"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

倶知安 (函館本線) 1986

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1986年11月1日に施行の改正時刻は、5ヶ月後に迫った国有鉄道の分割・民営化の最終段階とされ、民営会社各社に引き継ぐべきダイヤとして策定された。
道内においても、経営基盤の極めて脆弱と位置づけられていた北海道内会社への承継に際して、経営資源の集中化が図られ、それにともなって函館本線長万部-札幌間では優等列車の撤退、機関車運用の全廃が組み込まれていた。

これを前にしながら、この年は本業が多忙で長い休暇の取れぬことも在り、春から短期間の渡道を幾度か繰り返していたのだった。
2日から4日程度で戻らねばならず、なるべく避けていた航空機移動がほとんどとなってしまい、託送の出来ぬ機材のため機内持ち込み用のバッグを別に用意し、それは道内滞在中は千歳空港のロッカーに預けるようなこともしていた。

ここへの記事には何度目かとなるのだが、再び日本一有名な踏切道である。後方羊蹄(シリベシ)山上の「月」は偶然では無い。
理科年表の暦部を何気なく見ていて、9月初め時期の月出時刻とその方角データから、夕暮れの頃それが後方羊蹄山上にあることが予測出来たのである。ターゲット時刻の18時40分頃、同じく日没時刻と方向にて残照の影響の小さいだろうことも知れた。これらデータを読めば撮ってみようと言う気にはなる。地上の明るさ(=露出)も経験的に推定出来る。現地に立たなければわからないのは、晴天に限るのは当然としても、その日の気象条件によって異なるその時刻の天空と地上の輝度差であった。写真を撮られる方ならご承知のとおり、小さいに越したことはないのだけれど、ラチチュードの大きいモノクロフィルム(しかもTri-Xの減感)なら何とかなると思っていた。

三日間程を倶知安周辺で過ごすつもりであったので、一日くらいの晴天を予測したとおり、それは初日から快晴に恵まれたのだった。
列車は、もちろん101列車<ニセコ>。
85年3月改正にて所定編成が4両に減車され、86年3月改正以降は多客期に増結されることもなくなり、この区間での補機も廃止されていた。81年に所定8両編成にて在来型客車から置替られてから僅か4年である。もはや函札間に6時間近くを要する山線急行の時代ではなく、郵便/荷物輸送のために維持されたとしても過言では無い列車であった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

別当賀-落石 (根室本線) 1978

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前にも書いたことがあるが、撮影行動は鉄道にて移動し、駅からは徒歩である。
蒸機を撮っていた頃は皆そうだった。40年を経た今でもこのセオリーに従っている。もちろん、下車駅から利用が可能ならばバスにも乗るし、タクシーも使う。歩きに拘っている訳では無い。
鉄道を撮らせて貰いに往くのだから、その収益に僅かでも貢献したいのも確かだけれど、何よりも、列車に揺られ、駅の風情を眺め、ゆっくりと過ぎる視界に風景を満たしながらポイントに至り、そして脚を立てて列車を待つ、そのプロセスを楽しみたいのである。行動中に多々ある長い登坂や急崖の登摩、薮漕ぎなど山屋の範疇も侵しての上である。
クライアントなり編集者の意図になる写真を、何が何でも持ち帰らねばならない仕事写真ではない。それも十分に楽しんではいたけれど、写真を撮る楽しみを楽しむには、やはり鉄道旅に歩き旅が相応しい。

とは言え、これも以前に書いたように撮影が目的だからとりたてての観光スポットに足を踏み入れるではない。鉄道から離れた場所には行かない。それが鉄道のポイントと重複する大沼公園や小清水原生花園は例外中の例外である。
さりとて、とりたてての所謂グルメを楽しむでもない。必要としての駅弁だったり駅前食堂であったりロードサイドのドライブイン程度である。それでも、何度か通ったポイント近くの農家で馳走になった「とうきび」(農家はプロだから自家用の作物は特別なのである)や、度々昼食用のパンを仕入れた駅前商店の主人の打つ、かの家に代々伝わる「田舎蕎麦」などに出会えたり、ポイント近くでたまたま飛び込んだ寿司屋が漁師兼業だったりもする。

自動車を利用した撮影でもポイントへの最終アプローチは徒歩に頼らざるを得ないことは多々ある。なかには、かつての上目名周辺のポイントや道路から保線用ステップを延々と登っても南稚内からの徒歩と変わらなかった犬師駒内(エノシコマナイ)原野など、駅から徒歩でなければ到達出来ないケースもある。
ここ、落石西方の落石湾を見下ろす段丘上の地点も道路が通じていないばかりか、線路伝いに歩く以外に手はなかった。もっとも、落石の外浜から浜辺を走行し段丘下に至ることは出来たが、それは四輪駆動車あってこそだった。現在では付近まで別当賀からの道路が通じている。

写真は最果ての冬空。その定番ポイントに至る直前の位置から海を見ている。後方のカーブした線路の先がそのポイントであった。
列車は412D<ノサップ1号>釧路行き。後追いのカットになる。
キハ56+キハ27の2両編成が所定ゆえ、先頭のキハ22は何らかの事由による増結だったのだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

洞爺 (室蘭本線) 1990

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早朝に室蘭本線を下る寝台特急群を撮るようになって、洞爺に度々宿を取った。豊浦や場合によっては礼文方面への中継地としてである。

これに集中した撮影行動では、「下り」の撮影後に札幌付近ないし千歳線内へ移動して「上り」を出迎え、その後に翌朝に備えて東室蘭以遠、長万部/函館方面へ舞い戻るスケジュールを毎日繰り返していた。「下り」を礼文から大岸、豊浦で押さえようとすれば、長万部なり東室蘭からの始発での移動では間に合わぬゆえ、どうしても現地での前泊を要する。
札幌からの夕方の特急が洞爺で普通列車に接続するダイヤの時代もあったのだが、後に洞爺では特急に先行しての礼文退避が規格化されてしまい、勢いタクシー利用とせざるを得なくなった。この際、翌朝のポイントが決まっていれば、豊浦の宿からの徒歩も省略可能とあって、洞爺泊まりで朝のタクシー移動を選択していたのである。

洞爺泊と言っても、決して湖畔の温泉街へ向うでなく、虻田の市街地、駅前の宿である。現在もそうなのだが、ここにビジネスホテルの類いは存在せず旅館しか選択肢はない。この当時には、駅至近の国道37号線に面して‘浅野旅館’、一本海側の通りに‘旅館松よし’が在った。駅正面から海側へと伸びる道路はまだ開かれておらず、浅野旅館の先の路地を迂回すると松よしである。どちらも気さくな女将さんの切り盛りする宿で度々お世話になったものである。
この頃には、ここに限らず商人宿としての本来の駅前旅館の機能は、近隣都市のビジネスホテルに奪われてしまい、宿泊客は飯場を設営しなくなった土建/建設業関係者が主体となっていた。長期の工事ともなれば旅館ごと押さえられて泊まれぬこともあったのだが、常連の仲間入りをさせて貰えていたのか、そのような時でもなんとか部屋を工面してくれたものだった。残念なことに、浅野旅館は駅前の国道拡幅に際して廃業してしまった。

さて、その後は必然的に‘松よし’ばかりなのだけれど、その頃からここの集中給油式の室内暖房機は、午前0時から6時まで給油停止となっていた。火災対策や経費節減などの事由があったのだろう。普通の宿泊客ならば特に問題もない措置なのだが、鉄道屋としては困りごとであった。こちらは4時には起き出して5時前には行動を開始するのである。秋冬期、起床時のあまりの寒さに短時間利用の寝台車よろしく着衣のまま布団に潜り込んだものだった。

写真は、クリヤトンネル出口付近を海岸線から撮っている。その後に水鳥の休む海浜には漁港施設が建設され、同位置に立つことは叶わない。後方の岬上に後に建てられる老人介護施設も用地の整地が終わったばかりだった。
この日は、8002列車の運転の無いためか、午後を千歳線内に向わずに洞爺にて過ごしている。
列車は、ワム80000形編成による5161列車である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6-8 Fuji Sc48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

七飯-渡島大野 (函館本線) 1989

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北海道新幹線函館総合車両基地(仮称)の工事着工以前に、既に失われつつあったと思われるのだが、その敷地となった七飯町の飯田や北斗市の稲里ばかりでなく、旧大野町を構成した、かつての本郷村や市渡村などの大野平野内陸部にはイグネが存在したのではないかと思う。

60年代末から80年代後半に通称-藤城線を撮影したカットの背景に写り込んでいる大野平野の風景に、屋敷林を持つ農家が見えるのである。
それをイグネと呼んで良いものかはわからない。それは本来、福島県浜通りから仙台平野を経て岩手県に至る地域に特有の屋敷林の呼称で、「居久根」と表記され、まさに住居を囲う久根=林である。
屋敷林を伴う散村は本州以南の全国に見られ、出雲平野のツイジマツ、砺波平野のカイニョウが特徴的な形態として、イグネとともに良く知られている。

イグネは、地域によってエグネや単にクネとも呼ばれ、杉や竹/檜を中心に果樹木に加えてその地域の植生に従った雑木にて自然林に準じて構成され規模の大きいことが特徴である。
大野平野におけるものは規模こそ小さいけれど、遠目で木種は不明ながら優先木に果樹木の組み合わせによって雑木林然と造られている。北海道ゆえの植生の差異からイメージの異なるものの、これはやはりイグネであろう。
もちろん、全ての農家に備わっているのではなく、それは少数例に留まる。且つ、ここは基本的には集村の集落形態である。念のため、Web上で1976年撮影の航空写真を調べてみると、七飯付近より以北、峠下方向に向けてそれらしき存在が散見される。
あくまで私見だが、それらの農家は東北のイグネ地域から入植された方々ではなかろうか。当然のものとしてそれが造営されたものと推定している。
かつては、より存在したであろうが、平野中央部では圃場整備等により失われたものと思う。

写真は、渡島大野からの大きなR603曲線を抜けたコンテナ貨物、3082列車である。
ここにも、背景に林に囲まれた農家が見える。ただし、これは優先木が無く果樹木ばかりで、イグネと言うには迫力に欠ける。より奥側のものは優先木をともなった例である。機関車左手の樹林も住居は画角外だけれど屋敷林の一部である。

連絡船から乗継いだ気動車急行の加速して往く車窓に見た、緩く傾斜した向こうの心地よさは、北海道の風土に内地的なるものが共生した景観ゆえと納得している。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

落部 (函館本線) 1996

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函館市内/近郊を中心として渡島半島一円へ路線網を持つ函館バス株式会社に、郊外路線の函館・長万部線がある。
函館バスセンター-長万部ターミナル間で、始終点側の一部を除いて国道5号線上を運行し、約3時間の所要時分に路線延長111.8キロは一般乗合路線では長距離の部類であろう。その運行距離ゆえかJTB版の時刻表で、同じく函館バスによる長万部・瀬棚線/函館・松前線と共に長距離バスのページに記載されるが、都市間高速バスではなく、路線上に設置された停留所すべてに停車する、言わば各停運転である。
余談ながら、長万部・瀬棚線は国鉄瀬棚線の廃止による代替バスであり、同線の駅に準拠した停留所のみに停車する。函館・松前線は、<松前号>を名乗る快速運行だけれど、函館バスはこれを都市間バスとしていない。また、現在の同社の最長距離路線は函館・北檜山線の快速<瀬棚号>だが、これはJTB版の時刻表に不掲載である。

1966年の開設と言うこの函館・長万部線を、函館本線上の撮影ポイントへの移動に利用するようになったのは、1972年からで、当時6往復と記憶するその運行は、函館線普通列車の合間を縫う設定も在り、なによりポイント至近での乗降に利便性を見いだしてのことであった。加えて、路線バスとあれば夜行列車で撮影地を転戦するばかりの中で「旅気分」を味わえるのが気に入っていたのである。
自由乗降では無いゆえ乗車は停留所に限られたけれど、申し出れば希望場所での下車に便宜を図ってももらえた。
長距離便とあってか、当時より永らく、おそらくは旧観光バス仕様車の転用と思われる車両にて運行されていたが、その後に一般乗合仕様車の運用に変更されている。
近年では利用の不振から4往復運行とされ、いささか利用チャンスは減ってしまった。

ところで、この路線に限らぬが北海道ルーラル地域でのバス利用の難点に早発があった。法定速度以下での運行ながら乗降のないゆえの通過停留所が多く、早発気味となるのを幾度も経験した。かと言って、特定の停留場で時刻調整するでも無く淡々と走るのである。乗車の際には、停留所へ遅くとも5分前には到達せねば安心出来なかった。

写真は、落部-野田生間の定番区間での8002列車<トワイライトエクスプレス>。
第三落部トンネルが通過している海岸段丘上部から撮っている。ちょうど落部 (函館本線) 1988のポイントから牧草地を横切った反対側の位置である。

ここへの最寄り停留場は旭丘。バスを降りて10分以内に到達出来た。
旭丘は、ここより段丘上の奥に存在する集落名を取っている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f4 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1979

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モノクロで撮影していた1996年までの間で、この石北峠の白滝側の区間へは、1977年と79年それぞれの冬の2回の訪問だけで終わっている。
奥白滝を基点に石北トンネル出口までの4キロ余りと上白滝へも歩いたけれど、トンネル側はあまりに山深くて足場が無く、上白滝方も勾配は同様に25パーミルが連続しているのだけれど、上白滝から直線的に斜面に取り付く区間で些か開放感はあっても、やはり足場になりそうな斜面や丘は見当たらず、線路端からの撮影になってしまうのは変わらなかった。唯一とも言えたのは上白滝近くの国道333号線の跨線橋くらいであった。

その後も、日中にここを通ることが在れば、車窓からポイントを探したのだけれど、いつしか敬遠した区間になってしまい、それ以来の撮影は旧白滝から丸瀬布、瀬戸瀬あたりばかりだった。

さて、写真は新旭川起点72キロ付近での混527列車である。
背景の西空と針葉樹に惹かれて意図的に後追いをしている。ファインダに現れたのは客車2両にヨ8000が従うだけの編成であった。けれど、これは貨物財源が無いゆえの車掌車のみの組成ではない。この区間の混合列車は貨物車前位を定位としていた。
後に確認したのだが、この車掌車は荷物車の代用だったのである。この日、旭川客貨車区で所定のスハニ62に不具合を生じたものの、3両配置の同形はもとよりスユニ/スニ60にも予備車がなく、急遽ヨ8000を連結したものらしい。そのせいか、1時間程遅延しての運転ではあった。
混合列車で引かれたスジを走る、「運用からは混合になっていないはずの事実上の混合列車」と言う、何やらややこしいことになっていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

斜内 (興浜北線) 1982

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北見神威岬と斜内山道は、興浜北線のハイライトに違いない。
けれど、その険しい全景とそこを往く列車を捉えようとすれば海側に視点を置かざるを得ず、それは風景に反して平板な写真に終わった。燈台の背後の岩場を登摩して、それと列車と海面を画角に取り込んでも構図の整わぬものだった。

やはり、ここは視点の側に思える。ここから眺める目梨泊、問牧方向へ点在する集落を抱えて緩く弧を描く海岸線と、その先のなだらかな稜線の交差が気に入っていたのである。
けれど、海側に並行する国道238号線の路面を、積雪が隠してくれることを期待して訪れていた厳冬の季節は吹雪ばかりで、日中に数本しかない列車と共に決まってやって来る風と雪で、期待するカットはなかなかに叶わなかった。

何度目の訪問であったか、午後に至って突然に吹雪が止んで視界が開け、海鳴りも治まった。そこを上りの浜頓別行きが走り去る。列車は、926D。
キハ22にも首都圏色と呼ばれる単一塗色が増えて来ていた頃である。

次の列車、北見枝幸行きは早い日没の直前とあって3時間近くの間隔がある。有り余る時間を寒さに耐えて過ごすも、天候は好天には向わず、次の吹雪に追いつかれてしまうのだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

白老 (室蘭本線) 1969

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東日本旅客鉃道では、観光用の巡航列車向けながらHB-E300系列として実用化の域に到達した電気併用のハイブリッド動力式内燃動車であるが、モータアシスト方式と呼称するパラレル方式の一種を採用した北海道旅客鉄道のそれは、2007年に開発成功の発表のあったものの、実用化への動きは滞っている。
言うなれば、電気式内燃車に蓄電池を追加しただけの東日本会社のシリーズ方式ハイブリッド駆動に対して、軽量化とエネルギー効率で遥かに優るけれど、機構/制御の複雑化するパラレル方式にあっては技術開発のみならず投資効率など実用化への壁のあるのであろうか。

その開発当初には、実用化時の札沼線への投入を想定し、次世代の特急形気動車をも視野とするアナウンスがなされていただけに、2009年の同線の電化計画公表は唐突に感じられた。
寒冷地における冬期間の電車線路設備への保守を考慮すれば、それの設備されぬに越したことは無く、同線への投入計画は理に叶っていたからである。
周辺線区が全て電化線であり、動力統一化にもメリットは存在し、国の定めた鉄道整備助成制度の利用も可能となっての選択であろうが、東日本旅客鉃道が将来の抜本的運転経費低減策として駅間の電車線路設備の省略を可能とする蓄電池式電気車両の実証試験をも行う中にあっては、やや違和感を覚えたのだった。

先頃発表された2012年10月ダイヤ改正概要によれば、札沼線の全面電車化にて捻出のキハ143を室蘭本線の苫小牧-室蘭間に転用し、同区間にある普通列車の電車運用を代替するとある。この区間より711系電車が撤退となれば、その電化設備は、5往復設定の特急<すずらん>が専用することになる。
その開業時期が鉄道輸送、主には貨物輸送の衰退期にあたってしまい、また産業構造の変化による室蘭地域の経済的縮小もあって十分に活用されぬままの電化設備なのだが、ここに極まれりの感が在る。
北海道旅客鉄道は、近い将来にこの区間の電化設備の廃止/内燃動力化を提案するのではなかろうか。5往復の特急電車だけならば架空電車線の更新頻度は極端に低下するに違いないが、ここでは冬期間の電車線路設備への保守問題どころでなく、その設備自体の維持/更新が問われるゆえである。
室蘭市をはじめ沿線自治体からは当然に反発のあるだろうが、気動車特急にて十二分に代替可能であり、それの東室蘭での<北斗>系統への分併による増発などで手が打たれるのではないか。なにより、ここでの電車列車は電車線路による速度制限を受け、それは軌道設備により130km/hを許容される気動車列車より抑えられるのである。(同様の事例は常磐線のいわき-岩沼間にも見られる)

写真は、非電化時代の白老を発車した223列車岩見沢行き。
鉄道屋とすれば、電化設備の廃止は歓迎すべきかも知れぬが、架線は撤去されても電化柱の片側は通信線柱として残り、もう一方もすぐに抜去されるでなかろうから、このようなすっきりした構内風景が戻る訳では無い。むしろ吊架設備のみが永く残り撮影には不適となる可能性が高い。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1995

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有珠-長和間の室蘭本線はエントモ岬を大きく海側に迂回し、その先端部分を隧道にて通過する線形をとっている。ここは、当時長輪線と呼ばれた長万部-輪西(現 東室蘭)間の最期の開通区間である静狩-伊達紋別間に在って、その全通は1928年9月10日と記録されている。
この線形は明らかに岬の基部通過によるトンネルの延長を嫌ったもので、丹那トンネルも清水トンネルも建設の決定していた時代の線路選定においても、工期や工費から、それは避けるべきルートであったのだろう。
海岸線から背後の段丘に至る間に平坦地の広がる地形も幸いして、迂回による急曲線の挿入もなく全てR600に抑えられている。

このルート選定は後年の福音としてエントモトンネルの前後区間にいくつかの撮影ポイントをもたらしてくれている。
近年に高名な長和側の段丘上からの噴火湾を背景にした俯瞰や、岬先端付近からの有珠側遠望に緩く曲線を描いたトンネル入口付近などである。
定番に逆らって、柴田踏切から農家の庭先を横切り岬上部への細道を辿ると、さほどに大きくは無い岬の先端部を見ることが出来た。そこはもう成井農林の事業所敷地で、念のため事務所に断りを入れて撮影している。

列車は、5010D<スーパー北斗10号>。
5月とは言え噴火湾を渡る風は、まだまだ冷たい。
この位置から振り返ると、踏切あたりのR600曲線から遠くアルトリ岬までが陽光の下に見通せた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4 1/1000sec@ f5.6-8 Fuji Sc44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

川湯 (釧網本線) 1976

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釧路機関区へのDE10形式液体式内燃機関車の配置は早く、1967年度第二次予算にて新製の、それの2次車にあたる12両(27-38)が68年の5月から7月にかけて回着している。これらは、釧路以東の根室本線/釧網本線および浜釧路や天寧など釧路周辺の貨物支線と釧路操ヤードの無煙化を目的としたものであったが、本線列車では何故か旅客/混合列車よりも貨物列車が優先され、また、これにて釧網本線の釧北峠越え区間補機の完全無煙化が実現している。
早い時期での置替であったゆえ、残念ながらここでの蒸機による補機運転は実見していない。弟子屈に滞泊するC58の運用だが、それに混じって8620形も遅くまで残存していたらしい。DE10置替後では弟子屈-緑間が補機使用区間とされ、本務のC58に対して前補機も後部補機も存在した。

その区間に在る川湯には、おそらくかつてはここでも一部列車での補機解結作業が行われた名残であろう構内照明塔が、上下本線ともその出発信号機付近に設備され、それはこの当時でも点灯されていた。その高さの低いこともあって、それはTri-Xフィルムを以てすれば十二分に走行を写し止められそうな照度なのだった。

列車は、発車して往く混635列車。ここからは釧路行きの最終列車にあたる。
ディジタルであれば、僅かな灯りでも撮影は可能だけれども、夜の描写ならやはりフィルムに敵わぬと思える。それの撮影は、後処理も含めての完成形と承知していてもなお、である。

本来なら、この列車とここで交換となる網走への最終の北見行き急行<しれとこ3号>に乗車予定だったのだが、それが遅延して弟子屈交換となったおかげの「一枚儲け」のカットである。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/30sec@f2.5 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

沙留 (名寄本線) 1981

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沙留岬は、僅かばかりのオホーツク海への突起に過ぎない。海面からの比高も10メートル程で、緩く傾斜している沙留の市街地より低いくらいである。
それでも、雄武町の音稲府岬からサロマ湖/能取湖の砂州を経て遥か網走市の能取岬へと続く直線的な砂浜海岸に在っては、日の出岬と並んでランドマークとなり得る「突起」なのである。北側にキャンプ場、南側の湾内に海水浴場を持ち、先端部の岩礁付近は、この地域で有数の釣り場で、ターゲットは夏場のマガレイと聞いた。
沙留の名は、沙留川から取られており、それはSar-or(サルオロ)に当て字したもので、「葦原の所」を意味する。

沙留の駅は岬の基部を横断したところにあり、その駅前はほとんど海に面していたと言って良い。付近は疎らな集落で、当初は寒村の駅と思っていたのだけれど、市街地はその東側に広がっていて、そこはその街外れなのだった。

オホーツク沿いの鉄道だった名寄本線だが、その海岸線を走る区間は、この沙留付近に限られていた。岬からの海前景、背後の畑作地からの海を背景にしたカットと、冬ばかりに幾度も通ったものの、結局満足の往くカットは撮れず仕舞いであった。

写真で浜番屋の建つのが沙留岬の基部である。岬は、ここから右奥へ伸びて、200メートルばかりで尽きてしまう。
列車は、628D名寄行き。

旭川機関区は最初にキハ40 100番台の投入された区所で、76年度末までに10両が新製配置となり、主に富良野線に運用されていた。その後、79年度に7両、80年度に11両、81年度に10両が追加投入されて、この撮影時点では38両配置にて周辺線区に広く運用されるようになっていた。このような新鋭車同士の2両組成も見られた訳である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1970

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1970年の国鉄北海道総局の資料によれば、石北本線遠軽-北見間の牽引定数は、D51形蒸機にて59とある。すなわち、それの1台運転で590トンの輸送を行っていたのである。ただし、標準勾配が25パーミルとなる生田原-金華間には補機を要し、ご承知の通り、これには遠軽機関区の9600形が充てられていた。

これのDE10への置替え直前となる、この年の10月改正ダイヤを見ると、補機の連結区間は生田原-留辺蘂間が基本であるが、入出区を兼ねた遠軽解結があり、解放はほとんどが常紋信号場とされている。
ここでの補機は後機を定位にしており、場内で上下本線に三カ所の渡り線を持つ常紋信号場の配線はこれに対応したものであろう。しかし、実際には常紋での着発線の使用順や交換列車の有無、生田原/留辺蘂での待機時間などダイヤ設定上の事由により前補機も多々見られたのであった。
また、もちろん各停車場有効長に収まる範囲内であるが、定数を越える輸送には遠軽-北見全区間でのD51機重連運転があり、この際には補機は省略されていた。
既に貨車組成のほとんど無くなっていた混合列車での補機使用は所定ダイヤには無く、旅客列車でのそれは深夜/早朝に通過する急行<大雪>に限られた。

ここへは、1967年夏以来二度目の訪問であったが、前回とは桁違いの撮影者に驚いた記憶が在る。下り<大雪>を生田原で下車したのは全てが鉄道屋であり、駅寝組を加えれば20人を越えていたと思う。この数年で、世に言うSLブームはピークへと駆け上り始めていた訳である。

写真は、金華方へ下った新旭川起点149K400M前後のR302曲線の連続するあたりでの撮影になる。もちろん、列車の接近したカットも撮影しているのだが、ほとんど無風の条件下では排煙が谷間を埋めてしまい、後補機が隠されてしまうのだった。
この頃までの金華方の沿線は原生林に覆われており、現在の開放的なイメージとはかなり異なっていた。それは、1980年代以降の伐採の結果である。
列車は、2574列車。北見から旭川への線内貨物列車である。この日は、補機が要らない程に財源がない。

[Data] NikonFphotomicTN+AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.



豊浦 (室蘭本線) 1979

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ここの記事で、何度目の豊浦だろうか。70年代の始めからそれだけ通っているのである。
その市街地と周辺は、だいたい覚えてしまっている。この坂道を降りて往けば港の何処に到達するか、この道は海側から数えて何番目の街路なのか、どの旅館が民宿が、その何番目にあるのか、パンを買うなら、お弁当を仕入れるなら何処へ行けば良いのか。言葉で説明は難しくても、そこへは最短距離で到達出来る。
もちろん、住民程ではないが、この40年近い時での町の変化も記憶している。

以前にも書いたけれど、この町の開放感は、やはり南の噴火湾に向けて開けた緩やかな南斜面にあるだろう。その斜面の中程を鉄道と幹線国道が並行して走り、市街地はそれの下側と山側に隔絶されるから閑静なのだ。
自前の海での漁獲を思えば、南仏プロブァンスとでも形容したいところだが、その気候からなら、英国海峡に面したノルマンディの海辺の町のイメージである。これも前に書いた。
近年に整備された「釣り突堤」の先端に立って振り返り、コンサートホールのステージから客席を見るように、その傾斜した市街地を眺めれば、雲間からのスポットライトのごとくにコントラストの強い光があればなおさら、その感を強くする。

現在、その上部が噴火湾展望公園として整備されている段丘には、かつて室蘭本線の旧線路盤から急坂の山道が開かれていて、それを登坂して往けば、足下でR600でカーブする弁辺トンネル出口からの線路を俯瞰出来た。この林道然とした山道が何処まで続いていたかは知らぬのだけれど、かなりの勾配にもかかわらず自動車の轍が残されていたゆえ、何らかの実務的な目的に開削されていたものと思う。
今では、町道の改修にてそこへの入口が変わり、上部からの見通しも効かなくなっている。それの行き先は当然、展望公園である。

列車は、5D<おおぞら5号>。この頃が、道内における80系特急気動車の全盛期と言ってよかろう。
浅い春の冷たい雨の日と覚えている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1984

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1998年4月1日付での周遊割引乗車券制度の廃止は、誠に残念なことと言わざるを得なかった。北海道への撮影行は、均一周遊乗車券なしには考えられなかったからである。
札幌在住当時には、そこではこれを手に入れ使えぬことに大きな不公平感を抱くような存在でもあった。
発地より根室を往復する運賃/急行料金の合算額をやや上回る程度の発売額にて、道内全ての国鉄線と同自動車線で(*1)普通急行列車普通車を含む自由乗降の効力を持ち、(*2)20日間に及ぶ有効期間は、夜行列車利用を前提にすれば、これだけでその間を暮らすことが出来た訳で、鉄道屋に限らずこれを実行された方は多いはずである。
さらに付言すれば、その期間の長さから、むしろ夏期割増と換言すべきとも思えた、10月1日から5月31日までに2割引となる冬期割引があった。発売日基準の割引であったから、6月の旅にも適用されたし、これを7月に使う裏技も存在して、それへの賛否が雑誌上を賑わしたものである。

(*1)普通急行列車普通車を含む自由乗降 - 1970年代後半に急行列車の廃止/特急格上げが進展すると、北海道と九州内の均一周遊券は1981年4月1日使用開始分より、その他の同券については1982年4月1日使用開始分より特急列車普通車自由席の利用が認められた。
(*2)20日間に及ぶ有効期間 - 当初は発地により異なっていたが、後に自由周遊区間近接の発地を除いて20日間に統一。末期には14日間に短縮されていた。(それぞれの施行日は調べ得なかった)

もうひとつ忘れてならないのが、首都圏発であれば常磐線を含む東北本線/福島からの奥羽本線/上越・信越・羽越線の日本海回りから選択が可能な青森までの乗車経路で、行き帰りにその経路上での撮影も楽しめたのだった。
これで注目すべきは、発地が仙台市内となる発売で、当時仙台と秋田/青森県内を結んでいた多層建て急行列車の全ての経由運転線区が経路に含まれており、仙山線に陸羽東/西線、北上線、田沢湖線、それに花輪線の横断線の利用が可能であった。これら横断線に奥羽線や羽越線のポイントを組み合わせるならば、場合によっては都区内と仙台市内間の運賃料金を別払いしても、これの方が安く上がることが分かり、日本交通公社の仙台支店に郵送での販売を依頼して手に入れていた。例えば、仙山線と陸羽西線に加えて矢立峠に立ち寄ろうとすると、発地の都区内発売では経路に東北本線を選んで上野を発つゆえ、これから外れる区間となる、仙台-羽前千歳-新庄-余目-青森間を別払いせねばならない。周遊券発売規則上、決して仙山線に陸羽西線区間だけではないゆえであった。

写真は、周遊券とは車の両輪であった道内夜行急行の一角、ED76 500番台の牽引で札幌駅1番ホームに到着した318列車<利尻>である。1番ホームの旭川方に在った0番ホームから撮っている。
北側に高架設備の躯体が立ち上がっており、使用停止の予定される地平設備は、既にメンテナンスが省略されつつあり、夏草の育つ構内は宛らローカル駅の如くであった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

国縫 (函館本線) 1994

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国鉄の分割・民営化時点で予想されたことではあるが、以来四半世紀が経過して沿線での撮影は徐々に制約が大きくなりつつある。
具体的には、列車の走行空間なり鉄道用地とそれ以外のパーティションとしての境界柵/フェンスの設置である。これはその上空にまで及んでいる。
100年以上も前に制定された古い法律である鉄道営業法(明治33年3月16日法律第65号)の第35条を具現化したと言えばそれまでだが、その100年間は放っておかれたものでもある。

近年の急速な展開は、広義には株式会社としての(将来の株式公開への備えも含めて)株主対策を背景にしており、所謂危機管理であって、将来予測し得る訴訟への予防策なのである。
かつても、駅構内などに枕木の古材にて組んだ仕切り柵は存在していて、その上に腰掛けて「汽車を眺めた」記憶をお持ちの方も多かろうと思う。それは現在の完全に遮断/遮蔽するようなフェンスの類いと異なり、高さも低く、すり抜けられる隙き間も在るものであった。
民営化後の旅客/貨物鉄道各社から経営上の機密を事由に、一定の統計の公表されなくなった事実が、フェンスによる遮断と軌を一にしていると言えば、それは少々穿ち過ぎだろうか。

さて、そのパーティションは決して鉄道屋の排除を目的としたものでは無いのだけれど、古い鉄道屋として線路端から眺めれば、それは永年馴染んだ場所から外へと追いやられる結果となった。残念では在るが受け入れる他はない。
実際には、線路に接近しての撮影の機会などはそれ程に無く、むしろ平地での俯瞰ポイントとして跨線橋や跨線道路橋の方が欠かせない。電化区間、特に交流20000Vの架空電車線のあれば、従前よりそこには注意表記のあるフェンスの設置があったものだが、最近では非電化区間のそこにも設置が進んでいる。しかもそれは、交流区間のものより全高のある始末で、勢い脚立とオーヴァーヘッドサイズの三脚を機材に加えざるを得なくなる所以である。

ここ、国縫構内下り方に架かる国道230号線の国縫跨線橋は、乗降場からのR800曲線を俯瞰する定番ポイントであったのだが、ここにも数年前に路面からであると全高2メートル程になるフェンスが設置されてしまった。
路幅の無い跨線橋ゆえ、開脚面積を取る大型三脚は立てられず、脚立上からの手持ちに頼るしかなくなっている。

列車は、5列車<北斗星5号>である。まだフェンスの無い頃に。

[Data] NikonF4s+AFNikkor ED300mm/F2.8 1/500sec@f4-5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopLR3 on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1985

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蒸機撮影の頃、大半の撮影者は2台のカメラで撮っていた。ひとつの三脚にセットするか、複数のそれを立てるか、それぞれではあった。スタジオ撮影用のジッツォにバケペンを乗せ、3本の脚にクランプで3台の35ミリをセットしていた猛者や、10メートル程離れた場所に、もう一台の三脚を立て、トランスミッタの無い時代ゆえエアレリーズのチューブを伸ばしてシャッタを押していた例も実見したことがある。
もちろん、少ない撮影チャンスでカットを稼ぐためであり、それぞれのカメラには、異なる画角のレンズがセットされていたり、カラーとモノクロのフィルムが装填されていたのである。

新参の撮影者としては、早速にこれを取り入れ、2台の三脚を持ち歩いていたことがある。それぞれのカメラでフレーミングを異にしたいとの事由からである。けれど、直に機材が増えバッグ(当時はご他聞に漏れず銀バコである)も大型化すると持ち運びが困難となり、スリック社の販売していたスリックプレートなる芸の無いネーミングの機材を購入し、これを直接に三脚に取付け、そこにふたつの雲台を載せることにした。
以来40年余り、現在でも撮影はこのスタイルである。

当初はスリック社製の中型の脚/ベルボン社の雲台の組合せであったが、脚の売りであったセンターポール部と各脚部間の補強ステーが邪魔で、クィックセット社のハスキーを知ってから、それに差し替えた。ただし、それの雲台は重量が1キロを越え高さも15センチ近くあって、さすがにこれを2台搭載する勇気は無く、この際にジッツォ社の平型雲台の最も小型のものを導入している。
ハスキーの脚は、その重量に見合う強度とも満足の往くものであったけれど、次第にエレベータとその長いセンターポールが気になり出して、結局のところジッツォの今で言う3型クラスに替えてしまった。
このモノクロ撮影の最後期以降がこれに落ち着いた時期に当たる。

このカメラ2台撮影にも問題は在って、それはレリーズのタイミングが僅かにズレる場合に生ずる干渉によるブレであった。特にミラーショックの大きいF2のレリーズが先行すると、それがプレートを介して伝播し後のレリーズ側にカメラブレを生じさせるのだった。レリーズ間隔が1秒を越せば問題は無かった。
カメラ自体や雲台そしてプレートにもウェイトを掛けるなど対策は取るのだが、脚自体の設置環境によっては避け得ないことも在って、それの予想される際の最終手段は先行レリーズ側カメラのミラーアップであった。
同様の事例は、後にF4などのオートワインド機構でも発生した。それによる振動を拾ってしまうのである。こちらはフィルムアドヴァンスの一時キャンセルで凌いでいた。
これに限らず、根本的には三脚撮影の弱点としての雲台カメラ設置面の部材(通常はコルクなりゴムである)に問題があり、試行錯誤もしたのだけれど、正解は未だに見いだせていない。

写真は、南稚内 (宗谷本線) 1985のカットと同時に三脚にセットしていたカメラでの撮影である。それの85mmに対して180mmの画角になる。
85mm側をメインにポジションを取っているので、この180mm側は客車が一部切れてしまっているが、十分使えるカットである。
一日に1本の列車への2台撮影は、やはり止められないでいる。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8 ED 1/500sec@f8 Fuji SC42filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1978

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小平とか初山別には夏場も行っているのだけれど、鬼鹿には冬ばかりだった。とりたてて意識した覚えはないのだが、D61重連の運炭列車目当てに、初めて訪れた際の写真どころではない強風と吹雪に強烈な印象のあるせいなのだろう。
1970年秋の築別炭礦の衝撃的な閉山による、それの運行停止後の訪問も冬を選んでいる。→鬼鹿(羽幌線) 1973

五万分の一地形図「港町」図輻に、その記号は見られないものの、ここには温泉が湧いていたのである。
駅の名所案内標に「鬼鹿温泉(南0.5キロ)」の表記があって、訪ねてみたことがある。そこには、鬼鹿観光ホテルなる宿泊施設が建ち、これがイコール鬼鹿温泉なのだった。その範疇であるかは疑問だが、いうなれば一軒宿の温泉である。吹雪に荒れる海を眺めながらのひと風呂は、当時の旅にしてみれば一級の「贅沢」と言えた。
泉温はそのままでは入浴に適さず、加熱を要していたけれど、大浴場脱衣所には温泉法に基づく掲示がなされていたから「温泉」には違いない。
勿論、宿泊施設なのだが、むしろ今に言う日帰り入浴の需要に依存していた感があり、小平側に町営の「ゆったりかん」なる入浴施設が開業して客足が遠のき、廃業に追い込まれたらしい。羽幌線廃止後の1990年代末のことと聞く。

鬼鹿に限らず、羽幌線沿線には板囲いの家屋が多々見られた。もちろん、冬の強風への備えとしてである。波飛沫混じりの北西風を永年に受けたであろうそれは、汐枯れした渋みがあった。
構図を探して歩き回ったけれども、列車の時間が迫って、人も車も通らない路上からのカットになってしまった。

列車は、鬼鹿上り方に在ったホンオニシュカッペ川橋梁上の4802D<はぼろ>。幌延から羽幌線を通しての札幌行きである。
所定は2両組成なのだが、この日はさっぽろ雪まつり対応の増結があり、留萠回転車を羽幌線内に延長、さらに1両を加えた4両編成にて運転された。
網走からの<大雪>、遠軽〜興部からの<紋別>と併結となる函館本線区間では、それぞれへの増結も在って14両の長大編成だったはずである。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.


濁川 (渚滑線) 1972

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これだけ北海道へ通っていても、そこの国有鉄道線の全ての線区を撮ってはいない。勿論、1980年代に相次いだ日本国有鉄道経営再建促進特別措置法に基づく地方交通線の廃止以前の話である。
これで、その全てが特定地方交通線とされた行き止まり線区においては、その貨物列車の設定は、蒸機の時代においてもいつ走るや知れぬ臨時であったり、定期のスジが引かれていても運休の多く、またそれの設定すら無い線区も存在して撮影を諦めていたのである。貨物列車のなくなってからは単行の気動車が往復するばかりとなって、どうにも食指が動かず、結局のところ美幸線や相生線、富内線は足を踏み入れることなく終わっている。
列車回数、即ち撮影チャンスはそれなりに在ったのだけれど、道央で函館本線から分岐していたヤマ元への運炭線の多くも撮っていない。これらは、その沿線のロケーションがどうにも気に入らなかったのである。
対して、車窓からロケハンしてポイントを見つけておきながら、ついつい撮りそびれてしまった線区もある。長大線区だった広尾線に池北線である。池北線は、それが第三セクターの経営に移行した後に訪問を果たしている。

撮影の前には一通りロケハンをするので、大半の線区/区間は乗ってはいる。それでも道内線区完乗に至って居ない。それが目的ではないゆえだが、上記の三線全線の他、ロケハンの都合上線区の末端部を乗り残してしまうのだった。瀬棚線の北檜山-瀬棚間や標津線の中標津-根室標津間、名寄本線の中湧別-湧別などである。
現存の線区でも、江差線の湯ノ岱から先は未だに乗らず仕舞いでいる。

渚滑線も、その手前に白樺の大きな独立樹を見つけて濁川で降りてしまい、北見滝ノ上までは未乗のままとなった。
濁川から線路上を20分ほど戻ったそのポイントは、白樺の木を蒸機と並べる構図を想定してのことだったけれど、背景がどうしても気になって、空に抜いてしまった。蒸機の黒をバックにして分かるけれど、降雪の空である。

ここの貨物列車は、北見滝ノ上までの一往復設定で、ほぼ毎日に財源を持って運転しており、名寄本線と共通運用にて名寄機関区の9600形が入線していた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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