"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

猿払 (天北線) 1986

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猿払、最後の夏である。
ここが線区とともに廃駅となるまで、まだ3年半を残すのだけれど、この年の11月改正にて猿払は閉塞扱を廃止し中間駅となるのである。上り方下り方の分岐器に場内/通過/出発の信号機は撤去され、第二乗降場は不要となる。もちろん要員は引上げられ、無人化される。

もっとも、貨物列車のスジの無くなった84年2月改正以降、所定ダイヤではここでの列車交換の設定は無くなっており、朝方の3本と夜間の2本列車には浜頓別-鬼志別間で併合閉塞が施行されていたから、閉塞は急行を含む日中の8本列車に扱うのみであり、何時廃止されても不思議の無い状況だったのである。
浜頓別-鬼志別間に在った閉塞駅の内、山軽/芦野が60年代末に、ほぼ中間に位置する浅茅野が73年9月と云う早い時期にそれの廃止され、猿払が残された事由は解らない。81年度データでの乗車人員も浅茅野が上回っていた。
ともあれ、ここは86年10月31日まで旅客駅で在り続けた。但し、併合閉塞施行の時点で駅長は廃され、浜頓別の管理駅となって運転要員はそこからの派遣であった。(なお、この際に音威子府方から上り本線への進入/進出ルートが確保され、以来第二乗降場は使われていない)

この時は、札幌での用務の際に足を延ばしている。いつも撮影でお世話になっていた牧場主に、そこからの写真をパネル化して届けに赴いたのである。撮影機材と一緒ではとても持ち歩けない。
<利尻>で音威子府から入り、廃線後の興浜北線を眺めてから牧場を訪ね、この日は稚内に泊まって翌日に空路で帰京している。

列車は、駅員の監視にて発車して往く724D音威子府行き。見慣れていた光景だが、やはり良いものだ。
北オホーツクの短い夏は、もうすぐ終わる。

[Data] ContaxT CarlZeissT*35mm/F2.8 Aperture-Priority AE(f5.6) Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1998

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戦後の逼迫する輸送需要に対する国鉄の投資計画は、1961年度を初年度とする第2次5ヵ年計画、それを打切っての65年度からの第3次長期計画ともに「幹線輸送力の増強」が重点項目であり、この室蘭本線も道内各方面からの本州連絡線として投資対象とされた。この時点でも本州線への全貨物列車が運転されていたし、61年10月改正で設定の道内初の特急列車の経由線となるなど、将来的に函館本線からのシフトが想定されたためである。夕張地域からの石炭輸送線として1958年の敷生(現竹浦)-萩野間を最後に本輪西・室蘭-三川の複線化の成っていものの、本輪西以西区間は全てが単線のままであった。
この礼文華山トンネル(2726M)への取付けとなるR603曲線の築堤(鉄道土木用語では盛土)を含む小幌信号場(当時)-礼文間の新設線は既設線海側への腹付け線増とされ、64年3月28日に新礼文華山トンネルから着工して、67年9月29日よりこれを上り線として複線使用が開始された。66年撮影の空中写真には、工事途中の腹付け構築された盛土区間が見える。
同区間は、必然的に新設線も既設線同様の10パーミル勾配であるが、小幌信号場から1.3キロ余りを1.5パーミルで上り、起点18K769M地点で49M90の施工基面高に達した後に10パーミルで下る縦断線形の礼文華山トンネルに対して、新設線の新礼文華山トンネル(2759M)は小幌を最高地点とした連続5パーミルの設計にて上り列車への勾配を緩和している。

写真は、浅き春の淡い夕陽を浴びて築堤を駆け上がる8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここへ立つには配慮が要る。早いもの順の掟とは云え、国道あたりからの俯瞰をねらう撮影者には余りに申し訳ない位置ゆえ、上りの後追いともなれば撮る者もなかろうと判断してのポジショニングである。

余談ではあるが、前記の空中写真には1947年10月31日まで存在した鳥伏信号場の待避線兼加速線跡が僅かながら確認出来る。国道の新道(現国道37号線)建設にて失われたものと思っていたので、それの開通直後の写真に見えることは収穫であった。ならば、現在でも国道下の樹木に覆われた斜面に人為的な土工地形くらいは残っていることだろう。
その国道も切取り/盛土個所にまだ植生がなくて白く見えている。80年代後半くらいまでは、高度の在る位置も含めてこれらも室蘭線の築堤区間を見通すポイントだったのだが、樹木の成長にて叶わなくなった。

[Data] NikonF3P+Ai NikkorED180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6+1/3 Fiji SC42 filter PRP Edit by CaptureOne5 on Mac.

小沢 (函館本線) 1975

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1960年代には、両親の故郷である水戸と札幌を家族で何度か帰省旅行していた。日着は困難で行路の何処かが夜行とならざるを得ない当時のダイヤでは、乗車距離の長い常磐/東北線内をそれに充てることが多かった。青函の深夜便は子供連れでの深夜・早暁の乗下船を避けたものだろうし、水戸が午前着、帰路には夜の出発で良いのは時間的にも好都合だったのだろう。この本州連絡チャンネルなら、行き帰りとも道内は<まりも>の乗車となった。

蒸気機関車の珍しい時代ではないが、それでも道内にここしかいない大型機C62の2台運転列車に乗るのは誇らしく、ブラストの連続したような走行音に驚きもした。レギュレタ全開でカットオフを50%に伸ばした山線独特の高速走行と牽引力を両立させる運転法によるものとは、当然ながら後年に知る。
下りの渡島大野から後部に機関車が連結されるのにも興味を惹かれ、後補機と云う存在を知るのはこれが最初と記憶する。五稜郭へのD52の投入以前ゆえ、それはD51だったはずである。
スハ45/スハフ44は、近代化改造工事の施工前とは云えスハ32やオハ35とは明確に区別されていて、急行列車にしか運用されぬ時代である。子供の眼にもそれは上等の客車と映ったものだった。下りの夕食、上りの昼食に食堂車へ行くのは楽しみであり、マシ35車内の造作も日本食堂の従業員のエンジ色の制服も良く覚えている。時期的にはスハシ38も体験していると思うのだが、それと明確な記憶がない。
65年には、このチャンネルに<北斗><ゆうづる>が設定される。けれど、特急など未だ高嶺の花の時代で、家族は引き続き<ていね>の乗客であった。

道内撮影に東京から通い始めれば、<ていね>改め<ニセコ>は「乗る」でなく「撮る」対象だったけれど、スロ62の組成を除けば普通列車とさほど変わらぬ姿で、森の海沿い区間で最後のC62を見送った後には、あまり撮ることもなくなっていた。
写真は、小沢に停車する103列車<ニセコ2号>。
列車としての魅力は乏しくなっていたけれど、本州連絡の重要列車に違いは無く、曇った車窓越しに見る車内の華やかさは急行列車のそれであった。

[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2 Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

函館 (函館本線) 1978

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[函館 (函館本線) 1988 から続く]
1993年以降、機回線を含む5面10線にて運用されて来た函館駅は、2001年4月26日に駅本屋建替計画にともなう構内改良工事が起工され、それは5月9日を第一回として以後2002年1月31日まで延べ40回の線路閉鎖をともなう大掛かりなものであった。深夜のそれにより、その実施日には下り<北斗星>に上下<はまなす>が五稜郭-函館間を運休し、時刻表にも記載されたのでご記憶の方も多いだろう。
特に2001年8月25日には15時より15時間に及ぶ信号の現示停止がなされ、この間手信号により最小限の列車運行を確保しながら、翌8月26日に有効長357メートルに及ぶ第6乗降場(9・10番線)と外側の機回線(11番線)が運用を開始した。これは、新本屋建設に支障して撤去される第1/第2乗降場(0-2番線)と有効長が70メートルにまで短縮予定の第3乗降場(3・4番線)の代替となるものであった。
同年9月27日には0番線を廃止して3・4番線を使用停止。翌2002年1月31日には1・2番線を廃止し、電車線設備を撤去の上で3・4番線を復活、合わせて跨線橋を廃して各乗降場の端部を連絡する地平通路が設けられた。この際にホーム番線の3-10番を1-8番に改める現況に移行し、一連の構内改良を完工した。

構内のコンパクトに一新された函館駅であるが、ここで注目すべきは現行の第1乗降場である。それは、70メートル程が残されるのみとは云え、気動車特急が13両の長大編成を横たえるなどした、かつての優等列車ホーム「函館第2乗降場」の北端である。早暁のここに立って、3番・4番線ホームに並ぶ<北海><おおぞら>を眺めた経験をお持ちの方は多いだろう。位置は動いていないから、ここを基準にかつての構内を想起することも出来る、旧函館駅唯一の遺構である。
駅舎建替には触れなかったが、この2代目函館駅で4代目となる新駅本屋の供用開始は2003年6月21日であった。

写真は、旧跨線橋から暮色の北側構内を見ている。右が旧第1乗降場、左が旧第2乗降場である。この日、遅れの16D<おおとり>は、まもなく定時で到着する6D<おおぞら2号>に4番線を譲り3番線の到着となった。この北端部分が現第1乗降場として残る。

ところで、現在、旧函館シーポートプラザ建物に隣接して「旧函館駅所在地」なる碑が置かれ、0キロポストを模した石柱が存在している。これは、1962年の函館駅開駅60周年事業として、1902年12月10日に海岸町に開業した初代函館駅の跡地とされる公園に建てられたもので、どのような経緯か知らぬが1990年にここへ移設されたのである。このような歴史を無視した暴挙は考えもので、そこに存在する意義の全く無いものであるばかりか、案内板の併設されるものの一読しては解り難く、史実を知らない者に誤解を与えかねない。

参考文献 : 道南鉄道100年史「遥」北海道旅客鉄道函館支社 2003年

[Data] NikonF PhotomicFTN+AiNikkor50mm/F1.8 2sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptuerOne5 on Mac.

女満別 (石北本線) 1971

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網走に駅ネした翌朝のこと。1往復だけとは云え急行も停車した女満別町の中心駅なのに、早朝の札幌行き急行から降り立った駅前は農業倉庫ばかりだったことに戸惑った覚えがある。それは駅前の狭い広場を取り囲むように何棟も建てられて視界を阻むのだった。市街地はそれを回り込んで到達する国道39号線の向こう側に在った。その国道沿いの駅寄り側にも倉庫は建ち並んでいて、周辺農業地帯の中心的集荷駅だったのだろう。側線には多くの貨車が押し込められ、駅裏側にはカントリエレヴェイタまでも設備されていたのである。

今、ここには駅ビルのごとき三階建てビルが建てられるのに驚く。1990年に改築されたそれは、女満別町(現大空町)の施設(図書館)との合築駅舎と云うが、駅設備(待合室)はその一角に間借りするに過ぎない。近年に、ここへ降りたことはないけれど、通り過ぎる列車から見れば、ビル裏手にひっそりと発着する様相である。
ここに上下の乗降場を結ぶ跨線橋設備は、かつても現在も無い。一部に、1974年に設置との情報があるけれど、それは駅前と網走湖畔の温泉を結ぶ人道跨線橋を指している。この当時には、それも無かったから73年にここでの駅ネを断られて、国道を遠回りしての湖畔の宿まではずいぶんと遠かった。→女満別 (石北本線) 1973

写真は522列車。旭川から832列車となって小樽まで直通していた。その所要時分は13時間である。
夜行急行とともに石北本線内の荷物輸送列車で、それの全廃まで気動車化されることは無かった。
ここで列車交換となって下り本線に停車しているのは、夏季輸送期多客臨の8519列車<大雪52号>、斜里行き。蒸機急行だけれど外観は普通列車と何ら変わらない。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1996

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屋内撮影が大半だった仕事写真のエクタクロームフィルムを、鉄道撮影で屋外に持ち出してすぐに気がついたのは、EPR以来の隠し味的なシアン系発色は紫外線の豊富な逆光下での遠景など一定の条件にて増幅され、それに転んでしまうことだった。当時に常用のEPPはまだしも粒状性の改善されたPRP、そしてE100Sとその傾向は強まり、発色の高彩度化との関連は明らかに思えた。EPNへ戻ることも考えたが、その粒状性は35ミリには時代遅れでもあった。
もちろん、SCやCCフィルタでの補正に試行錯誤したけれど完全な回避には至らずにいる。

加えて、エクタクロームは環境の色温度に、ことさらセンシティブでもあった。
光源の種類が知れて色温度を計測しておけば、或る程度の予測は立って一定のLBフィルタを使い分ければ良かった仕事写真に対して、自然光下のそれは変動するからデータを採りながら経験を積むことになる。
難儀だったのは降雪ないし降雨中の日出/日没時間帯だった。肉眼には明確でないのだが、天空雲上での太陽高度と雲の動きにより色温度は絶えず変動することがあり、5分前の列車への補正不足は、その5分後に補正過剰もあれば、まったく同じ天候に見えても色温度には大差の生ずることも多々あった。それこそ1分毎に色温度を計測し、フィルタホルダを差し込み式に替えて迅速対応するしかなかった。

写真は、第一広内トンネル入口側から続く12パーミルを上る9070列車。これはコダクロームでの撮影である。
これら、紫外線への反応や色温度変動に一定の耐性を持っていたのがコダクロームフィルムだった。エクタクロームの時代は、この使いたくても使えない難儀なフィルムと向き合った頃でもある。(この項続く)

オダッシュ山東側山麓の緩い傾斜地には、1947年に北海道立新得種畜場が置かれた。この緩斜面の大半を占めるその用地規模は実に広大で、この年に米軍の撮影した空中写真には、既に現在の新狩勝信号場付近にまで達する範囲に碁盤の眼状の農道が開かれているのが見て取れる。
狩勝新線は新狩勝トンネルから新得山トンネルまで、そこをほぼ360度回転する曲線を含む線形で通過して、旧線とはまた違ったスケール感を見せることになった。
かつては、ここを往く普通列車が信号場に停車して、新得からの足は確保できたのだが、そこからは、広大な用地の直線だけれど大きな起伏のある農道を延々と歩かねばならない撮影地であった。
無雪期はそれで良いにしても、初めての冬の季節には、そこをラッセルしての行動か線路歩きで到達可能な範囲での撮影を覚悟して信号場に降り立ったのだけれど、意外なことに全てではないにせよ、主要な農道は場内全域に渡り除雪されていたのである。信号場への往来に国鉄からの要請もあったのかも知れないが、それと無関係な区間も含まれていた。
これは後にも変わらず、おかげで信号場に下車出来なくなった後も、大方の位置には冬期間でも自動車でアクセス出来る。ここへは、新得のタクシーに「試験場の斜めガード」と告げれば連れて行ってくれた。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6+1/2 Fuji CC5M filter PKR Edit by CaptureOne5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1984

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1983年1月10日からの石北本線全線でのCTC施行により運転要員の引上げられた常紋信号場には、これに対応して分岐器の集中する核心部分にスノーシェッドが設備され、構内の様相は一変した。
この当時の、82年11月15日改正ダイヤにおける着発線への入線列車(単行機関車列車を含む)は1日7本を数えていたのだが、貨物列車の削減を伴った84年2月1日改正でのそれは4本(同前)となり、これ以降にここの重要度は低下して往くのである。続く85年3月14日改正ダイヤでの1本列車からは、早くもここでの列車退避を回避する傾向が読み取れる。
86年11月1日改正では夜間に2本の特急列車からの退避が設定されたものの、88年3月13日改正以降には、進入進出の進路構成の機能維持のため昼間に普通列車の1往復がここで列車交換するダイヤとなっていた。ただし、それは72年3月14日改正以降に見られなくなっていた着発線に2本列車の並ぶ光景の再現ではあった。そして、2001年7月1日改正にてそれを金華交換として、ここの運用は停止されたのである。

以来10余年、未だに廃止されない事由は解らない。
列車退避機能の停止にて閉塞上はその区間の中間駅、所謂棒線駅と変わらないのだが、着発線/引上線とも本線からは切り離されずに分岐器が存在するから上下の場内信号機は生きており、運転上には場内が存続している。保線のモーターカーなり除雪機関車の着発線進入があるのだろうか。

着発線に停まるのは8502D<大雪52号>、本線を下るのが33D<オホーツク3号>である。
84年2月改正以降、定期列車の退避は減っても予定臨のスジにそれは組み込まれており、それは必然的に優等列車の着発線入線となっていた。キハ56/27の3両組成とは云え、ここでは堂々の急行列車である。

忘れもしないのだが、この日の暑さは珍しい程に厳しく手持ちの水筒の水が尽きてしまい、この列車の専務車掌に車外より声をかけて車内販売から清涼飲料を買ってもらったのである。当てにしていた信号場本屋外側にあったはずの水道が撤去されていたものだから、それで救われた。金華に「駅寝」した翌日のことだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

函館 (函館本線) 1988

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海峡線の開業に際しての函館駅への電気運転設備は必要最小限に留められた。即ち、本線2番/3番/4番線(それぞれ2番から4番線ホームに対応)と機関車回転線として用いる副本線1番線の4線のみへの電車線路架設である。これは、機関車配置が五稜郭で電車編成の滞泊もなかったこともあるが、青函航路の終航後に計画されていた構内の改良工事を見据えての、言わば仮設となるゆえである。但し、1924年12月に設置されたと云う鉄骨木造跨線橋が架線に支障するため、やや下り寄りの新跨線橋に架け替えられている。合わせて、使用を停止していた跨線テルファもこの時に撤去された。
なお、海峡線の開業後の想定を上回る利用に対応して、1988年10月1日に乗降場旭川方の回転1番線と運転所に隣接の客留20番線に電車線路が追加されている。

函館市の都市計画とも連動した構内改良工事は、連絡船航送関連の施設・設備の全廃された桟橋へと繋がる構内の南側を区画整理事業用地として切り離す、大胆なものであった。
これにより、ホーム有効長が、それぞれ159メートルと120メートルに分断される第2乗降場(86年度までは第1乗降場と呼称。1・2番線ホーム)と第3乗降場(同第2乗降場と呼称。3・4番線ホーム)の代替として、岸壁へと向かっていた副本線3番線跡付近に有効長284メートルの第4乗降場が増設され、90年3月10日改正より片側5番線ホームのみで使用を開始した。
引続き、91年3月26日を初回とした幾度かの信号現示停止をともなう工事により、ここの線路配線は引き直され、92年2月20日にはホーム有効長354メートルの第5乗降場(7・8番線ホーム)とその外側に機回線が完成して3月14日改正より使用開始とされた。これにより運用を停止した第4乗降場は、拡幅工事にて6番線ホームを増設の上93年3月19日改正で再開として、一連の工事を終了する。
以後、函館駅は、この0番線から9番線の10線体制(それぞれホーム番線に対応、9番は機回線。なお線路番線の呼称変更時期は不明)にて2001年まで運用されるのである。

かくして、かつて第一岸壁への高架乗船通路下付近にあった函館本線の施設上の起点である函館桟橋0K000Mは線路上からは失われたのだが、現在の5番線線路終端には、そこの0K000Mを函館桟橋起点0K219Mと読替える距離更正標が立てられている。函館桟橋は仮想上の地点として生きているのである。今の旧函館シーポートプラザ建物(かつての桟橋待合所の転用である)直前のバス駐車区画あたりが、その「現実」位置になる。
(この項続ける)

写真は、函館山を仰いで出発する1列車<北斗星1号>。
連絡船の終航からまだ間もなく、構内配線を含めてその関連施設は全て存置されていた頃である。第一岸壁には、6月3日から青函博覧会に協賛して青函間に遊覧運行として復活した羊蹄丸が見える。
現在の3番から8番ホームは、このあたりまで伸びている。(北海道旅客鉄道函館支社ビルより許可を得て撮影)

参考文献 : 道南鉄道100年史「遥」北海道旅客鉄道函館支社 2003年

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Kodak No,9filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3&LR3 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1990

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利用客数を減じる駅の多い中に在って、ここ北舟岡の乗降客数は増加傾向にある。仮乗降場時のデータは採られていないのだが、1992年度の1日平均の108人は2005年度に167人となっている。
これは、その周辺まで伊達紋別の市街地が拡張して駅勢人口の増加しているためであろう。室蘭方面への通勤通学や買物などの用務需要トリップが増えているものと思われる。
近隣の海岸段丘上の畑作地では、70年代より宅地への転換が始まって市営住宅団地なども立地して来たのだが、80年代以降にそれは加速度的に進展して、市街地/住宅地は伊達市中心市街地と連続するようになり、今ここはその東縁である。90年代には段丘下の原野部分も開発対象とされて、室蘭本線の車窓にも住宅街が見て取れる。
近年のデータしか得られなかったのだが、伊達市の1995年度の世帯数13711は、大滝村との合併直前の2004年度に15977世帯、それを加えた2005年度の17015も2012年度には17872と増加しており、これを裏付けている。

対しての人口は1995年度の35145人が2012年度には旧大滝村分を加算してもなお36201人である。
市域の人口は減少しているにかかわらずの市街地の拡大は、伊達市に限ったことでは無い。以前にここでも稚内市、中標津町についても書いたことがある。→稚内 (宗谷本線) 1985/計根別 (標津線) 1975 それは全国的に進行している、社会構造の変化を背景にした単身世帯の増加や核家族化の進展による市街地の外縁拡張なのだが、この規模の都市では旧市街地からの商業施設や人口の大きな転移をともなうでなく、ここでも大型店の立地はその近隣である。これには後背の山間地や農業地域からの流入もありそうで、中心市街地の焼け太りとルーラル地域の集落の縮小や消滅は裏腹な関係なのだろう。
(※人口/世帯数データは伊達市WebSiteに在る資料による)

写真は、強い西日を照り返す5011D<北斗11号>。
函館運転所による、キロ182が500番台である他は 0番台車の運用だったが、夏季輸送期とあって所定7両に対して3両の増結がある。
86年度新製の500番台車に採用され既存の0番台にも及んだ、この新特急色は来る民営化を意識したのであろうが、些か安っぽく感じられ、特にキハ183-0番台車には似合わない。北海道旅客鉄道がこれを廃して数年後、新潟の12系団体用座敷客車に同色が現れるとは意外だった。

[Data] NikonF4s+Distagon 28mm/F2.8(with Adapter) 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

尺別 (根室本線) 2003

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道東太平洋岸の秋は、霧に閉ざされる日々は少なくなる。
丘陵の低い落葉樹-シラカンバやミズナラは赤茶色に染まり、原野のハンノキにヤチダモは黄茶色に、そして海岸湿原に続くヨシ群落も薄茶色に立ち枯れて往く。華やかな時期の無くて、一飛びに渋みの在る世界へと遷り、冬枯れの準備が整う。それは、例え秋の柔らかな陽光の下であったとしても寂寞感のある光景だろう。曇天ならなおさらだ。
そこに、かつては栄えた集落の残滓である廃屋の埋もれるのは、寥々たる荒れ野の様である。

その景観に位置する尺別を秘境駅に数えたくなるのも解らぬでないが、自動車の行き来する国道も間近で、音別市街地なら徒歩での到達もそれほどに遠くはない。なにより、そこに暮らす人の有る民家も残る。10年程前に5戸と報告されたそれの、今はどうなのだろう。潜在利用者である人口の皆無となれば、秘境以前に駅の存続も怪しい。

尺別川と音別川の間には背後の丘陵地から二つの尾根が半島のように海岸線に向けて伸びている。ご承知のとおり、どちらも鉄道の俯瞰撮影の格好の足場として良く知られている丘である。特段に名称のある訳ではないから、訪問者各人が勝手に呼称していて混乱もあるようだ。音別川沿いの墓地公園のある丘を「音別の丘」、火葬場の在って尺別方向を遠く見通す側を「尺別の丘」とするのが一般的と聞くが、その尾根の国道を越えた延長上にもうひとつの「尺別の丘」があって、こちらの方が其の名には相応しく思える。

写真は、尺別を通過する2091列車。
この年、9月26日早朝に発生した十勝沖地震からひと月程後だったが、国道の亀裂も生々しく、この立ち位置周辺にも小規模な崩壊跡が見られたものだった。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 Non filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1985

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B寝台車が3段式で新製された14/24系特急形客車のそれに対する接客設備改善工事、即ち寝台設備の2段化改造工事は、82年度に当時秋田運転区に集中配置されていた24系から開始され、次いで83年度の品川客車区14系、84年度からの尾久客車区14系と続いた。
これは、74年度の24系(25形)の登場以来、特急運用車として581/583系寝台電車も含めてB寝台設備の3段式と2段式併用おいて、3段式の居住性や他の交通機関との競争力が指摘されており、80年10月改正にて3段式設備の20系固定編成客車が特急運用から撤退したことから計画されたものである。82年11月改正では14系が多くの急行運用にも進出していて、これとの差別化からも急がれた施策でもあった。これにより、ハネ車で16名、ハネフ車で15名と云う大幅な定員減となるのだが、寝台特急に対する需要の低下もそれを可能にしていた。

特急運用車への工事が一段落すると、当時管内に寝台特急の運転のなかった北海道総局により、道内急行列車寝台設備の2段式化が計画され、85年度にオハネ14-5両に対して試作的な工事を施工、85年11月7日の下りから413・414列車<まりも>の4/5号車に組み込んで試用を始めた。
趣味的な興味は、ここでの工事が本州内配置車の例と異なり、3段式への復帰が容易な構造とされた点にある。季節波動の大きい道内輸送に対しては、多客期での定員減が懸念された訳である。この5両中4号車に専用の3両には、これも試験的に清涼飲料水の自動販売機が搭載されたのも他に例を見ない。
その需要は堅調に推移したため、86年度にスハネフ14を含む6両を追加し5号車を寝台車から座席車に置替て輸送力を確保した上で、86年6月30日の下りより全寝台車を2段式車両とした。
編成変更で列車定員を確保したことや、この頃より旅客の昼行特急への転移や都市間夜行バスへの流出による列車自体の需要低下が見られ、多客期輸送にも支障の無く推移し、その期間に計画の3段式への復帰はなされなかった。
したがって、続いて工事の施工された<大雪><利尻>運用車については、この構造は見直され採用されていない。
現在も札幌運転所に在るオハネ/オハネフ24 500番台車は、全てこの試作改造車を種車としているのだが、その上段寝台舟の可動する構造の痕跡は今も残るのだろうか。

写真は、札幌に終着する414列車<まりも4号>。
この年の3月改正で、6号車に予備電源車を兼ねて組成のスハフ14が減車され所定7両編成となっていた。この日はオハ14の増結がある。
札幌駅高架化工事関連にて荷物扱い設備は苗穂に移転しており、[北東航21]のスユ15と[北東航2][函荷1]のマニ50-2両はそこで解放され、ここまでやって来ない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/250sec@f8 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

森 (函館本線) 1989

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足の遅い車扱貨物列車の大幅に整理された1984年2月改正を経ても、ここ40年あまりでの五稜郭から森までの各駅の構内配線の変化は意外な程に小さい。各駅とも貨物積卸線は廃されたものの、桔梗の中線の使用が停止され、池田園と尾白内で交換設備が撤去されたくらいである。渡島大野の側線が整理されたのも加えて良いかも知れない。
アジア太平洋戦争末期の青函への物資輸送の転換や戦後の高度成長経済にて増大した旅客/貨物輸送の道内各方面との列車集中に対応した設備は、それが函札間特急列車の頻発運転や本州直通コンテナ貨物列車の動脈となった現在でも有用なのだろう。

ここ森でも、海側側線群の最も外側の一線が撤去された他には変わりがない。そこへの客車編成の留置は無くなったけれど引き続き気動車の姿があり、乗降場に接しない上りの退避線も健在で、貨物列車が入線して特急に先行を許している。
第一第二乗降場間の中線路は、停車列車を乗降場側に到着させての通過列車の運転線、すなわちこれが森駅下り本線である。これを下り退避線と使えば、上下とも2本列車の退避/客扱いが可能で七飯からの八の字形状の別線による複線機能区間の北の結節点として、それに欠かせぬ配線なのである。これからも大きな変化は無いものと思われる。

写真は、森を出発して往く8101D<ニセコ>。かの山線急行101・102の後身である。
1986年11月改正で予定臨8101・8102に格下げされたものだが、客車列車での運転実績は一度も無く、1988年3月改正でダイヤ上も気動車のスジとされていた。定期列車当時にもその末期には4両組成であったから、気動車の3両に定員の大差はないけれど、全車非冷房の臨時急行はあまりもに落ちぶれた姿に見える。
この森でも、先着した643Dが下り1番線(1番ホーム)で684Dの分割作業を行っている関係から、優等列車にかかわらず中線(2番ホーム)の着発に追いやられていた。
室蘭本線経由の臨時特急に取って代わられ、93年3月改正にてスジ自体が消えた。

[Data] NikonF4s+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/250sec@f11 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

白老 (室蘭本線) 2009

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室蘭本線の東室蘭から苫小牧に至る沿線は、道内では希少な2次3次産業/人口の集積地域である。60年代の終わり頃には、どこまでも代り映えのしない海沿いの原野が続き、時折往き過ぎる街並を車窓に見たものだったが、今ここを特急列車で走れば、住宅に事業所や工場が視界に途切れること無く、並走する国道にはロードサイドの店舗が建ち並んでいる。
けれど、沿線の各自治体は、一人勝ちの苫小牧市を除き人口流出に悩み、そこの鉄道駅も利用者数を減らし続けているのである。

室蘭民報の報道によれば、白老町の住民基本台帳上の人口は、この2013年3月で1万9000人を割込んだと云う。1984年に2万4千人で最大人口を記録した後、主には自然減と思われる漸減傾向には在ったのだが、2003年の大昭和製紙の日本製紙への経営統合や2009年の旭化成関連の2工場の閉鎖による流出が大きい、と記事は伝える。
白老駅の乗車人員も、最大人口に近かった1981年度の960人は、1992年度の乗降客数で1588人(乗車人員ならそのほぼ半数と推定される)を経て、2005年には590人と記録されている。手元にデータは無いが、現在ならさらに減じていることだろう。
行政も手をこまねいたでなく、1989年度より石山地区に3箇所の工業団地を整備して企業誘致を進め、道央道の白老インターとの接続性も良いためか、或る程度に工場立地には成功している。けれど町内の雇用確保には貢献したにせよ、従業員および家族の他地域からの町内定住を促進するまでには至っていないのだろう。鉄道沿線からの通勤の多くは自家用車利用と思われ、白老駅の利用増加にも寄与してはいない。

この工業団地へのアプローチであり、道央道の白老インターチェンジと国道36号線を連絡する道道86号白老大滝線(1994年10月1日付にて731号から番号変更)の白老跨線橋は、その開通当時にロケハンしていて、そこからの俯瞰のコンテも持っていたのだけれど、電化区間でもありずっと後回しにしていたのである。
この跨線橋は近年での例によって、フェンスが線路直上部のみならず長区間に渡り設けられている。脚立を持ち歩かねばならなくなった所以である。しかも道路車線が狭隘な上に交通量も多く、三脚は立てられずに脚立に乗っての手持ち撮影となった。線路側には架線柱が連立しており、その間隙に重連の機関車を収められる立ち位置はピンポイントにならざるを得ない。背景や画角もそれに拘束されてしまうから、やはり電化区間は難儀である。

列車は、この第一白老川橋梁(137M)上の1列車<北斗星>。
ここでも、河川敷に生育する樹木は水路部の見えない程に放置され、冬枯れに相応しく思える。
背景になるのは、工業団地の食品加工業種の進出した一角らしい。

[Data] NikonF4s+COLOR-HELIAR 75mm/F2.5SL 1/500@f4+1/3 L39 filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

倶知安機関区 (函館本線) 1973

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1964年度に単年度赤字に転落して以降悪化する国鉄財政に対し、政府/与党は国鉄財政再建推進会議に対して再建策を諮問、その68年11月1日の運輸大臣への答申を受けて、69年5月に日本国有鉄道財政再建促進特別措置法を成立させた。これにより国鉄当局は財政再建基本計画を策定し、70年2月19日に運輸大臣承認受けて1969年度を初年度とする運用を開始した。
時に内閣を組織していたのは、かつて国鉄幹部であった佐藤栄作である。佐藤は69年5月26日付で退任した国鉄総裁石田礼助の後任に、国鉄生え抜きの官僚である磯崎叡を送込んでおり、その指揮の下に開始されたのが、かの悪名高き生産性向上運動、国鉄における通称「マル生運動」なのである。
財政再建基本計画に基づく生産性向上とは聞こえは良いが、それの実体は前記の再建推進会議答申に含まれていた国鉄職員16万人の合理化を推進する手段として策定/発動されたものであった。必然的に国労/動労など組合側との鋭い対峙の予想されたこの施策は、当局側においてもこれに異を唱える幹部が磯崎総裁により事前に更迭され、推進派が主導権を握り半ば強引に推進されて往くことになる。
そこには、70年の安保改定を迎える佐藤政権が、国鉄の財政再建を名目とした合理化にて、労働側の弱体化を意図していた構図が透けて見える。この「マル生運動」は当初より明確な政治的背景を持っていたと云わざるを得ない。

この運動の経過と顛末をここに詳述する余裕はないのだけれど、極めて政治的であったが故の、労働者ばかりでなく家族をも巻き込んでの中間管理職による執拗で露骨な組合脱退勧誘、脱退者には昇進/昇級が約束され、管理職には賞金まで用意されたと云うそれは、相次ぐ職場での乱闘騒ぎに幾人もの自殺者までをも出した末の71年10月に至って、公労委が国労申し立ての不当労働行為救済申請を認定して国鉄当局に謝罪を命令し、当局側から組合に対して10月12日に「不当労働行為の根絶」が、29日に「生産性教育の中止」が言明されたものの、国鉄労使間に深い不信感と亀裂を産んで、その後の永い合理化反対闘争を規定することとなった。順法闘争で対抗する組合と当局との対立は、政治上の代理戦争の様相も帯びて72年の春闘を激化させ、73年/74年と続く交通ゼネストを経て、公労協によるスト権奪還闘争へと先鋭化し、75年の十日間に渡って国鉄を麻痺させた「スト権奪還スト」への導火線ともなるのである。
そればかりでなく、戦後復活した保守支配体制による民衆管理の一面であるこの動きは、管理職にも疲弊と厭職をもたらして70年代国鉄のモラル低下を招き、それを逆手に取った政権側がその後の分割・民営化を方向付けた点においても、政治に絡めとられた国鉄を象徴するものであった。さらには、それを越えて現在に至るまでの労働運動全般に影を落としていることも忘れるべきでない。

倶知安機関区は、胆振線/岩内線用9600と本線用D51に気動車の配置があり、乗務員運用は、函館線の長万部-小樽築港間に胆振線を介して室蘭線の室蘭にまで及ぶ山線の中核区所であった。ここでは、合理化の一環として無煙化とともにそれらの長万部と小樽築港への統合/集約が計画され、それは機関区の全廃を意味したから反対闘争は激烈であった。
長引く混乱を受けての磯崎総裁の引責辞任直後となる73年9月23日のこの日、機関区では数人の全動労組合員が集会を持ちサボタージュに入っていた。その最中にもかかわらず、遠来の撮影者には火室に石炭を投込んで煙の演出をしてくれるのだった。管理職による妨害も無く、彼らの表情は穏やかと記憶する。

※文中のデータは『国鉄労働組合40年史』労働旬報社 1986 による。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/250sec@f5.6 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

幌延 (宗谷本線) 1986

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道内の夏の夜明けは早い。春分や秋分で東京とほぼ同時刻の札幌での日出時刻は、夏至前後なら30分ばかりの差を生ずる。
この季節、宗谷線の夜行急行は蛇行する天塩川の水面に黎明を迎えることになる。天塩中川からの車窓には、延々と低い丘陵に牧草地の交錯する風景の続くから、ここで目覚め、列車の定時運行を確認するには、ゆっくりと通過する各駅の駅名標に眼を凝らす他にない。たとえ層雲の地表に接するような天候でも、夜行列車の朝にこの淡々とした車窓を眺めるのは心地の良い体験だった。けれど、そこに鉄路がなくて、この列車の乗客でもなかったら、その光景にはきっと途方に暮れたことだろう。

この楽しい時間を途中で諦め、5時前の幌延に降り立つのは、いつもそこからの始発で羽幌線に向かうためであった。
1920年代に開業した現宗谷本線の音威子府以北区間は、先行した後の天北線を短絡する樺太連絡の重要幹線と位置づけられ、各停車場の本線有効長は大きく取られていたものの、沿線開発を意図したそれらの客貨扱施設の規格は希薄な人口からも低く抑えられ、90年を経た現在も大きな改良の無いままに引き継がれている。
その中で、ここ幌延は1935年に天塩まで、翌年に遠別までを開業した羽幌線(開通時は天塩線)の接続駅となって、稚内機関区の駐泊所(後に支区)が置かれ、1936年には跨線橋も設けられたと云うから、これに合わせて構内の拡張と乗降場増設などの改良の行われたものと思われる。
この頃には機関支区はとうに廃止されていたけれど、転車台が残り多くの側線と気動車編成用の滞泊庫を持つ広い構内であった。

写真は、幌延に到着した317列車<利尻>。
この第二乗降場の延伸部が何時設置されたものかは知り得ないが、国鉄の内規でレール面上760mmと定められた客車ホームは、ステップの深い在来形ならまだしも920mmの規格に合わせられた14系客車の浅いステップとの高低差が大きい。加えて、ここではホーム設置後の軌道側の道床厚変更や重軌条化にてレール面の上昇し、明らかに規格を逸脱していた。なにより、ホーム縁端とステップとの距離の有り過ぎて下車を一瞬躊躇する程である。
短編成の気動車列車が常用する中央部分は嵩上げされており、この乗降場全長を使用するのは客車急行くらいであったから放置されていたものだろう。
滞泊庫には、4802D<はぼろ>となる編成の姿が見える。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor 1/80sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1966

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初めて一眼レフカメラを手にした1966年には、師匠である親父の手ほどきを受けながら見よう見まねで、フィルムの現像処理に暗室でのプリント作業も始めていた。後に知るところでは、当時に現像ラボも存在していたようなのだが、自家処理が一般的な時代である。
その作業は、写真店や薬局にてフィルムなり印画紙の製造元による処方に指定の薬品を買い集めることから始まる。コダック社のフィルム用微粒子現像液D-76処方ならば、主薬としてのメトールにハイドロキノン、それに無水亜硫酸ソーダと硼砂である。停止液には氷酢酸、硬膜定着液にはハイポに硼酸/明礬も必要とした。
これらをハトロン紙を載せた天秤秤に掛けて、分銅を置きながら正確に量り、液温を保ちながら処方どおりの順番で溶解して薬液を作るのは、面倒でも楽しい作業ではあった。

フィルムをパターソンタンクのリールに巻き取るのは、夜に灯りを消した部屋の押し入れである。現像液の注入に泡取り、そして連続撹拌から迅速な排出と停止液の迅速注入、さらに定着へと続く処理工程は、純粋な化学反応であるから液温と時間を正確に管理さえすれば失敗のしようも無く思えたのだが、現実には撹拌時のパーフォレイションによる流速の違いでムラを生じさせたり、液温管理も当時の夏には難しく粒子を荒らしたりの失敗を繰返したものである。
ただ、水洗は確実にせよ、との言いつけを守ったせいか、この初期の自家処理フィルムでも残留ハイポによる変色もなく、40余年を経た現在でも健全なネガである。

プリントの暗室も多くの家庭処理がそうだったように、これも押し入れである。ここでは決して潤沢に揃っていた訳では無い印画紙の号数と得たいコントラストでの露光時間をノウハウとして得るまでには、随分と試行錯誤したものである。それでも、現像液のバットで印画紙に絵の浮かぶ瞬間の緊張と快感は他では得られないだろう。写真にのめり込んだ理由のひとつでは在る。
それから30年間、薬液は既製薬に代わり、タンクもマスコタンクに移行しながらも基本的には同じ手順の作業を続け、ノウハウにデータも豊富に持っていたけれど、撤退して15年にもなる。幸いにして銀塩写真は今も存在して、当時の道具/用具に機材も揃っているから再開したい気もするのだけれど、当時に苦労したプリント時の処理がデータ上ならばいとも簡単に実現してしまうのを知れば、心中は複雑である。

写真は、勇払原野を北上する227列車岩見沢行き。
千歳線の下り線(上り列車運転線)が室蘭本線と交差する、当時に定番の位置からの画角である。鉄道誌の蒸機記事には必ず取り上げられ、この初めての訪問でも千歳線の植苗に下車して、まずは目指したのがここである。前にも書いたけれど →植苗 (千歳線) 1969、そこいら中「ヘビ」の記憶が鮮明に残っている。線路に沿う小道を往けば、そこを横切る姿を遠目に何度も目撃し、線路際を歩けば茶色いのや緑色のそれが蜷局を巻いて待ち構える始末なのである。恐ろしいところに降りてしまったものだ、と怯えつつ、彼らを回避しながら辿り着くポイントであった。
今は湿原乾燥化の進行にともない、そこにはハンノキやらミズナラ、カシワなどの樹木が生育して様相の一変しているのだが、この頃なら一面のヨシ群落の広がり千歳線上り線の築堤や、その向こうにウトナイ湖の湖面も望め、原野/湿原の只中の直線区間を飛ばして来るC57の旅客列車を楽しめた。特に下り列車は、遠浅手前にある緩い勾配に備えて力行するのが魅力であった。黒煙にドレーンは機関士のサーヴィスである。

このネガの現像は液温/時間管理ともに失敗して粒子ばかりか鮮鋭度も失っている。敢えてデータでも補正していない。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

大沼 (函館本線) 2004

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七飯から藤城線に分岐した下り列車は、幾つものトンネルを潜りながら勾配を登り詰め、最後の新峠下トンネルを抜けると左車窓に小沼の湖面が突然に開け、駒ヶ岳も遠望する。道内へのエントランスでの観光客向け演出としては申し分無い仕掛けである。もっとも、今では青函トンネルを通り函館から道内入りする観光客など少数派であるから、これの観客も少ない。その昔には、観光シーズンの特急列車内ではこのシーンに歓声の上がり、タイミング良く乗客専務による観光アナウンスのあったものである。

この小沼畔区間で湖面との組合せの撮れる足場は少なく、大沼駅前からの道道333号大沼公園線(1994年10月1日付にて338号線に番号変更)が湖岸に張出した丘陵を越えるピーク付近が該当したのだが、道道脇の樹木の成長にて遮られ、それは低く降りた位置に限られてしまった。そして、そこしかなかった駒ヶ岳を背景とする大沼側の景観も失われたのだった。
1991年3月のこと、国道5号線の拡幅にともなう新大沼トンネルの新設により、大沼トンネルの下り方抗口で接していた道道333号線は、その交点を改められ付替え区間に函館本線の上下線を越える大沼跨線橋が架けられた。これにて函館上り線の旧交点付近からの俯瞰→仁山信号場-大沼 (函館本線) 1983 は困難となったものの、この跨線橋上が新たなポイントとなり、かなり位置の低いけれど駒ヶ岳を背景に小沼の湖面を俯瞰する画角となった。函館-大沼公園間での蒸機の展示運転などを通じて、今では鉄道屋に定番の位置なのだが、直下を往く列車とこれらを画角に収めるには広角系の装着となって、駒ヶ岳の存在の弱くなるのが難点ではある。

写真は、峠下トンネルへと向かう3084列車。
木々の黄赤に染まる季節となれば、駒ヶ岳よりもこの画角だろうか。

[Data] NikonF5+AiAF Nikkor ED 180mm/F2.8D 1/250sec@f4+2/3 C-Polarizing filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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