"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

倶知安-小沢 (函館本線) 1974

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青函を深夜便で渡れば、函館からは101D<ニセコ1号>である。
接続列車には<おおぞら><北海>の特急も在ったけれど、均一周遊券で乗れたのは急行自由席までだったから選択肢はこれしか無い。特急の走り去った後を追う、函館5時05分発は1980年10月改正での列車廃止まで不変で、札幌方面へと急ぐ客は特急に乗るゆえ、11便の25分後の1便で着いても空席のあるのも有り難かった。例えば1972年3月改正時点での所定8両編成は、キロ26-1両を含む4両が座席指定車でもあり、本州連絡急行の貫禄十分であった。
札幌まで小樽経由だったから、この場合の渡道一日目は大抵函館山線の何処かを撮ることになる。幾度も乗った列車だが、確かに札幌までの5時間を乗り通した記憶はない。

この急行は、1961年10月改正における<おおぞら>の新設に際して、運転区間を函館-札幌間に短縮した11・12<大雪>の後身であった。この大雪山の麓まで往かなくなった<大雪>は、1963年6月1日を以てキハ56/27系列の気動車編成に置替られ、この際、列車名も11D・12D<ライラック>と改めている。さらに、1966年10月改正で翌年春に設定予定の函館山線特急に列車番号を譲って101D・102Dとなり、1968年10月での列車名統合にて<ていね>と共に<ニセコ>を名乗のったのである。
余談だが、<ニセコ>の愛称はそれまで倶知安-札幌間の地域内準急に使われたもので、こちらは<らいでん>と改称された。

下りは終始札幌行きであったのだが、趣味的に興味深いのは上りである。
1968年10月改正での<ニセコ>への改称時に、それまでも運用上車両の直通していた根室-札幌間<阿寒>と統合され、根室-函館間1414D-404D<ニセコ3号>となったのである。遥か東端から根室本線を運行する列車に<ニセコ>の名称も奇異だけれど、札幌以南も根室線系統の400番台の列車番号を通したところも珍しい。しかも根室-釧路間での1414Dはキロ26をキハ27が挟み込む3両組成(キハ56/27の5両は釧路回転車)に、普通車の座席指定車-1両を含んでいて、3種の座席種別設定を持つ最短編成列車であった。
さらには、1972年3月改正にて釧路-札幌間のみが6404Dとして季節列車化されてしまうのである。即ち、これの運転されない期間には、根室-釧路間と札幌-函館間にて一日に2本の上り<ニセコ3号>の運転されることとなった。
以後、暫くこの状態が続くのだが、さすがに国鉄も最東端の列車に<ニセコ>は無いと思い直したものか、78年10月改正で、札幌にて系統分割し以北区間を<狩勝>に編入、変則運行は終了した。
なお、根室から函館までの829.4キロ(砂原線経由)は、ついぞ破られることのなかった気動車急行列車運行距離の最長不倒である。

写真は、後方羊蹄山(しりべしやま)からの雪晴れの朝日に倶知安峠へと向かう101D<ニセコ1号>。
この季節ならば長万部を過ぎて、ようやく車窓に雪原が青く浮上して来る。青森/函館と深夜に乗継いだ乗客の大半は眠っていて、いつも夜行列車の続きのような朝だった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8-11 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

寿仮乗降場-新弥生仮乗降場 (天北線) 1985

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夜の闇を衝いて走る列車は魅力的な被写体に違いない。
暮色や薄明ではなく、夜間である。構内照明の中での駅出発ではなく、駅間である。沿線でそれを待てば前照灯の描くサークルと客窓の灯りで列車は夜に浮かぶから撮れそうに見える。

但し、それには幾つかの条件を考慮せねばならないのは当然であった。
シャッタ速度とある程度の被写界深度の確保にはTri-Xをどこまでも増感すれば良いけれど、ISO12800は35mmフィルムには論外で、ISO6400でもどんな現像を試しても粒子の荒れが大きくてディテイルが崩れてしまうゆえ、この目的にはせいぜい3200が限界と知れた。
前照灯と客窓を写し込まねばならない画角決定も、それの強い光りによるハレーションを避けて俯瞰気味の位置を要し、見かけ上の動きの小さくなるよう列車の移動方向と光軸は浅く交差させねばならなかった。習作を繰返して理解するのだが、光源としての列車周囲の光景は単純であること、加えて前照灯の光束を明確化出来れば、それに越したことはない。この条件の一例には、積雪線区での降雪時があった。

写真は、激しく降り積む雪中に、第八頓別川橋梁(118M)付近で捉えた303列車<天北>。
このカテゴリでは結局のところ満足の往くカットは撮れずに終わっていて、これも習作である。
編成の存在を捉えるべくR400の曲線を選んだのだが、列車速度は70km/h以下に落ちているものの、フィルム上での見かけの動きは速くて1/60秒ではブレを生じてしまっている。窓明りも明確でない。

このカットから20年を経て、ディジタル撮影のもともと集光性の高い撮像素子と画像エンジンの性能向上はISO12800を常用感度域に含むに至り、それは銀塩の限界を軽々と越えている。夜間の走行写真は、もはや当たり前の撮影領域だろう。
コンテもある。アイデアもある。けれど、撮れる機材を手にした頃に、撮りたい列車はとっくに走り去った。そんなものである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 Non filter Tri-X(ISO3200) Edit by CaptureOne5 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1978

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冬期間、函館本線の山線と呼ばれる区間での風雪による輸送障害は、山間部よりも寧ろその中での海線である小樽築港-銭函間で生ずることが多かったと記憶する。現在の民営会社と異なり、国鉄は余程で無い限り列車を止めはしなかったのだが、海岸線をトレースするここでの暴風雪には脆かったのである。

この冬か、前の年であったかは忘れてしまったのだけれど、午後からの降雪が夕刻に至って、丁度撮影を終えたあたりから極端な吹雪と化したことがあった。風雪は飛礫となって露出した顔面を襲い、まともに前を見れぬ程で、マウンテンパーカのフードを深く被り、こんなこともあろうかとパックに用意していた山岳用ゴーグルをかけるのだが、高所での紫外線対応で暗緑色ゆえ、暮色の視界がさらに暗くなってしまうのが難点ではあった。
這々の体で銭函駅待合室に逃げ込み、そこで小樽-手稲間の運転見合わせを知った。そう言えば、ここに至るまで列車には出くわさなかった。
その日は道内ツアーの最終日で、山線夜行の荷44列車で函館に向かう予定にしており、それを札幌まで迎えに往くつもりを、ここで待てば良いと最初は高を括っていたのだった。海鳴りとも風音とも知れぬ唸りが天空を覆って、海側を向いた待合室の窓と言う窓は、横殴りの風雪に塞がれてしまったのだけれど、ストーブの燃えるそこは快適ではあったのである。但し、売店は早仕舞いしていた上に外にも出れぬから空腹は堪えるしかない。
19時を過ぎても風雪は一向に収まらず、札幌に待機していた<ニセコ4号>と、まもなくそこに到着する<北海>は、長万部以遠本州方面旅客を<おおぞら6号>に移乗させた上で前途を運休と出札の駅員から知らされれば、札幌からの夜行<すずらん>への切替を考えるも国道を往くバス便も運行を停止していると云う。

駅寝も覚悟し始めた23時を回った頃、遂に運転は再開され、何本かの電車や気動車が満員の通勤客を吐き出した後に、荷44列車はその日の最終列車としてやって来たのであった。ガランとした客車に乗り込んだ時には安心感からか、空腹も厭わず直ぐにも眠りに落ちてしまった。直近の小樽停車すら覚えていない。
翌朝、周囲のざわめきに目覚めると、満員の乗客の姿が見えた。遅れを増して函館の通勤通学時間帯に割り込んだ列車は、約3時間延で8時過ぎのそこに終着した。予定した26便には乗れなかったけれど、ホームの駅蕎麦の美味しかったことは記憶に鮮明だ。

写真は、激しい降雪の恵美須岩を往く833列車岩見沢行き。
視程が効かず望遠は使えない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f5.6 Y42 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1986

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2011年に、東日本旅客鉃道はC61形蒸機の復元に合わせて、高崎車両センタにて動態保存の在来形客車-7両に整備を施工した。それまでの運用上の制限を撤廃し、現代の一般的な営業運転に供することを主眼に旅客の保安度向上と客室環境の改善を図ったものである。その工事項目のひとつに「蒸気暖房設備の整備」が在って、客車の動態保存なら欠かせぬ要素と予々考えていただけに歓迎すべきことであった。
ところが、その冬の上越/信越線での展示運転は12系客車ばかりで、この在来形客車編成の出番はなく、蒸気暖房の復活は年を越した京葉/内房線での運転を待たねばならなかった。この千葉みなと-木更津間に運転の「SL内房線100周年記念号」を伝える鉄道誌のリポートには興味深い記述がある。
高崎車セ高崎支所の担当者が語るに、在来形客車の7両全てを組成した列車の暖房に供給するに「適当な蒸気圧が解らなかった」と云うのである。これは極めて初歩的な技術であろう。
高崎鉄道管理局管内にて、最後までこれを使用したのは両毛線と記憶する。1968年の春までのことで、かれこれ40余年を経過するけれども、部内に記録の残されていなかったものだろうか。例えそれの見つからぬにしても、鉄道の街高崎ならば、上信越線に暖房車運用の実績もあり、まだまだ存命の乗務経験者も多かろうと思われる。
技術とは、継承がなければ、それの不要となった瞬間に途絶するものと、改めて思い知らされるエピソードであった。

暖房管から漏れ出す蒸気をなびかせての走行や、駅に停車して床下から立ち昇る蒸気に包まれる姿は、懐かしい情景だ。夜目にも白い蒸気は、バルブでもかければ幻想的な美しいベールとなって印画紙に立ち現れた。
電気暖房と縁のない道内では、それは見慣れた光景でもあった。混合列車が運転上から独立暖房のウェバストヒータに依っていた石北本線も、その当時から旅客列車でスジの引かれた521・522列車は蒸気暖房を使用していたし、84年2月改正での混合列車廃止以降には全てがこれに移行した。同様の釧網本線のみが、それの廃止は同時に気動車化であったから使用実績は無いままである。

写真は、札幌駅3番乗降場に到着した516列車<大雪>。
この当時、郵便/荷物車は隣駅苗穂で解放しており、ここでの組成は見られない。機関車は蒸気暖房装置の停止前に内部の蒸気を排出している。
道内の客車急行は、14系に置替られてからも併結の荷物車や郵便車の存在により蒸気暖房は必須であった。そのために北海道向け改造を受けた14系500番台車は、後位へ蒸気を送るためだけに蒸気暖房主管を持っており、最後部となったスハフ14からの蒸気の吐出も見ることが出来た。
また、編成の長い<まりも>の下りでは、厳冬期の狩勝越えに際して蒸気が編成後部に至る間に冷えてしまい、蒸気暖房供給用のみの後部補機、所謂「暖房補機」を追分-新得間に使用することが多々あった。

これら急行列車での蒸気暖房も郵便車/荷物車自体の連結廃止にともない1986年10月30日の各列車終着を以て終了した。(<ニセコ>と<まりも>については疑問があり、これについては以下の追記に記する)
なお、道内最期の蒸気暖房列車は、1994年3月改正以降、小樽-岩見沢間に平日の朝のみに残存していたオハ/オハフ51編成の931・932列車で、それの電車化にともない同年10月31日の運転を最期に、その歴史は閉じられた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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苗穂-白石 (函館本線/千歳線) 1991

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豊平川橋梁(217M)苗穂方のR400曲線を抜ければ、ほぼ直線のこの区間は、千歳線列車運転線を含む複々線の続いて引きも取れ、札幌往来の列車写真には定番の区間である。橋梁の架替に際して生じた短いR800の反向曲線がアクセントを添えている。
加えて、複々線の南側には白石構内から線路を撤去した路盤が続き、画角に余裕を与えてくれていた。
ご承知のとおり、1968年10月1日の新札幌(現札幌貨物ターミナル)の開業に際して、東札幌から白石を経由しての連絡線として敷設され、1986年11月1日に東札幌とともに廃止された貨物運転線跡である。開業当初は千歳線に所属したが、それの白石接続に経路の変更された1973年9月9日を以て函館本線の支線とされていた。

実を云えば、この路盤の白石寄りの一部区間は、戦時の不要不急路線として1945年3月1日に東札幌から白石までを廃止した定山渓鉄道のそれを転用したものであった。この鉄道は、札幌在住者には一般に千歳線の苗穂までを直流1500Vで電化して乗入れていた郊外私鉄と認識されているけれど、1918年の開業時の起点は白石だったのである。
そこに市街地の形成される遥か以前の廃止にて、その痕跡は残っていないが、現在の札幌コンヴェンションセンタ南側の道路がその一部と何処かで読んだ記憶が在る。けれど、1948年4月に米軍の撮影した空中写真に廃線跡を追えば、その敷地に、即ちかつての東札幌の貨物ホーム位置に取り込まれているように見える。

写真は、行啓通り踏切の白石寄りからの回8022列車。白石から札幌運転所までの<カートレイン北海道>編成の回送である。真夏の昼近くならば、光線は強烈なトップライトに荒れてしまう。
白石で客扱いと自動車の取卸しを終えた編成は、折返し整備のため一旦札幌所まで送られていた。その際の運転線は勿論この函館上り線である。白石据付けの下り回送は、千歳線上り運転線(下り線)が経路であったけれど、それでもそこで千歳線下り運転線と函館上り線の横断を要していた。

最近に、この行啓通も跨線橋にて立体化され、この区間での立体交差は3箇所となって撮り難くなった。豊平川付近に撮影者の集中する所以かも知れない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北入江信号場-有珠 (室蘭本線) 2002

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東海道/山陽本線の電化進展にともない余剰となったD52形蒸機の函館-東室蘭操車場間への転用は、ここでの貨物列車の1000トン牽引に際して、七飯からの下り専用線を含む駒ヶ岳山麓区間と噴火湾に落込む急峻な地形の静狩-洞爺間に介在する10パーミルの標準勾配での牽引力向上を意図してのことであった。DD51形内燃機に置替られてからも、当該区間での速度は大きく低下していたものである。

室蘭本線上には、これに加えて洞爺から有珠にかけても、短いけれども同様の勾配区間が存在する。7000から8000年前と推定される有珠山の山体崩壊による岩屑なだれの堆積物上を通過する区間である。
この、現在「善光寺岩屑なだれ」と通称されるそれは、成層火山であった有珠山の山頂直下の崩壊により、そこを要として扇状に噴火湾に達し、その西端は現在の虻田漁港付近に、東端ではエントモ岬に至った。この間の海岸線は堆積物による複雑な地形となり、後背には流山地形が続いている。入江川左岸には堆積物側端崖が生成時の状態で現存し、世界的にも希有な例と云う。学術的に断定はされていないようだが、エントモ岬から内陸への段丘崖もそれを思わせる。
洞爺から直進した室蘭本線は、堆積物側端崖を避け、10パーミル勾配に取り付きながら右へ迂回し、さらに左に回ってサミットに達し、周囲の小高い流山の間を直線的に抜けて洞爺側とは逆の曲線で有珠へと下る線路選定がなされている。サミット部には1945年と1994年の2度に渡り北入江信号場が設けられた。

写真は、R300からR360の反向曲線を有珠へと下る2051列車。
DF200がこの区間へ進出しつつあった頃で、この宮城野発着の高速貨物A列車は、比較的早い時期からそれの牽引となっていた。運行図表では、DD51の牽引列車に比して明らかにスジが立っていて、その性能差が見て取れたのだった。

ここは、2010年8月号「JTB時刻表」の表紙写真に起用されたのがきっかけと思われるのだが、最近には多くの撮影者を集めている。その位置は植生が踏みつけられて露頭と化す有様なのだけれど、以前からの写真屋の定番はこの畑作地縁からの画角であった。
90年代の初め頃だったろうか、農地の拡張整備に際して周縁部の樹木が伐採されて視界のとれるようになったのである。70年代半ばまでは、逆にこの背後に原野が広がっていて、そこからこの築堤を見上げた覚えがある。

農地の所有者に聞けば、そこを掘れば岩やら大石がゴロゴロ出ると云う。それは、旧有珠山を構成していた8000年の彼方からの安山岩である。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1992

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標高30メートル程の二股付近で谷を抜けた長万部川は知来川を合流して、自らの形成した小さな扇状地の緩い傾斜を南流する。戦後に米軍や国土地理院の撮影した空中写真を見れば、標高が10メートルを切る美畑付近からの下流域では蛇行して、かつての流路の痕跡が幾つも認められる。
大きな出水のある度に流路の変わっていた、所謂暴れ川であり、抜本的治水には放水路の建設を要したのであろう。その放水路である新長万部川については、長万部 (室蘭本線) 1994に書いている。

これの開削に際して、かつての流路は水門により締切られ、オバルベツ川との合流地点まで細い水路の残されたものの水流はなくなっている。旧来の河幅は残された堤防にて知れるが、河川敷は広大なパークゴルフ場である。
本来の水源を絶たれた現在の長万部川は河川名こそ残るけれど、実質的にはオバルベツ川の延長、その下流部と云うことになる。

写真は、長万部川橋梁上の3054列車。
10月の初めの穏やかな午後、格好の餌場となった新長万部川あたりからは、ウミネコが一斉に飛び立って行った。

オバルベツ川は、10キロに満たない延長の小河川だから、橋梁下にかつての流量はなく水面は静止している。
ここでは、この上り線が複線化時の新設線である。蒸機の時代には、ここの左寄りから噴火湾を背景とした画角も切れたのだけれど、今は長万部町の汚水処理施設が入り込んでしまって叶わない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

室蘭 (室蘭本線) 1970

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留萠の、かつての広大な構内の大半が、しかも必然的に現駅施設に隣接したパークゴルフ場と化している姿には衝撃を覚えるのだが、ここ室蘭も同様である。入江運動公園の広さには驚く。それは、そこに置かれていた石炭積出施設を含む駅構内の一部に過ぎないのだけれど、その広大さを十分に示している。
両駅とも石炭の積出港としての海陸連絡駅であり、機関区などの運転区所も伴った拠点駅だったことも共通している。炭山の衰退と輸送構造の変化が命運を決めたと云って良い。

ここでは、貨物施設の全撤去後に区画整理を施行し、既存市街地のやや西側に寄っていた旅客施設を移設している。1997年10月1日のことで、かつての室蘭機関区付近の貨物着発線の跡地である。
1892年に室蘭として現東室蘭(但し位置は異なり、現輪西付近である)まで達していた北海道炭礦鉄道線は、馬車への積替えを要していたエトスケレップ仮桟橋までの輸送を直接荷役とすべく、1897年7月1日に延長線を開業し、桟橋へは現御崎付近からの分岐として、仏坂トンネルを穿って市街地の形成されつつ在った仏坂下に旅客乗降場を設け、ここを新たに室蘭と名乗らせた。
今、室蘭観光協会に寄贈されて残る3代目の室蘭駅舎への移転/移設は1912年のことで、ここの構内に隣接しての石炭高架桟橋の運用開始とそれにともなう構内の拡充整備の要請により、旅客設備がその最も奥に追いやられた結果であった。
1997年の再移転は、やや北側にズレるものの2代目室蘭駅とほぼ同位置に再び乗降場が置かれることになり、石炭輸送の盛衰の丁度100年を経ての先祖帰りである。

旅客乗降施設が海岸町の3代目駅舎の当時の旅客運転線の配線には不可解なところがあった。上り線から場内下り本線(2番線)への渡り線は、機関区横にまで至らぬ内の乗降場の遥か手前の位置に設置されており、そこへの到着列車は延々と下り本線を走り、まるで本線逆行のように見えたものだった。場内上り本線(1番線)から下り線へ進出する渡り線は、乗降場を出て直ぐのところにあったから、この両渡り線間の場内上り本線には、1番線へ到着する上り列車しか運転しないのであった。バランスを欠く配線と云う気がするが、貨物着発線への分岐が関係しているものと思われた。

写真は、室蘭駅下り本線から下り線への直進ルートで出発する229列車岩見沢行き。
ここは、終端駅なのだけれど、配線は西室蘭へと続く中間駅の類型に属し、しかも上り下り本線とも明確な機回シ線を持っていなかった。その都度、機関区との出入庫を前提とした線路の引き回しなのである。それでも、機回シの上で折返す列車も設定されていて、それは機関区通路線の使える1番線に着発させていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

帯広 (根室本線) 1983

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帯広は、狩勝や士幌線への拠点として宿を取ることが多かった。待合室は、上り夜行<狩勝>(後に<まりも>)の発車後から数時間閉鎖されたし、<からまつ>の廃止前なら、それの上下を富良野で乗継ぐ「舞戻り」もしたけれど、23時乗車で2時台乗換えの5時半下車は、なかなかに厳しく一度で懲りていたからである。

手元に残る、交通公社版「北海道時刻表」1975年2月号巻末の同社協定旅館のペイジを捲り、帯広市でその施設名称からシティホテルないしビジネスホテルらしきものを探すと、帯広グランドホテルと帯広グリーンホテルに帯広ステーションホテルの3軒がピックアップされるのみである。勿論他にも存在したであろうが、情報の乏しい当時には、全国版のホテルガイドブックでも持ち歩かぬ限り、時刻表の巻末が頼りなのだった。

帯広の3代目駅舎は、1961年に帯広ステーションビルとして建てられた民衆駅で三階建てであった。これに4階を増築し1972年に開業したのが、帯広ステーションホテルである。なにより、改札口に最も近いホテルであったから、大抵はここを宿舎にしていた。
信じられないかも知れぬが、この時代のビジネスホテルはアウトバス、即ち「風呂無し」が一般的だったのである。勿論、ウィズバス(バス付き)の部屋も在るのだけれど、そこは部屋面積も広くてグレイドが異なり、料金的にも大きな差のあるものだった。このアウトバス/ウィズバスの言葉自体、現在では死語と化していよう。
ここもアウトバスの部屋が廊下両側に整然と並んでおり、狭い空間にベッドと小さなデスクにテレビ(しかも有料)だけが置かれ、寝床の提供と割り切ったものか、暗い室内の灯りの様は、Rolling Stones の歌う Memory Motel とはこんなところか、と思わせたものである。
それでも、駅構内側の部屋を所望して、帯広止りの<狩勝>の運転区への入換えなど眺めるのは楽しかった。今で云う、トレインウォッチホテルの走りと云ったところだろうか。夜の明ければ、検修庫の向こうに伸びる十勝鉄道帯広部線の線路も視界にあった。

写真は、深夜の帯広駅3番ホームに停車する413列車<まりも>。
増結がある座席車-4両に寝台車-5両と荷物車(北東航1)/郵便車(北東航21)の11両は、在来型客車時代の最大13両組成には及ばないけれど、道内夜行急行の中でも特別な寝台車を連ねた編成は、函館-根室間運転時代から1961年の寝台列車化を経て受け継がれた列車の「格」である。末期の183系気動車編成化後でも寝台車は、その最期まで2両の組成で、それは守り抜かれたと見て良かろう。

背景に、帯広ステーションビルが見えて、その上階部分がホテルである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S Bulb@f5.6 Non filter ri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

二股-蕨岱 (函館本線) 1981

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以前、ここに「この幾度もの道内通いで鉄道の無いところへは行かない(行っていない)」と書いた。
けれど、白状すれば二股温泉には泊まったのだった。長万部川の谷を、そして二俣川の山間へ分け入ること10キロだから、これは鉄道の無いところの範疇だろう。

その始まりは知らないが、70から80年代に国鉄がリリースして駅待合室の掲示板などに貼り出されていた「国鉄ニュース」と云う広報ポスターがあった。確か月刊だったと記憶する。どこの駅で見かけたものか、道内ではなかったと思うが、この頃のそれに、秘湯の文字とともに二股温泉とそこの石灰華ドームが紹介されていたのであった。
恥ずかしながら、その際には「石灰華ドーム」が何たるかなど知らぬゆえ、そこの外湯のドーム型の屋根をそれと勘違いして、そこをくり抜いて風呂のあるものと思い込んでしまい、その強力そうな色合いの泉質も気になって、ならば一度と宿泊を計画したのであった。なにせ「秘湯」である。雪に埋もれる冬場が良かろうと。

上目名で102列車<ニセコ>を押さえてから後続の121列車にて二股へと向かい、そこから翌日の102列車までをオフにして、宿の送迎車を待った。
谷を遡って到着したそこは、鄙びた建物の一軒宿の温泉場で、それは温泉旅館ではなくて完全に湯治場であった。一軒だけの湯治温泉は珍しくは無く、内地の例だと旅館部と湯治部と建物が分かれ、宿泊や食事内容も異なったりするものだけれど、ここにそれはない。
早速の、いくつもある湯舟めぐりで前述の勘違いに気づいて、改めて眼前の赤茶けた巨大な岩が、しかも石灰華ドームのほんの先端部と知ったのだった。けれども、湯舟が石灰華の地盤を掘り抜いて造られているのは本当で、いたるところの茶褐色の様は異境のごとくに思えたものである。
この時は重さも厭わずに栗山小林酒造の「北の錦」四合瓶(この当時なので、残念ながら一級酒)を持ち込んでいて、古くて隣室の声などまる聞こえの部屋で、それも肴に至福の夜を過ごした。夕食時に手に入れた石灰華のこびり付いたボトルを徳利代わりに、露天風呂でぬる燗をつけながらも呑ませてもらったのは、云うまでもない。

翌日は、風の強くて吹雪模様の降雪となった。視程の効かぬ中、102列車<ニセコ>が音も無く雪を蹴って滑走して往く。DD51重連のシルエットだけで、それと知れる列車はあまり無い。14系客車に置替られてまもない頃である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 10] 上興部 (名寄本線) 1973

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上興部に下車した際の同駅名標のスナッブである。
戦前には興部を凌ぐ駅勢を誇り、一の橋との間の峠越えの補機解結駅にて機関車駐泊施設(当初は名寄機関区上興部分庫)を持ち、駅弁当の販売も在ったと言うから主要駅だったのだろう。1935年には、構内分岐の専用線をともなう道直営の石灰石の採取場も開かれ、貨物の発送トン数も大きかったはずである。
この1973年当時も、それは北海道農材工業上興部石灰砿業所の専用線として健在で、本線列車を牽いて来た9600が1キロ程奥の工場まで出入りしていた。これ以外にも到着/発送の貨物も多く、貨物扱い線や側線には貨車の屯していたものであった。

写真には、その留置貨車が写り込んでいる。驚くことに、その所属たるや鹿児島鉄道管理局、常備駅は鹿児島とあって、北辺で見る遥か南の貨物車であった。しかも、家畜車-カ3000形、調べてみるとこの頃に18両まで数を減らしていた同形式の一両なのだった。いったい、どのような家畜を遥々と運んで来たものか、何昼夜を架けた輸送であったのか、付添人はひとりだったのか、はたまたリレーして来たものか、暫し感嘆に耽った覚えがある。
けれど、貨車は全国一律運用であったから、たまたま道内入りしていたこの車両が家畜車の要求により、ここへ配車されたものかも知れない。

日本の近現代史の専攻で後に鉄道史学会を設立された原田勝正氏によれば、日本の車扱貨物輸送における輸送効率は先進国にあっても最高レヴェルで、英国国鉄の10倍、フランス国鉄に対しても4倍の高効率だったと云う。(出典:日本の国鉄 1985 岩波書店)
それは偏に貨車操配技術に優れていた故である。荷主からの輸送申込を受諾した駅からの貨車配車要請に対して、荷の種類/分量/形状に適合した貨車を最短時間で配車する。鉄道の創成期から1984年2月まで、これは国鉄における最重要業務として本社/鉄道管理局/現業機関に専門部署が置かれ、毎日15時からの24時間を単位に全国の貨車の動向が細かく把握されていたのである。主に使われていたのは、全国をネットワークしていた鉄道電話であり、朝の定時通信には、通話時間を定めて各部署間の回線独占が認められていた程と聞く。当然ながら配車指令は専用回線も持っていた。
圧倒的なマンパワーを背景に実務と経験によって実現されていたこれは、過密ダイヤと狭い国土の線路延長から無制限に貨車を保有出来ない日本国鉄の事情が産み出した世界最高の技術であった。
現在、コンテナひとつひとつにタグが付され、それを読み取ることによって同様のことが実現され、それの積まれた貨物列車は衛星通信にて位置が把握されているけれど、その基本的な考え方はこれらをベースにしている。

さて、このカ3104は、この後どうしたのだろう。家畜輸送の需要は僅かとなっていた時代だが、それの消滅したでなく、両数の少ない中で各地の要請に従って全国を回遊したものだろうか。鹿児島へと帰ったのは何年後だったのだろうか。このサイズの写真では判然としないが、車体の全検出場表記は「47-10鹿児島工場」と在って、回帰まで余裕のあるゆえ、それも考えられぬでも無い。貨車の雄大な旅に想いを馳せる。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 2012

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美々川は、石勝線駒里信号場に程近い畑作地に切れ込んだ低い崖下からの湧水を水源とし、湿地帯を形成しながら蛇行を繰り返して南に流下しウトナイ湖に至る。そして、そこの南岸から溢する流れも美々川と呼ばれるのだが、1キロも往かぬ地点、千歳線上り線と室蘭本線を交した下流で旧勇払川が合流すると、勇払川と名を変えてしまう。その事情については、勇払川に関連して前にも書いたことがある。→勇払 (日高本線) 1988

そこには、流路の判然としない程にウトナイ湖の周辺湿原が伸びていたのだが、ここを通る車窓には年々ハンノ木と思しき樹木の繁殖と成長が見て取れて、湿原の乾燥化を感じていた。それは、ここに限ればウトナイ湖の水位低下、面積の縮小によるもので、明らかに70年代から西側で行われた排水工事/土地造成による人為的な結果であろう。
ここへは、橋梁が樹木に覆われる前にと、数年振りで訪れたのだけれど、ごく最近に河川改修と排水路工事が行われたものと見え、湿地の東側は整地されて完全に失われていた。西へ追いやられた流路も、かつての湿原の中の滔々とした流れを喪失して淀むばかりなのだった。

写真は、千歳線下り線の勇払川橋梁上の8002列車<トワイライトエクスプレス>。
残された湿原を前景とするには、この画角しか切れなかった。これとて湿地とするにはススキの原に過ぎ、樹木が列車を隠すのも時間の問題だろう。連日の悪天の中での秋空が救いだった。

ところで、沼ノ端 (千歳線) 1992に書いた、ここで20年前に拾った猫の3兄弟のその後である。
以来、思い出したように連絡を取っていた同級生によれば、黒猫の雄は、好奇心の旺盛だったものか事故で急逝してしまったらしい。バックパックに詰め込んでの移動の時、その底まで潜り込んでしまい「落としたか!」と焦らせたのは、確かにこの子だった。
ホルスタイン柄の雌のひとりは里親の転居で99年以降は消息不明だけれど、その先が関西と聞けば、道産子猫の命脈をかの地に伝えたものと思う。江別に引き取られたもうひとりの雌猫は、美々川から「ぴぴ」と名付けられ数年前に天寿を全う、今もその子孫が同家に健在と云う。

[Data] NikonD3s+PLANAR T* 50mm/F1.4ZF 1/1000sec@f4 C-PL filter ISO320 W.B. 5560 Developed by CaptureOne5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1988

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手稲に暮らした頃、今の子供達もそうであるように、札幌駅は「汽車を眺めに行く」場所だった。
駅前通りはビル街になっていたけれど高層ビルは影も形も見えず、長い跨線橋を越えての北口は開かれて間もなく、その向こうには低い家並みの続くばかりだった頃である。
北側の構内には札幌客貨車区が健在で、検修庫に客留線が広がっていた。

駅を行き交うのは圧倒的に客車列車で、その先頭に立つのはC57にD51、10時過ぎと16時前には121・122列車でC62の姿も見られ、札沼線へと向かうC11や入換に忙しいC56も通り過ぎていた。けれど、実のところそれは余りに見慣れていて、興味はむしろ、優等列車に続々投入された気動車に向かい、<オホーツク・摩周・宗谷>や<はまなす・天北><紋別・羽幌>などのキハ56/27系列による長大編成が、全ての排気管から紫煙を高く吹き上げて猛然と加速して往く様を飽かずと眺めていたのだった。勿論白眉は、121・122のC62と相前後して入線して来るキハ80(82)系の<おおぞら><おおとり>で、乗降場に停車したその編成には一種の近寄り難さもあって存在感は別格であった。
ただ、東北線<はつかり>のキハ81を知っていたから、どうして北海道特急がそれでは無いのか、子供心には少々不満だった覚えがある。キハ82の優美さは、まだまだ理解出来ないのだ。
余談めくが、その停車時間は5分丁度であった。これは、ここで運転台の交換があるからでは無く、当時特急列車の主要駅での停車時分が5分だったのである。他の停車駅が30秒から長くても3分と云うなかで、<はつかり>の仙台も<つばめ>の広島も<白鳥>の金沢も同様であった。この5分とは、列車の格と駅の格を誇示するものだった訳である。

夏となれば、もう一つの楽しみがあった。この頃には旅行客の押し寄せる夏期輸送に対応すべく、本州方面の区所からの車両借入が常態であり、普段には見られぬ車に対面出来るのである。キロ28には、道内向けのキロ26と異なる優等車らしい大型の側窓に羨望し、軽量客車のナハ11にもその近代的で軽快な姿に大きく惹かれたのだった。

駅の高架化とは、いわば高架人工地盤への駅施設の全面移設であるから、同敷地の旧地上駅は全て失われる。
札幌を離れてからも渡道の度に札幌駅には必ず降り立つゆえ、変遷を経ながらも当時の面影を強く残す構内を見続けていたけれど、今はその痕跡を探すなど無理な話である。記憶の一部をもぎ取られたような気がしている。

写真は、降雨を衝いて地上駅時代の札幌に桑園方より入線する回2列車。札幌から<北斗星2号>となる編成である。
これの運転開始から高架1次開業の88年11月3日までの8ヶ月間、<北斗星>は地上駅に出入りしていた。乗降場有効長の関係で、それは到着も出発も3番ホームだったと記憶している。
旧札幌駅、最後の華であった。

旅客会社所属のDD51は空知運転区(旧岩見沢第二機関区)の配置で、ヘッドマークは駅に付属していたから、回送列車には取付けられていなかった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

常豊信号場 (根室本線) 1976

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大沼公園 (函館本線) 1971から続く

国鉄が1970年代前半に展開した営業施策である『DISCOVER JAPAN』と題された誘客キャンペーンは、万博輸送に向けて整備拡充された幹線輸送力の、それの閉幕後の利用確保を目的として立ち上げられたのだけれど、それは遂には当時の時代の気分を象徴する社会現象となり、その後現在に至るまでの旅行のスタイルを規定し続けているとして過言では無い。それは、「旅すること」の商品化の観点である。

スポンサーは国鉄に違いないが、巨大広告代理店-電通の主導したこのキャンペーンは、万博への誘客に際して得たノウハウをより深度化したものであった。すなわち、国鉄と大手旅行代理店が密接に連携し、その駅頭や列車内に代理店店頭のみならず、電波に紙媒体などマスコミへの広告やパブリシティの露出を集中投下的に行い、設定された旅行商品販売の専用窓口を国鉄駅と旅行代理店にあまねく設けていた。
60年代からのレジャーブームにて潜在化し、万博への旅行にて顕著となった(団体旅行やグループ旅行に対しての)個人旅行客の需要維持と拡大に主眼が置かれて、既存の特定の観光地への集客ではなく、「旅に出ること」そのものがテーマであった。

おそらく、主導した電通は意図的であったと思われるのだが、このキャンペーンタイトルは、ヴェトナム戦争への反戦運動に揺れるニクソン政権によるナショナリズム運動であった「ディスカヴァーアメリカ」の捩りであり、サブタイトルとして付された「美しい日本と私」のコピーにあるように、日本においても頻発した学園紛争や沖縄返還闘争、そして70年安保と動揺した社会に見え隠れしていた時代の気分を読み取り、保守回帰を促す要素を持っていた。
掲出されたヴィジュアルも、初期には特定の観光地に拘らない、日本の自然や歴史、伝統など回帰色の濃いイメージが表現され、ここからひとつには「古い街並」が新たな観光地として注目されて往く。同時期に創刊された平凡出版の「an・an」や集英社の「non-no」と云った、これも従来のものと一線を画した女性誌が、必然として個人旅行を編集テーマ化し、そこへと向かう新たな個人ないし少人数グループの、「アンノン族」と呼ばれ女性旅行者の一群を産み出し、社会現象となった。けれど、そこでの「旅」は与えられた情報の追体験であり、それは消費するものであった。
政治の季節の過ぎた沈黙の70年代に、商品化された旅は、時の為政者による新たな民衆管理の道具となり、『DISCOVER JAPAN』とはその触媒であったとも見て取れる。

さて、これを60年代末から道内を旅していた鉄道屋から見れば、それはキスリングを背負った「カニ族」と呼ばれた旅行者達を激増させ、たちまちに駅や連絡船に夜行列車を埋め尽くすものの、70年代半ばを過ぎると瞬く間に数を減じて、確かに「アンノン族」と思しき女性旅行者にとって替わられて往くのだった。やがては冬期にひとり旅する姿も目撃するようになる。彼女達は、あまり夜行急行には乗らぬゆえ、それの座席確保に余裕の生じたのは福音ではあった。その向かう先は、情報に管理されて「再発見」する函館・小樽と云った街であったから、それで「放浪」する必要もなかったのである。

落葉松林を抜けて往くのは、401D<狩勝1号>。
新吉野から厚内への根室本線は、浦幌川の河口を目指すでなく、左に転向して厚内トンネルをサミットとした山越えをする。浦幌から常豊信号場へと歩いたのだけれど、見るべき足場はなかった。
これは、カラーで撮るべきとは承知のカットである。

『DISCOVER JAPAN』キャンペーンに具体的に旅行地の登場するのは、導入期を終えた72年半ば以降のことで、それは津和野・萩に木曽路と云った本州方面であったから、旅行の王道の北海道は少しばかり蚊帳の外に置かれた。混雑を極めた道内優等列車も乗り易くなっていたのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y52 Filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

大沼公園 (函館本線) 1971

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鉄道事業にとって通勤通学や用務利用客ばかりで無く、観光に娯楽や休養目的と云った旅客の誘致は、戦前期より必須であった。私設鉄道においては、寺社仏閣や静養地/保養地への到達を目的に敷設されたものも少なく無く、沿線に観光地の無ければ自らが遊園地や劇場等の娯楽施設を運営し、集客を図って来た。ターミナル駅へのデパートの開設も、その延長上にある。
鉄道院/鉄道省の時代からの国鉄も同様で、直営の施設運営こそないものの(*)近郊の沿線観光地を駅頭にて宣伝し割引乗車券の発売などを通じて誘客に務めたのである。国鉄は全国ネットワークであるから、各地の有名観光地も対象となり、周遊券の起源となる「遊覧券」制度は1925年に制定され、北海道や九州と云った観光地の集合体である地域を対象とした自由乗降型の北海道遊覧券に九州遊覧券も1933年には発売されていた。
戦後も、それは輸送事情の落ち着いた1955年に周遊旅客運賃割引規定に基づく「周遊割引乗車券」として復活し、翌年には最初の均一周遊券として北海道周遊券が登場している。

(*) - 例外として、「国鉄山の家」「国鉄海の家」があった。どちらも国鉄直営によるスキー客/海水浴客向けの宿泊施設である。道内には、1937年開設の「ニセコ山の家」が存在して2000年代初めまで営業していた。

1960年代の高度成長期に至ると、折からのレジャーブームにより観光旅行は主婦や中高年層をも巻き込み、国鉄はより一層の旅客誘致策を投入することになる。ここに登場したのが、特定の観光地に対して国鉄運賃/料金のみならず、2次交通や宿泊施設までも割引料金にて加えたクーポン式の特殊割引乗車券であった。現在では、旅客/貨物鉄道各社による旅行業は、あまりに一般化しているのだが、それまであくまでも利用運輸機関として旅客誘致に携わった国鉄が、「旅行商品」そのものを企画し販売した最初の事例となった。そして迎えるのが1970年に大阪千里丘陵にて開催された万国博覧会である。

1964年に初めて単年度の赤字に陥った国鉄は、66年3月に運賃/料金の引上げを行うのだが、これは増収どころか、輸送人員の減少をもたらしていた。その意味でも、大きな輸送需要の発生が予想された万国博覧会は、起死回生の機会でもあったのである。
東海道新幹線電車の16両編成化や波動用12系客車の投入などの輸送力増強を背景に、万国博の見物旅行には全国各地を発駅とする特殊割引乗車券が設定され、販売に際しては大手旅行業者との提携の元、電波/紙媒体ほかのマスコミを最大限に利用した一大キャンペーンを展開する一方、全国主要駅に万博コーナー(専用カウンター)を設置してのきめ細かな誘客業務も行われて、国鉄は万博全入場者の約34%を輸送する実績を確保したのだった。

この万博輸送に整備された輸送力を有効活用し、それの閉幕後の需要確保を目的としたのが、1970年10月1日からの『DISCOVER JAPAN』と題された誘客キャンペーンであった。
これについては、次記事に続ける。

写真は、大沼と小沼の接続水路である通称-セバットを往く、D52牽引の4181列車桑園行きである。
この付近の風景は約40年を隔てた今もさほど変わっていない。迫渡橋梁(21M)のスルーガーダーは、水面交通の桁下高の確保によるもので、遊覧船も引き続きこのサイズに限定される。ただ、線路周囲の樹木は生長して、それに覆われるようになってしまい、写真は少々撮り難い。

北海道周遊券の発売は、カニ族と呼ばれた横長のキスリングを背負った一群の旅行者を呼び寄せたのだが、離島や秘境など奥地を目指した彼らに、既成観光地のこの大沼地域は魅力的では無いらしく、離道に際して帰りがけに立ち寄ることが多かったようだ。札幌からの夜行<すずらん>は、シーズンには満員で季節停車する大沼で多くのカニ族が下車していたものである。(上りの砂原線運転に付き大沼公園は経由しない)

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR on Mac.

倶知安 (函館本線) 1982

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倶知安は、内地と結ぶ主要幹線上の拠点駅であったから、当然に駅弁当も売られていた。
ここで、最初に構内営業を行ったのは、記録に残る限りで1911年5月8日に開業の倶知安駅構内立売商会であるらしい(*)。北海道鉄道(初代)による駅開設が1904年10月15日、高島(現小樽)-小樽(現南小樽)間開業にて北海道炭礦鉄道と連絡して函館-札幌間に直通列車の走り始めたのが1905年8月1日であるから、遅きに失したと見えなくも無い。北海道鉄道は1907年7月1日付で国有化されており、許可者は鉄道院と言うことになる。

(*) - 駅弁研究に詳しい林順信氏の記述による。ただし、氏はその出典を明らかにしていないため、この日付が許可申請/許可下付/会社設立/販売(営業)開始の何れに当たるか検証出来ない。この年代の研究者に共通した悪癖である。

それとの歴史的な関連はわからないが、戦後に駅弁販売と駅そばの営業を行ったのは、倶知安町北三条西二丁目に所在(後に近くへ移転)した清水立売商会である。
ここの経営者は、なかなかのアイデアマンと見えて特殊駅弁に面白いものがあった。知る限りだけれど、60年代の後半には、近隣の狩太がニセコと改称したのを見てか、これ冠した「ニセコこわめし」に「ニセコそば」が売られ、ニセコを冠した商品名称の先駆けとなっていた。この当時の道内で強飯は例がなく、もりそばの折詰も長万部と並んで珍しいものであった。手元に残る掛紙を見れば双方とも100円とある。70年代の初めにどちらも販売中止となるのだが、その後にもりそばは「折詰もりそば」の名称にて復活している。
その頃に、300円と400円で並と上の在った「特製おべんとう(幕の内弁当)」も、そのおかずの内容が単純に上は並に種類を付加するでなく、わざわざ変えてあるのも面白く思ったものだった。両者ともに添えてあったみそピーナッツには、ご飯の足りぬ程と記憶する。
86年には、その後の地域グルメに駅弁ブームを先取りするかのような「男爵焼じゃがいも弁当」を発売するも、この年の11月1日改正による優等列車全廃の余波で1年足らずにて販売を中止してしまった。これの掛紙を所有していれば珍品である。
駅弁販売から撤退後も駅そば営業を続けた清水立売商会も、ついに力尽き2010年3月いっぱいにて廃業に至った。

写真は、雪の倶知安を出発する132列車、長万部行き。岩見沢客貨車区の4両組成-3組使用による運用番[札32]である。
道内へのオハ51/オハフ51の配備が完了し、この年の11月15日改正にて置替られたものだが、荷物車の連結が無くなった編成は、函館山線普通列車では異様に短い。この頃、倶知安以南へ運転は、これと折返しの137列車だけだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mmED/F2.8S 1/15sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

猿払-芦野 (天北線) 1986

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音威子府から稚内へは幌延回りの宗谷本線と浜頓別を経由する天北線の二つのルートが用意されていた。その双方が必要とされた故であろうが、急がれた樺太連絡の使命をも担って先行したのは後者であった。

北海道鉄道敷設法第二条に「石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道」と規定された予定線は、1903年に北海道官設鉄道天塩線として名寄まで到達していたものの、以北区間については財政上の事由にて建設は中止されていた。これに対して、帝国議会には、「天塩北見鉄道促成建議案」や同建議書が相次いで提出、いずれも可決されたことから、官設鉄道を引き継いだ鉄道院は1909年に至って名寄-稚内間の建設を決定したのだった。
この際に、音威子府以北の経路の比較検討がなされ、幌延回りが建設距離の短いにかかわらず、ここでの沿線開発には天塩川の水運の利用出来るとして、それの無い頓別原野開拓を重視して浜頓別回りの採用されたと云う。
しかしながら、海岸湿原に続く軟弱地盤に工事は難航し、この猿払付近では盛土が沈降して、その両側に大きな排水溝を築造した上に設計の3倍を越える土量を投入して地盤の安定を図ったとの記録も残る(*)。途中までの順次開業を経て稚内(現南稚内-但し現在位置ではない)までの開業は1922年11月1日となり、遅れて着工した幌延回り線に僅か4年を先行しただけであった。

(*) - 北海道の鉄道(守田久盛/坂本真一著)吉井書店1992 の記述による

よって、ここを1923年5月改正にて設定された樺太連絡の函館桟橋-稚内間急行1・2列車が運行したのは、1926年9月24日までの3年余りに過ぎないのだけれど、急がれたそれの運転目的に速成を企った節があり、線区の規格や設備は簡易なものとされている。1・2列車も線内は各駅停車運行だったのだが、各停車場にしても場内有効長も乗降場のそれも短く抑えられたものであった。もっとも、それは当初より幌延回り線の本線化を前提としていたものでもあろうか。
早い時期にメインルートの地位を奪われ、その後の輸送需要も設備に見合ったものであったのか、大きな改良のなされることなく67年後に廃線を迎えた。

写真は、氷結したポロ沼を背景とした304列車<天北>。
猿払-芦野 (天北線) 1985と同位置からの冬姿である。牧場主には同じように断りをいれるけれど、牛の居なければ電柵には電流の通じてはいない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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