"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

長万部 (函館/室蘭本線) 1993

osyamanbe_06-Edit.jpg

蕎麦は「三たて」と言われる。けれど、これは極く近年のことで、とても怪しい。「包丁下を煮てはならぬ」と言う蕎麦屋の格言があり、水の切れない蕎麦は喉越しの香りもたたない。

蕎麦好きで、麻布の更科堀井や永坂更科、芝大門布屋に通った身としては、「もり」なら水切りなのである。
勿論、そこの名目(メニュー)にある訳ではないのだが、立込みの時間を外せばリクエストが出来たし、そうでなければ蒸篭を酒に蕎麦前とオーダーして呑みながら、水気を飛ばすように箸でつまみ上げつつ自分で水を切るのである。
適切に茹でられ、水分を吸収してしまう前に水切れのした蕎麦は、のびてしまうでなく実に美味い蕎麦の味がする。完全に水切れしたそれは、勿論固まってしまうのだが、箸を水で湿らせて蕎麦をほぐしながら食すれば良い。
のびてはいないのだから、それはさばさばと復活する。
江戸期における成立時に目籠詰・折詰を看板に出前を主体に営業していた更科の蕎麦とは、そう言う蕎麦でなのある。
まさか船便ではなかろうが、戦前には中国大陸まで、戦後にはハワイにまで出前した記録が残るそうである。

さて、このような水切りした蕎麦は、なにも江戸の更科蕎麦だけのことでなく、挽きぐるみの生粉打ちと思われる田舎蕎麦にも存在する。知る限りでは岩手県南部地域や山形県の置賜地方には「茹で置きの蕎麦」がある。他に知らぬだけで、東北地域には広く存在するのかも知れない。
とある旧家で馳走になったのだが、茹で置きを乱暴にも水で戻したそれは、歯切れ良く腰のたったものであった。寄り合いの仕出しで何十もの折詰の配られるのも目撃している。それもしっかりと水切りされ、ひとつまみずつ丁寧に折り畳まれるように詰められて往くのだった。
記憶は定かでないのだが、幼少の折茨城県北部での葬式後に配られたのも蕎麦折詰ではなかったかと思う。

長万部駅前所在の「そばの合田」には「折詰もりそば」がある。現在では駅での立売りは止めてしまったようだが、特急車内のワゴンサーヴィスが取り扱っているし、勿論店頭に往けば買える。
これも、1931年の販売開始に際しては田舎蕎麦の茹で置きを折詰化したものと思われる。創業者が何処から移住したものか調べ得ないが、東北地方出身の方ではなかろうか。
少々苦言めいてしまうのだが、麺の細くなった今の「折詰もりそば」には、もう少し水切れを確かにしていただけぬかと思う。割箸を先端の細い丸箸に替え、それを湿らす水の添付があればなお良い。

長万部川の流路を付け替えた新長万部川は洪水対策の放水路としての人工河川で、普段には干満の在る静かな水面が広がる。
人工ゆえか、その川岸は情緒には欠けるようだ。
列車は、5列車<北斗星5号>。

-参考文献-
そば屋の旦那衆むかし語り 藤村和夫 2000 ハート出版
蕎麦年代記 新島繁 2002 柴田書店

[Data] NikonF4s+AINikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

上野幌 (千歳線) 1992

kami_nopporo_06-Edit.jpg

ここへの記事に電気車両の登場することは、あまり無い。
それを好まぬ訳ではないのだが、この1996年までの期間で(そして、それ以降も)ほとんど撮っていないのである。1960年代後半から70年代に地方幹線の電化が進展する中で、唯一とも言える非電化幹線の残存した北海道にあってまで電気車でもなかろう、と言うのが正直なところだった。
勿論、そこの電化区間で被写体を待つ間に、それがやって来ればシャッタをレリーズしては居たけれど、そのために沿線に立つことはなかったのである。

写真屋の中の鉄道屋ならとっくにご承知であろうが、電化線区での撮影では架線柱や電車線路など電気運転設備の画角内での処理に加えて、電気車両なら集電装置の架かる位置など、フレーミングばかりでなくレリーズタイミングにも留意せねばならない。撮影意図と相反する制約が多々在る。
フレーミングの自由度の高い非電化線を撮ろうと思えば地方交通線になってしまう本州内線区と異なり、そこに特急列車も貨物もやって来る幹線系線区が在れば、それに眼の向くのは必然だったのである。

1988年度に北海道旅客鉄道へ721系近郊形電車が登場した頃には、東海旅客鉄道に311系、西日本旅客鉄道に221系、九州旅客鉄道でも811系など、一様に転換式クロスシートを採用した系列が都市近郊輸送に投入され、首都圏近郊輸送をはじめ地方都市圏にすらロングシート車を配備する東日本旅客鉃道管内の利用者としては、大いに羨慕の感を以て眺めたものであった。
721系電車でのクロスシート採用は、多分に空港連絡列車への運用を意識したものであろうが、通勤輸送に兼用されるには違いない。
これ以降に新造の731系や最近の733/735系が出入台仕切壁を廃したロングシート仕様とされているのは残念ではあるのだが、札幌圏での通勤通学輸送の混雑を思えば致し方ないのかも知れない。

写真は、上野幌の中線に入った2772M千歳行き、それを退避させて通過する3920M 快速<エアポート>新千歳空港行きである。92年7月からの<エアポート>運用は、この系列の本務とも言えるもので、同年増備の6両固定編成は同運用の小樽ないし札幌-新千歳空港間の設定にほぼ専用された。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec@f11 Fuji Sc56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

西の里信号場-北広島 (千歳線) 1995

kita_hirishima_04-Edit.jpg

千歳線の北広島が所在する北広島市は、1996年9月1日に札幌郡広島町が市制を施行したもので、広島市に移行と同時に現市名に改称している。勿論、広島県広島市が従前より存在するゆえである。この市名は住民からの公募で最多数を得た結果と言うが、市民の大多数が広島市より「北」の広島を意識するはずもなく、それはやはり北広島の駅名に負うところ大なのであろう。
北海道鉄道が、1926年に第二期線として開業した札幌線に、当時の広島村内への停車場を開設するにあたって北広島駅の名称を付与したのは、国有鉄道線に広島駅の存在したためで、鉄道省監督下で国有鉄道と連絡運輸を実施する私設鉄道は、重複駅名を名乗る訳には行かなかったのである。
これを、例えば石狩広島などと名乗らずに、「北」を付した意図や経緯の知りたいところではある。おそらくは、1915年開業の武蔵野鉄道東久留米の前例を意識もしたであろうが、むしろ北海道鉄道=北鉄の広島駅とする意図ではなかったろうか。いずれにせよ、この決定が遥か後年の北広島市を規定している。
余談だけれど、2005年の2月1日付にて広島県の芸北地域に4町の合併にて北広島町が成立している。この時点で札幌郡広島町が存続していれば、南西遥かに「北」広島町が登場する、何やらややこしいことになっていたはずである。

北広島近傍の輪厚川橋梁は、1972年に旧線から切替えられた新線上に位置し、旧線の流水部のみのプレートガーダー橋に対して、その氾濫原をも越えるPCコンクリート構造で延長は363メートルに及ぶ。この架橋に合わせて橋梁下の輪厚川の河川改修が施工され、氾濫原に築造されていた旧線の築堤は撤去されている。
架線柱もないこの頃には、北側なり南側の丘から巨大な橋梁全体を画角化しての撮影が楽しめた。ほどなく氾濫原は圃場に整備されるのだが、それは時を経ずして宅地に転用され、1990年代の前半時点で既にそこには住宅が建ち並び、河川を渡る橋梁と言うより住宅街を貫通する高架橋の様相となっている。

写真は、輪厚川橋梁上の8002列車<トワイライトエクスプレス>。
DD51機は前照灯の不良なのか、片目点灯である。前部標識灯は一灯以上が点灯していれば良いので、運転規則上の問題はない。

この橋梁を橋脚までフレーミングしての撮影はもう無理だけれど、橋梁上のR800曲線は編成を捉えるには有効ではある。
切替直後の同橋梁は西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972にある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1970

minami_wakkanai_04-Edit.jpg

南稚内からの宗谷本線は、R402の曲線で右に回って天北線と別れ、クマザサに覆われた宗谷丘陵に分け入って往く。R302の比較的大きな曲線を左右に繰り返しながら10パーミル勾配を上り、旭川起点251K096Mで海岸段丘上のサミットに達し、この付近が車窓に海上の利尻島を見る地点となる。
クマザサの低い丘陵が続く独特の景観は、度重なった火災により樹木を喪失したものと言われ、この区間に限ればそれは1911年5月15日に出火した山林火災に端を発する「明治44年稚内大火」によるらしい。
当時の報道には、この山火事の(*)出火地点の記載はないけれど、一旦鎮火したものが17日午前11時頃に再び出火し、猛烈な南風にて山林原野を焼失の後に、午後1時半に至って市街地に延焼して全てを焼き払い、午後5時に市街地北端の漁場に到達して鎮火したとある。焼失戸数は全市街の700戸あまりに及んだと言う。
更喜苫内原野の西縁部に宗谷本線が開通するのは、それから十数年後の1924年6月25日のことであった。

(*)出火地点の記載はない - 増幌原野が全焼、更喜苫内原野半焼との記述はある。南風に煽られたとすれば、声問方向増幌原野内から出火と読めないことも無い。

樹木を失った丘陵地帯を犬師駒内(エノシコマナイ)川の谷沿いに線路の敷設されたこの区間では、見通しが効くゆえにどの丘に登っても同じようなカットが撮れそうではあったが(事実積雪期はそのとおりである)、丘陵下の湿地帯の存在とクマザサの深いことでポイントは限られていた。南稚内からそう遠くはない起点254K付近の送電線の丘、ニコニコポイントこと251K500M付近の利尻を画角に捉えられる丘、そして利尻を望むサミット付近であろうか。

写真は、宗谷湾を望めた送電線の丘からの撮影になる。ここには、その保守用と思われる草道が湿地を渡って通じており、それを伝って到達出来た。盛夏だけれど、海風の心地よさを良く覚えている。
列車は、この頃小樽行きであった324列車。機関車は深いキャブの屋根形状から流線型として新製のC5530と知れる。
この頃まではカラーネガをモノクロと併用していた。

現在でも右端の稚内高校は変わらないけれど、その周辺からこのポイント背後に新市街地が形成され、列車位置の後方付近には跨線道路橋が架けられている。この時代からは想像もつかない。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Non filter Kodak unknown film(ISO100) Edit by PhotoshopCS3 &LR3 on Mac.

白石 (函館本線/千歳線) 1995

shiroishi_2-Edit.jpg


1992年7月1日ダイヤ改正においては、南千歳-新千歳空港間の地下線による千歳線支線が開業し、新千歳空港と札幌方面間に空港連絡快速列車<エアポート>が有効時間帯のほぼ全般に渡り15分ヘッドでの運行を開始した。
同区間を130km/hの最高運転速度により約36分で結ぶ高速列車の頻発運転により、千歳線の同区間内では、上下列車の退避に対応した西の里信号場の設置を始め、サッポロビール庭園にも上下線への退避線を配備、島松では旧貨物列車着発線を上り(札幌方面行き列車)待避線へ転用し乗降場を新設、白石にも第二乗降場を減輻して千歳線上り線に待避線が設けられるなどの設備改良がなされた。
これにより、棒線駅を除く全駅で上下列車への退避が可能とされ、全国的にも希有な線区/区間となっている。本来ならば、複々線化により緩急ないし客貨分離を要する程の列車毎の運転速度差と運行頻度があるのだが、この設備でなんとか凌ごうと言うのだった。
車両運用では、運転性能の劣る711系電車の乗入れが制限され、また貨物列車用の高性能機関車の投入が急がれていた。

ここ白石では、千歳線上り線への待避線設備に際して、用地の制限から札幌方面列車用の第二乗降場を減輻した関係で、その苗穂方に千歳/函館線側とも線路に接しない部分を生じていて格好の撮影位置となっていた。広々とした4線区間を、その線路間から撮れる貴重なポイントでもあった。
待避線の設備前→白石 (函館本線/千歳線) 1988よりも引きが取れる位置で好ましいのだけれど、この時点では構内に隣接して南側にマンションが建設され、午後から夕刻の斜光線は遮られてしまうのだった。
この位置は、一日の乗降人員が6000人を越える駅とあって、後には柵にて仕切られるのだが、この頃にあっては駅長事務室に断りを入れれば、ホームから降りぬことを条件に立入りは許可された。

列車は、2列車<北斗星2号>。ここは、14時過ぎの8002列車に対しても、夏至の近辺でないと機関車に陽は当たらなかった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor ED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopCS3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1985

sapporo_03-Edit.jpg

塩谷 (函館本線) 1983から続く。

さらに海水浴臨時列車を続けるが、ここでは、千歳 (千歳線) 1985でパスしていた、14系客車による海水浴臨時列車と、これに関連する博覧会観客輸送列車に触れる。

蘭島への海水浴客輸送の臨時快速列車<らんしま号>運行に、14系寝台車/座席車による夜行急行編成が運用されたのは、1985年の夏臨設定期からである。
14系はもとより、対象を拡げても寝台車(組成)編成による昼行臨時列車の運転は、新大阪-下関間急行<音戸>編成による宮津線海水浴臨<はしだてビーチ>、上野-仙台間急行<新星>編成を使用した上野-白河間多客臨時急行<しらかわ>の例を見る程度である。

きっかけは、その前年夏に小樽市内二つの会場で開催の「小樽博覧会」への観客輸送に設定の専用臨時列車<スリッピ号>の一部に、<大雪>編成を昼間間合いで運用し、その全車冷房のサーヴィスが好評であったことと思われる。
この列車は、同博覧会の勝納会場近くの小樽築港-浜小樽間旧貨物支線上に(*1)「小樽博覧会会場前臨時乗降場」を設け、同乗降場と札幌間に設定されたもので、84年夏臨期に7月21日から8月26日まで、9101・9102<スリッピ1・2号>と9106<スリッピ6号>としての運転であった。9106の折返しは回送である。機回しが不可のため前後に機関車を要した。
なお、この<スリッピ号>には他に80系を含む気動車編成も使われた。

(*1)「小樽博覧会会場前臨時乗降場」 - 営業上は、単に「会場前」と称した。小樽築港-浜小樽間貨物支線は、84年2月1日付にて廃止が公示されており、この時点では小樽築港の構内側線の扱いであった。よって、この乗降場は小樽築港と同一駅と見なされ、臨時乗降場の名称は構内の「臨時」の乗降場を指すものと思われる。通達に依れば、その設置は84年6月10日、廃止は同年8月27日とある。

さて海水浴臨<らんしま号>には、85年/86年夏臨では、朝の送込み輸送に<まりも>編成が、午後の引上げ輸送に<大雪>編成が使われ、それぞれ片道は回送運転であった。ともにシーズンに7日間の設定である。
87年夏臨になると大幅に設定が増やされ、<大雪>編成が16日間、<まりも>編成と夜行臨時<すずらん>編成がそれぞれ8回-8日間ずつの往復運用となり、これらは余市の構内に昼間留置となった。
88年夏臨からは、当時寝台車組成のなかった<はまなす>編成のみがこれらに替わって使われた。<大雪><まりも>編成は、88年3月13日改正にて所定編成の減車が実施され、(*2)折からの14系の逼迫した需給により夏臨期といえども増結に限界があり、海水浴臨としての輸送力不足によるものと推定している。よって、寝台車組成編成の運用は、現在までこの3シーズンのみの記録となっている。

(*2)折からの14系の逼迫した需給 - 千歳 (千歳線) 1985脚注(*4)参照

写真は、苗穂から回送で9842列車<らんしま6号>として札幌に入線する<まりも>編成。この85年の設定では、札幌に到着した<まりも>は札幌運転区に向うこと無く、一旦苗穂に引き抜かれ、この間にリネン類の撤収/車内清掃を行った上で札幌に回送されていた。牽引機も<まりも>を牽いて来た釧路機関区のDD51の仕業である。同区配置機関車の函館山線運用も他に例はないと思われる。
肝心の列車編成は、ヘッドマークの掲出もなく、外観は<まりも>と何ら変わりが無い。この当時の釧路区のDD51にヘッドマークステーの設備されないゆえである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor300mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

塩谷 (函館本線) 1983

shioya_03-Edit.jpg

臼谷 (羽幌線) 1969から続く。

海水浴臨時列車を続ける。

蘭島海水浴場への送客/迎客の臨時列車運行は、1900年代初頭のそれの開設当時より記録があるらしい。
知る限りの近年においては、札幌方面との余市着発の設定で、気動車編成によるものもあったが主には客車列車であり、古くは札幌運転区や岩見沢客車区の在来型客車の予備車や運用間合を活用して設定されていた。これに<らんしま号>の愛称が付与されたのは、70年代後半のことではないかと思われる。

1978年度から岩見沢客貨車区に投入されていたオハ51/オハフ51による運用は、同区へ増備後の81年のシーズンからとなり、予備車の捻出はならず定期列車の小樽-余市間を延長しての設定であった。札幌近郊区間の通勤通学輸送には、ED76の牽引にて8から9両編成が見られたけれど、DD51機の牽く非電化区間での長大編成は、この<らんしま号>ならではであった。
惜しむらくは、定期列車の延長ゆえか小樽以北のED76は勿論、延長区間のDD51にもヘッドマークの掲出はなかったことである。駅の掲示や車内放送では<らんしま号>と案内していたけれど、時刻表の記載は延長運転のみであり、正規の(?)<らんしま号>ではなかったのかも知れない。

写真は、塩谷場内に進入する9824列車。これも岩見沢から小樽への824列車を区間延長したものである。岩見沢客貨車区の[札32][札33]の併結運用だが、10両組成は定期運用にはなく、どちらかの運用に事前に増結していたものであろう。
この編成は、余市に留置されるでなく夕刻の運用に向けて小樽へ引き抜かれていた。海水浴客の引上げ輸送には、客車編成とは限らぬが、また別の運用間合いにある編成が送り込まれるのである。
塩谷下り本線で待機するのは、長万部からの135列車。こちらも[札32]による4両編成である。[札32]は4組使用の運用につき、こういうこともある。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f11 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

臼谷 (羽幌線) 1969

usuya-Edit.jpg

内地に出て来て、ここでの海水浴と道内のそれとは「お作法」がだいぶ異なるのに気がつかされた。
湘南とか房総半島の浜で、テントを見ることはまず無い。ジンギスカンでなくともバーナーを持ち込んで料理する人々もいない。第一、焚き火なんてあり得ない。それは、例え夏場の海浜で行ったとしても、ここでは「キャンプ」の範疇、今時なら「アウトドア」行動に区分され、決してそれを「海水浴に往く」とは言わない。
各地の海水浴事情の見聞を多とするでないので、これは首都圏に限ったことかも知れず、青森県西海岸の五能線沿線ではテントを見かけたし、福岡市在住の友人は「海水浴にはバーベキュー」と言っていた。
道内の「海水浴」スタイルは、海の家や更衣室/シャワーなどが整備されない時代の、それの名残なのだろうか。

札幌周辺からの海水浴場といえば、近年では「あそびーち石狩浜」や「おたるドリームビーチ」が人気と聞くが、かつては銭函や張碓、蘭島と相場が決まっていた。旭川からであれば、瀬越や臼谷/小平/鬼鹿の海岸と言うことになる。
国鉄もシーズンには、これら海水浴場最寄り駅への臨時列車を運行していたのである。
旭川からの運転は、代々「かもめ号」の愛称を付与された快速列車で、羽幌線の羽幌までの設定であった。滝川-旭川間の電化まではヘッドマークを掲げた旭川機関区のC55が留萌まで直通で牽引していたが、以降は深川から深川機関区もしくは同区留萌支区のD51ないし9600となっていた。客車は旭川客貨車区の予備車と思われる8〜12両で、羽幌線各駅の有効長の関係から留萌での解結があったと記憶する。

写真は、臼谷付近での<かもめ号>。この日はD61の運用との事前情報を得ていたのだが、それは留萌までのことだったらしく、ファインダに現れた9600に動揺した覚えがある。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

御影 (根室本線) 1974

mikage_02-Edit.jpg

右のコラムにあるとおり、記事のカテゴリィは撮影年別に区分けさせていただいている。ここで1987年の記事はゼロとある。白状すると、これは永遠に「ゼロ」なのである。この年には一度も渡道していない。
その冬に釧網本線に向っているので87年内と思っていたのだが、調べてみると年の明けた1月のことであった。

本業のほうが多忙だったこともあるけれど、86年11月改正において、道内夜行急行に宗谷方面の客車急行、釧網本線の貨物運行は維持されたものの、函館山線優等列車と客車列車の全廃、根室本線貨物列車の削減、石北本線貨物の臨時格下げ、稚内/網走への客車列車の気動車化、80系気動車の定期運用離脱など、ターゲットが激減してしまったことが大きい。早い話が、撮る気の失せていた訳である。
この国鉄民営化の年には、道内に替えて高山本線に通っていた。そこには客車列車の設定こそないけれど、80系気動車や名古屋鉄道8000系による特急にキハ58/28の気動車急行、加えてDD51牽引の貨物列車もある列車運行と、その線路や各駅の設備が一昔前の亜幹線を思わせ、以前より幾度か撮っていたのだった。東京からそう遠い距離でもなく、本業の合間を縫ってのスケジューリングも可能だったのである。大垣夜行で岐阜から入り、高山駅前のホテルをベースに二日程撮って富山から急行<能登>で帰京するパターンである。時には<能登>を早朝の高崎で捨て、八高線に立ち寄ることもあった。

亜幹線と言うのは、公式の線区種別ではないが、戦前から1960年代の輸送力増強第三次長期計画の頃までは国鉄部内でも使われていた区分である。例えば、C57形蒸気機関車は、亜幹線向け旅客用機関車として開発された。
明確な定義は存在しないけれど、幹線に次ぐ重要線区で優等列車の設定や貨物列車の運転頻度も高いものの、線路設備は当時の運輸省による建設規程で乙線ないし丙線、国鉄による線路管理規程では3級線に当たる線区と言って良かろう。電化/複線化前の羽越本線や信越本線に中央本線、西の山陰本線に九州島内なら長崎本線など、60年代まで地方幹線の大部分がこの範疇にあった。
趣味的に見れば、薄い道床厚に40Kgレイルの単線で勾配/曲線改良もままならず、通票閉塞に信号場と補機で輸送を支えていた、鉄道の魅力を存分に感じさせる線区なのだった。
その残り香を十分に保持していたのが高山本線だったのである。特に高山以北の区間にその感が強い。

道内では、室蘭本線の長万部-東室蘭間や釧路までの根室本線などは、確かに亜幹線の範疇にあったのだが、視点を87年戻してみてもそのイメージは薄れてしまい、そこは近代化された幹線であった。独立島内の線区であるゆえだろうか。長万部-小樽間を含む函館本線に宗谷本線は、もとより幹線の風格を備えていた。

写真は、御影に到着する445列車、新得からの釧路行きである。帯広までのこの区間では朝の通勤通学輸送を担っており、客車の後部3両は帯広で解放される。
この線区が、辛うじて亜幹線のイメージを保持していた頃である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8-11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

函館 (函館本線) 1988

hakodate_03-Edit.jpg


国鉄の分割・民営化に際しての各旅客/貨物鉄道会社への施設や車両の承継準備は、1986年11月1日のダイヤ改正時になされた。旅客車は勿論各旅客鉄道が引き継ぐのだが、当然ながら機関車と一部の貨物車は旅客/貨物会社双方への継承があった。
道内配置のDD51形式液体式内燃機関車では、貨物鉄道への帰属が予定される鷲別/五稜郭の両機関区への配転が、小樽築港/岩見沢第二/旭川の各機関区よりなされたものの、逆に鷲別/五稜郭区から岩見沢区への3両(1006・1010・1052)もあって、その同一形式内での個々の車両の選定がどのような基準で施行されたものか興味深い。
いずれにせよ、1987年4月1日の北海道旅客鉄道発足に際して、同社は旭川運転所に6両、釧路運転所に3両、空知運転区(←岩見沢機関区)に16両の計25両のDD51機を継承した。
旭川所の6両は<大雪><利尻><宗谷>と宗谷本線名寄/石北本線上川への普通列車に5両使用/1両予備の仕業を持ち、釧路所の3両は<まりも>専用機である。
空知運転区の16両の定期仕業は、<天北>の名寄までのみの2両使用であったから、この両数の算定には、当然ながら一年半の後に予定されていた本州-北海道間連絡列車への使用分が含まれ、それの重連牽引も既定であったと推定される。

1988年3月13日改正からの、その本州-北海道間連絡列車<北斗星>の牽引仕業において、運行開始時点での内燃機関車の国鉄制式塗色を専用塗色に改めると、北海道旅客鉄道よりアナウンスされたのは同年6月半ばのことであった。当時注目の列車であったゆえ、新聞各紙が一斉に記事化したと記憶している。
最初の塗色変更機となったDD51 1141は88年7月1日付で出場し、これの報道公開もまた続報で記事化されていた。
実際の<北斗星>牽引は、続いて7月8日付で出場のDD51 1140との重連にて、7月9日の2列車/現地で10日の1列車が初仕業であった。これはデモンストレイションであって、この2両が当面重連を組んでいた訳では無い。空知区の全車の塗色変更の完了する11月までは、未変更機との重連仕業が多々見られた。

この青20号に金帯を巻き、運転台側面にシンボルマークを追加した塗色は、東日本旅客鉃道田端運転所のEF81の同様例と異なり、<北斗星>専用機としてのものでなく釧路所/旭川所配置車も含めた所属全機が対象とされ、同年度末までに完了した。原則として空知運転区での自区施工だが、一部を釧路車両所で行い、またこの期間に全検入場のあるものについては、その委託先である日本貨物鉄道の苗穂車両所での併施とされた。

今でも印象は変わっていないのだが、青色ベースの<北斗星>機関車ヘッドマーク(列車名標第二種丙)は、青20号の機関車に埋もれて映えることが無い。オレンジ主体の国鉄制式塗色にあってこそ生きていた。
同時期に、山陰本線の<出雲>では国鉄制式塗色に赤色系のヘッドマークが同化していて、これが逆にならぬものかともどかしく思ったものだった。

写真は、国鉄制式塗色機に牽かれて函館を出る、5列車<北斗星5号>である。
函館駅第二乗降場が健在であり、機関車列車は機回しの関係で4番ホームに発着していた。北海道旅客鉄道函館支社ビル裏手あたりからの撮影になる。現在は、機関車のすぐ横にまで第三/第四乗降場が伸びている。
函館 (函館本線) 1988と同一地点である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105nn/F1.8S 1/500sec@f8-11 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

北舟岡仮乗降場 (室蘭本線) 1989

kita_funaoka-Edit.jpg


室蘭本線の伊達紋別-稀府間 6K110Mの区間は現在も単線運転である。その全区間で海岸線を走り、ほぼ中間の約2キロメートルに渡って海浜に接した直線のレヴェル区間がある。

ここに最初に列車交換設備が置かれたのは、1944年10月1日のことで長万部起点57K400Mに設置の伊達舟岡信号場と称した。この函館-札幌間ルート上の他の例と同じく、アジア太平洋戦争末期の「陸運転換」に対応してのことであった。この信号場は短命で、戦後間もない1948年7月1日付にて廃止となり、交換設備は撤去されてしまう。この信号場が客扱いを行ったものか、廃止後にも乗降場として残されたものかは分からない。

その15年後、今度は函館山線に変わる函札間のメインルートとして、折からの高度成長経済に客貨とも増大していた輸送量に対応した列車増発から、再びこの区間での列車交換の必要が生じ、同位置に1963年9月30日付で北舟岡信号場が開設された。(*1)開始時期は不明だが、ここでは気動車列車が停車して客扱いもなされていた。
しかしながら、1984年2月改正におけるヤード系車扱輸送の廃止にて貨物列車が激減してしまい、同改正ダイヤにてここでの列車交換の設定は無くなり、(*2)1986年3月3日付で廃止、再び交換設備は撤去に至った。この際には、旧下り線側の乗降場が残され、同日付にて北舟岡仮乗降場として客扱は継続、北海道旅客鉄道の発足にともない1987年3月31日付にて正駅へと昇格している。

ところが、歴史は繰り返すもので、1994年3月1日改正で函館-札幌間特急列車の高速化が行われ、その関連にてここへ列車交換設備が復活したのだった。同年3月16日使用開始と記録されている。
伊達紋別-有珠の単線区間にある北入江信号場もほぼ同様の経過を辿っている。

(*1)開始時期は不明 - 1980年度との情報がある。
(*2)1986年3月3日付 - 北海道総局管内のみのダイヤ改正にともなうものである。

写真は、交換設備の復活以前である。海岸線に沿う直線区間は旧上り線の路盤跡で引きが取れ、開放的で気持ちの良い区間であった。
列車は、5160列車。既に過去帳入りしている、ワキ5000/ワム80000を連ねた紙輸送の専用貨物列車である。

=改廃日データは以下による=
北海道鉄道百年史 1976 国鉄北海道総局
駅名変遷辞典 1993 JTB出版事業局
北海道690駅 1983 小学館
北海道630駅 1993 小学館
日本鉄道旅行地図帳 No,1 2008 新潮社


[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1973

kitahama_02-Edit.jpg

かつては、稚内から網走方面へと、途中をバスで繋ぐ区間があるにせよ鉄道でオホーツク沿岸の旅を楽しめた。オホーツクの海を間近に望む区間はその一部に過ぎなかったけれど、今、それが可能なのが釧網本線の知床斜里から網走の間しか残されていないことに軽い衝撃を覚える。

北浜は「オホーツクに一番近い駅」なのだそうだ。確かに配線の整理されるまでの貨物側線は海浜に接していたし、その前後区間の路盤もそうである。
これを背後の海岸段丘に上ればオホーツク海を背景に撮れるのだが、国道もまた、そこを通過しているのである。石北本線の網走湖沿い区間も同様で、網走周辺の鉄道は、海面なり湖面なりと捉えようとすると画角にアスファルトの路面が入り込んでしまうのが難点ではあった。

これは処理のしようがない。受け入れるしかないのである。
真鶴トンネルの上部から東海道本線の俯瞰をすると国道135号線の新道が並行しているけれど、ここで東京へ向かう寝台特急群を撮るならば道路に自動車のひしめく様が似合うと思っていた。しかし、北浜で蒸機列車となれば、それの一台も走らぬ方が良い。

機材を乗せた重い三脚を押さえ込まねばならぬ程の強風下、10月も末でそれは冷たい雨混じりだった。北浜を発車した上り列車の通り過ぎるまで、自動車の並走せぬことを祈りながらシャッタを切っている。

列車は、混合634列車 網走行き。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/250sec@f4 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

計根別 (標津線) 1975

kenebetsu-Edit.jpg


アバレル大手のひとつに、株式会社キングがある。
戦後間もない1948年9月にキング染工芸社として京都市にて創業、1968年に自社ブランドPINORE(ビノーレ)を以て女性向けアパレルの製造販売事業に進出している。1978年の現社名への変更と染工業の流れを汲むテキスタイル事業分野の分社化を経て、現在では8銘柄のハウスブランドとふたつのライセンスブランド、それに三つのアクセサリーブランドを保持するに至ったアパレル事業分野にて、2012年3月期決算(グループ各社連結決算)で136億円あまりの売上を計上している。大手に違いない。

そのアパレル販売は、保有する幾つかのブランドを組み合わせた五つのチャンネル=店舗にて行われ、中核は、アパレルのPINORE・C'EST CHIC'A(セシカ)にアクセサリィのLUPYを扱うAVENUEを名乗る店舗である。全国で300店程と思われ、その面的な展開は同業他社の追随を許さぬものがある。もちろん全てが直営店舗ではなく、大半はフランチャイズ店、大手流通資本や地元資本と提携したテナント出店なりショッブインショッブの形態と推定されるのだが、それは大都市圏やその周辺のみならず、かなりの中小都市にまで及んでいるのである。
人口23000人余りの北海道標津郡中標津町にも、この店舗がある。

その出店先は地元資本である株式会社東武の運営する大型ショッピングモール東武サウスヒルズで、それは中標津市街地南側に隣接して立地している。このショッピングモールは、例えば首都圏近郊のそれと比較しても引けを取らない。1973年から市街地で営業していたショッピングセンターを、2005年に郊外へ移転開業したものと言う。服飾販売ではテナントの出店もあるのだが、ここでは東武直営の服飾売り場にAVENUEが存在する。ショッブインショッブ形態なのだろう。

Web上で1970年代の空中写真を検索し、現在の衛星写真と比較すれば明らかだが、その市街地は拡大している。旧市街地の周辺に新興住宅地と商業地が定着しているのである。特に国道272号線バイパス(中標津バイパス)の開通以降に、その沿線地区の開発が進んだ。東武サウスヒルズもその一角への進出である。
前にも書いたけれど(稚内 (宗谷本線) 1985)、それは周辺地域の広域における劇的な人口流失と表裏を成している。
既存市街地で、情報の速達化にともなう生活意識と様式の全国的平準化を背景とした都市化が進行し、一方で過疎を通り越した無人地帯が出現する。ここ中標津に限ったことでは無いこの現象は、それは都市が割拠する様相であり、もはやそこをルーラルエリアとは呼べるものではないだろう。ルーラルエリアを線で結んでいた鉄道の衰退するのは道理なのである。

なにより、中標津町は勿論のこと、隣接する別海町や標茶町/弟子屈町のみならず同種商業施設のない根室方面をも商圏とする東武サウスヒルズは、縦横に整備された国道/道道と自家用車の保有を前提に成立している。AVENUEで販売されるブランドを欲しているのは、そのような「都市生活者」なのである。

計根別から開栄仮乗降場に向かって、ほぼ直線の線路伝いに歩いて往くと原野の中から忽然と放牧地が現れる。夏ならば緑の空間なのだろうが、冬と在っては原野よりもそこが「空間」であるだけに寂しい光景だ。
列車は、327D中標津行き。
中標津町計根別の市街地は、この当時より明らかに縮小している。

[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4 1/30sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.



千歳 (千歳線) 1985

chitose_02-Edit.jpg

道内急行列車の体質改善のため1980年度から83年度にかけて投入された、基本番台車への極寒地向け改造にて500番台に付番の14系特急形客車は、寝台車系列が25両、座席車系列が59両に及んだ。
このうち80年度と81年度分は、函館-札幌間昼行急行置替用として座席車系列のみであり、30両が函館運転所に配置された。
当該の[函1]運用103・102列車<ニセコ>の8両編成-2組使用に対して予備率の高いのは、波動輸送が考慮されたためである。

これを使用しての臨時列車運転は81年春臨期より早速に開始され、室蘭本線経由の函館-札幌間8213・8212<すずらん59・54号>、8217・8218<すずらん61・62号>に5両編成-2組使用にて運用された。いずれも気動車運転からの置替で、<すずらん61・62号>は夜行の設定であった。
同年夏臨期からは8213に替えて、気動車による季節列車を本系列運用に組込み、6203<すずらん3号>としている。
以降、(*1)設定の濃淡(*2)組成両数、列車番号/愛称番号の変遷はあるのだが、ほぼ同一のスジにて昼行運転が86年夏臨期まで、夜行が北海道旅客鉄道への承継後の88年春臨期まで継続された。
昼行運転の設定中止は、86年11月改正にて同改正で定期運用を離脱したキハ80系気動車に置替られ、冬臨期設定からは臨時特急<北斗>としたものであり、一方の夜行運転については、87年夏臨期より、(*3)余剰となっていた2段寝台化未改造の寝台車も連結されるなど北海道旅客鉄道としては運転継続の意思を持っていたようなのだが、折からの海峡線開業ブームによる同線(*4)快速<海峡>運用車の需給不足により設定が困難となったゆえであった。
これは、やや間隔を置いてキハ56/27改造車による快速<ミッドナイト>の定期運転にて代替された。

(*1)設定の濃淡 - 秋臨期での設定は82年で終了している。また、昼行運転は気動車に戻されることもあった。
(*2)組成両数 - 6両組成運転の実績がある。最小編成は3両。
(*3)余剰となっていた2段寝台化未改造の寝台車 - 85年11月7日付での<まりも><大雪>の寝台車減車(座席車置替)によるもので、86年11月改正時点で予備車を含めたオハネ14-6両が2段寝台化対象から外され、余剰となっていた。余談だが、これらは、88年度に<北斗星>運用車増強用として系列間改造の種車となった。
(*4)快速<海峡>運用車の需給不足 - 14系は<はまなす>との共通運用にて<海峡>に2往復の設定があった。これの最大12両の組成があり、また、50系客車運用への増結車捻出の必要から同系運用の一部を置替えたことで著しい車両不足を生じていた。これにより同時期の道内夜行では座席車を(*3)の寝台車にて座席代用とするケースが多発した。

写真は、千歳駅場内における8202列車<すずらん52号>である。
この85年3月改正から86年11月改正までが、道内に於ける客車急行列車の最大運転本数を記録した期間で、臨時列車を加えると実に一日8往復の運転があった。
牽引するDD51 710は、1970年4月6日付での五稜郭機関区への新製配置以来、ここを動くこと無く86年度末に用途廃止となった。これも三つ目のカマであった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
続きを読む

京極 (胆振線) 1969

kyougoku_02-Edit.jpg

噴火湾岸から洞爺湖の東を北上し、シリベシ山(羊蹄山)を回り込むように室蘭本線と函館本線を連絡していた鉄道が存在していたとは、今では信じられない気がする。
もっとも、胆振線はこの連絡のために建設されたものでは無く、脇方鉱山の鉄鉱石の搬出を図った鐵道院による軽便線と沿線の林産資源の開発を目的としていた私設鉄道の戦時買収にて成立した線区である。資源の枯渇すれば、衰退は免れ得なかったと見るべきだろう。

この線区は往復を乗ったけれども車窓からは気に入ったポイントを見つけられず、蒸機時代に間隔を置いて二回、延べ二日間撮っただけで終わってしまった。それも函館山線撮影の「ついでに」のレヴェルである。
左右のデフレクタのステーに2灯の前照灯を乗せた倶知安機関区の9600にしても、岩内線への運用を小沢や倶知安峠で何度も撮っていたし、貨物の一往復の運転しかない胆振線行きは効率の面からも躊躇していたのである。

最初の訪問が、この1969年の冬で、区間列車もあって入り易かった京極まで出向いた。そこにポイントの当てが在った訳でなく、上りの<ニセコ>を見送った後に転戦可能な範囲からの選択に過ぎない。

写真は、京極の北岡方に外れた畑作地らしき地点(積雪の下で分からぬのだ)からのカットである。シリベシ山を画角に捉えたいところだが、午後から悪化した天候で中腹まで雲に覆われてしまっていた。
列車は、1890列車東室蘭操車場行き。山麓の傾斜地だけに場内直前まで力行している。この列車、京極に約1時間停車するゆえ南京極方に移動してカットを稼げるところなのだが、冬至も近いこの時期に在っては、それは日没間際となってしまうのだった。

倶知安機関区によるこの仕業は、伊達紋別から室蘭本線を東室蘭操車場まで直通しており、この区間で見られる唯一の9600であった。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1977

hirouchi_02-Edit.jpg

街中のマンション住いで、ひと夏蚊の一匹も見かけぬのだが、蜘蛛は同居している。油断すると天井の隅や書架の裏側に小さな蜘蛛の巣を架けられてしまう。室内ゆえ、それでエサの捕獲出来るはずもなかろうと思うのだが本能なのだろう。それが架けられるのだから棲息しているに違いないけれど、その個体を見ることは滅多に無い。部屋の壁を散歩しているのに遭遇したのは一度きりだし、夏の朝にベランダのサッシを開けるとそそくさとその隙き間に逃げ込むのを何度か目撃したくらいだ。
越冬している様子は無く、代々棲息している訳でもなさそうだから、それは時期になると飛来しているとしか思えない。
そう、小型の蜘蛛は糸を出して、それで気流に乗って旅するのである。

その大群での飛翔に二度ばかり出会ったことがある。一度は、陸羽東線の宮城/山形県境で、もう一度は北海道狩勝でのことだった。
8月も終わりの狩勝は晩夏と秋の交錯する季節で、午後の突然の驟雨の後にそれは始まった。衣服に細い糸が降り始めて、自分の身長より高い空中に異変の起きていることは感じられたけれど、空を背景にする限り何も分からなかった。振り返って樹林帯の手前に見てみれば、弱い光に反射しながら浮遊する無数の糸があって、その先端には小さな粒が見えた。そのひとつひとつが蜘蛛と気がつくには多少の時間を要したものだった。

彼らの生態には疎くて、せいぜい昆虫の仲間でないことを知っているくらいだ。それが、このようにして空中を移動するなど、この時に初めて知ったのだった。
越冬地を求めての移動だったのか、ある方向の、ある風速の風を感じて一斉に飛び立ったのだろう。その光景にはしばし見蕩れていた。

狩勝新線の建設以前からこの地に開かれていた種畜牧場は広大で、ここでのポイント間の移動にはひたすら歩くことになる。この日は広内信号場の上り方から通称-東山の林道への移動に手間取り、421列車を、東山からの俯瞰を予定していたはずの谷間川陸橋下で迎えることになってしまった。

この当時の421列車は、滝川を5時台に出て釧路まで9時間あまりをかけて走っていた。現在のダイヤで、このスジは帯広で乗換えとなる2421Dから2423Dに引き継がれているが、その所要時分は7時間7分となっている。これは偏に荷物扱いによる停車時間の差分である。

蜘蛛の飛翔を目撃するのは、この後林道の入口あたりでのことだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

大岸 (室蘭本線) 1989

ookishi_04-Edit.jpg


室蘭本線は、礼文の場内からR600の左回り曲線で、礼文華海岸の旧線を付け替えた礼文浜トンネルに至り、これを抜けると短い新達古武トンネルをくぐる。これが穿かれているのが茶津崎である。
「茶津」はアイヌ言葉の「チャシ(もしくはシャシ)」に由来しており、砦を意味する。高度が在って海岸線より迫り出した岬は、その地形から要塞や祭事場として利用されたらしい。
今に残る「チャス」「チャシ」の地名は道内各所に存在し珍しいものではないのだが、ここでは実際に岬上部に「チャシ」の遺跡が発見され、近年になって豊浦町により展望台や木道が整備された。道道608号大岸礼文停車場線脇から上部へ直登する階段も設置され、鉄道屋には主に大岸方を俯瞰する定番の撮影地となっているのは、ご承知のとおりである。
かつては、付近の集落から獣道のごとき草道が通じていたものの熊笹が深く、(*)旧線の達古武トンネル直上部付近まで進むのがやっとであった。

展望台から木道を岬先端に向けて辿ると、急坂を下ったあたりでコバルトブルーに澄んだ岩礁海岸を見る。その向こうは大岸第一キャンプ場で、室蘭本線はトンネルに向かって10パーミルの勾配が在る。

1984年2月1日改正におけるヤード系車扱輸送の廃止により大量の遊休貨車を生じた際に、継続使用された汎用有蓋車は経年の浅いワム80000の一群であった。それらは、主に製紙工場から大消費地である首都圏や関西圏へのロール紙輸送に使用され、この形式のみで組成された直行輸送の専用貨物列車を見るようになった。2軸貨車の単一形式による長大編成列車は、この改正での産物なのである。それまでは考えられぬ組成で、決して大袈裟では無く「夢のような」列車と思ったものだった。日本貨物鉄道への承継後にはファーストブルーの塗色で、さらに独特の編成美を見せていた。
苫小牧/萩野発着の5160・5161列車は、上下列車とも函館/室蘭線内を日中の走行となり格好の被写体であった。

列車は、上りの5160列車である。前位寄りにワキ5000の連結もある。この時点で18両のみの残された稀少車だった。

(*)旧線の達古武トンネル - 新線切替にて放棄の後、断面を改築して現在の道道608号線に転用

[Data] NikonF4s+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f5.6 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

FC2Ad