"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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姫川 (函館本線) 1990

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都市圏市街地のものだったコンビニエンスストアが、ルーラル地域へ、そしてロードサイドへと進出したのは、いつ頃からだろうか。

旅する者の視線で見れば、70年代からこの方続くのに、途上の食事に欠かせなかった駅弁当の販売時間の短縮に販売駅の減少、弘済会売店(後のキオスク)の撤退、それに駅前食堂の廃業がある。ルーラル地域間を夜行急行を挟んでの移動など、それを意識してスケジューリングをしなければ食事にありつけぬようになった。かつての旭川や遠軽なら深夜から未明でも駅弁の立売りが出ていたのである。
これと反比例するように、ルーラルな街中や駅前に開店し始めたのがコンビニであったのだ。それは24時間営業であるから早朝に一日の行動食の仕入れも出来る。やがて、自動車利用を前提に広域を商圏として国道沿いにも進出して、それはフランチャイズ方式ゆえオーナーの土地保有の都合からドライブイン等既存のロードサイド店と隔絶した地点も在って、撮影地近隣やその途上と云うケースも生じた。
確かに、コンビニエンスこの上無いのだが、正直に申せばその弁当やら握り飯は旅に出てまで食したいものでも無い。

現在、国内のコンビニ店舗数は4万前後で消長を繰り返していて、これが飽和数と見られているようである。都道府県別には、やはり東名阪の大都市圏が圧倒的なのだけれど、単位人口あたりの店舗数ならば、10万人あたり46店となる北海道が44店の東京都を押さえ全国一である。(2007年度 経済産業省商業統計データによる)

写真は、函館桟橋起点43K500M付近のR301曲線上の5009D<北斗9号>。
この、粋な宿舎が近隣に在ったポイントについては、以前に姫川 (函館本線) 1996で書いている。これは列車右側の樹林帯の伐採される前で、インカーブ側からしか撮れなかった頃の基本形とも云えるカットである。駒ヶ岳を取り込めば、この画角になる。

それから長く続く裾野を往く区間で外界から隔絶されているように見えるのだが、右の樹林帯の向こうには国道5号線が走り、実はそこにサンクスの駒ヶ岳店が所在していて飲み食いに困らぬポイントでもあったのだ。それは林の中の小径を抜けて5分足らずの距離であった。
開店時期はわからないが、1988年には既に存在していて、それはコンビニのほとんどが24時間営業化するのと同じ時期であり、並行してルーラル地域への進出も進められたものと思われる。

[Data] NikonF4s+Distagon 28mm/F2.8(with Adapter) 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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豊浦 (室蘭本線) 1989

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ここに豊浦で記事を書くのは、これが10回目になる。
けれど、その10回とも写真のセレクトは同一日/同一セッションでの撮影は疎か、同じ一連の撮影ツアー時のものとも重複させていない。ここへは、それだけ通ったのである。
実際に、弁辺トンネル出口から駅構内で第二茶志内トンネルに至るまでの4キロ足らずの区間に、多くのポイントが連なって飽くことの無かった。それは、噴火湾への緩やかな傾斜面の中腹を線路が通過し、視点位置の高低や遠近に足場の事欠かぬからだろう。

最も駅から遠いポイントは、国道37号線が豊泉へ向かって高度を上げて往くあたりに所在するドライブインである。40分程の歩きで到達するけれど、国道は坂道が続いて、後年にはタクシーで往くことにしていた。
そこでは長居することもある故、お作法としては、まず店で食事なりコーヒーをオーダーし、会計の際に敷地での撮影を願い出ることになる。
この「ドライブインみさき」の御主人には、いつも気持ちよく許可を頂いて感謝している。眺望の側とは店の裏手であり、客の視界を邪魔せぬよう、その横から或は斜面を降りてこっそりと撮らせて貰っていた。
10年程前に店内を改装したのだけれど、その2000年代の施工とは思えぬインテリアは、レストランでも食堂でも無い「ドライブイン」の矜持と見れば正解である。80年頃には既に品書きに在った「帆立焼飯」が、近年では豊浦名物の「ホタテめし」として人気と聞いている。道南自動車道の開通している中での盛業は喜ばしい。

写真は、貫気別川橋梁からのR600曲線を回り込む4096列車、梅田までの高速貨物列車Bである。対向しているのは、5009D<北斗9号>。

背景は豊浦市街地の国道より上側の斜面になる。一番高いところにあるのが豊浦中学校。海面から100メートルを越え、ここの校庭からの眺望も素晴らしかった。今、ここはシュタイナー学園のいずみの学校になっている。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

谷地頭 (函館市交通局/宝来・谷地頭線) 1980

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管見であったのだが、函館は日本における中華そばの発祥の地らしい。
1884年の函館新聞に掲載された「養和軒」なる洋食店の広告に「南京ソバ-15銭」の品書きのあるのが根拠と云う。函館に最初の軌道系交通機関である亀函馬車鉄道の開通する15年程前である。
ただし、この南京ソバと現在に続くラーメンとの関連を示す資料は残されておらず、これを定説とするには至っていない。
当時の函館は、幕末に開港場に指定されて以来貿易港として発展し、東京より北で最大の都市であった。居留外国人も多く移り住み、ご承知のとおり、今函館西部地区観光の核心となっているのは、その遺産である。
中には、当然に華僑の人々も居て中華料理の早くから持ち込まれたのは、想像に難く無い。この「養和軒」を開いたのは、英国領事が函館赴任に際して横浜より同道した専属料理人であったことが明らかにされている。

この南京ソバがどのようなものであったか興味深い。広告には、洋食店として開店したこの料理店が、ソバばかりでなく南京料理全般を提供し始めたこと記述されている。南京料理と云えば江蘇料理の系統として野菜や海産物を使い、素材を生かした淡白な味付けで知られる。そのソバがそのようなものであって不思議はないだろう。
今函館で、支那そば、ラーメンと云えば塩味のそれである。青函連絡船食堂の名物であった海峡ラーメンもまた、同様であった。70年代の初め頃、この地でラーメンと注文して、どう考えてもタンメンと思われるソバの運ばれて来たことを思い出す。醤油ベースのそれでは無いのである。

2008年には、レシピ等の資料が無い中で、市内のラーメン店主や製麺業者らが当時の文献を検証して、この「養和軒」の南京ソバを最古のラーメンと銘打って再現し、以来市内の数店でメニュー化されている。残念ながら、まだ食したことは無い。

ここ、市電の谷地頭電停近く、通りを一本入ったところにも老夫婦の働く支那そば屋が在った。撮影歩きの際に偶然見つけて、その古く軒の低い造りに誘われて入ったのだった。その淡いスウプが気に入って、乗継ぎの合間に函館駅からタクシーを飛ばしたこともあったのだが、この後83年に訪れた時には既に店は閉じられていた。

写真は、暮色濃い谷地頭電停で発車を待つ2系統の駒場車庫前行き。十字街/函館駅経由の運転系統で、宝来町から谷地頭までは、この系統しか入らなかった。この頃、ここでの降車は撮影位置付近の安全地帯の無い路面である。
800型は、1962年から65年に12両が新製された新潟鉄工所製の自局発注車で当時の最新車である。都電や仙台市電にも良く似た車が居た。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/60sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

音別 (根室本線) 1982

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ご承知のとおり、春先から秋の初めまで、襟裳岬より根室半島に至る太平洋岸は霧に包まれる。釧路地方気象台における観測によれば、特に6月から8月各月の霧日数は16日間を越えて、つまり半月は霧の日が続くのである。
特徴的なのは、これは移流霧と呼ばれ、この沿岸にて生じたものではなく、海上遥か三陸沖方面にて発生し南風に押し出されてやがてここに到達するものらしい。だから、朝に限らず昼でも夜でもそれはやって来る。

この霧を撮りに通ったことは前に書いた。→尺別 (根室本線) 1993 / 音別 (根室本線) 1986
霧の中に立てばすぐに気がつくことだが、沿岸に居座ったようなベタ霧でも、その中での濃度は一定ではなく気流の関係なのか濃淡を生じている。周囲数メートルしか視界の無いホワイトアウトもあれば、霧中に隧道のごとき空間の立ち現れることもある。この隧道が鉄道線路に合致して、それを列車がくぐり抜けぬものかと、幾度もそこに立ったけれど、ついに巡り合えずに終わっている。

この日も、夜行<まりも3号>を早朝の音別に降り、音別町の墓地のある丘の先端で三本の下り貨物に立ち会うも、想い描くカットは撮れずに駅へ戻っている。
写真は、その途中音別川橋梁での1451列車、浜釧路への特急貨物列車Cである。
時刻は10時近いのだが、移流霧には朝から状態の変化は無い。それは、白糠を16時の<狩勝4号>に乗車するまで変わらなかった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

新札幌 (千歳線) 1999

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先だってから、ここへ取り上げさせていただいているKodak社のリバーサルフィルム-Ektachrome による撮影である。→小沢 (函館本線) 1976 「続きを読む」記事

実を云うと、ステージ写真が中心の仕事写真では、それごとに異なる舞台照明からカラーネガが主体でリバーサルフィルムはあまり使ってはいなかった。その必要があっても、指定されるのは日本の印刷業界におけるデファクトスタンダードである富士フィルム社のRDPで、エクタクロームの出番は少なかったのである。
けれど、自分の写真となればそれしかカメラを通さなかった。誇張感の無い色再現を望んでいたから、自ずと1977年のEPR以来のコダック調に往き着くのである。後には、社会的な嗜好に合わせて高彩度化して行くのだが、これとて原色強調では無く、彩度を上げた中でも諧調再現にメリハリ感を持たせたものであった。
中でも好んで選択したのが、ウォームトーンと呼ばれたコダック社独特の暖色系に傾かせた発色のシリーズで、丁度趣味写真にカラーリバーサルを併用し始めた頃のPRZに始まって、E100系列のSWそしてGXと引き継がれたそれは、その基本製品であるPRP/E100S/同Gと性能を同一にしながらも、明らかに色再現は異なっていて、特に雨天下での鈍色発色はその情感表現に相応しく、また秋の黄葉紅葉もこれの独壇場であった。
エクタクロームの最終形となってしまったE100系列は、色再現のダイナミックレンジが広がったばかりでなく、露出ラチテュードもノーマル露出なら6EV程と思われ、これを利用してISO160露光での0.5EVの増感現像で使っていた。これでハイライト側の諧調再現に僅かながらメリハリがつき、そのヌケも良くなったからある。これはまた、ISO320で使っていたTri-Xと露出計を共用出来て好都合でもあった。(ただし、各々の露出設定はまったく異なる)
ディジタルへの移行を読み違えたコダック社の失態がなければ、今しばらくは生き永らえたと思われる。

ご承知のとおり、反転現像にて直接的に画像を得るこのフィルムの発色は独特のものである。
オーディオの世界で、80年代を通じてCDに駆逐されたアナログディスクの、この間の技術の進歩を背景にした飛躍的な音質向上による、CDとは異なる聴覚体験を与える媒体としての復権は、映像記録の分野でも十分に起こり得る事象である。けれど、印刷原稿が主用途で、一回のセッションで30本も50本もを消費するプロフェショナルの需要が世界的規模で消滅したのだから、それの生産設備を維持すれば当然に不採算事業となろう。それでも富士フィルム社が生産に拘るのは、無くなりはしない需要と技術の継承を見据えたものだが、DJ Mixなどの要求も在ってレコードプレイヤーの生産が維持されたアナログディスクと異なり、その現像所は撤退が相次いでいるのが現状である。コダック社もE-6プロセスにかかわる処方液の供給は続ける方針と云うが、コスト増は避けられず、将来リバーサルフィルムでの撮影は、高く付くものとなるだろう。(原理的に自家処理も可能、その処理キットも販売されている)

写真は、国道12号線と厚別中央通りの交差部を越えるためトラス桁の採用された架道橋へと差し掛かる3062列車。新札幌の乗降場端からのこの画角は、札幌往来の定番でもある。
晩秋の早い日没の直前、澄んだ大気を透過して天空は黄金色に染まっていた。ウォームトーンのE100SWにフジのLBA4で色温度補正すれば、こんな発色になる。
地上は既に暗く、これはISO320まで増感している。増感特性の良さもE100系列の特徴であった。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f4 Fuji LBA4 filter Ektachrome Professional E100SW(ISO320/1.5EVPush) Edit by CaptureOne5 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1985

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鉄道に並行するバス路線は、当然に存在していて、函館バスの長万部線と国鉄バスについては前に触れたことがある。
[番外編 7] 江別駅前 (国鉄自動車空知本線) 1983 / 落部 (函館本線) 1996

それは、列車設定の合間を縫っての移動が可能であったり、撮影地近隣で乗下車出来る利便性などから、随分と調べていた。インタネットなぞ無い時代ゆえ情報源は、道内旅行に必携だった弘済出版の「道内時刻表」に日本交通公社の「北海道時刻表」である。社線ペイジに記載されるバス路線の選択は両誌とも大差なく、勿論全ての路線を網羅していた訳では無いけれど、必要とする情報は大抵そこから得られた。

倶知安峠の行き来に使えた倶知安-ワイス温泉-小沢間のニセコバス、留萌十字街を基点に増毛方面/鬼鹿方面に移動出来た沿岸バスに道北バス、網走から網走湖畔や原生花園に降りられた美幌-網走-斜里間の網走バス(北見発着の北見バスも在った)などは、列車本数の少ない中で利用価値の在る路線であった。
せっかくの並行路線であるのに、運行頻度の極端に低い路線も多かったけれど、行動スケジュールに合えば重宝したものでもある。石勝線で占冠への引上げ時間帯に運行のあった占冠村営バスや、遠軽から湧網線の芭露に出れた北見バスなどである。

その地理的な位置から夜行急行の移動に不適で、旭川に前泊を要した塩狩峠へも旭川-士別-名寄間の道北バスを利用していた。それだと塩狩到着が早過ぎる宗谷線の始発と8時過ぎの次列車の間をバスが埋めていたからである。
急行便を選べば、所要時分は列車と大差なく、その50分余りは列車に揺られるばかりの中で良い気分転換になっていた。

写真は、塩狩での定番ポイントである旭川起点27K付近のR250曲線上の303列車<天北>。
急行列車とは云え、重い機関音に雪道を実にゆっくりとした速度で登って来る。20パーミルの勾配もあるけれど、DD51はこの先の宗谷本線最急のR195曲線に40km/hの速度制限を受ける。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/500sec@f11 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

糠平 (士幌線) 1978

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蒸機の時代には撮っていない士幌線へ通うようになったきっかけは思い出せない。帯広を拠点にしていた狩勝新線と組合せられる線区として自然に選択したものと思う。
ロケハンに乗ってみて、十勝平野の起伏ある畑作地帯も、糠平湖北端の長い橋梁(第四音更川橋梁-256M)や幌加近くの峡谷(第五音更川橋梁-109m)も気になったけれど、黒石平からダム建設にかかわる急勾配で山腹を登る途上(下の沢橋梁-41M)や、糠平ダムを交わしてから糠平に至るまでの短いけれど湖畔の区間が気に入って、十勝三股で折返して糠平に降りたのが最初である。この十勝三股間までの区間の列車運行の休止されるのは翌冬のことで、ここのコンクリートアーチ橋梁を撮っていないのは、些か悔やまれる。

この頃までに糠平には、国道273号線の新道が途中まで完成して、そこから俯瞰気味のポジションが取れたし、自動車の往来の無くなった旧道なら、長い列車間隔をゆったりと待てた。時間を持て余し楽しむ環境が整っていた訳である。
この旧国道、夏ならよいのだが、積雪期には除雪されないゆえ踏み込むには覚悟が要った。雪の積もり初めの頃、10センチ程度の新雪と侮って難儀したこともある。その時期の降雪は決して粉雪とは限らないのだ。

雪とならば、ここでは温泉の楽しみも在った。これについては前に書いている。糠平 (士幌線) 1983
昼間の貰湯は、めったに人に会うこと無く、ひろい浴場を独占出来た。

写真は、旧道のトンネル付近から俯瞰気味に見た725D、十勝三股行き。
湖面を背景に、カーブの向こうから列車の現れるのを望むのは好きな光景だった。
これは、画角中央部をトリミングしてタイトルバックに永く使っていたカットである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

富浦 (室蘭本線) 2006

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蘭法華岬には、およそ20年を経て再訪している。富浦 (室蘭本線) 1984
この間、ここへの登坂の躊躇は、偏にその困難さにあって、ひとつには盛夏であったせいなのだろうが、決して平坦ではないそこを身の丈を遥かに越える熊笹を掻き分けて進まねばならず、窪地があってそこへ降りれば、ただでさえ高い熊笹に方向を見失う有様で、加えてこの岬は先端程高度があるのだった。岬基部の国道から、この先端部近くまで60分近い悪戦苦闘の記憶がある。
20年振りのそこは、明らかに樹木が増え成長していたのだが、見下ろした防波堤の位置関係からほぼ同一地点と判断出来た。

登別市富浦は、鷲別岬から続いた穏やかな海岸線が蘭法華岬にて遮られるところに、この標高60メートルあまりの岬と背後の台地に抱かれるように在る。この台地の成因はオロフレ山斜面から続く溶岩流台地で、蘭法華岬はその到達した先端であるらしい。
岬直下の僅かな砂浜には小さな漁船が引上げられて、岸壁の施設は無いのだが、道の室蘭土木現業所による海岸図では、ここが第一種漁港に区分の富浦漁港となっている。水揚げ設備もなく、それは登別漁港へと持って往くのであろう。漁獲は、刺し網によるスケトウダラ、宗八カレイ、定置網でのシロザケと聞く。

写真は、南下を急ぐ8002列車<トワイライトエクスプレス>。
宮原総合運転所のこの編成は、全検に際して屋根を銀色に塗色して出場しており、俯瞰ポイントを選んでの蘭法華岬なのである

冬も終わる頃のこの日、撮影直後に風花が舞い始め、まもなく激しい降雪となった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor85mm/F1.8D 1/500sec@f4 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

抜海 (宗谷本線) 1983

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これも、『蒸気機関車』誌に見た写真の「模倣」である。→沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1968
もっとも、抜海南方の丘陵に登って駅方向を振り返れば、この光景しか無い。原野に流れる「煙」は追わずとも良いから、背景に迫る坂の下湾から野寒布岬に続く西浜/富士見の段丘を真中に据える。

抜海は、当時の天塩北線が稚内(現南稚内)から兜沼までを開業して以来の駅である。無人のクトネベツ原野に設けられ、最も近い集落の名を駅名とした。
この1980年代に至っても、駅前には鉄道官舎が目立ち、民家は数軒を見るのみであった。

この撮影の後訪ねた抜海の集落は、駅前の道を辿って2キロ程のところの日本海に面し、決して寒村では無く、それなりの集落の体を成していた。
その漁港は、国による直轄にて整備の進められていた第4種漁港で、構内に北寄貝やヒラメの畜養施設を有する等規模は大きい。近年、外防波堤付近が野生アザラシの越冬地として行政による観光資源化も進められているのだが、この当時には情報も無く見逃している。例え知り得ても、風雪にて遠望の視界は遮られていた。
アザラシよりも犬である。その帰り道、この漁港近くで吹き付ける雪をものともせずに走り回る、大きくてまんまるな犬に出会った。樺太犬かその雑種と思われる彼は、鎖に繋がれているのだけれど、近づいて往くと雪も掘らんばかりに喜ぶのだった。しばし相手をし、丁度出て来た飼い主に名前を伺う。彼は、その名を「ぶく」と云った。なるほど。

抜海を出て往くのは324列車。この頃には小樽行きは旭川止まりに改められ、50系(51形)への置替はこの一年後である。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/125sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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何処かで、札幌の市街地の発展は「歪」だ、と言う旨の記述を読んだ記憶が在る。
確かにそのとおりで、同じく札幌の隣駅の桑園周辺と比しても、この苗穂近辺は、どうもその都市の高度化から取り残されているようだ。
40年も前の記憶を引き出せば、道庁前で分岐した札幌市電の苗穂線の広い沿道は、そこへ入った途端に低い商店の軒や家並みが続きながら苗穂駅前で尽きて、そこは札幌の街外れだったのである。これは、例えば新琴似に尽きる鉄北線の沿道とて同じようなものだったのだが、現在では明らかな落差がある。

1922年の、この市電苗穂線の全線開業時の停留所名称が興味深い。それのネーミングライツを公募した訳でもなかろうに、個人商店名の連続していたのである。曰く、添田商店前/鈴木商店前/藤井呉服店前/里田醤油店前など苗穂駅前まで当時の10停留所中7個にも及んでいた。公共的施設の無かったとも見れるけれど、これら有力商店をはじめとした商業地域が形成されつつあったものと思う。
それは、西側に拡張して行った市街地に集積された住宅街を背景としたものだろうが、南は豊平川を越えられず、北は鉄道線路と広大な工場に機関区とに阻まれた狭い地域ゆえに、早期に飽和に達したのだろう。40年前の街並は、そう見て取れる。

今でこそ、ホテルが進出したり平屋の民家はマンション建て替えられ、ビール工場も大規模商業施設に姿を変えてはいるものの、駐車場と云う名の空き地も目立って、近年の都市の病である「旧市街地」なるエアポケットに落ち込んでしまっているかのようだ。

写真は、札幌からの高架を降りて苗穂に進入する、2列車<北斗星2号>。
ここに、札幌方面行き乗降場を南に移設して引上線の置かれる以前のことにて、この画角はもう撮れない。
日没が悪天でも、空はドラマティックな方がいい。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f2.8 SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

小沢 (函館本線) 1976

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先月のこと(2012年11月)、木造3階建て校舎を模した建築物の火災実証実験の報道があった。生徒数の多い都市部の学校を木造化するにあたり、3階建て以上については準耐火建築が求められており、建材や構造等それに適合した基準策定のための検証実験とされている。厳しい環境に在る国内林業の再生に向け、国産木材の公共建築物への利用を促進する目的と説明されていた。さらには、コンクリートよりも生徒達の集中力の高まるとの事由を付加した報道もあったのだが、根拠は明示されなくて、何処かの役人のこじつけに聞こえなくも無い。けれど、木材の香りの教室が優るであろうことは感覚的に理解出来るのだった。

それが当たり前であった木造校舎は都市部では絶滅したものの、ルーラル地域にはまだ現役も多いと思われる。ただ、これを撮影の背景や添景として扱おうとすると、窓がアルミサッシ化されていたり、厚化粧気味の塗色が施されていたりで、由緒正しき木造校舎にはもはや出会えないだろう。
それそのものの撮影/記録であれば、むしろ廃校後に観光目的でオリジナル近くに復旧した例や、往時のままに放棄されているものも対象となろうが、これを鉄道屋が添景に撮り込めるのは、せいぜい80年代初めまでだった気がする。

函館本線が小沢に至る直前、国道5号線を小沢跨線橋で交わすところに共和町立小沢小学校が存在していた。ここは三角ファサードの玄関を中央にしたシンメトリックが美しい端正な平屋の建物で、教室部分ごとにまとまった窓配置がそれを強調していた。背の低い門柱の校門脇の二宮金次郎像もお約束である。
けれど、校舎は校庭をはさんで線路と平行気味に位置していて、列車との組合せには不向きではあったのだ。

写真は、函館線のカーブ外側から画角に取り込んでいる。どうにも無理矢理感の漂うカットではある。これも樹木の葉の落ちる冬期しか撮れない。
通過するのは、903D<らいでん2号>。ニセコから(土曜休日は蘭越から)倶知安まで普通列車で走り、そこからの札幌行き急行であった。小沢で岩内からの普通列車を併結して列車名の面目が立つ。全区間/全車がキハ22の正統派遜色急行である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y52Filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5on Mac.
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沼ノ端 (千歳線) 1993

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原野を背景に植苗-沼ノ端間で展開する千歳線の室蘭本線との分岐/合流は壮大と云って良い。大宮北方での東北/上越新幹線にはスケールで及ばないが、在来線で比肩し得るのは北陸本線と湖西線の近江塩津くらいではなかろうか。但し、こちらは山間地にて隧道がいくつも介在して、その規模は見え難い。
ここでのスケール感のひとつには、千歳線の下り線が、その上り線や室蘭本線から大きく東に迂回するところにあるが、それは用地や設計上の事由からではない。本来、これが別の私設鉄道であった故である。

その私設鉄道こと北海道鉄道は、室蘭本線上の既設駅である沼ノ端を起点に富内までの金山線を開業した後に、第二次路線として苗穂までの札幌線を一挙に開通させた。1926年8月21日のことである。その路線は沼ノ端の東方で金山線から分岐して北に向かい、高度を上げながら左転の後、室蘭本線を乗り越して台地に取付き、次駅植苗に達していた。これが今に残る千歳線下り線の線形である。この鉄道が沼ノ端で構内南側に乗入れていた関係から必然の路線選定で、千歳線となった今日では、期せずして沼ノ端構内での本線横断の回避に寄与している。
対して、5キロ近くを室蘭本線の複線と並走して3線区間を演じた後に左に逸れる上り線は、1969年9月25日に使用を開始した増設線である。これを以て北広島-沼ノ端間の複線化が完了している。
室蘭本線の路盤に腹付けしての線路増設は、戦時中に一度計画/着工され、その後に放棄された経緯がある。現在線は9.8パーミル勾配の盛土を構築して植苗の台地に取り付くのだが、この計画線では台地の切取りに依っており、その土木工事跡が今でも地形図で読み取れる。現在線脇に続く「掘割」の記号がそれである。けれど、現地に赴くとそこは樹木に覆われ、崩壊もあったものか判然としない。

写真は、下り線の合流点に差し掛かる8002列車<トワイライトエクスプレス>である。
沼ノ端構内における実際の列車振分けは、上り列車を長万部方の、下り列車を岩見沢方の分岐器が担っていて、下りが室蘭本線と千歳線で乗降場を供用するに対して、上りのそれの別であるのはご承知のとおりである。これは、北海道鉄道線が室蘭本線上り線側に乗入れていた名残と云えようか。
さらに付言すると、写真の列車後方にS字形の反向曲線が見える。これは、金山線の廃止後に(廃止時は国鉄富内線)、そこからの千歳線分岐部と沼ノ端進入部の曲線改良に際して生じたものである。

なお、ここでの千歳線上下線は、苗穂を起点として記述している。苗穂は現在でも施設上の起点に変わりはない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1979

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新得西5線近くの西新得信号場から新得9号線もしくは10号線を西に辿れば、南へ3号線付近まで大きく迂回して高度を稼いで来た根室本線に再び往き当たる。そこは西新得と100メートルの標高差があって、振り返ると新得市街地の向こうに南北に続く崖線とその上部の平原、さらにはその彼方にもうひとつの崖線をも遠望する。二段の平原は急崖の上に広く平らに続いていて、十勝平野の北端の一部を成すものであろう。
地形図を読めば、手前の崖はパンケ山の南斜面に始まり、南端は十勝清水東側で岬状となって尽きる。新得や清水の市街地は日高山脈北部の陵線からの斜面との谷と云うことになる。
成因までを調べていないけれど、佐幌川の浸食によるものと思われ、これは河岸段丘なのだろう。その段丘面の規模をみればダイナミックな景観である。浸食基準面である海面は遥か彼方ゆえ、その浸食は深く進行することになる。その急崖から平原をテーブル台地と見立てたい程である。

この道立畜産試験場の斜面では、これを背景にした画角を幾度か撮っている。十勝平野を遥かに見通すのは、狩勝越えでの定番だろう。
列車は、425列車。滝川を早朝に出る釧路行きである。

前にも書いたとおり、→鹿越信号場 (根室本線) 1976 この頃には狩勝新線区間の上落合を除く各信号場には乗降が可能であったのだが、この位置へは広内よりも西新得が近く、畜産試験場地内の農道は冬期も通行可能であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8  1/250sec@f11  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1985

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1961年10月改正における道内最初の特急列車が苫小牧回りにて設定されて以降、函館-札幌間旅客輸送の室蘭/千歳線経由の優位性が決定的となる中でも、その全廃まで函館山線には特急を含む4往復の優等列車が残された。それは偏に小樽の存在ゆえと思われる。経済/金融の中心が札幌に転移し、衰えたとは云え1960年代を通じて20万の人口を擁していたこの都市の影響力を、当時の国鉄は無視し得なかったのであろう。
函館への優等列車ばかりでなく、道北/道東との急行列車の一部は小樽発着にて設定され、旭川との電車急行の大半も小樽-札幌間を快速列車にて直通運転をしていた。長距離運転の普通列車もまた、函館とのそれは全て函館本線経由であったし、稚内/網走/釧路行きもここを始終着駅としていたのである。
それゆえ、かつての小樽-札幌間には蒸機/内燃/電機の機関車に、これらに牽かれた客車列車と東札幌-長万部間に設定の線内貨物、特急型から急行型/一般用に至る気動車も在って、道内配置のほとんどの車種/形式が見ることの出来たのであった。
1986年11月の改正以降、ここは完全に札幌の都市圏輸送区間に組み入れられ、小樽以遠への気動車列車を除けば近郊型/通勤型の電車列車ばかりの運転(*)となっているのと隔世の感が在る。
(*) - 94年10月31日まではオハ50系列51形の客車列車も残存

この区間での定番ポイントとなれば、やはり恵美須岩の俯瞰だろうか。
札樽線の国鉄バスを西春香町の停留所で降りた先の、民家に断りを入れてのその敷地であった。そこは今でも同じなのだが、民家は建て替えられ些か立入りの請い難い位置となっていた。

列車は、12D<北海2号>。
1981年10月1日改正にて、急行<宗谷>の札幌以南区間を格上げしたもので、当初の183系10両編成が84年2月改正で80系10両編成に置替られたが、85年3月改正にて再び183系化されていた。
この運用については、ニセコ (函館本線) 1985に詳述している。
後追い、最後部のキハ183-100番台は、幾度か塗色変更を繰り返して今も1両が健在だが、やはりこの183系のオリジナルに無いキハ82類似のものが似合っている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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留萠 (留萠本線) 1973

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かつて、この駅の深川方に存在した東留萠信号場が良くわからない。
1927年10月25日の留萠線支線の大椴までの開通に際し、その分岐点として留萠から1.3キロ深川方に設けられた信号場なのだが、何よりその位置が分からない。北海道鉄道百年史にも詳細の記述はなく、過去の線路略図でも図式化された配線の記されるのみで実際の線形は知り得ない。
極単純に、後年の羽幌線の留萠構内寄りへの移設後の羽幌線運転列車と留萠本線列車の振分け分岐器位置が、かつての構内西端との記述を以て、現留萌本線沿いに東側位置とする文献も在るのだが、それは1.3キロの駅間に満たない。加えて蒸気機関車の時代ゆえ留萠発着列車に対して、当然に機回しの設備を持っていたはずである。列車の対向もあるとすれば待避線も要し、用地規模は必然的に大きくなる。けれど、それらしい用地の痕跡は見当たらないのである。
廃止されたのが戦前のことゆえ、それも当然かも知れぬのだが、気になるのは占領軍が戦後の1948年に撮影した空中写真である。そこには、その分岐点付近から北側に、その曲線から鉄道と推定される路盤跡らしきものが確認出来る。それを辿ると本線と交差して水路と思われるものと重なるのだけれど、少なくとも交差位置までは水路では無い。
果たして、実際の東留萠信号場とは、この線形をも含むものではなかったのだろうか。これが東側交差位置で本線に接していなければ、それはまさにスゥイッチバック式停車場と言うことになる。
この辺りの事情にお詳しい研究者がおいでであれば、ぜひご教授を願いたいと思っている。

写真は、留萠駅に到着する735D、増毛行きである。
このカットのことなど、その撮影位置ともどもすっかり忘れていた。
留萠駅の上り方の構内を遠望していて、肉眼では画角外のその右に広いヤードから遠く機関区までが見えていたはずである。
その撮影方向と画角を、公開されている国土地理院の空中写真で検討してみれば、どうやら留萌川対岸の国道沿いの法面上部まで登っているようなのだが、明確な記憶はない。
おそらくは登坂に手間をかけ、まだ蒸機列車の在った時期なのに、ここでのカットはキハ22編成のこれだけなのである。念のために能ったオリジナルのネガも当時の撮影メモもそれを裏付けている。
時刻から推定して、この列車の前、14時過ぎの1492列車を待ったはずなのだけれど、それの運休して悔し紛れのカットと思える。逆光側にフェイズの生じていたせいか、市街地越しに広がる海面が飛んでしまっている。

さて、そして現在である。この駅の持っていた広大な構内全てが、パークゴルフ場やグラウンドとなっている事実には愕然とする。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8  1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

厚床 (根室本線) 1977

attoko-Edit.jpg

厚床へ降り立つのは、いつも標津線への乗継ぎばかりだった。
夜行の<狩勝4号>で着いた釧路からは、座席車にそのまま座っていれば30分弱の停車にて根室行き441列車に直通し、これでも標津線接続は間に合うのだけれど、この日はそれを厚床で撮ろうと急行<ノサップ>にて先回りしたのだった。その時刻には、根室からの1462列車も到着して構内での貨車入換えに忙しいはずだし、遥かに函館を目指す急行<ニセコ2号>を見送ることも出来るのである。

この頃までの厚床は、当然ながら運転扱いの駅で、根室本線の上下本線に加えて、主に標津線列車に使用されていた中線を持ち、上り本線外側には3本の側線とそこから分岐しての転車台と給炭台/給水塔の名残の在る標茶機関区厚床派出所(当時)が在り、本屋下り寄りに貨物扱い線が存在していた。その上り寄りは、鉄道官舎が幾棟も立ち並び、これらの構内施設は厚岸を凌いで釧路以東区間での運転上の拠点駅だったのである。
待合室には弘済会の売店も開かれ、なにより拠点駅らしく駅前所在の田中屋調製の「ほたて弁当」の立売りが健在であり、この頃の掛紙を探してみれば定価400円とあった。

またも酒の話で恐縮だが、ここを含む根室半島一帯は、根室市街地に所在する日本最東端の酒蔵「碓氷勝三郎商店」の醸す「北の勝」が圧倒的な販売シェアを維持している。それは、地産地消を旨とする造り酒屋の本来の姿と云える。年間の醸造量で二千石程と推定される小蔵ではあるが、それの大半が根室管内にて消費される。
この蔵元は、創業から百年を越える老舗ながら、その組織はともあれ法人登記のされていない個人商店を通している。善かれ悪しかれ、現場を取り仕切る番頭以下の従業員が店主に寄り添う家族的経営を維持し、これも昔ながらの造り酒屋の形態である。根室市内に多くを所有する不動産資産を背景とした安定経営があって、取引先を周辺地域のみに限る身の丈経営に徹し、この地域の飲食店や酒販店には例外無く「北の勝」が置かれて、地元もまたそれに応える(かつてはそれが当たり前であったはずの)理想的な地域と酒蔵の関係が残されているのである。
ここの主力酒は、あくまで「大海」や「鳳凰」に代表される普通酒であり、吟醸や純米は年間に数回、少量が出荷されるに過ぎない事実が、それを物語っている。
付記すれば、ここの普通酒は2006年醸造年度以降、糖類・酸味料添加の所謂「三増酒」を脱している。
77年に、厚床の駅前食堂を兼ねた田中屋で目にしたのも、当然ながら「北の勝-大海」の一升瓶であった。

写真は、厚床下り本線に到着する混合441列車。
当務駅長がタブレットキャリアをいち早く受け取るべく、腕を掲げている。まもなく、中線に到着する(上り本線には1492列車が停車中)104D<ニセコ2号>にそれをいち早く手渡すためである。
その後方では、青森運転所[盛航21]運用のオユ10から郵袋を受取る郵便局職員がリヤカーと共に待機している。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

礼文-大岸 (室蘭本線) 1992

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噴火湾の北岸、その最も奥まったあたりでは、眼前に海面を見るにかかわらず、そこから陽の出ずることも没することも無い。北海道の地図を俯瞰すれば、すぐに理解されるのだけれど、現地に立てば戸惑うことの多かった。
内地の太平洋岸に永く暮らしてしまうと、海が在ればそこから陽の昇るものとの感覚に囚われるのだ。
豊浦の俯瞰山から貫気別川を見下ろせば、陽は左手後方から射し始め、蘭法華岬で下り列車を待てば、岬の大きな影が海面に落ちるのである。

そして、それは渡島半島脊梁の低くなだらかな山系に没して往く。地勢の関係からだろうか、その薄暮時間の短くて夏期でも30分に満たなかったと記憶している。
写真は、礼文浜の薄暮を、良く知られたチャス岬から眺めている。手前の山体が大きな影になって、ここはもう闇に溶込んでしまった。

今では、「道道608号大岸礼文停車場線」は、旧室蘭本線の路盤とトンネルを拡幅しての新道が整備されたが、この頃までのそれは、素堀のままのタッコブ/岩見の両隧道を有する細い海辺の道路で、風情としては遥かに滋味のあるものだった。付言すれば、それは1944年に開削されたかつての国道37号線でもある。

列車は、3063列車。ヘッドライトしか写らぬゆえ、どの列車でもよいのだが、ここは日没時刻を睨みながら律儀に機関車列車を待ったのだった。
秋の始まりの頃、誰も来なくなった浜には波だけが光り、アスファルトの路面は僅かな反射を見せる。
新道に照明の設備されてしまい、今はもうこの静けさは失われている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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