"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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豊浦 (室蘭本線) 1991

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1988年の春に本州連絡の寝台特急が走り始めると、幾度か降り立っていた豊浦に宿泊を要することになった。早朝の下りのそれに、長万部や東室蘭から始発の移動では間に合わないのである。
以来、海岸町の民宿美音(みね)をここでの常宿にしていた。きっかけは、失礼を承知で書けば、この頃の豊浦市街地に在った6軒の旅館/民宿に予定したポイントに近い順番に電話を入れたのだけれど、満室とか、食事は用意出来ぬとか、休業中とかの事由で断られてしまった末のことであった。
豊浦旅館の向かい、と案内されて訪ねたそこは、格子の窓が通りに面した古い建物で、勿論民宿経営を前提に建てられたもので無く、それが幾つ在ったものか分からぬが、空き部屋を転用した全くの民家であった。迎えてくれた気さくな老主人には、まだそれを始めて間もないと聞いた。
黒光りする廊下の玄関脇の部屋に通され、その後に何度泊まってもそこばかりだった。客室がこれしかなかったものか、朝が早いと申告していたゆえの玄関脇であったものかは聞き漏らしている。畳の打ち直され掃除も行き届いた部屋の居心地は悪く無く、連日の撮影のことや悪天の予報されていた翌日を休養日にするつもりと話すと、昼間から風呂を焚いてくれ、まさしくゆっくりとさせてもらったのだった。
その風呂は家庭の浴室そのものだったのだが、翌年には民宿用の浴場を新築して、予約の電話を入れた際には昼風呂の一件を覚えておいでだったものか、それを盛んに自慢していたのが印象に残っている。

その後、室蘭か苫小牧か失念したが、そこで教員生活を定年退職なされたご子息夫妻が経営を引き継ぎ、建物も民宿向けに建て替えて、ここは現在も「民宿みね」として盛業中である。

写真は、貫気別川橋梁からの築堤上の3列車<北斗星3号>。
礼文華海岸の断崖を背後に見る、この画角は豊浦のポイントの中でも好きな光景だ。
運送会社に断りを入れての、その敷地からだったけれど、今では手前に豊浦町の下水処理施設が稼働していて邪魔をする。

[Data] NikonF4s+AFNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1977

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石北本線の上川-遠軽間は、北海道鉄道敷設法に依らず、道内幹線網の最後の区間として1930年代と云う遅い時期に開通している。それは、それまで池田からの網走本線、もしくは名寄から紋別を回る名寄本線/湧別線経由に頼っていた北見・網走方面の道央への短絡を目的に建設されたものである。
石狩と北見の往来を阻んでいた石北峠区間は、それゆえに元来人口の希薄な地域であり、現代ならば石勝線のごとくに信号場の連続にて通過したであろう。駅の設けられたのは、当時存在した開拓地への便を図ったものであり、それの消滅したり、或は鉄道以外の交通手段の登場すれば、停車場自体や客扱いの廃止は自明の理でもある。

それを理解しても、古い鉄道屋の眼には時刻表の当該ペイジを開いて、上川の隣駅の上白滝は衝撃に写る。CTC施行後の、そして定期貨物列車運行の撤廃以後の措置にて、天幕の廃止は避けれなかったものの、中越/上越/奥白滝の閉塞区間は維持されて、これらは信号場に戻ったものと見ることも出来る。けれど、かつての本屋が窓に板を打ち付けられて廃屋同然に朽ち往くのには虚無感の募るばかりだ。
興味を引くのは、この際には駅として存続した上白滝の存在である。列車運行も引き続き朝夕の2本のみに変わりない。早くに交換設備の撤去されて、その旧下り本線跡の自然に還り、残された乗降場も荒れるに任されたこの駅は、駅周辺に民家の残って潜在利用者と見なされた数家族が、おそらくは鉄道に頼らずとも済むであろう彼らが、その命運を握っている。それは無責任に過ぎる戯言と承知しているけれど、鉄道屋としては、一度その立場に立ってみたいとも思ってしまう。

写真は、名称は失念したが奥白滝から国道333号線を越えた先の短い隧道を抜ける16D<おおとり>である。
ポータルにまで積雪の付着して雪洞のように見える。
特急向け設備の重い車体にDMH17系列機関は、それでもフルノッチなのである。この25パーミル勾配を実にゆっくりとした速度で上って往った。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1985

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抜海から3キロ程の酪農地帯を抜けた宗谷本線は、クトネベツ原野に分け入り、急曲線を左右に回りながら起点250キロからの左曲線にて海岸段丘の縁に至り、ここをR302-R262-R302と500メートル程続く右回りの複合曲線で通過している。車窓に日本海が開け、海上に利尻島を見る区間である。
この曲線の終端近く、旭川起点251K096M地点が施工基面高-42Mでこの区間のサミットであり、両側には10パーミル勾配が続いている。
すなわち、ここの分水界は日本海岸に面した段丘崖上と云うことになる。実際に、ここの南側を水源とするクトネベツ川は抜海の北で日本海に注ぎ、東側から沁み出すエノシコマナイ川はオホーツク海に向かっている。規模はずっと小さいけれど、噴火湾岸の静狩峠を思わせる地形である。

鉄道屋には高名な定番撮影地なのだけれど、熊笹の深いことでも知られ、海側にせよ山側にせよ、付近の丘陵にポイントを求めようとすれば、身の丈を越えるそれを避け得ない。加えて、ハイマツの群落も点在して(それに鋭いトゲのある低木もある)行動をより困難にしているのである。ポイントを決めても、次には周囲をなぎ倒して視界を確保する必要もあって、カメラを設置するまでの作業量に辟易する。積雪期には、それの深くてラッセルしながらの登坂には労力を要したから、いずれにせよ鉄道屋泣かせの現場ではある。ここで難儀した諸兄も多いだろう。

写真は、この区間での302列車<宗谷>。251K096M地点は列車最後部の後方あたりになる。
不思議なことに、ここでの笹の丈は海側の丘の方が低いのである。この位置へは蒸機撮影時代の記憶を頼りに登り、事実そのとおりであった。線路を挟んで、それの育成に差異を生ずる条件差は分からない。

ところで、ここに建てられた「利尻富士」の標柱周囲は露頭になっている。かなり以前の写真を見ても、また現在もそうである。標柱を建てるだけの整地が、ここの植生にそれほどのダメージを与えたのだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

洞爺 (室蘭本線) 2008

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洞爺の上り方、黒岩トンネル(下り線はクリヤトンネル)の直上は、70年代の半ば頃にはその東側の噴火湾に面した斜面の土地造成と合わせて切り開かれ、それは別荘地の開発ではなかったかと推定しているのだが、おそらくはそれの頓挫して永らく放置されていた。その頃にそこへ立ってみれば、樹木に遮られて眺望は得られずに引き返している。

今、この周辺の地形図を開くと近年に制定の杖をモティーフとした老人ホームを指す地図記号が目立つ。それの集中地域としても良いくらいである。道内でも温暖で平穏とされる気候がゆえだろうか。
放置の続いたここも、その格好の建設予定地となり、95年に西胆振地域にて老人福祉事業を営んでいた社会福祉法人幸清会によるデイサービスセンターが開設され、2001年には養護老人ホームや軽費老人ホーム(ケアハウス)などの入居する6階建ての「ふる里の丘総合福祉館」が建てられてた。
その際に園内の管理棟を兼ねて設置された展望台に上れば、直下の線路から虻田市街地と続く噴火湾の海岸線を遥かに一望出来る。部外者の出入りは規制されていないけれど、ここの付属施設であり撮影には断りを入れるべきだろう。

列車は、8002列車<トワイライトエクスプレス>。春分も近い頃だけど、この時刻に陽はずいぶんと傾いてしまう。
2006年から、ここでは漁港の築港工事が始められ、洞爺 (室蘭本線) 1990のポイントは過去のものとなった。工事は現在も続いている。

ところで、豊浦-洞爺間の上り線は、1968年9月28日の新線(現下り線)開通により切替えられた旧線の路盤を一部で活用しつつも新たな隧道掘削などの線形改良により、1970年6月30日に使用開始したものなのだが、この際に放棄された旧線上の赤岩トンネルは単線並列であり(上り列車車窓からも見える)、その入口側抗口に続く路盤跡も複線分の用地幅を持っている。知る限りで、ここに列車交換設備=信号場の置かれた記録は無く、謎の設備である。その事情をご存知の方がおいでならば、ぜひご教授を願いたい。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

別当賀-落石 (根室本線) 1981

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根室本線は、糸魚沢に尽きる湿原から根釧台地の南縁に取り付いて、浜中では標高80メートル程の上部に至り、半島部に踏入る厚床を過ぎれば、そこから続く脊梁部の平地に進路を選んでいる。北のオホーツク側からも南の太平洋側からも谷の入り込んだ別当賀はその幅の最も狭くなり、ここの施工基面高76Mを最高所に南北に斜面が続くのが見える。そして、ここから落石の間では温根沼とそれに注ぐ温根別川が大きく入り込んで脊梁は太平洋岸まで押しやられ、車窓に落石湾と岬を望む、地の果てと形容されるような景観が広がるのである。

この冬には、落石に降りてからの距離のある線路歩きに躊躇して、駅前の道を辿って疎らな集落の坂道を落石漁港へと下り、それを眺めながら西側の外浜に出て、段丘を仰ぐ三里浜を延々と歩いた。足下の砂も思っていたより固くて、落石岬や天狗岩の急崖を眺めながらのトレックは、地の果てにあらず、ここから地の始まる光景の楽しいものだった。撮影地に至る目的がなければ歩かないから、これも鉄道屋の役得みたいなものだ。
もちろん、最後には段丘上の線路まで30メートル程を登らねばならぬのだが、前回の訪問でその見当はつけてのことである。

列車は233Dの根室行き。後追いである。
首都圏色への変更の進んでいた一般型気動車の国鉄制式塗色のキハ22と新鋭キハ40との組合せの見られたのは、この頃が最後であろうか。

13時過ぎと云うのに、北辺の冬の太陽はこんなに低い。
それに日没も恐ろしく早いのである。この後、15時過ぎの上り貨物を待ったのだけれど、暮れ色の様相であった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

緑 (釧網本線) 1978

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ここは、釧網本線の釧北峠の網走方に在って、東釧路方の川湯とともに運転上の重要な地位を占めていた。峠の山中に信号場を持たない14キロあまりの長い閉塞区間の始端終端駅として、そして弟子屈からここまでが運用区間であった補機の解結駅としてである。それは、古くは道内に珍しい8620であり、後にはC58なのだけれど、1968年と云う早い時期に釧路機関区に投入された12両のDE10(27-38)に置替られてしまい実見してはいない。
74年夏の本務機運用の無煙化以降もこの状態は続いたのだが、78年10月改正にて補機運用のその重連総括制御を活かしての釧路-網走間の通し運転に改められ、この頃にはここに待機する機関車の姿も見られなくなっていた。

上下本線に加えて下り線外側に待避線と、機回しにも使われたであろう2本の側線を持つ構内は広く、待避線では貨物列車が旅客(混合)列車の先行を待っていたものである。開けた構内は、その側線の東側に南へと広がる草原に依るところで、そこはかつて上札鶴森林鉄道の接続していた広大な土場であった。そこの本線寄りには68年10月まで使われた転車台の存在したはずなのだが、この時の訪問では積雪のせいか、その痕跡を探し得ていない。

網走行きの混合634列車は、ここで対向する613D<大雪1号>の通過待ちで暫し停車する。待避線には1693列車が、それの先行を待っている。
貨物列車の設定が比較的多かった釧網本線には、待避線を持つ駅が数多く配されており、1982年の釧路鉄道管理局による配線略図では起終点と棒線駅を除く線内19駅中14駅にそれが見て取れる。(但し、その全てが運用されていたとは限らない)
なお、ここの混合列車は、貨車の前位組成定位により冬期の暖房を車載のウェバストヒータによっていたから、例え貨車の連結の無くても蒸気暖房のスチームの吐出は見られず、些か物足りない。前記の12両のDE10も後には1両を除いて蒸気発生装置非搭載の500/1500番台に差替えられている。
余談ながら、道内でDE10が蒸気暖房を稼働したのは、73年4月から86年3月2日までの江差線列車に対してのみである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

落部 (函館本線) 1977

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内地に祖父祖母を訪ねて、幾度か乗っていた1960年代の函館海線だけれど、森を過ぎての噴火湾沿い区間は集落も疎らで侘しい風景が続いていた。急行の停まる森や八雲は在ったものの、低い軒の家並みは、連絡船に乗継ぐ内地の車窓を見慣れた眼には、その落差も感じられ、列車が小樽なり東室蘭に着けばほっとした覚えがある。札幌へと帰る身でさえそうであったから、北に活路を求めて函館線の客となった人々なら如何許りかと察する。1954年に小樽勤務を命ぜられた父にそれを問うと、やはり寂寥感を持ったと言う(*1)。この区間の風景はそれほどのものだった。今、振り子特急で通過する車窓とは隔世の感がある。

その中間駅の落部には、ここが集落と離れて設置されたせいか、車窓の記憶がない。初めて下車するのは、内地から通うようになってからである。もちろん、前後区間に在る撮影地へのベースとしてであった。
閉塞は自動化されていたが、上下の待避線も備えた運転駅で、良く知られている通り、アジア太平洋戦争末期に内地への海運によっていた石炭ほかの戦略物資の青函航路への振向け(*2)による勾配改良と複線化に際して、既設線を下り線とした上りの別線上の駅として開業し、この時に将来の既設線廃止が前提であったから、緩い曲線上の構内は大きく、既設駅と同等もしくは上回る規模で建設されたと思われる。本屋の函館方には2線の貨物扱線にその荷役施設を持っていた。
函館-長万部間では、森/八雲に次ぐ乗車人員の在り(*3)、1982年11月15日改正からそれの廃止される84年2月1日改正前まで函館-長万部間の<せたな>が停まる急行停車駅だったこともある。これは、現在でも、それの後身である上りの快速<アイリス>に引き継がれている。
86年11月の改正にて要員は引上げられてしまうのだが、その利用により引続き簡易委託駅とされ、営業時間の短縮されるものの現在でも同様である。

(*1) - その風景の先に、小樽のような街が存在するとは信じ難かった由。
(*2) - 近海の制海権を米軍に奪われたことによる。陸運転換と称した。
(*3) -1981年度で197人-青函局統計による

写真は、駅員の配置されていた頃の落部駅。
小雨の中、DD51に牽かれた3081列車の通過を当務駅長はホームに出て見送る。列車監視と通過時刻の採時は運転扱駅の職務である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/8sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

厚賀-大狩部 (日高本線) 1984

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太平洋への日没を見る、国内でも特異なロケーションを走るのが日高本線である。
けれど、その車窓は静内を境に異なり、そこまでの海岸段丘と海岸線の間でのルート選定は、その先では急峻な日高山脈の南端が海へと落込む地形となって、内陸へ谷沿いに迂回して小さな峠を越え再び海沿いの集落に至る線形を繰り返す。蒸機撮影の時代には多くの撮影者を集めた区間では在ったが、それが力行する以外には取り立てての撮影地点の存在した訳では無かった。

内燃動力の時代となって、太平洋を望む鉄道風景となれば必然的に前者で、日高門別川河口から静内川河口に至る間の海岸段丘が海に迫り線路を海岸線へと押しやる区間になる。中でも、ここ厚賀から大狩部までは、並行する国道は段丘上を通過していて鉄道だけの画角が切れる。
後に鉄道屋には良く知られた地点となるここは、急峻な段丘崖の高さと波涛の迫る海岸線で、同じ段丘風景でも音別あたりの穏やかなそれと異なり切迫感がある。息を呑む景観と云って良いだろう。
国道からは、段丘上の牧草地を延々と横切らねば到達出来ず、単なる観光旅行では得られぬ風景である。

列車は704D<えりも4号>。
1959年6月7日に札幌-様似間の臨時準急として設定され、63年6月1日改正での定期列車格上げを経て66年6月1日改正で<日高>統合と増発により3往復化、編成も75年3月10日改正以降にはキハ56/27による3両を所定とするまでに成長していたのだが、85年3月14日改正で所定をキハ56の2両とするも実際にはキハ40の充当されて遜色急行の仲間入りをし、翌86年11月1日改正にて廃止されてしまった。今は、都市間バスがその使命を担っている。
これの運転で特徴的なのは、室蘭本線急行と併結していた苫小牧-札幌間にあった。下りの(千歳線内は上り列車)様似行きは、室蘭線列車の後部に併結の上苫小牧の日高線本線(1番ホーム)に到着して解放されていたのだが、上りの札幌行きについては日高線から室蘭線の下り本線に直接入線出来ない構内配線の都合から、一旦室蘭方に引上げての転線を要し、下り室蘭線急行へは前部併結と後部併結の例が存在したのである。室蘭線急行の到着を待たせての前部併結は札幌到着編成をそのまま上り<えりも>に折返す際の工夫であろうか。苗穂区の急行形気動車の運用を複雑化させる要因のひとつであり、運転計画/運用ともに注意を要する列車だったのである。
余談になるが、室蘭線急行の特急格上げにより単独運転となって以降の札幌行きは、苫小牧を到着した日高線本線から発車し、苫小牧(貨物)構内の渡り線を使用して室蘭下り線に転線していた。これも特筆される運転かもしれない。

[Data] NikonF3P+Ainikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

釧路 (根室本線) 1980

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回転寿司に代表される低価格寿司店のネタに欠かせぬのが「サーモン」である。それは、カナダやチリ、ノルウェイから輸入される養殖のアトランティックサーモンやサーモントラウト(ドナルドソン)で、サケマスの国内流通量の約8割を占めると言われている。
この鮨ネタとしての生鮭に初めて出会ったのは、幣舞橋近くの鮨屋であった。勿論「回らない」寿司店である。1980年頃と記憶する。店主が「北海道らしいでしょう」と云いつつ握ってくれたのが、それであった。
札幌の「やまべ鮭ずし」に苫小牧の「サーモンずし」と駅弁にも存在したように、握りにせよ、押し寿司にせよ、鮭ネタの珍しいことはない。ただし、それは酢締めである。当時の東京の鮨屋には見かけぬネタであり、確かに北海道、それも釧路らしいに違いないが、店主は養殖ものと付け加え、降海型のそれの養殖の行われていることをこの時に初めて知ったのだった。

国内におけるサケマスの養殖は、戦前からのニジマスの内水面養殖を前段階として1960年代より試験養殖が開始され、70年代後半にはその得られたデータから魚種をギンザケとした事業化が行われて、それは北海道にも養殖海面が設けられたのだった。生産量も1983年度に全国で2800トンを記録したそうであるから、80年の釧路の鮨屋での出会いとも符合する。おそらくは、それは北海道産に違いはなかったのであろう。

このギンザケ養殖も1991年に26000トンを記録するも、特にチリ/タスマニア地方からの輸入モノと競合して価格的に破れ、2000年代に入ると10000トンを切るようになっている。冒頭に記したように、今、回転寿司店で供されるのは、ほぼ全てがこの輸入サーモンである。

写真は、暮色の釧路川橋梁を渡る239D根室行き。秋分を過ぎれば、ここの日没は急速に繰り上がる。
いまでこそ、きれいに整備された橋梁の周辺であるが、この当時には雑然としていて、対岸の水産施設も北洋漁業の衰退で活気がない。総じて侘しい景観の中に在った。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8 1/125sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1974

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函館市の北に位置する七飯町の人口は、1975年から2000年までに1万人程の増加をみている。この間、北海道のそれも50万人ばかり増えているのだが、85年以降は横ばい状態の続き、道外からの札幌都市圏への流入が全道からの流出を上回った過ぎない数字である。
七飯町の増加は、同期間に3万人を減じた函館市からの転移が大半と見て良いだろう。70年代にも市内電車の走る道道83号線沿いを堀川町から本町、杉並町と移動していた函館市の人口重心は、80年代以降には五稜郭公園東側に至り、市域の東側から北側への市街地/住宅地の進出が見て取れる。それは、当然のごとくに行政区域を越えて七飯町域に及んだのである。
今、函館/大野平野東側の丘陵中腹を往く函館新道からそこを見遣れば、国道5号線沿いに住宅地が七飯市街地まで途切れること無く続いている。

そこでの宅地開発は80年代から本格化したと思われ、この頃までは、小規模な屋敷林を伴った数軒の農家の他は畑作地に果樹林の広がるばかりだった、七飯からの函館本線下り列車線-通称藤城線の七飯高架橋周辺も90年代に入れば住宅の建ち並んで、鉄道を撮るには不向きなロケーションと化してしまった。
宅地は、藤城線が丘陵地に取り付く辺りの斜面にも開かれるのだが、造成中のそこは逆に、函館新道の開通にて城岱牧場への旧道が付け替えられるまで高架橋を見渡す絶好のポイントでもあった。

写真は、高架橋の10パーミル勾配を上る5D<おおぞら3号>釧路行き。
1961年10月改正にて設定の釧路・網走・稚内行き多層建て気動車急行が、70年10月改正でそれぞれ単独運行とされ、この後に15D<おおとり>、そして305D<宗谷>と5分間隔で雁行する、昼のゴールデンタイムである。

この農地は今や一面の住宅街である。同一地点を探し出して、例えそこに立ったところで、軒に遮られて高架橋は望めないだろう。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1994

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上りの<北斗星>の走りは、どんなに陽の長い時期でも有珠-長和間辺りまでが限界で、後は停車駅でのバルブと云うことになる。

駅の構内照明が、そこの機能縮小と共に廃され、かつての照度の失われつつあることは、ここにも何度か書いた。
ここ長万部も、構内南北2基の大型の照明塔に十数基の照明柱、加えて数多くの構内灯に照らし出され、Tri-Xフィルムならば増感を要さずとも出発シーンの撮影さえ可能であったものが、1984年2月1日改正における構内での貨車入換と組成作業の、86年11月1日改正での機関車滞泊と客車入換の廃止により北側照明塔と大方の照明柱が使用停止となり、近年まで稼働していた南側照明塔も、残されていた気動車の解結作業が構内要員の無配置化で乗務員による滞泊留置のみとなった93年3月18改正を以て消されてしまった。

構内東端に位置する室蘭本線上り本線に着発する列車のバルブには、貨物施設の廃止以降なら構内南部信号扱所手前に立てられていた照明柱の灯りに依っていたのだが、88年の<北斗星>の運転開始時には既に消灯していて、照明塔や気動車留置線への構内灯から漏れ来る光は在るものの、列車側面は陰になり正面側も60秒に満たない停車にはバルブ時間が保たないのだった。いきおい駅前広場や通りの街灯に頼らざるを得ないのだけれど、それも機関車停止位置には僅かな光線しか届かなかった。
加えて、本線運転中の列車なれば構内入線時の前部標識灯のビーム位置に遠近があって、これは乗務員の癖に左右される他なかった。

写真は、長万部室蘭本線上り本線に停車の6004列車<北斗星4号>。
停車時分が短く、バルブの定石まではとても絞れない。
上述したようなフィルム撮影での労苦は、ディジタルに移行して全て解消してしまった。拍子抜けする程に、だ。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor85mm/F1.8D Bulb@f8 Fuji CC35M+5B compound filter Ektachrome Panther100X(PRZ) Edit by CaptureOne5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1980

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湿原の撮影で、冬が良いのはそこに踏み込めるからである。
線路際でなければ俯瞰場所の斜面や丘陵ばかりを探す夏と違って、何処へでも往けた。
この細岡から15分ばかり歩いた中丿沢川出口の陥入部を渡る地点も、ふかふかで踏めば水の沁み出す地面は凍土となって靴底への感触は固い。
線路の盛土にて分断された内側には、ハンノキの疎林が点在して枯れたアシ原の単調さに良いアクセントとなってくれていた。そこが過湿地である証のように。

このハンノキは、湿地や沼沢地に自生してそこに森林を形成する希有な樹木である。樹齢が進めばかなりの大木ともなる。ただし、繁殖は種子によるからまったくの水中から育成する訳ではない。近年、ここを列車にて通過すると明らかにハンノキ林は面積を拡げており、丘陵寄りでは水路の水辺に集中しているように見える。
自然の摂理とは云え、堆積に依る乾燥化に水位の低下の進んでいるのだろうか。

細岡の駅については、前に細岡 (釧網本線) 1984で書いた。追記すれば、この頃に駅前に在った数軒の農家は一つ残らず無くなり、細岡会館の建物だけが廃屋となって残されるのみである。すなわち、周辺は無人の原野へと還ったことになる。もともと、東側の丘陵上に開かれた開拓地の交通確保に、そこに最も近い位置に設置された駅であり、ここに集落のあった訳では無い。開拓地に道路の整備されれば顧みられる駅ではないのである。今、ここに降り立つのは、隣駅釧路湿原の喧噪を嫌うほんの一握りの観光客だけであろう。

写真は、湿原を渡る盛土区間を往く611D<しれとこ3号>釧路行き。
根室標津を9時05分に326Dとして出た2両目のキハ22が、中標津にて1両目のキハ22の後部に連結され、ここから9時44分発の急行の4611Dにて標茶まで走り、ここで北見を7時25分に発車した3・4両目のキハ27+キハ56と併結して釧路を目指すのである。標津線内も急行運転していたのは、これと上りの<しれとこ6号>のみで、その停車駅は西春別に計根別であった。けれど、同区間最速の普通列車との所要時分は僅かに5分に過ぎない。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Nikon O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

森 (函館本線) 1988

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モノクロ撮影を止めてしまう1996年までの30数年間に、それで鉄道を記録したカットの全てをディジタルデータ化してある。
ある時は集中し、或る時は数ヶ月放っておいたりの作業で、2000年から始めて2007年でやっと終えた。
スキャナは、当初には仕事用に導入したデンマークのImacon社製(*1)のFlexTight Precision を用いていたが、ソフトウェアのアップデイトに対するマシンの限界もあり、なによりその走査速度のあまりにも遅くて、懇意にしていた会社からの中古放出を聞きつけてKodak社のHR universal Scannerに切替えた。
この極めてアメリカ的発想の、原盤をフィルムゲートに挟み込んで中空に保持してのスキャン方式は、35ミリを70MB(RGBでのピクセル容量)で60秒程と云う驚くべき高速を実現していて、作業性の向上に貢献してくれたのだけれど、この方式はロールフィルムのカーリングの強いストリップに対しては平面性の保持が困難で、特にその端のフレームにコマ間の余裕がなければ、そこをトリムせざるを得ない等の問題も在り、さらには結構な価格設定の年間サポート契約も必要とあって、数年で廃止してしまった。(余談だが、これのソフトウェアはWindows版しか用意されず、Windows機を使ったのはこれが最初で最後である)
そして代替には、それこそ乗用車一台の買えるカナダのCreo社製(*2) EverSmart Supreme を導入した。もちろん仕事用だからこその設備ではある。フラットベッド方式にて32bitが可能で最大解像度11400dpiのスキャニングは、8×10判に4×5判やブラウニーフィルムに威力を発揮するものの、実を云えば35ミリには過大であった。その粒子、正確には粒子のスキマまでも明瞭に読み取ってしまうのである。Tri-Xフィルムは、それを粒子で語らせるような使い方をして来たから、なおさらに思え、結局は16bitにて解像度を原寸で4000〜6000dpi程度にして使っていた。それでも容量の90MBは、8bitRGBとすれば135MBであり、出力解像度200dpiに設定のラムダ出力機なら全倍にノートリで焼けるサイズである。

ところで、これらの高性能機にも共通の問題が存在していた。フィルムをルーペで覘けば確認出来る微妙なグラデーションまでは拾ってくれぬのである。単純にダイナミックレンジがまだ性能的に不足とすべきか、或は銀塩フィルムがスキャニングされるなど考えもしない時代の製品ゆえ、当然その特性など考慮されていないとするか、判断には至っていない。
仕方なく、ハイライト側とシャドウ側にそれぞれ合わせたスキャニングをして、それをPhotoshopで合成するHDR画像作成類似の手法で回避していた。
引き伸し機の光源には反応するグラデーションであり、1世紀の歴史を持つ銀塩記録システムの性能を再認識させられたものである。

さて、全紙程度の焼きであれば、8bitRGBで60MBなら過ぎる程ゆえ民生機でいくらでも対応である。加えて、35ミリから645判ほどでは画質に業務用機との差異はほとんど無く、それは要らないと言うのが今のところの結論である。あまり市場に無いEverSmart Supremeの中古は高額で引き取られ、ニコン社製スキャナの最終モデルとなったSUPER COOLSCAN 9000 ED を手元に残した。これで十分と云う気がしている。

(*1) - 現在はカナダのShriro Groupが買収してHasselblad社のブランドになっている
(*2) - 現在はKodak社が買収、その傘下となっている

写真は、森下り方の海沿い区間での5161列車。萩野/苫小牧への紙製品輸送ワム車の返空回送列車であった。
ここでは一番好きな画角なのだけれど、Tri-X に記録の、このような空に雲のグラデーションがスキャナは苦手である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

増毛 (留萠本線) 1980

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留萠本線の列車は、終着駅増毛への到着寸前の右手に漁船の船溜を見る。
釣りのポイントでもあり、釣り人は増毛漁港と呼んでいるようだが、正確には増毛町の管理する地方港湾「増毛港」で、漁業施設はその一部と云うことになる。そもそもは1900年代初頭に漁港として築造されたものが、戦後の1953年度に地方港湾の指定を受け、実際に内航海運による石材や砂利、燃料類に海産物加工品の移出移入港として機能して来たと云うが、札幌方面との国道231号線が整備されてからは、やはり漁港機能が主体であったろう。
70年前後までの増毛駅は、その海陸連絡駅としての使命も果たしていたと思われ、構内には多くの側線が敷かれて港湾側には倉庫群が立ち並んでおり、留萌との間に1往復の貨物列車が設定されていた。残念ながら撮ってはいないのだけれど、留萌で見かけた9600蒸機牽引のそれは長い組成だったと記憶する。

この頃、浜番屋に執心していて→黄金 (室蘭本線) 1979 蒸気撮影時代のロケハンの記憶を頼りに増毛まで入ったものの、そこは近代的な施設ばかりで、寧ろそれは礼受や阿分あたりに点在していたのだが、列車との組合せの難しいロケーションで撮らず仕舞いだった。
その際に撮り逃してしまった漁港には翌年に再訪している。

写真は、その増毛漁港を往く764D、留萠行き。
前夜からの悪天候にて出漁がなく、係留船にて溢れた船溜は逆に有り難かった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

余談だが、このNikkor28mm/F2.8は、ニッコールにあるまじきレンズだった。周辺の崩れが大きく、像高も過剰なものだったのである。他にF2とF3.5も発売されていたけれど、前者は重く後者は開放値が不足気味で、結局のところアダプタの存在を知ってDistagon 28mm/F2.8に替えてしまった。このあたりについては[番外編 6] 急行“天北” 1984に書いている。
ニッコールの広角系列は、オートフォーカスの時代になって劇的に改善された。

有珠-長和 (室蘭本線) 1996

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エントモ岬は、噴火湾へのほんの小さな突起に過ぎない。
けれど、長和側から眺めると後背に長く続く台地の張出しと見て取れ、五万分の一地形図の虻田/伊達図幅を開けば、そこの流山地形から7〜8千年前と推定される有珠山の山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの到達した東端と知れる。

国道37号線からその先端へは緩やかな傾斜で、古くから道路の付けられていて、それを辿ると岬上部を回るようにして長和側に降りられた。
そこには小さな港湾施設が造られていたのだけれど、ここで船舶は疎かボートの類いすら目にしたことはない。近隣の北海道電力伊達発電所は計画当初にその燃料輸送を小型タンカーによる海上輸送としていたようで、それに関連して先行着工されたものの、室蘭からのパイプライン送油の採用にて放棄されたものだろうか。岬の沖合海上に突き出した構築物とともにここでの謎である。
道路は、これの築造に際しての資材輸送路として整備されたものと思われ、現在ではこれも放棄されて岬上にて途切れる。

岬の有珠側、柴田踏切での定番なら、やはり有珠-長和 (室蘭本線) 1994の画角となるのかも知れないけれど、上り列車に限られて、下りには近くの農家の庭先を横切って台地上への細道を往くことになる。

写真は、柴田踏切へと差し掛かる8007列車<エルム>。有珠-長和 (室蘭本線) 1995と同一位置からの撮影である。
<エルム>は、この頃になると各季節臨期での設定も減り、長大編成も見られなくなっていた。
ピークの90年度に上下で339本あった運転は、96年度では52本に過ぎない。(共に団臨運転を含まず)

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6 C-PL filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1984

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北海道島の地峡部とも云える後志地方は、沿岸に平野の無く渡島半島脊梁山地の北端にて千メートル級の山岳が連なり、冬期に日本海上からの季節風を阻んで雪雲を発達させる。
札幌管区気象台によれば、それは、中でも後方羊蹄山(シリベシやま)の山麓地域に、低気圧が北海道東海上のどの位置にあるにせよ、すなわち北寄りの風であれ、西寄りの風向であれ、大量の降雪をもたらすとある。なるほど、東側直近にそれを仰ぎ見る倶知安/ニセコ地域は豪雪地帯である。
かつて倶知安の保線区長から伺ったのだが、ここでの降雪は連続型で降り始めれば小康状態を挟めど三日も四日も続き、そうなると人手に頼る駅構内の除雪に作業員の疲労も激しく、加えて管内には沿線農家の位置とそれと幹線道路を繋ぐ農道の配置から除雪を要する踏切道の多く存在して、これも機械力の使えぬゆえ交代要員の手配や確保に頭を痛めると云う。

写真は、倶知安北4線踏切からの荷41列車。この頃は札幌の小荷物扱い施設の移転した苗穂行きであった。
この高名な踏切にかかる農道は、途中に点在する数軒の農家へと市街地側からが除雪対象で、そこから国道までは閉鎖されて踏切自体は雪に埋もれた。
写真の廃屋の農家が離農されるまでは、ここまで農道を歩けたけれど、この頃には線路歩きしか到達手段はなくなっていた。

雪のフィールドに出ると、透過層雲とも思えるような明るい雲底から湧き出すごとくの降雪に出会うことがある。雪原に居れば、天空との境界を見失う。霧や吹雪に巻かれるばかりでなく、身近に目標物の無ければ、これも視界喪失-ホワイトアウトと知る。
線路位置に正確にピントを持って往くことは困難で、シャッタ速度を犠牲にしても絞り込むしかない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec@f8 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1982

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誰の目にも明らかなように、石北本線の優等列車<オホーツク>は継子扱いである。
宗谷本線の高速化事業の後も、北海道旅客鉄道は北海道高速鉄道開発によるフォーマットを維持しているのだが、池北線の存廃に関わり表面化したように、沿線各自治体の思惑の相違が交錯していて、その事業提案には至っていない。打診などの水面下での動きは在るのかもしれないが、以後報道に現れることも無くなっている。
その間も、沿線と札幌を結ぶ道路交通の整備は進展し、旭川紋別自動車道は丸瀬布までの供用を経て遠軽開通が射程に入り、足寄まで供用中の北海道横断自動車道網走線は陸別-北見間の工事に着手している現状であり、現在都市間バスに対して<オホーツク>が辛うじて優位を保つ所要時分の逆転は時間の問題であろう。
261系内燃動車のごとき高性能車両の投入により、函館本線区間を含めての到達時分短縮は可能であろうが、石北本線内での線形/軌道改良を伴わなければ将来に渡っての優位性確保は困難と思われ、民間会社にそのインセンティブの働かぬのは当然である。
かくして、(遠軽方先頭車が183Nに差替られたものの)今日も<オホーツク>は183系の初期車にて走り続けることになる。

この183系初期車の専用化は、1991年11月10日施行の運用改正に始まり、寝台客車の組込みによるキハ183の高出力機関への換装や編成短縮にともなうキロ182の合造車化にキハ183車掌室の車販準備室改装などを経たものの、この20年あまり変化がない。運用車もそれだけ経年を重ねている。
けれど、過去を顧みれば、1982年度の札幌運転区への183系の新製投入は、当時2往復の<オホーツク>置替を目的としていて、これは<北斗>系統に先駆けるものであったし、1986年度の183系500番台の投入後1990年9月1日改正ダイヤまでは、それはハイデッカーのキロ182も含めて各方面への運用に万遍無く組み込まれ、石北線特急が外されていた訳では無かった。継子扱いは、この91年あたりからと見て良さそうである。
これは、確かに北海道旅客鉄道が高速道路と対抗する主力路線として函館方面、続いて釧路方面へと資力を集中し始める時期と合致している、とするのは少々穿ち過ぎだろうか。

写真は、晩秋の常紋を下って往く31D<オホーツク1号>。
静かな峠を穂を実らせた名も知らぬ草と落葉松林の金色が見守っている。この時期の常紋へは毎年のように通っていたものである。
キハ80系列編成から置替は、82年10月6日の33・34D、翌日の31・32Dより施行され、それでの編成を踏襲した9両組成が運用された。食堂車を含まない組成であるから、その分座席定員は増強となっていた。
編成出力は遥かに高くなったのだけれど、到達時分の短縮はなされず、それは国鉄最期の86年11月1日改正を待たねばならなかった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/250sec@F8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

名寄 (宗谷本線) 1968

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その夜は、C55を本務、D51を後補機とした塩狩越えに響き渡る咆哮を、スハ45のデッキでドアを開け放して堪能し、編成前後の夜目にも白い蒸気を身を乗り出して眺めたのだった。デッキを抜ける夏の夜の冷気を良く覚えている。
そして、その<利尻>を午前2時の名寄に降り立ち、そのまま夜明けを迎えた。1年振りの道北道東遠征に眠れと云うのが所詮無理なのである。
この頃の名寄では、深夜にも貨物列車の発着が在り、その入換えも行われていたから機関車の行き交う汽笛の絶えることはなかった。宗谷本線の拠点駅、名寄本線の分岐駅らしく24時間稼働していたのである。
夏の早い夜明けに、C55が機関区を出区、留置線から客車編成を上り方引上げ線に引き出し退行して本線に据える。札幌行きの始発、5時34分発の322列車である。

写真は、それの発車を上り方の構内通路から撮っている。
勿論、画角にも見える信号扱所を訪ねて許可を請うている。今時ならば、許可されないだろうし、列車も緊急停車しかねない位置なのだけれど、機関士も先ほどの入換えでさんざん切っていたドレインを(必要な操作でもあるけれど)起動直後から思い切り排出する演出をしてくれた。撮影者も信頼されていた良き時代である。
信号所の当直助役の注意は、下り本線上は良いが隣接する深名線の運転線には立つな、と云うものであった。なるほど、上りが出発する以上下り本線に列車の来ることは無く、場内信号が停止定位とは云え宗谷本線を支障しない進路構成の深名線にはそれの進入する可能性はあるのだった。自分たちの操作する信号現示に対する絶対の自信と云うべきか、鉄道員とは誇り高き人々だったのである。

後方に留置される急行型気動車は、6時18分発の臨時急行8812D<なよろ>となる編成で、実質的に旭川始発の804D<かむい>編成を夏期輸送にて名寄始発としたものである。キロ26の等級帯が懐かしい。旭川で322に追いつき、札幌へは2時間近く早着出来た。

この頃併用していたカラーネガ撮影をご容赦されたい。この後に上興部へと向かい上興部 (名寄本線) 1968に繋がる。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250@f4 UV filter Kodak unknown film (ISO100) Edit by PhotoshopCS3&LR3 on Mac.

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