"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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音別 (根室本線) 1990

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根室本線音別駅は、国鉄〜旅客・貨物鉄道各社による駅の営業形態の分類上で一般駅に属する。すなわち、旅客も貨物も取り扱う駅である。
遅くとも1960年代までは、これが駅の通常の姿であったゆえ「一般」駅と区分されて来た。旅客のみの扱いであれば旅客駅、その業務を外部に委託するならば委託駅、職員の配置がなければ無人駅である。運転関係職員の配置が在っても旅客営業を行わなければ無人駅に区分され、貨物関係のみの職員配置駅も同様である。
貨物だけの取り扱い駅は、勿論貨物駅と分類されるけれど、少なくない例が存在した、それを業務委託した場合の区分はない。
貨物扱い駅の集約化が進められた70年代から、そして鉄道が貨物輸送市場から大きく撤退した80年代以降では、一般駅はそれが決して「一般」でない程に希有であり、数の上では旅客駅と無人駅が「一般」的な形態なのはご承知のとおり。

音別のような規模の中間駅が一般駅を維持しているのは、コンテナ貨物の扱い実績による。ここには、1980年以来、高速貨物列車(1984年2月改正までは特急貨物列車)の一往復が停車し、数両のコンテナ貨車を解結している。
1987年の国鉄の分割・民営化以降は日本貨物鉄道が承継した事業だが、同社社員の配置はなく北海道旅客鉄道がその業務を受託している。同駅の窓口業務が15時と言う早い時間に終了してしまうのは、コンテナを積載した上り列車の出発に合わせてのことである。
一方で、同様の環境にあった高山本線の坂祝駅のごとくに、貨物鉄道が旅客業務を旅客鉄道会社より受託した例もあり、こちらはセメントの出荷列車の出発後も夜間まで営業していたけれど、その列車廃止とともに社員も撤退し、みどりの窓口までが設置されていた駅は無人駅となってしまった。

写真は、札幌貨物ターミナルから新富士への1451列車。高速貨物列車Cに指定され、最高運転速度は85km/hに制限される。
列車後部の2両(この日はコンテナ積載が無い)が音別にて解放となる。
DD51の重連運転は、新富士発着列車の上下本数のアンバランスによる送り込み回送を兼ねてのことであった。

ここは、例の「黄泉の国の子供たち」の一件のポイントだ。→音別 (根室本線) 1986 4年振りの訪問だったが、この間に海側へ通信線柱が建植されてしまっていた。

さて、音別発着のコンテナ貨車に積載されたコンテナの荷主は、音別町市街地の東郊に所在する大塚食品株式会社釧路工場であり、その荷とは、同工場が大塚製薬より生産を受託している『オロナミンCドリンク』である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f11 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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北見 (石北本線) 1973

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北見駅ならば、やはりかつての駅本屋が思い起こされる。
寄せ棟だが、マンサードではなかったと記憶する赤い大屋根に、小さな時計台と意匠のある煙突が印象的で、北海道国鉄駅に共通した三角ファサードを持った堂々とした駅舎であった。
ここに限ったことではないけれど、夜行で到着すると待合室の駅そば屋が既に営業していて、そのツユは濃い口で真っ黒の北海道の汁だった。

その夜行<大雪>には、1980年10月の改正まで北見回転車があって、上りへの乗車で網走での改札前整列に間に合わない時など、北見へ先行してこれの乗車口に並んだ。北見では乗降場での整列が黙認されていたのである。
ただし、考えることは皆同じで、多客期など地北線用の切欠ホームの在る2番線の旭川方、そのホーム幅の狭いところだけに異様に乗客が集合している光景がみられたものだった。→網走 (石北/釧網本線) 1972
この回転車は北見客貨車区の運用で、これにスハフ44/スハ45各2両の配置が在った。所定ではスハフ44-1両だが夏場の旅行シーズンなど多客期には2両に増結された。スハ45が増結用である。

駅本屋の改築は1983年10月のことであった。その三角形をシンボルにしたデザインは、旧駅舎の三角ファサードをイメージしたものである。一方で乗降場の上屋などには手が加えられず、近代建築の駅舎と対照を成していた。
北海道旅客鉄道への承継後の現在、乗降場の南側の7番から15番までの側線に、大きなラウンドハウスを持つ北見機関区と、それに隣接していた北見客貨車区、さらには付帯した回転線に仕業線など、その全てが撤去されて小さな構内となってしまった。上下本線間(1番線と2番線の間)に存在した中線も外されて、何やら空虚な感覚を受ける。

前にも書いたのだけれど、かつての駅構内は照明されて夜でも明るかった。小沢 (函館本線) 1978
ここのような拠点駅ならなおさらで、背の高い照明塔が設備され、構内を煌煌と照らし出していた。ナイトゲームの行われる球場並みとは行かないが、それでも新聞が十分に読める明度ではあった。
これにTri-X Pan Filmを以てすれば、とりたてて増感を行わずとも走行シーンの撮影が可能だったのである。それは、出発や停車目前で運転速度の遅いこともあり、また適度のブレも動感の表現であったからだ。
特に構内照明をバックライトにした蒸気機関車の煙やドレーンは夜目にも美しく、好んで撮っていた被写体だ。

写真は、北見を発車する1529列車。北見からは夕方の帰宅時間帯にあたっていた。
旭川からのこの列車は、この当時、遠軽までをDD51、北見までをD51に牽かれ、そして網走までがC58の牽引であった。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1993

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撮影地は生き物、とは善く言ったもので、礼文 (室蘭本線) 1995でも少し触れたけれど、それの失われる事由の多くは樹木の成長や植生の変化によるものである。これは緩慢に進行するゆえ状況は読み易い。
対して人為的な事由では、沿線への障害となる構造物の構築を筆頭に、鉄道側においても通信線柱の建植更新、それへのケーブル装架位置変更、標識などの線路付帯物の設置等、枚挙に暇が無く、近年各社が積極的に進める跨線橋へのフェンスの設置も、これに当たるかもしれない。
このシリーズに記事化しているポイントも、40年から十数年を経ており、現在も同じ地点に立てて同一の画角の得られるものは少ない。
逆に、新たなアングルの出現することもある。こちらは全てが人為的なもので、代表的には山林の伐採や道路の開通、展望施設の設置など俯瞰ポイントがらみが多い。稀に自然現象も在って、知る限りでは洪水にて河床が変化し岩伝いに河中まで移動が可能となった例がある。

よく知られている、豊浦の東方、起点32K810M=34K414Mのブレーキングポイントのある貫気別川橋梁を挟むR600/R604の反向曲線区間を俯瞰するポイントについては、少々複雑だ。
かつては、国道37号線沿いの寺院裏手の熊笹に覆われた緩い斜面を、広葉樹の森の際まで登った位置がポイントであった。写真もその位置から撮っている。笹をかき分けねばならず、それなりの仕事を要した。
それが2000年頃であったろうか、この斜面から続く山全体が伐採地となり、同じく国道沿いの自動車修理工場の脇の道にその作業用通路が接続され、これを伝って頂上付近からの高度のある俯瞰が可能となったのだった。

それはそれで福音には違いなかったけれど、伐採後には、その多くがそうであるように杉の幼木が植林され、それは前記の熊笹の緩斜面も含めてのことであったから、反向曲線区間の俯瞰は、幼木が視界を隠すまでに成長する十数年程度に時間を限られたことでもあった。
ところが、この植林地は、その後に放棄されてしまうのである。山林主の都合であろうが、手入れが全く為されないため、この地本来の植生である広葉樹が伸長し、繁茂する薮が杉を覆い始めている。2010年秋の確認で既に視界の遮断箇所が多々在り、想定を遥かに早めて「失われたポイント」となりそうな様相である。

列車は、3列車<北斗星3号>。
89年3月改正にて、季節列車から定期に格上げされ、東日本旅客鉃道と北海道旅客鉄道が隔日で交互に運用を担当していた列車であるが、この翌年には、何故か毎日運転ながら再び季節列車に格下げとなってしまう。
この日は、尾久客車区による[尾21]運用である。

このポイントでは、300mmで橋梁を中心にした反向曲線を切り取るのも良いけれど、やはり周囲の地形と青空まで取り込める180mmの画角が気に入っていた。

[Data] NikonF3P+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1994

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長万部の駅本屋は、北海道旅客鉄道への承継後に内外を改装し、改札左側を占めていた駅務室が右側の待合室の一角に移された。運転扱いがなくなり、荷物フロントも不要の出改札業務のみとなれば十分なスペースだ。
そして旧駅務室部分には、国鉄の購買部の流れを汲むと聞く物販店=スーパーマッケットが開かれた。
ここの店先には、氷を盛られた発砲スチロール製の魚箱がいくつも重ねられ、噴火湾産の新鮮な魚介が売られていた。そんな古い時代のことではないから、ご記憶の方も多かろうと思う。
聞けば、地元の漁協から直接に買い付けるもので、これも購買部当時からの取引なのだろう。
魚箱には十数尾が詰められ、それこそ500円からの値札が付けられていた。驚いたことに、それは一尾の値段ではなく一箱のそれなのである。
ある日のこと、カレイが20枚近く収められ1280円の箱を覗き込んでいると声をかけられた。噴火湾のカレイである。これを刺身にひいて一献傾けたい想いを、それを見透かされたようにである。
聞けば漁協の関係者だと言う。彼曰く、「最も上物は築地市場に送られる」「二番目のは札幌に送る」そして「ここにあるのはバラものだ」と。確かにどれも小振りで肉の厚みも不揃いだ。そして、こうも付け加えるのだった。「でも、どれも同じところに居た魚だ。どれも美味い。」
長万部で、いつもここの魚を見て帰京すると、近所での買い物が空しくなって困った。

以前にも書いたけれど→長万部 (室蘭本線) 1990、長万部周辺での本格的な撮影は1988年以降のことになる。
ここは、長万部起点2〜3キロ付近のR800からR600に繋がる反向曲線区間で、撮影地としては高名なポイントである。下り列車では背景に渡島半島脊梁の山容が取り込めるけれど、通信線柱がうるさい。DF200なら視点を下げることで、それを機関車背後に隠せもするが、ボンネットで車高の低いDD51では、それもままならない。
対して上りには、通信線柱は避けれるけれどもバックが空に抜けてしまう。二者択一でいつも悩んで、後者の選択が多かったポイントだ。

夏至まで約一ヶ月の時期ではあるが、ここを17時過ぎに通過する8002列車<トワイライトエクスプレス>には、感度320とは言え1/1000秒のシャッタでの絞りは開放近くになってしまう。
浅い被写界深度に置きピンは慎重でなければならず、気持ちの繋がらないモータードライヴの連写は使わないから、一発必中が要求される。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/1000sec@f2.8-4 NON filter Tri-X(ISO320)

塩谷 (函館本線) 1985

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小樽市塩谷における近年の最も大きな変化は、小樽市中心市街地との短絡路となる道道956号線(小樽環状線)の開通であろうか。この道道は、こともあろうに塩谷の駅前をかすめて、その東方で函館本線をオーバークロスするのだ。

1960年代半ば、身近だった小樽からオタモイへの勾配の線路端にカメラ片手に出没していたものの、気持ちは、より遠くの稲穂峠や上目名に飛んでいて、先輩諸氏の通った塩谷の蘭島方、石狩湾を俯瞰する斜面を知るのは後年のことである。
この頃の塩谷は、小樽から峠を越えた山中の印象で、実際に石狩湾へと傾斜する緩い斜面にありながら前山があって海は望めない。集落は駅前の傾斜地に樹木に埋もれるように、こじんまりと存在していた。
ただし、その駅は長い有効長と中線を持つ規模で、市街地を避けて創業したであろう駅裏のガス工場への専用線も分岐していた。集落規模には不釣り合いな広い待合室の重厚感のある北海道型とでも言うべき駅本屋に跨線橋の存在と合わせて、重要駅の証であったと思う。

良く知られるように、1967年に日本放送協会にて放映された連続ドラマ『旅路』の舞台のひとつとされ、実際にロケ撮影も行われたようであるが、今日と異なり、観光客の押し寄せるでなく、土産物屋の出店するでなく静かなものと記憶している。決してローカル駅ではなかったこの時代に駅舎内での撮影は困難であり、それらのシーンはスタジオ撮影だったはずである。

写真は、於汰萠峠を下る102列車<ニセコ>である。
この3月の改正で、基本編成が4両に減車され、多客期のみ7両までの増結とされていた。ここからの捻出車が宗谷方面急行の14系置替の財源となったのである。
また、1984年2月改正にて郵便車の取扱便が廃止されており、[北東航22]運用のそれはオユ10から護送便用のスユ15に変更されていた。
なお、長万部までの重連牽引は、この改正後も維持され、補機運用の廃止は翌1986年の3月3日改正であった。

この頃になると、写真の列車後方、樹木に隠されている斜面の国道5号線沿いには宅地が広がり始めていたが(住宅の屋根が一部見える)、塩谷駅周辺に及ぶものでなく、いまだ標高54メートルに隔絶された地ではあった。

この撮影ポイントは小樽環状線の建設にて削り取られた丘の、まさにその位置にあたる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptuerOne5 on Mac.

小沢 (函館本線) 1986

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銀山 (函館本線) 1982 で函館山線の没落に触れた。その続編でもある。

往年を知る身には、今の小沢は衝撃的ですらある。それでなくとも、二股、蕨岱から各駅ごとの信じ難い光景の連続に加えて、小沢には声も出せない。
その現況はWeb上にも多くの報告が在るゆえ詳細は記さないが、弘済会の売店も在った待合室と重要駅らしくスペースのとられた駅務室の、典型的な国鉄北海道型の駅本屋は既になく。その撤去跡に小さな待合所の建つ光景は、そこが小沢とは俄に信じられないものなのだ。それでも残された特徴ある木造の跨線橋が否応無しに現実を教えてくれる。何より違和感を覚えるのは、あるべき駅舎が無くなって駅前広場から構内が見通せてしまうことだ。
保線用に僅かに残る以外の側線の全て引き剥がされた構内は、植生に浸食されて一回りもふた回りも小さくなって見える。

幹線からの没落は、御殿場線(旧東海道本線)の例を引くまでも無く、道内でも過去に池北線(旧網走本線)、天北線(旧宗谷本線)、名寄本線の三例がある。これらは、鉄道輸送の需要拡大期に、それに代わる幹線の開通にともなってのことのである。函館や札幌からの長距離優等列車の運転がなくなっても、ルーラルな輸送に重要な地位を占め続けた。
幹線でなくなるとは、如何なることなのか。函館山線は、鉄道輸送がシェアを低下させた時代に在っての希有な事例を目前で見せてくれている。

写真は、幹線駅として最期の夏の光景である。構内は既に放置され夏草に埋もれつつあった。
列車は、荷43列車苗穂行き。客扱いは札幌までである。
山線にも50系51形客車が進出する中で、内地からの航送車を継送する函館発着の荷物列車は引き続き函館運転所の旧形客車の運用だったが、それでも、同列車の定番であった白熱灯照明のオハ35やスハフ32に替えて、14系化された急行列車から捻出のスハ45/スハフ44が充てられるようになり、後にはそれらの全検切れの代替として内地から転入のスハフ42なども組成された。
また荷物車もマニ50やマニ36に変わりないものの、84年2月改正/85年3月改正と続いた国鉄小荷物輸送の大幅縮小にて拠点駅の直行輸送が主体となり、荷扱職員の乗らない締切輸送に変わっていた。編成には締切便専用のマニ44も見て取れる。これは、[大航201]運用、遠く宮原客車区の配置である。
すなわち、函館山線の荷物列車は、ほんの数年前とは様変わりした姿で最期の夏を走っていたのである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f11 SC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

早来 (室蘭本線) 1967

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北海道のC57は、1960年代の初めまで優等列車の先頭に立つ、所謂「急客機」だったのである。
1・2列車の列番を保持し道内国鉄の代表列車であった函館-網走間<大雪>の小樽-旭川、函館-釧路間7・8列車<まりも>の小樽-富良野、室蘭/千歳線経由の107・108<すずらん>の函館-札幌間全区間がC57による牽引であった。(函館-旭川間5・6列車<あかしや>は全区間C62牽引)
その頃までは小樽市内の在住で、富岡教会近くの自宅窓からは小樽駅に上がる煙を間近に見えて、その前後区間に出かけては、これらを飽かずに眺めていたものである。写真機を手にする以前のこととて、残念なことに撮影はしていない。
小樽築港機関区に18両が集中配置の機関車番号が、当時つけていたノートに残る。おそらく機関区まで出かけて行って教えて貰ったものと思う。

これらが一変するのが61年10月改正で、美留和 (釧網本線) 1978にも書いたように、この前年に<すずらん>は気動車列車に立替えられたのに加えて、<あかしや>も旭川-網走間を延長して気動車急行<オホーツク>を名乗り、<大雪>は客車運用が継続したものの札幌打切りでC57の出番はなく、<まりも>が唯一の仕業として残されたのみであった。

これにより小樽築港区のC57に余剰が生じ、それらは苗穂機関区にて千歳線での貨物列車の補機仕業に転じた他(北広島 (千歳線) 1972)、室蘭機関区のC55の置替に使われた。
国鉄線上における蒸機牽引旅客列車の掉尾を飾った、室蘭-岩見沢間シャトル列車のC57仕業は、ここに始まった訳である。その末期には室蘭機関区の縮小により、その配置は本来貨物用機の配置区である岩見沢第一機関区に移されている。

室蘭本線も早来近くになるとウトナイ湖周辺の湿原から丘陵地にかかり、施工基面高も18メートルを越える。線路周辺の植生も背の低い広葉樹林となって、冬期間には落葉し、所謂「冬木立」の様相だ。
平坦線区で「煙」の期待出来ないならば、一工夫が必要と考えていた身としては習作に良い機会だった。

列車は、225列車岩見沢行き。この当時は6両編成と、現在とは比べ物にならない輸送力である。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f5.6 Y52Filter NeopanSSS Edit by CaptureOne5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1984

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釧路湿原を俯瞰したいと思いつつ、なかなか果たせないでいた。
釧網本線は、湿原取り囲む丘陵地の縁をトレースするような線形で進むのだけれど、そこには大抵は落葉樹が大きく育ち、見通しは効きそうにないのだ。
その頃から、岩保木山の展望台は存在したものの、五万分の一地形図上で検討しただけでも列車を俯瞰するには不向きと分かる。
何度かの車窓からのロケハンで見つけたのが、細岡手前の低い丘と塘路の急峻な崖だった。塘路の崖については別項に記述するつもりだ。

細岡の駅のロケーションは素晴らしい。もともと開拓地への利便で開設されたゆえ、周辺には僅かな民家のあるのみで、駅本屋ともども樹木に隠れるように在って、駅へと続く道は森の小径を思わせた。
風格も無く、堂々ともしていない、実用本位の木造板張りの駅舎は心地よく古びて風景に溶け込んでいたものだ。
さすがに、国鉄〜北海道旅客鉄道も、この環境からはダルマ駅にする訳にも行かなかったと見え、今では小さなログキャビン風の待合所に改築されている。

駅から遠矢方向へ徒歩で10分程で見えて来る低い丘陵群は、その地質はほとんど砂山で、それゆえに樹木の生長しなかったものと思う。登ってみると低いとは言え湿原を見渡せるポイントであった。
列車の通り過ぎた、奥の踏切から到達する丘は、現在でもここでの定番ポイントとなっており、撮られた方も多いだろう。
かつて蒸機の時代には画角後方のR362曲線の向こう側の高度のある丘からの俯瞰も出来たのだが、ご覧の通り、この時既に樹木が成長してしまっていた。ただし、ここからは湿原と逆を向くことになって列車中心の撮影であった。

列車は、3692列車。釧路操車場から中斜里までの、ほとんどホクレン中斜里製糖工場の専用列車である。
ワム車は製品出荷用で空車回送と思われるが、後方のトキには東鹿越からの石灰石が積まれているはずだ。
弟子屈ないし川湯と緑間に限られていた補機運用だが、84年2月改正以降では要員の削減や運用の単純化で運転全区間に使用されるようになっていた。

[Data] NikonF3P+Ainikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1983

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テオドール・エドラー・フォン・レルヒ [Theodor Edler von Lerch]
本邦ではレルヒ少佐として知られる20世紀初頭のオーストリア-ハンガリー帝国の軍人である。それは、現在の新潟県上越市高田で日本に始めてスキーを伝えた人物として記録されている。上越市には縁の人物と言って良い。そこには、その当時に命名された『スキー正宗』なる酒も存在しているくらいである。(1916年創業上越市西城町の武蔵野酒造が醸する)
ところが、この名前は倶知安でもしばしば目した覚えがある。
調べてみると、彼は決してスキー教師として来日した訳ではなく、逆に日本帝国陸軍の視察と研究に派遣された将校であった。当時、シベリア出兵を想定していた帝国陸軍は、彼の持つ「スキー」なる雪中移動技術に着目し、これの伝授を依頼したものという。その最初の教授先が高田の歩兵第58連隊であったゆえに、ここが日本スキー発祥の地とされているのである。
彼は、旭川の第七師団にも教授に訪れており、スキー発祥はその順番の結果に過ぎないものだろう。
さて、倶知安との縁だけれど、それは旭川第七師団への最終訓練としてスキーによる羊蹄山登山に際しての訪問だけである。特に縁を強調する程でもないのが真相だ。ただし、その節に現在の旭が丘公園(スキー場)のある斜面にて市民向けにスキー実技のデモンストレイションを行ったのは事実のようである。

その旭が丘スキー場は、倶知安の駅乗降場から夏場ならば草の斜面として至近に見える。
83年の夏の渡道の際、ふと眺めたそこからの羊蹄山を背景とした俯瞰撮影を思い立ち、その草原を登った。
しかしながら、最大斜度30度との斜面もスキー滑降ならではで、思いのほか高度感のないものであった。
仕方なく登坂を始めたのが、そこに在ったジャンプ台である。これは、1970年にここで開催の第25回国体スキー競技会に応じて建造されたもので、十数年を経た滑走路部分の板材はあちらこちらがが朽ち落ち、その高さもあって恐怖感を覚えるに十分だった。

写真は、列車の小さくなってしまうけれど、その滑走始点から俯瞰した第一苫土散川橋梁(河川名は倶登山川)を渡り倶知安構内へと入る13D<北海3号>である。
この列車は、81年10月1日改正で、急行<宗谷>の函館-札幌間を分離の上特急に格上げしたもので函館運転所の183系-10両編成での運転であった。
急行時代に比較して大幅な輸送力増強になってしまうのだが、札幌-釧路間の5005・5004D<おおぞら5・4号>と共通運用が組まれたためで、特に下りの場合は札幌駅に在姿のままで13Dから5005Dに運用が繋がっていた。
余談だけれど、同一編成を運用する函館発着の3-5003D・5002-2D<おおぞら3・2号>とは、札幌で編成が相対することになり、石勝/根室線内では逆編成での運転であった。
函館山線区間での10両組成は長大編成で、ニセコ、余市では後部2から3両がホームにかからなかった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f11 FujiSC44filter Tri-X(ISO320)

礼文 (室蘭本線) 1995

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虻田郡豊浦町礼文の集落は、噴火湾形成の過程で生じた断層崖に開口した、わずかばかりの海岸から山地に食い込むように北へ3キロばかり続く、ゆるい傾斜地に散在している。
北海道の地峡部とも言える渡島半島の付け根に位置するところから、冬には後志からの季節風の通り道となり、噴火湾に面しながら降雪の日が続く。道内でも比較的温暖とされる同じ豊浦町の中心地区へは、わずか10キロ程の距離だが、室蘭本線が大岸トンネルで抜ける山塊が、ここでは渡島と胆振の気候を分け隔てているように見える。
礼文の地形は、この狭い傾斜地内でも気象に変化をもたらし、山側にあたる室蘭本線の大築堤付近での悪天は海岸線で晴天のことも多々経験した。

礼文の漁師たちの家々は、海岸線に沿ってひとつの集落を形成しており、養殖のホタテ漁師が大半だ。
断層崖で陸路を絶たれた長万部とは海上でならば行き来もありそうなものだが、かの漁師たちとは漁場が隣接するだけに、昔から仲は良くないのだ、とは駅裏手に在った「民宿礼ぶんげ」の主人に聞いた話だ。

ここは、長万部や洞爺は勿論のこと豊浦からも距離が在り、早朝からの行動を希望すれば宿泊を余儀なくされた。
かつては寝袋での駅ネもしたけれど、近年では旅館泊まりにしていた。
駅前の「豊年旅館」は蒸気撮影の時代から鉄道屋には高名らしいが、80年代以降では夏場の海水浴客以外の泊まり客は鉄道屋ぐらいしかいなかったのではなかろうか。女将が高齢となって掃除も行き届かぬ風ではあったけれど、それでも午前3時起床のこちらに合わせて起き出して食事と昼用の弁当を仕出してくれたものだ。
踏切を渡ったところに在った「今野旅館」も同様で、経営者夫妻に良くしていただいたが、こちらも高齢のため89年には廃業してしまった。

その頃に開業を果たしたのが前記「民宿礼ぶんげ」で、奥さんが礼文の出身で室蘭での勤めを脱サラしてことと伺った。ホテルではなく畳に布団の旅館形式なのだけれど、居心地良く一週間程連泊したこともある。ご主人には、早朝に撮影ポイントまで、昼には豊浦あるいは洞爺までも自動車で送っていただくなどした。
後に、豊浦町の町会議員も務められたはずだが、突然廃業してしまい消息は聞き及ばない。

ここは、噴火湾に没する断層崖区間の静狩側と対を成す築堤である。静狩 (室蘭本線) 1992
撮影地として、つとに高名な築堤でもある。
かつては、国道37号線の高度のある位置から、このカーブした築堤のその全体を見渡せたものだが、これは国道下側の斜面の樹木の成長により困難となった。なによりも、築堤自体の法面が89年春に伐採/整備されて以来20年に渡り放置された結果、樹木が繁茂し列車の隠されるようになってしまっている。
この撮影地点は、国道切取り部の法面上部なのだが、例え今、築堤の樹木が伐採されたとしても、今度は直下にあたる国道脇の杉木立が成長しており、もはや失われた撮影ポイントである。

列車は、5列車<北斗星5号>。
画角内で白く映るのは、エゾヤマザクラである。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.





江別-豊幌 (函館本線) 1986

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1986年には、その11月のダイヤ改正にて大きな変動が公表されて、6月、7月そして9月とこまめに渡道している。仕事が建て込んで長い日程の組めず、撮影ポイントに人出の予想される夏休みと改正直前の時期を外したためだ。
この6月の渡道も、日程上仕事先の福岡から航空機で千歳に直行となった。撮影機材の託送に手間取るので飛行機移動は好まぬのだが、この時も地上側の都合でランディングの遅れた上に、バゲジクレームでも待たされ、結局予定していた函館山線への移動を諦めて、この新夕張川橋梁へとやって来たのだった。14時台には、ここを302<宗谷>と3028D<おおとり>が通過する。

11月の改正では、函館山線からの優等列車の消滅と客車列車の全廃および1961年より四半世紀に及んだ80系特急形気動車の道内定期運用離脱がアナウンスされていた。
80系気動車は、80年から183系への置替が順次進められ、85年3月14日改正以降では、季節列車1往復を含む5往復列車の運用となっていた。
中でもキシ80は、3027D・3028D<おおとり>とこれと基本編成を共通運用とされた25D・22D<オホーツク5・2号>に組成されるのみで、道内特急でも食堂車投入の最も遅かった石北特急がその最期を担っていた。これは在来線昼行特急に残された唯一の食堂車でもあった。

写真は、新夕張川橋梁上での3028D<おおとり>である。
85年3月14日改正以降、その基本編成はキシ80がキハ82の次位となる珍妙な組成となっていた。これは旅客案内上、札幌運転所183系運用による<オホーツク>2往復と組成順位と乗降扉位置を極力合わせるための措置と思われ、キロ80とキシ80を方転したものだが、この際にこの2形式の組成順を変更してしまうと制御回路が繋がらなくためである。
(このあたり、下記の追記に詳述するので興味のある方はご覧いただきたい)


久しぶりに訪れた夕張川は、その河川敷が奇麗に整地されて草地となっていた。ならばと、そこへ降りていっての撮影とした。
初夏の透明な風の心地よい午後と覚えている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor85mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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生田原 (石北本線) 1978

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Tri-X フィルムのこと八雲 (函館本線) 1971を続ける。

1971年の夏の渡道に1本だけ持参した始めての Tri-X は、高感度と言うだけでのぶっつけ本番使用だったけれど、これをコダック社の指定通り、使い慣れたD-76の22℃、6分30秒で上げて引き伸し機にかけてみると、やや肉乗りに過ぎると思われたそれからスムースな諧調が引き出され、ハイライト側の遠景も焼き込んでやればくっきりと絵を結ぶのに驚かされた。印画紙はお気に入りだった三菱製紙の「月光」、現像は指定処方MD-51の自家調合だった。

まもなく入学した写真学校では、講義や実技よりも暗室の自由に使えるのがうれしくて、先輩に倣って100フィート長巻をバトローネに仕込んではテストを繰り返していた。
そこで見えて来たのは、フィルムの感度とはプリントから遡って決定されることだった。「月光」の2号を基準に、学校からスポットメーターを借出し、覚えたてのアンセル・アダムスのゾーンシステムを用いて自分で決めた露出と、それを単純にセコニックメーターの示した指針と比較すると約1/3EVの差があり、自分のTri-Xの実効感度はASA320と決めた。
このテストでは、調剤の不安定さに限界を覚えていた自家調合に代えて、調合済み薬品も試していた。丁度フェニドンを主薬としたPQタイプの現像液が出回り始め、MQタイプに比較しての疲労度の小ささにも注目していたのだった。
Tri-Xは確かに粒状感のあるフイルムだけれど、プリントの際にそれで見せるフィルムでもある。要は、その粒が奇麗に揃い、諧調を表現してくれれば良いのである。
これらを満たし、なおかつ相性が良いと判断したのが小西六写真工業社の超微粒子現像剤コニドールファインなのだった。
推奨はされていなかったこれの希釈現像は、ただ単純にマイクロドールXに範をとって試行してみただけだったが、現像時間によるカブリもなく僅かながらシャープネスの向上が感じられ採用したものだ。1:3まで試して結局はそれに決めたものの、一度の現像のたびに廃棄するからPQタイプ現像液のメリットは失われたかも知れない。
テストのデータからASA320の感度で、やや浅めの22℃の12分から12分30秒を標準と決め、96年10月のこの組み合わせでの最後の現像まで通した。

撮影時の露光を厳密に決定しておけば、この現像時間や液温は多少ラフでも問題なく、逆に言えば全てのロールを12分30秒ジャストで上げても、プリントで十分対応が可能であり、その特性曲線で読める通りに、決して直線性の良くはないのだけれど、乱暴な扱いをしても自分の意図した諧調を引き出せるフィルムであった。

しかし、2号印画紙を前提に浅めに上げ続けたネガは、そのずうっと後になって(つまり今になって)、問題を引き起こすことになる。スキャニングである。
これについては別項を起こすつもりでいる。

余談だけれど、このISO=ASA320の感度による露出の感覚は身にしみ込んでしまって、ポジに移行してからのそれは160で使っていた。これには別の理由もあって、コダック社のEktachrome(特にE100シリーズ)は160で露光して+1/2EVの増感をかけると、ほんの少しハイライト側に諧調感が出るのだった。
そして、ディジタルの今、その常用感度は320に決めて往年の露出感を楽しんでいる。

白滝から乗車の521列車は、ここで上りを待って長時間停車した。
スハフ32の窓から溢れる白熱灯の灯りを暖房管からの蒸気が柔らかく包み込む。
Tri-X でのバルブ撮影は、その減感露出と現像でストレートでも焼けそうなネガが得られた。長い現像時間でもあまりガンマの立たない特性もこれに寄与していたと思う。

この頃の生田原は、勿論有人駅で貨物も取り扱っていた。客車左側の側線にはワム車が留まり、余計な光源を遮ってくれている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 Bulb@f16 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

名寄機関区 (宗谷本線) 1972

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蒸機の撮影では「機関区詣で」と言うジャンルがあって、当時の撮影者なら少なくとも一度や二度の経験はあるのではなかろうか。
飛び込みでも受け入れてくれる区所は多かったけれど、通常には(礼儀的にも)一定の手続きを踏むことになる。
正式には国鉄本社なり支社、鉄道管理局の広報部署への申請だが、時間と手間から大抵は現業機関への直接の電話から始めて居た。ここで訪問目的を告げ、すぐに許可の降りて日時を指定されることもあれば、局の広報課を通すよう指示される場合もあったが、いずれにせよ個人の資格ながら断られることはまず無かった。
そして指定の当日に事務所を訪ねれば、当直助役より注意事項を伝達の上で黄色の腕章とヘルメットを貸与されて、後は構内を比較的自由に行動出来た。

1960年代の後半くらいの時期では、機関区側もこのような訪問者も珍しかったのか、歓迎すらしていた形跡が在り、自区の歴史や配置車両、運用などを紹介したパンフレットを用意していた区所もある。区長室で茶菓の振る舞いを受けたとの話も聞いたことがある。
しかしながら、これもせいぜい72年頃までで、SLブームの過熱とやらで押し寄せる撮影希望者に堪えかねて、公開を特定の曜日や時間に限る区所や原則撮影を禁止するところも現れ、ブーム終末へと旋回したのだった。

宗谷本線から名寄本線、深名線の分岐する名寄は運転上の要衝で、広い構内に多くの側線留置線を擁し、機関区や客貨車区の他、保線区などの現業機関も集中していた。
名寄機関区は、ガントリークレーンこそ設備しないものの、保守13線/修繕4線の大型ラウンドハウスを持ち、道北道東の本線途中駅としては遠軽に並ぶ規模であった。配置は71年度末にてD51-7両に9600-13両と多くはないのだが、旭川区と稚内区からC55/9600の滞泊があってラウンドハウスの保守線は満線のことが多かった。
とは言え、出入庫のそれほど煩雑でもなくて、蒸機末期まで見学と撮影に制限は無かったようだ。

この日は、西を向いたラウンドハウスの長弧側から低い光線のあたる早朝を選んで訪れている。通常暗い庫内に光の回るのを期待してのことだ。
コントラストの強い斜光線は、ラウンドハウスの煤けた窓をさながらステンドグラスに見立ててくれる。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2 1/125@f22 O56filter Tri-X(ISO400)

八雲 (函館本線) 1971

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Tri-X pan フィルムのこと、そしてコニドールファインのことを書かねばならない。

はじまりは、ご多分に漏れず富士フィルムのNeopanSSである。この頃のNeopanSSは赤に感色性を置いたスーパーパンクロマティックで、小西六の KonipanUSSはパンクロマテイックだったけれど、赤外線領域に至る感色性での遠景描写から選択していた。もっとも、それをはっきりと認識していた訳でなく写真雑誌の受け売りである。
けれど、すぐに1/500秒では絞り開放ばかりで被写界深度の取れないと分かり、感度ASA200のNeopanSSSと併用するようになった。
これを、親父から譲り受けた*玄光社刊行の‘最新写真処方集’を参考書に、コダック社の普通微粒子現像液D-76を自家調合し、パターソンタンクで処理していた。
SS、SSSともに実効感度は低めと感ぜられ、22℃現像で、SSでは4分30秒、SSSなら6分を標準にしていた。
液温の22℃を選択したのは、温水=湯による液温調節が夏期の氷ないし冷水によるものより容易かったに他ならない。
偉そうなことを言っても、この当時の現像技術は未熟もいいところで、現像が行き過ぎて粒子を荒らしていたり、撹拌の過不足により現像ムラを生じたりしている。ただ、「水洗だけは確実に行え」との教えを忠実に守ったためか、40年余りを経た現在でも変色もなく健全なネガである。

この頃既にTri-Xは、幾度かの改良を経てKodak Tri-X pan Filmとして感度ASA400を実現して販売されていたけれど、それは国産フィルムに比して大変高価で、先輩諸氏は100フィートの長巻をディロールで使用済みパトローネに装填して使うと聞いていた。なにより、当時の札幌のカメラ店では、夜間専用の特殊フィルム扱いで店頭に在庫されず特注商品であった。

それでも、鉄道と言う高速で移動する動体の撮影で、なおかつ絞り込みたいと希望する身にあってはASA400の感度は魅力であり、内地に移り住んだ1971年に、*新宿東口に在ったサクラ屋カメラで36枚撮り個包装400円(だったと思う。記憶は定かでない。国産のSS級は100円程度)を見つけて1本だけ買い込み、その夏の道内撮影で使った。

前置きが長くなり過ぎた。この項は続ける。

*玄光社刊行の‘最新写真処方集’-奥付に昭和27年1月25日初版発行とある。玄光社は、コマーシャルフォトなど写真関係刊行物の版元として現存する。
*新宿東口に在ったサクラ屋カメラ-後の「カメラのさくらや」新宿1号店である。価格競争に破れ2010年2月28日をもって惜しくも閉店。

写真は、Kodak Tri-X pan Film 最初のロールからのカットである。
夏の強い光線に助けられてではあるけれど、1/500秒でf11まで絞り込めて135mmレンズながら編成後部までを深度内に収めることが出来た。ブリントを上げて、さすがに感度400と感激した覚えが在る。現像はへたくその一言。

列車は1354列車。レム車を連ねた編成は桑園始発の本州への鮮魚列車であった。伊達紋別の側線がレムで埋め尽くされていたのを思い出す。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

銀山 (函館本線) 1982

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函館山線の零落振りは凄まじい。
最近の実見は2000年の有珠山噴火にともなう迂回運行時ゆえ、その後に変化のあるやも知れぬが、往年を知る身としてはその有様は想像以上のものだ。
交換設備の維持された停車場はまだしも、それの廃止/撤去の行われた二股や蕨岱、昆布、比羅夫など長い有効長を持っていた構内の大半は自然に還り、使用されている本屋側乗降場にしても気動車の1〜2両分の客扱い区域を除けば荒廃の言葉が相応しいだろうか。
とても、そこを幹線急行が特急列車が通票を授受しながら駆け抜け、また列車交換で長い編成を横たえたとは思えない。ましてや、停車列車であれば駅員が荷扱いにリヤカーを引き、客扱いにも忙しかったとは想像もつかぬのである。
好ましい三角ファサードを持っていた昆布をはじめ、各駅ともかつての本屋は取り壊され小さな待合所に建替えられているけれど、二股と蕨岱に至っては「ダルマ」である。初見には、その構内の有様と合わせて軽い目眩を覚えたほどだ。

かつて急行<宗谷>が、その後身の特急<北海>が上下列車で交換していた銀山は、現在でも列車交換駅として機能しており、幸いなことにその上り方にカーブした構内は往年の雰囲気を残している。
瀬戸瀬川の谷を詰めて稲穂トンネルに至る小沢側と異なり、然別から徐々に高度を上げて稲穂嶺の裾野に取り付いたところにあるこの駅は東に開けて眺望が効き、駅前の緩い斜面を下る道の両側に樹木に隠れるように集落が在って、とても好きな風景だ。

写真は、稲穂トンネル手前での104列車<ニセコ>。
前年秋に、ヒグマの糞を発見して撤退したトンネル上部を登りつめたポイントからの俯瞰を、雪景色でとばかりに積雪の締まる3月末を選び登山装備で訪れたものだが、前日来かなりの降雪があって再び断念せざるを得なかった。
C62重連の時代もそうだけれど、この急行は勾配を信じられないような速度で上って来る。

この頃の銀山は、運転要員としての駅員の配置は在ったけれど、待合室と駅務室は板張りで途絶され、乗車券は駅前の商店への委託販売という不自然な形態だった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f11 Kenko UVfilter Tri-X(ISO320)

上野幌-北広島 (千歳線) 1991

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日本にカートレインは根付かなかった。
関係旅客鉄道会社各社の、定着への意欲と努力が不足していたと言うより、長距離運転による会社間に跨がる運行自体が、それのためのインセンティヴを持たせ得なかったと見るべきだろう。
国鉄末期の遊休車両の活用が発端であるから、これも必然的な国鉄の分割・民営化を挟む時代が背景にある。

列車自体のコンセプトは素晴らしく、事実、これの嚆矢となった九州方面への運行開始当初は、同区間のフェリィを上回る料金設定にも拘らず、予約開始日には販売窓口に列の生ずる程の人気を博したのである。
これには、国鉄も意外だったのではなかろうか。自動車積載用にパレットによるバラ積み輸送から転用のワキ10000への自動車積載方式に制約が在って、ボックス型ワゴン車や四輪駆動のRV車だけでなく、普通乗用車でも積載不可の車両が存在し、これには列車の本来の顧客であるはずのファミリー層の所有する車種が多く該当していたからである。誘客に際して遊休車からA寝台車ナロネ21をB寝台レヴェルの料金で提供したのも、この層へのアピールを意識してのこと推測する。
この、ある程度のリピータの確保に成功した時点にて、何らかの手を打つべきだったのだが、民営化を控えた時期と在っては投資は抑制せざるを得なかったのだろう。

87年春の分割・民営化後には、関係旅客鉄道に温度差が現れる。
朝日新聞が全国版で記事化したので、ご記憶の向きも多かろうが、その収入配分に自社管内の運行距離の短い九州旅客鉄道が異議を申し立てたのもそのひとつで、関係4社間での思惑の違いが埋められず、九州方面設定の廃止に繋がった。もちろん廃止事由はこればかりでなく、ナロネ21の老朽化により1993年冬臨期から旅客車が<能登>の電車化にて捻出の3段式B寝台車に置替られた際、大幅なサーヴィス低下にも拘らず料金が値上げされたこと等による、さらなる固定客の流出がある。
ここでも、4社間での調整が叶い、個室寝台車の新製投入でもあれば、情勢はかなりの変化を見せたと思われる。

海峡線の開業にともなって、88年の夏臨期より運行を開始した北海道方面列車は、海峡をはさんで自動車の自走では到達不能の区間への設定ゆえ有望な市場への参入と思われたが、東日本旅客鉃道は発着ターミナルをこれも遊休用地に求め続け、それを国鉄当時の汐留から恵比寿、そして浜松町へと変転させた挙げ句、98年に東京都営地下鉄12号線工事の関連でこれを失って列車設定は休止に追い込まれた。
対して、ただ一社積極的であったのが北海道旅客鉄道である。
発着ターミナルにしても、同じく遊休用地ながら運転当初より白石に固定施設を整備したばかりか、東京方面列車の休止後には、釧路や青森への設定も試行し、また自動車積載荷役場所の自由度向上と荷役時間短縮、さらには積載可能車種の拡大を狙って、ワキ10000の妻面からの自動車自走による直接搭載方式までも採用した。
しかし、これに対して東日本会社は東青森での荷役に呼応した程度で、肝心の首都圏での動きは見られず、北海道方面への運行の再開されることはなかった。

80年代後半のバブル景気の時代ゆえに実現し、バブルとともに消滅したとも見えるカートレインだが、やはり国鉄の変動期に、そして分割会社の発足時期に重なったことが悲劇に思えてならない。

写真は、椴山の跨線橋付近からの8010列車<カートレイン北海道>である。
現代の混合列車とも言える編成形態を画角に捉えねばならないから、いつものカーブを避けて撮影している。

この時点での8009・8010のスジは、この列車の運転を予定して88年3月13日改正で引かれた9007・9008に始まり、道内をDD51の単機、東北線内をED75単機で牽引するため、<北斗星>よりも速度種別を落とした設定となっていて、現在では、それを利用して換算両数の大きい<カシオペア>が基本的にこのスジに乗っている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8-11 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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碧水-北竜 (札沼線) 1967

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先頃、北海道旅客鉄道より札沼線札幌医療大学までの2012年6月1日からの電車運転開始がアナウンスされた。JR北海道プレスリリース
所要車両の投入遅れによる暫定的電化開業につき、既設列車の置替と一部列車での運転時分短縮に留まるが、10月のダイヤ改正では全運用の置替と増発に加え、函館本線/千歳線との直通列車も設定され、本格的に札幌圏ネットワークに組み入れられることだろう。

北海道旅客鉄道は、札沼の「沼」に接続していないのを気にかけてか、1991年に「学園都市線」なる路線愛称を付与し、これに統一して使用している。命名後20年を経過し利用者には広く受け入れられているだろうが、かつての札幌在住者としては、その現在の高架複線の続く姿を実見しても、なお違和感を禁じ得ない。関西の類似愛称線名と取り違えることも多々ある始末である。

「沼」まで繋がっていた60年代後半の札沼線は、篠路付近に団地が造成されて東篠路が開業するなど現在につながる萌芽も見えたものの、札幌市街地の外縁をトレースした後に石狩平野が尽きるまで北上するルーラル鉄道に過ぎなかった。
列車系統は、ほぼ中間の浦臼で分断されており、直通列車の設定はなかったと記憶する。同駅下り方の鶴沼-於札内間にあたる桑園起点67K000Mに札幌鉄道管理局と旭川鉄道管理局の局界があり、函館本線の並行線で全線を乗り通す乗客もないゆえの措置と解せられる。以南区間を札沼南線と通称し、以北を北線としていた。これは、全線開通前の呼称でもある。
南線列車は苗穂機関区のキハ21/22が使われ、北線側は深川機関区の機械式内燃車キハ05が深川から直通で入線していた。

札幌市街の住宅地を曲線で縫って走るのは、当時の千歳線と実は大差はなかったのだけれど、北側へこっそりと分岐して行く雰囲気が気になったのか、桑園から市街地はずれの新琴似まで乗って、同駅駅前に達していた札幌市電鉄北線で札幌に戻る「試し乗り」を何度か楽しんでいた。余談だけれど、この鉄北線も路面ディーゼル車が運行する全国的に例のない非電化線で、しかも北24条あたりから新琴似駅前までは路面が未舗装という「ローカル市電」振りだった。

写真は、未乗であった「沼」に繋がっていた区間まで遠征した際のカットである。石狩川右岸の平野を北上するだけの札沼線には田園風景ばかりが続き、これと言ったポイントは見つからず、ここも線路脇に繁茂する雑草の向こうには水田と空が広がるばかりなのだった。

列車は 8692列車、深川発の桑園行きである。深川機関区の9600形蒸機に牽かれたワムとトラによる思いのほか長い編成で現れた。
この当時、定期の貨物列車は、このほかに桑園から石狩当別間までの区間貨物の設定があり、こちらは苗穂機関区に3両配置のC11が入換え兼用で充てられていた。

今になって調べてみると、この頃の貨物扱い駅は以下の通りであった。ただし、この全てで定期的な出荷ないし到着があったかはわからない。
新琴似 篠路 石狩太美 石狩当別 石狩金沢 中小屋 石狩月形 浦臼 新十津川 雨竜 和

[Data] NikomatFT+ AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Y2filter NeopanSS(+1EV push)



美留和 (釧網本線) 1978

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キハ58形式急行形内燃動車の系列に属する車両群は、1960年度からの9年間で1818両も製造され、その運用は全国の津々浦々に張り巡らされていた。これに出会わずに済むのは、神奈川/静岡県下の東海道線筋くらいではなかったか。
この系列で、最初に出場したのは北海道向けのキハ56/27・キロ26の各形式であった。61年の4月初めまでに計22両が苗穂機関区に回着し、同月15日より札幌-釧路間に新設の急行<狩勝>にて運用を開始した。

一方、道内における気動車による準急以上の優等列車運転は、キハ21の新製配置を受けて1959年5月1日より釧路-川湯間に運転を開始した準急<阿寒>を嚆矢としている。同年6月7日からは札幌-様似間で準急<えりも>の運転も始まるが、これらは観光客向けの特定日運転の列車であった。
定期列車では、この年の9月22日改正で小樽-旭川<かむい>/札幌-室蘭<ちとせ>/釧路-根室<ノサップ>/旭川-網走<オホーツク>が準急列車にて新設され、いずれもキハ22が運用に充てられた。まだ、その運転には信頼性の低かったためか地域内の連絡列車に留まっていた。
長距離運転の急行列車への運用は、翌60年7月1日より函館-札幌間(室蘭線経由)に設定の<すずらん>に始まり、これには内地より転用のキハ55とキロ25が使われた。内地では準急用の車両による全席指定制とされた急行への運用であり、格落ちの感は否めない。

1961年度以降続々と増備されたキハ56/27・キロ26は、早速にこの<すずらん>を置替えた他、61年/62年/63年と続く大きなダイヤ改正の度に、函館や札幌と道北道東各地を結ぶ長距離急行や地域内のローカル準急に次々と投入されて行った。

このローカル準急(66年10月以降大半が列車種別を急行に統合)には、キハ56/27の絶対数の関係でキハ21/22のまま残され、後に「遜色急行」と呼ばれるものもあったけれど、代表的な列車を挙げれば、羽幌線の<はぼろ>や名寄線の<紋別>、宗谷線の<礼文>、根室線末端区間の<ノサップ>、釧網線の<しれとこ>、日高線の<えりも>に瀬棚線の<せたな>など、例え2〜3両の編成であっても、キハ22ばかりの各線区の普通列車に対しては十分に優等列車の風格の感じられたものであった。
夏期ならば白服となる優等列車乗務用の制服に身を固めた乗客専務が乗務し、エンジ色上下に白いエプロン姿の車内販売係員がワゴンサーヴィスに巡回し、なにより長距離旅行の乗客達の乗った車内は、急行列車の風格に満ちていた。
それは、ローカル線区/区間の優等列車だけに長大編成を連ねた幹線急行に勝っていたとも思える。

晩年に普通列車ばかりの運用となって、接客設備も改装された車両もあったキハ56/27しか知らぬ方には、想像も出来ぬ姿であろうか。これらローカル急行の持っていた使命は、今は都市間バスが担う。

写真は、急行らしい高速運転で飛ばして来た613D<大雪1号>。
旭川から石北/釧網線を経由して釧路までの列車である。網走で付属編成を切り落とし、釧網線内ではキハ27-2両の端正な編成だ。
低い光線の創り出すヤチダモの影の印象的な風景だった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

勇払 (日高本線) 1988

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これは「夢の跡」の一部なのだろう。

日高本線の苫小牧-浜厚真間は、国内初の掘込式港湾となった苫小牧港西港区の開削工事に支障のため線路の付け替えが行われ(実際の工事区間は勇払川橋梁手前までの区間である)、この際に勇払駅も現位置に移転している。1962年12月2日のことであった。

旧駅西側から分岐していた国策パルプ勇払工場への専用線を維持するため、これを旧線路盤で延長の上急曲線で新駅に接続した。
写真で軌道の撤去跡がこの専用線に繋がる側線にあたる。さらに、その左側の駅本屋との間に空間が広がるが、ここに線路の敷設されたことはない。これからも無いであろう。
移転開業当時に、将来の貨物列車の扱い増を見込んで手当てされた用地である。

国策パルプ勇払工場-1943年の工場進出時には国策パルプ傘下の大日本再生製紙。1972年に山陽パルプとの合併により山陽国策パルプ。1993年に十條製紙との合併にて、現在は日本製紙グループの北海道工場勇払事業所である。

1960年代後半に、政府は「新全国総合開発計画」に基づき「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」を策定した。苫小牧市街地東側の広大な勇払原野の10000ヘクタールにも及ぶ工業地帯化を目指した国家プロジェクトであった。
しかし、これは石油備蓄基地の完成を見るものの、70年代の二度に渡るオイルショックを契機に頓挫する。現在、その広大な造成地は、分譲の進まぬまま原野に還りつつあるのはご存知のとおりである。

この計画が順調に進行していれば、進出工場の必要とする専用線あるいは専用鉄道は、ここを国鉄線への接続駅としたものと推定される。本線を横断して東側にも線路の分岐したことだろう。用意されたのは、それら列車を受け入れるための用地である。
ローカル駅には不釣り合いな、コンクリート構造の一部二階建てにて建設された駅本屋も、そのオペレイション要員の配置を前提にしていたと思える。
既に撤去されているが、かつて旅客乗降場との間は跨線橋で結ばれてもいた。
これらは製紙工場への入出列車には機能したけれど、もっと煩雑な貨物列車運行を想定してのものだったろう。

苫東計画の失速とともに、ここにも「夢の跡」が残された。山陽国策パルプの専用線も今はない。
静かに空疎な構内である。

列車は1640D。キハ22がキハ130に取って代わられる直前の記録である。
ここからの帰り道、日高本線の列車には時間が開くゆえ苫小牧市営バスを利用したが、そのバスは市街地の各所を迂回しながら乗客を拾い、終点苫小牧駅前まで一時間半を要してしまった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor24mm/F2.8 1/250se@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

浜頓別 (天北線) 1985

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ニッコールの105mmは、今でも装着頻度の高い画角だ。
それまでは中望遠と言えばご多分に漏れず135mmを使っていたのだけれど、画角の小さ過ぎると感ずるケースが多々在って、ものは試しとカタログで眺めていた105mmを導入したのだった。71年のことと記憶している。

画角のみを購入動機とした Auto Nikkor105mmF2.5 だが、予想のとおり肉眼での視感覚にしっくりと馴染んだ以上に、そのカリっとしたシャープな描写と柔らかなボケ味に驚かされるレンズだった。ディストーションも非常に良く補正されており、周辺光量の低下もほとんどなかった。なにより50mmF2で悩まされたコマ収差の補正も良好で、夜景など点光源を画角周辺に配しても安心して使えた。貧乏学生であった当時でもすんなりと手に入れられる価格にも拘らずである。
ニコン社の技術力に触れた思いがし、たまたま父親の資産を受け継いだだけだったそのシステムに信頼を寄せるようになったきっかけと思っている。
このレンズについては、ニコン社自身による“ニッコール千夜一夜物語”に詳しい。

その後、77年の開放F値補正方式の変更にともない AiNikkor105mmF2.5 に買替えて使い続けたが、カラーポジも併用する頃になると、モノクロフィルムには最適であったコントラストが有効露光域の狭いポジには強過ぎるように思え、81年に発売の AiNikkor105mmF1.8も装備して使い分けていた。

ニッコール伝統の105mmは、オートフォーカス化された現在も球面収差をコントロール可能なDCレンズとマイクロレンズに健在だけれど、特殊レンズでもあり、なによりその重量から導入していない。
ゆえにD3sに装着する今も、105mmはマニュアルフォーカスである。


写真は、その105mmレンズによる浜頓別停車中の303列車<天北>である。
この頃の宗谷方面への撮影スケジュールは、夜行<利尻>を南稚内で降り、抜海方向にて302<宗谷>を捉えた後に、午前中の列車で天北線に入るものだった。移動時間の関係で上りの<天北>は浜頓別以北で、夕方の下り<天北>なら音威子府近くまで迎えに行けたけれど、日没の早い時期ともなれば浜頓別でのバルブに限定された。

ここの下り方には人道跨線橋があって撮影にはお誂え向きのポイントだった。
人が渡ると揺れるこの跨線橋にめったに通行人はなく、30秒程のバルブの間もそれの不安はあまりなかったが、背景に映り込む国道の跨線橋は、これもあまり通行量の多くはないにかかわらず、必ず車の走り抜けて光跡が残ってしまうのだった。
ISO320の感度でも相反則不規と停車時間の関係で、これ以上は絞り込めない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320)

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