"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

国縫 (函館本線) 1999

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国縫には瀬棚線への出入りで幾度か降りていた。
ここは、それの分岐駅と云うばかりでなく、構内に隣接してその東側を占めていた工場(木材工場だったと記憶するが、定かでない)への専用線も出ていて、比較的大きな駅だった。五稜郭操車場-長万部間運転の区間貨物列車1往復が停車して、その貨車の解結の他、瀬棚線内着発貨車の授受も行っていた。
急行列車の停車もあったけれど、それは1966年10月改正にて函館-瀬棚間に設定の青函局管内列車<せたな>で、それの下りがここまでを札幌行き<すずらん>に併結の関係にて幹線系統列車が停車したに過ぎない。78年10月改正から客車編成の<ニセコ>が下りのみ停まるようになったのは、同改正でのこの<すずらん>の特急格上げの代替であった。
かと云って閑駅だった訳では無く、81年度の乗車人員は167人とあって森-長万部間では八雲に次いで落部と同等である。面白いのは、函館-札幌間設定の夜行荷物列車、通称-山線夜行が、それの廃止まで深夜帯の原則通過運転に対して下りが国縫に、上りが落部に停車していた。もっとも、これは旅客よりも荷物扱いによるものだろうが、それを要する地域拠点駅だったのである。古くからの跨線橋を持つのも、その証であろうか。
駅本屋も現在に残るとおりに駅務室の大きく取られ、詰める要員の多かったことを物語る。待合室には鉄道弘済会の売店も開かれていた。
今の駅前の寂れようからは想像もつかぬのだが、そこには商店も大きな商人宿も在って、旅館は近年まで営業していたと思う。草の繁るばかりとなっている本屋両側の線路沿いには、貨物扱い施設に鉄道官舎が奥まで続いていた。

ここは、84年2月の貨物扱いの廃止により貨物列車着発線と側線全てが撤去されたものの、瀬棚線本線は、それの廃止後も待避線として残されて稼働している。対して、停車列車が1、2両の気動車列車だけとなっても長大編成に対応した乗降場の放置される中で、第一第二ともその旭川方が撤去され、希有な事例である。事由はわからない。

写真は、春浅い朝を通過する6003列車<北斗星3号>。
この国道230号線バイパスの国縫跨線橋からは、第二乗降場の撤去にて望遠画角が可能になった面があり複雑な心境だ。それは写真の上り中継信号機位置まで伸びていて、付近に待合所も設けられていたのである。左の通信線柱の空き地には鉄道官舎が建ち並んでいた。
既出の画角なのだが、Ektachrom での撮影に付きご容赦頂きたい。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250@f5.6 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

森 (函館本線) 1970

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噴火湾は、その魚種の多いことで知られるが、北海道水産研究本部によれば商業漁業の中心魚種はスケトウダラにサケ、アカガレイである。けれど、遅くとも戦後の早い時期までには、ニシンとイワシそしてマイカにこれらを上回る漁獲があった。
特に、ニシンとマイカは豊漁の続いて、戦前の加工に保存技術の未発達の時代には廃棄処分も生じていたと云う。
日中戦争にともなう食料統制の発動されていた1941年に、このマイカを用いて商品化されたのが「いかめし」の始まりである。

森駅にて阿倍旅館(現阿倍商店)が構内営業を始めたのは、1903年6月の開駅とほぼ同時と記録されるようだ。(翌1904年とする資料もある)
以来、一世紀を越える盛業は偏に「いかめし」の存在に負うところだろう。当時の当主阿倍恵三郎氏が、有り余るマイカの利用と統制品のコメの節約を考案したものである。発売間もなくここを通る乗客に評判となり、沿線名物として定着したのだった。
ところが、戦後に噴火湾のマイカ資源は枯渇する。1980年代以降に復元傾向にあるが、まだ年度毎の漁獲高に大きな差異があって安定しない。資源回復には至っていないと云うことである。
今、阿倍商店では主にニュージーランド近海産の輸入モノに頼らざるを得ないとのことだ。
かつての噴火湾産に比すれば、やや大型につき一箱二個入りが多い由である。
手元に残るこれの掛け紙の内、もっとも古いのは1963年6月11日の調製印があって、おそらくは父親の出張の土産であったろう。経木から滲み出た煮汁の跡の残るそれは、現在と変わらぬデザインで価格は80円とある。

この頃、森から八雲方面への海岸では昆布の天日干しの光景が各所に見られた。沿岸の浅海の至る所でそれの採取出来たと云うことだろう。その生育周期から3年ごとの豊漁と云われており、八雲町のデータだけれど1970年は前後年を上回る250トンの生産で確かに豊漁年に当たっていた。
写真は、昆布の一面に広げられた島崎川河口の砂州を越え森駅構内に進入する4280列車、東室蘭操車場から五稜郭操車場へ直行していた貨物列車である。
五稜郭区のD52は重量貨物列車に充てられており、藤城線の10バーミル勾配を含む五稜郭-長万部間の牽引定数は、下りがD51の900tに対して1000t、上りは同1000tに対し1100tであった。(ちなみにDD51内燃機関車はD51と同等である)

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

山越 (函館本線) 1996

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2011年度末の住民基本台帳によれば、八雲町山越地区の人口は155世帯/373人と在り、それは熊石町との合併前の旧八雲町区域のそれぞれ2パーセント余りに過ぎない。
けれど、東蝦夷地を直轄地とした徳川幕府が、1800年4月にここを「蝦夷の境」とし翌年に山越内関門を設置してからの、およそ100年間はこの地域の中心地だったのである。

関所の置かれ幕府の要衝とされたことで、従来からの会所は拡張され、ユウラップの場所(交易所)は山越内場所と呼ばれ交易の中心地ともなった。(ここでは触れないが、この交易は一方の側の先住アイヌ民族から見れば、収奪/略奪以外の何者でもない)
必然的に宿泊や飲食の施設も進出して多くの人々を呼び寄せたであろう。江戸との間に箱館を経由地とする航路も開かれていた。幕府は酒造場も設け、下北大畑から酒造集団を呼び寄せたと云うから、多くの人口を抱える都市の出現したのである。精米の水車を架けた水流に酒屋川の名が残る。諏訪神社の創建もこの頃とされる。
政権が明治政府に移譲された後も、引続きその地方機関や行政機関の置かれたのだったが、1890年に国道が開削されると、「渡し」を要していた落部/野田追/遊楽部の各河川への架橋をともなったことにより、それらは地理的な中心に位置した八雲村へと移転して往き、1903年の北海道鉄道(初代)による鉄道開業以降には山越停車場の設置されたものの、繁盛していた旅人宿の多くが廃業に追い込まれ、都市としては衰退したのだった。
さらに100年を経てその痕跡を認めるのは困難である。

山越駅が三代目の駅舎に改築されたのは1989年10月のことであった。要員配置の無くなった後だから駅本屋としての改築でなく単なる待合所の設置である。
それは、往時の「山越内関門」の施設を模したものとされた。「模した」は言い過ぎで「それ風の外観とした」が正しく、云うなれば「なんちゃって」建築である。
こればかりか、その国道向かい側のバス待合所も、本来の関所跡地近くに建てられた公民館兼消防団の資材庫も同様で、どれが先行したものかは知らないが、悪乗りの範疇としか思えない。駅舎内に掲げられた時刻表に運賃表が、何と橘流の「寄席文字」で出力されていたのも「ご愛嬌」では済まされまい。
石倉や黒岩とも共通の幹線小駅らしい駅本屋を知っていただけに余計思うのかも知れないが、輸送機関は実直であるべきで、意匠を導入するならば委細の検証を経た「本気」を要することの反面教師的好例である。ダルマよりはマシか、と思い直しもするものの陳腐な印象は消えない。

写真は、噴火湾に昇る朝日を浴びて山越を通過する3057列車。
かつての場内外れからの画角だが、引きが取れる上に中線が撤去され駅間を思わせるロケーションは中丿沢と同様である。ここでも下り線側に通信線が無い。

=参考文献=
改訂八雲町史 : 八雲町 1983

[Data] NikonF4s+AiNikkor135mm/F2.8S 1/250sec@f4 LBA1+CC0.5G filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

大沼 (函館本線) 1989

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北海道鉄道は、1903年6月28日の本郷(現渡島大野)から森までの延長に際して、峠下隧道を抜けての小沼岸の区間でそれの陥入部を湖中に築堤を構築し通過していた。その状況は、当時に制作された幾つかの絵葉書に見て取れる。(一例として、函館市図書館の収蔵する「北海道公園大沼の景」)
以前に、仁山信号場-大沼 (函館本線) 1983 の記事で、この区間もセバットと解説した絵葉書の存在を指摘し、それを些か疑問と記述した。(→絵葉書「車窓に水郷の美を眺むるセバットの景観」)
その後に七飯町や函館市の関係機関に問い合わせると、断定は出来ないものの、やはり当該品制作側の誤認が濃厚である。Web上で検索可能な限りで調べれば、小沼-大沼間の接続水路を以てセバット(迫渡)としたものが多数見つかった。

写真は、現代の当該区間を往く5011D<北斗11号>。
ここには、鉄道の複線化以降の1960年代後半に至り、その盛土築堤をさらに拡幅する形で道路が開かれた。現在の道道338号大沼停車場線である。戦前からのこれの旧道は尾根筋をつなぐ山越えの道で、前記絵葉書の右端に見える斜面の上部を通っていた。(セバットと誤認のものには、その旧道も見えている)
この時には、廃道から20年程度なら、それの痕跡部にでも到達して俯瞰の出来ぬものか、と斜面を登ったのだけれど、例によって背丈を超える薮に阻まれて断念したのだった。戦前の時代だろうが、そこからの俯瞰も絵葉書に残る。(→絵葉書「(北海道水郷名所) 小沼を望む」)

同じく仁山信号場-大沼 (函館本線) 1983の記事で、新峠下トンネル経由の新線と既設線との接続地点についても考察した。これも、その後に「札幌工事局70年史」(国鉄札幌工事局 1977)を閲覧する機会を得たので、重複するけれども言及する。
本記事の写真で<北斗>の写し止められた位置(先頭部は函館桟橋起点26K200Mにある)は、1903年6月28日に開業以来移動していない既設線である。これは1956年12月15日まで後方にて10パーミルで登っている現上り線に繋がっていたのである。同日、熊の湯信号場からここまでの3.1キロに使用を開始した新峠下トンネル経由の新設線は、列車後方現上り線が左に転回する地点の起点25K754Mにて(工事の実際ではやや手前の25K800M付近)既設線に接続とした。それは、現R500曲線のかつての緩和曲線始点付近と思われ、これにスムースにつなげたものであろう。以後上下全列車がこれを運転し峠下隧道への既設線は放棄された。峠下隧道の老朽化にともなう措置である。
この区間の複線化に際しては、この放棄した峠下トンネルの改築と曲線改良にて旧線を復活し、上記25K754Mから大沼までは既設線右側に腹付け線増を行った。これと復活旧線の接続点も25K800Mから25K754Mの区間となり、ここには、10パーミル勾配の終点の曲線出口(上り列車には入口)付近にそれを裏付ける微妙な曲線線形が残っている。
これを上り線、新設線を下り線とした熊の湯信号場-軍川間の複線運転は1962年7月25日から開始された。

写真のさらに奥側で、道道も鍵形に線路から離れるのはそこが鉄道用地のためであり、かつて存在した小沼信号場の構内である。これについては項を改めたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

落部 (函館本線) 1989

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<エルム>の写真の度に書いているのだが、機関車に、このサイズのヘッドマークは似合わない。

国鉄における掲示物は正式には掲示標と呼称され、戦後には一貫して「日本国有鉄道掲示規程」および「同鉄道掲示基準規程」の定めにより取り扱われた。1987年4月の分割・民営化以降もほぼこれを継承しつつ各分割会社の事情や時代の変化に合わせて改正の行われているものと見て良い。
そこには、指導標として列車名標や行先標が規定され、トレインマークの項目もあるけれど、その大きさは「適宜」と記されるのみである。その「適宜」寸法は、どの時点にて採用されたものかは不明ながら、永らく直径660ミリが規格化され、87年度に新規製作の<北斗星><はまなす><海峡>についても踏襲された。後の<カシオペア>も同様である。
一方、88年11月3日改正における宗谷方面急行列車のキハ400/480系列への置替に際して、北海道旅客鉄道はこれらへのトレインマークの導入を決め、<宗谷><天北>用を直径890ミリにて製作した。そのサイズは、おそらく掲出位置となる貫通路幅やそこだけ下辺の低い貫通路扉窓とのバランスを考慮して決定されたものであろうが、その前頭部には馴染みの良いものだった。合わせて製作されたキハ54への<礼文>にも同様の印象を受けた。(<礼文>は86年11月改正でのキハ54置替時より、貫通幌枠に取付けの角形トレインマークを掲出していた)

ところが、あくまで気動車用と思われたこれが、翌年3月までに機関車牽引の夜行急行にも掲出されると、DD51のボンネット形状、ED76の幅狭の貫通扉と著しくバランスを欠くのだった。そして、それは89年7月22日(現地)を運転初日とする<エルム>にも採用されてしまうのである。青森側でのそれの着脱はないにもかかわらず、ED79用には通常の660ミリ径が用意されたから、東日本旅客鉃道管轄内への規格外品の進出は避けたものだろう。他社に顔出しの出来ぬなら、自社管内は云わずもがなである。
93年3月までに夜行急行が気動車化されてからは<エルム>にのみ残り、所謂イヴェント列車然として特急列車の威厳をぶち壊していたこれも、96年に至って耐用年数の尽きたものか直径660ミリの規格にて作り直され、ようやく永年の憂鬱の晴れたのだった。

落部の手前に存在する(石倉寄りから)第一/第二落部トンネルは、石倉-落部 (函館本線) 1992 に書いたように新設線上に建設された。1945年7月20日の使用開始時にはこれを上り線とした既設線と合わせての複線運転だったが、将来の既設線廃止と新設線の複線化を想定して当初より複線断面である。
写真は第一落部トンネルを出る8007列車<エルム>。
1989年3月11日改正で新設されたこの予定臨ダイヤでは、同年5月より集約臨や団体臨の運転実績があるが、多客臨は夏臨設定が最初の事例であった。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

小幌 (室蘭本線) 1994

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1937年、日中戦争の開戦により、当時に備蓄の十分でない重油・ガソリン等の燃料が戦略物資となり、加えて戦線への大量の物資輸送の要求から民間船舶が徴用されるに至って、内航海運の輸送力を陸上に転換する必要が生じた。さらには、続く太平洋戦争の末期に沿岸の制海権/制空権を連合軍に奪われる事態には、この陸運転換は至上命題となったのである。
道内においても、それまで小樽や室蘭からの海運によっていた本州への石炭輸送を青函航路を介するルートに振向けざるを得ず、列車回数の増加に対応して、東室蘭以南がほぼ単線の設備であった函館/室蘭本線ルートには多くの信号場の設置が計画された。中でも、静狩-礼文間は駅間12キロあまりで輸送上での隘路ではあったが、中間地点をサミットとする10パーミルと9パーミルの標準勾配区間で、しかもその大部分で隧道が連続しており、それの設置は困難とされていた。
ここで窮余の策とされたのが、サミットに近い起点17キロ付近で幌内隧道前後の僅かな明かり区間を利用して、長万部方美利加浜隧道内で左に分岐し、幌内隧道に並行する単線隧道を山側に掘削、岩見沢方礼文華山隧道内にて本線に合流する有効長800メートルの待避線を新設、機関車はその明かり区間に停車する「煙管式」とされた(勿論正式用語では無い)信号場の設置である。1943年9月30日に使用を開始した小幌信号場は、この区間の線路容量を50%程増大させる効果を発揮した。なお、この際に静狩-礼文間では連動閉塞が施行され、通票の授受を廃している。
今、「待避線を新設」と書いたけれど、実際の運用では上下列車とも既設線側を待避線として使用したものと思われる。推定事由は後に述べる。

現在の小幌駅の置かれるのは、上記の岩見沢方の明かり区間である。
ここを含む静狩-礼文間の複線化は静狩方が先行して、既設線の山側に新静狩(1924M)/新ねずみノ鼻(1236M)/新辺加牛(1893M)の各トンネルを掘削、新辺加牛トンネルは新設分岐側の幌内トンネル内で小幌信号場構内に接続とした。これを下り線、既設の美利加浜トンネルから続く開業時からの既設線を上り線とする複線使用開始は、1964年7月5日であった。この際に美利加浜トンネル内からの新設分岐部分は撤去されている。
礼文方は、礼文 (室蘭本線) 1998 で述べたように既設線海側に新礼文華山トンネル(2759M)を新設、抗口(入口)を小幌信号場に置いて静狩方への上り線に使用中の既設線に接続としたのである。(以下追記に続ける)

写真は、新辺加牛トンネルを高速で抜ける5015D<スーパー北斗15号>。
山間にて極端に光量が不足し、ISO320を以てしても絞り開放で描写の甘い上に、微細な被写体ブレを生じている。

ここには、60年代まで信号場職員が家族とともに住む官舎が存在し、文太郎浜やピリカ浜には漁師家も数軒在って、当然に走行可能なのはジープであったろうが国道(旧国道である現在の礼文山道)からの車道すら通じていたと云う。40年代からの陸軍や米軍による空中写真には、解像度の良く無い中にもそれらしきものが見て取れる。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから検索して頂きたいと思う。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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端野 (石北本線) 1973

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1973年秋の二度の道内行きは、スケジュールの立てようのない旅になった。
倶知安機関区 (函館本線) 1973 の記事にも書いたけれど、「マル生運動」の顛末とその後の長引く混乱に対する引責による、9月23日の磯崎総裁辞任に意気上がる全動労が合理化阻止の順法闘争を、そして処分覚悟の運転区所を指定した波状ストを展開していたからである。遅延しながらも長距離の優等列車は走っていたものの、普通列車や貨物には少なからず運休や運用変更などの影響が現れていた。
73年当時だから、二日先は読めぬ旅のターゲットは勿論蒸機である。まだ道央から道北道東の各線区にその姿が見られた頃だが、支線区の貨物列車は運休し本線系でも間引き運転が常態で、必然的に旅客列車を牽いていた室蘭本線と宗谷本線、石北本線系統を夜行急行で行き来することにはなった。それでも、区間運休なども生じていて駅で鉄道電話を借りては情報を仕入れ、撮れそうなところへ移動する毎日だった。

この日も釧網本線の網走-斜里間が平常運行との情報に<大雪6号>で網走へ向う折り、長時間停車の北見にて網走-北見間で区間運休と聞いていた522列車が運転と知って、それを撮ると決めたのだけれど、1527列車とは美幌交換とあって緋牛内への小さな峠越えとは行かずに、ここ端野に降りたのである。
降りてみれば、駅前に商店のひとつも無く、石造りに煉瓦造りの農業倉庫群の建ち並ぶ様に農業地帯の集散駅と知るのだった。駅本屋旭川方の貨物扱線にも下り乗降場向こうの側線にも貨車が溢れんばかりに留置されていたのは、運転の滞っていたこともあるだろうが、自動車輸送に浸食されつつあったとは云え農産物出荷に鉄道が活用されていた時代の証と取れる。

平坦区間だから発車して速度の乗らない内でないと煙は期待出来ない。上り方の構内外れで見つけた小さな踏切で列車を待ったのだった。今は、北見市街地外縁に呑み込まれて、この1キロ程先に愛し野駅がある。
遮断棹はもちろん警報機さえ無い第四種踏切を渡って往くのは、おそらく加工場にでも出勤する近所の人だろう。その細道を辿った先の車道(現道道1024号線)を駅方向に戻れば、それの道沿い、倉庫群を迂回した外側に市街地が続いていた。確かに貨物優先の駅だったのである。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1996

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稀府-黄金 (室蘭本線) 1998 の Kodachrome film を続ける。

コダクロームには高感度のPKL/KLがあった。主には高速シャッタを要するスポーツ写真分野向けに開発されたもので、シリーズで最後にラインナップされながら、その特殊性から最初に販売中止となったフィルムでもある。
これは、仕事写真にも用いたことがある。高感度ゆえの粒状感を逆用するだけのことだけれど、それでも外式フィルムの鮮鋭度を見ればEPNを上回って、ザラつきながらも独特のシャープな表現には最適だったのである。

リバーサルを鉄道撮影に持ち出すとTri-XのISO320減感に慣れた露出勘には、64や100の感度にリハビリが必要で、当初にはEPLやこのPKLを試していた。前者は発色が気に入らずに早くに脱落したけれど、PKLはだいぶ後まで、PKRと併用して早朝・夕刻の感度の必要な場面に使っていた。
発色はPKRとは真逆にマゼンタに転び、それはかなり強いものだったのだが、PKRほどに乳剤毎のバラつきは無かったように思う。中には、夜間のバルブで蛍光灯補正の必要のまったく無い乳剤があり、それでの夜景発色が気に入ってそのエマルジョンナンバーを買い集めたこともある。彩度もPKRに比べれば乗り気味に感じられ、それの高感度版と云うより別のフィルムであった。
けれど、エクタクロームのE100S/SWが発売となり、これのISO160露光の0.5EV増感現像を常用とするに至れば、ISO400への増感でも粒状性にカラーバランスも許容範囲にあったから、PKLの出番はなくなったのだった。

さて、これをスキャニングにてデータ化してみれば、粒子のザラつき感は十分に補正可能なレヴェルにあった。鮮鋭度はPKRに劣らないから、実用上それと同等の画質が得られたのである。ならば、これでもっと撮っておくべきだった、と些か後悔している。
写真は、薄明の噴火湾岸の6003列車<北斗星3号>。
黎明時間と通過時刻から選んだ1月半ばの時期なものの、8001と1列車には露出不足で30分後の6003列車で得られたカットである。背後の稀府岳からの吹き下ろしの凄まじく、夜明け前のここに立つのは憚られるほどだった。
食堂車では乗組員が準備に忙しいはずなのに、この朝はテーブル側に灯りが入っていない。
既出の画角だが、PKLでの撮影にてご容赦いただきたい。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f2.8 Fuji LBA2+CC0.5G filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1986

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アイヌ民族によりMakkari-Nupuriと呼ばれたこの山は、1868年に和名を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けられた。これを難読として地元倶知安町が、国土地理院に羊蹄山(ようていざん)への変更を申し入れ、これが受け入れられて以後にこの名称が定着することになった。そう古い話では無い。1960年代末のことである。
後方羊蹄山の呼称は、659年(斎明天皇5年)の阿倍比羅夫による蝦夷討伐を記した「肉入籠(ししりこ)に至る。時に、問菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(えみしいかしま)、菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、後方羊蹄(しりへし)を以て政所(まつりごとどころ)とすべし、といふ」との日本書紀の記述によると云う。後方を「しりへ」と、羊蹄を「し」と読む。
ただし、肉入籠が北海道島であり、後方羊蹄が現在の後志地域である確証はないらしい。
羊蹄山の名には、近代ご都合主義の胡散臭さがあって好みでは無い。個人的には狩太でお会いした老人に倣って、真狩山(まっかりやま)と呼んでいる。アイヌ語名のそれである。
森からの噴火湾岸の車窓に遥かに望んだこの山が、特急で2時間と少し揺られれば忽然と仰ぎ見て立ち現れる。いつも出来過ぎた演出と思っていたのだった。しかも、倶知安峠を越えるまで、と言うのも念が入っていた。

写真は、倶知安北方の防雪林区間での121列車、札幌行き。
函館運転所に23両の配置の在ったオハ50系列51形客車は、86年3月3日改正における江差線1723・1722列車と函館/室蘭本線123-243・240-126列車の気動車化により11両が捻出され、これにて函館-札幌間121・128列車と函館-小樽間125・124列車の旧客運用を置替えていた。財源となった気動車は、相次いだ特定地方交通線の廃止によるものである。
この赤い客車は随分と前からここに進出していたけれど、函館からの直通列車への運用は、これが最初の例であった。必然的に2往復とも青函航送の荷物車を組成して、この頃にはそれらもマニ50とマニ44に統一されていたから50系列での編成美を見せてくれたのである。
この121列車は、青函1便で送られた[北東航201]のマニ44と[名航1]のマニ50を組成した6両が所定であった。客扱いは札幌までだが、スジは荷扱の苗穂まで引かれていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

富良野 (根室本線) 1975

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富良野へ日中に降りた記憶は無い。富良野線とか落合に鹿越あたりで撮り終えてからの中継地として夜間に立ち寄るばかりだった。それでも、想い出すことはふたつある。主要駅らしく2面の乗降場を長く覆っていた木造上屋と、その下で営業していた竹内待合所の弁当販売所である。
切妻で傾斜のある大きく深い屋根は数多くの柱に支えられ、加えて、ここでは積雪に対応して軒に向けて長い腕木が付加されており、それの立ち並ぶ様は壮観と云っても良かった。近年までの名寄に稚内も失われ,残っているのは北見と釧路のそれぞれ第二乗降場くらいではなかろうか。木造の跨線橋とともに駅の存在感を強く印象付ける構造物ではあった。北海道型と云われる駅舎の保存すら聞かれない現状では、まして上屋をなど夢のまた夢だろう。

まつや竹内待合所がここに開業したのは1937年とある。(林順信氏の資料による-国鉄の旅 : 保育社1985年) 根室本線用の第一乗降場中程には、その当時からと云われても納得するような古めかしい竹内売店が置かれ、立食いそばの営業と駅弁当の販売が行われていた。それは木造の上屋に違和感無く溶込む、好ましい佇まいであった。富良野線の第二乗降場にも小さなの円形の販売所があり、売り子の老人がストーブを抱えるように座っていたのを思い出す。
竹内待合所は特殊弁当を調整していたでなく、幕の内弁当が用意されただけであったが、それを蒸篭で暖めながらの販売で、手に取れば水気を吸って撓った経木から温かさの伝わったのだった。冬ならば、しばれるホームで曇った窓と漏れ来る湯気に引き寄せられた。深夜、上下<からまつ>の時間帯でも灯りの点いていた記憶が在る。

写真は、2番ホームから発車して往く5D<おおぞら3号>。函館を出て6時間余り、終着まではまだ4時間の行程である。
この位置後方に在った運転詰所に断りを入れて撮っている。

2本の乗降場に変わりはないが、今では上屋は何の変哲も無い平屋根に架け替えられ、林立した柱も深い軒もなくなれば、そこに旅情も無い。
優等列車の減って80年代半ばには竹内待合所も撤退して、時刻表から弁当マークの消えていた富良野だが、近年に至ってそれが復活している。けれど、観光グルメとやらに便乗する免罪符的販売に過ぎず、深夜/早朝に買えぬのでは、もはや鉄道旅行者のものとは云えない。

[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4 Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

姫川信号場 (函館本線) 1982

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常紋信号場 (石北本線) 1971 の続きである。

戦後に、公共企業体「日本国有鉄道」の発足に際して、国有鉄道建設規程は1949年5月31日運輸省令第15号にて日本国有鉄道建設規程として引き継がれる。従って「信号場」と「信号所」の並立は戦後も続いたのである。
前回記事の繰り返しになるけれど、ここ姫川のごとく列車交換や退避に用いられ、必然として場内/出発信号機の設置の有るのが「信号場」であり、上下の場内信号機の内方がその構内となる。
対して、1) 停車場間本線上で閉塞境界となる線路分岐点や、2) 停車場間の可動橋や他線との平面交差箇所、3) 通票または票券閉塞式施行停車場間を2個以上の閉塞区間に区分する地点などに設けられたのが「信号所」である。ここには列車の停車(停止ではない)の必要が無く、よって内方を掩護する閉塞信号機が設置されて構内が存在しない。
1) は前記事にも挙げた奥羽本線の滝内をはじめ例は多く、2) の代表的例に佐賀線の昇開橋-筑後川橋梁に存在した筑後川がある。3) の例も存在したであろうが把握していない。これにて、通票閉塞の単線区間でも同方向に複数列車を続行運転出来た。
この両者の混同/用語の誤用は、主に1) の存在に生ずるものであろう。そこに停車の必要があれば外観の同一の信号機が場内ないし出発信号機と呼ばれて、そこは信号場に区分されるのである。
このように建設規程上では明確に区分された「信号場」に「信号所」なのだが、当の国鉄においても運転取扱規程では信号所は信号場に含められていた。そこに信号機の存することは運転上変わりないからである。従って運転局の作成する列車運行図表には、法規上「信号所」にもかかわらず信号場と同一に表記されていた。
なお、信号所を英文表記でのSignal Cabin、駅構内などでの信号テコ扱所(の建物)を指すとする情報も在るが誤りで、国鉄ではこれを信号扱所と云っていた。

一方、国有鉄道以外の鉄道線、すなわち大手を含む多くの私設鉄道線では戦前戦後とも、1919年4月10日法律52号の地方鉄道法と同年8月13日閣令13号による地方鉄道建設規程に準拠して建設/開業している。それら法規に「信号場(所)」の直接定義条項は含まれないのだが、法の第15条、規程の第23条に停車場と並立して「信号所」との文言が在り、国有鉄道建設規程での信号場/信号所双方に相当する施設が信号所と解せられる。
1969年3月29日の帝都高速度交通営団東西線の西船橋までの延長開業時に、駅としての開業を保留された現在の妙典は下妙典信号所を名乗っていたし、箱根登山鉄道の出山/上大平台/仙人台はそれぞれ信号所であった。道内でも美唄鉄道に東美唄信号所が路線廃止まで存在していた。鉄道会社によっては、それを信号場と呼称していたことも在るのだが、あくまで法規上には「信号所」である。
この鉄道線上の同一機能の施設に対して、国鉄の「信号場/信号所」と私鉄の「信号所」の混在が混同/用語の誤用に一層の拍車をかけたとして良いだろう。

けれど、その並立時代も1987年4月1日に終わる。
国鉄の分割・民営化に際して、日本国有鉄道建設規程も地方鉄道建設規程も廃され、それは鉄道営業法第1条規定に基づいて定められた1987年3月2日運輸省令第14号普通鉄道構造規則に一本化され、そこには「信号場」と規定されたのである。したがって、現在鉄道路線上に「信号所」は存在しない。ほぼ全てが「信号場」である。
誤用の生ずる余地は無くなったはずなのだが、「ほぼ」と付したのには理由がある。極めて少数ながら、実は「信号所」が存続しているからだ。
(この項、内地版の 鵯島信号所 (富山地方鉄道・軌道線[呉羽線]) 1984 へさらに続く)

ここ姫川信号場も、1913年8月1日に信号所として設置されている。この開通10年後と云う早い時期は、R300曲線の連続する20パーミル勾配の宿野辺(現駒ヶ岳)-森間の13キロが、列車増に対して当時の非力な機関車には早くも隘路と化していたゆえであろう。
写真は、駒ヶ岳を背景に雨の信号場へ進入する6201D<すずらん1号>。
<すずらん>系統は、80年10月1日改正にて既に定期運転は消滅していたが、この当時でも季節2往復の他予定臨のスジで3往復の設定が在った。かつての長大編成は姿を消して最大でも5両組成と記憶する。そのスジは函館運転所に投入された14系客車での運転と共通使用にて、機関車牽引列車の速度定数で引かれていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

稀府-黄金 (室蘭本線) 1998

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広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1996 に書いた、コダクロームフィルムの続きである。

良く知られているように、コダクロームは乳剤がロット毎に安定せず、PKRは基本的にグリーン系に傾く発色だったから、2.5から10までのマゼンタフィルタ(番号はFuji/TACフィルタ)を常備して、新しいエマルジョンならテスト撮影が欠かせなかった。もちろん、ラボの公表していた情報はチェックするのだが、それで「補正不要」とあっても転びは起きた。
ごく稀に、ラボ情報でも自分のテストでも信じられないようなクリアな発色のエマルジョンに出会って、直ぐに材料屋に発注するのだけれど、その時には既にコダクロームの大家と呼ばれる大先生らに買い占められていて、それはなかなかに手には入らなかったのである。

PKRのISO64は、鉄道のような動体撮影にはかなり厳しく、露出の制限は画角をも規定して撮影の自由度は抑えられた。高感度のPKLも在ったものの、鮮鋭度は確保してもその粒状性からは感度を要する撮影に限らざるを得ない。
その中で、98年には以前から限定的に行われていた増感処理が実用化された。テスト撮影で1EVへの増感なら実用範囲と判断したものの、撮影時にCC20Mフィルタの装着が必須との前提があり、その0.5EV分のフィルタファクタから実効感度は100を切ることになって、些か期待はずれでもあった。それでも、開放を多少なりとも絞れれば画質は向上したから、以後にしばらくはこれを定位にエクタクロームと混用していた。

室蘭本線が有珠山・昭和新山の麓を過ぎたあたりで、その右側天空に羊蹄山(真狩山)が忽然と姿を現す。函館本線の車窓に仰ぎ見るこの山を、ここに見るのは不思議な感覚もしたものだが、洞爺湖を間に挟み直線距離で僅か40キロ程だから、当然に望めるのである。
積丹半島から噴火湾岸に至る後志山系の独立峰ゆえ、噴火湾を前景に砂原から森、八雲あたりからも遠望は可能なものの、列車と画角に収めるならば黄金の前後区間と云うことになる。

写真は、それが列車後方の角度となる長万部起点62K700M付近のR1207曲線での6003列車<北斗星3号>。
10月の大気では、透明感が少し足りない。左は昭和新山。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250@f2.8 CC5M+LBA2 filter PKR Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1981

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豊浦駅は、かつて国鉄旅客局による便覧「停車場一覧」にて駅名が括弧書きされる接続駅であった。接続線は自動車線の羊蹄線に伊達線である。ここには、道南バスに移管される1996年3月まで国鉄〜JR北海道バスが発着していた。

それは、1947年12月27日に胆振線の喜茂別に喜茂別自動車区が置かれ、京極と喜茂別との間に区間貨物運輸路線の開かれたことに始まる。鉄道と連絡して、旧軍用車や進駐軍払下げの貨物自動車を用いた復興物資や民生品の輸送を行った路線である。(これの事情詳細については追記に別記する)
翌1948年11月3日には、旅客路線として豊浦-京極間/幸町-向洞爺間に羊蹄線が設定されるものの、引続き貨物輸送が主体であり旅客自動車(バス)の配属されたものかは怪しく、貨客混乗にて幌付きの貨物自動車の使われた可能性が高い。

1950年代ともなると、民生も安定して民間のトラック業者も復興したことから、これら区間貨物路線は1952年8月31日限りにて廃止され、それは一般区域貨物自動車運送事業となるも翌年までであった。
以後国鉄自動車は旅客輸送に専念し、日本国有鉄道発足後に自動車区から改称(1949年9月20日付)していた喜茂別営業所が、1955年7月1日付にて支所に格下げされ、それまでの豊浦支所が豊浦自動車営業所に昇格、同年9月5日には豊浦-稀府間に伊達線が開設され、これ以降の路線展開は室蘭本線沿線地域にシフトして往く。
そこでの路線拡充にともない、統括区所として機能は1960年7月1日に伊達紋別営業所(派出所を格上げ)に移され、豊浦は同所の豊浦派出所となるなどの変遷はあったが、豊浦駅は路線東端の拠点には違いなかった。

ここへ通うようになった70年代後半以降には、周遊券やその後の企画券でも乗れたから洞爺/伊達紋別から豊浦駅、東雲町停留所に礼文駅前停留所、エントモ岬への中学校前停留所、若生停留所に西長和停留所へと、列車の設定の無い時間帯に便利に乗っていた。礼文線は早いうちに無くなってしまったのだが、調べてみると1979年11月20日にて休止とあった。

1981年2月28日付で派出所より降格されていた豊浦駐在は、1983年12月1日を以て廃止され、豊浦は自動車線の駅機能を失って接続駅から除外された。それでも、豊浦駅前停留所が置かれて駅前広場に国鉄バスがやって来ることには変わりなかった。このようなルーラル地域に見る国鉄の列車と自動車線との連携は、「国民の国鉄」を象徴する景観に違いなかった。
それまでの駅出札窓口はバス駅も兼ねて自動車線経由の鉄道線接続乗車券なども売っていたはずで、それを一枚もコレクションしなかったのは悔やまれる。

写真は、豊浦駅西方貫気別川橋梁からの盛土区間での245列車、室蘭行き。この頃、今はワンマン運行の気動車も、51形客車化されたとは云え堂々の編成列車であった。
これは、1981年最後の日没なのだが、初日の出に対してそれは何と呼ぶのだろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/f2.8S 1/500sec@f4 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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常紋信号場 (石北本線) 1971

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ここ常紋信号場は、1914年10月5日に湧別軽便線の常紋信号所として開業している。
広義の鉄道用語において、永年に指摘されながらも相変わらず混同/誤用の多いのが、この「信号場」と「信号所」である。

国内における最初の統一された鉄道の技術基準は、1900年8月10日逓信省令第33号の鉄道建設規程である。その第16条に「連絡所」「信号所」の規定がある。直接的に定義のなされるでないが、閉塞施行の停車場間を区分する地点には信号所を要する、と条文後段にあり、それは現行の信号場に相当する設備と解せられる。
連絡所なる施設名は、この規程の他には見られない名称で、それは停車場外において複数の線路が分岐/合流する地点であり、そこには常置信号機を設置するよう規定されて閉塞の境界に違いは無く、実際には上述の条文にて信号所と同等に扱われたものと思われる。

この規程は、その後に政界を二分した「鉄道改軌論」の論争を経て、1921年10月14日鉄道省令第2号の国有鉄道建設規程に全面的な改定が行われた。ここで、第4条に停車場のひとつとして「信号場」が定義され、それは「驛ニ非ズシテ列車ノ行違又ハ待合セヲ為ス為設ケラレタル場所」とされた。現在まで引き継がれる定義である。これに従い、ここ常紋信号場を含む国有鉄道上の「信号所」施設の多くは、翌1922年4月1日を以て一斉に「信号場」へと改称されたのだった。以降現在まで、これらは「信号場」である。
ところが、この規程では、第5条に「信号所」の呼称も生き残る。「停車場ニ非ズシテ手動又ハ半自動ノ常置信号機ヲ取扱フ為設ケラレタル場所ヲ謂フ」がその条文全てである。

これの解釈に混乱の在ったものか、この国有鉄道建設規程(旧)を改定した1929年7月15日鉄道省令第2号の国有鉄道建設規程では、その第6条に条文を引き継ぎながら、わざわざ、信号場は構内を有するけれど、それを持たないのが信号所、との注釈が付けられた。すなわち、旧鉄道建設規程の「連絡所」を引き継いで、停車場間の本線上での本線同士の分岐地点に設置の施設を区分したものであり、閉塞境界にて常置信号機(掩護信号機)を要するけれど、単純な分岐につき場内や出発信号機は設置されず、構内(=場内)は存在しないものとされたのである。ただし、ここで分岐双方の本線への折返し運転を行うのであれば、出発信号機を要して信号場に区分される。
道内での例を知らないのだが、奥羽本線の津軽新城から東北本線浦町間に1926年10月25日に開通した貨物支線の実際の分岐点や、1931年8月10日の米坂線(当時は米坂東線)の今泉から手ノ子延長に際しての長井線との共用区間からの分岐点などは、これに従いそれぞれ「滝内信号所」「白川信号所」と呼ばれた。当時は勿論有人施設である。

こうして、戦前期には「信号場」と「信号所」が並立していた。それぞれ役割の異なる施設なのだが、その形態からは判別の付け難い施設も在り(特に信号所)、当時に鉄道は軍事機密であったことも手伝って正確な情報の伝わらぬままに混同が始まったものであろう。
(この項、姫川信号場 (函館本線) 1982 に続く)

写真は、常紋信号場着発2番線に停車する1532列車上川行き。夏とは云え、もう西陽も傾く頃である。
この当時、ここを運転する全ての普通列車が停車し客扱いしていた。もっとも、乗降するのは鉄道写真屋の他には皆無であったろう。古い記録を見ると、着発線の双方に短い乗降台の設備された様子が伺えるのだが、この時点でそれは見当たらない。
後方に植林地が見え、ここからのカットも発表されている。当時には何分に初心者ゆえ、そこに登ることなど思いつきもしなかったのが悔やまれてならない。蒸機の無くなり、信号場から喧噪の消えた3年後にそこへ向かうのだけれど、既に樹木の生長してままならなかった。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

七飯 (函館本線) 2003

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七飯 (函館本線) 1981 の続きである。

その撮影位置は、今では地面ごと無い。2001年3月24日にここに開通した国道5号線バイパス函館新道の用地となり、切り崩されたためである。
1980年代半ば頃には、その近くで宅地の造成が始まって新たな俯瞰ポイントとなり、そこへ立つことも無くなったのだけれど、90年頃から函館線の車窓に耕作の放棄され荒地化するのが見て取れて訝しく思っていたところ、理由はそう云うことだったのである。
城岱牧場への新道となる町道上藤城8号線(通称-城岱スカイライン)も開通して旧道となった山道は、この工事にて入口部分が付け替えられ、そこの水路とともに新道をくぐり抜けて斜面を急坂で上ることとなって、周囲の樹木も伐採されたから桜町造成地より高度のある位置が得られるようになった。切取り斜面にはタラップも設置されて、さらに高さも稼げる。水路寄りの斜面なら上磯方向の海峡を大きく背景に画角が組めた。なお、この旧道は町道桜町8号線、造成地は町営桜町団地と云う。

高架橋からの盛土区間を往くのは、3051列車。ここでのDF200の仕業も増えて来た頃である。
曲線を描く高架橋区間を内側から見る視点の失われたのは残念なのだが、西に寄った太陽の斜光線を受ける位置でもある。午後の<ニセコ>も無ければ、生ずるフェイズを避けての夕刻向けのポイントと知る。
斜光線の照度と色合いなら晩秋に限るけれど、天候の安定しない時期でもあって幾シーズンか通うことにはなった。
最近では、2011年にもここに立ったけれど、その向こうに新幹線の高架橋が立ち上がりつつ在り、その完成までは封印せざるを得ない位置となっていた。さて、それの開業の暁には藤城線は貨物専用線と化すのであろうか。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1981

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駅前を進んで二つ目の角を左折、後は道なりに直進。突き当たりT字路右折で、すぐに国道。向かいに消防署。
その脇道を進み、斜め交差を左道へ。跨線橋で線路を越えて農家脇を直進し、線路下をくぐる。
道なりに杉林を越えたところで、右の畑作地斜面を登る。
.................................................................................................

このポイントへの行き方を、当時のメモにはこう記してある。杉林から先は城岱牧場への通行路となる山道である。
駅前からして、今程に住宅は密集していないから、道すがらの多くは畑を見て歩くことになり、家並みも疎らで高架橋は樹林帯の向こうに見え隠れしていた。

蒸機の無くなった後だから1975年頃と思う。下からばかり撮っていた七飯の高架橋の俯瞰を目論んでポイントを探していたのである。当りを付けていたのは、勿論城岱牧場へと続く七飯岳の裾野斜面で、五万図にあるそこへの山道や送電線下の保守用通路なのだが、随分と歩き回っても開けた視界は得られずに、結局は辿り着いたのがこの最初に見つけていた畑作地であった。目論みに反して其の位置はかなり低いのだけれど、「高架を見通せ、手前側に曲線区間も見下ろせる」とメモにはある。
ロケハンはしたものの、このとおりに些か期待はずれもあって塩付けにしてしまい、ここで撮り始めるのは80年代に入ってからのことであった。

眼下には103列車<ニセコ>が10パーミルを駆け上がって往く。
C62蒸機の牽引の無くなって、スロ62の組成を除けば遠目には普通列車と変わるところのなかったこの列車も、14系客車への置替後にはターゲットに復活して、一日のスケジュールはそれを中心に組んでいたのである。撮影の重点度で云えば、今の寝台特急列車に匹敵する。
このポイントもそれに活用したのだけれど、通過時刻の15時少し前の時間帯は、晴天ならば太陽を正面天空に見ることになり、高架橋方向にはフェイズを生じてしまうから、これに限れば寧ろ曇天を選ぶべきポイントであった。
この日もそれに違いないのだが、降雨寸前の曇天では背景にはモヤが降りてしまうに変わりはない。

同じメモでの「到達時分推定60分」は、後年に横線で消され「80分」との訂正が入っている。確かに、ずっと上り坂の続いて遠かった記憶が在る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 12] 国鉄北海道総局 (函館本線・札幌) 1984

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カメラ(敢えて写真とはしない)と旅ジャンルからのかつてない参入者数により、その分野だけが歪に膨らんでいるのが鉄道趣味の現在である。それ自体は従前より在る事象で珍しくはないが、桁違いのその数に、少なくとも古い鉄道屋にはそう見える。
休日に列車で遠出でもすれば、沿線には多くの撮影者の姿が認められ、普段都内と往来する小田急線からもホームでカメラを構える人々を日常に目撃する。撮影適地に参集する数は、70年代初頭のSLブーム末期を上回るであろう。
ディジタルカメラの急激な普及と性能向上にWeb上での個人レヴェルの情報発信の容易化が、それの後押しをしているのは明白で、初心者の慣例に従い駅乗降場や線路際に集う彼らが、鉄道側や地元住民と軋轢を生じさせるのも、個々人の資質もさることながらその数によるところも大きい。早くにそこを離れないと鉄道「写真」分野には参入出来ぬと伝える他ない。

反面、最近に報道される「線路内立入りによる列車の緊急停車」事象の一部には、鉄道側の過剰反応とも思える節が在る。これは、四半世紀を経過した国鉄の民営化と決して無縁ではない。勿論、マスコミの過剰反応もあるが、ここでは触れない。
現場を目撃した訳では無いから断定はしないけれど、中央本線鳥久保踏切での事例も、奥羽本線神宮寺-刈和野間での例にせよ、鉄道用地内には違いないが架線柱建植位置の外側の様子である。どちらも現場を直前に通過した列車の乗務員が運転指令に通報し、指令員が接近しつつあった列車に緊急停車指令を出した結果であろう。(当該列車運転士がそれを目視して停車と報道にはあるが、それでは止まりきれない。指令により徐行で接近した後に対象を目視して停車と思われる)
おそらくは、旅客鉄道各社においては前記のごとき昨今の事情に鑑みて、鉄道用地内立入り等に対する規制の厳格化の内部通達が出されているものと推定される。それを厳密に適用すれば、その位置にかかわらず立入り者を確認すれば即通報と相成り、反すれば民間会社の社内規定により処分もあり得えるのである。民営化に至る過程での労働者選別の記憶は分割会社に深く刻まれ、運転士と云えども民営会社の一従業員意識の浸透したのが、この四半世紀である。
通達は、民間の株式会社とすれば当然の自己防衛であり、しいては株主対策のひとつなのである。万が一、事故の発生すれば防護策を講じなかった鉄道側にも責任を認めて来た、日本での裁判所判例が背景に在る。云うなれば、撮影者の与り知らぬ資本の論理が過剰な反応を引き起こしているのである。
悲しいかな、線路際撮影は大半の乗務員が通達にもかかわらず黙認してくれていることで成り立っている。これは肝に命じねばならない。

とは云え、教条主義的な自主規制を叫ぶ声にも賛同出来ない。前に、地方小駅のホーム上にて撮影していたところ、同業と思しき男にホームは三脚禁止だと執拗に迫られたことがある。利用もほとんどない駅の停車位置からも離れた端部である。要は常識で判断すれば良いのだが、自分の頭で考えぬ輩には通用しないのである。とあるブログで見かけた「危険行為の痕跡」なる告発も、鉄道用地内には違いなかろうが、写真を見る限りでは危険は感じられなかった。
これらは、近年話題となったマイケル・サンデル ハーバード大教授の語る「正義感覚」に通ずる、いわば「直感の正義」であろう。けれど、それは直感であって論理ではない。危険の回避や他者への影響を考慮した自己の規制は当然であるが、それを以て公の規制とする気には到底なれない。
公共企業体である国鉄の用地は、鉄道の開業以来国民が永々と支払い続けて来た運賃収入を原資として取得されたもので、言わば国民の財産なのだった。国鉄自身もそのことは良く理解していて、鉄道営業法を盾にして無下に公衆を排除することはしなかったのである。それが、在る日極めて政治的に民間会社が設立され、当の会社に社有地意識が浸透し、公衆側にもそれの認知が強いられたのも、この四半世紀である。何が何でもそこに立ちたい訳ではない。されど改革の名の下に行われた理不尽な土地収奪劇も忘れるべきではない。自主規制も似合わぬ所以である。
付記すれば、最近では会社側からの要請でもない限り、報道の取材立入りに関しても構内/沿線での作業者同様の安全講習会への事前参加を求める動きがある。公共事業者にもかかわらずのこれは、閉鎖体質の進行とも見て取れ危惧する。有り体にいえば、巷に云う「東京電力化」であろうか。

さて、鉄道用地に踏み込まぬまでも、撮影に臨む以上、立ち位置は大抵の場合私有地である。そして対象の鉄道は広義に社会財である。自主規制を声高とする以前に、それを撮らせてもらっている、撮らせていただいていると云う「謙虚さ」を参入者各人が持てば、それで十分である。

写真は、旧札幌駅舎3階に在った国鉄北海道総局の玄関脇に掲げられていたプレート。
ここへは、それが必要と判断すれば許可を請いに訪れたものである。現業機関では無いから要件の済まぬこともあるが、それでも請願先の現場への手配は整えてもらえた。個人の立場にかかわらずの真摯な対応だった。

塩狩 (宗谷本線) 1986

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塩狩温泉の休館(廃業)を知ったのは、それが廃墟化しているとの情報を得てからだから、ずいぶん後になってのことだった。
蒸機の時代から存在は承知していたものの、そこに宿泊したのは85年から86年の宗谷本線/天北線をメインに渡道していた頃に一度きりで、それが最後である。
旭川に近い位置ゆえ、撮影後に移動すれば函館線内の何処かで各方面への夜行列車を捉えられたから、そこに宿を取ることなど考えもしなかったのだけれど、<宗谷><天北>が客車化されたとなれば、腰を据えてみようと云う気にはなる。それに、早朝から峠に立てば蘭留まで回送のDE10を後部に従えた322列車や、それを前補機にした貨物列車2本を狙えたのである。この頃、陽の長い時期なら、これらを加え最大10本の機関車牽引列車を撮れたのが塩狩であった。

宿は「塩狩温泉観光ホテル」と名乗っていた頃で、簡素だけれど清潔な部屋に、風呂は内湯だけで露天は無かったはずである。19時過ぎにと頼んでいた夕食はニジマスの料理、酒は旭川の伏見男山だったと記憶する。
いくつかの池が配された庭園が見事で、それは内地の温泉旅館のものと明らかに異なる北海道の景観であった。ニジマスは、その池で養殖しているものと聞いた。
今でも営業していたならば、2・3日逗留してキハ261系特急とじっくり向き合うのも悪くはなかったことだろう。
2005年9月の休業後には、新たな引き受け手を探したと云うが、それはならずに廃墟と化しているらしい。最近ににここを再訪した際も見に行ってはいない。

写真は、暮色の峠を下る304列車<天北>。
沿線によく設置(放置?)されていた列車見張台からの撮影。無風だったが、深々と低下する峠の冷気に堪えながら列車を待つのだった。
この頃の塩狩駅は、引続き要員配置は在ったものの、それは連査閉塞を扱う運転要員で旅客窓口は既に閉ざされていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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細岡 (釧網本線) 1982

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70年代から、年に幾度かの道内行きには必ず組み入れて通った釧網本線だけれど、96年の秋以来一度も撮っていない。その当時も既にそうだったように、新富士-中斜里間に1往復のみ残された貨物列車を除けば、気動車の単行ばかりで、貨物が翌年3月改正で廃止されれば「撮る気」の失せてしまったのである。
何も単行列車を嫌う訳ではないのだが、かつての機関車に牽かれた混合列車や、それの廃止後でも編成を組んでの急行列車を見慣れた眼には、なんとも物足りないのだった。

この線区の観光資源化を進める北海道旅客鉄道釧路支社により、89年と90年から釧路湿原とオホーツク海沿い区間に観光列車が設定され、それは機関車牽引の編成列車ではあったのだが、初代の車体外部塗色に、現行の2代目も開放型構造の車体には遠慮申し上げるしかなく、近年の14系客車が石炭ストーブを搭載されると云う思いもかけない晩年を送る蒸機の展示運転列車も然りである。
機会の比較的多い、団体向け気動車編成の運転は撮りたい気もしているのだが、沿線への人出を思うと足が向かない。
もっとも、この観光列車も乗るには楽しい列車で、二回ずつ「乗り」に行っている。その際の移動で見かけた猿間川橋梁は、ここも河川敷の樹木が成長して1両分程の見通ししか利かなくなっていたから、それを撮りに往くべき時なのかも知れない。

写真は、釧路湿原区間での612D<しれとこ2号>。キハ56/27の2両が網走行き、後ろの2両は標茶から標津線に入る中標津行きである。
こう云う鉄道風景が、さしたる苦労も無く撮れてしまうのもこの線区の魅力ではある。
ここに、キハ54のステンレス車体の単行列車も悪く無い、と思い始めているのはリハビリの進んでいる証か。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/250sec@F8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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