"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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様似 (日高本線) 1982

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国鉄自動車の日勝本線/襟裳線は、1943年8月1日より乗合自動車を営業していた民間の日高自動車を買収して開設されたものである(1943年7月27日鉄道省告示209号)。この日、札幌鉄道局室蘭管理部に現業機関-様似自動車区が置かれて、本様似-庶野/歌別-襟裳間で運輸営業が開始された。営業範囲は旅客・手小荷物は勿論のこと貨物輸送も含むものであった。
ここへの国鉄自動車の進出は、鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)別表の133に在る「膽振國苫小牧ヨリ鵡川、日高國浦河、十勝國廣尾ヲ經テ帶廣ニ至ル鐵道」の鉄道未開業区間を先行する使命に依っており、庶野から広尾に至る区間は戦後の1946年11月25日に開業し様似-広尾間が全通している。

戦後も1950年代ともなれば観光需要も回復し、輸送状況も安定した国鉄は1956年に北海道周遊券を発売する。この有効期間の長く格安の乗車券は学生を中心とした層に受け入れられ、後に「カニ族」と呼ばれた貧乏旅行者を生み出すに至った。登山や野外活動経験者であった初期の「カニ族」達は既製の有名観光地に飽き足らず、離島や北辺の岬など「最果て」を指向して襟裳岬もその目的地のひとつとされた。
国鉄もこれに呼応して、襟裳線の襟裳から灯台への延長を灯台-庶野間の一部として1957年7月18日に開業し、灯台経由での周遊を可能にしていた。
こうして観光地として注目される中で、進みつつ在った気動車の配備を背景に、この自動車線に接続する観光列車-準急<えりも>が1959年6月7日より札幌-様似間に設定される。もっとも日曜のみの運転は(当時に週休2日制は存在しない)道内客の日帰り旅行の利便を図ったものではあった。
翌1960年4月22日にはこれと逆時間帯、即ち日高本線沿線から札幌方面への往復に定期運転の準急<日高>の運転が開始され好評を以て迎えられた。そして、1963年6月1日の改正にて<えりも>を定期列車とし、1966年6月1日改正で<日高>もこれに改称の上昼間時間帯に1往復を増発として<えりも>の3往復体制が確立、これは1986年11月1日改正における廃止まで引き継がれた。

当初のキハ21での運転は定期化時点までにキハ27(56)に置替られて、以後その使用が永く続いた。運転区間全般が概ね平坦線ゆえ機関1台車が所定であった。
1985年3月14日改正では配置形式の関連から所定をキハ56の2両組成とするも実際にはキハ40の入ることもあり、1986年3月3日改正以降は苗穂機関区から苫小牧機関区運用に移管され、同区キハ40と共通運用が組まれて、それの2両編成が急行列車として運転された。千歳線内では同区間の快速列車よりも所要時分を要したから、使用車両のみならずこの点からも堂々の遜色急行と云えた。

写真は、様似川橋梁を渡る703D<えりも3号>。
様似 (日高本線) 1969 と同一位置からの13年後である。背景の市街地はほとんど変わっていない。その間にこの丘へは道路が付けられて容易に登れたのだが、橋梁近くに倉庫らしきものが建てられてしまい、画角の邪魔をする。

苫小牧で本線系統列車との解結の永く続いたこの列車の、そこでの構内配線からの特徴的な運転については 厚賀-大狩部 (日高本線) 1984 に書いた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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網走 (石北/釧網本線) 1973

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75年の秋だったと思う。網走駅から電話で当日のホテルを探したのだが、駅前では何処も満室で断られ、開業して間もないと云う「網走セントラルホテル」に空室を見つけたことがある。駅から市街地方向へ1キロばかりを辿り着いてみれば、その位置から旧浜網走駅の跡地に建てられたものと知れた。そのせいか、周辺には倉庫然とした建物の多く夜には寂しい一角ではあった。

この旧浜網走駅は、1912年10月5日に網走線が野付牛(現北見)からここまでを開通した際に設けられた網走駅である。既存市街地に近い常呂川沿いに置かれたものだったが、続いての1924年11月15日に開通の北浜までの延長線は、市街地を南に迂回する線形が選ばれたから構内西端で池田方に向いて接続とせざるを得ず、列車着発時に後退運転を生ずることとなった。これが1931年9月20日に釧網線として釧路と結ばれると列車回数も増大し直通列車にも機関車交換を要して、1.3キロ池田寄りのクルマトマナイ地区に施設を移転、ここを新たな網走駅とした。1932年12月1日のことである。この際に旧構内も貨物扱施設として残され浜網走を名乗ったのである。なお、網走-浜網走間の営業キロ程は0.8キロとされた。(これの告示期日不明。同日から日本国有鉄道発足までの間である)

戦前戦後と網走地域からの鮮魚や農産物の発送拠点であったここは、60年代に至り常呂川を越えて市街地が北に拡大すると、その中央部に位置することとなり、網走市当局は1964年に移転促進特別委員会を設置して国鉄に現地からの移転を要請、1969年3月27日にそれを市内白樺町の旧引揚者住宅跡地とすることで合意に達して、6月に着工、同年10月4日に新施設の使用を開始した。
呼人-網走間の新旭川起点232K700M付近への設置なのだが、現地で本線への接続が無く、それは網走から連絡によっていたから国鉄はこれを移転とせず、11月1日付での網走-浜網走間貨物支線営業キロ程の1.3キロへの改正を公示するのみであった。駅の新設/廃止にかかわる手続きを省略したものであろう。それゆえ、浜網走は駅の地位を保ち、石北本線にも貨物支線が残存したのではあるが、もとより現業機関としての駅で無く、実体は網走からの構内側線で結ばれたそこの貨物扱い施設であった。これは移転前の浜網走も同様ではある。
この(新)浜網走駅も1984年2月1日改正の貨物輸送のシステムチェンジにともない廃止された。

常呂川沿いに存在した(旧)浜網走駅の構内は、現在の網走中央公園から北東東方向へ現中央通まで伸びていた。現在の南中央通(道道23号網走停車場線)は、その南東端から北西端へと旧構内を縦貫している。→1948年空中写真 その途中に1972年に現旧館を開業した網走セントラルホテルは、駅移転直後に用地を取得して着工したものであろう。

写真は、網走を後にする混合637列車、弟子屈行き。C58の牽引は斜里までで、以遠は補機用のDE10が牽いていた。
列車の前方、街灯りの方向が旧浜網走駅所在地になる。

(注) 空中写真へのリンクは最初に検索画面が呼び出されるが、もう一度クリックすれば写真画面となる。
=参考文献=
北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
新網走小史/新網走市年表 : (網走小史編纂委員会編) 網走市 1987

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/30sec@f2 Non filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

黄金 (室蘭本線) 1975

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室蘭本線の黄金から陣屋町を経て本輪西までの区間の複線化に際しては、かつての海岸線をトレースしていた線路を放棄して別線が建設された。この内、内陸に迂回していた黄金-崎守町仮乗降場間は新線の経路選定上から別線の選ばれたものとして良い。もっとも、これにて黄金下り方の左回り曲線がR600に緩和されてはいる。複線運転開始は黄金-陣屋町間が先行して、それは1968年9月19日のことであった。この際、旧線の崎守町仮乗降場は廃止され新線上に正駅として崎守が開設された。
旧線の迂回は海岸線に迫り出した標高60メートル程の丘陵の断崖下の通過を避けた線形で、新旧線ともこれを同名の元室蘭トンネルにて越えている。余談だが、その名のとおりトンネル出口は元室蘭と呼ばれる地区に在り、アイヌ民族により「小径を下る所」の意であるMo-rueraniと命名されたところである。小径の存在したのが、この丘陵なのだろう。このモルエラニが室蘭の原名ゆえに崎守町周辺が元室蘭なのである。

黄金の稀府方は続いて1968年11月15日に複線化され、これは既設線海側への腹付け線増であった。複線区間の中間駅となっても、黄金の上下本線に中線を持つ配線は維持されたのだが、78年10月2日改正を以て中線の使用を停止し岩見沢方のみを本線接続とした保線線に転用された。84年2月改正を待たないこれは、室蘭本線各駅では最初の事例となった。80年5月15日のRC制御の導入により要員も引上げられ、以後無人駅である。

この76年当時でも乗車人員の100人に満たない小駅だったにもかかわらず、ここの木造駅本屋の待合室には鉄道弘済会の売店が開かれていた。それは、無人駅化後の乗車券類の簡易委託販売受諾先ともなって、だいぶ後まで存続していた記憶がある。商店のない駅周辺には、今でこそ国道沿いに2軒のコンヴィニエンスストアが開店しているけれど、そのような業態の無い時代には駅売店がそれに近い役割を担っていたのである。このような事例は全国に幾らでも在った。

写真は、黄金に停車する224列車、岩見沢からの長万部行き。この頃でも室蘭本線の全線を走破する唯一の列車であった。
今黄金跨線橋の架けられる市道は建設途中で、その盛土から駅方向を眺めた。背景は伊達市から豊浦町の海岸線に有珠岳である。この角度だと昭和新山に真狩山は画角外になる。

[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

島松 (千歳線) 1996

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夢空間車との通称は、オロネ25/オハフ25/オシ25の900番台、その3形式-3両の計画・新製時からのものではない。それは、89年に横浜市みなとみらい地区を会場に開催された「横浜博覧会Yes'89」への東日本旅客鉃道のパビリオンとして根岸線桜木町駅東口広場で展示された際の出展名称「夢空間'89」に由来している。当時の同社発表資料には次世代寝台特急用客車と記されていた。
この3両の新製は、1986年より国鉄部内で進められていた、88年の Nostalgie Istanbul Orient Express 編成(NIOE)の国内運行計画にインスパイアされてのことで、その製造期間からも綿密に設計の検討された形跡は見られない。走り装置に車体を24系客車の基本設計に依存し、接客設備をNIOEに範を取ったに過ぎなかった。
青函トンネルの開通による旅客誘発効果にて、3往復の北海道連絡寝台特急をはじめ海峡線列車が高い乗車率を維持し、道内への観光入込み客数を押し上げていた好景気が背景に無ければ、承認されることのなかった新製計画に思える。後に破綻に至った所謂バブル景気の申し子呼ばわりの所以である。

趣味的な興味も、これらが展示を主目的に新製されたところにあり、東急車輛と富士重工から直接に桜木町に搬入されたオハフ25とオシ25に至っては本線走行をしないままに、即ち走行試験のないままに車籍登録がなされている。
89年10月1日の展示終了後には全車が東急車輛に陸送され、ここで整備の後に尾久客車区に回送された。配置区所での在車は新製以来実に7ヶ月目にしてのことになる。そして、同月25日に池袋-日光間に運転の「鉄道デザイン会議」レセプション列車として14系座席系列の団体輸送向け改装編成(SER編成)との併結にて初の営業運転を行なったのだが、これへの組成も言わば関係者への展示公開が目的ではあった。
この直後には再び陸路搬出され京葉線海浜幕張駅前で約10ヶ月間の展示公開が行われた。90年9月24日に浜川崎で復線し翌25日に帰区すると、11月1日に今度は「国際鉄道安全会議」のレセプション参加者輸送列車として前年と同様の区間、編成での運転がなされたのだった。ここまでの1年半の間に一度も一般旅客営業に投入されていないのは新製車両としては異例であり、記録されて然るべきものと思う。
89年の桜木町展示中の時点では、オロネ25を所要数製作しての<北斗星>投入も検討されたのだが、他の同列車運用車との経年差などの諸事情にて見送られた経緯がある。その個室式A寝台(販売名-ロイヤル)を越える個室寝台の構想だけは、1999年度初頭に新製されたE26系客車に引き継がれたとの見方も出来そうだ。96年に公開されたこれの寝台設備の最初のモックアップには、A・B寝台の各種個室が用意され、<北斗星>編成のアップグレイドが前提と見て取れたからである。

写真は、短いルルマップ川橋梁への下り込みを往く9010列車<夢空間北海道>。
夢空間車の一般旅客営業は、90年冬臨設定の<北斗星トマムスキー>への組成を最初の事例として、以後北海道連絡列車を主体に東北方面、北陸、山陰地区への運転実績がある。<夢空間北海道>の列車名は94年から96年までの秋臨設定に限って付されたもので上野-札幌間のほか根室本線池田着発での運行もあった。95年からは博多<あさかぜ>の廃止にて余剰となったスハネ25 700番台(通称-デュエット車)やオハネ24 700番台(同カルテット車)も組成していた。写真での電源車は青森所のカニ24にて銀帯である。
なお、9009・9010は、予定臨ダイヤ8009・8010の大宮-白石間を<カートレイン北海道>と共用したもので、それと同時刻であった。よって牽引機関車仕業も重連とはならない。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec.@f4+1/2 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編] Website を開設しました

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2011年の11月から"Monochromeの北海道 1966-1996"を、それの内地版の"Monochrome Days 70s/80s"を2012年12月から書き始めて、記事数は双方で500本に迫ろうとしています。古い写真に拙い文言におつき合い下さいまして、ありがとうございます。

予てから計画の、それらのアーカイブ先としてのWebsiteを開設いたしました。
まだ、ほんの一部しか移植作業は済んでおりませんが、記述時の事実誤認やその後に判明した事柄など、必要とあれば加筆・訂正しながら進めています。なにせ数の多いので完了まではだいぶ時間はかかると思います。ご容赦下さい。
移植に際しては、FC2のサーバを通すと写真のコントラストとシャープネスが落ちる傾向に対して、それを過剰としていたデータの修正をカットごとに行っています。言わば写真はリマスター版になっています。

アーカイブは撮影年別ですが、機能上検索と並べ替えが出来ないのでテーマ別のギャラリーを併設しました。
ここには、このブログでは発表していないカットも含みます。
また、このブログでは取り上げていない、撮影の周辺の事柄も書いています。

Update がどの程度の進行になるか分かりませんけれど、それはここでもお知らせするつもりでおります。
御立ち寄り、ブックマークを戴けますと幸いです。

カメラ 万年筆 - As the years go passing by

なお、このブログも 姉妹編内地版の "Monochrome Days 70s/80s" とも、まだまだ続きます。
よろしくご声援下さいませ。

札幌 (函館本線) 1969

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明確に記憶の在る札幌駅は、駅本屋東側には国鉄バスのターミナル(バスセンターと呼んでいたと思う)とその奥に車庫が造られた頃からで、「この間まで貨物積卸場だった」とバス待ちの人に聞いた覚えが在る。車庫は札幌自動車営業所であり、後に札幌中央支所を経て取り壊され、今は創成通りに面した広い駐車場になっている。
駅前には森永キャラメルの地球儀型の広告塔が目立っていて、そして民衆駅として建てられた4代目駅本屋は増築前の4階建てであった。
北側には、まだ貨物施設の残されて、西5丁目陸橋を渡って往けば貯炭場跡の荒れ地と高架で引き込まれた北海道炭礦汽船専用線の残骸が見渡せ、駅裏の泥道の向こうにはトタン屋根の住宅街が広がっていた。もちろん、これがそのような施設であったとは後年に知ったことである。

ここは間もなく取り壊され空き地となったから、構内に在った札幌客貨車区の検修庫や客留線を間近に眺められた。札幌駅構内に現業機関としての客貨車区が置かれたのは1950年2月10日に至ってからだが、1885年の構内図には転車台に繋がる機関室とは別に汽車室なる施設が見て取れ、官営幌内鉄道の開通時より客車検査/収容設備は駅に付属して存在し続けたようだ。1937年に機関庫が苗穂に移転して施設を拡張したものだろう。1958年の資料によれば、配置74両に対して検修線-2線/客留線-3線/庫内線-2線とあり、それほどの規模ではない。函館線上には旭川に岩見沢、小樽と同規模の区所が存在して機能を分担していたのである。ただし、各線とも有効長が150から200メートル取られており、確かに子供の目には大きな区所に見えていた。
60年代の初めにはオロネ10やオロハネ10、ナハネ10にオハネ17などの軽量客車が配置され、その近代的な外観に眼を見張ったのを思い出す。それらは写真で見た九州特急に組成された車両と同じであったから、昼間に留置されていた<まりも>の札幌増結編成など、それを見るようなつもりで眺めたのだった。ただ、座席車だけは道内への配置は無く、夏季輸送用に本州の区所から貸し渡されるのを待つしかなかった。
対して、さすがに木造車はいなくなっていたけれども、オヤ31やオル31と云った17メートル鋼製車から格下げ改造車も健在で、これもかつての大陸連絡特急列車用とも聞いて興味を惹かれたものだった。

やがて、手稲駅西方に札幌運転区(現運転所)が開設されると、配置車の大半は同区に配転となった。65年9月1日のことである。スエ30と31の2両が残されたが、これとて元来苗穂支区配置でそれの廃止後も苗穂機関区に常駐していたものであった。札幌客貨車区の実車の配置は無くなったものの、他区所からの入込車に対する仕業/交番検査業務区所として86年11月1日まで存続し、同日付にて札幌貨物ターミナル駅に移転して白石運転区に組織を改正された。現在の日本貨物鉄道札幌機関区の前身である。施設自体は75年度までに撤去され、高架新駅の用地に転用された。

駅には1963年に北口が開設され、東跨線橋に繋がる長い連絡跨線橋からは客貨車区構内を見下ろせた。南側の駅本屋は、62年に一部のみ施工されていた5階部分の増築工事が65年10月10日に完成した。
写真は北口に繋がっていた東跨線橋と、凄まじい排気とともに4番線を出て往くのは401D<狩勝1号>である。
この迫力ある気動車の発車の様は、子供の頃から飽かずと眺めていた光景だった。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1995

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今、ホタテ養殖発祥の地を謳う記念碑は全国に4箇所存在している。サロマ湖畔の常呂町(現北見市)栄浦、同じく佐呂間町富武士、陸奥湾に面する青森県平内町、そして噴火湾岸の豊浦町礼文華である。それぞれの地域がこのイタヤガイ科の二枚貝の増殖/養殖技術開発史上に足跡を残しており、序列を競うものではない。どれもそこの漁村に繁栄をもたらした先駆者の努力と功績を後世へと伝えるものである。

噴火湾においてもサロマ湖や陸奥湾とほぼ同時期となる1960年代初めより伊達地区海面にて水産試験場の指導のもと養殖試験が行われており、これを最初に事業化し、試行錯誤の上で技術を確立したのが当時の礼文漁協組合員であった。1986年に建立されたここの記念碑は、それが陸奥湾にやや遅れたことを承知していて、「噴火湾ほたて貝養殖発祥の地」とある。
戦後の噴火湾漁業はイワシやニシン、マイカの漁獲が激減し、多くの漁協がサケ・マスの北洋漁業に転進を図ろうとする中で、最も湾奥に位置する礼文はそれも叶わず、60年代後半には生産の軌道に乗りつつ在った陸奥湾に習い、ホタテ養殖に活路を見出そうとしたのである。

ホタテ養殖は、その前段階として海中を浮遊する幼生を基質に付着させ、如何に効率良くそれを確保し脱落させぬかに始まる。採苗と呼ばれる工程である。この基質には、当初貝殻や杉の葉が用いられたが、脱落の多くて採苗は不安定であった。これを劇的に改善したのが陸奥湾の漁師の思いつきによるタマネギ出荷用の細かい目の網袋の使用であった。中に入れた杉の葉から落ちても海中への拡散が防げたのである。
噴火湾では、これをさらに進めた専用の採苗網-ポリエチレンの成形にて5ミリ程の網目を得た「ネトロン網袋採苗器」の試験が行われ、67年には実用化に至ったと云う。
※ホタテ養殖漁業については、北海道水産業改良普及職員協議会のWebsiteに写真による簡便な説明がある。

順調に生産量を伸ばし、90年代以降には年間12万トン前後を記録していた噴火湾産ホタテだが、2008年から思いもかけぬ災禍に襲われることになる。同年9月に海中垂下中のホタテ貝に見慣れぬホヤの付着が確認され、それは翌年2月までにその全てを覆い尽くすまでに成長し、収穫も出来ない程の甚大な被害となったのだった。調査の結果、そのホヤの正体は、北大西洋ヨーロッパ側沿岸に棲息するザラボヤと判明、海外航路船舶にて持ち込まれたと推定される外来生物であった。→函館水産試験場による発表(PDF)
被害は2009年から2010年をピークに以降は小康状態にあるが、その発生メカニズムを含めて調査/研究の段階にあり対策の講じられた訳では無い。収穫後のこれの洗浄除去に手間と経費が生じて漁家の経営を圧迫していると聞く。

写真は礼文華山トンネルからの築堤を下る5列車<北斗星5号>。
ここは、木製であった上下線間の通信線柱が93年度内にはコンクリート製に立替えられて雰囲気がだいぶ変わってしまった。有り体に云えばウルサイのだが、雪中とあれば幾分かは緩和される。
これも既出の画角をご容赦願いたい。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f5.6 C-PL filter EPL Edit by CaptureOne5 on Mac.

仁山信号場-大沼 '旧小沼信号場跡' (函館本線) 1989

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小沼信号場はアジア太平洋戦争末期の1943年9月30日に開設され、僅か5年足らずの1948年7月1日付にて廃止されている。
その位置は仁山信号場から3.7キロ/軍川へ2.1キロと記され、函館桟橋起点25K160M付近となる。
以前の 仁山信号場-大沼 (函館本線) 1983 の記事で、1903年の本郷(現渡島大野)-森間開通時からの峠下隧道出口付近に構内が所在と推定したのだが、その後に1948年4月に米軍の撮影した空中写真を精査すると、峠下隧道出口に続いて構内らしき用地と信号場関連と思しき建築物が確認出来た。やはり、ここのレヴェルから4パーミルの続く延長800メートル程の区間に存在したと見て良さそうである。
但し、ここの現在線は峠下トンネルの1962年の改築時に曲線改良も合わせて行われたとの情報もあり、現状線形に待避線が並列していたとは判断出来ない。当時に現下り線(藤城回り線)は存在せず現上り線が湖水に接していた。先の空中写真でも確かに湾曲した湖岸線に沿う曲線も確認出来るが、それが現在の山側へ膨らんだ曲線であるかは解らない。函館市立図書館の所蔵する絵葉書に湖水の近かった様子が伺える。
以前に、新峠下トンネル経由の新線開通直後の、それと軍川方既設線との接続地点(起点25K754M)付近から撮影したと思われる写真を見ているのだが、そこでの休止した峠下トンネルへの既設線は直線的に盛土を上っていたように記憶している。

写真は前記記事と同一位置からの画角なのだが、変化も在る。ここで始まっていた国道5号線函館新道工事に関連して下り線湖水側の植生が取り払われ地面が露出している。そこは明らかに人為的に傾斜地盤を掘下げての整地跡と見て取れ、上記空中写真での建築物位置とも一致する。但し、ここでは後に現下り線路盤構築も行われて信号場設置時の整地と断定は出来ない。
また、画角右の樹木に覆われた部分には旧道道の築堤まで平坦な用地広がっていた。それは信号場構内に違いないと思われる。
なお、これの開設当時に道路は通じておらず、建設資材から物資輸送に至る全ては鉄道に依ったものであろう。

離合する列車は、4090と3053列車。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 2003

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勾配緩和線としての狩勝新線の、落合からルーオマンソラプチ川の谷を南下して、80メートルを上った標高449M30に新狩勝トンネル抗口を置き、道立新得畜産試験場の開かれていたオダッシュ山麓に広がる緩斜面に達して、そこを二度回頭しながら200メートル余りを下る経路選定は、地形からの必然の選択だろう。加えて、畜産試験場の存在は、用地確保からも既存農道の資材運搬路としての活用からも考慮されたものと思える。
ただし、計画当初には広内信号場から直進して十勝清水に至る経路が検討されており、新得町の猛反発にて撤回した経緯がある。

新得接続とされた新線は、広内信号場の場内を過ぎて間もなくの第二広内トンネル入口、滝川起点271K331M地点から約2キロに及ぶR500の左回り曲線にて、ほぼ360度のひとつめの転回をする。12パーミル勾配を保つ縦断線形からトンネルは牧草地の地下通路であり、斜面に置かれた出口から築堤を構築し高い広内陸橋で第一広内トンネルへと降りて往く。ここは新線の核心区間と云ってよく、十勝清水側の通称-南山の斜面やそこから続く尾根に巡らされた林道の随所からの遠望は鉄道屋の定番だった。

1994年2月22日の17時45分頃、このR500曲線途中の起点128キロ付近にて、運行中の4010Dが折からの暴風雪による吹き溜まりに突っ込み編成前部の3両が脱線し、先頭のキハ183-502は横転する事故が発生した。強風による直接の転覆では無いのだが、これを契機にこの区間の曲線内側に防風柵が連続して設けられ、後に外側にも設置されるに及んで、ここは撮影地としては失われたものとなった。

写真は、広内陸橋を上る2070列車。

2007年に広内信号場の上部、標高400メートル付近に北海道横断自動車道(道東道)が開通して、そこの盛土法面や残された工事用道路からの高高度俯瞰が可能に見える。けれど、その画角は、やはり防風壁の連続するこの区間となるゆえ、まだ試してはいない。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f4+2/3 C-Polarizing filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

電力所前仮乗降場 (士幌線) 1979

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元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978 から続く

戦後の事例には、日本国有鉄道の発足を待たない1946年から1950年までの5年間に設置された、12線区への28場がある。当然に斉藤治平の旭川への赴任以前である。道北道東に比重が置かれ、それ以外の例は少ない。(28場には戦時体制による仮駅の休止から仮乗降場で復活の手宮線色内を含み、一時的に開設の札沼線札幌競馬場を含まない)
これらは、敗戦直後の喫緊かつ旺盛な復興需要に対応して長い既存駅間距離を埋めるべく選定されたものと思われ、石北線の4場と池北線の1場を除く全てが比較的早い時期に駅へと昇格している。一部を除いてプラットホームは土工を施したものであり、簡素な待合所も備えて、いずれも本省による設置と推定している。
1948年から49年には、廃止された信号場の客扱いを引き継ぐ4場が加わる。これらも、その経緯から当然に本省の関与するものであったろう。

旭川鉄道管理局管内に続々と仮乗降場の開設される1955年から60年までの間に、他の鉄道管理局管内にも8場が現れている。旭川局設置の類型と思われるのは根北線への西二線/14号/16号の3場がある。
ここの乗降施設は簡素極まりなく、気動車の乗降扉分が横付けされる程度の正に乗降台であった。旭川局の斉藤が当初に意図したものは、この程度の設備と推定され明らかに影響下にある。けれど、近くに旭川管内に属する湧網線の事例があり、地元要求に屈したとも考えられ、斉藤の独断に同調してのものかは疑問が残る。
鉄道公報を調査していないので断定は出来ないが、崎守町/幸福/下鶉は駅への昇格を前提にしており、糠平ダムは季節営業、稲士別は尾路遠と同じく付近に所在の官舎居住の保線職員家族の利便を図っての設置で、いずれも旭川局とは事情を異にする。

国鉄部内では1961年から規程類の近代化が指示され、その見直しと共に権限の支社や管理局への移譲が行われた。
その中で、斉藤の設置した仮乗降場群の位置づけも整備されたらしく、各鉄道管理局により1962年から1986年まで散発的に11場の設置が行われ、これに複線化にて廃止された信号場での客扱いを引き継ぐもの6場が加わって、この北海道独特の鉄道景観が完結している。
ところで、国鉄は1969年10月1日を以て仮駅/仮乗降場の呼称を臨時乗降場に統一したにもかかわらず、道内では以降も永く「仮乗降場」が使われた。資料を見ていないので推定だが、呼称に残したのみで書類上では読替えていたとも思える。1986年に翌年の民営化時点での正駅格上げを前提として多くが開設された駅員無配置駅に至って、ようやく「臨時乗降場」と呼称した。
(この項完-文中敬称略)

良く知られるとおり、電力所前仮乗降場は上り列車に対する黒石平の代替として開設されたものである。それゆえ、営業上は同一駅と見なされて旅客営業規則第71条の規定は適用されず、仮乗降場としては特異な存在であった。728D帯広行き車内からのスナップ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter ri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

銭函 (函館本線) 1977

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石狩浜が南に尽きるところが銭函である。そして、ここから積丹半島へと続く岩礁海岸が始まっている。駅から線路沿いに張碓方へ歩けば、そこはもう石の海岸になる。函館本線の函館桟橋起点280K100M付近までは線路両側に浜番屋が続き、線路が漁師達の通路になっていた。これは、官営幌内鉄道が既設の交通路を路盤に敷設された歴史的経緯に起因していて、漁民の既得権を100年以上も認めて来たのである。特異な浜番屋の立地でもあり、ここへは幾度か通っていた。そこを通り過ぎて、さらに進むと前海に向いてそれの建ち並ぶ区画に至る。
ここに限らず何処でもそうなのだけれど、海沿いの鉄道であるから、それと浜番屋は必ず海岸線方向に並列することになって、共に画角へ収めようとすれば俯瞰でもない限り凡庸な景観になるばかりだった。この頃、それで通った留萌本線の増毛や日高本線浦河に根室本線門静から厚岸の海岸線でも満足の往くカットは撮れず仕舞いでいる。→黄金 (室蘭本線) 1979

ここには船溜りは無く、漁船は浜に引上げられる。これは現在でも変わらない。全て小舟ばかりだから前浜に限られるはずの漁獲を知らずにいたのだけれど、小樽市漁協に聞けば、ウニ、アワビにホッキ貝の捕獲とシャコの刺し網漁、そしてニシンやサケ漁に出ることもあると云う。特にシャコは近年に漁協が水揚げ直後の釜茹でを開発しブランド化を進めている。漁獲自体は昔から在ったと思われ、いつか小樽の寿司屋で勧められた、通常より倍程に大きかったのがそれだったと気がついた。

石の浜の番屋の向こうを往くのは、306D<宗谷>。稚内から函館まで682.5キロを12時間弱で走る堂々の長距離急行であった。昼行の半日乗車など、もう乗りたくても乗れない。
所定8両組成の函館方2両は旭川回転車である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978

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安別仮乗降場 (天北線) 1985 から続く

前回で述べた旭川鉄道管理局管内の事例は地元のニーズに開設を急いで(積雪期に間に合わせる等)、局長判断にて手続きを省略し本社承認を得ないものであった。
推定に過ぎないが、斉藤治平のそもそもの発案は、それこそ彼の専門分野と思われるバスのごとくに気動車を煩雑に停車させることではなかったろうか。例え数戸であろうが集落に通ずる道の線路に接する地点に「停留所」を考案したのである。従って乗降設備も気動車の乗降扉の一箇所が接すれば良い程度の乗降踏台を想定していたものと思われる。
この提案に現地事情を知らぬ本社側は、それを臨時乗降設備仮設の管理局長権限の拡大解釈と認めるにしても、高頻度の停車によるダイヤ編成への影響や車両運用など運転上の事由にて難色を示したのではなかろうか。戦前に試行された「ガソリンカー駅」の失敗も考慮されたであろう。
1960年までの97場設置は、斉藤としても譲歩した結果であり、設置経費増を招く気動車1両分程の乗降台設備は運転側の制動操作に配慮して本社指導を受け入れたものと推測する。
斉藤は設置を進めながら、利用者数の当時の駅設置基準に到達した案件については積極的に駅昇格も働きかけ、それを実現している。キロ程付与による利用者の運賃負担軽減を慮ってのことである。

この斉藤治平による事例を以て、道内の仮乗降場全てを未承認案件とするのは誤りと思う。
国鉄における「仮乗降場」とは、本邦にて最初の統一された鉄道の技術基準である「鉄道建設規程」(1900年8月10日逓信省令第33号)の第31条に規定された「地方ノ状況ニ依リ」特許を得て「設クルコトヲ得」る「簡易停車場」に端を発するものと思われる。
1907年に開設された札幌競馬場への観客輸送を図って、1908年8月8日から4日間のみ使用された北五条、それを引き継ぐ1913年7月19日付の競馬場前の道内初期の「仮乗降場」事例は、この規程に準拠したものであろう。当時に、これを「仮乗降場」と称したかは定かでない。ちなみに競馬場前は現在の桑園の前身にあたる。
続いての「仮乗降場」には、1926年7月1日開設の瀬越、1932年7月22日の新七重浜、そして1944年7月1日付での胆振縦貫鉄道の国有化に際して、地方鉄道建設規程に従っての停留場の内、駅に昇格されなかった尾路遠の例が在る。尾路遠は山中に存在した保線区所の官舎居住職員・家族のみの利用につき、駅とはしなかったものである。
これらは前回に「仮乗降場」の項を引用した『鉄道辞典』の編纂より前の鉄道省の時代なのだが、引用の前段での解説通りに本省予算にて設置し鉄道公報にて達の出され、鉄道局管理部がこの場合は通年開設としたものであろう。云うなれば正規の仮乗降場だったはずである。
(この項 電力所前仮乗降場 (士幌線) 1979 に続く)


元沢木は、斉藤治平の設置した一連の設備で1955年12月25日に開設されている。対して、彼の関わらない1948年に仮乗降場として置かれたのが栄丘である。設置当初の姿は知らぬのだが、この当時の土工のホームは、その海側に交換設備を予定したような用地も持っていた。ここは、元沢木の置かれた約1年後の56年9月20日に駅へ昇格した。これを含む1946年から1950年に開設された28場の仮乗降場については次回に述べる。
写真は、元沢木を発車して往く827D、雄武行き。
海沿いに散在するけれど酪農の集落である。板張りの乗降場は左に画角を外れたところにあった。
(文中敬称を略)

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 2011

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ここで15回目の豊浦である。今でも渡道すれば一度は撮っているから、写真は尽きない。

1988年、時の竹下内閣が通称-「ふるさと創生事業」(正式名称は、自ら考え自ら行う地域づくり事業)として全国各自治体に交付した1億円の交付金にて、豊浦町は温泉探査を実施、有望とされた貫気別川河口に近い字浜町地内にて1992年にボーリング調査/温泉掘削を行い、同年12月に湧出に成功した。
後に豊浦町ヌキベツ臨海温泉豊浦2号井と命名されるこの井戸は、泉温53度のカルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉で毎分250Lの自噴泉だった。
これを活用すべく翌93年に温泉利用施設整備事業として直営の「豊浦町温泉保養センター」を開設し、許可水量の400L/分を動力揚湯して使用した。続いて海浜公園整備事業により周辺に海水浴場/芝生広場(キャンプ場)/屋外ステージ/多目的広場などを持つ海浜公園を2003年までに整備している。この間、2000年2月には既存井戸に隣接して豊浦3号井も掘削され、「豊浦町温泉保養センター」は、2002年4月1日に開設の日帰り入浴に加えて宿泊/宴会機能も持つ本格施設である「天然豊浦温泉しおさい」に吸収/代替された。

以来、撮影の合間に幾度か入浴に訪れ、宿泊もしている。サウナも併設の大浴場に屋上の露天風呂は賑わいもあったし、海側を向いた客室に食事内容も料金からすれば過ぎたものに思えたのだが、総額で17億円を越えた事業費が響いてか経営難に陥り、民間の加森観光株式会社に運営の委託されたこともある。
余談だが、客室はグループ利用を意識しての18畳で用意され、一人旅には悲しいくらいに広い。

かつて弁辺トンネル出口からの切取盛土区間を横位置から撮るべく、ここで知り合った漁師に頼んで小舟を出してもらったことがある。300ミリでの手持ちは覚悟していたけれど、それに見合う位置は揺れが激しくて撮れたものではなく、何よりもエンジンと舵を細かく操作してもその位置に小舟を固定するのは至難の業であった。
ここでの海浜公園整備事業で整備された施設に釣り突堤がある。海水浴場の防波堤を兼ねたそれは、海上に大きく張出して小舟を固定しようとした地点あたりにまで伸びている。

列車は8053列車。10月も半ばを過ぎた噴火湾の風は冷たく、誰も居ない釣り突堤で震えながら列車を待っていた。海岸には鮭の釣り人の姿がある。秋鮭の遊漁は貫気別川河口右海岸なら浜高岡を過ぎた、この辺りに限られる。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f4+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

安別仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後の北海道の鉄道景観に特異性を与えた存在に「仮乗降場」がある。その中核を成すのは旭川鉄道管理局管内に集中した一群であった。それは偶然では無く、そこに第二代局長として赴任した斉藤治平の発案、尽力によるものである。

1958年発刊の国鉄による鉄道エンサイクロペディア『鉄道辞典』は、仮乗降場を「季節的に旅客の集中する場合等旅客乗降の利便を図るため駅以外の場所に設備した乗降場を云う」と記述している。「駅以外の場所に設備した乗降場」とは奇妙な表現だが、「仮駅との異なるところは、仮乗降場には営業キロ程が設けられず」と続いて、ここでの「駅」とは運輸営業上のそれであり、仮駅と区別の必要からの用語と知れる。
同記述はさらに、それの「設置は本社で行っており、その開設期間や旅客取扱区間等については鉄道管理局長が定める」としながらも、最後段で「現在通勤・通学の利便を図るため、鉄道管理局長かぎり臨時に列車を停車させ旅客の取扱を行っている場所があり、これも仮乗降場または臨時乗降場と通称する」と書く。
敢えての言及は、従来手続きと異なる「仮乗降場」がこの頃までに相当数に存在していたことを示し、それが旭川鉄道管理局による仮乗降場群なのである。「と通称する」の件は、それの正式呼称が存在しないと読め、本社として扱いに苦慮していたことを物語る。

斉藤についての多くは知り得ない。本社からの赴任は1954年半ば頃と思われ、1953年に交通経済社から『国鉄自動車経営論』の著作があり、地域輸送事情に通じていた人物と推定される。
赴任後の管内巡視から、冬期には馬橇すら通行に難儀するほどの僻地の気象条件や交通事情に鑑みて、各所への極めて簡素な乗降施設の設置を発案する。想像の域を出ないのだが、それは斉藤の専門分野と思われる旅客自動車の停留場の発想であろう。且つ簡易停車場としても時間を要する手続きを避けて設置を急ぎ、自身の責任において局独自の施策としてこれを実行したのである。これも推定だが、設廃の局長権限である災害時や工事施工時の臨時乗降場設置手続きを拡大解釈したのではなかろうか。
赴任翌年の1955年に8線区へ39場、1956年には10線区31場を開設し、1960年までに管内12線区へ97場を設置している。
勿論この施策には、この頃までに道内の多くのルーラル線区に運転を開始していた内燃動車の存在が背景にあり、当時の旭川局では、これら新設乗降場を単に「気動車駅」と呼称していた。これは国鉄部内で通常に使われていた用語である。
斉藤は合わせて液体式気動車の管内への導入も積極的に推進し、富良野線の1958年1月25日改正における客貨分離のように本社施策として実現させた例もあり、この際に設けた同線の仮乗降場はまもなくに駅へと昇格している。

この旭川局管内の事例を以て、現在に仮乗降場イコール本社非承認案件、即ち鉄道公報に達の記載されず管理局報での通達により設置とする情報が流布されるが、些か疑問である。中には駅設置基準の推定利用者数に交通不便地を考慮する緩和条項へ照らしても本社の難色を示した案件や、斉藤の手続きを無視した方針への反発も在っただろうが、最終的には承認を得たと見るべきであろう。前記富良野線の例ばかりでなく、早い時期に駅への昇格を果たした事例も存在するからである。乗降場が既存で局による通達も出されており、遡った達を省略する内規が定められたものではないだろうか。
同時期には推定利用者数に大差の無いと思われる案件が、広尾線依田や士幌線武儀のように正規の手続きを踏んで正駅として開業した事例も存在する。
(元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978 に続く- 文中敬称を略した)

天北線には仮乗降場の連続する区間が2区間存在していた。ここは、飛行場前が先行して1955年12月2日に、安別は翌56年11月19日改正を以て開設されている。
周囲は見渡す限りの酪農地帯であるが、戦争末期には飛行場前の名のとおり、この周辺に陸軍浅茅野第一飛行場の滑走路が完成していた。牧草地は敗戦にて使われることのなかったそれの転用である。その建設には連行された朝鮮人らの強制労働の歴史が在る。

ロケハンに疲れ安別仮乗降の乗降台で一休みしていると、空冷式単気筒3馬力機関の甲高いエンジン音とともに軌道自動自転車が爽快に通過して行った。閑散線区の線路巡視なら、それに限るだろう。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

白符-渡島吉岡 (松前線) 1982

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日本近海を回遊するクロマグロは、5月から6月に噴火湾そして積丹半島付近を北限に北上し、同地に滞遊して10月から南下を始めると云う。津軽海峡もそのルートであり、1800年代後半から主に下北半島北辺一帯で定置網により漁獲されていた。それは豊漁で一日に数百尾の水揚げも珍しく無かったらしい。
これほどの資源量が続いたとも思えないが、1900年代以降も一定の漁獲の在ったそれの極端に低下するのが1970年代以降である。学術研究のなされたでは無いようだが、青森県大畑町の漁協関係者によれば青函トンネル掘削工事の影響と云う。
同漁協のデータでは、トンネルの本抗工事に着手された1971年から津軽海峡での漁獲高は減少傾向を見せ始め、先進導抗が海峡中央部に達した81年頃から極端な低下を示し、本抗の貫通から88年3月の開業時期にかけて底を打った後、徐々に回復しながら90年代半ばに至って驚異的に復活を果たしている。大間の一本釣りによる漁がマスコミを通じて注目されるのは、この時期である。
このスズキ目の回遊魚は、それがゆえに微細な振動にも反応するらしいのだが、海底下100メートルで行われた工事振動の影響にて海峡の通過を回避したことには驚かされる。

下北側の大間周辺に続いて、北海道側漁獲基地の戸井近辺も「戸井マグロ」としてブランド化に成功している。もとはどちらも津軽海峡のマグロである。近年では西側の海域での漁獲に松前と津軽半島の小泊が名乗りを上げて追随している。その漁には、福島や白符、吉岡からの出漁もあるようだ。

写真は、福島町宮歌の集落を眼下に宮歌川橋梁(164M)を渡る4823D、松前行き。
後位側のキハユニ25は道内閑散線区の気動車化に際して1958年に6両が製作され、キハ21の基本設計により「バス窓」車である。この江差・松前線と日高本線に長く専用された。早い時期に1両を火災事故にて失い、1962年に代替で追加製作されたものの、それはキハ22に準拠して別形式程に外観が異なる。この1両は天北線にて運用された。

松前線へは1981年の冬に初めて入り、五万分の一地形図で当りをつけて白符-渡島吉岡間に降りた。翌冬の再訪では松前までロケハンした上でも、やはりこの区間を選んでいる。
その地理的位置により車窓に津軽海峡から日本海を見る線区の印象があるが、実際には福島峠に吉岡峠の山越え区間が長く、海沿いとなるのは、この白符-渡島吉岡間に渡島大沢付近の一部に限られていたのである。
ここは、わざわざ25パーミルの勾配を設け、海岸線を避けて20メートル程の施工基面を保つ縦断線形が選ばれていたから、谷には高い橋脚で架橋され、その下の小さな集落とともに良い被写体になっていた。

参考資料 : 海洋政策研究財団ニューズレター 2001.09.20発行

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

千歳 (千歳線) 1982

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かつて線路中心線が直線であった千歳停車場の前後区間は、現在では苗穂方にはR1000の左曲線が、場内のR1000/1200の右回り曲線を経て沼ノ端方に再びR1600の左曲線が入る。
すなわち、北西方向から南東へ走る線路が停車場構内のみ、やや北東へ膨らむのである。云うまでもなく、ここの高架化にともなうものであり、地上の旧駅に在った貨物側線や機関車駐泊施設跡を高架駅用地に転用したために生じた線形である。何れの曲線も、ここでの高速運転には直線と同等の扱いにて支障しない。

千歳の地上旧駅は、駅本屋側乗降場の上り本線に島式乗降場に接していた中線と下り本線の2面3線で、その外側に下り1番線と陸上自衛隊東千歳駐屯地と航空自衛隊千歳基地への専用線を分岐していた関係での5線の貨物側線が続き、構内南端には機関車駐泊所を持っていた。急行列車の停車に対応した乗降場は長い有効長と記憶する。
火災に依る焼失を経て1954年に建築されたと云う駅本屋は、直線主体の近代的デザインが好ましい建物であった。そこは上野幌-北広島間に介在した急曲線と勾配に対する補機の解結駅だったから、改札をくぐれば苗穂機関区のC57あたりを目にすることが出来た。夏の強い日差しの中、石炭の煙の流れ来るホームで函館行き急行を待ったのを思い出す。これを目撃しておきながら1枚も撮っていないのは、些か悔やまれる。
当時に札幌の経済圏はここに及ばず、1968年10月改正ダイヤで始発から7時台までの札幌方面行き普通列車は僅か3本が設定されるに過ぎない。1978年10月改正に至っても、それは5本を数えるのみであった。

高架新駅は旧下り1番線に隣接して建設され、その着工は1978年8月のことである。現在の駅前広場は、1980年7月10日の新駅移転後に撤去された旧駅本屋の跡地であり、それと旧乗降場分が拡大されたことになる。
写真は、高架化された千歳を通過する4090列車。コキ/コキフ50000にて組成された特急貨物列車Bに指定の青函航送を経ての梅田行きである。
高架線に続く、軌道スラブを予想積雪線まで嵩上げして設置する閉床式貯雪構造は、同時期に設計の進められた東北新幹線をプロトタイプとしている。後方に苗穂方のR1000の左曲線が見える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1996

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東室蘭操車場は、アジア太平洋戦争末期の1942年に着工して同年内に一部の使用を開始し、43年に本線抱き込み型の平面操車施設として全面使用、44年の東室蘭既設構内の改良と合わせて完工し、その一日の操車規模は1300車であった。これは、対本州間の物資輸送を陸運転換の措置により青函間に集中するに際して、それまで既存の東室蘭駅構内設備で行っていた操車作業が限界に達すると予測され、且つ拡張の余地の無いことから、それを岩見沢方の鷲別地区に求めたものである。
戦後に急増する輸送需要に対しては、1962年には作業効率の向上を図るべく、上下別にて櫛形配線となっていた仕訳線の後方も結び、合わせて構内を拡張する改良がなされ、操車能力は一日あたり2300車となった。
ここでの貨物扱い設備の併設されることは無く、それは引続き東室蘭既存構内東側の施設が使われた。依って建設規程からは操車場に違いないのだが、国鉄の部内規程である「日本国有鉄道組織規程」では独立した現業機関とは見なされず、東室蘭駅の一部であった。駅構内の拡張と位置づけられたものである。これは、五稜郭に岩見沢も同様で、現業機関としての操車場は新鶴見や吹田、高崎等に限られていたのである。同じく部内規則の「貨車輸送手続き」では輸送上地区ヤード(地区指定組成駅)に指定されていた。これも道内での基幹ヤード(本社指定組成駅)は五稜郭のみである。
それでも、197平方キロメートルの用地を有し、構内延長は、1.9キロ先に1901年から存在した鷲別駅の乗降場を上下分離させるに至った堂々足る操車場であった。運転上は東室蘭と区別して運行図表にも東室蘭操車場と記されていたのは周知のとおりである。
ここには開設間もなくに貨車検修設備も置かれ、それは1950年2月10日付にて東室蘭貨車区として独立した現業機関となっていた。

ヤード集結輸送の全廃された1984年2月1日改正を以て上下の仕訳線群の使用を停止し、貨物列車着発と鷲別機関区への出入区、苗穂工場輪西職場(現鷲別機関区輪西派出)との入出場貨車の操配と本輪西発着列車の中継に関わる機能のみが残された。
東室蘭貨車区は85年3月14日付で苫小牧客貨車区東室蘭支区に格下げの後、86年11月1日付で書類上廃止され、施設は新設の鷲別機関区東室蘭派出として引き継がれたものの、88年度内に作業を輪西派出に統合して撤去に至った。
社会的情勢により永らく放置されていた旧構内では、93年初めより国鉄精算事業団による大規模基盤整備事業が始まり、96年10月9日を以て下り仕訳線群跡に東室蘭駅東口貨物施設を移転して着発線6線と仕訳線10線を持つコンテナ扱施設が稼働した。コンテナホーム北側に接した着発線の1線は直接荷役が可能である。これに先立っては、東室蘭駅の配線は数次に渡って引き直され、最終的に抱込み型であった上り本線の下り本線側への移設が行われた。
日本貨物鉄道の現業部所(後に室蘭総合鉄道部)に営業フロントも同所に移転して「東室蘭駅(貨物)」を名乗るが、独立の停車場ではなく、北海道旅客鉄道に所属する東室蘭駅の一部である。運転上は引続き東室蘭操車場とされている。

写真は、操車場構内南側の上り本線を旅客構内へ進入する、夕暮れの8002列車<トワイライトエクスプレス>。
それの下り本線側への移設数ヶ月前の撮影である。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8 1/125sec.@f4-5.6 LBA2 filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

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