"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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中丿沢 (函館本線) 1995

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櫟。イチイ科イチイ属イチイである。道内なら、オンコのほうが通りが良い。
別に珍しくも無く、全国の山林に自生し、寒冷に適合していて中部地方内陸以北の北日本一帯、北海道では群生林も見られる。
高木となるため庭木の主木に、あるいは密生する線形の葉から生垣としても一般的に使われている。東北地方ならイグネには欠かせぬ構成木でもあり、サカキの育成しなかったこの地域では、神事用に神社境内には必須に植えられた。

鉄道駅でも駅前広場などに植樹される例が多々あり、あちらこちらで見かけたものである。胆振線の壮瞥には、これの見事な高木を取り囲んだロータリーがあったし、日高本線本桐の本屋前のものは、円錐形でなく丸に手入れされていた。
ここ中丿沢には、駅本屋事務室前と、それに乗降場にも2本のオンコが在った。いつ頃に植えられたものか、その一方は大木と云って良い程に育成していて、この駅のランドマークを成していたのである。(中丿沢 (函館本線) 1991のカットの列車後方に見える)
86年に無人化された以降は、適時の刈り込みもなされずに在り続けたけれど、10年程前にその管理を諦めて切り倒されてしまった。
鉄道会社にとって、無人駅の保守管理は頭の痛い問題ではあろう。

写真は、もう一方の小さいオンコである。傍らをすり抜けるのは5011D<北斗11号>。
高速での通過だけれど、ここまで流すにはNDフィルタが必要だ。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/8sec@f11 ND8filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1968

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その昔、世に言うSLブームの時代である。『蒸気機関車』なるそのものを誌名とした雑誌が刊行されていた。
現在でも中古本市場にて比較的高価で取引があり、ご存知の方も多かろうと思う。映画情報誌で知られるキネマ旬報社による発行は、鉄道好きで高名な脚本家の関沢新一がフィクサーとして同社の旧知に働きかけた結果と思われ、そのまま創刊時の編集長を務めている。1967年9月にキネマ旬報の増刊として創刊され、これの4号から独立した月刊誌となるも、68年夏からは季刊誌と体制が改められた後に、71年の新年号より奇数月発行の隔月刊とされ、81年7月号で終刊となるまで計83号が刊行された(増刊/別冊を除く)。

手元には、その全てでは無いけれど、それなりの冊数を保有している。
今にめくり返してみれば、全体の構成からページ割りに至るまで編集には古めかしさを覚え、印刷の技術水準も比するべくもないのだが、誌上に発表された作品群は今もって新鮮である。
毎号そこには、先輩諸氏の個人なりグループによる10ページ程を費やすテーマ性を持った作品が、2〜3本掲載され、写真機を片手に線路端に立つばかりの新参者は多いに刺激され、また影響も受けたのだった。
60年代後半と言う時代からは、紀行色や叙情性よりもそれらを内包したドキュメンタリィに軸足を置いた作品が大半であり、美術手帖の写真映像特集を覗き見しては、東松照明や森山大道に、撮らない写真家中平卓馬に心酔していた身には共感を多とするものでもあった。
写真技術習得の王道である「模倣」に従い、それらからは鉄道光景の見方(とりもなおさず画角そして時間の切取り方である)、光線の取込みに扱い方から表現のテクスチュアに至るまで、随分と学ばせていただいた。

当時は、将来の職業写真家を考え始めた時期でもあったのだが、思う程に鉄道写真の門戸は狭く、これも撮り始めていた友人のバンドの記録写真をきっかけに、結局は音楽関連の方面に進むことになったのだった。
この頃の鉄道写真には、コマーシャルに広田尚敬、国鉄の専属に諸河久さえ居れば十分だったのである。

写真は、晩秋の斜光線を背にヤマへ帰る5799列車。苫小牧操車場から夕張線清水沢までの石炭車の空車回送列車だった。
季節も場所も異なるけれど、これも『蒸気機関車』誌所載作品にインスパイアされた「模倣」である。
背景はウトナイ湖。
(※文中敬称略)

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

銭函 (函館本線) 1979

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浜番屋に執心していた頃である。黄金 (室蘭本線) 1979
銭函の上り方、函館本線が海岸線に出る辺りにそれは連なっていた。目の前の海岸に、石狩湾に向かって、では無い。
ここの番屋群は、皆小さく「番屋」と云うより「漁具置場」そのものなのだが、それは線路の海側ばかりでなく、山側にも在って、しかもどれもが線路に向けて戸口を設けており、その犬走りが出入りの通路なのだった。即ち、これらは鉄道用地に入り込んで立てられ、明らかに鉄道営業法(明治33年3月16日法律第65号)の第35条に抵触している。本来なら、鉄道側が許可するはずも無いのだが、(ここでは触れないけれど)これには歴史的な経緯が在って黙認していたのである。
線路に迫る番屋は雑多に立てられ、その間には無造作にモノが置かれていて、1キロに満たぬ距離ながら高速高頻度運転のなされる複線電化幹線の通過環境としては、極めて特異な光景と云って良い。
これを表現しようすれば、やはり素直に写し撮るしか無い。

列車は535D、小樽からの札幌行き。キハ21を先頭にキハ27-キハ22-キハ46と、見事に異形式が続く。
この当時にしてみれば当たり前のことで、気動車の普通列車運用は形式を指定せず、一台機関か二台機関か、両運転台か片運転台かのみを条件としていたゆえである。苗穂機関区によるこの運用で云えば、それは機関の一台搭載車による片運転台車と両運転台車の2両編成を単位に組まれていた訳である。

今は、電車列車ばかりのこの区間だけれど、この頃には、711系のみならず、客車列車に気動車列車、機関車もED76にDD51と、実に多様な車両/列車が運行されていたのである。
札幌近郊区間での近距離列車運行は、千歳線が非電化ゆえに気動車列車が主体で、それは同時に711系電車の絶対数不足を補うものでもあった。これの充足されるのは80年度の同線電化対応による増備以降のこととなる。

さて、ここの前磯での漁獲とは何だったのだろうか。冬姿に拘って二冬続けて通ったのだけれど、時間帯の異なるものか肝心の漁師には出会わず仕舞いなのだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 & LR3 on Mac.

呼人-網走 (石北本線) 1972

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前にも書いたことが在る。
網走周辺の鉄道は、釧網本線や湧網線、石北本線にせよオホーツクの海や海跡湖の湖面を画角に取り込もうとすれば、必ずそこには道路も入り込んでしまうのだった。
どちらが先行したかは分からぬが、鉄道も道路も、それらが敷設された時代に、最良で、なおかつ他に設計のしようの無いルートとして選択された結果に他ならないのだろう。丘陵地の迫った海岸線や湖岸線となれば、必然的に並行してそれを正確にトレースする。
写真屋、とりわけ鉄道屋には、アスファルト舗装の路面は諦めても、少ない撮影チャンスに大型車両に並走されてしまうようなリスクを覚悟せねばならず、訪問を躊躇する場所でもあった。

ここ、網走湖の湖岸は、それに加えて足場の見つからない区間であったのだが、72年に至って車窓から土砂の露出した斜面を確認し、勇んで現地に参じたのだった。
けれど、そこは後年の「塘路の崖」→塘路 (釧網本線) 1982 にも劣らぬ急崖で、ここもまた三脚をバッグに括り付け這うようにして登摩せざるを得なかった。

苦労して登った崖上なのだが、並行する国道39号線の路面は、やはり目障りで、網走湖自体にもこれと云った特徴の見いだせぬゆえか、些か拍子抜けしたのを覚えている。さらにターゲットとした577列車のスジでやって来たのは、なんとも財源を持たない単行機関車列車なのだった。
この翌々年、内燃機投入寸前に再訪するも崖面に崖上は既に深い草木に覆われて登坂は困難となり、結局のところここでの撮影はこれで終わってしまっている。

ところで、この時やって来たのは、577列車所定のC58ではなく、ここに定期運用の無いはずの9600だったのである。北見機関区でC58に不具合でも生じたのだろうか。事由は聞き漏らしたままである。

[Data] NikonF photomicFTN +P AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by CaptureOne5 ob Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1984

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一頻りの秋色が去って、その葉の落ちる頃カラマツが色づいた。
狩勝新線の通る種畜牧場の牧草地の正確な区割りを標し、塩狩峠や常紋越えの落葉林を単色で染め上げる、この黄金色は冬の入口の色だ。
モノクロームで撮っていたから、黄葉紅葉の盛りを気にするでなく、ポイントへ人影の多いその時期を外して訪れる常紋の峠で迎えてくれるのは、いつもカラマツ林の黄金色だった。
印画紙に焼くと淡いグレーに仕上がるそれと、ダークに落ちる落葉林との対比が、ここの細い鉄路の晩秋の心象に似つかわしくも思えたのだった。その林縁で列車を待てば、風に揺れる枝先からその針の葉がさらさらと地面にこぼれ落ちて、やがて降り積む雪とのクッションになるのだ。

300メートル程の標高と、さほどに大きくは無い山越えだけれど、10月も終わりの常紋には放射冷却の朝ともなれば積雪と見まごう一面の降霜がある。朝日の中での黄金色とのコントラストは、この時ばかりはカラーフィルムでないのが悔やまれる程ではあった。
写真は、常紋信号場上り場内信号機に至る534列車旭川行き。
この列車については、常紋信号場-金華 (石北本線) 1984に書いている。

信号場は、1983年1月のCTC施行とともに要員無配置となり、本屋は取り壊されてその核心部を覆う巨大なスノーシェッドの設置により、大きく姿を変えていた。
仮乗降場としての客扱い廃止後も便宜的に認められていた、ここでの乗降も停車列車自体が減ったこともあって困難となり、金華からの徒歩が到達の手段であった。それでも、国道242号線を右へそれての信号場までの小径は、ピンと張りつめた冷気の中で心地よい歩きが楽しめた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8  1/500sec@f11  Fuji SC52filter  Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

小沢 (函館本線) 1986

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小沢の駅を出て国道5号線を倶知安峠へと向えば、その途中にワイス温泉がある。
施設は、かつても現在も「ワイス荘」だけの一軒宿の温泉である。
金属鉱床の探査ボーリングに際して湧出した源泉を活用して、1970年に地元共和村が厚生年金保険及び国民年金積立金還元融資により国民保養センターとして開設したもので、国土地理院による五万図に温泉記号とともに、現在に至るまで温泉名までもが記入されているのは、このような準公的施設であったゆえであろう。
80年には、民間に売却され株式会社ワイス観光の経営となっていた。

この区間での撮影の度に、ここへの宿泊を目論みはするのだが、蒸機時代にはそのような「贅沢」は許されるべくも無く、その後も函館山線の撮影は行程の最初か最後に組み込むのが通例であったから、奥地へと気の急く旅ではなかなかに、そのタイミングに恵まれなかった。
それでも、山線中心に組んだ86年の6月から9月にかけての幾度かの渡道で、その使い勝手と利便性から倶知安駅前のビジネスホテルをベースにした中で、ここへの泊まりも組み込んだのだった。

国民保養センター当時からさほど変わっていないと思われた低廉な料金にて、二食付きで4800円だったと記憶している。それは質素だけれど地元の食材で賄われた「温泉旅館の食事」で、これを肴にゆっくりと一杯やらせていただいたものだった。なにせ、撮影地隣接の宿である。
実は、ここで、噂には聞いていた倶知安町所在の二世古酒造の酒に出会っている。この蔵元については、いずれ別項を立てたい。

写真は、蒸機時代から定番ポイントである小沢上り方の国道5号線小沢跨線橋から場内を見ている。貨物扱の一部の線路と保線線が外されて積まれているものの、使用の停止された旧岩内線本線も函館線の上下副本線も、草蒸しながらもまだ健在と見て取れる。
列車は、勿論102列車<ニセコ>。列車として最晩年の姿で、4両にまで減車された所定編成に[北東航22]運用の航送郵便車も護送便用のスユ15に替わっている。この編成では、この区間での補機も不要となり、それはこの3月改正で臨運用としても廃止されていた。鉄道郵便も廃止間近の[北東航22]は、完全に締切便扱いで護送要員の乗務もなかったはずである。

この<ニセコ>のスジは、86年11月改正後も予定臨に格下げされて存続し、そこを多客期に運転されるキハ56/27-3両編成による臨時急行列車もまた<ニセコ>を名乗ったのだけれど、もはや食指の動くものではなかった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

[番外編 9] 青函連絡船 1983

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青函連絡船を続ける。[番外編 8] 青函連絡船 1985の続きである。

下船の実際
混雑期ではなくとも着岸30分前程になると、乗(下)船口広間には行列ができ始める。時刻表に記載の到着時刻とは着岸してタラップが架けられ、下船口の開く時刻であるから、その30分前ともなれば、船は減速して、まもなく港の防波堤を交わす位置まで接近しつつある。函館ならば函館山を眼前に見るゆえ、接続列車の座席確保に気が急くのである。
青森なら倉庫群の林立する民間岸壁を、函館なら運転所の前海を回り込むように岸壁前に達した連絡船は、バウスラスターを駆動させて回頭し、後退しつつ補助汽船に推進されて着岸する。この時にはやや衝撃があって、それと知る事が出来た。
桟橋側からハネ上げられていた屋根付きのタラップが降下して接続され、安全柵の設置が確認されると、航海中は締切られていた扉が開かれ、広間の行列は一斉に走り出す。高名な桟橋マラソンである。特急列車に自由席が設置された以降の函館なら、それのゴールは遥か編成の旭川方であった。青森/函館とも一岸への着岸であればまだ良いが、二岸となれば船の全長分、132メートルをまるまる余計に走らされることになる。
この下船開始のタイミングも特別船室側が早かった。階上で階段を降りねばならぬ位置関係による配慮と思われ、これを知る者は普通船室旅客でも特別船室の広間に行列したのだった。

船内食堂
普通船室であった船楼甲板右舷中央部付近に食堂が設けられており、日本食堂が運営していた。
ここでのメニュー等についてはWeb上にも記述が多く、ここでは触れない。
広い船内であるから、その造作や雰囲気は陸上での、例えば青森駅での同社食堂と大差はない。唯一異なるのは、舷側に窓が開口しており、その窓際席からは海面を間近に航行する波飛沫を見ることであった。
この津軽丸(2代)型近代化船で、ここを利用した最も古い記憶は1965年のことで、松前丸の就航間もない頃である。この当時は、列車食堂がそうであったように、町食堂と云うよりレストランが正しく、一種近づき難い雰囲気も存在していたものである。それに店名(愛称名)などは無く、あくまで「◯◯丸船内食堂」であった。
これが70年代に入ると押し寄せる乗客に大衆化が進んでカジュアルな空間となって往き、「グリル◯◯」(◯◯は船名)の名称の付与されたのもこの頃である。食堂側の人手不足もあって、オーダーは食券方式に改められ、それの自動券売機が導入されていた。その食券は、B型乗車券サイズで白地に黒インキでオーダ名が印字されるのみの味気ないもので、価格表示すら無かった。
80年前後となると、乗客の減少とともに利用も低下したものと思われ「サロン海峡」として喫茶関連が分離されたことも手伝ってか、券売機は深夜便での「海峡ラーメン」営業のみとなり、再び退店時のレジでの清算方式に戻された。そのレシートは「グリル◯◯」の名が入り、メニュー名と価格がドット文字で印字の、当時の新幹線食堂車と同様のものであった。「サロン海峡」の高級感に対して大衆食堂らしいイメージが継承していたけれど、この頃メニューの価格だけは高級となっていたのだった。

指定席特急券の一ヶ月と一日前発売
連絡船と直接には関わりのない余談ではあるが、これにも触れておきたい。
国有鉄道より承継し、現在は鉄道情報システムが運営管理する旅客販売総合システム(通称マルスシステム)による指定券類の発売開始日が、一ヶ月前の同日午前10時からであることはご承知の事と思う。連絡船の時代を知る方なら、これには例外が存在し、青函連絡船の深夜便から接続する列車については、さらにその一日前から発売されていたこともご記憶であろう。勿論、深夜便を介した前後の列車を先乗列車の発売日に同時発売を可能とする旅客サーヴィス上に不可欠な事項であると同時に、道内列車が乗り継ぎ割引の対象でもあって発券処理上からも所要の措置なのである。
これ自体は古くから在る扱いで、知る限りでは、台帳管理による発券時代に深夜便を介した<はつかり><おおぞら>特急券の通し発売に適用されていたし、より以前の<みちのく><大雪>の時代でも行われていたはずである。
指定席券類の発売開始が7日前や14日前であった頃には、深夜便接続列車ばかりでなく上野/大阪発や札幌発の夜行列車から接続となる列車(当然連絡船は昼行便)も適用対象であったのだが、後年には、青函旅客の利用減少とともに引き続き需要の在った深夜便からの接続列車に限るよう改められた。
ところで、これはマルスのプログラム上で先乗/後乗列車の同時発券が条件とされていた訳ではなく、後乗列車を単独でも購入出来たのである。例えば、青森からの<はつかり1号>の一定の座席数は、道内列車と無関係に一ヶ月と一日前から発売されていた。
さて、連絡船の廃止とともに時刻表の営業案内から抹消されたこの扱いだけれど、実は今現在も生き続けていて、上り<はまなす>から接続となる新青森発の<はやぶさ4号>と<はやて14号>に、(近隣の横浜線相模原駅みどりの窓口担当氏によれば)「ほんの数席」だけ一ヶ月と一日前発売の座席が用意されているそうである。やはり、マルス上は<はまなす>との同時発券の条件設定はなされていないのだが、窓口でそれを条件とするよう通達/指導が存在するとのことだった。

写真は、暮色に包まれる函館駅構内。テルファーの向こうに連絡船のマストが見える。やはり、この光景が在ってこその函館と思う。
二岸に在るのは、夜目でも白く映えるマストの摩周丸、24便として出航準備中である。
3番ホーム在線の列車は、札幌からの12D<北海2号>。まもなく、4番ホームには6D<おおとり>も到着する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 8] 青函連絡船 1985

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青函連絡船については、以前に2度ほど記事にしている。
その後に思い出したこともあって、追記しておきたい。

船内案内所における乗車券類発売
津軽丸型近代化船の船楼甲板に設備される普通船室のロビー(乗下船口広間)には案内所が開かれており、その名のとおり船内における旅客フロントなのだが、同時にここでは乗車券類の発売も行われていた。
永いこと、その根拠は列車内での発売と同列に思っていたのだが、この記事にあたり調べてみると、ここは運輸収入取扱基準規程の規定する「駅所」にあたり、その発行責任者は連絡船事務長と知れた。なるほど、券面表記は“◯◯丸乗務員発行”ではなく“◯◯丸発行”とされる所以である。
そこに常備されるのは、当然ながら券種は限られるものの基本的に硬券で、乗車券箱にダッチングマシンが置かれていた。軟券では自船のグリーン券や自由席特急券や急行券の他、出札補充券の設備も在り、駅とほぼ同等の扱いがなされていた。
あまり知られていないのだが、ここでは接続列車に限って指定席特急券の発売もなされていたのである。船舶無線がデータ通信に対応していない時代ゆえ船内にマルス端末を置いていた訳では無い。出航前に函館駅設置の端末より割当を受け、それを列車名まで表記された常備式のD型券に転記して発行していたのである。ただ、函館駅発行の特殊指定共通券に船名印を押したものも見かけたので、後年には簡略化されていたのではなかろうか。
連絡船乗船後に思いのほか混雑していて、接続列車の自由席確保に着岸のかなり前から下船口への行列の予想される際などに、指定席が確保出来る利便性はあったのだが、指定席の早くに売り切れてしまう混雑期には扱いが無く、座席確保に不安の無い閑散期ならその需要も小さいゆえか、いつしか廃止されてしまっていた。調べると1985年3月改正時とあった。

列車名入りの乗船名簿
青函連絡船への乗船に際しては、連絡船乗船名簿への記入と提出が要件であった。これは、旅客営業規則の通則に条文が規定される程に重要視されていたのである。
この名簿には、第一種と第二種が規定され、一種が一般用で白色用紙、二種は特別船室旅客用で淡緑色用紙と区別されていた。主には船に接続となる列車内で配られ、北海道内では優等列車ばかりか普通列車でも函館到着が近づけば車掌が配布して歩いたものである。本州側では優等列車に限られたと記憶する。
加えて、これが甲乙券片様式であった1971年頃までは、規定には無い配布列車の列車名が押印され、旅客がどの列車からの接続客であるかが判別出来たのである。手元に残るそれには、特急に限らず、奥羽線のローカル急行で配られた「急行しらゆき・きたかみ」の押印付のものや、五能線からの急行列車内で請求したものにも「急行深浦」との押印があって徹底されていたと推定する。これがどのような事由にてなされていたものかは調べ得なかった。
この後には、特急列車内配布のものに「特」表示が入れられるようになったゆえ、以下に述べる乗船制限に際しての区分であったと推定している。

乗船の実際
連絡船の乗下船口は左舷側の船楼甲板に二カ所、遊歩甲板に一カ所が設備されており、それぞれに桟橋側よりタラップが接続されていた。船楼甲板のものが普通船室用、遊歩甲板が特別船室用である。
桟橋待合室の通路に、それぞれの札が掲げられ普通船室/特別船室別に列をつくって乗船を待つことになる。おおよそ出航20分前が乗船開始の目安で、桟橋係員の先導で乗船口直前まで移動する。乗船口の異なるにもかかわらず特別船室側の乗船タイミングが早かった。船に特有の上等客優遇の伝統だったのだろうか。
[番外編 3] 青函連絡船 1978の記述と重複するが、DISCOVER JAPANキャンペーンの成功による、当時の北海道旅行ブームがピークへと向う70年代前半には、特に混合う深夜便において乗船制限が多々発動されていた。この際には、連絡船指定席券(即ち指定席特別船室券)所持旅客、接続列車指定席券類所持旅客、特急列車からの接続旅客の優先乗船がアナウンスされ、乗船案内札もこの三つが追加されるのであった。乗船に際しては、改札が実施され指定席券の提示ないし「特」表示の乗船名簿を要した。
特急旅客の優先措置は、混雑の主要要因であった周遊券旅客の取り敢えずの排除を意図したもので、積み残しに対応して、深夜便出航の後に、客載車両渡し船による貨物便の151/158便(72年3月改正ダイヤによる)が客扱いしており、周遊券での旅行者などは最初からこれを選択する者も多かった。一度乗船経験の在る青森を午前2時30分に出航の151便など、さながら周遊券旅客専用便の様相であった。

長くなってしまった。この項さらに続く。

写真は、函館7時20分出航、上り4便として航海中の羊蹄丸。左舷側遊歩甲板を乗船口付近から船尾方向を見ている。冬期かつ函館での接続列車は山線夜行のみであり、船内は閑散としていた。
甲板への積雪は、波飛沫を浴びてシャーベット状になる。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

花石 (瀬棚線) 1973

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瀬棚線は、C11の牽く貨物列車の走る道南の地味な線区ではあった。
けれど、前回記事(美利河 (瀬棚線) 1970)でも触れたように、後志利別川の貫流している今金町大字花石の風景は、例えようも無く美しかったのである。雪解けに蝦夷山桜が咲いて新緑へと遷り往く季節なぞ桃源郷と表しても良いくらいに。
周囲を渡島半島脊梁の低くなだらかな山容に囲まれ、屈曲する利別川の谷が高低差のある河岸段丘を創り出す立体感の在る地形に、その清流そのものの美しさゆえだろうか。
サクラマスを筆頭にウグイ、アメマスの回遊魚にヤマメの魚影もあって、シーズンには多くの釣り人を見かけた。

瀬棚線は、国縫側から山瀬トンネル(786M)で美利河峠を越えて、ここに至り、花石駅前後で利別川を渡河すること三度(第一から第三後志利別川橋梁)にて小金トンネルを抜け、瀬棚方向へと下っていた。ここは、段丘面が盆地の底面を構成していて、花石の集落も駅も、その広く緩やかな段丘面に在った。
それゆえ、花石を挟んで移動すれば上下とも力行する姿を撮れたのだが、気に入っていたのは137Mと最も延長のあった上り方近傍の第二後志利別川橋梁で、その風景を凝縮した核心部分に思えていた。

けれど、この線に蒸機の健在な頃、写真の技術は未熟で、とてもそれを写し撮れるだけの技量はなかったのである。
73年秋の函館本線の無煙化後も蒸機運転は残ったものの、それも翌年春にはDD16に置替られ、結局のところ満足の往くカットは撮れず仕舞いだった。

写真は、蒸機最期の冬、第二後志利別川橋梁上の1992列車である。
貨物列車は2往復の設定が在ったが、昼間に撮影可能な上りはこの列車に限られていた。
この頃の旅客列車には、キハ22に混じってキハ21の姿もみられたはずなのに、1カットも撮っていない。
蒸機目当ての撮影とはそんなものだったのかも知れない。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/250sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1994

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小樽の街中から移り住んだ手稲には、熊が出没したのである。
昨今の札幌でもニュースを賑わすけれど、熊の側にすれば事情は些か異なるように思う。当時の住宅地は確実に彼らの領域を浸食しつつ開発されたのだった。
子供であったからだろうか、恐怖心に実感はなく、大人達の間での「誰それさんちの台所に入り込んだらしい」とか「どこそこの農家の鶏小屋がやられたらしい」と言った話に興味津々聞き入った覚えが在る。

彼らとは、どうやら隣接して生活していたようだけれど、キタキツネを見かけたことはなかった。当然に棲息していたはずなのだが、用心深く熊をそしてヒトを避けていたに違いない。
キツネとの初遭遇は72年頃、七飯近郊の山林と記憶する。それは定かでないものの城岱牧場への林道を外れたあたりと思う。山中でこちらを見つめる動物に出会い、タイムリィにも野犬被害にかかわる報道のなされたばかりの時期であったから、それと悟って緊張が走ったのだった。ほんの数秒の睨み合いを経て彼は足早に去って行った。
この帰りに地元の農家に、この話をすれば「それはキツネだ」と教えられた訳である。

ものの本によれば、どうやらキタキツネはこの頃から生息数を増やし始めていたらしい。彼らに好ましい生息域とは、決して深い森では無く、林に原野が混在するような景観の林縁部と言う。そこに農地が入り込み、ヒトが移り住むことで天敵の熊が遠ざけられ、より好適な環境が出現したと言うのである。
80年代になると、山林に分け入れば鉄道沿線でも頻繁に目撃され、90年代ともなれば住宅密集地の近縁でも見かけられるようになった。ヒトとともに生息域を拡大したと云って良い。

このエントモ岬先端部近くにも、一族であるのか数匹が住み着いているものと思われ、柴田踏切付近を訪れる度に目撃する。決して近づいては来ないのだけれど、こちらをじっと観察している。きっと撮影の鉄道屋なぞ、彼らの縄張りへの侵入者以外に他ならないからなのだろう。

写真は、エントモトンネルを抜ける8002列車。
<トワイライトエクスプレス>の運転開始は、<北斗星>に遅れること約1年の1989年7月18日大阪発からであった。それでも、もう四半世紀近く前の事になる。
(当時の運行については以下の追記に記している)

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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山軽 (天北線) 1986

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古い時代の札幌在住者としては、上の世代は皆そう呼んでいたから、今でも何の違和感も無く「内地」と言う。
北海道島を除いた日本列島に対しての呼称で、勿論四国/九州島や島嶼も含むのだけれど、そのニュアンスは主には本州島を指してのものである。
これは、現在の札幌人にも一般的なようだが、さすがに若い人達には、かつては行政用語であった「道外」が浸透しつつあるらしい。

1918年法律第39号になる『共通法』が第一条に定める内地ならば、その反意語は外地だけれど、当時の北海道札幌ではそれは「奥地」であった。近年においては「裏日本」の呼称と同じく差別的とされて、これを使うのは一定の世代以上に限られつつある。
その「奥地」の範囲、それの示す地域は何処なのか。函館出身者に言わせれば、そこが内地と奥地との中継地点であって函館以北は全て「奥地」なのだそうだけれど、札幌在住者ならば開拓使以来の石狩平野を区切りとして、これよりオホーツク/太平洋岸に至る地域を指したのだろうか。
いつか、根室線の急行列車で相席となった根釧原野の牛飼いと言う老人は、そこを自ら「奥地」と呼んだ。けれど、それは古い入植者としての矜持に思えてならないのだった。

道北のオホーツク海沿いに点在する海跡湖の光景は、人跡と言えば牧草地の点在するだけの原野と海岸湿原にただ茫漠と湖面が広がるのみで、その「奥地」をも突き抜けた向こう側のように見える。
蛇の抜け殻の残る、山軽の小さな待合所から線路沿いにクッチャロ湖を画角にするポイントを探しながら歩いたけれど、それはどうにも捉えどころがなくて、すぐに列車のやって来る時刻となってしまった。
背景はクッチャロ湖の小沼。静かな湖岸線は太古よりの姿と思わせる。後方にはポン沼の湖面。

列車は、304列車<天北>。強烈な南風の午後である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8-11 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

沼ノ端 (千歳線) 1992

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2011年において道内で人口の増加をみたのは、札幌市と千歳市に恵庭市、そして苫小牧市の4都市のみである。
苫小牧市における人口増加率は近年に至って足踏みしているとは言え、道内のほとんどの地域がマイナスに転じる中に在って、1990年代まで継続してプラスを維持し、高度成長期ただ中の1969年の10万人余りは95年に17万人へと到達している。2011年12月末日での住民基本台帳によるデータで、それは174,219人である。

その増加人口を吸収した地域のひとつが、ここ沼ノ端なのである。
75年当時に駅南側に散在するのみであった住宅地は、その東側から北側に大きく拡張され、ウトナイ湖に迫るまでとなっている。字沼ノ端地区における2011年末の8063人の住民登録は、ここに市街地の形成された90年代を通じての同市の人口増加数にほぼ等しい。

国道234号線付近まで広がっていたウトナイ湖周辺の湿地帯への土地改良工事は、早くも1970年代初頭に開始されており、その第一歩として排水溝掘削の行われていたのを目撃している。もっとも、それが宅地造成目的とは知らず、そのロケーションから牧草地と思っていたのだった。現在その造成区域の東縁には道央道苫小牧東ジャンクションからの日高自動車道が開通し、その間の区域に住宅街の拡張しているのはご承知のとおり。全ての住宅の真新しい映画のセットのような街並である。

写真は、その区域からはやや外れた勇払川橋梁(306M)での8001列車<トワイライトエクスプレス>。
ここは近年に河川敷の改修が進められ、川筋の明瞭で無かった周辺湿原が失われている。

さて、忘れもしない、この日、沼ノ端からの歩きでここに到達して直ぐに、猫を拾ったのである。
この頃には国道から千歳下り線をくぐってこの付近に至る小道が付けられ、それを伝い、前夜か早朝に捨てられたものだろう。
実は、このカットの撮影時には、もう傍らに連れて来ていて、それを気にしながらシャッタを切っている。その当時、自宅には2匹の猫も同居しており、とても放っておく気にはなれなかったのだった。
とは言え旅の途上である。とりあえず兄弟3匹をバックパックに詰めて駅まで戻り、近くの商店でミルクを買い、段ボール箱を貰ったのは良いが、途方に暮れてしまった。
それから数時間、ただ記憶をたよりに電話を掛け続けて、ようやく動物好きだった20数年前の同級生に辿り着き、今は厚別に住むと言う彼女に森林公園駅で会えた時には、本当に安堵したのを覚えている。
彼女とそのご主人の努力により、3匹とも里親の見つかったとの報を受けたのは、旅を終えて半月程した頃であった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

ニセコ (函館本線) 1985

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キハ183系特急形内燃動車にとって、1985年3月14日改正では最初の大きな変革が訪れた。
このダイヤ改正は、84年2月改正を深度化し鉄道特性の発揮出来る都市間/大都市圏/地方都市圏の輸送改善に重点の置かれ、道内都市間輸送を担う特急形気動車では、運用編成を減車の上でその捻出分による増発にて特急列車網の整備が進められたのであった。
これにともなう制御車(先頭車)と特別車(グリーン車)の不足を補うため、中間電源車キハ184を種車としたキハ183-100番台とキロ184(-900番台)が登場したのも、この改正である。

キハ183-100番台は、貫通型運転台としたことでキハ184との共通使用も可能であったが、定員が異なるため、当初は自由席側の先頭車への充当が定例であった。
また、キロ184は量産車との仕様の相違から継子扱いされていたキハ184-900番台から転用され、それの解消したのは良いのだが、機関出力がキロ182の約半分とあって運用に際しては速度定数の変更を要し、7両編成に減車された札幌運転区の<オホーツク>運用である[札A1/A2]仕業への限定運用を組まざるを得なかった。

特別車の不足は、それでも補えず、函館運転所ではこれの連結の無い運用が出現している。
普通車ばかり6両組成による[函A3]仕業がそれで、<北斗>と<北海>を 函3札12函9札/札2函13札8函(列番のDは省略) と回る2組使用の運用であった。(13D・12Dが<北海3・2号>である)
モノクラス編成による特急運用は、82年11月改正での東北新幹線接続特急など前例のない訳ではないが、道内では初の事例であり、短編成化とも相まってさらなる特急の「格」の低下を感じさせたものであった。
(この運用の趣味的な興味については別記しているので、ご参照願いたい)

写真は、ニセコ西方の尻別川への架橋による曲線改良区間での12D<北海2号>。幾度も通ったニセコ (函館本線) 1984と同一地点、その夏姿である。
午後になって後方羊蹄山上に積乱雲が発達し始め、それが山頂を隠してしまう寸前に間に合ったのだった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

新冠 (日高本線) 1966

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「観光」と言うものをしないものだから調べてみて初めて知ったのだが、新冠町管内に所在する判官館岬後背の標高50から60メートル程の丘陵の上部一帯は、町により『判官館森林公園』として整備され、現在では岬の岩盤に穿たれた日高本線の判官館トンネル(l=64M)の直上付近まで遊歩道が通じている様子である。
そう言えば、そこに展望台らしきものの写り込んだカットを何処かで目にした記憶もある。Web上にて、ここからの俯瞰カットを検索してみると、果たして新冠市街地と海面を背景に駅から新冠川橋梁に至る区間を遠望するものが見つかった。岬を海岸線に沿って迂回する節婦方は、あまりに直下を通過していて見通しは一部に限られるよう見受けられる。

写真は、様似 (日高本線) 1969に書いた、札幌から日帰りで1893列車を気動車列車で追掛けながら撮った際のものである。苫小牧操車場を早朝に出ていた同列車を富川で追抜いて新冠へ先行し、新冠川橋梁(232M)上を小走りで戻り、新冠古川橋梁(74M)に至って撮影している。判官館岬を背景とする定番のポイントである。
実は、この後の訪問で岬上部への獣道のごとき小道を見つけてはいたのだが、その直登に近いルートと上部に生い茂るように見えた熊笹と樹木に登坂を躊躇していたのである。Webでの写真を見ると、白煙の上がる秋冬期ならば印象的なカットも押さえられたと思われ、些か悔やむ。

この当時の新冠は、早い時期に撤去されてしまった上り本線も健在で、下り本線外側には貨物側線も通じて木材の積載が行われていたと記憶する。もちろん職員が詰め、閉塞器の電鍵の音が響く駅であった。駅前の大きな新冠町農協の建物は当時から在った。

この日は、後続の気動車にて静内で追いつき、構内入換と出発を撮影の後に、浦河で再度追い越して鵜苫-西様似間でも撮り、さらに機関車の折返しの運用となる1896列車を絵笛で迎えて撮影を終えている。
貨物扱いで停車時間が長く、かつ今よりも普通列車の設定が多い故に実現可能な「追っかけ」だったのである。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1991

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1903年11月3日、当時の北海道鉄道が既設の森から熱郛までの90.9kmを一挙に開通させた際に、機関庫を始めとした運転上の現業施設は黒松内に置かれ、長万部はその中間駅に過ぎなかった。
ところが、鉄道省による長輪線(後の室蘭本線)がここを接続駅として建設されるに及んで、1928年9月に黒松内機関庫の分庫が開かれ、32年6月15日付にて長万部機関庫として独立して以降、ここは二大幹線の結節点に位置する鉄道の要衝として発展したのである。

庫内10線の扇形庫とコールビンにガントリークレーンを設備していた長万部機関区には、戦後の蒸機全盛期と思える1960年度末時点で24両の配置の他、函館や五稜郭、倶知安に小樽築港、室蘭/鷲別の各区から入区もあって、列車への解結や着機に対する給炭/給水/給砂に灰落とし/シンダ掻きなどの仕業整備に、構内は昼夜を分たず活況を呈していたのである。
これには、煌煌と構内を照らし出しす照明塔の数機が設置され、そこを夜から浮上させていた。

無煙化後の74年度末においても配置車両こそ10両に減じるものの、内燃車の運転/仕業管理基地としての地位を確保していたのだが、それの集中配置政策により80年10月改正を以て車両配置を終了して要員区となり、乗務員区としての長万部運転区を経て、93年3月改正にてそれすら函館運転所に統合されてしまう。
この間の84年2月1日改正では駅本屋南側での貨物扱いも廃止されており、以後現在に至るまで、構内では数両の気動車の滞泊にかかわる入換の行われるのみで、照明もその留置線周辺にて事足りるとあって、構内照明塔は使用が停止され久しい。

小沢 (函館本線) 1978でも触れた、長万部での近年の夜間撮影がこれである。
この頃には構内南側の照明塔は、まだ稼働していたはずなのだが、かつての「新聞の読める」程の照度は望むべくも無く、出発して往く上りの寝台特急を照らし出すのは、貨物扱い設備が撤去されて到達するようになった駅前通りの街路灯の灯りなのだった。

列車は、4列車<北斗星4号>。定期列車3往復運行の頃である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/8sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

釧路 (根室本線) 1977

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2011年度の日本酒(以下、単に酒と記す)消費量は、ほぼ四半世紀振りに前年度を上回ったと聞く。
それは、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれによる津波にて沿岸部のいくつかの酒造場が被災し、これに呼応した東北地方の蔵元の提唱をきっかけとした、日本名門酒会による「一合壱円プロジェクト」や取り次ぎ卸店/酒販店を中心に販売を通じた復興支援のなされた東北各県の酒が売上を伸ばした結果と言うものの、これにて現代の酒に初めて接した人々が存在し、やがて彼らは全国各地の地酒へと手を伸ばすに違いなく、取り敢えずは喜ばしいと言うべきであろう。

酒の消費量は、戦後に急激な伸びを示し1973年度にピークに達するものの、その後はバブル経済ただ中の1988年度に一度だけ上昇に転じたことがある他は、一貫して漸減傾向にあったのである。
これについては、様々な要因分析がなされ、主には生活様式の変化による低アルコール志向、健康志向によるワイン・焼酎への流出などが要因に上げられているのだが、それへの嗜好が世代間に伝えられていないゆえと言う気がしてならない。

それもそのはずで、戦後にその消費を押し上げた所謂団塊世代の呑んだ酒は決して美味しくは無かったのである。
当時の灘/伏見の大手蔵を中心とした酒造業界は、戦時中に戦費調達から酒税の増収目的で認められたアルコール添加や副原料を使用した増譲酒を、終戦直後には原料米不足を理由に、そしてその後は利益率の高さから長く造り続けたのだった。それは酒とは言えぬ紛い物ゆえ、やがて画一化した味は飽きられ、次の世代へと伝わらぬのも当然に思える。つまりは、自分で自分の首を絞めたことになる。
もちろん、米と米麹による本来の酒に拘り続けた心ある蔵元も在り、それに一部の流通側の努力が加わって70年代半ばの吟醸酒の再発見へ、そしてその後の地酒ブームへと繋がる。けれど、時既に遅しと言うべきか、酒とは不味いものとの定説が広まったのも、また70年代なのであった。
残念なことに、増譲酒は普通酒の名称にて未だに製造されている。大手蔵はその規模ゆえに、一部の中小蔵は低迷する消費動向から普通酒による収益構造より脱却出来ぬのである。
一方で地方の中小蔵には生産全量の純米化を達成した蔵も出現し、それを指向して途上にあるものも多い。戦後半世紀余りを経て、ようやく本来の造り酒屋に回帰しつつあると言って良い。その酒は、もちろん美味い。

私事にて恐縮だが、1969年に亡くなった母方の祖父は毎晩に晩酌を楽しむ酒呑みであった。祖父が戦後のそれしかない増譲酒をどのように思って呑んでいたものか、今となっては知る由もないけれど、同じく酒呑みとしては可哀想でならない。戦前の本来の酒の味を知っていたはずなだけに、である。

その蔵元=酒造場も1955年度の4000場あまりに対して近年では2000場を切るまでになっている。これは酒造免許のデータゆえ、それを保有していても休場中であったり自家醸造を止めてしまった蔵も含まれる。実際の稼働蔵は1000場に迫るのではなかろうか。ここ20年程は毎年50近い蔵元の廃業/免許返上が続いている。
2011酒造年度で北海道内で稼働している酒造場は13蔵を数えるのみである。
ここ、釧路には1919年創業になる福司酒造がある。酒銘は勿論「福司(ふくつかさ)」である。
年間の製造高1900石、おおよそ一升瓶で190000本あまりの出荷はそれなりの規模であろうか。それでも販売は地元向けが大半を占め、正しい地酒屋である。首都圏で見かけることは無く、現地に向わなければ呑めない。

写真は、釧路川橋梁(178M)上の混444列車である。この列車については度々書いており、付け加えることは無い。
この頃の旧釧路川左岸には漁港施設があり、何隻もの漁船が係留されて早朝には活気に満ちていた。その裏手には釧路臨港鉄道の軌道も健在だったのだが、既に列車運行はなかったと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on MAc.

熱郛-上目名 (函館本線) 1983

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函館山線のC62重連急行については、近年に至って先輩諸氏による回顧本の出版や、かつての写真集なり資料集の復刊も相次いでいる。
これらを拝見すれば、ここに当時の拙いカットを記事化するまでもなく、<ていね>の時代の倶知安-小沢 (函館本線) 1967だけに留めさせて頂きたくもなる。

これの撮影にかかわる、1971年の夏をピークとした沿線の狂乱振りについては以前に幾度か書いたことあるけれど、それは同年9月16日のDD51の投入を以てウソのように醒めてしまう。C622は、その後も梅小路入りまでの期間を137-134列車の運用に充てられていたし、D51も健在であったのだが、沿線の撮影者は数える程までに減り、そして、73年夏までに無煙化が完了すると、それを見かけることさえ稀となったのだった。

けれど、蒸機のいなくなった函館山線は、それなりに福音だったのである。
自分の撮りたいアングルの撮れることが何よりであり、内燃機となれば勾配の下り込み側もまた新たなポイントとなった。
上目名をサミットとしたこの区間も、上りを目名側で下りを熱郛側でとのセオリーに縛られることが無くなり、熱郛側で上目名方を見る画角が新鮮ではあった。

写真は、蒸機の頃に下り<ニセコ>の撮影を終えて上目名への帰り道、いつも見ていた反向曲線である。上目名駅廃止の噂を聞きつけて数年ぶりに降り立ち、白井川トンネルをくぐり抜けてここに立った。
列車は、勿論102列車<ニセコ>。

噂はその秋には現実となり、上目名は翌年の1月31日付にて廃止された。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

滝川 (函館本線) 1979

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C6120の復元に併せて、東日本旅客鉃道は保有する在来型客車の整備を行った。蒸機の展示運転用として12系客車の基本6両編成のみの現状では、他に選択肢の無い措置ではある。
その改修工事の主眼は、この7両組成を現在の「通常」の運用に供せられる接客/保安設備を持たせるところに在った。
台枠梁強度の関係から汚物処理装置の搭載が見送られ使用停止とされていた便所を、近年に改良の進んだバス用の装置により整備し、蒸気暖房主管の改修にて、これも停止していた冬期の暖房を復活させている。
加えて、手動による客用側扉に空気式の戸閉装置と鎖錠装置を設置して保安度を確保した。

現代では信じられないかも知れぬが、当然のこととして客車の側扉は走行中でも開放出来たのである。混雑した通勤通学列車では、デッキの外側にぶら下がるように乗車する乗客の姿は日常に見られたものであった。ドアエンジンを装備した電車や気動車などと併用される時代となっても、電源や空気源を持たぬ客車とはそう言うものだったのである。
1950年代の設計になる特急用固定編成客車も車端に電源車を組成しながら、その折戸となった客扉の自動化はなされず鎖錠装置が設置されたのみであった。客車の伝統を踏襲したと解すべきだろう。列車ボーイが閉め忘れたものか、開放のまま走る姿を見かけたことが幾度かある。
貫通路への扉の設置も、車掌室を出入台の外側に置いた設計としたスハフ42やオハフ61など戦後の新製ないし鋼体化改造車が最初の例であり、それとて、その車掌室側(後位側)のみであった。
75年頃、仙台から山寺へ向う仙山線列車でのこと、機関車次位のデッキに乗っていたのだが、紅葉シーズンとあって停車駅毎に乗客が大挙して乗り込み、仕舞いにはED78の貫通扉にしがみつかざるを得なかった(*)。今なら当然排除されるだろうが、当時の鉄道係員は仕方の無いこととして黙認していたものである。

写真は、滝川駅に到着した322列車、スハフ32192(旭アサ)の後部デッキである。蒸気暖房のスチームが立ち昇る。
早朝に名寄を出て数時間の走行。この日はたいした降雪ではないのだが、巻き上げた雪が吹き込んで積雪10センチと言ったところだろうか。
これが豪雪の中ともなれば大量の雪にて客扉の開かず、あわてて反対側デッキへと走ったこともあった。

(*) - バッグに三脚を抱えて、この状態での仙山トンネル(5361M)の通過は生きた心地のしなかったことを付記したい。電気機関車があれほど揺れるものとは思わなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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