"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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苗穂-白石 (函館本線/千歳線) 1986

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ゾーン券の設定縮小が続いていた周遊きっぷが、予想されたことだけれど廃止される。
これだけ「なるべくご利用はお控え下さい」と喧伝していたのも同然の企画券も珍しく、周遊割引乗車券制度廃止にともなう緩衝材に過ぎなかったその役目も、15年も経ればもう良いと云うことだろう。
この件に関する記事はWeb上に多く存在し、ここでは繰返さない。付記すれば、周遊券の廃止と周遊きっぷの制度設定に至る動きの中で東海旅客鉄道が果たした「尊大なる貢献」を忘れてはならない。

首都圏発着に限れば、その代替として「北海道全線フリーきっぷ」と「みなみ北海道フリーきっぷ」が発売される。道内での特急自由席利用は変わらないが、同条件で比較すれば前者は約3000円の値上げとなる上、2000円程下がる後者にしても、青森発着の札幌・小樽フリー乗車券の有効期間4日間を下回る3日間は、人を小馬鹿にした設定である。
北海道周遊旅行の時代は名実ともに終わると云うことだろう。言うまでもなく、名実の「実」の部分は道内夜行列車の廃止を指していて、それの無くなって有効期間5日間での「周遊」などとっくに不可能になっていた。

写真は、往年の道内夜行急行、豊平川橋梁上での514列車<大雪4号>。
1984年1月末の取扱便廃止以降も護送便として存続していた[札郵2]運用のスユニ50は、85年度にトラック輸送に切替えられ既に姿がない。機関車次位の[北東航2]運用のマニ50も終焉間近である。
寝台車の2段式化改造車は<まりも>への投入を終え、この<大雪>と<利尻>向けの改造工事の進められていた頃で、それによる列車定員の減少に対応して3号車のオハネ14は事前にオハ14に置替られている。<大雪>へのそれの投入は、86年9月13日の下り/翌日の上りからであった。

この橋梁周辺の豊平川は、河川敷の整備と流路の改修を終えてまもないのか、人工的に過ぎて画角に取り込む気にはなれなかった。四半世紀を経た今なら、河畔に樹木も成長して撮りようもあろうかと思う。

[Data] NikonF3P+AiNikkor ED180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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少々間隔の空き過ぎた。1年程前の記事、一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972の続編である。

キャブ下のS字曲線が特徴的な、1912年度から13年度に製造された9600形蒸機の最初の18両は、戦後まもない時点でその多くが道内に配属されていたものか、その時期に少なくとも9613-9617の5両はそこで用途廃止とされ、同地域の私設鉄道や専用鉄道に譲渡された。
9615は、その最も早い時点での事例であり、1948年10月に名寄機関区を最終配置区として用途廃止が決済され、同月20日には日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道に回着している。そこでの竣工届は翌49年11月3日付なのだが、一年間寝かされたとは思われない。これと、続いて48年12月7日に回着した9643との2両が代替したと思われる既存機関車の廃止届けは1949年6月7日付で出されているから、少なくともそれ以前には稼働していたはずである。付記すれば、9643の竣工届けの提出は1959年である。(上記データは日曹側資料を調査された大西清友氏による)

ここでは、この9615を転がすと云う、得難い体験をしている。機関区事務所でお会いした機関士の誘いに、一も二もなく飛びついたのである。
始めは片手シャベルで投炭し、インジェクタにブロワコックを操作して蒸気を作る。チェインで引上げる式の焚口戸の意外な軽さには驚いた。所謂滑車の原理なのである。そのうちに火床が赤く燃え上がり、やがては蒸気の騰がりが缶圧計に表れ、コンプレッサも動き出す。
まずは、機関士の説明を聴きながら構内外れまで助士席で一往復。これだけでも天にも昇る心地なのだけれど、次は機関士席でレギュレタを握るのである。まずは、先ほどの一往復後にミッドギアになっているリバーをフルギアに戻す。重そうに見えたこれがカラカラと回るにも驚いた。走行中も常に操作するから、なるほどと納得する。
ブロワを閉めて、レギュレタを手を添えてもらいながら少しだけ引くと、ひと呼吸あって動き出す。ドラフト2回のところでリバーを半分まで巻き上げろと云う。クルクル回しているうちに加速がついてきて、窓下のドレインコックを開く。排出する蒸気の心地よいうちに、レギュレタをもどし、機関士が単弁を操作して制動を掛け停車。
リバーをまたもやクルクル回して逆転側のフルギアへ。そしてレギュレタを引いて逆行。元位置に戻り止まった時には、全身汗ダクの記憶が在る。
楽しかったけれど緊張もしていて、気がつけば汽笛を引く余裕もなかったことが心残りではあった。
全線運行停止後の気安さからだろうが、おそらくは内規違反に相違なく、今に思えば二度と出来ぬ体験に感謝するばかりである。

この時、下り列車は常に逆向き運転にてキャブに風が吹き込み、ボイラのそばにもかかわらず冬には凍えた、との話が印象に残っている。40年も経って気がついたのだけれど、ならば、この鉄道は転車台を持たなかったのではないだろうか。そう云えば、ここ一抗でも見かけた記憶はない。
写真の停車位置から前方のカーブして構内を抜けるまでが「体験運転」区間である。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f11 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR3 on Mac.
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厚岸 (根室本線) 1981

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今でこそ「お取り寄せ」で難なく手に入る厚岸の牡蠣だけれども、この当時も今も、それに東京都内/近郊のスーバーマーケットや鮮魚店でお目にかかることはまず無い。贔屓にしている魚屋に聞いてもらったところ、近年になって築地にも少量の入荷は在るらしいのだが、大半が飲食店向けに引き取られ市中の店頭に出回ることは無いと云う。
それは、この消費地までの輸送にかかわる距離からではない。圧倒的な松島湾や三陸方面に広島湾産に比しての生産量の差である。少々古いデータだが、2001年度の農林水産省の公表する漁業・養殖業生産統計年報によれば、都道府県別生牡蠣生産量は、広島県を筆頭に隣県岡山の瀬戸内海海域と宮城/岩手県の仙台湾/三陸海域にて全国比の91%を占め、北海道は2%に過ぎない。これとて道内で養殖牡蠣を生産する22漁協での合計である。

駅弁の「かきめし」でしか出会いの無い、それを食べに往くと決めたのは貧乏旅行にも多少の余裕の出来た頃のことだった。毎度のことで時刻表巻末の宿泊施設のペイジを開けば、厚岸の項には「五味旅館」と「ホテル金万」の2軒の記載が見て取れた。ホテルと名乗ってもそれは旅館だろうし、併記された一泊二食の料金にも大差はない。
双方に電話をして所在地を確認し、いつもなら駅に近い宿舎を優先するのだが、どうせならと厚岸湖の湖岸から遠く無い「金万」を選んだのだった。目的から夕食には牡蠣づくしを所望すれば、「通常の夕食がそうなっています」と返された。

この先は詳述しないけれど、その夜は、テープルに並ぶ牡蠣料理に酒は釧路の「福司」を堪能したものだった。
ただ、この頃は「美味いもの」を舌が自覚せぬ年齢ゆえ、実を云えばそれがいつもの牡蠣に比べどう美味いのかは、正直わからなかったのである。
後年に仕事で、あるアーティストのジャパンツアーに同行した際のこと、札幌公演後の夕食にホテルレストランの大きな丸テーブルに肩の高さ程に山と盛られたのは、地元プロモーターの好意による厚岸産の殻付き牡蠣であった。それを各人の好みに、その場でシェフが調理する趣向も面白かったが、生牡蠣のそれは実に重厚な味がしたものだった。

写真はその翌朝、厚岸湖岸の滝川起点359K甲号距離標付近での1491列車。
本来は、釧路機関区DE10の仕業なのだが、どうしたことかこの日はDD51がやって来た。
湖面の大きく広がる厚岸湖は、これが大潮時の満潮水位である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/f2.8S 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 2003

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鉄道を撮るのに可変焦点レンズは使わずに、すべて単焦点だと以前に書いた。→[番外編 6] 急行“天北” 1984
そのラインナップの300ミリは、この相模原市中央区から遠く無い町田市野津田に所在するTokina社製のAT-X300AFPROである。とうに製造中止となったこのレンズの、ここでそれを使用したカットに付した撮影データ部分がWeb検索に引っ掛かるのが時折見て取れる。試しにこれで検索をかけてみると、驚くことに市中在庫がまだ在って、その価格からも導入を検討する人の居るのが頷ける。ならば少し書いておこうと思う。

この焦点距離の望遠レンズは仕事写真には必需品ゆえ、Nikkorに大口径の無い時代から導入して機材を更新しながら使い続けており、趣味の写真にも必要とあらば持ち出していた。けれど、当時に手元に在ったAFタイプは、2.7Kgの重量に全長が27cmのサイズで、決して小さくは無いTenba社のバッグへの収納性は良く無かったのである。これをバックフレイムに固定しての行動や雨天も有る現場での作業上からは好ましいと云えず、まだNikonにカタログされていた中口径を導入してみたものの、やはり明るさや描写に満足出来ず、22cmの全長を実現していたAT-X300AFⅡにその事由だけで差替えを決めたのである。バッグに縦方向にも収納可能なそれで、作業性は大きく改善された。
AT-X300AFPROへは、その発売時に更新している。

レンズマニアではないので、ユーザーレヴェルでしか書けないが、描写性能はNikkorの大口径に遜色無く、開放での解像力も劣らない。解像度や諧調再現などマニアックにデータを追えば差異は見られるのだろうが、実用上は同等である。色はどちらかと云えば暖色系に傾く。もっとも、これはNikkorばかり覗いているからかもしれない。金属製の鏡筒の造りもしっかりしていて不安は無い。
純正レンズと争わねばならない価格面からか、内面処理に構成レンズのコーティングの甘い気もするけれど、これを振り回して次々に変わる光線状態下での速写/連写の必要でも無い限り問題視するでもない。
Nikkorとの明らかな差異は、開放時のボケの変化の連続性に感じられ、それに拘る必要の在った仕事写真には流用しなかった理由だが、屋外で、まして鉄道撮影となればまったく気にならなかった。これは好みの次元でもあるだろう。
加えて、このコンパクトサイズの実現にて生じた周辺像高の足りないディストーションに周辺光量の不足がある。とは云え、フィルム撮影で撮影時に若干の工夫を要したこれらも、ディジタルならば問題ではなくなっている。
困ったのは、専用の後部差込式で用意されているPLフィルタが、製造中止による付属品払底で経年劣化による更新が叶わぬことである。これもディジタル撮影やフィルムでもネガなら支障しないが、リバーサル撮影に備えては光熱を避けた冷蔵庫保管にて延命を図らざるを得ない。
操作性やカメラ機材との連動を云々する向きもあるようだが、露出もピントもマニュアルしか使わないのでこれは評価出来ない。AF対応で粘りの足りなかったピントリングは、グリスを変えて調整してもらった。このピントリングの回転角度は大きく取られており、マニュアルでの微調節向きである。
余談めくが、レンズメイカーの保守/修理対応は総じて良い。COLOR-HELIARのKosina社にもそれは感じられた。
野津田の工場に持ち込んだこのグリス入換時も、小一時間程で各部の点検に調整まで済ませてくれたものである。

写真は、苗穂東方複々線区間での2列車<北斗星2号>。
勿論、この日没方向(西野変電所への送電線が見えるので迷沢山と思う)と時刻は経験的に承知していた。
既出の画角なのだが、→苗穂 (函館本線/千歳線) 1992 Ektachromeでの撮影にてご容赦いただきたい。その10年間でJRタワーが出現している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f5.6+1/2 Non filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1988

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道内で国鉄制式塗色のDD51形内燃機が<北斗星>を牽いたのは、その運転開始から半年ばかりの間だけである。
1988年の夏には空知運転区配置車に専用塗色が採用され、それは秋までには同運用に十分な両数を満たし、結局は北海道旅客鉄道所属の全てに及んだからである。
国鉄〜旅客鉄道各社において、1956年の東海道線特急を牽いたEF58を嚆矢として20系固定編成客車による九州特急のEF60/65 500番台に引き継がれた機関車を客車と同色とする施策は、<北斗星>が当時に寝台券の入手難の続く人気列車であったとしても、定員の少ないそれが北海道旅客鉄道の経営に資する程ものではないから、列車自体のプロモウションと云うより会社のイメージ向上や海峡線/青函トンネルのマスコミへの話題提供と継続露出を意図したものであろう。
プランは運行開始前からあったとしても、6月の計画公表、7月からの投入は拙速に過ぎ、綿密な塗色デザインの検討された形跡は見られない。前述の東海道特急牽引機EF58の淡緑5号に黄帯化に際しては第一種列車名票(トレインマーク)のデザイン変更をも含んだけれど、それも顧みられずに単純な青20号塗色に青系統色の<北斗星>列車名票の外観が固定化してしまった。
個人的な好みもあろうが、青15号の20系や青20号の新系列客車列車の先頭に立つ国鉄制式塗色のDD51は、同様の交流/交直流の電機とともに編成のアクセントとなっていただけに残念な思いのするものだった。
加えてこの塗色デザインは、青20号と金帯色との相性の問題と、帯位置より上部の灰色であったボンネット部も同色としてしまったところに居心地の悪さが在りそうである。なによりセンターキャブ機であることの考慮が足りない。なお、1986年度に東京運転区配置の<あさかぜ>運用車が初採用であった24系客車への金帯色は、国鉄の制式色とはならなかった。

写真は、貫気別川橋梁下り方のR604曲線上での1列車<北斗星1号>である。
オレンジ色の機関車に青いトレインマークが良く映えていた。
88年の6月には、<北斗星>ばかりを追って2週間程を道南で過ごしたのだが、梅雨前線が本州北寄りに停滞することの多くて、この地域もその影響で曇天に降雨が続いた。俗に云う蝦夷梅雨である。
機関車次位のスハフ14については、七飯-大沼 (函館本線) 1988に詳述している。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

[番外編 11] 糠平 (士幌線) 1980

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士幌線末端区間の糠平-十勝三股間は、1978年12月24日を以て鉄道による運行を休止し、翌25日より帯広-十勝三股間に4往復設定の在った列車のこの区間がバスによる代行輸送とされた。路面交通による列車代行は災害や工事関連にて多々例があるが、あくまで一時的な措置であり、それの恒常的な施行は国鉄始まって以来の事例となった。
なお、この代行輸送は旅客に止まらず特別扱新聞紙の荷物輸送も含んでいた。

代行輸送は国鉄の直営ではなく河東郡上士幌町に本社の所在する上士幌タクシー有限会社に委託とされた。通常には、国鉄旅客は「代行輸送」区間を国鉄乗車券を所持したまま乗り、後に国鉄と当該輸送機関側とで精算のなされるのだが、この当時一日平均6人とされた利用実績の精算にて成り立つ訳もなく、実質的に金銭補償をともなう運送委託契約の締結されたはずであるけれど、それがどの規程によるものか解らない。そればかりでなく、同時に要員の引上げられる幌加/十勝三股での乗車券簡易委託発売も同社の受託とされ、それぞれからの「ム券」(簡易委託乗車券)が代行輸送車車内にて発売された。発売箇所表記は,それぞれ(簡)幌加/(簡)十勝三股である。これについても運営に資する程の売上の見込めるでなく(例えば十勝三股から帯広までの780円を11枚売って780円の手数料収入)、乗車券簡易発売基準規程によりながらも前記の運送契約と包括的に処理されていたものだろう。以前に、上士幌タクシー社長のインタビュー記事に接したことがあるのだが、このあたりの言及はなかった。

ところで、この措置の施行決定の遅れたものか、或は上士幌タクシーとの協議に時間を要したものか事由は不明だが、78年12月4日が編集の最終締切であった79年1月号(78年12月20日発売)の鉄道弘済会版の道内時刻表には一切記載が無い。それは、79年1月22日ダイヤ改正(訂補)収録とされた2月号から反映されたが、ここでも糠平にて乗換えを要するとの表記はなされなかった。もっとも、この措置に至る事由となったとおりに同区間の利用客の日平均6人は、三股集落の全人口14人に限られたから問題はなかったのであろう。列車行先票も矢印相互式の「帯広←→十勝三股」がそのまま使われ、これに括弧書きで(糠平-十勝三股間国鉄代行バス)の文字の加わるのは、これが全国紙で新聞報道され旅行客の見られるようになってからである。
代行輸送区間もそれはあくまで列車であり、糠平で待機中のバス運転手に運行便名を尋ねたところ、「これは725Dです」と列車番号が返って来た。

糠平構内から使用停止された出発信号機を越えて幌加方に歩くと、市街地から湖畔へと降りる道路との踏切があった。既に踏切票は外されていて名称はわからなかったが、かつては湖底に沈んだ旧糠平駅と温泉街を結ぶ道だったのだろうか。この土に埋もれつつある踏切からの士幌線は草海に没して辿れなかった。50メートル程先には糠平川橋梁(63M)が架けられている。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f11 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

稚内 (宗谷本線) 1985

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1970年当時、宗谷本線への夜行急行317・318列車<利尻2号>の線内での所定編成は荷物車-2両に郵便/荷物車-1両を含む10両組成であった。そこでの最長編成列車であり、乗降場延長が200メートルであった稚内では旭川方組成の荷物車を乗降場に収めねばならないから、後部の座席車はそれを半車ほど外れることになり、2番線側の乗降場が延長されていたのはこれによる。それでも、夏期輸送等で増結があれば旧桟橋方にずれ込まざるを得ず、318の改札時など多くの乗客が構内踏切から1番線上を走って、後部の自由席車の出入台によじ登っていたものだった。

稚内駅は、2009年5月に着工された駅本屋を含む周辺地区の再開発事業により大きく姿を変え、それはKITAcolor(キタカラ)と命名された再開発ビルと一体化した新駅舎として2012年4月29日に最終的な開業を迎えた。
この工事にともない、稚内は2009年10月1日改正を以て1番線の使用を休止し棒線駅となり、これは2010年1月31日にこの1番線を復活して2番線が廃止とされた。乗降場位置は変わっていないが、その旧桟橋方に新駅舎の置かれ、有効長の切り詰められたことで旭川方に延長されており、実質的には若干移動している。

北側となった駅前広場まで旧一番線である本線から線路が駅舎内を貫通して延伸され(但し本線に接してはいない)、そこには2番線終端部に使われていたと云う第二種車止めが、これの寄贈を受けた稚内市によりモニュメントとして設置された。その車止めは、1991年3月16日改正における<利尻>の気動車化により、この駅が機回し線機能を不要とした際に置かれたものであり、近年の構内縮小の産物である。そこには「日本最北端の線路」との看板の立てられていたのをご記憶の向きも多かろう。
このモニュメントにもその傍らに同様の碑が置かれている。これ自体良いアイデアとは思うけれど、それまでは機関車がさらに奥まで入線していたのを知る身には興ざめもする。さらに遡れば、稚内の貨物積卸場はこの北側に在って、線路北端は突き当たりの防波堤に接していたのである。
ところで、碑文には「元の位置に復元した」とあるけれど、そこは旧1番線の延長上だから行政仕事に有りがちな間違いである。

写真は、早くに南稚内から回送され2番線に待機する318列車<利尻>編成である。
改札の開始されるまでは、まだ時間がある。
ここの乗降場と云えば、この林立する柱に支えられた木造上屋が最北の旅情を感じさせていたものだが、片流れ屋根の近代的デザインに取替えられてしまった。なにやら最近の電停上屋然としたそれは少々安っぽく見える。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8 ED Bulb@f11 Non filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

銀山 (函館本線) 1983

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余市川を10キロばかり遡った仁木町然別の集落は、それの平野へと流れ出る地峡部に在って標高は20メートル程である。ここからの余市川流域の谷は広く続いて、函館本線も引き続き水田と果樹園の中を進みつつ大江集落を対岸に見るあたりからその流れを離れて稲穂嶺裾野のなだらかな斜面に取り付いて往く。稲穂峠を越えて瀬戸瀬川/堀株川の流域へと出るためである。そして等高線を交わしながら高度を上げ、やがて施工基面高158M010の銀山駅に至る。そこは、谷底の銀山集落と標高差90メートルあまりの、開放的で見晴らしの良い駅なのである。道道を往く余市からのバスで向かえば、銀山駅下で降りて緩い坂道を上り詰めた先に駅は在る。そのロケーションに誘われて、ここへは季節を変えて幾度か降り立っていた。

北海道は全域がヒグマの生息域である。全道での生息数については、調査や推計毎に3000頭から1万3000頭と大差があり、正確なところは解らないらしい。
専門家が現況からそれを便宜的に5ないし6区に区分している内の、この地域を含む積丹半島から支笏湖を経て噴火湾へ至る「積丹・恵庭地域」と呼ばれる山域は、黒松内側と石狩側で人間の交通路と居住区により「渡島半島地域」と「天塩・増毛地域」に「日高・夕張地域」との交流域が断たれ個体群の孤立化が進行していると云う。それにより将来の絶滅が危惧されるとして環境省のレッドデータブックへの記載もなされている。

それでも相当数が暮らしているに違いはなく、この銀山は彼らに最接近した(と思われる)場所として記憶に鮮明である。鉄道線路からさして離れてはいない山域でも、そこに分け入れば樹木に刻まれた爪痕を目撃したし、糞も確認していたけれど、強烈な獣臭の中にまだ湯気の立つそれを見つけた時の恐怖は忘れられない。ほんの数分前、もっと短いかもしれないけれど、彼はそこに居たのである。フルヴォリュームのラジオに立ち去ったか、あるいは、まだ近くでこちらを警戒していたかも知れない。下半身の震えに後退もままならぬのだった。
以来、ここでも狩勝でも山に分け入れば、過敏と思える程に新しいツメ跡や小枝の折損に注意を払ったのは云うまでもない。撮影地点を決めての停滞にはラジオを流しておくのだが、谷間などで受信の悪ければ「熊鈴」を常に鳴らし続けねばならず難儀ではあった。

冬ならば彼らに出くわす不安は無いものの、深い積雪に線路際から離れることも叶わなかった。
写真は、然別方での104列車<ニセコ>である。
この重量感の在る列車を広角で撮ろうとすれば、こうなる。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

本輪西 (室蘭本線) 1998

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1925年8月20日に長輪東線上の停車場として開駅した本輪西は、その後まもなくに隣接して建設の進められていた室蘭土地埋立株式会社による本輪西埠頭の第一期工事の竣工にともない、ここへの専用線を持つこととなった。それは岸壁における海陸連絡の臨港線であった。
続いて、本輪西川の旧河口付近を開削した貯木場へ駅本屋側の下り側線からの分岐線が設けられ、現在の港北町1丁目地内にLPガスの製造供給施設が集められると、これよりさらに分岐し本輪西川に架橋しての専用線が引き込まれた。
戦後の1956年12月には西側の埋立地に日本石油精製による室蘭製油所が操業を開始し、この際には列車の取扱増に対応して構内の拡張工事が行われ、現況の構内規模となっていた。
さらには、中卯埠頭に油槽所が設置されれば、これも本輪西川に架橋を要する専用線が上り側線群からの分岐にて敷設された。

この貨物輸送の拠点駅化は、室蘭湾内に面し室蘭対岸に位置するとなれば必然の展開であったが、近年の鉄道貨物輸送の衰退とそれを受けた1984年2月改正での国鉄自体の車扱輸送からの大幅な撤退により現JX日鉱日石エネルギー室蘭製油所関連を除く専用線を失い、中卯埠頭への一部が橋梁とともに名残を留めるのみである。
1980年5月15日付にて施行された北海道総局直轄管内室蘭本線の運営見直し時には現状を維持した体制も、この1984年2月改正を機に業務全てが日交観北海道支社(現北海道ジェイアールサービスネット)へと委託とされ、その後、1986年11月にこの区間にCTCが施行されると運転要員が引上げられ、製油所専用線へは本線機の入線により、ここでの構内作業も廃して構内掛の配置も無くなっていた。残る旅客フロント業務も1981年度に231人を数えた乗車人員が2008年度に33人まで減らして、2011年4月1日付にて業務委託を解除、以降には全くの無人駅である。
駅勢圏にあれだけ住宅街の存在しながらの利用実績は、やはりバスに敵わぬフリークエンシィの問題であろう。

写真は、本輪西を通過する1列車<北斗星1号>。
本輪西市街地を取り囲む丘陵の東端、国道が回り込む位置の斜面が改修され、そこにステップの付けられたのは90年代半ばくらいと記憶している。完成しつつあった白鳥大橋を背景にすべくそこを昇り、毎度のクマザサを掻き分けながら稜線を往って、ようやく視界の開けたところは小さな畑作地になっていた。何のことは無い、そこは古くから在る雇用促進住宅の裏手で、畑は住民達の家庭菜園らしいのだった。熊笹との格闘後だけに拍子抜けした覚えが在る。肝心の大橋背景の画角だけれど、全景では列車とスケールが違い過ぎて困ってしまった。

[Data] NikonF5+AT-X300AF Ⅱ 300mm/F2.8 1/125sec@f4 C-PL filter+Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1967

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1967年夏に初めて北浜を訪れた際の、そこでの最初のカットである。
ご他聞に漏れず、何はともあれ濤沸川橋梁に向かいこれを撮っている。この画角を押さえた後に、真横に撮ってみたり、橋梁の袂に接近してみたり、反対側の海岸側に回ったり、或は市街地背後の丘から遠望したりするから、これが北浜での基本形なのである。
この頃の拙い写真技術を思えば偶然の産物に違いないけれど、季節も海風もそこの大気感も写り込んでいて、以後ここでこれ以上の基本形は撮れていない。しかも、やって来た機関車は当時北見機関区に居たC581であった。

釣り人にはとっくに承知のことだろうが、汽水湖である濤沸湖にはオホーツク海に流氷の押し寄せると、それを避けて様々な魚が避難して来る。その中には海底の砂に暮らすカレイもいる。ずいぶんと前のことだけれど、流氷の去って湖面の氷も溶け往く頃、この橋梁下でタモ網を振り回す子供らを見かけ、背後から覗き込むと小さな魚がいくらでも掬えるのだった。聞けばカレイの子だと云う。ここで越冬して春に海へと帰って往くのである。その出口で待ち構えられてはカレイも敵わぬことだ。
親魚は海との間を自由に行き来しているらしく、これは、今でも湖面での釣り魚である。もちろん漁も行われていて、これの他の漁獲にワカサギやチカは当然との気もするが、ニシンもあると聞けば以外に思える。2008年度の統計では9トンもの水揚げが記録されている。これも海との往来組なのだろう。

列車は、混合630列車。
斜里から網走までの区間列車ゆえか、ここでのセオリーに反して貨車は後組成なのだった。
道東オホーツクの大気は爽やかで、当時札幌に暮らしながらそう思うのだから贅沢と言うものである。その海を見て「海水浴」を企て、見事に敗れ去る話は前に書いた。→北浜 (釧網本線) 1968

[Data] NikomatFT+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS(ISO200) Edit by Photoshop CS3 & LR3 on Mac.

五稜郭駅前 (函館市交通局軌道線・本線) 1977

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早い時期に無くなってしまったから、函館市民と云えど五稜郭駅前まで市内電車の来ていたことを知る人は少なくなったことだろう。函館市交通局軌道線の本線の北側末端にあたるガス会社前-五稜郭駅前間の廃線は、1978年11月1日のことであった。
戦時中の1943年に道南電気軌道から譲渡を受けて函館市交通局の発足した時点では、ガス会社前が本線の終点で、1954年11月20日に鉄道工場前までの1K260Mが、翌1955年11月27日にさらに五稜郭駅前への390Mが延伸されて、弁天(現函館どつく前)からの本線が全通している。この戦後の開通区間が最初の廃止区間なのである。
その国道5号線沿線には低い軒の住宅が張付いていたけれど、商業地の形成されたで無く、このガス会社こと北海道瓦斯函館工場や鉄道工場こと国鉄五稜郭工場に加えて小規模な工場や物流倉庫の点在する準工業地区であり、観光地としての函館とは無縁であった。

写真は、五稜郭駅前停留所に進入する古豪500型の513。
ここでは複線の合流する分岐器手前の安全地帯の無い路面で下車扱いが行われ、その後に電停まで進んで乗車扱いとなっていた。系統番号の10は、五駅前と駒場車庫前間を函館駅前-十字街-宝来町-松風町と回る系統で、1976年12月にそれまでの循環系統である1系統を五駅前で分割したものであった。
画角右上は、今は立体駐車場に転用されている五稜郭の貨物扱い所である。駅前の数軒の商店も今は全てが失われている。
前方に見える道道347号線との立体交差下には、高名な北海道瓦斯の専用線との平面交差が存在したが、この時期には既に撤去されていた。

余談めくけれど、この専用線は、北海道鉄道の手になる1902年12月10日の開業から1911年8月29日の新線開通による経路変更までここに存在した、かつての函館本線のルートを継承していた。五稜郭構内から直進して国道を斜めに横断していた線形はそのためであり、現在線の函館方に存在するR400曲線は、この変更時に新線の取付けにて生じたのである。
この経路上の函館駅は現在の西警察署敷地と云われており、今でもそこから北海道ガス工場跡までの、すなわち前記専用線終端部までの路盤跡も明瞭に辿れるにもかかわらず、廃線跡探訪的な記事を見かけたことはない。ルートは明確でも、100年を経てそこに在るのは単なる生活道路に過ぎず、確かに「探訪」するには物足りない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

桂川-石谷 (函館本線) 1994

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今、森市街地の小さな商店街を抜けて駅前を通過する北海道道1028号線(この区間では606号線と重複)は、かつての国道5号線である。現行の国道5号線-森バイパス開通により移管されたそれは、函館本線にとともに富士見町地内まで海沿いを進む。その先で線路の海側に移って鷲の木までの区間も町道として残されるが、湯ノ崎を回る途中で再び山側に戻り蛯谷に至るルートは廃道となっている。
鉄道と道路と、どちらの建設が先行したものか調べ得ないのだが、段丘崖の迫る地形ゆえ双方とも海岸線に沿うルート選択は道理である。(集落もこの海へ下る水流の河口部に発達したから、古来からの交通路もここに在ったはずである。)

ここでの、近年における交通量の増大に対する鉄道と道路の改良工事は、ほぼ同時進行で行われた。国道はバイパスの名の通り森市街地の迂回も含み、鉄道は複線運転化を目論むものであったが、狭隘な用地しか得られず波浪災害にも晒される湯ノ崎区間は、ともに隧道を掘削しての短絡が選ばれた。
先行したのは国道側で、その湯ノ崎トンネル(464M)は1969年に竣工し「森バイパス」が開通した。鉄道の先となれば、一時的にせよ湯ノ崎の蛯谷側で複線線路との平面交差(踏切)を生じてしまうのが、その事由ではないかと推定する。
函館本線には複線断面の桂川トンネル(706M)が新設され、その石谷方で廃された旧国道用地の一部が現行下り線の腹付線増路盤に転用されている。このような事情もあって、国鉄と北海道開発局が摺り合わせた上での同時進行だったのだろう。この区間の複線使用開始は1971年9月21日と記録される。

写真は、桂川トンネルを出る5列車<北斗星5号>。
ここでは上り線が在来位置で、それは海岸線を正確にトレースして湯ノ崎に取り付いていた。国道のトンネルと抗口の並ぶのは、新線の開通後に構築された落石覆いであり、本来の桂川トンネル出口はその奥にある。

この後に湯ノ崎を回る旧線路盤と国道跡を桂川へと歩いたのだが、途中それの波浪にて崩落した箇所の通過には細心の注意を要した。そこが道路が線路と直交して海側へと張出していた、かつての踏切位置である。
5月末と云うのに冷たい雨の一日で、帰り着いた森の待合室では温風暖房機がフル稼働していた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1993

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豊浦の大岸方弁辺トンネル出口までの線路変更は、同区間の複線化に際し、豊泉川流域に迂回していた経路を大岸/弁辺トンネルを掘削しての短絡化にともなうものである。
新旧の弁辺トンネル出口は並列するが、その位置の施工基面高は新トンネル側が4メートル程低く、それの一致する貫気別川橋梁手前の起点34K414M地点まで新線が建設され、ここでの10パーミル勾配とR302の曲線が除去されている。この工事終点から豊浦方では現下り線が在来線となり、旧線はこれに繋がっていた。今はここにブレーキングポイントが置かれ、新線の起点32K810Mを前記に読替えている。
新線は、1968年5月15日に現上り線のみによる単線で開通し、弁辺トンネルからの新旧並列区間の一部で旧線路盤を切り崩して現下り線路盤への転用工事を行い、同年9月25日に複線使用を開始している。

この転用部を除く旧線路盤は、国道37号線から浜高岡へと抜ける町道が旧線と並行した後に踏切で越えていた部分も、一部でこれを利用して新線の下を立体交差する形に改められたことで永く現存していた。
70年代半ば頃にはその地点から現在の噴火湾展望公園の在る丘への登坂路が切り開かれ、そこからの俯瞰が豊浦 (室蘭本線) 1979でのカットである。80年代半ばに至ると、この町道の改修により旧線路盤が崩されて、ここでのそれは判然としなくなってしまった。同時にそこに接していた上記の登坂路の入口も大幅に付け替えられている。この改修工事中の旧線路盤付近からの撮影が豊浦 (室蘭本線) 1988になる。

その小さな社がいつから存在したかは知らぬのだが、確かに上記の登坂路とは別に斜面を辿る草道は在った。この93年になって、そこまでの階段の整備され周囲の樹木の取り払われたのに気がついた。
写真は、その位置からの8001列車<トワイライトエクスプレス>である。
前記の2カットでの特徴的な杉木立が、ここでも良いアクセントになってくれる。画角には、豊浦 (室蘭本線) 1989の「ドライブインみさき」も見える。
カーブの内側は70年代までは畑作地で、その後に耕作の放棄されていた。現在では豊浦町によりパークゴルフ場に姿を変えている。その手の施設では絵にならぬゆえ、ここも失われたポイントではあろうか。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1980

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道内で端午の節句と云えば「べこ餅」である。今でこそ「柏餅」も売られているが、1958年に内地から小樽へと転居した一家は、節句にそれの無いのに困惑したと、母から聞いたことがある。
米粉(上新粉)と砂糖による蒸し菓子であるそれは、かつては各家庭にて慶事の度に作られ、おのおのに流儀の存在していたようだ。甘さは砂糖の加減次第だけれど、色づけや模様の出し方に工夫があり、蒸し上げ前の成形にも簾でロール状に巻くのと木型を使用するものとの流れがある。
甘い餅菓子は子供には美味しく、後には母もそれを作るようになるのだが、トラディショナルな自家製菓子の全国的な傾向と同様に、現在では菓子店からの購入が一般的であろう。

ここ鬼鹿には、古くからのそれの和菓子店があった。
その眞島商店は、何度か歩いていた羽幌線のオンネオニシュカッペ川橋梁に沿った橋の近くなのだが、菓子店と云うより雑貨品店然とした店構えに、永くそれと気がつかなかったのである。ある時入口のガラス戸に小さく張られた「べこもち」の札を見つけ、懐かしさも手伝って立ち寄ってみたのだった。撮影を終えて戻った駅で聞けば、地元では高名な店と云う。
餅菓子だから寒冷の中を持ち歩けば固くなってしまうのだけれど、車中に取り出せば直ぐに戻って、夜行列車での良い腹の足しになった。

ところで、この北海道の「べこ餅」は、後年に知る青森県鯵ヶ沢の「くじら餅」と同じものなのである。鯵ヶ沢は江戸期より北前船の寄港地であり、その時代には江差/松前での鰊の漁労に東北北部からの出稼ぎなど人的交流が存在したから、その伝播であろうとは考えていたのだが、この項を書くにあたってWebを検索してみると、どうにもそのルーツは開港地長崎にまで往き着き、北回り廻船航路の酒田/鯵ヶ沢から東北各地に伝播し変容したものが、個々に北海道にもたらされ、それらが道内独自に再統合されて「べこ餅」となったらしい。
このあたり、北海道人 特集北のお菓子達「べこもち」に詳しい。

写真は、鬼鹿に到着する826D深川行き。幌延から5時間をかけての運行であった。
冬期には風雪の凪いでも陰鬱な遮光層雲に覆われる日々の続く。それでも、雲間から陽光の差せば、海面はそこだけ本来の色を取り戻す。
ここは町外れの海岸段丘上に置かれた駅であった。このカットでは撮影位置の関係で海沿いのように見えるが、段丘崖の下に国道が通り、海岸線はさらにその先である。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f8 Nikon O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

朱鞠内 (深名線) 1973

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222である。2222も、22222も居たけれど、やはり桁の少ない方が鉄道車両なら初期車ゆえ有り難味の在りそうだ。
このキハ22の最初のロットの1両は、1958年10月30日に帝国車輛にて落成し旭川機関区に新製配置された。1962年度には名寄機関区へ転じて、宗谷本線やこの深名線に運用されていたのである。

キハ22は、本来はキハ21の後継車としてルーラル線区での運用を想定した形式であったにかかわらず、キハ55/26系列に酷寒地向け形式の用意されなかったから、その投入当初には寒地対応で客扉を車端に寄せ出入台を設けた構造を逆手に、積極的に準急列車に投入されたのだった。当時の道内主要線区における優等列車の無煙化と到達時分の短縮要求は、それだけ強かったのである。その頃には、デッキ構造を持たないキハ21が使われた程であるから、客車並みのキハ22なら上出来とも云えたけれど、キハ55/26が準急用の内地に比べれば格落ちには違いなかった。
それでも、1959年9月22日改正における函館線<かむい>や室蘭/千歳線<ちとせ>の設定は、キハ22の配備を前提にしており、現在の道央都市間連絡特急の原点であったことは記憶されて然るべきである。道内のみの翌1960年7月1日改正では、札幌-網走/稚内間に設定の<オホーツク/宗谷>にも、これの5両編成が充てられ、気動車による長距離都市間輸送もこれに始まることも忘れてはなるまい。
ただ、同改正では水戸機関区から苗穂に転入したキハ55/26系列による<すずらん>が、特急のなかった道内でそれに匹敵する全車座席指定の急行列車として函館-札幌間に運転を開始しており、優等列車らしい大きな窓に整った姿を札幌駅で眺めれば、その格差は一目瞭然で、それが冬期にキハ22編成に置替られると子供心にも無理を感じたものではあった。
これら優等列車運用も、1960年度末から配備の開始されたキハ56/27系列に取って替わられて往くのだが、その絶対数不足と運用区所の関連で永くそれに残存して、やがては「遜色急行」の名を頂くのはご承知のとおりである。

その在籍期間に存在した線区/区間で、キハ22の運転のなかったのは石勝線の楓-上落合信号場間だけであったから(これも記憶に値する)、沿線に立てばその運用列車は必ずやって来た。しかしながら、それを積極的に撮ったのは、組成の長い急行運用のあった釧網本線の標茶以南区間くらいだろうか。幹線筋の短編成の普通列車なら本番前の画角確認の程度であり、シャッタを切らずにやり過ごしたことも多い。加えて、蒸機がいなくなってそれしか運用の無くなった線区には、あまり出向かなくなっていたゆえ、これの写ったカットは思いのほか少ないのである。
けれど、撮影地点への移動には必然で、排気管のあるところの座席か縦型機関にて床に点検蓋のある近くを選んで乗り、アイドリングではカランコロンとあくまで軽く、勾配にかかれば重た過ぎる程のDMH17系列の機関音を楽しんだものだった。
防腐剤の染み込んだ木製の床材、初期車に残っていた白熱灯照明に、点検蓋から漏れ来る油臭さと車内に撒かれた消毒液の入り交じった匂いがキハ22の記憶である。

このキハ22 2は、永く名寄機関区に在籍した後に1985年3月改正にて運用を離脱、同時に旭川機関区に転ずるも休車の続いて、1986年3月末日付にて用途廃止が公示された。

写真は、深川からの921Dで朱鞠内に終着したキハ22 2。9時30分発の926Dで折返して往く。
眩しい程の雪晴れの朝であった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

石倉-落部 (函館本線) 1993

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それが何年に一度の間隔で行われていたものか知り得ないのだけれど、この区間の海岸段丘崖の熊笹やらの植生が一斉に刈り取られることがあった。頭部の赤く塗られて「工」マーク入りの境界標は段丘上の国道脇に埋められていたから、その斜面は鉄道用地である。国鉄の保線区所による列車走行空間保全の一環に違いないそれは、法面地盤の直接の状態確認のためなのだろうか。
それまで植生に覆われてしまって存在を知らなかったのだが、それの刈り取られると、ここには国道から線路へと降りる長いタラップが4箇所も設置されているのが見えた。ドライブインのあるところの少し落部寄りには斜降する通路も見て取れた。その少し前に深い笹や草を掻き分けて、比高20メートルばかりを登り降りしていたものだから、拍子抜けした覚えがある。
それで、地図上にそれらの位置をプロットし後年に利用を試みるも、それは再び植生に深く沈んでしまって所在を見つけられなかった。そんな状態であったから、果たして実際に保線業務に使われていたのかも疑問の通路ではある。
戦後の結成時から国鉄の労組と当局間には、職場の改善要求を提出する慣例があり、中には「宿直室に冷蔵庫を用意されたし」と云った項目も含まれたのだが、大半は作業の安全上の要求が並び、当局側も真摯に応じていたのである。このタラップも線路巡視の自動車利用が主となって必要と判断されたものであろう。結果的に無駄な設備にも思えるけれど、これの設置された頃の国鉄当局と組合との良好な関係を示す「遺跡」ではありそうだ。

写真は、第一落部トンネルを抜けて再び噴火湾岸に出た8002列車<トワイライトエクスプレス>。
この前年の7月半ば、傾いた西陽が段丘面に遮られてしまったゆえ→石倉-落部 (函館本線) 1992、夏至の時期を狙っての再訪だったけれど、やはりそれは列車通過直前に途切れてしまうのだった。海面からの反射光に些か救われる。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

木古内 (海峡線) 2005

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道南の紅葉黄葉は10月下旬である。夏の長引いた年ならば、それの11月にズレ込むこともある。ところが、ここでの11月初めと云えば秋と冬の気候の迫間でそれは決して安定しない。太平洋高気圧の衰弱にともない寒気の南下して、低気圧は頻繁にオホーツクを東進するようになる。
この年も紅葉黄葉前線の遅れの報に、仕事を遣繰りして渡道を先送りしたものの、途上に立ち寄った矢立峠では雷鳴轟く豪雨に出会い、渡道初日の大野平野でも、そこは江差側からの風の通り道となって低い脊梁山地越えで生成された雨雲が次々と通過する有様なのだった。もう少しだけ季節の進めば、それは降雪をもたらす雲である。
翌日に早朝から立った小沼畔でも驟雨に襲われ続け、携帯電話をWebに繋いで雨雲情報を得てみれば、直線で40キロばかりの津軽海峡沿岸が雨雲ルートから外れるのを見て取って早々と転戦を決めたのだった。

かつて、木古内の江差/松前方は木古内川橋梁まで江差線と松前線の単線が並列しており、新幹線規格の海峡線から在来線への連絡線は、左右に分岐して往くこの2線の間に割込む形で建設され、並列区間をそのまま複線に転用する配線が選ばれた(*)。
江差線はこれの下り線から、松前線は上り線からの分岐とされたのである。けれど、松前線は海峡線開業を待たずに廃止となり、そこに挿入された分岐器は両線に列車を捌くことなく撤去されてしまった。
(*) - 但し、その際にこの区間に存在したR300の反向曲線は改良され、木古内川橋梁が川上側に架替えられている

写真は、海峡線の新在分岐点からの在来線接続線を下る3063列車。画角外左に松前線の軌道跡が残る。
全ての貨物列車が木古内への運転停車のため、ここで速度を緩める。それは、滑走防止に撒かれた砂を巻き上げての制動になっていた。
日照のあった木古内だけれど、この時既に北側に局地的な寒冷前線の接近が黒雲となって見て取れ、光線はその上辺からスポットライトの如くに差し込んでいた。それはレンズ鏡筒に直射してハレーションを引き起こすが、低くてキリ切れない。
これの撮影直後、小さな寒冷前線はここまで到達し、突風をともなった降雹に襲われた。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 Non filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.

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