"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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中丿沢 (函館本線) 1991

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民営化を目前に控えた国鉄が、1985年度に於ける貨物固有経費での収支均衡達成に追いつめられて実行したのが1984年2月1日のダイヤ改正であった。年度末の3月実施を、本来ならば避けるべき積雪期の2月に、たかだかひと月を前倒ししたところに当時の切迫感が見て取れる。
この改正における貨物輸送の大幅なシステムチェンジは、鉄道の情景に眼に見える大きな変化を及ぼした。ヤード系車扱輸送の廃止にて、多種多様な2軸貨車を組成していた貨物列車が見られなくなり、使用停止された全国のヤードがそれらの遊休貨車で埋め尽くされたばかりでなく、幹線系線区においては、高速列車を退避していた最高速度85km/hの貨物列車の運転がなくなって各駅での待避線の使用停止が相次いだ。これは、民営会社となった87年度以降に不要固定資産の整理として撤去が加速されることになる。

道内発着の貨物が本州への連絡にて集中していた函館/室蘭線ルートにおいても、これにより、ほとんどの駅に設備されていた主に上下列車の待避に使用の中線ないし下り上りいずれかの待避線の撤去された駅は、五稜郭-長万部間で7駅、長万部-苫小牧間で5駅、千歳線内の1駅に及び、北入江/北舟岡の両信号場も廃止された。

鉄道写真屋の眼でこの事態を眺めると、貨物列車の設定本数の減ってしまった反面、中線の撤去で撮り易くなった駅も生じたのである。
このルートの各停車場は貨物列車の長大編成運転に対応して400メートル近くの本線有効長を持っていたのに対して、乗降場のそれは半分にも満たないものが大半で、乗降場より離れた場内は中線なり待避線が撤去されれば、上下線間に適度の間隔を保って引きの取れる、撮影に格好のポイントとなったのだった。それは停車場内と言うより駅間の様相である。

実際に中線の撤去され、場内に分岐器のなくなった所謂棒線駅は運転扱上駅ではなく、したがって駅場内も存在しない。例え出発信号機や場内信号機の位置に常設信号機が建植されていても、それは閉塞信号機、すなわちそこは駅間である。
道内では、仮乗降場が多数存在したゆえか、このような棒線の駅を「停留場」と区別していた。もとより運転取扱規則にある公式の呼称ではない。

写真は、中線のなくなった中丿沢の旧場内下り方を通過する5列車<北斗星5号>。
ここは通信線柱が海側設置となっていて、下り列車をすっきりとした画角で捉えることが出来る。

[Data] NikonF4s+AiNikkor ED 300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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黒松内 (函館本線) 1975

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通票閉塞の施行線区を運転する優等列車への運用車は、停車場内を通過する際に通票を受け取るためのタブレットキャッチャを装備していた。そこに設置の通票授器(さずけき)にセットされたタブレットキャリアを走行のまま、これに引っ掛けると言う原始的な手段である。バネのヒンジにて、確保したキャリアは落ちぬようになっていた。
けれど、ほとんどの機関士/運転士はこれを信頼していなかったように見える。大抵の場合は、所持していた通票をキャリアごと螺旋状の通票受けに投げ込むと、今度は運転台から身を乗り出して前途の通票を授器から自らの腕でキャッチしていた。蒸機機関車は勿論、二人乗務の運転なら、これは助士の仕事であった。
減速してのこととは言え、かなりの衝撃と思われ、キャリアを腕に通すと同時に身体をうしろに反らして、これを車体に当てて緩和していたようである。キャッチャはバネヒンジの固さなどで確保に失敗すること多々在って、信頼度の低かったのではなかろうか。取り損ねたり、落下させたりすれば、列車を停止させて拾いに往かねばならない。

写真は、黒松内での通票の授受を終えて再加速する11D<北海>。運転担当の当務駅長は、その一部始終を監視し、指差換呼にて列車を見送る。ついこの間まで、何処の駅でも見られた鉄道職員の基本動作である。
この当時、ここは特急通過駅であったのだが、81年10月改正での<宗谷>の格上げ特急化に際して、その停車駅を引き継ぎ、この11Dも停車に改められた。

CTC化の見送られた函館山線区間は、それでも本社からの合理化要求は強かったと見えて、80年代以降、運転要員を残しての駅の無人化や簡易委託化が進められた。運転関係の要員が完全に撤退するのは、86年11月改正における電子閉塞方式の施行によるものであった。その中に在って、ここ黒松内は北海道旅客鉄道への移管後も永く直営を保って来た。直営駅にもかかわらずマルス端末の設置が無く、硬券や出補/改補などの軟券の宝庫だったことも記憶に新しいものだが、惜しくも2006年度末を以て無人駅となり、山線の零落の、また一歩進んだ印象を持ったものだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptuerOne5 on Mac.

函館 (函館本線) 1981

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DD13形式液体式内燃機関車は、道内では馴染みが薄い。
この形式は、1950年代後半当時に首都圏/関西圏などの貨物ヤードにて入換に従事していた、B6と呼称される系列の古典蒸機の老朽取替が急がれたことを背景に開発されたものである。ゆえに、それら大都市圏への投入が優先され、60年前後の時点で、道内では2両のみが苫小牧/室蘭の石油ヤードで使用されたに過ぎなかった。
これが大量に投入されるのは、66年度の函館機関区であり、9両の配転により函館桟橋/函館構内入換の9600形蒸機を一挙置替えた。以後、釧路/旭川/苗穂/苫小牧/鷲別の各機関区へ配備されるものの、入換機の本格的な無煙化は、67年度より量産の開始されていたDE10形式液体式内燃機関車に切替えられたため、道内へは少数の導入に留まったのである。投入が遅かったゆえに道内では少数派となったと言えよう。この形式の除雪用ヴァージョンであるDD15についても、同様の事情で道内配置は少なかった。

68年頃、眺めに行った苗穂のDD13は、2次車/3次車と16次車の配置で前者のイコライザー式の台車が無骨で古めかしく見えた覚えが在る。それでも、DD11のクランクとロッドによる蒸機のような動力伝達と比較すれば洗練された印象でもあった。さらに近代化されたDD51が苗穂に姿を現すのは、その後まもなくのことだ。

写真は、DD13の屯する朝の函館構内を加速して往く23D<北斗3号>。
この23D-26Dと渡る運用は、車両需給上からか80系気動車の基本編成に満たない6両組成運用で異彩を放っていた。
海岸町の津和野街道の跨線橋からの撮影だが、この頃は桁のみが架けられ東西の取付け道路は未完成だったと記憶している。

函館機関区〜函館運転所のDD13は、ヤード系輸送の廃止された84年2月の改正にて余剰を生じた五稜郭操車場入換用のDE10に置替えられ、85年度末までに用途廃止により姿を消した。

[Data] NikonF3HP+Ainikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptoshopCS3 on Mac.

音別-古瀬信号場 (根室本線) 1976

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釧路機関区は、道内で最初にDD51形式液体式内燃機関車が投入された区所である。
それは、1966年9月に予定された落合-新得間の新線(通称-狩勝新線)開通に際して、この区間の無煙化を目的としたもので、65年度末に5両、66年の夏までに10両を追加した15両にて富良野-釧路間に運用された。翌67年度にも10両、68年度には15両を新製配置して、新得や富良野のD51/池田のD60を駆逐し富良野-釧路間の完全無煙化を達成している。
この40両のDD51は、79年春に亀山機関区へ転じた2両(585/586)、鷲別へ配転の後に再配置となった1両(636)を除いて、一度もここを離れること無く85/86年度で用途廃止を迎えている。
面白いのは、このDD51が配置されるまでの釧路機関区は、C58による(古くは8620である)釧路以東の根室本線と釧網本線の仕業しか持たない区所だったことである。集中配置が可能で、かつそれが効率の良い内燃機関車の基地として、その運用区間の東端が選択された結果、有数の本線機関区となったのだった。

音別で一旦内陸に迂回した根室本線は、再び海岸線に出て馬主来湿原に踏入るまでの4キロメートル程を海岸段丘の裾を正確にトレースするように走る。車窓には茫洋とした太平洋を見て、どこまでも同じような風景が続く。
一度、ここを歩いたことがあるけれど、確かに、どの段丘に上っても捉える画角には然したる変化は無かった。

写真は、滝川起点270K近くの比高20メートル程の段丘からの俯瞰である。風の強い晩秋の一日で、その風に乗ってテントウ虫が大群で飛んでいた。マウンテンパーカに大量に飛来して、見ればそれぞれ羽の模様が奇麗なのだけれど、気づかずにツブしてしまうとシミになって困りものだった。
列車は、445列車釧路行き。この当時の普通列車には、荷物車/郵便車を組成した421・422列車、寝台車を加えた423・424列車の他、帯広-釧路間に2往復の客車列車の設定があった。区間列車は釧路客貨車区の運用である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f11 Y52Filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5on Mac.

末広町 (函館市交通局・本線) 1977

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札幌市交通局の軌道線、所謂札幌市電は撮っていないのである。あまりに身近だったせいもあろうが、新参の撮影者には国鉄線上の蒸機の方が遥かに魅力的だった訳だ。それは、1971年10月には廃止が始まってしまい、内地から北海道通いをするようになってからの74年までは、一番魅力的に思っていた鉄北線が残っていたものの、札幌は道内各地を転戦する中継地で駅から外へ出ることも無く、結局撮らず仕舞いだった。今思えば惜しいことをしたものだ。

対して函館市のそれは、渡道初日や最終日に立ち寄って度々撮っていた。新設軌道(俗に言う専用軌道)の区間がある訳で無し、道路の中央を往くのは各地の路面電車と変わらぬのだけれど、本線の函館山麓となる元町/末広町付近や宮前線沿線、宝来・谷地頭線の急坂区間には、この街ならではのロケーションが散在していたからである。

この末広町から大町にかけての一帯は、函館西部地区観光の核心地域で歴史的建造物や観光施設が集積している。
写真は、八幡坂と基坂の間をひとつ市電通りから上った通り(弁天末広通り)を歩きながらのカットだ。背後は、旧英国領事館で、その坂上には旧函館区公会堂が建つ。
観光客が闊歩するそんなロケーションの中にも、らしからぬ光景があって、かつて金融街として栄えたこの地の実務的な残滓なのだろう。正面の建物は、旧日本銀行函館支店である。
2012年の現在、ここにはマンション用地となり、隣接地には函館市の運営する立体式の駐車場が建てられている。観光資源とマンションも、やはり相容れない。

全線が健在であった頃だから、通過する電車は3系統湯の川行きか、4系統の五稜郭駅前行き。主力であった500形の、これは510である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

落部 (函館本線) 1991

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国土交通省が2005年に実施した第五回幹線旅客流動調査によれば、出発地-目的地別の年間純流動数データにおける道央-道南間の総流動数は上下計にて778万人とある。この内鉄道利用は143万4千人で、分担率は18.4%である。
この調査での道南とは渡島/檜山支庁管内を指し、あくまで胆振/後志支庁との支庁界を越えての流動数であるから、函館-長万部とか室蘭-札幌のような移動はトリップに計上されず、逆に長万部-洞爺などの例は含まれることになる。
いずれにせよ、鉄道における実地調査は函館-札幌間特急列車の乗客を対象に行われたものであり、これは<北斗>系統列車の大まかな利用者数と見て良さそうである。一日あたり3928人、一列車平均で178人は、洞爺-札幌間内側での区間旅客を含んでいないとすれば、こんなものだろうか。

これを運んでいる<北斗>系統列車は、1994年3月1日改正における281系気動車投入にともなう11往復運転化より今日に至るまで変化が無い。この11往復化も、改正前の予定臨<北斗>3往復の格上げと見て取れ、増発とは言い難かった。
この函館-札幌間昼行優等列車の設定数は、驚いたことに1970年代半ば以降、40年間近く不変なのである。
<おおぞら><おおとり>の全列車が函館発着であった1978年10月改正時点を見ると、特急の<北海>を含む8往復に、急行の<すずらん>と倶知安経由の<ニセコ>2往復に<宗谷>が健在で在ったから、ほぼ同一水準である。
そればかりか、函館山線の優等列車の廃止された86年11月改正でのそれは、特急のみの9往復、88年3月改正では同じく8往復と削減された時期もあり、前述の94年3月改正で旧に復したと見ることも出来るのである。
運輸省〜国土交通省による鉄道統計によれば、千歳/室蘭/石勝線の定期外旅客数は、1975年の2015万3千人が2005年に2273万人である。この増加分の大部分は札幌都市圏における流動増、及び75年には存在しなかった石勝線のものと推定され、なるほど函札間旅客はさほど変わっていないのかも知れない。
もっとも、94年3月の増発は281系気動車投入にて実現した函札間の劇的な所要時分短縮による旅客の誘発効果を期待してのフリークエンシィの向上なのだが、前記幹線旅客流動調査で、150万3千人と道央-道南間と大差はない福岡県-鹿児島県間の特急設定が、有効時間帯にて毎時1本を確保していたのに見劣りする。鹿児島市の人口55万に対して、函館市の29万と言う都市力の差なのだろうか。

写真は、第二落部トンネル入口側外部から出口側をみている。このトンネルは、R520の左回り曲線上に在って延長88mと短い。
函館線を行き交うハイデッカーグリーン車組成の183系<北斗>。左が5003D/右が5002Dである。

[Data] NikonF4s+AutoNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISo320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.


[番外編 7] 江別駅前 (国鉄自動車空知本線) 1983

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日本の鉄道趣味の範疇には、海外のそれに決して含まれないものがある。それは船の分野である。
言わずと知れた鉄道連絡船が存在するゆえで、例えば過去の鉄道写真コンテストなどでは、連絡船も応募対象に含まれるのが常であった。諸外国の趣味誌に船の載ることはまずあり得ない。
しかし、国鉄がバス運送事業を行っていても自動車趣味となると、これは厳密に区分されていたもので、鉄道趣味誌がこれを正面から取り上げることはあまり例が無い。ただし、近年では鉄道から派生したバス趣味者も数多くおいでのようだ。

古い鉄道屋としては、この分野は門外漢である。
ただ、末期にリゾート路線など一部に制限が課せられたものの、北海道/道南の均一周遊券では全ての国鉄バス路線も自由乗降対象であったから良く利用していた。
公共企業体であった日本国有鉄道は、鉄道事業およびその付帯事業しか遂行出来なかったから、その自動車運送事業はあくまで鉄道線の代行/培養/短絡/補完、そして鉄道予定線の先行の5原則に従って運営された。広大な北海道では鉄道線にてカヴァされない地域が多く、国鉄自動車は札幌を中心とした石狩平野をはじめ、旭川周辺および美瑛/当麻地区、噴火湾北岸、日高方面から襟裳岬を経た十勝平野一帯、そして根釧原野に広く路線を持っていた。

利用価値の高かったのは、やはり鉄道の並行線であった伊達本線/黄金線と日勝本線の日高側であろうか。鉄道に普通列車の無い時間帯にも便の設定があり、ポイント近隣の停留所での乗下車も便利ではあった。
空知本線と長沼本線は、厚別営業所ないし新札幌での乗り継ぎで千歳線方面と新夕張川橋梁との行き来に使った。当時は橋梁近くに岩見沢行きの停留所も在ったのである。
恵比寿岩を俯瞰する西春香停留所への移動にバス利用は不可欠だった。この札樽線は、北海道中央バスと共通乗車になっていて周遊券の提示でこれにも乗れた。

古い記憶で恐縮だが、60年代後半にこの札樽線にあった手稲町は駅員配置の「駅」であり、小樽ないし札幌で鉄道に連絡となる全国各駅への乗車券を販売し、小荷物も扱っていた。それゆえバスは、運転台後ろの腰掛けを撤去して小荷物置場がつくられていたものである。
かつては貨物運送も行っていたと言うが、それは実見していない。国鉄部内では、この貨物車、すなわちトラックなのであるが、これを公式には無蓋車と呼称していた。確かに当時はアルミバンボディのトラックなどは無かった。

写真は、新夕張川橋梁からの帰路、江別駅前ターミナルの光景である。
ここには国鉄バスの専用窓口(後方「国鉄バス」の看板の建屋)が設けられていたが、自動車線の駅ではない。
車両称号と車番は、左から527-2071/527-0004/527-3012。いずれも日野車体製の非冷房車で近年の導入と知れる。右端は新車である。

-参考文献-
国鉄路線図一覧 1968 国鉄運転局
鉄道ジャーナル No,208 1984 鉄道ジャーナル社

[Data] NikonF3HP+AiNikkor85mm/F1.8 unknown Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 2010

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写真屋の中でも鉄道屋は、撮影で山中に分け入るにせよ、鉄道の無いところには行かないからそれほど危険なことはない。
それでも時には、林道歩きの途中で目の前に人の頭大の落石があって肝を冷やしたり、雪面のトラバース中に足下の雪が割れて小規模な雪崩となるのを目撃したことはある。一度栗林を歩いていて栗が頭に突き刺さったこともあった。この時は一瞬何が生じたのか分からず、強烈な刺激と額を流れる生暖かい液体(血液である)に、その場で座り込んでしまった。以後このケースでは帽子の装着を忘れぬようにしている。

しかし、最大の危機はディジタル撮影での落とし穴だった。
ディジタルなればの撮影は多々あるけれど、暮色時間帯の絵をリアルタイムに暮色に表現が可能なこともそのひとつである。高価な色温度計を屋外に持ち出して、LBfilterの濃度選択に迷いながらの撮影から解放されるのは、確かに福音だ。何よりも、その時刻の色が出る。フィルムに再現されるのはその先の仮の色、言うなれば疑似暮色と言える。
必然的に、日没を越えてそれまで以上に撮影に粘ることになっていた。

豊浦の貫気別川橋梁を俯瞰する植林地は、豊浦 (室蘭本線) 1993で書いたように放棄されてしまい、上部に至る林道も薮に覆われて広葉樹の自然に還りつつ在った。
ここでの撮影を終える頃には、秋の陽のつるべ落としでとっぷりと日が暮れ、あろうことか下山ルートが解らなくなってしまったのだった。フラッシュライトもヘッドランプの用意もあるとタカを括っていたのたが、それには薮の浮かび上がるばかりで、全く草道の判別がつかない。
市街地に隣接し、たかだか100メートルに満たない比高である。それでもこうなると深山と変わりはないのに気づく。一時は薮を分けての直降も覚悟したけれど、深夜に登山道を歩いても薮漕ぎの経験は無い。結局のところ、ライトを消して暗闇に眼を慣らし、地形の記憶に頼ってルートを探すほか無かった。

写真は、その際の撮影カットである。表題の範疇を脱するゆえ[番外編]とさせていただく。
列車は、3051列車。10月末のこの時期、17時の通過は日没の約30分後となる。

実は、この10日後、岐阜県北部の高山本線で同じことをやってしまった。こちらは携帯も圏外を示す人里離れた山中で、より深刻であった。これはディジタル撮影の罠だ。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f5.6 Non filter ISO1600 W.B. Auto Developed by CaptureOne5 on Mac.

桂川臨時乗降場 (函館本線) 1983

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アジア太平洋戦争末期の陸運転換に対応して、戦前より貨物輸送のメインルートであった函館海線/室蘭線には、多くの信号場が設けられた。増大する輸送需要を、それにて凌いでいた訳である。
1945年の戦争終結の時点で存在した信号場は、1936年設置の仁山信号場を除く全てがこれによるものであった。
戦後まもない時期に廃止、撤去されたものもあるが、大半は60年代に始まる複線の使用開始まで生き延び、現在も一部残る単線区間に存在するものは、その機能において現役である。

これら信号場の多くは、個々での開始時期は不明ながら旅客扱いも行っていて、複線化の進展等によって信号場としての機能が不要となった後も、それは継続したのだが、国鉄によるその扱いが一様でなく、実は良くわからない。

例を挙げる。
スウィチバックの待避線が加速線と兼用であった戦時型の東山信号場は、それゆえか1949年8月1日と言う早い時期に廃止され、その際に本線上に気動車2両分程の乗降場を設置して、キロ数設定の無い仮乗降場として存続した。複線化により廃止の旭浜信号場/小幌信号場も同じ扱いである。
東山仮乗降場は、内地からの旅行者がはじめて出会う「時刻表に無い駅」として良く引き合いに出される。
対して、桂川信号場は、1979年9月27日の森方の複線使用開始にともなって廃止されたものの、同じく新たな乗降場を複線上に設置して客扱いを続け、これは全国版の時刻表にも(臨)の表記にて記載された。国鉄北海道総局が1985年に作成した「線路一覧略図」でも臨時乗降場となっている。複線化が別線によって行われた石谷-石倉間に在って、新たな乗降場が新線上に設けられた本石倉(信号場)ですら、その扱いである。
当時も信号場として機能していた鷲ノ巣/北豊津も同様に臨時乗降場と記されている。

この差異が良くわからない。
上記に例を掲げたうち、国鉄旅客局による「停車場一覧」(85年6月1日現在)に記載されるのは、その時点で信号場であった鷲ノ巣/北豊津だけであるから、やはり実体は仮乗降場が正しいのであろう。
考えられるのは、信号場当時の旅客扱いの有様である。信号場における旅客扱いは珍しいものでは無く、羽越本線の今川や東北本線の高久のごとくに隣接駅の遠隔窓口として近隣駅はもとより東京都区内までの乗車券を常備していた例もある。ここまでではないにせよ、それが本社の承認したものであったかどうか。ここに後年の扱いの差異の源があるとも思える。
鉄道公報なり、局報なりを丁寧にめくれば答えのありそうな気もするが、一度それで国会図書館通いをした身としては二度目の気力は無い。仮乗降場なら「通達」のみで設置され、臨時乗降場には「公示」がなされているはずである。Web上で識者を捜すも見つからなかった。

写真は、桂川トンネル上部から桂川の集落を見ている。鉄道と海岸線の間の狭い土地に汐褪せした家屋の建ち並ぶ漁師の集落だったけれど、この当時に船溜まりはなくて、それは浜に引き上げるものだった。
列車は 3D<おおぞら3号>。
列車後方に小さく見えるのが桂川の乗降台で、その位置は信号場当時の停車場中心とほぼ同一である。桂川トンネルは、それまでの湯の崎を迂回していた単線に替えての新線上にあり、1971年9月21日に複線使用を開始している。海側に分岐して行く路盤が旧線跡である。旧桂川橋梁の橋台が見える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptoshopCS3 on Mac.


姫川 (函館本線) 1996

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姫川から徒歩で10分程で到達する、函館桟橋起点43K500M付近の半径301メートルで時計回りに展開する急曲線は、そこに立てば背景に駒ヶ岳を捉えられるポイントである。
東山を過ぎて連続する、谷間を往くようなR300曲線群に在ってインカーブ側が開けており、広めの画角を用いて長大編成もそれに収めることが出来た。アウト側からだと、丁度カーブの向こう側に駒ヶ岳の山体を見るのだが、樹林帯が迫っていて引きが取れぬゆえ諦めていた。

ところが、93年頃であったろうか、この樹林帯が伐採され、その緩く傾斜した斜面に立てるようになったのだった。
急曲線区間をやや俯瞰気味に見て、機関車をカーブ手前に置ける早朝の寝台特急群の撮影には最適のポイントの出現であった。ただし、1/8001/3(6003)列車はここを5時台の通過となって、撮影は4月半ばからせいぜい9月初めまでに限定された。

以後、毎年にその時期を選んで訪れたものだけれど、伐採地の常で、そこに植林された杉の幼木の成長は驚く程で、早くも95年には肩の高さに、96年には脚立を持ち込まざるを得ない程になり、ほどなく撮影は不可能となった。ほんの数年間だけ存在した幻のポイントと言って良い。
写真は5月中旬の撮影だが、霧雨に近い雨天下とあって光量は走行撮影の限界に近く、Tri-XをISO640に増感している。けれど、このイメージは降水があってこそだ。
列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。

余談になるけれど、このような早朝撮影には現地への前泊を要するのだが、ここではポイントの至近に、僅か100メートル程のところに宿泊施設が在った。
The Rolling Stonesのかの名曲‘Memory Motel’やDelany&Bonnieのアルバム“Motel Shot”に登場するMotelでは無くて、極めて日本的なモーテル式ホテルなのだけれど、そのロケーションは比類が無い。この種の施設の所謂「目的外使用」であるが、度々利用させてもらっていた。
ダブルルームのシングルユース設定など在ろうはずも無く、「目的外」にしては、その宿泊料金は高くつくのだが、森市街地からのタクシー利用を勘案すれば賄える。
予想される「騒音」に関しても連日の疲労にて爆睡するゆえ心配は無く、透明の湯船に多少躊躇する以外はレイルサイドの快適な宿舎ではあった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f2.8 Fuji SC37filter Tri-X(ISO640) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1989

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噴火湾の北岸には、その生い立ちにかかわる断層崖地形が存在する。
静狩から洞爺にかけての室蘭本線は、断層崖の、あるいは内陸に迂回した隧道群で、それを通過している。
豊浦と洞爺の区間では、長輪線としての開通当初の断崖直下の海岸線をトレースするルートを、1968年9月28日に山塊を第二茶志内/チャス第一/チャス第二/クリヤの各トンネルで貫く新線に切替え、続いてこれより海側に洞爺方から新クリヤ/新チャス/第三茶志内/第一チャス/第二チャスに新第二茶志内の各トンネルを穿って、これを上り線に複線化された。1970年6月30日のことであった。

その上り列車は下り線よりも低い位置を走り、第二チャスと新第二茶志内トンネルの明かり区間でベベシレト岬へ連なる小さな入り江を車窓に見る。
ならば、そこから断層崖を成す山塊を往く列車を撮れぬものかと探したのが、写真のポイントである。
後に、ここは「三番磯」と呼ばれる岩礁海岸で、アワビの好漁場と知る。

視線を右に取れば洞爺までの噴火湾に落ち込む地形を遠望する景観なのだが、道を外れた畑作地の先の熊笹と灌木をかき分けて到達し得る位置であり、通常の観光旅行者がこれを見ることはまずないだろう。

86年11月の改正で全車が札幌運転区に転じ、同区に新製配置の500番台車と共に一括管理された183系気動車は、89年3月改正にて1往復を除く<北斗>系統運用車が函館運転所に再配置とされたものの、キロ182のみは札幌区に留め置かれ、同一編成内で配置区の異なる変則運用となっていた。
この当時に、183系の特別車には、機関出力の異なるキロ184/キロ182の0番台に500番台が在り、また接客設備も0番台の一部に三列腰掛けとした改装車が存在して、それぞれが少数配備の上に各方面への運用が組まれたゆえに予備車を共通化する必要上の措置と思われる。90年9月の改正で、500番台を全車<北斗>系統に振り向けることで、これを解消している。

列車は、札幌運転区 A1運用による5006D<北斗6号>。A1運用は、89年3月改正で唯一札幌区に残された<北斗>運用で、500番台車のみで組成され最高運転速度120km/hに対応していた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopCS3&LR3 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1968

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もう、すっかり時効だろうし、書いてしまう。
運転取扱基準規規程への違反だらけなのである。けれど、それは遠来の撮影者への精一杯のサーヴィスだったと解している。

1968年の夏、はじめての稚内への遠征の旅で、かの高名な旭川起点250K800M「利尻富士」の標柱の建つ地点を訪れた。
その日の1391列車は、所定時刻よりも30分近くも早くやって来た。貨車の入換えがなく、豊富あたりを早発して来たものだろう。駅長の承認の元にであるから、これ自体は規程に反するでなく、閑散線区の貨物列車には多々在ったことであろう。後に米坂線の機関士に、早発して湧き水のあるところで停車し顔を洗った話など聞いたことが在る。
突然に汽笛が聞こえ驚かされたけれど、遮るものの無いロケーションと遅い運転速度に慌てること無く撮影は済んだ。

南稚内へと走り去るはずの列車は、やがてそこに停車し、なにやら機関士が手招きして呼ぶのである。
何事か、と熊笹の丘を降りて行けば、「もう一度向こうから走って来るから、もう一回撮れ」と言い、そう言い終わらぬ内に列車は後退を始め、みるみると遠ざかって行くのだった。そしてカーブの彼方で汽笛一声、ドレインを切り、ドラフトを高く吹き上げながら接近して来る。せっかくの申し入れであり、線路端からだけれど有り難く撮らせていただいた。

眼前を通り過ぎ南稚内へと向かうと思われた列車は、その先で再び停車し、またしてもこちらへ後退して来る。そして、目の前に止ると今度は「南稚内へ戻るなら乗れ、送る」と仰る。もちろん機関車ではなくて次位に組成の車掌車なのだが、この申し出に従ったのは言うまでもない。
今でこそ蒸機の展示運転列車に組成され、乗車機会のある車掌車だが、当時とすれば滅多に無い体験である。全て承知と言った風情の車掌に迎え入れられた車内は、事務机とベンチに石炭ストーブの設置されるのみにて思いのほか広く感じられた。
ただし、2軸の硬い板バネの走り装置にほとんどクッションの無いベンチに腰掛けての走行は、低速運転でも振動が激しく、幹線列車であれば如何許りかと思われるものだった。

列車は、南稚内へ定刻に到着した。迎えた当務駅長は呆れながらも承知顔であったから、この機関士の恩恵(?)に浴した方は他にも多々おいでなのかも知れない。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 NeopanSSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

常盤仮乗降場 (天北線) 1986

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それがスルーガーダーやスルートラスでない限り、列車の下回りまで隠すものが無いゆえに、橋梁は、時代を問わず鉄道撮影の定番のポイントである。ただし、撮影列車の編成長によって、その延長への要求が異なるのは言うまでもない。

天北線は、天北峠を越えた頓別川の谷にせよ、それを抜けてオホーツク沿岸に出てからも延長のある橋梁は少なかった。オホーツク海へ流れ下る河川が、いずれも小規模で、かつ河口部に架橋されぬゆえである。
浅茅野下り方の猿払川橋梁が148Mで線内最長の他は、頓別川を下流部で渡る、第八頓別川橋梁(118M)/第九頓別川橋梁(118M)/第十頓別川橋梁(140M)を見る程度であった。
いずれも、その橋梁長からは、急行<天北>の14系客車-5両組成に牽引機DE10を含めた120メートル程の編成を見通せそうではあるが、勿論全てが撮影に適する訳では無い。

浜頓別まで7キロ程、音威子府起点54K820Mに所在の常盤仮乗降場に隣接した第十頓別川橋梁は、その上流側に適度な間隔を置いて国道275号線の橋が並行しており、橋梁上に<天北>を捉えるに最適とも思われたのだけれど、橋梁直下の氾濫原にカシワと思われる独立樹があって、その全長を画角とすれば避け得ないのだった。
国道背後の河岸段丘まで登り、引きのある俯瞰としても邪魔者に違いは無かった。

致し方なく、これをフレームから排除したのが、この写真である。
有効な延長は橋梁の半分程で、加えてこの日は2両の増結とあって編成を捉えきれていない。
このあたり、周囲は酪農地帯で、傾きつつある初夏の日射しの中で気持ちの良い午後ではあった。
列車は、もちろん303列車<天北>。キハ22の単行列車とは比べ物にならない速度でやって来た。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6+1/2 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

森 (函館本線) 1996

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アメダス - 良く知られた気象庁の持つ「地域気象観測システム」の通称である。
全国に1311箇所の無人観測施設が置かれ、気温/降水量/日照時間/風向・風速の気象の4要素に(地点によって)積雪深を観測している。これらの観測要素は設置地点により異なり、八つの組合せパターンがある。
個々の観測施設は、設置地点の地点名にて呼称されている。
その地点毎の観測データは様々なルートで公表され、インターネット上でリアルタイムに読めることは、とっくにご承知と思う。

予報ではなく、一種の過去データになるけれども、撮影行動に多々活用させてもらっている。
気温の過去データは事前に装備を決定する目安となるし、日照時間データを見て、リアルタイムに晴天の地域への転戦を決めたこともある。
さて、冬期間なら積雪深で現地の大体の状況が知れる訳だが、これの地点名「森」のデータが不可思議だった。
同「函館」や「北斗」よりも積雪の深いのは理解出来るが、「八雲」や「長万部」を上回る値を示すこともあれば、気温データも、より低温のケースが散見されたのである。
森の観測施設であれば、それは森の市街地ないし外縁に存在するものとばかり思い込んでいたのだが、ある時、ふと気がついてそれの所在地を調べて納得がいった。そこには茅部郡森町姫川とあった。森市街地に対して標高125メートルの地点である。近隣に姫川駅があるだけに、ならば「姫川」アメダスじゃないのか、と思うのは鉄道屋だからだろうか。
確かに森町所在に違いはないけれど、豊浦町大岸に設置の施設は「豊浦」アメダスとは言わない。そのまま設置地点名の「大岸」である。

森下り方の海沿い区間は、蒸機の時代から函館海線の定番ポイントのひとつだ。
ここでは、背景の駒ヶ岳と海面をどう取り込むかに考えあぐねた覚えが在る。どのレンズの画角でも一長一短があって難しいのだ。
最近では、300mmあたりで列車だけを切り取ってしまうのがトレンドらしい。それも悪くない。

弱い降水のあった5月の朝である。Tri-X filmを以てしても露出はかなり厳しい。
列車は、5列車<北斗星5号>。

[Data]NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f4 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

白符-渡島吉岡 (松前線) 1982

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ロバのパンである。
道民には馴染みが深い。70年代の始め頃の北海道では、山崎製パンでもフジパンでも敷島製パンでもなく、日糧製パンとこのロバパンがシェアを二分していた。どちらも札幌に本社を置く製パン/菓子会社である。(現在でも状況は変わらぬものと思う)

札幌を離れ、その後の度々の渡道でもロバパンには出会わずに居たものだから、道南の海辺の小集落で食料品店のその看板を見た時には懐かしさとともに、その健在に嬉しくもあったのだった。

内地に転居して、ずっと後になってからだけれど、ここにもロバのパンのあることを知った。同世代の友人知人に聞けば、それぞれ出身地の異なるにもかかわらず、幼少時代にロバに牽かれた馬車でのパン売りを見るなり聞くなりの経験があると言う。札幌のロバパンにそのような記憶はなく、どうやら別のロバパンらしいのだった。
当時は、これを調べようも無く忘れてしまっていたのだが、ある日神田神保町に在った地方小出版流通センタで、京都のかもがわ出版の発行になる『ロバのパン物語』(南浦邦仁著)を見つけて謎が解けた。
内地で記憶されるロバのパンとは、1950年代後半に京都を本拠地として起業した株式会社ビタミンパン連鎖店本部の、その名の通り全国規模のチェイン店、および追随した同業他社によるものだったのである。ビタミンパンとは蒸しパンだったこと、馬車を牽いたのはロバではなく馬(ポニー)だったことも知れた。

同書に明確な記述は無いものの、当然北海道にもチェイン店の展開はあったものと思われる。既にロバパンのあった札幌は意図的に避けたのであろうか。
本物のロバの牽く移動販売車によるパンの巡回販売は、札幌所在の石上商店が先行しており、これは戦前のことと記録されている。ロバパンの元祖である。元祖なのだけれど、札幌と内地の全国各地となるとどうにも分が悪いのが、札幌出身者としては残念ではある。
このロバのパン石上商店が、現在の株式会社ロバパンの前身にあたる。同社によれば、戦前に販売車を牽いたロバが現在キャラクターに使われている「ウィック」とのことだ。
さて、驚いたことに株式会社ビタミンパン連鎖店本部も京都市北区上賀茂にひとつの店舗として健在である。勿論看板商品はロバのパンである。
南北2系統のロバのパンが、2012年の現在も共に盛業中であることは慶賀に堪えない。

松前線のこの区間へは前年に続いて再訪している。そこの小さな集落の情景がとても気に入ったからだった。白符 (松前線) 1981
国道228号線のバイパスが豊浜漁港の上を乗り越えてしまっているのだが、そこからは道南らしい穏やかな海辺の家並みが見て取れた。ロバパンの看板を掲げた村上商店は、おそらくここ豊浜集落にただ一軒の食料品店兼雑貨屋であろう。
列車は、貝取澗川橋梁(98M)上の4825D松前行き。

[Data] NikonF3HP+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f4-5.6 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

奥白滝 (石北本線) 1979

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(*)国鉄に於けるCTCは、1958年5月20日使用開始の伊東線来宮-伊東間を嚆矢としている。ここでの試用をフィードバックして1962年には横浜線東神奈川-八王子間への導入がなされた。
この2線での施行は、当時の国鉄が列車回数の多い単線線区(横浜線は単線区間が大半であった)での運転制御の一元化をCTCの導入目的としていたと見て取れる。この時点では、純粋に駅扱いでは限界に達しつつあった運転上の煩瑣解消を事由としていたのである。両線とも、これにて要員の撤収の行われた駅は無い。
ところが、国鉄は気づいてしまうのだった。これをルーラルな線区に適用すれば、線区自体の経営改善、即ち要員を含めた線区全体の合理化が可能ではないのか、と。
これの試行線区として選択されたのが1967年導入の土讃本線多度津-高知間であり、翌68年と69年に無煙化も含めて本格的に施行された高山本線岐阜-富山間全線であった。
その成功により、以後国鉄はCTCを合理化の道具として全国的に推進して行くことになる。

石北本線への導入の情報を得たのは78年の暮れのことだった。CTC施行に先駆けては(*2)自動閉塞化がなされるはずであり、年明けに予定していた渡道に通票閉塞の石北線の記録を組み込むことにした。選んだのは常紋信号場に奥白滝である。
奥白滝への再訪は前回の失敗に学んで、今度こそ遠軽からの始発列車を利用した。奥白滝 (石北本線) 1977
ここの選択は、その節には運転要員の撤収ばかりでなく信号場への格下げも予想され、冬期には積雪で鉄路以外は外界から途絶されることの記録をも目論んだものだった。

積雪地域では、それに対応して第三種機械連動による転てつ器梃子から腕木式信号機や転てつ器に渡るワイヤは空中に架設され、構内に一種の賑やかな印象を与えていた。梃子の操作でそれはカランコロンと音たてる。
加えて、この駅は上り本線から遠軽方に進出が可能な信号設備となっていて、そのワイヤも渡っていた。
余談だが、これは75年3月の改正ダイヤまで朝方に当駅にて折返しとなる遠軽行きが設定されていたためで、官舎で暮らす職員家族の便を図ってのものと聞いた。78年10月改正にて白滝折返しに改められている。

写真は、速度を落として通過する31D<オホーツク>。
転てつ器梃子のある駅本屋が非自動化区間の運転扱い駅の証である。乗降客のいないにもかかわらず除雪の行き届いた乗降場は「駅」の矜持だろうか。画角外では当務駅長がタブレットの授受を見守っている。

石北本線は1983年1月10日に、その全線で一斉にCTC制御に移行した。遠軽/北見/網走の三駅を運転扱い駅(CTC非連動駅)に残し、28駅を旭川鉄道管理局舎内に置いた制御所からの被制御駅としたものであった。
奥白滝は同日付にて要員無配置となったものの、以来20年近くを「駅」で在り続けた。

(*1)国鉄に於けるCTC - 高速高頻度運転線区である新幹線での施行は、その運行に不可欠の設備であり、在来線とは事由を異にする。
(*2)自動閉塞化 - 石北本線では、その列車回数から駅間を1閉塞区間に固定する自動閉塞(特殊)方式が採用された。特殊自動閉塞とは異なる。

*参考文献-国鉄におけるCTCの取扱いと設備 1986 日本鉄道図書

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

糠平 (士幌線) 1983

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厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1976にも書いたように、1970年代を通じて貨物輸送量に占める国鉄のシェアは低減を続け、70年代はじめにはそこそこの編成長で走っていたルーラルな線区/区間の貨物列車も、80年前後に至るとスジは引かれていても運休が常態であった。

機関車列車が無くなり、気動車の普通列車ばかりの支線区や区間には自ずと足は遠のくことになってしまった。
けれど、その中でも夜行急行の着地側でもなくスケジューリングの難しいはずの深名線と、そしてこの士幌線には幾度となく通っていた。
おそらくは、描いたイメージに合致した画角がそこに存在した故だろうが、士幌線については、それが糠平周辺に所在し、折り返しに際して長時間に列車の停車する糠平構内もまたポイントである効率の良さも在った。
さらに付け加えれば、長過ぎる列車間隔の合間に駅近隣の糠平温泉で「ひと風呂」浴びる楽しみもあったのだ。

温泉旅館の常で、特に掲示されていなくとも昼風呂は営業していた。事前に電話を入れておいて部屋と昼食を用意してもらったこともある。それは、駅弁当と駅前食堂ばかりの旅の食事としては異様な豪華版ではあった。さらに白状してしまうと、この時は撮影そっちのけで呑み始めてしまいそこに一泊する羽目になった。こういうこともある。

その酒は、北海道では定番の札幌所在の日本清酒による「千歳鶴」であったのだが、本来、酒蔵(酒造場)とは人の暮らすところには必ず存在し、その地域の人々に酒を供給していたものである。
この十勝地方でも戦後の時点で、帯広に小川銘醸の「晃邦/照国」に帯広酒造の「亀の露」、清水に松山酒造の「きよ泉」、芽室に十勝酒造の「長寿」の蔵があったけれど、いずれも81年までに廃業してしまった。
戦前にまで遡れば、この他に新得/幕別/本別/広尾にも酒蔵の記録が残る。これとは別に、幕別町札内では1966年から1984年まで日本清酒が帯広工場を稼働させており、ここでの「千歳鶴」はそれゆえだったのだろう。

写真は、725Dで到着して728Dにて折り返すキハ40 100番台の2両編成である。
糠平駅構内の外れに、鉄道官舎と思われる赤い屋根に煙突が印象的なコンクリート造りの建物が在って、撮影の良いアクセントになってくれていた。
ここから十勝三股までの休止により実質的な終着駅となって久しく、その設定列車本数からは棒線駅となっても不思議ではないのだが、いまだに上下本線ともに生かされていた。以遠区間が廃止ではなく「休止」であるゆえだろうか。
この前代未聞の「休止」措置では興味深い旅客扱いを生じていた。これは別項に譲りたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8-11 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

遠軽 (石北/名寄本線) 1975

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1975年3月の渡道は散々だった。
その10日のダイヤ改正でも残るとされたオホーツク沿岸地域の蒸機を撮りに行ったのだけれど、東京で得ていた情報とは裏腹にDE10の入るスジがあったり、何より支線区の貨物は既に運休も多々あったのだった。

この日も、湧網線の貨物列車がウヤとなってしまい、他の線区への転戦も出来ない有り余る時間を、午後には遠軽へと出て過ごしていた。快晴で日射しの強い一日と覚えている。
石北本線は無煙化を終えていて、そのDD51やDE10の姿が目立つものの、扇形庫では9600が煙を上げてもいたのが、この時期の遠軽機関区だ。庫内には火を落としたD51の姿も見えた。
立寄りも考えたけれど、突然の訪問に躊躇して止めてしまった。

写真は、本屋に接する第一乗降場から構内を見ている。
幾千もの人々が行き交い歳月を経たホームは傷み、駅の歴史を感じさせていた。これは滑り止めを兼ねた装飾だったのだろうか。

この頃の遠軽には、機関区ばかりでなく、ついこの間までの「鉄道の当たり前」が揃っていた。
出札職員の白ワイシャツにアームバンド。乗車券函にダッチングマシン。
その背後で鳴る当務駅長の扱う閉塞器の電鈴。第一種連動のテコ制御盤。
改札口上に掲げられた電照式の駅時刻表。改札の案内札。改札鋏の小気味良い鋏音。
列車到着時の駅名連呼。列車暖房管から漏れ出る蒸気。
荷物窓口からホームをリヤカーで運ばれる小荷物。
側線に留置の白滝までの小運転に使われた客車編成。貨物扱い線には貨車の使用車なり停泊車。
背の高い構内照明塔。構内作業員の振るフライキにカンテラ。入換合図の汽笛。
非自動化区間運転列車の片側点灯の後部標識灯。
鉄道弘済会の売店。(キオスクなどとは決して言わなかった)
上下の夜行<大雪>でも営業していた集札口脇の駅蕎麦屋に岡村弁当店の立売り。

今は、必要最小限のものだけが残された感がある。輸送システムの変革で、ここに拠点を置く必要性が消滅し、それに従った結果なのだが、扇形庫や気動車検修庫の撤去された敷地にせよ、貨物施設跡の駐車場にせよ、0番線乗降場跡も、装置産業が衰退すれば空間として取り残されるゆえ、虚無感が募る。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f11 O56filter Tri-X(ISO400)


厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1976

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運輸省の公表していた運輸経済統計要覧によれば、1965年度の日本国内の貨物輸送量はトンキロベースで1863億トンキロであり、これが1980年度には約2.4倍の4391億トンキロに達している。
60年代の高度成長に終わりを告げた、71年の米国によるブレトンウッズ体制の放棄(俗に言うニクソンショック)、73年の中東戦争に端を発する第一次オイルショックを経て、なおも物流市場は成長を続けていたのである。
ところが、国鉄貨物のそれは、65年度の564億トンキロが80年度の271億トンキロと半減し、そのシェアも30%から僅か8%にまで低下したのだった。
そのシェアを奪ったものは言うまでもなく、高速道路は勿論のこと、70年代半ばまでには地方国道へも整備と改良の及んだ道路交通を背景にした自動車運送なのだが、機動性/迅速性を有し、梱包等も簡易で済むなどの市場の要求に即した優位性に加えて、同時期に頻発した国鉄のストライキがそれへの転移を促した側面も見逃せない。
さらには、74年から年中行事のように繰り返された大幅な運賃改定がとどめを刺したとしても過言でなく、以後国鉄は、75年度の2527駅(内127駅が貨物駅)を500駅以下とする貨物扱駅の統廃合、貨物列車の削減、不採算分野からの撤退などの縮小均衡の追求に追い込まれ、物流市場の変化にことごとく追随出来ずに、遂には84年2月改正にて車扱貨物による全国ネットワークからの撤退を余儀なくされるのである。

これを線路端から見ていると、70年前後でも予定臨設定であった盲腸線の貨物は、その後半には廃止され、それを逃れたルーラル線区でも牽くべき財源は斬減して、まもなくダイヤは引かれていても運休や片道の財源の無く機関車の単行運転となることが日常となって行った。
ここ、根室本線末端区間の貨物列車も75年3月の改正で1往復に削減され、80年頃には列車を仕立てるに財源の少なければ、これを運休して混合441・444列車にて輸送するケースを生じていた。ほとんど貨車の連結のなくなっていた同列車に、それの復活することとなった訳である。それはコンテナ車-1両ないし2両だったと記憶する。

写真は、別寒辺牛湿原での1491列車。
釧路操車場-根室間の設定で、この区間での貨物扱駅は70年度の13駅から浜厚岸(厚岸は旅客駅)に根室の2駅にまで減っていた。それでも、まだそれなりの財源を持って走っていた頃である。編成後部に見えるのが、荷主は知らないけれど週数回の定型輸送だったコンテナ車で、後年に441・444列車に連結されることもあったのが、これである。
84年2月の改正で、その混合列車も貨物列車も消滅した。

国道44号線脇の、この丘陵からは別寒辺牛湿原とそれに続く厚岸湖を遥かに見通すことが出来た。数在る厚岸周辺の蒸機時代からの定番ポイントのひとつである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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