"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

社台 (室蘭本線) 1970

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社台ファームである。
ここの吉田一族に依る経営は些か複雑なのだが、1928年創業の社台牧場から、この当時は千葉県富里の千葉社台牧場社台支場を経て、千葉県に本部を置く社台グループの「社台ファーム白老」となっていた。だから、ここでの社台は地名ではなく会社組織名としての「社台」であったけれど、地元一般には引き続き白老町社台に所在の社台ファームと認識されていたと思われる。
この頃の観光ガイドブックにも「社台ファーム」とのみ紹介され、続く「白老」は落ちていた。そう、ここはサラブレッドを産する「観光地」でもあり、蒸機撮影においても放牧されるそれとを画角に収められる定番撮影地であった。国道36号線側から樽前山を背景にするのは今も変わらない。

ところが、夏のはじまりのこの胆振東部地域の天候は不安定で、札幌から遠くも無いこともあって幾度か通ったけれど、霧や小雨に巻かれることの多かったと記憶する。この日も好天の札幌から苫小牧に出ると小雨模様で、層雲の底辺が地上に接するかのように視界を遮っていた。
それでも、霧は背景に入り込む牧場の雑多な建物を隠してもくれ、列車がシルエットに浮かぶことも分かって昼過ぎまでをここで過ごしたのだった。濡れそぼった馬は、それを気にするでなく草を食むのに懸命で、そうタイミング良く首を上げてはくれないのだった。

写真は、社台ファームの直中、起点117キロ付近での224列車長万部行き。牽引は勿論C57である。
この区間、平坦な直線区間ながら速度の出せることも在って白老接近まで力行していた。C57は最高運転速度に近く、急客機の片鱗を見せてくれる。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

栄丘 (興浜南線) 1980

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興浜南線の終端駅となる雄武は、ヤード系貨物輸送の全廃される1984年2月1日改正まで貨物の扱い駅であった。けれど、とっくに到着も発送も定期輸送は無くなっていて、1往復の線内貨物列車は、72年3月改正にて不定期運転に、そして73年10月改正からは臨時列車に格下げされていた。
興部から20キロあまりは、そこまで貨物列車の到達していれば、先のフィーダ輸送は自動車にて十分であり、実際の需要はそれに従っていたのである。同駅の貨物扱いもとうの昔に廃止されて不思議はないのだけれど、遠軽 (石北本線) 1974でも触れたとおり、公共事業体「日本国有鉄道」は安易にその事業から撤退することはなく、貨物輸送市場の変化に追いつめられた末の84年2月改正まで、それは維持された訳である。この国民の経済活動への「奉仕」が、結局のところ自らの首を締めたのだが、まさに公共事業体の使命を全うしていたがゆえと云える。

写真は、8692列車。渡道中に臨貨運転の情報を入手し、この日、ポイントに覚えの在った栄丘上り方の海沿い区間に向かったのだった。
車掌車に有蓋緩急車の組成は、輸送すべき貨物が一車に満たないことを示す。それでも、国鉄は、この線を貨物営業線区として公告している以上、特別の事情の無い限りその運送申し込みを拒むことは出来ず、機関車を名寄から回送して、手配の貨車を雄武に送込み、機関士に車掌を手配してこれを運転している。到底採算は取れない。

栄丘は1948年7月1日付と云う戦後の早い時期に仮乗降場として開設され、56年9月20日に正駅に昇格している。けれど、それは乗降場のみの棒線駅で、周辺に人家はほとんど無い。むしろ、これより先の55年12月25日開設の元沢木仮乗降場の方が集落近くに置かれて、こちらの正駅化が正当と思われた。
興浜線の全通時には、ここにも交換設備を置く計画でも在ったのだろうか。その乗降場は、元沢木の木造に対して土木工事を経て形成されたものであった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1974

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鮭の遡上する川、貫気別川である。

この秋の渡道は天候に恵まれずにいて、この日降り立った豊浦も背後の低い山々は雨層雲下層の霧雲に巻かれ、せっかくの噴火湾だけれど、海や空を画角にすれば白く飛んでしまうゆえ、ポイントは高岡のカーブに決めていた。市街地を抜けて、通りかかった貫気別川の橋から川面を見れば、遡上する鮭の姿があった。
群れと云う程では無い。時折上流方向へと泳ぎ去る大きな魚影を鮭と理解するまで、些か時を要した。噴火湾の最奥部に位置する河川とは言え、もうそれの始まる季節だったのである。前日来の降雨にて多少水嵩の増した流れを上る姿にしばし見とれていた。

ところで、鮭の回帰する母川の条件とは何か。水量とか流域延長などは関係するのだろうか。と云うのも、はるか以前にオホーツク沿岸の、それこそ小川以下の流水で鮭の姿を見かけたことがあるのだ。シロザケ/カラフトマスの仲間は回帰性が多少弱く、母川の確認に付近の幾つかの河口に一旦泳ぎ入ると聞くゆえ、その行動だったのだろうか。

PLfilter にて水面を覗き込まねば、それは捉えられず、まして列車との組合せなど困難だけれど、その流れだけでも撮ろうと河口側へ向かうと、細いロープひとつで流れに抗がう小舟があった。

列車は、4D<おおぞら2号>。
旭川からと釧路からの編成を滝川で併結した堂々の13両組成である。釧路編成は食堂車を含む7両だが、運用上は付属編成となり根室本線内では4004Dを名乗っていた。
この道内での80系気動車の2編成併結による最長編成は、1964年10月1日改正で設定(急行格上げ)の函館-釧路・網走間<おおとり>にて実現し、70年10月1日改正による網走<おおとり>の分離にて一旦消滅するも、72年3月15日改正での旭川発着<北斗>に釧路編成を増発しての<おおぞら>への列車名変更に際して再登場した。写真の旭川編成が旧<北斗>の後身である。
この頃1D・2D<おおぞら1・3号>も函館-札幌間にて札幌回転車3両を含む13両組成であった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f5.6-8  Y48filter  Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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門静 (根室本線) 1980

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それの国内導入から50年あまり、波消ブロックは全国の至る所の海岸線で目にする。一般に「テトラポッド」の呼称が在るが、これはパテントを有する「日本テトラポッド株式会社」(*)による製品の商標である。

(*) - 1961年創立、1995年株式会社テトラに商号変更、2006年に不動建設と合併し、現在では不動テトラ株式会社である

製品と書いたけれど、同社はこれを製造/販売していない。顧客は、同社が設計製作した製造用型枠のレンタルを受け、これに自前でコンクリートを流し込んで生産し、製造数量分の賃借料を支払う仕組みである。テトラ社のカタログによれば、最小のものでも高さ90センチ/質量0.46トン、大きいものは5メートル/80.5トンに達する。工場での大量生産によるコストダウンを輸送経費が遥かに上回る(もしくは輸送不能)ゆえ、設置現場での製造を原則とする特殊な「商品」なのである。
その実際の設置には、大きく三つの方式/形態が在る。直立堤/傾斜堤などの護岸堤付近への設置、海岸と直交方向への突堤、海岸と平行に海中へ構築される離岸堤である。前者が海岸へ到達する波浪の減衰により浸食防止を図るのに対し、後ろ二者は、海浜/海砂の流失防止とそれの養生を目的としている。

厚岸湾は太平洋への開口の大きいゆえに、この門静から厚岸に至る海岸には外海に接するのと同様の波浪が押し寄せる。厚岸方のテトラポッドは突堤と離岸堤の構築だが、根室本線の路盤が海岸に迫る門静付近では海岸線に沿って埋められている。それは突起部を杭状に利用したもので、海浜への直接設置であればその設置下部の浸食を促してしまうためであろう。

海岸に整然と並ぶそれには、厳寒の波飛沫が凍てついていた。
列車は、厚岸までの237D。この線区にもキハ40の進出した頃である。

[Data] NikonF3+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8-11 Nikon O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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長万部 (室蘭本線) 1994

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長万部川は、長万部岳東斜面を水源とする二股川と写万部山付近からの知来川との合流地点より下流の河川名で、北海道所管で長万部町の管理する長万部川水系二級河川である。流域/流路は長万部町内で完結して、その流路延長24.7kmは、本流の二俣川を含むものと解せられる。
この河川は、二股川/知来川ばかりでなく両水源の長万部岳と写万部山を結ぶ陵線からの多くの水流が流れ込み、加えて河口が噴火湾岸の砂州にて遮られて排水の悪く、大雨時には氾濫を繰り返す暴れ川でもあった。そのため、抜本的対策として計画/施工されたのが排水路の開削であり、通称の新長万部川がそれである。

これにて、室蘭本線には延長148Mの新長万部川橋梁が新設された。下流の国道37号線には新長万部橋が架けられ、ここから適度な距離で橋梁上の列車を見ることが出来る。河口付近の比較的延長の在る鉄道橋梁を海側真横から(即ち海背景でなく)撮影可能な例は少なく、羽幌線の小平蕊川橋梁が失われてからは、ここと根室本線の釧路川橋梁くらいであろうか。

写真は、新長万部川橋梁上の5013D<北斗13号>。HET色に塗色変更の進んだ頃だが、これは、この3月の改正にて3往復が残存した従来のN183系(最高運転速度120km/h指定車)による運用である。
人工の河川だけにシンメトリックな景観を見せる。河床の勾配は緩く、このあたりは極めて海水に近い気水域であろう。

この排水路を以てしてもなお、道函館土木現業所が、流域全体への日総降水量176ミリを想定して2005年に作成したハザードマップ『長万部川浸水想定区域図』によれば、二股付近から河口にかけての多くの地域が50センチから5メートルに水没し、長万部市街地も長万部中学校から町役場付近に至る区域で1メートル程度の冠水が想定されている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor35mm/F1.4 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1968

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近年の日本における「海水浴場」とは、都道府県が条例によって定義し、市町村がそれに従って指定した海域/海浜を云う。曰く、「遊泳者の利便のための施設とその水難事故の防止の環境の整備と一定の管理」が条件であるらしい。すなわち、自治体管理のそこには、脱衣所/シャワー設備や飲食施設が常設され、監視員なりライフセイヴァーが常駐している。
対して、「海水浴適地」と呼ばれる海域もある。文字通り海水浴に適した遠浅の海岸であったり、岩礁ではあるものの、条例の定義からは外れるものを指すようなのだが、その法的根拠は曖昧である。

前年の訪問で北浜にオホーツクを見て、その前浜は海水浴適地に思え、この夏にはそれを兼ねての撮影を目論んだのだった。その海に対する知識など無くて、海水浴と云えば張碓/蘭島の海岸しか知らぬ頃である。盛夏と云うに人気の無い海岸は、そのとおりに1分と浸かっていられない冷たい海であった。
それでも、小石混じりの砂浜に寝そべれば風も心地よく、持参の固形燃料にて湯を湧かしてコーヒーを淹れ、汽笛の聞こえればその場でカメラを構えて半日を過ごした。

このカットも、砂浜に腹這いになったままで撮っている。
列車は1693列車、網走からの釧路操車場行き。石油タンク車は北見からの継送で返空回送である。

さて、そこには真水の設備なぞ無いゆえ、そのまま駅へと戻り水道の借用を申し出た。駅員氏は呆れ、そして苦笑して云ったものである。「ここで泳ぐ者などいない」。
井戸水と思われたそれは、海水より遥かに温かかったのを覚えている。
水温のせいばかりでなく、北浜の待合室にはあまりに場違いで、確かに、ここは「海水浴適地」ではなさそうなのだった。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

落部 (函館本線) 2011

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落部前後の噴火湾沿いの区間には、この40年近くの間に、もう幾度も訪れている。
勿論そこでは、それを意識しない画角も求め得るのだけれど、やはり海上に望む駒ヶ岳の遠望に左右されてのことである。その濃淡と光に拘れば、季節を代え時間を変えてそこに立つしかない。

野田生方の、ここでの定番ポイントになっている東野の駐車場(八雲のタクシードライヴァはそう呼んでいる)は、比較的近年に開削されたもので、以前には旧函館本線の路盤である国道5号線が川向の段丘の裾を巻いて高度を上げて往く際の切取り斜面を登って、急峻な海側段丘斜面に出て俯瞰したものであった。
1980年頃までは線路山側の通信線柱も無く、すっきりとした構図の得られたのだが、今は機関車なりの先頭車両をそれと重ならぬタイミングの取れる画角を選ばねばならない。それの重連牽引の寝台特急ともなれば、なおさら制約の強く、駒ヶ岳を無視して第三落部トンネルを抜けたあたりに画角を取るのが、ここでの定番となる所以かも知れない。

このカットの、 Voigtländer COLOR-HELIAR 75mm/F2.5 SL は、85mmでは切れてしまう画角を回避するものとして、その他には類例の無い焦点距離だけを事由に導入した。発売後間もない頃である。
M42マウントで古くからキレの良さに定評の在るレンズをニコンで使えるとなれば尚更であったし、生産も裏CarlZeissとして知られたコシナ社であれば品質は信頼して良い。
レンズマニアでは無いもので蘊蓄は語れないけれど、開放ではさすがの甘さも僅かに絞れば十分に実用範囲にあり、それはf4で完全に解消して実にシャープなエッジを再現する。f5.6ならばNikkorに劣らぬカリカリした描写である。それの青色系に傾く発色に対しての暖色は、ヌケとも相俟って、このような逆光撮影には最適でもあった。予期せぬオマケである。
設計の古いだけに、周辺光量のオチは大きくても、ディジタル処理が前提とあれば気にするでない。
付属する角型フードに象徴されるようにマニアックな製品なのだけれど、49ミリのフィルタ径を62ミリに変換してニッコールレンズ群のひとつとして実用している。

この朝は、未明から浜松温泉付近の海岸に立ったのだけれど、陽の昇ってみると駒ヶ岳の濃度が理想的に思えて、ここまでタクシーを飛ばしたのだった。
黄金に満つる海。列車は、広島貨物ターミナルからの3061列車。そこを出たのは二日前の夜である。

[Data] NikonF5+COLOR-HELIAR75mm/F2.5SL 1/500sec@f5 PLfilter Ektachrome Professional E100G (ISO160/0.5EV push) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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音別-古瀬信号場 (根室本線) 1975

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撮影や移動の都合上、夜行急行からの深夜の下車や、宿舎泊まりなら未明の起床は必須であった。まして、夜行列車の上下を乗継いで出発地に舞い戻るなら、それは必然的に午前2時前後になった。
緊張感からだろうか、連日の疲労が重なっても起きられたものである。下車時刻の30分程前になると不思議と目の覚めた。
不覚にも、の寝坊は二度ある。覚えているくらいだから、この2回だけである。
一度は、翌朝の下り<利尻>を撮るつもりで2時起きのはずだった南稚内のホテル。目覚まし時計に記憶が無い。これに懲りて、次回からは駅近くの呑み屋で仕舞いまで粘ることにした。
もう一度は、士幌線に向かうべく小樽から乗車した釧路行きの<からまつ>だった。1両に10人程の乗車で静かな車内だったのだが、深夜に赤平から芦別まで乗った酔い客に起こされてしまい富良野あたりまで寝付けなかったのである。目覚めるとすっかり夜は明け、停車した駅の名は新吉野と読めた。

致し方なく、この日降りたのが音別だったのである。予期せぬ初訪問ゆえ地形図の準備も無く、車窓に記憶の在った下り方の海沿い区間へと歩いた。ロケハンのつもりでいたのだけれど、そんな時に限って好天に恵まれるものである。太平洋岸の秋空の痛快なまでの空気感を良く覚えている。
夕刻、駅へ戻るまで海岸を歩き、また幾つかの段丘に上り下りしたが、遠くに国道を見た以外に、誰一人にも出会わぬ一日なのだった。

列車は、425列車。滝川を早朝に出ての釧路行きである。
この頃ここでは、昼間に3往復の客車列車の撮影が可能であった。これらは、貨物の運休や臨時の運転が在れば、機関車の送込みや引抜き回送にも使われ、重連運転が多々行われていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptuerOne5 on Mac.

勇払 (日高本線) 1988

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勇払川は、支笏湖畔モラップ山南東斜面付近を水源とする、流路延長37.8kmの安平川水系二級河川とされている。けれど、勇払平野に流れ出てからの度重なる治水工事により、その名にて呼ばれる河川がいくつか存在して少しばかり面倒くさい。

植苗川と合流して三井観光のゴルフ場(現在の苫小牧ゴルフリゾート72エミナゴルフクラブ)の南側を迂回して流れる区間からして、河川改修がなされていて既に自然の姿では無い。流れは、そのままウトナイ湖へと続くけれど、現在の勇振大橋付近から途中のトキサタマップ川との合流地点までは人工河川の勇払川で、その先は、そのトキサタマップ川の流路である。
かつての本流は、勇振大橋付近で分流する沼ノ端方向への流れで、これは旧勇払川と呼ばれる。
ウトナイ湖への流入は、美々川となってそこから流れ出して、これを渡河する室蘭本線の橋梁付近にて旧勇払川が合流すると、ふたたび勇払川と名を変える。けれど、それは国道234号線の沼ノ端橋より下流は直線状に開削された排水路で、旧河道は勇払原野に三日月湖を残していて、これも勇払川と呼ばれている。
この二つの勇払川は、安平川へと流れ込む直前で合流し、すなわち、ここが人工水路工事の終点である。
現在での勇払川とは、ウトナイ湖を挟んで分断された二つの流路(区間)を指し、前出の37.8kmは、その合計であるらしい。

日高本線は、勇払を出てまもなく、その河口近くの流れを渡る。川の名は、既に安平川と変えているのだけれど、橋梁名は「勇払川橋梁」を名乗っている。
前記の室蘭本線の橋梁も美々川に架かる「勇払川橋梁」で、河川名と施設名の一致するのは、そのすぐ下流の千歳線下り線(上り運転線)の橋梁だけである。
河口付近と云うのに、この日高本線の勇払川橋梁は80Mの延長しか無い。氾濫原を合わせ渡るとは言え、ウトナイ湖直下の室蘭本線/千歳線のそれが300Mを越えるのと対照的である。実は、ここの安平川も人工の排水路で、本来の流路はさらに海岸近くを大きく蛇行して、その旧河口は2キロ程東寄りであった。

写真は、勇払川橋梁を渡る1620D。鵡川からの区間列車である。
背後に広がる原野と湿原は、臨港西地区とされた苫小牧東部開発計画の開発予定地10000haの一部であったが、これの用地造成は工事の容易な臨港東地区/臨港北地区より始められ、それも重厚長大産業の誘致に失敗して多くが遊休化したため、ここは大半が手つかずの原野で残され、80年代末に至っても写真の景観となっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f8 Kodak No,9filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1995

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アジア太平洋戦争末期の開設になる伊達舟岡信号場は分からぬが、同位置に1963年9月30日付にて再設置された北舟岡信号場は、現在で云うところの「一線スルー」型の配線であった。その当時に通過列車を分岐器による速度制限の無い直線側に振り向ける運転思想が存在したかは疑問だけれど、約2キロメートルに及ぶ直線区間に交換設備を置くとなれば、方開き分岐器の挿入は自然な設計には思える。この戦後の信号場は、おそらく戦中の伊達舟岡信号場の路盤を再利用したであろうから、それも「一線スルー」型であったと推定される。
三たび復活した現在の交換設備も、当然のごとくにかつての路盤上に設置され、気動車特急が直線側を130km/hで通過し、期せずして現代の高速運転に寄与している。

信号場の当時から、ここのランドマークは段丘上の畑作地際に生育した数本のポプラである。後背の傾斜地からの斜面が広大な農地に開発された中で、遥かエントモ岬から遠望する海岸線の中でもその位置を知らせてくれたものであった。
海側からの撮影でも、必ず画角に捉えられて良いアクセントになってくれる。

ここへの交換設備の再々設置を待って、信号場当時以来久しぶりに旧国道側から収穫を終えた畑作地を横切ってポプラまで到達した。奥から2本目のポプラに立てば、分岐器の位置がかつてと変わらぬことが知れた。
初冬の日出は遅く、この寝台特急の時間帯には未だに噴火湾は鉛色に沈み、遠く洞爺湖や有珠山から続く斜面のうっすらと積雪に霞んだ朝である。

列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。
ここへは、2003年を最期に立っていないけれど、車窓からでは植生の繁茂にて視界の取れなくなっているように見える。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 FujiSC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

西中 (富良野線) 1978

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その夜の富良野盆地は厳しく冷え込んだのだった。このカットの夜ではない。その、ひとシーズン前の西中でのことである。
バックパックに入れた水筒が完全に凍りついて、素手で触れるのを躊躇してしまうような環境が、どれだけ気温の低下していたものかは分からないけれど、その厳寒でF2に仕込んだフィルムは、用心していたにもかかわらず次のアドヴァンスで折れてしまったのである。
仕方なく、翌日の撮影をカメラ一台のみにて済ませ、これを早めに切り上げて釧路の写真店で暗室を借りたのだった。ここで、リワインドもアドヴァンスも出来なくなった状態のままカメラから取り出し、フィルムの未撮影の残りを取り去ったパトローネに事故以前の、パーフォレイションも長く破損もしていた撮影済み部分をなんとか詰め込んで、これを持ち帰った。
後日に現像したそれは、折損部は勿論だけれど壊れたパーフォレイションが膜面を傷つけていて、予想通りにコマの大半が救えなかったのだった。
この翌月の道内行きで、多くは撮影し直したものの、富良野線は翌年に持ち越していた。だから、これは一年越しで再撮影したカットである。

富良野盆地内の富良野線は、鹿討の手前、起点4キロ付近から上富良野直前までの約10キロメートルが直線である。沿線は、駅周辺を除けば障害物の無い田園地帯で、どちらが先か分からないけれど、その碁盤の目状の条理線を正確にトレースしている。その開けた風景が気に入って幾度か訪れていたのだった。

西中はその区間の簡素な木造乗降場の駅で、この頃には、その傍らにプレハブの小さな待合所が建てられていた。国鉄に依るものと云うより、地元有志による寄贈物件と思われ、それもそのはずで、ここは1958年1月25日付にて開設の仮乗降場を出自としている。けれど、駅への昇格は、その僅か2ヶ月後の3月25日である。仮乗降場の大半が北海道旅客鉄道の発足まで正駅化を待たねばならなかった中にあって、2ヶ月でのそれは異例と云って良かろう。

これは、駅昇格を前提とした設置だったのである。
富良野線は、この1958年1月25日の時刻改正にて、気動車の投入による貨客分離を果たし、その加減速性能を生かした到達時分の短縮やフリークエンシィの向上が図られ、あわせて長い駅間を埋める多くの乗降場を開設する総合的な線区の経営改善が行われたのであった。
この改正で設置の乗降場は他に、近隣の学田/鹿討/北美瑛に旭川近郊の西瑞穂/西聖和を数える。神楽岡/西御料も一足早い1957年12月1日に開設されていた。
この営業施策は、ルーラル線区経営のモデル線区として本社の主導を得て実施されたものであり、これら乗降場も当然にそれの認めるところであった訳である。
国鉄本社においても、簡素な無人駅設置と活用の思想がこの当時に存在したことの証でもあり、興味深い。

走り去って往くのは636D、旭川行き。後部標識灯は非自動化線区ゆえ片側点灯である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

森 (函館本線) 1969

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防波壁に遮られて本屋側から直接に海面を見ることのないせいか、ついそれを忘れてしまうのだが、ここは海浜に接した駅である。
そして、かつては海陸の連絡駅でもあったのである。

札幌への開拓使庁の設置が決まると、そこへの連絡路として、それまでの徒歩交通路に代えて砂利敷による洋式の長距離馬車道、即ち「道路」の建設が計画された。「札幌本道」である。これは、箱館出張所-森村間/室蘭トキカラモイ-札幌本庁間に道路を切り開き、この間を噴火湾上の海路で連絡するものであった。
これにより、1872年に函館から森までの道路の通じた際、現在の森駅構内函館方付近に桟橋が設けられ、室蘭までの定期航路が開かれたのだった。
この航路は、後に函館-室蘭間となって一旦廃されるのだが、ここへの鉄道開通(1903年6月28日)後の1904年に再開される(1908年との記述もある)。これは、構内に取り込まれた旧桟橋を利用した実質的な鉄道連絡船とも云え、未開通であった長万部-室蘭間鉄道を代替するものであった。この際には、桟橋は改築され、本屋側からの連絡通路と待合室も置かれたと云う。航路は、同区間の長輪線の全通する1928年まで存続した。
函館-室蘭間の航路も存在しただろうが、恵山岬を回ることになり、この間を鉄道利用が速達であるから需要の在ったものと思われる。

民間の経営ゆえ国鉄部内に記録は残らず、室蘭市史や森町史の記述に頼るのみで、詳細の不明である。しかしながら、研究者は必ずおいでのはずで論文も既出と思われるのだが、探索し得なかった。
現在、そこには海面への突起として桟橋の遺構が見られる。

1キロ程下り方の海沿い区間は、ここでの定番撮影ポイントである。下り列車ならば海面を左に市街地越しに駒ヶ岳を遠望する画角が得られるけれど、上りにはそうも往かない。
島崎川の橋梁から、一面に昆布の干されたその小さな砂州に降りると島崎稲荷神社のこんもりとした森が見えた。
この区間が単線運転の頃である。

列車は、154列車。桑園始発の冷蔵車主体の組成列車であった。これが70年10月改正にてそれの専用化されて1354列車となる。→八雲 (函館本線) 1971

島崎神社の鎮守の森は今でも変わらない。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

浜頓別 (天北線) 1985

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音威子府から稚内へ。そこへの到達が僅か4年差であった幌延経由と浜頓別経由線の建設事情と、いささか複雑な線路名称変遷の経緯は、さて置く。

天北線での151.6キロは、宗谷本線ならば130.1キロであった。宗谷丘陵を越える小石-曲渕間に12.5から25パーミルの介在し、10パーミルの標準勾配も随所に存在した天北線に対して、天塩川流域の宗谷本線は、ほぼ平坦線区と云って良く、これを離れた兜沼以北の丘陵地帯での10パーミルを最急勾配としていた。どう見ても、列車運行は宗谷本線が遥に有利である。
にもかかわらず、その最期の日まで稚内連絡急行の1往復が天北線を運行していたのは、沿線の浜頓別町、そしてそこに連絡していた枝幸町の存在にある。
音威子府村と稚内市を除外した沿線人口は、両線とも1万人前後にて互角であったけれど、最大の人口集積地は天北線の通る浜頓別町である。その市街地、商業地の形成においても、名寄と稚内の間では原野を往くばかりの宗谷本線/天北線にあっては唯一の街らしい街なのだった。
全般に始発列車の遅い道内に在って、この線には音威子府を4時過ぎに出る、送込み回送を兼ねての北見枝幸行きも併結した浜頓別行きが設定されていた。下り<利尻>は幌延を経由するけれども、明らかに両駅への早朝着を使命とした継送設定であり、稚内と同格に意識されていた証である。

浜頓別の駅も、線区の拠点駅らしく、かつての浜頓別機関庫から稚内機関区浜頓別支区を経て、最後には駐泊所となったものの、その施設の名残でもある矩形庫と転車台の在る構内は広く、1969年に改築されたと云うコンクリート造りの駅本屋は、幌延や豊富を凌ぐ堂々としたものだったのである。
その上下本線で島式となる天北線用乗降場も、おそらくその全長を使用するのは一日1往復の急行列車のみであったろうが、線内各駅で最長の120メートルの有効長を持っていた。この線区では破格の設備である。
それでも、14系客車編成の<天北>の所定であった6両が限界で、これが7両に増結されると、後位側にしか客扉の無いスハネフ14が最後尾であった303列車では、停車位置を前方にずらして機関車次位のスハフ14の後位側客扉(編成最前位のドアである)を乗降場から外して停車していた。これにて、辛うじて7両編成の各車からの乗降を可能にしていたのである。
浜頓別でもこの状態であったから、50メートル程度のホーム有効長しか持たない他の線内停車駅、小頓別や中頓別、鬼志別では常時2から3両がホームから外れていた。そもそも、その建設時から小単位の線内列車の扱いしか考慮されていないのである。

稚内への鉄道建設が急がれたのは、1905年のポーツマス条約にてロシアより永久譲渡を得た南樺太の経営上の必要からであった。客貨ともそこへの連絡列車の運転を第一義としており、この線の規格や設備は、線内輸送や線内各駅の対札幌や対内地の輸送は副次的に考えられていた証左に思える。このあたりについては機会を改めたい。

写真は、構内南側にあった国道275号線の浜頓別跨線橋からの304列車<天北>である。
構内外れから画角右へカーブしていた興浜北線は、この夏に廃止されていて、その軌道跡は雪に埋もれるばかりだった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北母子里 (深名線) 1980

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この魅惑的なルーラル鉄道が姿を消して久しい。
1995年の9月は、北海道旅客鉄道が承継して9年目のことであった。よく生き永らえたと云うべきだろうか。

おさらいをすれば、1980年代に進められた国鉄の多くのルーラル線区のバス輸送への転換やそこからの経営分離は、紆余曲折の末1980年10月に成立し、同年12月27日に公布、即日施行された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(1980年12月27日法律111号-以下国鉄再建法と記す)を根拠としていた。
そしてそれは、1981年3月11日に公布・即日施行の同法施行令「別表第一」にて当時の国鉄の営業線245線を区間表示にて定義し、同法第八条第一項に基づいて、このうち175線を同年4月10日に運輸大臣が地方交通線として公告、ここから「その鉄道による輸送に代えて一般乗合旅客自動車運送事業による輸送を行うことが適当であるものとして政令で定める基準に該当する営業線」と規定する同法第八条第二項により、それらを「特定地方交通線」として数次に分けて申請し、運輸大臣が承認する手順にて行われた。「政令で定める基準」とは、一日あたり4000人未満の輸送密度であった。

それの4000人は疎か500人にも届かぬこの線区は、同条にある4項目の除外規定のひとつ「代替道路の未整備」を事由に、特定地方交通線への申請対象外とされた。朱鞠内-北母子里間20キロあまりの朱鞠内湖北岸区間に並行道路が存在せず、蕗ノ台/白樺の着発旅客のバス代替は困難との判断からである。もっとも、この時点でもこの両駅の定形的な利用客は皆無であったと思われ、厳格に適用されるべき法律に内在する矛盾ではあった。

北海道旅客鉄道に承継後の1990年3月10日付にて、この両駅は廃止され、ここへの代替道路の必要も消滅した上に、国鉄の民営化にともなう国鉄再建法の廃止にて、その根拠も失われていたのだが、同社はその区間への道路の開通を見届けてから、自社の運行するバス輸送への転換を沿線4市町の首長に提案した。1994年12月10日のことである。
これを受けて結成された沿線自治体による対策協議会は、通り一辺倒の意見を表明するものの、さしたる抵抗のないまま95年5月17日に至って提案の受け入れを表明したのだった。

1980年代、国鉄再建法の下に全国83線区の沿線にて繰り広げられた様々な反対運動や抵抗が嘘のように感じられさえした対応は、廃止の留保されていた経緯から、この線区での特別の事情と捉えたいところなのだが、その時代より十数年を経て自治体や沿線住民の意識の変化も垣間見えるものであった。
これを、より認識させられたのは、最近の江差線木古内以遠区間の廃止提案に関してである。江差町や木古内町からの反対意見は皆無と言って良い。これは当事者の北海道旅客鉄道も予想外ではなかったろうか。
地域の道路整備が進み、函館への高規格道路も通じたとなればなおさらのこと、鉄道を地域の拠り所とする意識はとっくに霧散していたのである。

写真は、北母子里から遠く無い朱鞠内湖岸での944D、朱鞠内行き。
雪が深くて山側には登れずに氷結した湖上に出て撮っている。伐採木もすべて埋もれていたから、そこでの積雪は2メートルを遥かに越えていたはずである。
この切取りと盛土は永く残るけれど、植生は自然に還って、今はここへの接近すら困難だろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1977

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国税庁の告示する「清酒の製法品質表示基準」(1989年11月国税庁告示第8号/2003年10月31日一部改正)では、大吟醸酒とは、精米歩合50%以下の原料米にて吟醸造りを行って、固有の香味を持ち、色沢良好な清酒と定められている。
実際の現場では、大吟醸と云えば、その蔵元の旗艦商品であるゆえ、酒造好適米を35%程度まで磨き、洗米に細心の注意を払い、秒単位の限定浸漬を経て、昔ながらの甑による抜けがけ法にて蒸きょうし、これも同様に麹蓋での製麹に至る。酒母こそ速醸酛ではあるが、優良な吟醸酵母を大量に添加して育成し、醪は当然ながら長期低温発酵に管理され、搾りも袋吊りか槽が用いられる。その行程すべてに、杜氏の持てる技術と経験のつぎ込まれ、手作業ないしそれに近い製法が貫かれた少量生産品なのである。

その酒が美味く無い訳がなく、その蔵元における最上でなければならない。大吟醸とはそういう酒なのである。
これを視点を変えてみると、それは杜氏と彼に率いられた酒造集団の使命であり、誇りでもあるから、その造りには自ずと慎重になり、努めて保守的とならざるを得ない。すなわち、冒険を冒すことはなくなるのである。

では、冒険は何処に在るのか。
実際の製造で50から60%の精米歩合の原料米による吟醸酒か、2003年の国税庁告示の一部改正にて製法品質の要件から「精米歩合70%以下」が削除された純米酒が面白いのは、そこである。
この大吟醸に次ぐ製品群には、近年各県で育種の盛んな新品種の酒造好適米や開発/培養の進む新酵母から精米の新技術や酒母/醪管理の新手法など、それらの最初に取り入れられ、実験的なものも含めて多様な芳香や香味を楽しめる。そこからは、その蔵が基準とするであろう酒の有り様や、進もうとしている方向までも読み取れるのである。
価格帯も手頃であり、この製品群からは目が離せない。

倶知安駅からもほど近い丘陵上に所在する「ニ世古酒造」にも、この製品帯に原料米の品種の異なる商品アイテムが揃えられ、多くがこの蔵の拘りでもある原酒である。原酒の商品化自体は珍しくは無いけれど、それを中核に据える蔵は多くは無い。加えて、ここは蔵元自らが製造を手掛ける蔵でもある。
現在の「ニ世古酒造」は、不動産業を営む現蔵元の父君が、売りに出されていた蔵を酒造免許ごと買い取ったのが始まりと云う。廃業もしくはその寸前の蔵であったろうから、その規模からも再生に当たって、新たに高額の報酬にて杜氏(と率いられた酒造集団)を雇い入れる余裕もなかったものであろう。
この蔵とその酒を知った時には、その原酒への拘りと、2000石程と思われる規模の蔵にしては、大吟醸から普通酒に至るまで実に多種な商品アイテムに、失礼な言い方にはなるが「素人臭さ」を感じた。けれど、この素人感覚がここの真骨頂なのである。その経緯は蔵元へのインタビューに詳しい。
その醸す酒は一献の価値はある。

写真は、豪雪の倶知安構内である。
蔵はこの豪雪に埋もれて、寒造りに最適の環境になる。
2番ホームに停車中の列車は122列車。函館本線全線を14時間をかけて走っていた。12時51分着の倶知安は、そのほぼ中間地点になる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1995

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山手線渋谷のような大都市電車駅にせよ、高山本線打保のごとき山間の小駅にせよ、曲線上に存在する停車場には、それがゆえの独特の情緒が感ぜられる。直線のそれは機能が先に見えてしまうからだろうか。
鉄道にしてみれば、それは無いに越したことは無く、仙台市交通局の運営する地下鉄道線のごとくに全駅の直線上設置を実現して、運転台を右配置とした例すらある。

ここ豊浦の下り方はR800の緩い左回り曲線で第二茶志内トンネル入口に接し、その構内に嫋やかな印象を与えている。
これは、洞爺(当時は虻田と称した)まで断崖直下を海岸線に沿うように敷設されていた開業時の線路を、災害対策として山側に穿った隧道で通過する新線に移行した際に生じたもので、それまではほぼ直進して構内を抜け旧線の第二茶志内トンネルに至る線形であった。切替は1968年9月28日と記録される。

けれど、この現在線抗口への切通し状の曲線用地は、新線工事開始前の旧版地形図でも読み取れるのである。これは、長輪線として旧線を建設時の第二茶志内トンネルが、入口側抗口をこの位置に工事を進行していたからに他ならない。ところが、掘削まもなくに温泉沃土状の軟弱地盤に遭遇し、やむなく直線設計であったこれを海側に迂回する線形とした結果、抗口位置が変更されたのだった。
新線は、この際に放棄された用地と抗口を利用している。本来ならば、この駅は開業時から下り方へ緩く弧を描く構内を持っていたはずだったのである。
余談だが、新線切替後に旧線を線形改良する形で複線化工事が開始され、この際に構内から旧第二茶志内トンネル出口までの区間は、迂回にてS字状を描くことになった線形が、ほぼ原設計どおりに改築された。したがって、新しい第二茶志内トンネルは、旧第二茶志内トンネルをその内部で横断し、入口側抗口が本来位置となって新線と並んだ訳である。これを上り線とした複線の使用開始は1970年の6月30日であった。

噴火湾は外海に比して水温の高いと言われているものの、それでも南風に湿潤な大気が押し込まれれば海霧を生ずる。霧に包まれた豊浦の街も滋味のあるけれど、写真は線路端に限られてしまう。
この日は午後になって海上に霧を生じて、やがてそれは海岸線に達し、やむなく駅に引上げたのだった。

写真は、第二茶志内トンネルを出て場内に進入する8002列車<トワイライトエクスブレス>。
海霧はここへも流れ込んで来る。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 FujiSC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1993

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長万部から静狩までの区間の、函館線に所属する長輪線としての開業は、1923年12月10日と記録される。
勿論、既に開かれていた静狩金山の資材輸送にも活用され、長万部市街地以上に成長しつつあった鉱山街区との人的移動に利用されたであろうが、直接的な関連は薄く、あくまで工業都市室蘭の函館/本州線への短絡線建設を目的とした工事の最初の開通区間であった。
この区間は、1919年3月に同年法律21号により長万部-輪西間が北海道鉄道敷設法第二条の予定線に追加されると、4月には測量に着手、7月に線路選定を終えて、11月に工事に着手している。原地形が海岸沿いの平坦な原野であり、ほぼ直線の線形が選定されたにもかかわらず、6.6マイルに4年の工期は、泥炭地での工事に手を焼いた結果と見て取れる。

この10キロ610メートルには、1943年9月25日に旭浜信号場が設けられた。アジア太平洋戦争末期に沿岸の制海権を奪われたことによる海上輸送の陸運転換に際して設置された一連の信号場のひとつである。その位置は、起点5K300Mと見事に中間地点が選ばれている。前後とも原野の直線/平坦区間で、両端駅からの運転時分が等分となる位置を選定した結果であろう。
ここは、客扱いも行っていたらしく、1969年9月20日付での複線使用開始にともなう信号場廃止以降も仮乗降場として2006年まで存続したのは、ご承知のとおりである。

起点9キロ付近のR3000左回り曲線にて、やや内陸側に寄ると国道37号線の静狩跨線橋に至る。静狩の直前である。蒸機時代には煙の無い区間にて注目のされなかったものだが、近年では定番のポイントで、同業の鉄道屋に出会わぬことは稀となった。僅か数メートルの高度でも平坦な区間にあっては貴重な俯瞰ポイントである。
ここで、早朝の寝台特急群を撮ろうとすれば、かつては長万部からの始発を静狩で下車してから、1列車/8001列車まで30分程の余裕しか無く、それこそ走るように戻って盛土斜面を直登したものだったが、海峡線内での新幹線工事関連でそれの時刻の繰り下げられた現在では余裕である。

列車は、8007列車<エルム>。
この頃、ここを6時台から9時台にかけて最大6本の寝台特急群が下っていた。
札幌終着が12時を回り、そのしんがりを務めたこの列車は、天候や光線の安定する日中の通過となって安心して撮れた。
現在と異なるスペース感は、線路山側の通信線柱が線路から離れた位置に在って目立たぬせいであろう。それの移設後は、ややうるさい上に窮屈な印象がある。

[Data] Nikon F4s + AFNikkor180mm/F2.8ED  1/500sec@F8  Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

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