"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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長万部 (函館/室蘭本線) 1981

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長万部と云えば長万部食堂。つい近年まで営業していたから、覚えておいでの方も多いと思う。
蒸機の時代から、長万部に降り立った鉄道屋でここを知らぬ者はいないだろう。そばの合田にかにめし本舗のかなやは駅弁で食すもので、ここでメシとなれば長万部食堂なのだった。
飛び抜けて美味であったり、名物メニューの存在した訳でもない、ごくごく普通の駅前食堂である。ただ、それは近年に至るまで一時代も二時代も前の造りを残していて、店頭に設けられたウィンドウにディスプレイされた料理模型の懐かしいものであった。もっとも、この模型は更新されておらず、後には片付けられていたと記憶する。
店内も何処にでも在った食堂のそれである。ただ、厨房入口に据えられた、無骨で如何にも重たそうな金属の本体に打ち込みボタンも厳めしい旧式レジスターが、知る限りで30年近く現役であったと思う。
道内では珍しくも瓦屋根の建物は、元来内地に在ったもので、ここには1934年に移築されたと聞いた。古さも当然である。そこには、1945年7月14日早朝と記録される長万部唯一の空襲時の機銃掃射による痕跡も残されていた。

上目名や落部方面での撮影後は一旦長万部に出て、ここから翌日の撮影地に移動することが多く、この駅前食堂は重宝な存在だったのである。残念なことに、駅前より海側に開通した国道5号線長万部バイパスへ直進する都市計画道路の用地となり、廃業してしまった。
つい最近に知ったのだけれど、食堂の名物店主だった沢さんのお孫さんが町内に「DELI57」なる店を開き、ここでメニューの一部を引き継いでいるらしい。それには食器も当時のものを使っている様子である。

写真は、出発する3081列車。コキ/コキフ50000系列による、最高速度95/hに指定の特急貨物列車Bである。
2番ホームに到着しているのは、室蘭からの242列車。
この温泉街への人道跨線橋からの構内風景は、今でもさほど変わらないけれど、この構内照明と「走り」の撮れる明るさは既に無い。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/15sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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南稚内 (宗谷本線) 1985

minami_wakkanai_06-Edit.jpg

写真は、15年を隔てて[番外編 10] 南稚内 (宗谷本線) 1970とほぼ同一地点から撮っている。
旭川起点254K付近から送電線の保守用と思われる草道の通じている丘である。
先の記事にも書いたように、「明治44年稚内大火」にて樹木を失った丘陵地帯を、屈曲する犬師駒内川の小さな流れ沿いに線路の敷設されたこの区間では、見通しが効くゆえにどの丘もポイントとなりそうなのだったが、丘陵下の湿地帯と背丈を超えるクマザサがこれを拒んでいた。
ここに通じていた草道は、さらに送電線下を原野の奥へと向かっているのが見て取れ、それが何処かの丘の斜面に達している可能性を否定出来ぬものの、それもまたクマザサの海を往くもので、この位置よりも深く辿ることはしなかった。

ご存知の方も多かろうが、近年になってWeb上に全国の空中写真が公開された。1974年から78年にかけて国土地理院が全国をくまなく撮影したもので、道北方面は77年に実施されている。これを閲覧する限り、やはり原野の道は在ったのである。稚内高校の周辺は宅地開発の後とて判然としないけれど、件の送電線下を辿れば、やがてその方向からの小径に直交して、丘陵の斜面ないしその縁へと近づけそうに見える。さらにグーグル社による現在の衛星写真となれば、その道は造成された宅地内を通過してより深く続いていて、迂回路となるけれど、252.5キロポイント付近の斜面にすら到達で来そうである。
深いクマザサをかき分けての行動は無いに越したことは無く、70年当時はいざ知らず、その後にも幾度か訪れつつも送電線を辿らなかったことが、些か悔やまれる。

列車は、302列車<宗谷>である。
前にも書いたことが在るが(→山軽-安別仮乗降場 (天北線) 1985)、この春のダイヤ改正での、宗谷/天北線昼行急行の客車置替は、本当にサプライズだったのである。
このポイントで待てば、この後に郵便車/荷物車にオハフ51の1両のみの組成となった324列車も健在ではあったのだが、それでは天北線内での303/304列車<天北>に間に合わぬゆえ、諦めて移動するのが、この頃の道北撮影の定番スケジュールになっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8  1/500sec@f11 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

仁山信号場 (函館本線) 1972

niyama-Edit.jpg

これは、滝の沢トンネルへ20.8パーミル勾配を登る125列車、札幌行きである。
実を云えば、画角中央に函館山を見るはずだった、これは恨みのカットなのである。

今でもそうであるように、途中駅の無い藤城線と異なり、仁山回り線は上り列車専用線とする訳には往かず、普通列車には下りも設定されていた。けれど、無煙化を翌年に控えたこの時期に、ここを登る蒸機牽引列車は僅か2本に過ぎなかったのである。
藤城線は七飯のあたりで幾度か撮っていたが、仁山回り線の未撮影に気がついて、72年冬の渡道にそれを組み込んだのだった。上り列車の車窓に、それが滝の沢トンネルを出るあたりから遥かに函館山を望むのを記憶していたゆえ、ロケーションはこの区間と決めていた。
この日、仁山信号場に下車して線路を大沼方に歩くと、トンネル入口側抗口の上部に登れそうな斜面を見つけたのである。
かなりの急斜面のそこは、予想通りに函館山を遠望して眼下に線路を見るポイントであった。
ここで、午後の125列車を待ったのだけれど、その直前になって直線距離で約20キロメートル余りは、僅かな風雪にて遮られてしまったのだった。

致し方なく、ここへは無煙化直前に再撮影を試みるも、無雪期のそこは草木に覆われて、とても登坂の叶うものでなく、結局のところ函館山の見えぬままにここでの蒸機撮影は終わってしまっている。
故に、これは恨みのカットなのである。以来40余年を経ても、列車通過のつい1分前まで遠望していた函館山を思い出す。

仁山へは、近年では2007年に下車しているが、道道96号線からの取付け道路が舗装路になっていたり、近隣にリゾートホテルが開業したりしているものの、構内や周辺の雰囲気はこの当時とさほど変わっていない。
その前後区間は、ロケーションは良いのに足場の無いのも同じである。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

遠軽 (石北本線) 1974

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戦後に、公共企業体として再発足した日本国有鉄道は「国民の足」を標榜しただけあって、そのサーヴィスは至れり尽くせりであった。近年の民営会社のごとくに、4両組成の客車列車を、ほぼ定員が同じだからと2両のロングシート電車に置替えたり、地方線区の線路保守費の低減を理由に最高運転速度を抑制して、結果到達時分の延伸を招いたりはしなかったのである。まして、石北本線で事例の在ったような、単行気動車による運行で変則下校時の高校生を積み残すような失態は考えられぬのであった。

その石北本線では、白滝方面から遠軽への朝夕の通勤通学輸送に(勿論、現在より乗客は遥かに多かったのではあるけれど)、この区間での増結を施行していた程である。
1973年10月1日改正ダイヤで、朝方に白滝6時41分発の混合523列車と夕刻18時26分に遠軽を出る混合532列車がそれにあたり、要員区とされていた遠軽客貨車区に常駐した旭川客貨車区のオハ/オハフ62の2両が上川-遠軽間の編成に増結されていた。532で白滝へと向かった編成は、30分近い停車時間に解放されて牽引機(この当時はD51形蒸機であった)により側線に押し込まれて滞泊(*)、翌朝に523の牽引機(これもD51である)に引き出されて編成前位に連結、遠軽へと戻る運用であった。
これを気動車でなく客車編成でやっていたところが「至れり尽くせり」に思える。
(*) - 余談だが、この頃ここでの駅寝の際に、この滞泊車で寝せてくれ、と頼み込んで見事断られたことがある。まあ、当然ではある。

北見方でも、朝に北見からの522列車に遠軽まで、北見客貨車区のオハ62が1両増結されて、これは昼の貨物列車に連結されて北見へと戻っていた。もちろん、これにも乗車可能で、「貨物列車」による旅客営業は道内では歴史的に珍しい事例ではない。

写真は、夕方の運用に向けて遠軽で昼寝中の白滝回転運用車である。このオハ62 43は、UF12型台枠を持つ木製車オハユニ25420を1952年に旭川工場にて鋼体化したもので、以来四半世紀あまりを生き延びて1980年11月に用途廃止とされている。
ところで、床下に「温気暖房器」と表記された収納箱が見える。これこそ、客車暖房としての石炭ストーブを追放した機器であり、その搭載は石北本線運用車の特徴であった。この機器については以下に詳述する。

[Data] NikonF2A+Ainikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320)

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美留和 (釧網本線) 1979

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この日の美留和への下車事由は、前の冬の「撮り残し」のカヴァーらしい。当時のメモを見るとそう読める。
ネガをコマ順に辿れば、川湯方の防備林のサミットへ向かうで無く、一日の大半を駅近くで撮っている。いったいどのコマが「撮り残し」ていたものなのか、一向に思い出せない。

この頃の美留和は、貨物扱いは廃止されていたけれど要員の配置駅で、上下本線に相対式の乗降場と上り線(東釧路方面列車運転線)側には待避線も設備していた。もちろん1930年の開業以来と思われる本屋も健在であった。これは、近隣の南弟子屈や五十石とほぼ同設計による同時期の建築で、丁度この1930年に鉄道省工務局より通達の出された『小停車場本屋標準図』(昭和5年10月6日達第875号)に明示の1号型(駅舎面積57.5平方メートル)と2号型(同68.5平方メートル)の折衷形を先取りしたように見える。
建築時期が同期であれば老朽化も等しく去来して、その時期が悪かったとするべきか、この3駅は、今や釧網本線にそれらだけのダルマ駅である。

1984年2月改正でのヤード系車扱列車の全廃にて大量の余剰を生じた車掌車の駅施設転用は、おそらく国鉄部内の(所属はわからぬが)誰かが進言して、幹部がそれに乗ったものだろう。つまらぬことを言い出したものである。
その設置された環境に如何にも不釣り合いな塗色をして「カラフル」「楽しい」と評したり、郷愁の対象として珍重する向きもあるようだが、当時の経緯に疎いがゆえの誤謬である。
そもそも、地元や利用者には実に失礼な施策であったと思う。現実に歓迎はされておらず、ここ美留和のように、近隣の小学校に依る郊外学習を兼ねての維持や利用の行われている例は稀であり、その多くは荒廃の一方にある。

写真は、速度を落として美留和を通過する1694列車。
蒸機末期に本務機に先駆けてDE10への置替の行われた補機運用は、蒸機のそれを踏襲して弟子屈-緑間の後機だったけれど、本務機の無煙化後には、総括制御を生かして重連による通し運用に変えられていた。全線で重連運転の見られるようになったのは、この頃からである。すんなりとした移行は、蒸機時代より補機も含めて釧路機関区の運用であり、標茶機関区も乗務員区化されていて組合の抵抗も小さかったゆえと思われる。

[Data] NikonF2A+Ainikkor50mm/F1.8 1/250sec@f11 Kodak 2Afiler Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on MAc.

石谷 (函館本線) 1991

ishiya-Edit.jpg

単線時代の森から石倉にかけての区間は、海岸線に沿ってそれをトレースする線形を描いていた。国道が山側となっていた本石倉信号場など防波壁をともなって、海面に接した位置にあった程である。
複線化に際して、石谷より北のこの区間は大部分が山側に移設しての別線線増に依ったため、噴火湾を望めるものの、それを間近に見ることはなくなった。けれど、森寄りについては湯ノ崎を周回していた区間を除き、在来線への腹付け線増とされて、今でも落部の前後に並ぶ海沿いの区間である。

ここでは、蛯谷跨線橋で国道5号線が海側に出ると、海に迫る丘陵の裾を走る函館本線と国道とに挟まれた狭い土地に、住戸がまさに1軒ずつ横一線に続く集落を見ることが出来る。このような集落形態をいったい何と呼べば良いのだろうか。
石谷駅本屋もその横並びの中に在って、駅前広場を持たず、直接に国道に面している。けれど、その正面は海である。民家の中に突然に駅本屋が「混じって」いるのは、どこか奇妙な感覚がしたものだ。

この辺り、以前から幾度かポイントを探して歩いたが、どうにも足場は見つからないのだった。
この日も、結局のところ跨線橋を降りて桂川トンネルまで接近してしまい、駒ヶ岳が湯の崎の背後に迫るのは良いにしても、苦し紛れの画角である。
列車は、5007D<北斗7号>。再び函館運転所に配置の戻った500番台車限定組成による列車であった。この日は1両の増結が在る。

湯ノ崎を回る護岸は、かつての函館本線と国道5号線の路盤跡である。そこに立ってみると、とても鉄道の単線と道路が通過していたとは思えない程に用地は狭く、国道とは名ばかりであったろう。今、桂川の集落内に続くのがそれである。写真にも見えるが、ここは途中で崩落していて、桂川側へ歩くことは出来ない。ここへは石谷側からのアプローチを要する所以である。

(追記)
写真にも写り込んでしまっているけれど、この区間は護岸上に欄干が設けられている。あまり例は無いと思われる。
それは、「柵」としての防護機能と云うよりも装飾である。成形コンクリートと金属管を用いた極めて単純な形状/形式ではあるが、これの連続する様は確信犯的に美しい。湯の崎の旧線部分には無いので、腹付け線増に依る複線化時の造作であろう。それは、1971年9月のことであるから、60年代までの国鉄にはそんな余裕の在ったと云うことだろうか。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1992

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9月ともなれば沿岸には鮭が回帰して来る。
大規模には定置網による漁獲だけれど、資源保護で設置は制限されていて、それを逃れた多くの鮭が母川を探して海岸に接近する。道内各地の浜に釣り人の竿が林立するのも、この季節である。
これは、道内で一般的な投げ釣りで、通称-ブッコミと呼ばれる。仕掛けに重い三角錘を付けて海中に投げ込んで、後は魚信を待つだけゆえ、竿を浜に固定して放置するのである。釣り人ひとりで複数の仕掛けを投げ込むのが作法と見え、盛期の浜には竿が立ち並び壮観ですらある。

噴火湾の水温はやや高く、ここへ注ぐ河川への回帰は道内でも最も遅いと云われており、豊浦漁港での貫気別川を目指す鮭の定置網漁は9月の始めに解禁され、10月に盛期を迎える。
高岡の浜には釣り人達の姿も見られるようになるが、資源保護のため河口付近には、道の水産林務部により禁漁区域が設けられ、貫気別川のそれは河口から左海岸300メートル、右海岸700メートルで、例年9月1日から12月10日が施行期間とされている。なお、ここでの左右とは、河口にて海に向かってのことを云う。
右海岸300メートルとなれば漁港近くまでを含むゆえ、多くの釣り人は左海岸、浜高岡地区の行き止まり、室蘭線の弁辺トンネル出口下あたりに集まることになる。

この光景を画角に取り込めぬものかと思うのだが、なかなかに都合の良い竿の並びや光線には出会えずにいて、それを添景にする程度の習作で終わっている。近年に整備された釣り突堤に立てば、これを海面を隔ててほぼ正面から撮れるものの、やや距離のあって林立する竿が背景に埋もれてしまうのが難点である。それともうひとつ、釣り人の大半が自動車にて訪れるゆえ、それは必ずや画角に入り込んでしまうのだった。

列車は、弁辺トンネルを出る8551列車。5列車直後を雁行して、秋冬の繁忙期程度しか走らないスジであった。

[Data]NikonF3P+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f11 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1975

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北見の停車時間を削って、いささか遅れを取り戻した<大雪5号>崩れの1527列車から、急かされるように釧路行きに乗継ぐ。網走トンネルを抜けて車窓から眺めるオホーツクは、白く沸き立つ波涛からの飛沫とも吹雪とも云えぬツブテがその窓を叩き、海岸段丘の草木は、まるでクシで撫で付けたように斜面に伏して、降り立った北浜では早々に待合室へと逃げ込まざるを得なかった。
この日、低気圧がオホーツク海を発達しながら東進して、内陸には風雪を沿岸へは強風をもたらしており、予定していた止別を取りやめて、駅至近にポイントのあるここへと下車したのである。

上りの時間が近づき、覚悟を決めて鉄橋の見える背後の段丘へと上ったものの、撮影方向が風上を向いて、レンズには瞬く間に飛沫が張り付いてしまうのだった。
こうなれば諦めもついて、その日を休養日と決める。市街地の商店で食料を仕入れ、ストーブのやかんからの湯気を眺めて、風音と海鳴りを聴きながら至福の時間を過ごした。これも旅の楽しみに違いなく、無人駅ばかりの昨今では出来ぬ芸当であろう。
前の年に無煙化が達成されていて、列車発着の際の地元の利用者以外には、誰も訪れることの無い待合室であった。

夕刻も間近の頃、フィルムを入替えてISO1600に設定、さらにNDフィルタを装着して駅の網走方に立った。
強風は衰えず、海上は飛沫で霞んで見えた。

列車は、混合635列車である。
このフィルムは、増感の上に24℃での高温現像にかけた。この頃、皆がやっていた手法である。さらに印画に焼く際にも手を加えるのだが、ここでは、それをディジタルでシミュレイトするしか無い。それも、かなり遠慮気味にしている。
便利なようだけれど、印画紙によっても異なった仕上がりとは違っていて、表現は根本的に別モノである。

[Data] NikonFphotomicTN+P-AutoNikkor105mm/F2.5 1/30sec@f8 ND8filter Tri-X(ISO1600) Edit by PhotoshopCS3&LR3 Compiled by CaptureOne5 on Mac.


小樽築港 (函館本線) 1982

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小樽築港の、ここ四半世紀あまりの変貌も凄まじい。
毎回では無いが、渡道の際に折に触れてその変化の様を見ていたので、現状へのつながりを意識出来もするが、蒸機機関車の時代の記憶のみで、今ここに立ったとすれば異境であろう。当時の残滓は僅かに駅場内のR402の曲線線形と、函館方で右に分岐して往くかつての機関区/運転区への出入庫線に残るのみであるから、それに気がつかなければ、それほどの衝撃でもないかも知れない。
駅に下車して、機関区までを辿った道はさほど変わらぬ姿で健在で、その奥まった辺りに機関区正門の在ったものだが、その敷地はきれいに整地され、現在も広大な空き地である。

70年の夏と記憶するが、札幌で待っていた岩見沢からの海水浴臨はD51の牽引でやって来たのだった。定期列車でも朝方の下りにそれは在ったから珍しいものではないが、この機関車は不調であったらしく、小樽築港に停車すると解放され機関区へと引上げてしまった。ホームに取り残された客車で待つこと20分程だったろうか、バック運転で現れた代機のC6232には驚いた覚えが在る。この<ニセコ>の蒸機運用末期は予備機を1両持つものだったが、それが急遽出庫して来たのである。この頃、築港区には40両近いD51の配置があったはずゆえ、この日は、よほど機関車運用が逼迫していたのだろう。
遅れで出発したこの列車を塩谷で降りて、予定したポイントへ向かったものの、やがて折返して来たこれをバック運転の単機回送だからと撮らなかったのが今もって悔やまれる。

この駅付近にはとりたててのポイントは無かったゆえ、ここをベースにした撮影はこのカットだけである。旧国道が平磯岬を回った先の跨線橋から撮っている。熊碓トンネルの出口付近である。もっと海岸線に近いと思っていたのだが、以外と引きが深過ぎたのだった。
風雪が強く、列車による捲き上げもあって肝心の客車編成が見えなくなってしまっている。けれど、これは104列車<ニセコ>である。
小樽に電化が達して以来、<ていね>〜<ニセコ>の札幌-小樽間は86年11月改正における列車廃止まで一貫してED76 500番台が牽いていた。小樽以遠区間がC62の時代ならいざ知らす、DD51に置替後ならばそれが通しで牽引しても良さそうなものだが、もちろん小樽築港機関区の存在を前提に、70年代には発言力のあった全動労の存在があり、80年代には将来の処遇に疑問符の付き始めていたED76のせめての活用だったと思える。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

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1960年代後半と云えば、国鉄/私鉄/専用線を問わず道内の運炭鉄道は、その大半が健在であった。
ところが、新参者の撮影者は、ご多分に漏れず幹線列車に眼を奪われていたのである。それでも、鉄道ファン誌の掲載記事に触発されて、夕張線へと向かったこともあるのだが、始めて見る、谷の斜面を埋め尽くす炭住街とあちらこちらで黒煙を噴き上げる蒸機の光景に圧倒され、戸惑うばかりの記憶が残る。この頃には、それを画角にまとめあげるだけの力量は無かったのである。
根室本線の富良野-釧路間を除けば、まだまだ全道が蒸機運転であったこの当時にあっては、運炭線をいつしか後回しにするうちに、そこは無煙化されるばかりか、70年代に至って廃線も続出したのだった。

大夕張鉄道も、この数日前に訪れた日曹炭坑の専用鉄道(→一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972)で、 大夕張抗の南抗へのスクラップアンドビルドの噂を聞きつけてスケジュールに急遽組み入れたのだった。例によって全線を乗って、明石町-千年町間のトレッスル橋であった旭沢橋梁に目をつけたのだけれど、長い運炭列車を捉えられる足場が見つからずに、結局は3キロ程先の大夕張炭山の構内に向かった。

この鉄道については、ここの旧住民の方によるディープな総合サイトふるさと大夕張や、詳細な年表を伴った三菱大夕張鉄道58年史などを始めとした多くのサイトが開設されており、ここに語ることは無い。

写真は、大夕張炭山構内の最奥部、巨大なホッパ設備の尽きるあたりである。16時13分発の混合6列車の牽引機が客車を従えて待機していた。客車は清水沢方連結が定位ゆえ、このままホッパ前部まで進んで、そこから満載となった石炭車編成を引き出し、駅乗降場に据え付けて発車時刻を待つのである。
機関車No,3は、1937年日立製造の自社発注機で国鉄C56の設計図面を流用したテンダに特徴があった。国鉄における9600形式の製造終了後の新製は、その線路規格が新鋭D51の入線を許さぬゆえである。続く客車も、これも自社生え抜き、同じく1937年日本車輌東京支店によるナハ1形式ナハ1を緩急車化したナハフ1と見える。

混合6列車は、清水沢への旅客扱いのある最終列車で、もちろんこれに乗車して大夕張を後にした。
この日の早朝、岩見沢で夜行<大雪>を捨てて以来、あれほど群れている観光客/旅行客をまったく見かけず、当時の夕張はそれとは無縁のところだったのだ。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1976

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東釧路を出た釧網本線は、釧路湿原に至ると丘陵地の山裾を正確にトレースし、湿原の陥入部には最短距離で築堤を渡る線形を描く。R300や400の曲線が連続する区間もあり、決して良い線形とは云えないが、建設費用と工期を考慮すれば、湿原内への敷設を極力避けるのは当然の設計であろう。湿原内を通過する最長距離区間は、塘路-細岡間での塘路湖とシラルトロ沼への陥入原部分で計4キロメートル程になる。難工事であったことは想像に難く無い。
近年の釧路湿原駅を除外して標茶までの各駅は、全て1927年のこの区間の開業時の開駅である。当時の入植地は当然に東側の丘陵地=台地に散在したのだから、ここの接しての線形は要求でもあった訳である。
だから、ここ塘路駅も集落の広がる緩やかな台地斜面の下端に在って、その裏手は湿原に接している。

湿原を眺められる位置を探しながら集落を歩いていて、その外れにこの画角を見つけた。唐松林の光景が良い雰囲気で湿原は二の次にして、次の列車をここで撮ることにしたのだった。
ここでの撮影を念のため断りに訪ねた下の住戸では、思いがけずお茶を馳走になった。そこの年配の主には、塘路にかかわる話を色々と伺ったのだったが、駅裏手から湿原を横切って伸びていた植民軌道の久著呂線(1930年開通/65年廃止)が度々水没したとの話が記憶に残る。戦前当時の釧路川は、この頃より遥かに水量が多く、それは滔々と流れていたそうである。

唐松の向こうを往くのは1694列車。釧路操車場から網走までの線内貨物であった。

ところで、このカットを見直していて気がついたのだが、左上に後年の「塘路の崖」塘路 (釧網本線) 1982が写っている。釧網本線は、このカットの右画角外で塘路駅、塘路湖陥入部を経て、この山裾に辿り着いていた訳である。この頃には、崖はまだ上部まで崩れてはいなかったように見える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

美馬牛 (富良野線) 1977

bibaushi-Edit.jpg

蒸機末期の富良野線には、9600の牽く貨物列車3往復(内1往復は夜間)が設定されていたけれど、道央の地味な線区とあって、これは撮らずに終わってしまった。
この線へ向かうのは1970年代も後半になってからで、富良野を舞台としたテレビシリーズの放映開始前にて、まだまだ静かな沿線であった。当時は情報も少なく、車窓からのロケハンでは、富良野盆地の田園地帯に直線区間の続く中富良野付近や、線路両側の防雪林が美しい美馬牛周辺が印象に残っていた。

美馬牛は、施工基面高が283M50で富良野線のサミット付近に位置して、富良野方に19.6パーミル、旭川方に20.0パーミルの標準勾配がある。(後年に高名となる、高低差は30メートル近くに達する「すり鉢」状の縦断面線形は、サミットから旭川方へ28.6パーミルで下った富良野起点25K757Mにその底部が所在する)
この付近は、その勾配に延々と続く防雪林で車窓から山間を往くような感覚だったのだが、下車してみると小さな集落のある駅前も開けていて、実際には緩やかに起伏する丘陵地でその外側は酪農/畑作地帯と知った。
この防雪林と周辺に見える山々を背景にコンテを考えていたものの、その区間は意外な程に足場がなく、それは用地確保のために起伏地を造成したであろう駅付近に見いだせた。駅場内は丘となった造成前の元地形の樹林帯に囲まれるように存在していたのである。

写真は、ここを発車しようとしている633D旭川行き。上下乗降場の連絡通路からの撮影で左後方に上り乗降場が在る。昼過ぎのカットだが、冬の低い太陽が強烈な逆光線となって早朝のようなイメージだった。

道内向けのキハ40は、この年の春に旭川機関区に10両、苗穂機関区に6両が配置されたのみの最新鋭車であり、旭川区配置車は、ほぼ富良野線運用に専用されていた。この時点では、キハ47を含めても全国に32両のみの稀少車でもあった。その首都圏色と呼ばれた朱5号の単色塗色が新鮮だったものの、未だ首都圏区所への配置は無くて、全国への大量増備の開始されるのは78年夏以降である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1989

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貨物列車の足は遅かった。
ヤードに滞留して、その輸送速度が自転車並みだったこともあるけれど、ここでは運行時の走行速度のほうである。
二軸式走り装置による貨物車で組成された列車の最高運転速度は、それの二段リンク式への統一が完了した1968年10月1日改正以降でも75km/hに制限されていた。1984年2月改正で、それら列車が廃止された結果、幹線上の各駅に設備されていた待避線の多くが遊休施設と化す訳である。
ボギー車でも、1950年代に東海道線などに設定のワキ/ワムフ1000を連ねての小口扱貨物急送列車(通称-ワキ列車)も75km/hであった。もっとも二段リンク化以前のこの時代、二軸貨車は65km/hである。ボギー車による85km/h運転は、1959年11月5日より汐留-梅田間に運転を開始したコンテナ輸送の特急貨物列車<たから号>に始まり、使用されたのは新製のチキ5500(後のコキ5500)である。これと走り装置を基本的に同一とする有蓋車ワキ5000も製作され、小口扱や混載便列車を置替て、60年代前半には、これが貨物列車の最高運転速度であった。

これを一挙に100km/hにまで引上げたのが、新設計のTR203形式台車を履いたコキ/ワキ/レサの各10000系列の高速貨車と呼ばれた一群なのである。65年にワキ10000にて試作が行われ、各形式量産車の出揃った66年10月改正よりコンテナ/小口混載パレット輸送/鮮魚の特急貨物ネットワークが展開されたのだった。
これら高速貨車の特徴は、高速運転に対応して空気バネ式台車と電磁式自動空気ブレーキの採用されたことで、ブレーキ管の他に元空気ダメ管と電磁弁指令用ケーブルが引き通され、100km/hでの運転には、これらを装備した機関車を要した。EF66、EF65の500/1000番台、ED75/76の1000番台がそれにあたり、丁度20系列の固定編成客車もAREB方式の電磁指令式増圧ブレーキを装備して高速運転を開始した時期につき、これと共通使用も可能として新製のなされたものである。
(余談だが、今は当たり前の特急牽引機と貨物用機関車との供用は、当時には鉄道始まって以来の珍事であった。)

寒地向け車の増備(一部は改造転用)された68年10月改正より隅田川-新札幌(現札幌貨物ターミナル)間の特急貨物3050・3051列車として道内への運用も設定され、<ほっかい>の愛称が付けられていた。この列車名は、同改正前まで隅田川-東札幌間に運転のワキ5000にて組成の特急貨物51・52列車を引き継いだものである。
このあたりのことは、七飯-大沼 (函館本線) 1983に書いている。

60年代末に至ると、空気指令にて応答性能を改善したCLブレーキが実用化され(初採用は12系新系列客車)、コンテナ車の新製/増備は、これを装備して牽引機に制限の無い、新形式のコキ/コキフ50000形式に移行し、コキ/コキフ10000は500両余りが製作されたに留まった。一個運用に十数両組成の3から5組編成を要するコンテナ列車への運用車にあっては極めて少数である。やはり、空気バネに電磁弁と云う貨物車には異例の装備ゆえであろう。
加えて、11ftコンテナの5個積載を前提の設計のため、コキ50000形式に対応した12ftコンテナが普及すると、これの4個積みとなる積載効率の悪さが災いして、90年代に入って高速貨物列車Aはコキ100系列への置替が進められた。首都圏-北海道間運用からの撤退は91年春であった。

写真は、大曲橋梁(231M)上の3053列車。海峡線の開業後も、コキ/コキフ10000による最高運転速度100km/h指定の高速貨物列車Aは2往復の設定で、内1往復が札幌貨物ターミナルを介して根室本線の浜釧路発着(89年1月以降は同駅廃止により新富士発着)となる運用も変わらなかった。
隅田川駅常備の北海道運用向けコキフ10000の車掌室デッキになされていた北海道を象ったマーキングが見える。

大曲橋梁を西側から間近に見ていた、このポイントだが、カットでも見える手前側樹木の成長により、現在では見通しが困難となってしまっている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC43filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1983

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一週間とか10日の間、道内を旅していると天候の安定している季節でも一日や二日は降雨に出会うことになる。
天気予報をチェックしながら、事前に天候の良さそうな地域を探して移動することもあるけれど、低気圧の接近、通過ともなれば逃げ場はなくなり、雨中での撮影を余儀なくされる。風雨が強ければ一日を列車に乗り続けて、つまりは列車旅に切替えてやり過ごしたりもしたが、そうでない限りはフィールドに出て撮っていた。新緑の頃など降水で見違えてしまう光景も在る。

降雨が夜間にかかれば、構内照明のある駅に立った。雨の構内は、その灯りの中で独特の情景を魅せてくれる。
雨に光るレールは、言わずもがな語りである。
写真は、長万部3番ホームに終着する小樽からの132列車。ホーム外れの詰所からは構内係が到着後の入換作業に出ようとしている。

この、第二乗降場下り方に在った建屋も、いつの間にか無くなってしまった。
ここには、駅本屋から分離された駅運転室が置かれ、かつては閉塞器が設置されて当務駅長が詰める運転上の要であり、構内の信号所(てこ扱所)への指令もここから発令されていた。また、運転助役も常駐して多区からの入込み乗務員の点呼にあたり、またその休憩所も設けられ、構内係の詰所でもあった。
本屋内に設けるよりも、機関区/車掌区や構内各方面との行き来に利便の在ったものと思われ、この位置に在る建屋は、運転上の重要駅の証のようなものであった。
函館/室蘭本線のCTC施行に際して、運転取扱駅として制御盤がそれまでの信号所(てこ扱所)に置かれた関係で、運転室(制御所)もここへ移転していたのだが、これも廃止されたようだ。
この駅での運転扱いが無くなり、構内作業も気動車の滞泊にともなう入換を除き撤廃されて、現在ではCTCの被制御駅に組み入れられたものと思う。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/30sec@f2.5 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1988

toyoura_08-Edit.jpg

豊浦には本当に幾度も通った。
駅が第一茶志内トンネルに接しているから、たいていの場合は町中を通り抜けて弁辺トンネルまでの3キロメートル程の区間の何処かへ向かうのだが、そのポイントによって通る道は違っていて、浜高岡の海岸や小さな社の丘へなら海まで降りてしまって漁港を眺めながら歩き、貫気別川の橋梁や、それを見下ろす斜面へなら線路に並行して役場や寺院の裏手を抜ける道を選んで、それと直交する坂道の上からの眺めを楽しんで歩いた。
時には、海岸町から幸町への、商店街は無いけれどひととおりは揃っている街区を経由して、海辺の町の活気に接しもしていたし、ポイントからの帰り道ならば国道から船見町へ迂回し、さらに俯瞰ポイントを探して東雲町の豊浦中学校(*)まで坂を上って海を眺めたりもしていた。
開放感に溢れたこの町の魅力は、やはり噴火湾に緩やかに傾斜した南斜面に在ることを再認識する。
歩けば歩く程に住んでみたくなる町なのだった。
(*) - 2007年に中学校は移転し、その跡地に「シュタイナー学園いずみの学校」が開校している。

弁辺トンネルからの長万部起点32K付近のR600曲線南側にこんもりとした杉木立があって、このあたりでの撮影では必ず画角に入り込んで良いアクセントになっていた。
独立した樹林で、この規模ならば植林とも思えず自然林なのだろうか。

写真は、それをメインとしたカット。列車は修学旅行臨時列車8213Dである。
この頃までは判然としていた旧線路跡から撮っている。岡村木工所の前あたりだ。
函札間では定期優等列車運用を終えたキハ56/27だったけれど、この当時には、まだ苗穂運転所に47両、函館運転所に11両の配置があり、修旅臨が最期の幹線運用であった。

現在、このカーブの内側は豊浦町営のパークゴルフ場に整備され、この杉木立はその敷地に取り込まれて好ましい背景になっている。けれど、鉄道の撮影には適さなくなってしまった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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