた仁山信号場の例も在る。
但し、非力な蒸気運転の当時のこれには、勾配途上で停車した列車の運転継続に当該勾配と逆傾斜の緩勾配を備えた引上げ線-出発補助線が欠かせぬ設備であった。通称には加速線と呼ばれ、着発線に兼用可能なものの、その有効長は最大組成列車に満たなくとも良い。
この特認を要した停車場設置は、国有鉄道建設規程戦時特例(1944年1月25日運輸通信省令第5号)にて国有鉄道建設規程の例外として規定されるに及んだ。

道内の例で明確に戦時特例と云えるのは、森川信号場とその形態に変更された前述の仁山信号場である。出発補助線を設備しても鳥伏、豊住、北入江の各信号場は10パーミル勾配に位置して、それに準拠したものでは無い。出発補助線自体も戦時構造に特有のものではなく、蒸気運転の勾配区間には多くの例が存在した。
「戦時形信号場」との呼称は、1951年に国鉄が刊行した戦時下陸運の記録である「日本陸運十年史」の当該項目の記述からと思われるのだが、今述べた点に対する誤解や陸運転換にて設置の信号場全てを指すと誤読されている向きもあり、「戦時特例構造の信号場」とでもすべきであった。

森川信号場は、敗戦により不用施設となって1945年12月1日付にて廃止された。
20パーミルを下る23D<北斗3号>の後方中央、背景に見える樹林帯は森川信号場の出発補助線路盤跡に育成したものである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/250sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

札幌 (函館本線) 1998

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上りの<北斗星>が1時間間隔で雁行した頃、日没の繰り上がって来る季節ならば、2レを白石なり苗穂で捉え、札幌に戻り6004レを押さえてから、19時16分の<北斗22号>にて長万部もしくは函館まで先行して6レをバルブ、と云った行程を繰返していた。長万部なら現地泊まり、函館なら<ミッドナイト>で移動である。
薄暮が残れば6004を苗穂でも撮れたけれど、上下乗降場間に留置線を挟む現況となる以前の苗穂は、6004の時刻には留置編成が下り外側線に隣接して停まってしまい画角の邪魔をしたから、それは札幌にならざるを得なかった。

ご承知の通り、蛍光灯光源は546nmと583nm付近で輝線を発しており、カラーフィルム上でグリーンに発色する。これはモノクロフィルムでも同様で、それを明るくしたく無い時に補正したこともある。
近年にLEDが増えつつも、主にはタングステンにハロゲン、メタルハライドの舞台照明にフィルタワークは不可欠なのだが(もっとも、その手間を避けて指定の無い限りはカラーネガで撮る)、カラーリバーサルを鉄道撮影に持ち出しての蛍光灯光源には手を焼いた。
駅構内の夜景などなら乗降場や構内照明のそれは D type(=昼光色)かW type(=白色)が主体だから、CCフィルタのRやMを組合せて40から50の濃度を創るのだけれど、混在していれば或る程度の判断はつくものの、どちらかに統一されていると肉眼での判別は困難で、しかも大きな駅なら水銀灯も混じるものだから、Rを増すかBを入れるか迷ったりもした。時間があれば入替えて数カットを確保するが、大抵にはそうも往かず、気に入った色はなかなか得られなかったものである。加えて、旅客車内の灯りには多少なりとも演色性の良い三波長形(ED/EW type)が装着されて、これと駅照明の双方を完全に補正するのは難しく、それにはC混じりのG味を残さざるを得なかったのが大半である。
さらには、天空に明るさの残る薄暮に、それが画角にかかるとフィルタで色乗りしてしまうから補正を諦めるか、画角を変えるしか無い。この時間帯の撮影に室内灯の緑は致命的とも云え、これも困りものだった。スキャンでのディジタル化を前提に構わず撮影したこともあるのだが、紫被りの天空の補正には随分と手間がかかった。
少々脱線すると、知り合いにこの自然光と蛍光灯光源のミックス光での室内撮影に完璧なカメラマンがいた。映画撮影よろしく窓にフィルタを掛けたものか、とも思ったが、とても間に合わないロケーションのカットも見せられて観念した。何度か酒席でネタ明かしを請うたけれど、彼はその技術でビル管理会社や文具メイカーなどのクライアントを抱えていたから当然ながら教えてはくれなかった。

札幌駅4番ホームからの<北斗星>は、5番ホームの長い有効長で4番側の照明の影響を回避出来た。上手くしたもので、6004の入線から発車まで4番の着発列車はなく、このホーム端には人通りもなかった。
ホーム、寝台車車内、背景のビルの二つのフロア。ここも肉眼ではわからないが、異なるタイプの蛍光灯に違いなく、後方のパーキングタワーを照らし出すのは水銀灯と思われたので、3番ホームに入線する電車の前照灯を前提にRの濃度を下げてBを入れている。全てを満足の往くよう補正するのは難しい。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S Bulb@f8 Fuji CC30M+15R+7.5B filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1974

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失われた鉄道景観のひとつに保線小屋がある。
それに類する建物は、保線管理室やら保線センターなどと名前を変えた現在でも、その事務所なり詰所として拠点駅の構内に所在するが、一部を除く小駅構内や停車場間の線路際にそれを見ることは無くなった。
正式には、鉄道管理局の現業機関である保線区の担当区間延長を幾つかの線路分区に分割し、これをさらに細分した線路班とされる業務遂行の最小組織の作業拠点としての詰所、それの事務室や休憩室、用具用品庫を収容した建築物である。
主には線路班担当区域の駅構内に置かれたのだが、駅間が長大距離の場合など区域内の適当な地点に駅が位置しなければ、それを駅間に設置して、これは中間線路班と区別された。また、これらに付属して休憩所兼用具用品のデポ施設が駅間に設置されることもあり、正式名称は知らぬが、これも保線小屋である。
古い鉄道写真屋ならば、ロケハンに線路を歩いた折にでも、そこへと招き入れられて茶なぞ馳走になった経験もあるだろう。寧ろこれを保線小屋と認識する向きが多いかもしれない。一例として、宗谷本線の旭川起点252K500Mに在ったそれは、鉄道屋には馴染みの深い。放棄された後のそこで夜を明かした経験をお持ちの方も多いはずである。

時期に依っても異なるであろう、この線路班が道内にどれほど存在していたかは知り得ない。停車場間の長いここにおいては中間線路班も多くを数えたものと思われる。
胆振線の新大滝-御園間に所在した尾路遠線路班や根室本線札内-止若(現幕別)間の稲士別線路班のように官舎も併設されて、職員・家族が居住した大規模な例もあった。そこには、家族の利便を図って乗降台が設備されて列車が停車していた。関係者のみの利用に付き道内時刻表にも記載の無かったのはご存知のことと思う。類推すれば石炭輸送の幹線-歌志内線砂川-文殊間の焼山線路班、池北線の上利別-大誉地間の笹森線路班、室蘭本線大岸-礼文間の豊住線路班に幌別-登別間の富浦線路班も同様と思われるのだが、確証は無い。これらは周辺に集落も存在したのだろう。早い時期に乗降施設は駅とされていた。他に、一時的にせよ信号所として列車停車に対応した例は、函館本線銭函-手稲間の星置線路班、滝川-砂川間の空知太線路班、室蘭本線苫小牧-沼ノ端間の一本松線路班がある。
職住近接が原則であった国鉄現業機関において、交通手段が鉄道に限られた時代ならば何れの中間線路班も官舎を伴っていたとも考えられる。線路班の構成人員は5名から15名程度とされていたから、それなりの用地を要したことだろう。

保線作業最小単位としての線路班は、大型機械の導入を伴う集約等により1970年代には廃止・統合が始まり、放棄された建物施設自体もやがて解体されて姿を消していった。駅のみならず駅間にもこのような不休の職場の在ったことは、永く記憶に残したい。

写真は、ウトナイ湖畔の湿原区間を往く223列車、岩見沢行き。
画角左端に見えるのが、ここに在った東植苗線路班の詰所である。石炭輸送の最重要幹線上にて軟弱地盤での凍上や路盤沈下などに前記の一本松線路班ともども苦労した区所であったろう。この74年当時、既に常駐は無く間もなく廃止されたものと思う。

=参考文献・資料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
デゴイチ保線野郎 : 藻岩三麓 札幌北書房 1972

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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