"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

川湯 (釧網本線) 1984

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その必要もなかろうと思うのだが、釧網本線の川湯は、1988年3月13日のダイヤ改正の際に川湯温泉と改称し、いわゆる「温泉」駅のひとつとなった。

貴賓室をも持っていたログハウス風の駅本屋は1936年に改築されたもので、この当時から屈斜路湖や川湯温泉への観光駅と意識されていた証である。
川湯温泉は、川湯市街地より北東へ約3kmの屈斜路湖畔に至る道道52号線沿いに所在し、屈斜路湖周辺をロケ地のひとつとして1953年に公開されヒットを記録した映画「君の名は」にて注目された。
道内で最初の気動車による優等列車となった(*)準急<阿寒>は、それにて急増した観光客輸送を目的に、1957年5月1日より釧路-川湯間に2往復を週末運転の観光列車として設定されたものであった。

以来、温泉街へのアプローチ駅と認識され続けていたこの駅に、今更ながらの改称は不要とも思えるが、かつての爆発的北海道旅行ブームが去り、集客の長期的な低落傾向が背景にあるのだろう。
駅至近に温泉街が存在せず、それへの入口駅に「温泉」駅名を名乗らせるのは70年代以降のことである。
(温泉駅についての「暇ネタ」は下の追記にある)

この駅は、その本線有効長に対して旅客乗降場が東釧路方に偏った位置に在る。そのため、出発信号機直前が停車位置となる下り貨物列車は、乗降場を遥かに通り過ぎて停車する。
それは、ここの風景を特徴づけるアトサヌプリを背景とした構内での撮影には好都合であった。
列車は、3692列車。釧路操車場からの北見行き。所定では弟子屈から補機の連結の在るはずだが、この日は荷が軽いのか、ホキムでやって来た。

この年の2月改正で、機関車列車の全廃された根室本線の末端区間と対照的に、混合列車は全て気動車化されてしまったけれど、釧路操車場と中斜里/斜里/美幌/北見の間に5往復の貨物列車の設定が残り、まだまだ「撮れる」線区だった。

(*)準急<阿寒> - 釧路機関区のキハ21-2両編成にて運転。1959年5月の1往復の定期格上げに際して<摩周>と改称し、翌60年7月より釧路-網走間列車となった。後の<わこと>を経て<しれとこ>を名乗る列車の前身である。

[Data] NokonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f11 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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南千歳 (千歳線) 1993

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それが無ければ鉄道輸送は何も始まらない、と言う時代に鉄道趣味の原点があるものだから、機関車好きなのである。
もちろんキハ12や21と言った気動車も目にしていたけれど、圧倒的には機関車で、小樽の坂道の上に在った家の窓から望む駅に上がる煙や、移り住んだ手稲の自宅にも聞こえ来る汽笛の蒸気機関車なのだった。
本線を驀進して来る列車の先頭にはそれが在り、鉄道輸送の頂点に位置していた訳である。
それは特別なことではなく、当の国鉄部内においても機関車関係を上位とする暗黙の了解が存在し、気動車運転士よりも機関士が、駅長より機関区長が格上と意識されていたのである。また、数在る国鉄労組の中でも機関士の組織である動力車労働組合は、その発言力で群を抜いていた。

このモノクロームで北海道の鉄道を撮り歩いた時代、蒸機の健在であった頃を除けば、それはDD51形式液体式内燃機関車と言うことになる。機関車列車となれば釧網本線など一部を除いて、その先頭には常にこの機関車があった。
本線用の新形式として喧伝された試作機が1962年3月にロールアウトした時の印象は、一言「入換機」であった。本線機はDF50のごとき箱形車体であり、試作機のDF90やDF92、DF93も全て箱型で製作されていたゆえ、前後のエプロン部に警戒塗色まで施した凸型のそれはどうしても入換機にしか見えず、1号機のDD12然とした丸みの在るセンターキャブになおさらの感を覚えたものだった。
63年になって登場した2号機以降で、センターキャブはヒサシの附いた本線機らしい形状に改められたものの、当時からの印象は、実は今も変わっていない。
車体重量の軽減に機関のメンテナンスや冷却性の確保から採用された形態と聞くが、その後のDD54がスマートな箱形車体で登場するに及んで、いまひとつ納得出来ぬままのDD51なのだった。

そして30年後の1992年、その溜飲の下がる時がやって来る。日本貨物鉄道が製作したDF200形式電気式内燃機関車である。
92年3月25日に神戸の川崎重工で落成し、4月2日に五稜郭機関区へ回着(配置は鷲別機関区)した試作機は、約1年間に及ぶ試験運転を経て、93年の3月11日より東室蘭(操車場)-札幌貨物ターミナル間の4061-3082列車にて救援用のDD51を次位に従えての営業運転を開始、同年5月11日からは本機単独での運転となり4061-3070列車の五稜郭-東室蘭(操車場)間牽引に充当された。これは夏までに五稜郭-札幌貨物ターミナル間に拡大される。

写真は、その運用開始直後の3070列車を牽くDF200 901である。新進の高性能機に相応しいロケーションとして南千歳構内を選んだ。

1000tを牽引して礼文や豊浦の10パーミル勾配を駆け上がる性能は、DD51の到達出来なかった領域である。
千歳線内に入るほとんどの運用を置替えた後には、そこの各駅停車の電車列車と平行ダイヤが組まれた。DD51の老朽取替用には違いないが、もうひとつの新製目的は高速/過密運転線区である千歳線における、これの実現にあったのである。

最近の渡道スケジュールの大半は、これの撮影に充てている。

[Data] Nikon F4s + AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@F5.6 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

仁山信号場-大沼 (函館本線) 1983

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戦後、本州-北海道間の輸送量は旅客/貨物ともに増大を続け、近い将来にその列車回数は単線の線路容量を上回ることが予測されていた。これに対して、国鉄当局は函館/室蘭線ルートの線増計画を策定し、その喉元に在って20パーミルの片勾配にて補機を要していた渡島大野-軍川(後の大沼)間については、勾配を10パーミルに抑えた下り列車専用線の建設による線増とされ、この増設線上に'新峠下トンネル'の設置が予定されていた。後に藤城線(通称)として七飯-大沼間に開通する線路である。

この頃、北海道鉄道による建設から50年余りを経た'峠下トンネル'は老朽化が激しく、前記増設線の'新峠下トンネル'を先行して掘削し、現在線を暫定的にこれを通すことが計画された。
同トンネルは1956年12月15日に開通し、現在線の'滝ノ沢トンネル'出口近傍にあたる函館桟橋起点22K700Mより3.1kmを新峠下トンネル経由線に切換え、全列車をこちらで運転した。軍川側での切替地点は、現況で上り線が10パーミルで登り始める地点よりやや大沼側の桟橋起点25K800M付近になる。

一方、'峠下トンネルは'、その後に改築と改修工事が行われ、放棄した旧線路盤を復活させて上り線として使うことで、これと新峠下トンネル線との接続点(前記22K700M地点)に熊の湯信号場をおいて以北軍川との区間を複線運転とした。1962年7月25日のことであった。これに際して、軍川の手前1.5kmの区間は既設線の東側へ腹付線増し、これを上り線に使用した。
この1.5km区間の起点は前述の桟橋起点25K800M付近に一致し、ここで'新峠下トンネル'経由の下り線→既設線/腹付線増の上り線→復活線との接続が行われたはずだが、これにて接続地点に残るであろうクランク状の線形が現況には見られない。ここより下り寄りのR500曲線位置での接続としたのだろうか。
1903年6月28日開業と記録される、北海道鉄道の手になるこの小沼畔区間の建設は、その一部が湖中への築堤構築によるものであった。(*)戦前の絵はがき等にて、現在の道道338号線側にも湖水が広がっているのを見て取れる。複線化は築堤に沿って石材を投下しこれを拡幅したもので、開通直後の写真からは同時に道路用地も造成したように見える。

これより以前、この区間にはアジア太平洋戦争末期の陸運転換に対応して1943年9月30日に小沼信号場が置かれたことがある。その位置は、仁山信号場から4km、軍川まで2.1kmとの距離から判断して峠下トンネル出口付近のレヴェル区間と思われる。戦後まもなくの1948年7月の廃止につき痕跡は無いに等しいのだけれど、トンネル近傍にそれらしき空間は在った。

1966年9月30日の藤城線の開通に際しては、熊の湯信号場から'新峠下トンネル'への接続線を廃して、以降現況での線路使用となっている。
その路盤跡は80年代始め頃までなら仁山回り線の車窓から確認が出来たけれど、今では国道の新道建設工事などを経て判然としなくなっている。けれども最新の衛星写真でもそのルートを追跡可能で、なんらかの痕跡は残されているものと思う。探索にはあまりに短い区間ゆえか、その廃線跡レポート記事は見かけない。
七飯-大沼 (函館本線) 1981のカットで、機関車位置右に見える草地がそこに達していた接続線の路盤跡である。

(*)戦前の絵はがき - 実見したものはどれも、この湖中への築堤区間を「セバット」と解説している。
「セバット」とは「迫渡」で、小沼と大沼の接続部を指すものではないのか。この当時、ここも「セバット」と呼ばれたものか、寡聞にして承知していない。


写真は、雨天下に'峠下トンネル'へと向かう24D<北斗4号>。
列車後方、上り線が樹木に隠されたあたりから俯瞰位置直下あたりまでが、かつての小沼信号場の場内と推定される。無駄に外へ膨らんだように見える曲線は当時からなのだろうか。狭い用地で有効長を稼ぐ手だてと思えぬでもない。
今は、ここを道道338号線の跨線橋が越えている。

*参考文献 - 『北海道鉄道百年史』各巻 1976-1981 国鉄北海道総局

[Data] NikonF3HP+Ainikkor105mm/F1.8 1/500sec@ f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

北広島 (千歳線) 1972

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俄には信じられないけれど、ここは千歳線北広島である。
西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972と同日の撮影で、輪厚川橋梁が新線に切替られているのを確認して北広島の構内を見に行ったのだった。

広島町中心市街地から外れた台地に在って、交互に置かれた相対式の乗降場に中線を持っていたそれは、上り本線と中線が島式乗降場に変わり、線路を横切っていた構内通路も廃されて跨線橋が架けられ、西側にも駅舎と改札口が設けられていた。西側の丘陵地で始まっていた住宅団地造成に対応し、現在に繋がる通勤駅として体裁が整えられつつ在ったのである。この跨線橋に本屋が移転し橋上駅となるのは1974年暮れのことだが、1973年9月9日付にて駅中心キロ程は約100メートルを沼ノ端方に移動しており、この時点で既に西口が駅長事務室とされていたことになる。この訪問時点では、まだ東側の本来の本屋が機能していたと記憶している。

写真は、その苗穂方から構内を見ている。
中線を出発する列車の後方に乗降場が在って、跨線橋も煙に隠されて見えない。駅本屋は左側画角外になる。
住宅公団の北広島駅前団地は着工前で、西側には丘陵地が広がるばかりだった。
画角に見える小さな踏切道を左に辿るとフランシスコ修道会の北広島修道院の横道に出て、いまは人道跨線橋が架けられている。
輪厚川橋梁が新線に切替られたとは言え、それは将来の(*)上り線による単線運転で、一番手前に見える分岐器をこちら側に分岐しているのが下り線として準備された線路である。そこからは、さらに旧線に繋がっていたと思われる線路が分岐していたけれど、配線は様変わりしていて判別は出来なかった。

なお、上野幌-北広島 (千歳線) 1993でも書いたように、北広島以北の新線への切替は、新線と旧線の交差地点を境界として二次に分けて実施され、輪厚川橋梁を含む区間が先行した。現在、旧線跡を転用した自転車道(道道1148号札幌恵庭自転車道線)のループ式跨線橋の架けられているところが、新旧の交差地点となる。この先行区間も複線の使用開始は1973年9月9日であった。

(*)上り線 - 現在も千歳線の施設上の起点は苗穂にある。

列車は、4097列車。東札幌への急行貨物であり、それは本州線から継送となるコキ5500にて組成のコンテナ列車である。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 O56filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5on Mac.

釧路 (根室本線) 1985

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道内の夜行急行列車が廃止されて久しい。これと北海道均一周遊券との組合せは北海道への撮影行の定番だったのだが、その双方ともに今はない。
札幌と函館、釧路の間が、それぞれ3時間に4時間の時間距離ともなれば、確かに夜行の領域ではない。5時間程の稚内/北見・網走方面にしても、もはや夜間移動の需要はバスにて十分に吸収出来る程にしか存在しないのだ。

夜行列車が欠くべからざる移動手段として活況を呈していた70年代には、各方面とも定期列車に先行ないし続行する予定臨ダイヤも設定され、折からの ‘DISCOVER JAPAN’ キャンペーンの成功にて押し寄せる観光客輸送に、夏期の繁忙期等には、そのスジによる臨時列車が運転されていた。
これには観光利用に特化した設定のゆえに、網走から釧網本線に直通する<大雪51号>の原生花園臨時駅行き(回送で斜里まで)や、札幌を経由しない洞爺-釧路間の<狩勝52号>のように定期列車には見られない運転も存在した。

基本的にはどれも客車列車なのだが、宗谷本線の<利尻51号>だけはキハ56/27による気動車運用で、夏期の運転では内地から借入のキハ58/28の組成されることもあった。この列車は下りのみが設定され、車両は上り<天北> の増結車にて札幌へ戻っていた。
72年の夏に利用した際には、客車と異なり車内照明の減光機能がないために、深夜走行中のそれは消灯であった。非常灯のみで宗谷本線の無人地帯を行く車内は暗闇となり、それは寝台車にすらない環境である。乗客の全てが稚内までの乗り通しであればこその割り切った措置だったのだろう。

夜行の臨時列車には特急の設定もあって、80系気動車にて函館山線経由で函館-札幌間に上りのみ運転した<北海51号>がそれである。
青森からの<はつかり51号>への継送を前提とした設定のため、札幌を21時過ぎに出て函館は深夜2時30分の到着となり、青函連絡船は貨物便を客扱いした162便が接続した。
これにも一度乗車したけれど、真夜中の乗継ぎはさすがに堪えた覚えが在る。上野には17時の到着であった。

道内夜行急行には、82年11月改正で14系座席車が、次いで83年4月から7月にかけて同系寝台車が投入された。
寝台特急の運転の無かった道内で、それは撮影対象としては歓迎すべき事態であったけれども、周遊乗車券を利用した宿代わりと見れば、スハ45/スハフ44に軍配が上がる。
腰掛の座席下にヒーターを装備した14系では、それが暑くて寝て居られぬ上に、リクライニングにストッパのなかったRN-51形式腰掛は眠るには落ち着かないのだった。
思い出すのは、座席車だけが14系に置替られた当時、これに乗車していると加減速の際にドン突きをともなう前後動が激しかったことである。
ブレーキ装置の14系のCL方式と軽量客車側のAV方式にて応答速度の違うものか、自動密着連結器と自動連結器の相違とそのバネ係数の違いによるものなのか、これらの複合要因であるのか、小刻みな前後動に加えて、時折眼の覚めてしまうくらいの衝撃もあったのである。これは14系側だけの現象であって、この時期に利用した寝台車では感じられなかった。

写真は、道内旅行に不可欠だった夜行急行の一角、釧路駅頭での414列車<まりも>である。
寝台車5両に座席車4両を連ねた編成は、堂々のトランブルーだ。
郵便輸送の取扱便の廃止以降につき、機関車次位の隅田川客貨車区運用[北東航21]はスユ15となっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 Bulb@f11 Non filter Tri-X(ISO320)

平糸-別海 (標津線) 1977

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根釧台地上に敷設された標津線は、落葉樹林の原野とそれを切り開いた酪農地帯とが交錯して、似たような車窓がどこまでも続く。
厚床線と通称された中標津から厚床に向かう路線に、その感が強い。
それは、沿線の何処に立っても同じような写真の撮れることであり、事実そうなのだった。
しかし、この沿線を特徴づけるサイロのある風景を放牧地越しに、引きの在る画角で捉えようとすれば、それは在る程度限定された。

列車からのロケハンで「あたり」をつけて五万図にプロットし、最寄り駅にて下車、その地点を目指すのだが、放牧地への農道が地図に全て記載されるでなく、当てずっぽうに入り込んでは歩き回るしか無かった。
ここは、「あたり」の場所に辿り着けぬうちに、偶然達したポイントである。
夕闇の迫る光景は、それを待った訳ではなく、日中の列車をその間に逃してしまったからに他ならない。

この翌年の再訪で、この場所への再到達を目指したけれど叶わなかった。その農道もまた、何処も似たような風景なのだった。

列車は、355D中標津行き。
キハ22の2両編成は、この当時でもここでの最長組成である。

[Data] NikonF2A+AINikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1984

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それの試験線区とされた函館本線の銭函-手稲間の電化工事が完成し、札幌運転区に回着したばかりのED75 501による試験運転の開始は、1966年11月15日と記録されている。それは、当時の新聞等でも事前に報じられる程のイヴェントではあったが、平日とあっては沿線に繰り出せるものではなかった。
しかし、毎日行われた走行ゆえ後日見かけたそれは、測定機器を積んでいたあろうスハフ32にワムにトラ等の貨物車、そして最後位に有火のC57を繋いだ珍妙な編成であったのを思い出す。蒸機は牽引試験の荷重であり、また異常時の起動用であったのだろう。

茨城県の常磐線沿線に祖父祖母が住んでいた関係で、夏休みの帰省の際など、そこを走るEF80を眺めていた身には電機は珍しいものではなく、道内のそれがEF80より小型なのが不満だった覚えが在る。これの記録は、いつも持ち歩いていたリコーのオートハーフによる出来の悪いカットしかない。

ED75 500番台は、新採用であった主シリコン制御整流器による連続位相制御の誘導障害が大きく、これに替えて変圧器無電弧タップ切換器によるタップ間電圧連続制御として磁気増幅器のみをシリコン整流器としたED76 500番台が量産されることとなった。
門司機関区に配置のED76基本番台とは、蒸気発生装置の搭載と中間台車の装備は共通だが、制御機器や方式、車体の寸法に形態も異なり、別形式と言って良い存在である。

1968年8月28日の小樽-滝川間電機運転開始に際して、67年度第二次債務計画により東芝と三菱にて落成の9両が岩見沢機関区(*1)に配置され、翌69年にも同年10月10日の滝川-新旭川間の電化開業に対応して、さらに13両が増備された。これが、この機関車の全てとなった。

これらが投入当初どのように使用されたものか、手元に運用表は持たないのだが、当時札幌鉄道管理局列車課から頂戴した70年10月1日改正の函館本線列車運行図表を読むと、列車線の横に(EL)や(DL)との表記が見られる。表記の無いのは蒸機牽引である。
それによると、ED76は旅客列車から一般貨物、運炭列車まで万遍無く仕業に着き、この当時の電化区間は電機、蒸機に内燃機と入り乱れて運転されていたのが見て取れる。この頃までは、電化区間で完結する貨物列車も多かったし、非電化区間からの列車もその接続駅でED76へまめに機関車交換を行っている。つまりは積極的に使用する姿勢と読める。
特に、旅客列車はごく一部にD51とDD51牽引が残るものの、そのほとんどを引いており、夜行<狩勝>を除く(*2)急行列車も勿論である。
小樽-札幌間と区間の短いながら<ていね>〜<ニセコ>は、その投入から同列車の廃止となる86年11月改正時点まで律儀にもED76の牽引であり、札幌-旭川間となる<利尻><大雪>も80年10月改正でDD51による通し運用とされるものの、82年11月改正にて下り<大雪>/上り<利尻>に復帰し、90年3月10日改正にてその地位を去るまで急客機であった。
85年3月改正で客車化の<宗谷><天北>は例外で、これは88年11月の再気動車化までDD51の仕業であった。

この電機の不幸は、1964年に国鉄北海道支社に作られた電化計画委員会が立案した電化計画の内、80年10月開業とされた第二期分の室蘭/千歳線からの沼ノ端-岩見沢間の見送り、84年2月改正でのヤード系輸送全廃による貨物列車の大幅削減にあるだろう。
この区間の電化が実現していれば、旭川方面と苫小牧/室蘭間の多くの貨物列車に充当されたものと推定され、札幌近郊の通勤通学列車に、ほぼ客車と一体運用されるような晩年とは、異なる結末を迎えた可能性が高い。残念なことである。

(*1) - 岩見沢操車場の一角に設けられた電機検修の分区を指す。岩見沢第二機関区としての正式の発足は68年11月27日である
(*2) - <狩勝>の牽引は終始釧路機関区のDD51に依っていた。

写真は、恵比寿岩付近の海沿い区間での121列車。この年2月の改正にて旭川行きを札幌に改めていた。小樽築港からがED76の牽引だ。
撮影は、良く知られた西春香バス停留所付近の民家脇の俯瞰ポイントである。ここへは90年を最期に行っていない。今でも俯瞰は可能なのだろうか。その後にリゾートホテルの敷地となったと聞くが、グーグルのストリートヴューで見る限り、この位置ではない気がしている。
もっとも、721/731系の電車列車ばかりでは、どうにも食指が動かないのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC44filter TRi-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

七飯-大沼 (函館本線) 1981

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1972年に特急形として登場したはずの14系客車-座席車系列の、遅すぎた定期特急列車運用については、七飯-大沼 (函館本線) 1988で述べた。
対して、定期普通列車(快速を含む)への運用は三例あり、全て北海道内である。

最初の事例は、1981年2月の101・104列車<ニセコ>の同系置替にともなうもので、当時、この[函 1]運用は札幌運転区への滞泊に際しての出入区運転を客扱いしており、それは手稲-札幌(回送で苗穂)間の1843・1842列車として設定されていた。
置替は当然ながら、この列車を含むことになり、2月7日の101-1842/同 8日の1843-104より施行され、特に1843列車は手稲を08:00に発車するダイヤで、首都圏でもライナー列車のない時代に特急車両による通勤が実現していた。
夜間の1842列車は1982年11月15日改正にて、1843列車は84年2月1日改正にて、それぞれ客扱いが廃止され消滅した。

2例目は、そのライナー列車であり、1985年8月12日より稚内から到着の304列車<天北>編成を、そのまま手稲まで<ホームライナー>として運転した。これは86年11月1日改正でのライナー列車の振替まで継続された。
これへの乗車には乗車整理券の購入を要し純粋な普通列車とは言えぬかもしれない。

残るは、言わずと知れた88年3月13日改正より運転開始の<海峡>である。
札幌運転所[札11][札12]運用による201・202列車<はまなす>の青森における間合いを利用したもので、[青3123函3130青3133函3136青]の2往復が設定され、以後列車番号の変遷はあるものの、2002年12月2日改正による特急格上げ/電車化まで存続した。
後年には、<はまなす>編成ゆえドリームカーやカーペットカーも連結され、青函連絡船昼行便のグリーン席や寝台室の再来を思わせる青函移動の穴場的存在でもあった。
もう1往復、[函3128青3131函]が、50系5000番台車使用列車への増結車捻出のため88年4月までに(期日不明)函館運転所の14系に置替られたが、こちらは、51系5000番台の増備により89年3月11日改正にて終了している。

写真は、通称-藤城線の久根別トンネルを出て新峠下トンネルへのR800曲線上の104列車<ニセコ>である。
置替から間もない頃で、まだ旧客時代と同じ8両組成を保っていた。

撮影は、新峠下トンネル入口直上に架橋された国道5号線の跨線道路橋からである。大沼から徒歩で向かうには狭隘な大沼トンネルを抜けねばならず、大型車の通過には、それとの距離に身の危険を感じた。
現在では、これに隣接して新跨線橋が架けられ、改修した従来橋を森方面、新橋を函館方面車線に使用している。新跨線道路橋からも、これに近い画角は得られようが、その側壁とフェンスの高さには躊躇してしまう。

写真の機関車位置右に見える空き地は、藤城線開通まで存在した線路跡である。
これについては別項に譲る。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320)

塩狩 (宗谷本線) 1974

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宗谷本線における塩狩峠は、塩狩の下り場内信号機手前の旭川起点28K130Mの施工基面高251メートルを最高標高として越えるもので、蘭留との標高差66メートル程、和寒とは111メートル余りである。双方とも最急勾配20パーミルが連続するものの、標高差の大きい和寒側で直線的に上ってしまうなど、さほどに山深い峠ではない。

けれど、塩狩駅は、国道40号線に近接し東側には農業施設が存在するにかかわらず、樹林帯にてそれらと隔絶され、山間の小駅のロケーションに在った。乗降場より一段高い位置にある駅本屋が、信号場としての出自を感じさせる。それでも、長い構内有効長と中線までも持っていた規模は、かつて樺太連絡の重要幹線にあって峠の頂上に位置した風格と言ってよかろう。
この日は、蘭留側に下った小半径曲線の連続する区間での撮影を予定していたものの、激しい降雪にそれを諦め、駅構内にて一日を過ごした。めったに乗客の来ない待合室で、ストーブの上に置かれた薬缶から上がる湯気の向こうに降雪を眺めるのは、それこそ至福の時に違いなかった。

写真は、塩狩を通過する303D<天北>である。
特急の設定の無い宗谷本線では最優等列車であり、<宗谷>と共に確かにその貫禄は備えていた。
連査閉塞が施行されて通票の授受はなくなっていたけれど、列車監視に立つ駅員の姿は運転扱い駅の証である。列車も速度を落とすこと無く、力行のまま構内を通過して行く。
上下線間からの撮影だが、この位置には使われなくなった中線が存在し、当時は撤去されていなかったと記憶する。

この頃、既にこの区間の蒸機運転は無くなっており、蘭留-和寒間での補機も一部貨物列車と編成の長い夜行<利尻>を除き廃止されていた。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1992

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苗穂から北広島に至る千歳線の新線区間は、最急勾配を10パーミル、最急曲線をR800にて設計され、白石からの高架橋にて新札幌で既に上野幌と同等の施工基面高30メートルを確保して、椴山付近での63メートルのサミットに対して上野幌側では丘陵の尾根を突き刺す直線的な線形で高度を上げている。必然的にその谷には橋梁が架けられ、大曲B./保安林B./橋本B.と続く。
中でも、上野幌近隣の大曲橋梁は231Mの延長を持ち、長大編成列車を載せてその南北両側や直下の畑作地からなど様々な画角を提供してくれる被写体となっていた。
丘陵地が迫った位置への架橋ゆえ、どの方向からでも背景が空に抜けず、その丘陵の秋の美しさも特筆に値する。
しかしながら、電化後は橋梁東側の尾根先からは架線柱が煩雑で撮れなくなり、残念なことに、近年になって西側の熊笹の丘からも前景の樹木が成長してアングルの限られるようになってしまっている。

このポイントも同様で、この頃はまだパイプラインの埋まった草道だった旧線路盤から後方の斜面を登った位置なのだけれど、まもなくここに北海道ガスの北広島供給所が設けられ、失われてしまった。

列車は、8007列車<エルム>。
6月のこと、8両程度の組成と予想していたのだが、11両とあっては橋梁上に乗り切らない。もう、北海道は観光シーズンなのだ。

8007・8008列車<エルム>は、89年3月改正における<北斗星3・4号>の定期格上げに際して、それの後継として設定され、上り下りとも首都圏-北海道間寝台特急群のしんがりを勤めるダイヤも新たに引かれたものである。この予定臨のスジは、同列車の運転以外に同編成による団体臨や修学旅行等の集約臨にも利用された。
92年は春臨から冬臨まで<エルム>の最大運転本数を記録した年で、上下延べ291本の設定であった。これには、<カートレイン>のスジである9009・9010によるもの(*)を含むけれど、集約臨や回送運転は含んでいない。
この頃には、予備車確保の関係上、品川運転所の24系25形や青森運転所の24系が組み込まれることがあり、白帯車の道内運転は、これ以外に例はない。(銀帯車は<カートレイン>運用車である)

(*) - <エルム81・82号>としての運転。特に冬臨設定は全てが、このスジであった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f11 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

落部 (函館本線) 1988

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函館海線の定番撮影地ゆえ、落部には幾度も下車したけれど、駅から海側に続く集落(と呼ぶにはやや規模が大きいが)に入ったことが無い。
その先に、この辺りでは規模の在る落部漁港の存在も承知していて、一度覗いてみたいとは思うのだが、果たせずに居る。

1903年に北海道鉄道がここに開通した際、海岸段丘上に敷設された線路は、それの途切れるこの区間を急勾配で地平に降りて通過していた。内陸への迂回は既に存在していた落部の集落を避けたものだろうか。あるいは、住民から忌避されたのかも知れない。ここへの駅の設置が開通の8年後であるのは、鉄道会社によるそれへの意趣返しと見て取れぬでもない。
アジア太平洋戦争末期、敗戦間際に開通した線増線は段丘下にルートを取り、内陸側への迂回に際して段丘を穿つ第一から第三までの落部トンネルが設けられた。

写真は、落部の構内を抜けて第三落部トンネルに向かう6003列車<北斗星3号>である。
6003・6004列車<北斗星3・4号>は、88年3月13日改正で設定の<北斗星>系統3往復にあって季節(多客期)運転の輸送力列車として位置づけられ、その組成は尾久客車区による*B寝台車のみ6両編成を所定に、以下10号車までを需要に応じた1両単位での増結としていたが、6月17日の6003に始まる夏臨期の運転からは、所定を8両に改めている。<北斗星>3往復の、その運転開始以来の予想を遥かに上回る旅客需要ゆえである。
このため、6003・6004列車はこの夏臨期の設定以降、翌89年3月改正での定期格上げまで集約臨としての運転を含めて、ほぼ毎日され、特に個室寝台は寝台券の入手難が続いたことから、88年7月22日の相互発より尾久客車区/札幌運転所の予備車の活用により個室寝台車/食堂車の組成も行われた。
これにかかわる趣味的な興味は、追記に詳述している。

*B寝台車のみ6両編成を所定に - この記事では、その全てを電源荷物車を除いた両数で記述している。

この日の6003列車は、所定8両運行での初日である。とはいえ、オハネフ25が中間に入り、外見上は所定6両に増結2両と変わりはない。牽引のDD51も原色を維持していた頃である。

第三落部トンネルの上部となるこのポイントは、周囲が畑作地となっていてアプローチは容易である。そこを反対側に横切ることで、野田生側との両面打ちも可能であった。(ただし、牧草地の柵越えをしなければならない)
道南自動車道の建設で大型ダンプの通行がやかましかった2003年が最近の訪問だが、車窓からでは現在も展望は可能に見える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52Filter Tri-X(ISO320)



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上興部 (名寄本線) 1968

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実は、この頃カラーネガでも撮っていたのである。
ここでは、掟破りではある。

まだ、自分の写真が定まらぬ頃で、当然カラー撮影にも魅力はあった。
ただ、それが当たり前であった時代に、自家処理の出来ないもどかしさと、プロラボでの手焼きなど知らぬ頃ゆえプリントでの発色に不満で、結局はモノクロに絞り込んでしまった。
加えて、フィルムにせよプリントにせよ、外注せざるを得ないそのランニングコストは遥かに高く附いたのである。

これは、前年の夏に続いて再び名寄本線へ遠征した際のカットである。
前の年には撮らず仕舞だった一ノ橋との間の天北峠区間がその目的で、この日の車窓からのロケハンでもめぼしいポイントは見つからなかったけれど、取り敢えずは勾配区間へと線路沿いを歩き始めたところで、この光景に出会った。
放牧地にあったカシワと思われる独立樹の木陰が印象的で、その移動する木陰の方向に合わせて、結局は一日をここで過ごしてしまった。

列車は、1691列車。この当時貨物扱いの在った小向を除く13駅に停車し、遠軽まで7時間あまりをかけて走っていた。

このフィルムには、コダック独自のフィルム名称を示す記号が無く、12987との乳剤番号のみ印字されている。現在につながるオレンジマスクは当時最新の技術で、発売されて間もないものと推定する。
現像直後から冷蔵庫で、その後に冷凍庫で保存のネガは、一部退色の見られるものの、カラーバランスの崩れも無く良好な発色を見せた。退色箇所も、データ上で十分に補正可能なレヴェルにある。(ここでは、あえて補正していない)
現在のフィルムスキャナは、ストレートなスキャニングでも高い彩度をとる傾向が在り、これでも、G系統Y系統の彩度と明度をかなり落としている。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250@f5.6 Non filter Kodak unknown film (ISO100) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1984

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羽幌線は、冬にばかりの鬼鹿に対して、初山別へは夏場にも通っている。それも、わざわざ最混雑期を選んで渡道していた。
その訳は、宗谷方面客車急行の増結運転もさることながら、夏の観光シーズンに運転されていた札幌-羽幌間の臨時急行<天売>が、この旧盆時期に限って羽幌以北を延長運転するゆえであった。そのキハ56/27による4両組成は、この頃ここでの最長編成である。

深川からでも130kmの初山別はスケジューリングの難しいところで、定番は札幌からの<利尻>を早朝の幌延で捨て、羽幌線の上り始発へ乗継ぐことだった。これなら、上りの急行<はぼろ>から撮影に入れるのだ。
ここでのポイントとなれば、初山別 (羽幌線) 1977で記事化した通称-金駒内陸橋となる。
羽幌線をこのあたりまで北上すると、鬼鹿近辺での海岸段丘上の低木は姿を消して一面が熊笹に覆われる。しかも、それは強風のせいか丈の伸びず、視界を遮ることなく登坂の妨げにもならない。段丘上のいずこも撮影ポイントになり得るのだった。

写真は、金駒内川河口で隔てられた北側の段丘上部から撮っている。ここからだと金駒内陸橋の全長を見通すことが出来た。振り返れば、海岸段丘の迫る海岸線が緩く弧を描きながら遥か彼方へと視線を導き、その先に利尻岳を微かに認める。盛夏とは言え日本海を渡り来る風に秋風の冷たさもあって、熊笹の揺れる音を聞きながらの長過ぎる列車間隔は心地よい時間だった。
列車は、もちろん目当ての8803D<天売>である。札幌から滝川までは401D<狩勝1号>に併結、上りの8804Dは全区間単独運転と記憶している。
キハ22が2両か単行で走るこの区間でのキハ56/27は、それだけで優等列車の貫禄十分である。
しかし、天売島/焼尻島への観光客輸送の主体は、とっくに冷房の効いたバスに移っており、この列車の設定もこの翌年が最期となった。

余談だけれど、羽幌線はここよりさらに北の遠別付近で車窓に水田を見る。北緯44度43分。稲作の北限と言うが、熊笹の丘と牧草地との共存は不思議な光景だ。

[Data] NikonF3P+Ainikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f8 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1982

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塘路の崖である。
細岡 (釧網本線) 1984でも触れたように、釧路湿原の俯瞰ポイントを探していた頃に、ここの存在は車窓からのロケハンで承知していたけれど、その見るからに急峻な斜度に登坂を躊躇していたものだ。
それは塘路で下車すれば、その乗降場からも地肌の露出して屹立した斜面として遠望出来た。

その直下に立ってみれば、土砂の崩壊跡とも見て取れず、草木の無い理由はわからなかった。
比高は40メートル程度、下部からして、その斜度は45度を越えると思われ、上部ほど傾斜の増すのが見て取れた。山屋の経験から言えば、それは登摩具なしでの登坂の限界である。
土の露出のところどころに植生の部分があり、そこへ到達すれば急斜面で身体を支え、機材をセッティングしての撮影は出来そうに見える。セオリーにしたがい、バックパックのウェストベルトを外し、ショルダーストラッブを伸ばして重心を下げて登摩を開始した。斜面をトラバースしながら徐々に高度を上げざるを得ないのだが、斜面側に重心を寄せながらのそれは、恐怖の一言であった。最後は、斜面を這うようにして到達した。

そこは、それだけの価値はあり、眼下にエオルト沼、マクント沼、ポント沼をはじめとする大小の湖沼群と釧路川本流を見て、塘路湖を最遠部まで遠望するポイントであった。
ここには、季節を変えて都合4回登っている。2回目以降はストックを2本持参した。

列車は、混合644列車、網走行き。この頃には貨車の連結されることはほとんど無くなっていた。

さて、写真をご覧になって気がつかれた方も多かろうと思う。そうなのである。
後年になって、この丘陵に「サルルン展望台」が開かれ、そこから標高79.1mの三角点へも容易にアクセスが可能となっている。その三角点こそ、この崖の真上にあたるのである。
そして、2001年に列車からの現認で、ここは樹木に覆われた緑の斜面となっている。旧に復したと言うことであろう。夢の跡である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@F8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

七飯-大沼 (函館本線) 1983

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七飯浜から上磯で函館湾に開口し、峠下に尽きるまでの緩やかな斜面を大野平野と呼んで良いのだろうか。
函館周辺の都市化の進む70年代まで、ここは豊かな土地で、田地や畑作地の広がる中に、こんもりとした小さな森が点在して、横津岳、七飯岳、木地挽山、雷電山などに三方を囲まれた風景を、連絡船から乗継いだ急行列車の、軽快なエンジン音で車窓に見るのが好きだった。

また、ここは季節風の吹く頃になると江差から厚沢部を経て木地挽山への雲の通り道にもあたり、晩秋には時雨の、冬には降雪の日が多い。遠く函館山に日射しのあるのを雨天の七飯岳中腹から何度も目撃したし、積雪も函館市街地を遥かに上回る。

七飯からの藤城線の高架橋を、この平野と函館湾を背景に撮れぬものかと考えたことが在る。今でこそ、桜町団地の造成や城岱牧場への旧道にあたる町道桜町8号線の函館新道建設にかかわる整備にて、そのポジションをとることは容易で、同じく上藤城8号線(通称-城岱スカイライン)の開通により、より高度のある俯瞰も可能になっているけれど、75年頃に国土地理院の五万図であたりをつけて現地を歩き回ったものの、高度感のあるポジションは見つからず仕舞だった。

写真は、その中でなんとか到達したポイントで、城岱牧場への旧道に入って右手の畑作地の斜面を登ったところにあった。
しかし、ここからだと高架橋の曲線の内側に入り過ぎて背景に海面は望めないのだ。送電線の保守用の草道を、より上へ左へと辿っても、そこは樹木に遮られて見通しはなかった。

列車は、3053列車。隅田川から青函7便での航送を経て札幌貨物ターミナルまでの特急貨物列車Aである。Aの区分は、最高運転速度の100km/h指定を示し、それに対応したコキ/コキフ10000系列のコンテナ車で組成されていた。
この当時、2往復が設定の首都圏-北海道間特急貨物列車Aに専用された隅田川駅常備の同系列貨車は、緩急車車体後部には北海道の地図をかたどったマーキングが入れられ、3051・3050が<北たから>、3053・3052が<ほっかい>の列車名を名乗っていた。
もっとも、100km/h運転は、ブレーキの電気指令と増圧装置を装備したEF65 1000番台およびED75 1000番台の重連に牽引される東北本線内のことで、最高運転速度95km/hのDD51には無縁ではあった。

首都圏-北海道間のフレートライナーは、1968年10月の改正で設定のコキ/コキフ10000系列による3051・3050を嚆矢としており、同改正での東北本線の全線複線電化完成、道内のコンテナ拠点駅たる新札幌(1973年7月16日に札幌貨物ターミナルと改称)の開業にて実現した。
青函航路にワム車換算48両の積載で等速運行可能な津軽丸型客載車両渡船-7隻が67年度までに配備完了したことも背景にある。最大18両までのコンテナ車の一挙航送が可能となっていた訳である。
函館・室蘭線への最初のDD51の投入は、当初に14両組成(航送は16両、つまり2両は函館止まり)だったこれの重連牽引を目的としていた。
同区間へのライナー列車は、その後、1972年3月改正にて2往復、1973年10月改正で6往復、1976年10月改正でさらに1往復と増発が続けられて行く。これらには、コキ/コキフ50000系列による特急貨物列車BおよびCが含まれる。
1972年3月改正の増発以降は最大組成を16両としたものの、速度の見直しにより東北線内(補機使用区間を除く)、および道内での重連運転を解消していた。
なお、本州線-北海道間のコンテナ列車は、フレートライナー以前からもコキ5500系列を使用した急行貨物列車として運行が行われている。

さて、このポイントは、間もなく耕作を中止して永らく放棄された後に、函館新道の建設工事にて切り崩され現存しない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor200mm/F4 1/250@f11 NikonO56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

白石 (函館本線/千歳線) 1988

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苗穂の札幌に対するポジションについて、以前に書いたことがある。苗穂 (函館本線/千歳線) 1992

その隣駅白石も、73年9月の千歳線接続に際して、苗穂同様にその前後で函館/千歳線の上下線それぞれが相互に連絡されていた。複々線を効率良く運用するに不可欠の配線であるが、その使用法は苗穂といささか異なり、*構内南側の札幌貨物ターミナルと東札幌への連絡線を各線に接続させる必要上からであった。例えば、この当時存在した倶知安や小樽築港からの貨物列車を札幌貨物ターミナルへと、また千歳/岩見沢方面からのそれを東札幌へ入線させるためである。
また、それらと*機関区所在の苗穂との間に単行機関車列車の運転が頻繁に設定されていた。

*構内南側の札幌貨物ターミナルと東札幌への連絡線 - 1968年10月1日の新札幌(1973年7月16日に札幌貨物ターミナルと改称)の開業に際して、白石-東札幌と白石-新札幌に函館本線の貨物支線として設けられ、1973年9月9日の千歳線の白石接続、札幌貨物ターミナルの厚別/新札幌通路線開通まで、その唯一の連絡線として機能した。白石-札幌貨物ターミナル間は同日付にて廃止されたが、線路は現在も白石の構内側線として健在である。
白石-東札幌間は、東札幌の廃止とともに1986年11月1日付にて廃線となった。

*機関区所在の苗穂 - 札幌貨物ターミナルに乗務員区/機関車検修施設が併設されるのは、札幌駅構内に在った札幌客貨車区を改組/移転して白石運転区として発足する1986年11月1日のことである。1987年4月に日本貨物鉄道に承継され、札幌機関区となった。

それらの廃止後も温存された設備は、1992年の新千歳空港連絡快速列車の頻発運転の開始以降、苗穂の持っている札幌の着発線使用方にかかわる機能の一部の負担に使用されるようになっている。加えて、この際には*千歳上り線に待避線も設けられた。
中でも乗降場旭川方に設置の函館本線上り線と千歳線上り線間のシーサスクロシングは常時稼働し、札幌に向かう函館/千歳線列車の一部を相互の差替えている。主には千歳線から函館線への転線だが、その逆も在って、函館線列車の同線優等列車への退避も可能である。
札幌から同駅まで続く複々線区間の使用方において重要な地位を占め、それは苗穂を介して札幌の着発線の使用方までも規定しているのである。

*千歳上り線 - 同線下り列車運転線。ここでは、施設上の基準に従い苗穂を千歳線の起点として記述している。

この駅の特異性は、こればかりではない。閉塞上きわめて長い構内延長を持つのである。それは、函館方の下り場内信号機にはじまって、函館線は厚別の下り場内信号機まで、千歳線は新札幌の出発信号機(白石第四出発信号機である)に至るものである。千歳線では棒線駅の平和/新札幌、そして札幌貨物ターミナルを含んで5kmを越える。
これは、この区間で札幌貨物ターミナルへの通路線が分岐していることによる。手動閉塞の時代ならば、当然信号場が設けられたが、自動信号とあってはそれを回避したものである。千歳上り線ならば新札幌手前から白石の場内信号機が連続するが、通路線分岐外方の白石第三場内信号機を除き、それは実質的に閉塞信号と変わりはない。

写真は、雨天下に苗穂方から白石構内に進入する 2列車<北斗星2号>である。既にDD51には塗色変更機が投入され始めていたけれど、この日は重連の2両とも原色機であった。
白石の構内も配線変更のなされる以前で、現在ではこの位置に立てない。

9月も秋分を過ぎて、札幌は秋へと傾く冷たい雨だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1979

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国土交通省は、北海道新幹線の新函館以北区間の工事着工に、この2012年5月にも認可の方針と聞く。
工期が予算配分から24年にも及ぶと言う、およそ現実離れした実施計画だ。工事は全区間で均一に進むでなく、早期に完成した路盤や隧道、橋梁はその間放置され収益を生まぬ訳だから、まだまだ政治のカラクリの潜んでいそうな様相だ。着工後の見直しは必至と思う。

四半世紀後の函館本線が、どのような姿か想像もつかぬが、ともあれ開業に際しては新函館・七飯-小樽間が並行在来線として北海道旅客鉄道から経営分離される。同社の着工同意は、これを前提にしている。沿線の関係地方自治体もおおむね同意の方向だが、温度差はかなりありそうだ。
貨物の動脈でもある海線区間はまだしも山線区間の鉄道維持は困難をともなうだろう。
現位置に新幹線駅の予定される倶知安を筆頭にしたニセコ地域と、小樽/札幌への通勤通学需要のある余市町/仁木町でのそれには大きな開きがあり、両町の同意は渋々に違いない。
開業後の倶知安-札幌間の所要時分は15分程度と聞き及ぶ。リゾートはおろか、札幌のベッドタウンに十分な時間距離である。対して、余市町/仁木町では小樽まですらバス利用にて1時間を覚悟せねばなるまい。
そもそも、86年の優等列車廃止以降、新幹線に転移するとされる優等旅客のいない山線区間が果たして並行在来線と呼べるものなのか、甚だ疑問ではある。

この延伸に際しては、函館から18キロと言う空港より遠い新函館の位置による道内輸送機関としての適格性も問われる。
九州新幹線の成功は在来の鹿児島中央駅へ乗り入れてこそである。これには、新函館開業時に在来線との接続をホームタッチにするとの報道に答えを見て取れる。報道内容はここまでだが、札幌延伸後にホームタッチの在来線を改軌すれば新幹線列車の函館発着がかなう訳だ。おそらく自治体関係者にはここまで伝達されているのではないか。道や函館市が江差線の維持に転じたのは、このあたりにカラクリがありそうだ。

写真は、再びの日本で一番有名な踏切、「北4線踏切」である。倶知安 (函館本線) 1982
ここに達する農道は冬期に除雪されない。この日はワイス温泉からのバス移動であったゆえ、国道上のバス停留所からの移動は覚悟していたものの、無雪期の5分に対して30分以上を要してしまった。それでも、倶知安駅までバスに乗り、線路伝いに戻るよりは早かったはずである。
列車は、荷41列車札幌行き。3両の旅客車は函館からだけれど、その客扱いは森以北である。

倶知安を出た新幹線は、北に直進して高見付近で倶登山川を渡り、末広あたりで二つ森トンネルに入る。
その頃、列車の来なくなったこの位置からは、画角の遠く左右方向にその高架橋を見るはずである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 6] 急行“天北” 1984

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仕事写真では必需品であった可変焦点レンズだけれど、鉄道の撮影では使用していない。全て単焦点である。これは今でも通している。

焦点可変であるがゆえに、フレーミングの選択肢が無限に在って、その決定が曖昧になってしまうのが最大の理由だ。
何があっても編集者なりクライアントの意図に沿った写真を持ち帰らざるを得ない仕事写真とは異なり、趣味の写真である。画角の決定に迷うくらいなら、単焦点の与えられたそれでフレーミングを楽しみたいと思っている。

鉄道を撮り始めた頃から70年代はじめまでに、ニッコールには既に7本程の焦点可変レンズがラインナップされていたけれど、いずれも報道分野を意識した高価な高倍率の望遠系で、でなければ単焦点が当たり前の時代であり、それを装着して、自分が動きながら、あるいは被写体との距離を予測しながら撮影位置を決定しフレーミングする、それがセオリーである。もう、身にしみ込んでいる。

曲がりなりにも職業カメラマンの仲間入りを果たすと、限られた時間でカットを稼がねばならず、かなりの無理をしてニッコールの定番だった「よんさんはちろく」こと43-86mmに、80-200mmを導入し、後には先輩から50-300mmを安く譲ってもらい使っていた。
ただし、ニッコールと言えども、これら可変焦点レンズの画質は単焦点には遠く及ばず、当時の新聞や雑誌グラビアの印刷レヴェルにあってこそ機能したものだ。B5判の見開き指定ともなれば、当時のフィルム性能もあって6×6判の領域であり、35mmなら間違いなく単焦点を選んだ。

印刷技術の急速な進歩にあって、ニッコールに使える可変焦点レンズの登場するのは、1982年の‘Ai-Zoom80-200mm/F2.8ED’を待たねばならず、それは恐ろしく高価でもあった。
ニコンは、引き続き可変焦点を報道用の特殊レンズと見ていた傾向があり、85年からの10年間は、その開発すら止ってしまう。

今もそうなのだが、蒸機撮影時代からの習慣(?)で、三脚上にプレートを介して二つの雲台を準備し、メインとサブのカメラをセットする。時にはどちらもメインだ。
2台使用なので、可変焦点レンズを導入しても機材全体の軽量化にはつながらない。これが、単焦点に拘る消極的なほうの理由である。むしろ重量化する可能性すらある。

カメラとともに買い与えられた50mmと135mmに始まって、このモノクロ撮影時代に持ち歩いた単焦点レンズは、28/50/85/105/135/200mmの各焦点距離である。50mmはf2からf1.8とf1.4を、105mmもf1.8とf2.5を使い分け、200mmは後で180mmに差替えている。画質に不満でZEISS社のDistagonをアダプタを介して使っていた28mmを除けば、全てニッコールである。300mmは必要に応じて仕事用の機材を持ち出していた。
このラインは、機材の買替えはあっても、リバーサルフィルムを経てディジタル撮影の現在も基本的に変わっていない。Distagonの28mmがNikkorの24mmに入替わり、逆に50mmがPlannerのZFになって、COLOR-HELIARの75mmが加わり、135mmが外れたくらいだ。

不思議なのは300mmで、リバーサルも併用するようになって急に装着頻度が上がった。自分でも理由が良く分からない。大きくて重い仕事用のf2.8に替えて、f4を導入して持ち歩くようにしていたのだが、やはり明るさと画質に不満で、その頃最も全長の短かったTokinaのATXに替えた。これならバックに立てて収まるのだった。

ニッコールの広角系は、35mm/F1.4のような名レンズもあるのだが、24/28mmに関しては今一つの印象であった。画面のディストーションがまとまらず、なにより周辺部での崩れが大きかったのである。
これがどうしても気になっていた頃、80年頃と記憶するが、Contax RTS向けに発売されていたのがDistagon 28mm/F2.8だった。同じ頃にContax-Nikon間のマウントアダプタの存在も知り導入を決めたものだ。その描写は素晴らしいものだったが、アダプタを介した撮影には種々の制限があり、オートフォーカスの時代になって劇的に改善されたニッコールに再交代した。

写真は、天北線の急行<天北>に組成されたキロ26 201の車内である。3番の座席付近から前位側の客室妻面を見ている。Distagon 28mm/F2.8による描写は、カメラ位置さえ的確なら歪みを感じさせず(実際に無いのだ)、絞り開放でも周辺部まで破綻の無いものだ。

キロ26201 は、1967年度三次債務予算にて新製の同系列における最終増備グループに属する。キハ56/27であればパノラミックウィンドウを装備したグループである。この時点では、20年に満たぬ経年なのだが、かなり老朽化して見えた。
1月半ば過ぎのこの日、南稚内から旭川までの乗客は自分を含めて3人であった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 1/125sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320)

網走 (石北本線) 1973

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1972年10月2日のダイヤ改正において、同改正での<いなほ><ひたち>の電車化による捻出車を転用して、それまでの501・506D急行<大雪2・4号>の特急格上げにより、1031・1032D<オホーツク>が札幌-網走間に設定された。函館を起点とした道内の特急設定に在って、札幌発着の最初の例となった。
札幌運転区の<北斗>運用と編成を共通化して、編成南側のキハ82を4号車、北側を10号車に付番の7両組成の運転であった。
また、この改正では、函館運転所運用の11・12D<北海>に対して編成増強(7両基本編成南側に3両を増結する10両化)も行われ、そして多客期には8011・8012Dとして旭川-網走間の延長運転も設定された。
道内では、石北本線の特急輸送体系の整備された改正だったのである。

この<北海>の網走延長運転は、延長区間の運転に約4時間を要し、その往復に旭川での運用間合いが不足することから、1031・1032D<オホーツク>と共通運用を組むことで編成の所要増を抑えていた。
すなわち、この網走延長時のみ、"函館11D旭川(8011D)網走1032D札幌 / 札幌1031D網走(8012D)旭川12D函館" と回る、函館所持ちで2組編成を運用する臨時運用が組まれた。

車両の所要増なしに石北線の波動輸送に対応する施策であったのだが、この臨運用ではいくつかの興味深い事象が見られた。
まず、札幌区に配置された80系気動車は、室蘭/千歳線経由で運転の<おおぞら><北斗>と札幌駅在姿での編成方向を合わせ、編成南側を旭川方としていて、函館所とは逆編成になっていたのである。
ところが、函館山線を運転する<北海>は札幌駅に編成南側を函館方とした正方向で入線する。つまり、<北海>と<オホーツク>では札幌以北での編成方向が異なっていた訳である。
これを共通運用とすると、この臨運用の期間中、これらの上下4個列車は、それぞれ一日毎に編成の向きが異ならざるを得ず、函館所/札幌区への所定方向での帰区は隔日となってしまう。
函館所では、12Dで午前0時過ぎに帰区の編成を同4時には11Dとして出区させることになり、その検修作業はタイトなスケジュールと想像に難くない。また、旅客現場では、乗車口案内など複雑な業務の生ずるであろう。

この煩雑を回避するため、札幌区では、この臨運用施行期間中のみ<オホーツク>充当編成を方転させて函館所の<北海>と方向を揃え、運用も委ねていたのである。また、<北海>は編成南側の3両を旭川回転として石北本線内を<オホーツク>の7両組成に合わせていた。
その都度行われた方転作業は、苗穂の転車台使用とも思えるが、その手間から手稲-苫小牧-岩見沢-手稲の三角線に方転列車を運行したと推定している。
この臨運用は1981年の夏臨期までの各多客期に設定実績がある。

写真は、網走駅頭での<オホーツク>。所定編成を編成の南側から見ている。
この日は、動労の順法闘争にて1031Dの到着が大幅に遅れ、1番線に据付けのまま1032Dへの折返し整備が行われていた。食堂車では食材/器材の積卸に慌ただしい。

<北海>の列車名が消えて久しく、ましてそれが石北線を走ったことをご記憶の方も、もう少ないのではなかろうか。
根室発の<ニセコ>の愛称には違和感があったけれど、網走行きの<北海>ならオホーツクを目指す列車に相応しいと思える。
上記文中の編成方向にかかわる「南側」「北側」表記については、Websiteの記事を御参照いただきたい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO400)

小平 (羽幌線) 1972

obira-Edit.jpg


深川 (函館/留萠本線) 1971の続きである。

国鉄本社に通った理由は、もうひとつあって、それは鉄道電話であった。
小学校/中学校とクラスメイトの鉄道官舎に引かれた普通の電話ではない電話として、その存在は知ってはいたものの、国鉄外部の者が使えるとは思わずにいたのだが、それが*電電公社回線で言うところの公衆電話として国鉄本社ロビーに置かれていたからである。

*電電公社回線で言うところの公衆電話 - 回りくどい言い方だが、国鉄部内では電電公社の回線による電話自体を「公衆電話」と呼称していたので、このような書き方にならざるを得ない。電電公社とは日本電信電話公社であり、勿論現在のNTTである。

これにて、『国鉄PRコーナー』の資料で欠落していた線区や最新ではない情報を、関係区所へ問い合わせていた。もちろん、自宅の電話も使えた訳だが、この当時の長距離電話料金は眼の飛び出る程に高かったのである。
着信した側から見れば、鉄道電話による問い合わせゆえ、内部に関係する人間からと思われたのも予期せぬメリットではあった。
ただし、この当時において全国のほとんどの地域で自動化(ダイヤル直通化)を達成していた電電公社回線と異なり、多くの地区で交換台を呼び出す必要が在り、特に北海道の旭川局や釧路局管内に対しては大抵の場合、札幌交換台を通してさらに旭川や釧路の交換台を呼び出してもらうことになり、目的の区所に繋がる頃には、相手の声はそれこそ蚊の鳴くようであり、こちらも大声で怒鳴らないと話の出来ない有様ではあった。

鉄道電話は、例えば通票式閉塞器からのタブレットの取り出しに係わる駅相互間連絡など運転上の必要性から派生して、全国に敷設された鉄道線路に沿って架設の通信線にてネットワークされた回線であった。
戦前の段階で、既に自前の全国回線網を持っていたのは国鉄のみであり、警察電話の整備は戦後のこと、防衛庁(自衛隊)の専用通信網に至っては1970年代以降と聞いている。

ここ、小平駅への電話も札幌-旭川の交換台経由で、驚いたことに小駅にもかかわらず、その回線は駅長、出札、手小荷物、貨物と4本も用意されていた。多機能電話端末のない時代とあっては、端末一つひとつに番号を割り振らざるを得ない訳だ。これ以外に運転当直への直通があるはずだが、それは別の専用回線なのだろう。

列車は、小平蕊川橋梁上の1893列車羽幌行き。1970年の築別炭礦閉山による運炭列車の廃止以降に、一往復のみ残された貨物列車であった。
道内において川幅のある河口付近の架橋で、背景も含めてすっきりとした構図のとれる橋梁はそう多くはない。
根室本線釧路川橋梁、釧網本線濤沸川橋梁に日高本線の数例を見るのみだ。この小平蕊川橋梁は、海側からのポジションの取れる貴重なポイントであった。(後には、人工河川に架橋の室蘭本線新長万部川橋梁がある)

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

深川 (函館/留萠本線) 1971

fukagawa-Edit.jpg

丸の内の国鉄本社ビル1階ロビーに『国鉄PRコーナー』なるスペースがあった。それがいつ頃開設されたものか知り得ないが、1970年の秋には既に存在していた。
同様のコーナーは、東北支社、後に仙台駐在理事室の管轄にて仙台市の国鉄ビルにも開かれ、全国で2例のみと聞く。
いったい、どのような層を対象に、如何なる意図で設置されたものか、まさかファンサーヴィスとも思えぬが、ここには国鉄を広報するパネル展示がなされ、様々なパンフレット類やPR誌が置かれていたばかりでなく、鉄道公報を始めとして全国の列車運行図表や車両配置表に運用表、優等列車編成順序表などの資料、さらには部内/現場向けに刊行された車両の解説書などの図書類が備えられ、カウンターに申し込めば閲覧が可能であった。

この当時の撮影の情報源と言えば、“ピクトリアル/ファン/ジャーナル”の三大鉄道誌は存在したものの、肝心の列車ダイヤや機関車運用となるとキネマ旬報社が刊行していた『蒸気機関車』誌に特集記事に合わせて折り込まれる程度であり、現在の『鉄道ダイヤ情報』誌の前身となる『SLダイヤ情報』の創刊も72年10月を待たねばならず、これとて年刊のレヴェルであった。

その状況下で、『国鉄PRコーナー』の存在は、まさに宝の山に違いなく、閲覧は出来ても複写は許可されなかった列車ダイヤの転記に、方眼紙持参にて足繁く通ったのは言うまでもない。
もちろん転記はそればかりでなく、当時ここで得た様々な資料は、その後の鉄道研究の出発点であり、一次資料として現在も活用させてもらっている。
(この項続く)

写真は、臨9781列車。赤平から留萠への運炭列車である。
ここで閲覧した運用表で、留萠本線の後補機付き列車は深夜帯のみと知り、深川での撮影を試みたものだ。
同じく配線図から函館本線の中線より下り線を横断して留萠本線への転線と推定して、本務機の煙も後補機の右奥で十分にラインライトに浮かぶと予想したのだが、凄まじいドレーンの蒸気で見事に裏切られたカットである。
(なお、1972年3月改正にて昼間の5783列車も後補機付きとなった)

余談だが、カウンターを担当されていた女性の方には、このコーナーが閉じられて文書課に移られてからも部内の情報源を紹介いただくなど随分とお世話になった。後年の寿退社の際には結婚披露宴にご招待にも預かった。今、ご子息も鉃道にお勤めと聞いている。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/30sec@f2.5 Non filter NeopanSSS(ISO200)

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