"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

沙留 (名寄本線) 1980

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名寄本線は、道央と野付牛(現北見)や網走方面を連絡する幹線として全通が急がれ、結果的に10年程に過ぎなかったけれども、その役目を果たした線区であった。
この沙留も主要幹線上の停車場として比較的長く取られた本線有効長などに風格を見て取ることが出来た。
その駅本屋も1921年3月25日の開駅時にして、鉄道省工務局により後に示される「小停車場駅本屋標準図」(1930年10月6日達第875号)の4号型を先取りした規模で建てられており、当時の基準では1日の乗降人員の600人程を想定していたことになる。
沙留は現興部町域で最初に和人の定住したところであり、1889年のことと記録されている。それは、ここに松前藩支配の時代より知行請負制による場所(漁場)が開かれていたことを背景にしており、当初の移住者は漁労への従事者であったろう。鉄道の開通までには大きな集落へと展開していたのは想像に難くは無いのである。函館市中央図書館の収蔵する、その当時と思われる8枚組の絵葉書に漁労(帆立漁)の集落としての繁栄が伺える。
この1980年代に至っても、駅前から漁港へと下って往けば商店の連なる一角を持つように、決して寒村であったのでは無い。
この頃に、ここへは「中途半端」な流氷を撮りたくて、そのシーズンになると降りていた。

それを専門に撮っておいでの方も居られるので失礼を承知で書くのだが、鉄道屋としては接岸した流氷原を列車と画角に捉えれば、そこは雪原と大差が無くなる。海岸まで降りて行って前景としても氷塊としか写らない。そこを越える橋梁上の列車でも氷結した河口なら流氷で無くとも良いのだ。釧網本線の北浜でそれの季節に悩んだ向きも多いのではないだろうか。

結局のところ、それに沿岸が埋め尽くされてはならず、打ち寄せるウネリのあって海面も見えないといけない。観光資源に見れば接岸状態が好ましいのだろうが、鉄道屋には中途半端に凍る海が望ましいのだった。
気象条件により一夜で接岸、離岸を繰返す流氷原を背後から前景に撮れる位置である沙留岬へは、「中途半端」な海面を期待して3シーズンを通ったけれど、理想のそれには巡り合えずに諦めてしまった。
列車は930D、名寄行き。後部はキユニ26で、遠軽機関区の2両は名寄本線に専用されていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec@f8 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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恵比島 (留萠本線) 1972

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ここに降り立った1972年は、政府の第4次石炭政策の下、生産からの「なだらか」な閉山による漸次的撤退が進展した時代で、沿線の昭和、浅野、太刀別の各礦は既に無く、出炭をここへ運んだ留萌鉄道も2年の休止を経て前年に姿を消していた。構内の設備は早くも撤去され、列車の発着した3番線に錆びたレールの残るのみだった。
かつては賑わったであろう集落は櫛の欠けるように疎らで、名残の駅前旅館が印象に残っている。

国有鉄道における線路名称制定(1909年10月12日鉄道院告示第54号)の直後に深川-留萠間を開通したこの線区には、当初より独立した系統名が起こされ、留萠線部に属する留萠線の名称が付与された。函館線の支線に含まれなかったのは、空知炭田からの出炭を留萌港へ移送する重要幹線と位置づけられたからに他ならない。また、それまで移出手段のなかった留萌炭田や沿線林産資源の開発に資するものとされたのだった。ここから峠下への小さな峠越えが、積車の下りに対して9.1パーミル、空車の上りに対してもふたつの迂回曲線を挿入してまで最大10.5パーミルに抑えられたのも運炭線としての設計である。
それゆえ、それらが斜陽化すれば零落は避け得ない宿命であろう。

それでも、ビルド礦とされた赤平、茂尻、芦別からの出炭に、まだ4往復(臨貨含む)の運炭列車の設定のあったのが、この頃である。ただし、それらは1往復を除いて深夜から早朝の運転で撮影対象にはならず、辛うじて夜間の深川で後補機付き運転の出発を捉えている。深川 (函館/留萠本線) 1971
余談になるけれど、運炭列車は機関車の交換や途上での給水を除外すれば山元の発駅から積出港の着駅まで原則的に無停車運転であった。それは石炭定数と呼ばれた独自の牽引定数により経路上各停車場の本線有効長を越えて貨車を組成するからである。同組成で戻る返空列車も含めて列車交換に停車することの無い「殿様列車」が専用貨物列車A(72年3月改正時呼称)に指定の石炭列車なのだった。根室本線に特急列車の設定されてからは、それと中間小駅でバッティングしないことが至上命題とされ、スジ屋を悩ませた。それでも特急の遅延等でやむを得ないことがあり、それを待たせての堂々の通過を、その乗客として経験している。

写真は、恵比寿トンネルを出る776列車。前述の昼間1往復にあたる石炭車編成の返空回送列車で、これも深川まで無停車運転である。返空だけれど長い組成にD51の後補機が付いていた。
当時の未熟な技術で、このロールは現像過多である。温度管理に失敗したものと思う。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

山越-八雲 (函館本線) 2012

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道南、八雲町域は温泉地帯でもある。落部川上流山峡の銀婚湯が高名だが、その近隣には上の湯も湧出し、野田追川の上流約15キロには桜野温泉が、遊楽部川支流の鉛川を遡れば旧遊楽部鉱山近傍に八雲温泉が、それぞれ盛業中である。何れも自然湧出していた地に後にボーリングを行って高温の湯量を得ている。
これら山間地ばかりでなく、噴火湾沿岸の山越周辺にも温泉湧出の記録はある。
現在の山越漁港近くの境川下流に冷泉が湧出していて、これを利用した久保田温泉が1951年まで営業しており、山越郵便局近隣には1928年から1940年まで山越温泉が存在して、噴火湾漁業の最盛期にあたり、どちらも盛況だったと云う。
戦後に八雲町が山越駅より1キロ程八雲寄り、浜松地区の国道山側を買収して1958年に試掘し、1960年に民間によって掘削され、地下357メートルより泉温41.6度で96L/分の食塩泉の湧出を見たのがコタン温泉である。その斜面に建つ赤い屋根の建物は函館線の車窓からも良く見えていたのだけれど、いつのまにか廃業してしまった。1972年に近隣をボーリングして源泉を得た「ホテル浜松」、後の「温泉ホテル光州」に吸収されたものと思う。
そこに現在建つのは、2001年開業と云う「温泉ホテル遊楽亭」なのだが、上記との関連はわからない。大規模な宴会場や結婚式場も設備して、八雲ローヤルホテルの廃業後にこの地域のシティホテル機能も代替している。
なお、温泉名は浜松温泉と呼ばれているようである。

1971年に牧草地を疾駆するD52を撮って以来、度々降りている区間なのだが、そこは宅地へと姿を変え、並行する国道沿いにも商業施設が増えてすっかり撮り難くなってしまった。
野田生で内陸へ向かった函館本線が再び海面を間近に見る浜松の海岸も、列車の下回りを隠すような護岸に更新されて、撮影地としては末期の様相であった。
霜の降りた初冬の寒い朝。列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。
後に、浜松温泉「遊楽亭」が見える。

=参考文献=
改訂八雲町史 : 八雲町編 1976

[Data] NikonD3s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 Non filter ISO320 W.B. 5200 Developed by CaptureOne5 on Mac.
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上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1978

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オホーツク岸の湧別/網走を道央に連絡する道路は、1889年6月に着手し僅か60日ばかりで旭川湧別仮道路として一応の開通を見た。空知監獄の囚人37人を使役した突貫工事と云われているが、驚くべき短期間での開通は、そこに既存であったアイヌ民族による踏み分け道然の交易路を拡幅したものとも思える。この道路は野付牛(現北見)を経由する北見道路として翌1890年に本工事が着工され、1891年12月27日に完工と記録されている。
これは人馬の通行を前提としていたから北海道の中央山脈を湧別への最短距離となる北見峠で越えていた。

一方、1898年に旭川へ達した鉄道路線は、富良野へと南下し狩勝峠を越えて池田より北見、網走に至る網走本線が1912年12月5日に全通している。距離は延伸しても根室方面と中央山脈通過線を共用出来るのが、その事由と思われる。それの短縮も1921年10月5日に全通を果たした名寄線/湧別線経由が選ばれ、石狩と北見を隔てる山岳地帯の通過線は北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定の別表にすら記載されないものであった。
この峻険な峠に対して、当時の非力な機関車運転に求められる線形の実現に要する隧道延長とその工事の困難が予想されたゆえである。

1899年から建設の請願活動の行われたと云うその路線は、1920年に至ってようやく臨時第43帝国議会の協賛を得、1922年鉄道省告示第45号により北海道建設事務所の所管となり着工した。奥地での4000メートルを越える隧道掘削にも確信を得られる技術の発達も背景にあるだろう。同所による当初の現地調査では、その位置は北見峠と石北峠の双方が候補に挙げられていた。石北峠となれば武華原野への直行にて経由地から外れる白滝や遠軽地域が、これにどのように運動したものか、遠軽町百年史に記載はない。(読み漏らしかも知れぬ)
けれど、1923年9月1日に発生した大正関東地震からの復興予算に関連しての工事凍結に対して「かぼちゃ団体」と全国紙に報道されたような陳情団を長期中央に派遣し、強力な抵抗運動を展開したのはこの両地域の住民であった。

工事は白滝を境界として上川方を西工区、遠軽方を東工区と分け、石北トンネルから白滝に至る区間は西3、西4と西5工区に当たる。隧道内の最高点を新旭川起点67K473Mの施行基面高644M10に置いて、これより白滝方を15.2パーミルの下り込みとして出口の起点69K669M地点の施行基面高を611Mまで下げるのだが、そこから奥白滝構内直前の起点73K521Mまでの高低差100メートル余りには急峻な地形が続き、湧別川の本支流の横断に多数の架橋を要する難工事と記録にある。
この区間の路盤開削は、まずは石北隧道工事への資材運搬路として行われ、それには遠軽の業者が導入したフォード社製の貨物自動車が使われた。余談ながら、これが白滝村に現れた最初の自動車と村史にある。

西4と西5工区であったこの区間は、確かに山深くて狭い谷に撮影の足場は見つからなかった。
列車は、522列車。この頃、石北本線を通す唯一の普通列車だった。(下りは北見で521-1521と列番が変わる)

=参考文献=
北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992
北海道道路史 3 路線史編 : 北海道道路史調査会編 1989
遠軽町百年史 : 遠軽町編 1998
白滝村史 : 白滝村編 1971

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


浜小清水 (釧網本線) 1970

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夏の太陽は知床から昇ることを、この時初めて知った。
札幌から斜里まで直通していた臨時急行<大雪52号>(網走-斜里間は普通列車)を浜小清水に降りた時のことである。北緯44度の北辺ゆえ8時近い時刻でも低い高度になおさらの感があった。

この駅は、1925年11月10日に網走本線の北浜から斜里までの延長に際し、その途中駅として古樋の駅名にて開業している。この区間は、北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)の第二条に規定の「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」の一部として、当時に根室本線の別保信号所(現東釧路)で分岐して建設中であった釧網線と結んで横断線とすることが計画されており、その経由地を巡って斜里村と1919年にそこから分村した小清水村が争った経緯が在る。結局のところ、それは斜里経由とされて小清水村内を通過はしたものの中心市街地を遥かに離れた海岸部の通過となり、そこに開駅したのが、この古樋と止別なのだった。
本村の意地が優ったと云うことなのかも知れないが、現在の斜里回りはそこへ大きく迂回する線形となっており、鉄道側の当初計画は建設距離も短い小清水経由での札鶴(現札弦)到達であったろう。
これに対して、小清水へは1960年6月3日に北見鉄道が止別から開通するが僅か9年の短命に終わり、1941年に北海道製糖が甜菜輸送を主目的に敷設した古樋-小清水-水上間の小清水軌道も1952年には道路輸送への転換にて廃止されている。
けれど、その後もここは急行列車の停まる小清水町の入口であり、駅前に農業倉庫の建ち並ぶ農産物の積出駅だったことに違いは無く、その側線は貨車で埋められていたのである。この頃にホームで撮ったスナップには原生花園から回遊したカニ族達の姿も多く見て取れる。

「道の駅」なる言葉が聞かれ始めた頃、それを高速都市間バスの停留所の名称と思っていた。「駅」と聞いて、交通機関の発着点を思い浮かべるのは鉄道屋とすれば当然である。
今、浜小清水はその「駅」を名乗る物産販売所に呑み込まれた異様な光景となっている。本家としては何と肩身の狭いことであろうか。

<大雪52号>の到着から632列車までは20分あまりしか無い。網走方の構内外れまで急いで振り返れば、低い太陽光を吸い込むような爽快な青空があった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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礼文-大岸 (室蘭本線) 2009

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礼文-大岸間の線増は、急峻な地形が海岸線に迫り落石障害や護岸への浪害の在った断崖下の既設線に対して複線の別線にてなされ、1975年10月22日に使用が開始された。現在も単線にて残る区間を除けば、長万部-本輪西間の線増は1965年を初年度とした第三次長期計画によるものであったから、1972年6月着工のここは、それに含まれなかったことになる。この4K090Mが最後まで残されたのは、新設される礼文浜トンネルが、そこの地質から工法等に一層の検討を要したゆえと思われる。
既設線上の岩見トンネル(164M)が保守に手を焼いたように掘削区間の地山は、変朽安山岩と安山岩質角礫凝灰岩が互層を成し、その断層および破砕帯に沿い熱水による変質を受けて粘土鉱物を生じた不安定な地質であり、俗に言う「緩い地山」だったからである。それの完成から25年後の1999年11月28日に発生したコンクリート覆工の剪断剥落事故も、遠因は地山にあるとされている。

複線の新設線は、礼文駅構内上り場内信号機付近から山側に分岐、上記礼文浜トンネル(1236M)と新達古武トンネル(97M)を掘削して起点26K900M付近にて既設線に接続する3.1キロで、新線の上り線が既設単線と結ばれ、接続点から大岸までは下り線を山側に腹付した線増である。カットにも接続点の名残である不自然な曲線が大岸上り方に見える。礼文浜トンネルを4パーミルの片勾配として茶津付近の施工基面高を上げた関係から大岸方に10パーミル勾配を新たに生じたが、これは室蘭本線の最急勾配と同等設計である。
放棄された旧線路盤は永らく残り、茶津トンネルや達古武トンネルは漁具置場に利用されていたのだが、後にこの区間が道道608号大岸礼文停車場線の拡幅整備に転用され、2013年度に着工予定の同線西側区間の整備には岩見トンネルも転用の模様である。(写真に見える元キャンプ場に伸びる轍も旧線跡である)

階段でアプローチ出来るようになった茶津崎には、心境複雑ながら何度か登らせて貰った。88年以降のことである。ここで知るが、公園に整備された上部には砦としての壕が掘られていて、85年に先端に向けての斜面上方から眺めた草原の直線の段差はそれであったか、と納得した。
列車は、8002列車<トワイライトエクスプレス>。
背景の紅葉黄葉時期に合わせたのだが、この時刻には低い西日に岬の影が延びてしまった。

=参考文献・資料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
北海道建設新聞 2012年7月20日号

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f4+2/3 Fuji LBA2+SC37 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

礼文-大岸 (室蘭本線) 1985

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古くから云われる「名勝(地)」とは、三省堂大辞林によれば「景色の良い土地」とある。国語辞典的にはそのとおりだろうが、法律上は景観に秀でていても「名勝」とは限らない。
名勝を名乗るには、文化財保護法(1950年5月30日法律第214号)に基づく文化庁の基準に合致し、審議会の答申を経て国なり地方自治体の指定を受けねばならない。その基準とは「我が国のすぐれた国土美として欠くことのできないものであって、その自然的なものにおいては、風致景観の優秀なもの、名所的あるいは学術的価値の高いもの」とされている。
この国指定の名勝に総称を「ピリカノカ」として日本先住民族およびその文化にかかわる景観が指定されているとは知らずにいた。最初の指定は、名寄市のクトゥンヌプリに石狩市所在のピンネタイオルシペで、2009年度のことであった。
2011年2月の第三回目の指定にて、これに豊浦町のカムイチャシが加えられた。その上部が「カムイチャシ史跡公園」として整備されている茶津崎である。

ここが先住民族による砦であったことは、1971年の発掘調査にて判明していたらしいのだが、蘭法華岬の難行で自信を付けた(?)翌年のこと、そのような場所とは知らずに登っていた。
比高は30メートルに満たないものの隧道付近からの直登は困難で脇を流れる水流に沿って根元方向に上がっていた小道からイチイの茂る斜面を辿るしかなく、そこにはクマザサの獣道のごとき通路が上部へ通じていたのだけれど、上部に至ると圧倒的なツル性植物の群落に行く手を遮られてしまう。蘭法華の経験から、その重さも厭わずに持参した薮漕ぎ用の鉈が重宝したのは云うまでもない。
そこはイチイとトドマツと思われる混合林に縁取られたクマザサ交じりのツル植物の斜面が延々と、その先端に向けて続き、ようやくのことで室蘭線のトンネル上まで進んだものだった。目論みは海面を前景にした画角だったのだが、ここで力尽きたと書いておく。

「塘路の崖」塘路 (釧網本線) 1982 もそうなのだが、ここも後に(88年のことである)豊浦町によって前述のとおり公園化され、それこそトンネル脇に階段が付けられ容易に到達できるようになった。この時の難行を思うと些か複雑な心境ではある。
列車は3068列車。青函航送当時の高速貨物列車は、その客載車両渡船の貨車積載能力(ワム車換算48両)からコンテナ車の最大16両組成に制限されていて、海峡線運転の現在よりも短い。この列車は14両所定であった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8 ED 500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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門静-厚岸 (根室本線) 1983

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当の漁師達がそう呼んでいるので、ここに番屋と書いて来ているけれど、業務上の「詰所」を指しての本来意味から発した浜番屋は最早一部に残るのみだろう。
漁労の場所近くの海辺に建てられた漁師達の共同作業場兼漁具置場であり、待機場所でもあり、期間の長短はあれ宿泊をともなう生活の機能も併せ持っていた施設が原初形態と思う。今、知床半島の奥地の小さな浜で漁師達がひと夏の間を過ごすような番屋がそれである。
漁業権を与えられた商業資本がそれを設置して漁労者を隷属させた戦前期までは、その業務遂行の拠点でもあったのだが、水産業協同組合法(1948年12月15日法律第242号)や漁業法(1949年12月15日法律第267号-戦前の通称明治漁業法に対して新漁業法と云う)の施行された戦後においては、漁労形態や社会情勢の変化により居住・宿泊機能が抜け落ち、統制や共同作業に集会機能は漁協の本所支所事務所に集約され、多くても数人による共同使用の作業場・漁具収納庫となったものだろう。それでも、慣れ親しんだ「番屋」の名のみが残ったのである。ただし、年配の漁労者は、港の漁協を以て「番屋」と呼ぶ者もいた。
今、浜に建ち並ぶこれらを外部の者が、それを使わずに呼称するとすれば、漁師小屋とでもするしかあるまい。

いずれも簡易な木造の汐焼けにくすんだ姿に惹かれて、これを画角に鉄道を撮っていた時期がある。今でも海辺にそれを見かければ、ついつい近づいて見入ってしまう。
海浜に建っていれば、そこには船を引揚げられるような設備も付帯して、それの浜に並ぶのは壮観な眺めでもあった。
厚岸湾沿いにも、1980年代までは門静へ向かう白浜や厚岸大橋を渡った奔渡側の漁港地区に集中していて、ここへ通う理由のひとつになっていた。その背後のなだらかな斜面の海岸段丘上の俯瞰位置も得られたからでもある。
ここでは、漁港への水揚げ施設や岸壁、防波堤設置等の整備が進んだ現在でも白浜地区海岸の浜番屋は健在だが、道内全般を見れば、近年の海辺の集落毎に第一種漁港と区分の地元利用のみに供される漁港整備の進展にて、作業場もその周辺に位置するようになり、かつての建ち並ぶ浜番屋の景観は失われつつ在る。

列車は234D、釧路行き。
道東の冬の光線は、8時を過ぎてもこんなに低い。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

音別 (根室本線) 2001

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80年代の末から90年代には道北道東線区での機関車運用の廃止が続き、細々と残った貨物列車も96年8月一杯で名寄発着が、その半年後の97年3月22日改正にて中斜里発着が運行を停止すれば、機関車屋としてはこの方面には足が向かなくなっていた。その中での例外は根室本線で、ここ音別へはそれ以降にも幾度か通った。決して時間帯は良く無いのだが機関車牽引列車が残存しているからである。

77年に初めてここに降りて以来、下り方の海岸線区間へ向かうでなければ、尺別とのほぼ中間に在る丘陵には必ず登って太古には入江だったに違いない原野を眺めた。ヨシの群落にハンノキやヤチダモの点在するそこに変哲は無さそうなのだけれど、その都度の写真を見比べると変化が見える。何に利用されているものか、轍の目立って植生の取り払われている一角が在ったり、それが回復して別の位置に道が付けられたりしている。根室本線の線路には山側だけだった通信線が90年には海側にも通されてウルさくなった。何よりも、人工的な痕跡ばかりでなく、背の低いヤチダモが増えて成長している。湿地の乾燥化はここでも進行しているのである。
環境省の公表している植生図によれば、線路の海側には付近で唯一のハマナス群落が存在することなっているけれど、残念ながらその花を見たことは無い。

列車は2092列車。この頃、撮影可能な時間に走ってくれた唯一の上り列車である。それでも道東の早い夕暮れには露出が厳しく、ここで撮るには音別での40分近い停車を恨めしく思いもしたものだった。
この区間へは海霧を目当てに通ったこともあるけれど、それを避ける秋には道南の紅葉黄葉の時期に合わせての渡道が多かったから、ここでは晩秋から冬の入口に当たっていた。太平洋岸なので「時雨」とは云わないだろうが、冷たい雨に出会う季節でもあった。それに煙る原野も趣だ。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

新得 (根室本線) 1979

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ここのタイトルにもしている1966年は、それまでのハーフ判カメラに替えて一眼レフを初めて手にし、本格的に写真に向き合った年である。行動範囲もまだまだ札幌の近郊が主で、遠出しても興味は蒸気なら函館山線のC62に向いていた。写真技術は拙くて、Web上に先輩諸氏の作品が数多く発表される中で、ここでのその写真は1カットだけに留めさせていただいている。

奥地への遠征を始めるのは翌年のことだったから狩勝旧線には間に合っていない。半分負け惜しみで、C57の<まりも>は深夜の通過でどうせ撮れぬと思う反面、大築堤で<おおぞら>の80系気動車は撮りたかったと悔やみもしている。
1969年に初めて狩勝新線に乗るのだが、その圧倒的なスケールに尻込みしてしまい、ここを撮るのは70年代も後半になってからであった。当時の新得にはかつて補機が屯した扇形庫が残されており、その残滓は目撃している。

新得駅での駅弁販売(構内営業)の始めは、林順信氏の資料によれば戦後の1946年5月25日に開業の新得駅構内立売合資会社とある。1975年にここで手に入れた特殊駅弁「やまべずし」も、同社の調製販売になるものであった。けれど、鉄道の乗客向けに売られた「やまべ寿し」は、1910年代に存在した永瀬料理店にて考案され、駅構内での販売も行われたと云う。これは、後に加藤待合所の製造に代わり、1929年の掛け紙が文献に記載されている。戦後には村井食堂に引き継がれたとされるが、それと新得駅構内立売との関係はわからない。
おそらくは、その評判から加藤待合所に限らず、戦前には駅前に営業していた他の「待合所」でも、これは調製されていたものと思われる。新得駅構内立売も、ルーツとの関連なく「一般化」したそれを戦後に復活させたのであろう。
現在、駅前にて注文販売を受け付けている「お食事処暖笑」も、場所こそかつての「新得待合所」と同位置なのだが、直接の繋がりのある訳ではなさそうだ。ただし、そのレシピは新得駅構内立売の関係者から引き継ぐものと言う。
なお、やまべ(ヤマメ)を素材とした寿司駅弁の販売は新得ばかりでなく、札幌(但し「やまべ鮭寿司」)/旭川/上興部(後に興部)に例が在った。旭川のみが姿寿司、他2例は握り寿司である。この内札幌だけで現在も販売が続く。

13時28分、422列車が新得に到着。帯広へ買物に出ていたのだろうか、大勢の下車がある。前位側には荷物車が4両続いて旅客車は後部2両なので、些かホームを歩かされる。

=参考文献=
新得町百年史 : 新得町百年史編さん委員会編 (新得町 2000年)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

沼ノ端 (千歳線) 2002

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苫小牧市沼ノ端地区の駅北側に向けての住宅地としての拡張は凄まじい。それは北栄町とか拓勇町と名付けられた西部が中心だったのだが、近年には駅近くを南北に通過する国道234号線を越えて東方に進出しつつある。
駅も北口の開設に際して現況のような橋上駅に建替えられ、かつての準急の末裔とはいいながら特急列車が停車とは想像だにしなかったことである。営業フロントの人員配置も遠く無いと思える。
国道234号線のウトナイ湖側での(湿原の)排水工事を認めたのは1970年代に入った頃だった。それを土地造成の開始と捉えれば住宅の進出は遅過ぎる程なのだけれど、ここは当初には工業用地として造成されたものではないかと推定している。産業構造の変化にて工場はコンパクトになったけれど、それの集積がここに人を呼び寄せたと云うことなのだろう。

そのさらに東側、後の国道235号線の自動車専用道路部(日高自動車道)と一般道路部が併用するウトナイ高架橋に繋がる盛土部は78年冬には構築されていたと記憶する。湿原での造成工事の向こうに盛土区間の続くのが車窓にも見えて下車したのである。この時には、盛土の上部には木組みによる何やら見張り台のようなものが建てられており、そこからは線路が遠く見渡せたのだけれど、位置的に画角を取るには苦しくロケハンだけに終わった。
その翌年か、翌々年か、これも記憶が曖昧ながら、線路上部への桁の装架を確認して再訪したのだが、着いたそこには桁の躯体は丸出しだと云うのに背の高いフェンスだけは既に取付けられていて落胆したのを覚えている。
結局のところ、ここで撮るのは同様のフェンスが非電化区間にまで増殖して4段のGITZOと脚立の装備が常態となって以降のことだった。
新製間もないDF200-54に牽かれるのは、3061列車。
画角右の造成地に住宅の建ち並ぶのもそう遠い将来ではないだろう。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor85mm/F1.8D 1/250sec@f4 C-Polarizing filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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中越 (石北本線) 1971

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まだ子供時分の頃だ。何処とも知れない漆黒の闇を往く夜行列車の車窓に、やがて通り過ぎる駅の灯りには安堵したものだった。
ほの暗い駅名標を確認し、列車を見送る職員の姿を認めれば頼もしさすら覚えた。

通票閉塞は勿論、連査閉塞や連動閉塞であれ現場での運転扱いを要したから、深夜でも列車設定があれば本屋には煌煌と電燈が点され、当務駅長が列車との応接に忙しかった。ついこの間までの当たり前の鉄道風景である。小駅においても家族と共にそこに暮らす、不眠不休の職場は基幹輸送機関としての鉄道を印象付ける光景でもあった。
まして、そこが峠越えを控えた深山の駅ともなれば、灯りに浮かび上がる構内に補機解結の構内掛りもまた、黙々と立ち働いていた。

札幌への移動に乗った518列車<大雪6号>はD51に牽かれて夜半の遠軽を出ると、やがて白滝に停まりここで後部に補機DD51を連結する。
この頃、旭川区には同機 6両の配置があり、宗谷本線塩狩越えの全てとここ北見峠の補機の大半を無煙化していた。それらはボンネット上部に砂箱を増設し蒸気暖房を使用停止した補機専用仕様機だった。本務機に先駆けてのそれは、蒸機の正向定位による煩雑な転向を避け、合わせて地上要員の削減を図ったものだろう。
ここでの補機運用は、中越-白滝間が基本で下り後位、上り前位を定位としていた。勿論例外も在り、この518もそのひとつであった。中越での解放時間短縮と、そのまま下り方に引上げて517列車<大雪6号>を待ち、それの前位補機にて遠軽まで戻る運用からの措置だったのだろう。

1分程の停車で補機との連結器とブレーキ管の切られた列車は、駅長のカンテラの合図にゆっくりと動き出す。
空いた車内に窓を開け身を乗り出せば、サミットからの惰行運転で冷えたシリンダに盛んに切られるドレインが見えた。本務機もDD51に置替られる二ヶ月程前の夜である。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/15sec@f2 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
※ このカットのWebsite"カメラ 万年筆" のGalleryにて既出をご容赦下さい。

旭川 (函館本線) 1983

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失われつつあるものに1番線ホームがある。
勿論例外も多いのだが、乗降場の一面は駅本屋に接して設けられ、それの旅客案内上の付番は原則として本屋側からなされたから、改札口を入場したそこが1番線である。或る程度の規模の駅ならば、そこには本屋から張出す上屋の掛けられ、跨線橋なり地下道へ向かう旅客も一旦はそこを通過するゆえ幅員も大きくとられていた。何より、それらを渡る必要の無いそこには、優等列車を上下とも優先して着発させることもあり、趣と華やかさも備えていた当該駅の「特別な」ホームなのである。列車でそこに滑り込めば、ホーム端から駅施設が見え始めて大駅と知り、永い汽車旅の区切りの印象であった。乗降場上面の意匠を含めた舗装など整備の率先して進められ、鉄道弘済会の売店(後にキオスク)にせよ、駅弁当の売店や駅そばスタンドでも幅員の余裕に一回り大きいものが設置されていた。

この1番線ホームが、主には新幹線乗入れ計画や都市計画に賛同しての高架駅化や大規模橋上駅化により、急速に失われている。引続き本屋建物が乗降場に接続していても、それを商業施設化して駅機能を橋上に置いたため直接の入場が不可能となった例も多い。それは島式ホームと変わらない。
道内でも、札幌、帯広、旭川と高架化が続き、往年の雰囲気を残すのは釧路と、優等列車はなくなって改札口に面してもいないけれど、例外としての小樽1番線くらいだろうか。
北見や網走にも存続しているものの、列車数の減りその大半をそこに着発させれば、2・3番ホーム以下が遊休化して駅として縮小した印象ばかりである。名寄のように島式乗降場側が予備ホームと化して上屋が撤去されてしまった例もある。

写真は、旭川1番線に停まる1004M<ライラック4号>の室蘭行き。かつての急行<さちかぜ>の流れを汲み札幌まで無停車運転していた。この781系電車がまだ特急車らしかった頃である。
旭川は函館本線の終点で宗谷本線の起点とされるものの、高架化された現在まで実質的には両線の途中駅である。地平駅当時の配線も通過駅型のそれであり、写真の中線2本は貨物列車の通過運転に対応した設備であった。

札幌からの夜行急行も、この1番線に着発して15分から30分の停車時間があり、ホーム中程の改札口付近にリヤカーに駅弁を始めとした商品を満載した立売りが出ていたのを思い出す。ここでは翌朝用の弁当を仕入れたりしていた。もう少し前の時代までなら弁当の立売り人の数人が回り売りしていたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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七飯 (函館本線) 1971

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前日の記事 七飯 (函館本線) 2012 からの続きである。

この戦前の計画は、七飯停車場構内にて分岐し、当時には畑作地の広がるばかりだった現本町地区をほぼ直線で通過して藤城地区の斜面に取り付き、七飯方から第一/第二藤城、第一/第二観音に久根別の5本トンネルを経て峠下地区上方山腹に至るものであった。ここでは極めて自然な経路選定なのだが、ここに鉄道を開業した北海道鉄道(初代)は、工期・工費から尾根筋への隧道の掘削を避け、急勾配を承知でそれを穿つこと無く等高線を交わせる木地挽山の裾野斜面を選んだものだろう。19世紀初頭のエンジニアリングとすれば理に叶ったと云えよう。

これらトンネル群と、七飯での國道4号(大沼街道-現国道5号線)との交差部から久根別トンネル出口方までの路盤工事をほぼ終えたところで敗戦を迎えてしまい、工事は中断されたのである。
着工時点では開通の急がれたためか、既設線への接続は暫定的に峠下トンネル手前とされ、後の新峠下トンネルは含まれていない。それは戦後の峠下トンネルの変状をともなう老朽化による代替として着手され、工事中断中の新線路盤延長上に貫通して、1956年12月15日に既設線のこれへの経路変更が行われた。これ以降、この別線は七飯からの市街地通過区間を残すのみにて、ほぼ完成していたことになる。
なお、この未着工区間の設計の詳細は明らかに出来なかった。工期から七飯構内での分岐は単純な右分岐、路盤構造は戦争末期の資材不足から盛土構造だったと推定する。

以来20年近くを山中に眠った施設は前回に記述のような背景からの線増計画に活用が決まり、1963年11月に工事が再開されたのである。
その際に、未着工であった七飯から国道5号線交差部までは、停車場内での平面交差回避と、都市計画で住居地区とされた本町地区を迂回する設計変更がなされ、ここの鉄道景観を決定付けることになった延長913メートルに及ぶ高架橋が出現した。工事用側道を含めても買収用地幅を最小とする設計の結果と思われる。
余談になるが、この変更により放棄された路盤用地跡が、桜町2丁目の国道5号線沿いの洋菓子店ピーターパン横から町営桜町団地下へと続く現線路の外周を巻く道路、町道桜町8号線の一部に転用されて残っている。とりもなおさず、それは高架橋の俯瞰撮影に通った道であり、この事実を知った時には些か驚きもしたものだった。
なお、そこから国道を越えての七飯方へ100メートルばかりも着工されたようだが、こちらの痕跡は消滅している。

新線は、桟橋起点23キロ付近にて熊の湯信号場からの既設線に替えて新峠下トンネルに繋がり、1962年7月25日に開通していた軍川(現大沼)までの線増線と併せ、七飯-軍川間の下り列車専用線として1966年9月30日に運用を開始した。これにて、戦時下に開業していた函館-桔梗間、大沼-森間の砂原回り線、1962年9月4日に使用開始の桔梗-七飯間と合わせて函館-森間線増が完了した。

高架橋を登る列車は1191列車、五稜郭操車場からの長万部行き。
この間に残存していた貨物扱い駅で貨車を解結する区間貨物列車である。鹿部での扱いのため砂原線を下る唯一の貨物列車でもあった。
2003年の確認では、この樹木は大きく育って現存していた。

=参考文献・資料= (前回記事と共通)
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
七飯町史 : 七飯町編 1976
七飯町都市計画課・土木課へのレファレンス依頼による回答

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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七飯 (函館本線) 2012

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函館本線の下り優等列車と貨物列車は、七飯から仁山付近に連続する20パーミル勾配を避けて別線を往く。通称-藤城線である。

1949年に公共企業体として発足した国鉄は、アジア太平洋戦争戦時下にて疲弊した設備の復旧に務め、1955年度までには戦前の輸送力を回復するに至り、増大の予測された輸送需要に対して1957年度から61年度を期間とする「第一次五カ年計画」を策定し、老朽施設の更新や幹線輸送力の増強を推進した。
1961年10月に実施の全国白紙ダイヤ改正がその一定の成果であり、道内に於いても特別急行列車を含む気動車による優等列車網の整備と到達時分の短縮がなされ、青函連絡船の大型船腹への更新を含む貨物輸送力の増強が行われた。けれど、これらは増発にかかわる搬器(車両)への投資とそれの運用効率向上によるものが中心であり、この計画期間中の地上設備増強は、室蘭本線の石炭輸送区間に単線にて残された敷生(現竹浦)-苫小牧間32.3キロの線増が進められ室蘭から三川までの複線化が成った程度であった。
対して、1961年度の道内貨物輸送量は、1956年度を100としたトンキロベースで129の伸びを示して、秋冬の繁忙期には駅頭に滞貨を生ずる状況や、旅客輸送も道内の特殊事情である夏季多客輸送や年末始のピーク輸送時の激しい混雑ともども、本改正にて緩和されるものでは無く、青函航路継送輸送力指標となる渡島大野-軍川(現大沼)間の列車回数も、これにて(単線の限界とされる80回を越える)100回に迫るものとなっていた。  

幹線の輸送力増強は道内に限らず全国的な課題でもあり、国鉄は1961年度を初年度とする「第二次五カ年計画」にてこれに対応し、戦時の陸運転換施策により突貫施工された僅かな区間で複線(砂原回り線含む)が稼働していたに過ぎない函館/室蘭本線の函館-本輪西間についても、これにて計画され、当面の隘路であった七飯-軍川間から着手されたのである。
同区間の線増は、渡島大野から峠下トンネルまでに連続して補機を要していた20パーミル片勾配の緩和と併せて下り列車専用線としての別線にて行われ、1966年9月30日に使用を開始した。七飯での平面交差を避けて左に分岐し、渡島大野への既設線と畑作地を長い高架橋で乗り越して藤城・峠下集落上方の斜面を新峠下トンネルに至る線形は、10パーミルの標準勾配を維持する経路選定による。

その1963年の着工から3年足らずの工期は、この別線を成す相当区間の構築物が戦時下および1956年までに完成していたからに他ならない。この区間の勾配緩和計画自体は戦前の早い時期から存在し、着工されていた事実がある。
それは石倉-野田追(現野田生)間の海岸段丘通過に介在していた15パーミル勾配を解消する新線と、大沼-森間で駒ヶ岳の裾野を越える20パーミルを回避する砂原回り線とを併せ、戦時下の陸運転換に応じた貨物列車の函館-岩見沢間上下でのD51ないしD52の1台運転による1200t牽引の実現ため計画されながら、突貫工事にて1945年までに使用を開始したこれら区間に対して、トンネル掘削に時間を要したものか、1200t列車が主には上りの石炭輸送であったゆえ優先順位の低かったものかは分からないが、工事途中にて敗戦を迎え開通に至らなかったのである。
(この項 七飯 (函館本線) 1971 に続く)

写真は、藤城線の核心である七飯高架橋を往く3063列車。
背後には北海道新幹線の高架橋が既に立ち上がっていて、それの目立たぬ夕刻を以て最善とする。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 Non filter ISO640 W.B. 7700 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

長和 (室蘭本線) 1995

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長流川は伊達市大滝区(旧大滝村)と千歳市境界の美笛峠付近を水源に伊達市長和町で噴火湾に注ぐ、延長50キロあまりの長流川水系二級河川である。昭和新山を仰ぐ壮瞥町下立香の地峡部を抜けた下流域は、右岸側左岸側とも崖面の続く扇状地の緩やかな傾斜を流下しているのだが、地形図を読めば、その崖面と上の丘陵地の様相が右岸左岸にてかなり異なることに気がつく。右岸の等高線の凹凸のない直線的な崖線は、太古の洞爺火山群の噴火による溶岩流先端を思わせ、上部の起伏に富む地形は7000から8000年前と推定される有珠山の山体崩壊にて生じた岩屑なだれの到達した東端である。直線でも8キロ近い流下距離は、凄まじいエネルギーと云わざるを得ない。

北入江信号場付近で、この岩屑なだれ堆積物の中央部を越えた室蘭本線は、有珠へ下るとそれを避けるように到達南縁に沿って海岸線へと南下しエントモ岬をさらに迂回する。ここでのトンネル延長を短縮するための線形であろう。これにて、エントモトンネルを抜けた列車は、長流川扇状地南端を長和市街地へと北上することとなった。付言すれば、そこは下り列車が大野平野以来に見る水田地帯であり、札幌まで唯一の車窓でもある。

この線形にロケーションと云い、それを俯瞰に見る崖線の位置と云い、太古からの有珠火山の活動の恩恵とするのは少々大袈裟だろうか。
最近には、高名なポイントとなっているらしいこの畑作地の外縁に、この頃には幾度か立っていたのだが、一人として撮影者に出会うことはなかった。
列車は、8002列車<トワイライトエクスブレス>。

[Data] NikonF4s+AFNikkor85mm/F1.8D 1/250sec@f2.8 C-PL filter EPP Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1992

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札幌市街地から南西部の野幌丘陵を越えて千歳や長沼方面へ抜ける道路は、かつて広島街道と呼ばれていた。宅地開発の進められていたひばりが丘を抜けると、道沿いに農家の点在する畑作地が広がりその先には原生林が立ちはだかる風景が続いた。丘陵を登り詰めるあたり、種畜牧場を右へ辿れば細い砂利道は斜面を下って鬱蒼とした森の中で千歳線の遮断器もない踏切を越えていた。親父に連れられた、大衆車トヨタパブリカでの日曜ドライブの記憶である。
千歳方向を見ると、その先で線路は分岐して駅らしき構内が垣間見えた。当時に設置されたばかりの西ノ里信号場である。ここでの汽車を背景にしたスナップ写真がアルバムに残る。付近では重機の入った千歳新線の工事が始まっていた。
踏切の先で森をぬけると馬鈴薯農場の試験圃場に出て、道は落葉松の並木を直線で通り抜けていた。農場は周辺から隔離されるように林で囲まれ、遥か樽前や恵庭の山を背景にした爽快な風景は親父のお気に入りだったらしく、ドライブの目的地はそこであった。
この風景は永く記憶に残って、後年に新線に架けられた跨線橋に通うようになると、時折北広島駅からのタクシーを大曲方面経由にしてもらい種苗管理センター北海道中央農場と名を代えた農場手前で降りて、並木道を歩いたりしていた。その道は北広島市道大曲椴山線となり、千歳線の跨線橋は農場橋と呼ばれている。

この年の7月1日に建設中であった新千歳空港ターミナルビルが供用となり、そこの直下に北海道旅客鉄道が新千歳空港駅を設け札幌方面との間に快速列車の頻発運転を開始した。それは島松やサッポロビール庭園、白石への待避線の新設ないし増設、西の里信号場の設置など地上設備の増強をともない、特急から貨物列車までの集中する道内での最過密運転線区にあっての、速達列車のさらなる増発と表定速度の確保には必要欠くべからざる設備であった。
この際、足の遅い貨物列車に対してはそれら退避設備を有効化し、且つ普通電車列車と平行ダイヤ化を可能とする運転性能が要求され、日本貨物鉄道がDF200形式電気式内燃機関車を製作する直接の動機となった。勿論老朽化の進むDD51形式の代替機として以前より計画されていたものであろうが、その試作機の新製配置は1992年4月2日のことで、量産機の配備がこのダイヤ改正に間に合うはずもなかった。
この事態に、同社は昼間時間帯に千歳線内を運行する列車をDD51形式の2台運転にて対処とし、そこでは多くの重連牽引貨物列車の姿が見られることになったのだった。

写真は、農場橋から見下ろした3070列車。対向する3071列車もDD51の重連牽引である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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[番外編 13] 小沢 (函館本線) 1979

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汽車弁当とも呼ばれた駅弁は汽車旅の必需品に違いなく、平型の木箱を肩に吊り下げた駅弁当の立売り人の姿は鉄道景観の一部を成すものであった。

列車の駅に到着すれば、拡声器からの駅名連呼と立売り人による「呼び売り」の口上とが乗降場に交錯し、この様を記憶するのは最早一定の年令より上だけとなった。旅客車内の乗客と客室窓を介しての販売を前提とした移動形態ゆえ、固定窓の特急型車両の進出した70年代を通じて衰退し、その形態が意味をなさなくなって乗降場上に設けられた売店やワゴンなどでの待ち受け販売に置き換わって行ったのである。
短い停車時分ゆえの、客との代金に弁当と釣り銭のてきばきしたやり取りや、動き出した列車とともに乗降場の尽きるまで歩調を合わせた「追っかけ売り」など昔語りである。
代金の支払いに手間取ろうものなら、さっさと他の客窓に移ってしまうから買い手もそのつもりで居なければならない。乗降場と反対側座席の乗客に窓を譲るのも車内に必須のマナーであった。

道内においては、長距離移動が夜行中心だったので全てを知る訳ではないが、函館/室蘭本線上でも比較的遅くまで残っていたように記憶する。長万部や倶知安、室蘭、苫小牧に岩見沢、滝川、旭川などである。70年代半ばくらいまでの岩見沢や旭川は、夜行列車でもその長い停車時間に編成の端から端まで「回り売り」していた。
窓の開く車両ばかりだった線区ならなおさらで、興部や弟子屈、静内、厚岸などは80年代にも生き延びた覚えが在る。昼間の遠軽は知らぬのだが、夜行に出張って来た売り子は木箱を折りたたみの脚台に載せて客を待っていた。

この立売りの販売形態は鉄道の開業当初より存在した駅構内営業の原初形態だろうが、日本国有鉄道の発足以降は「日本国有鉄道構内営業規則」(1949年7月27日公示第75号)で「構内旅客営業」の「立売営業」中の「駅構内立売営業」として区分され、その出願から承認、監督指導、営業料金徴収まで細かく規定されていた。
これによれば、国鉄の徴収分は総売上の1.1から2パーセントとあり、無店舗販売であるから需要さえあれば美味しい商売ではあったのである。鉄道側としても旅客サーヴィス上欠かせぬ事情からでもあろう。その分監督指導は厳しく、良く知られるように販売価格の上限は低く抑えられ、服装、用具などにも規定があった。
この戦後の規則からは外されてはいたけれど、鉄道院/鉄道省の時代の東京鉄道局管内では服装は全駅にて統一され、件の平型木箱もサイズばかりでなく外面を漆塗り、内側を春慶塗とするよう通達の出されていた程である。この、現場で「吊り箱」とか「掛け箱」などと通称されていた木箱の規則上での正式名称は「携帯容器」と云う。

この小沢駅の立売りも、岩内線列車の急行への解結や客車列車の小荷物扱いで停車時間の長かったものか、比較的遅くまで存続していた。構内営業業者は伯養軒末次商会である。
ここでの駅弁は300円の寿司のみで、メイン商品は北海道鉄道による開駅以来と伝えられる250円のトンネル餅であった。(価格は80年頃)

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec@f1.4 Nonfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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千歳 (千歳線) 1996

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スキャニングと云う作業から見ても、Kodachrome は難題だった。
その外式発色現像の結果としてのポジはスキャニングには向かない構造なのである。とは云え、それのスキャニング需要は存在するから後発技術であるスキャナ側で対応する他無く、専用のパラメータの用意されているスキャニングソフトウェアも在る。それとて「対応」を果たしたまでで、このフィルム独特の色合いの再現を保証したものではない。
これは、当のKodak社のHRU scannerにせよ、imacon社のFlexTight scannerでも同様であり、極めて自然な再現を得られることもあるのだが、多くのカットでRGB/CMYのどれかのバランスが崩れてしまうのである。特にコダクロームブルーと呼ばれる青色系統の深みも捉えるのは困難で、データ出力にせよ、プリントにせよ、Photoshop上で近い発色を創り出さざるを得ないのは、これでの撮影の意味を半減させてしまうことになった。
ディジタル処理なぞ考えられもしない時代の技術であり、やはり製版カメラでの取込みを前提にした印刷出力向けのフィルムなのである。
付記すれば、Digital ICEも使えないから後処理に一工程余計な手間を要するのも、このフィルムである。
以外なことに、その学術向けとも云われる仕様からか、最も忠実な結果を得られたのはCreo社のEverSmart Supremeで、Kodachrome向け設定も必要としないフラットベッドスキャナなのだった。さすがにウン百万の機材と言いたいところだが、スキャニング速度は異常に遅くて何十カットも続けて取り込みたい機材ではなかった。

写真はPKLでの撮影、FlexTightで取り込んでいる。朝日の散乱光と言う特殊な条件なのでマゼンタ方向への発色を補正せずに撮影したのだが、日陰の積雪部分ほかにスキャニングでどうしても原版に無い緑カブリが出てしまい、部分毎に修正レイヤーを重ねて補正している。

この朝の千歳は放射冷却にて極度に冷え込み、ダイヤモンドダストを生じていた。朝の低い斜光線は空気中の細氷にて散乱して一面を陽光に染める。ピントが甘く感じられるのも、そのためである。機関車の前照灯にも影響が見て取れる。効果フィルタを装着したのではない。
列車は4095列車。
当日の夕刊は「今朝の千歳氷点下22度」と報じていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji SC42filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

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