"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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厚岸 (根室本線) 1978

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厚岸湖の養殖牡蠣は、その低水温を利用して本来夏場の抱卵期をずらすことにより周年出荷を行っている。
これは、生育の遅い環境を逆用した、ここの牡蠣漁師達の長年の技術である。
元来、抱卵期の牡蠣とは食用にはしないものだったのだが、近年風向きが変わっている。

それは、牡蠣に冠される修辞語である「海のミルク」を誤解したものとも思える。ここでの「ミルク」とは、牡蠣においてもそれに勝るとも劣らない栄養価を持つ、との比喩で用いられているはずなのだけれど、これから「クリーミィ」なるイメージが連想されつつあるのだ。
それは、夏場の牡蠣として人気を集めるようになった天然岩牡蠣の影響と推定される。夏の天然モノだから、これは抱卵期の牡蠣なのである。卵を身に持っているから、その食感は「クリーミィ」には違いない。
牡蠣の美味しさとは、抱卵期を過ぎて再びグリコーゲンをしっかりと溜め込んだところにあり、その食感は「ぷりぷり」である。この味を楽しむには生食ではなく、加熱するに限る。即ち、牡蠣鍋に焼き牡蠣であろうか。
「ミルク」としたばかりに食感に偏向してしまうのは、どうにも本末転倒の嫌いが在る。

とは言え、我々酒呑みも、かつては「新酒ばな」と呼んで嫌われた香気を楽しみ、出荷もされなかった上槽仕立ての新酒を「しぼりたて」「槽口酒」などと喜ぶようになっているのだから、牡蠣のそれも新しい楽しみ方なのかもしれない。
ただ、抱卵しっばなしの牡蠣は、養殖の手抜きでいくらでも作れると聞けば、低水温による生育遅滞にて生産量の限られる中、それを逆手にした抱卵期のコントロールを実現した厚岸の牡蠣漁師にはさぞや苦々しいことだろう。


写真は、駅近隣の厚岸湖沿いの区間、厚岸 (根室本線) 1971と同じポイントの8年後である。
大きい干満差で干潮時には海底の露出していたのだが、この間に船着き場の改修工事に合わせて、おそらく浚渫も行われたと見え、干潮でも船溜まりとしての機能は果たしていた。

列車は、混合444列車。
この列車については、門静 (根室本線) 1979にも書いたとおり、417・418列車<狩勝3・4号>の普通座席車が運用上根室へ直通していたもので、荷物車/郵便車も同列車との承継である。
417・418の組成順位を基本としている関係で本列車の根室方はスハ45となり、これには尾灯を装備した車両が限定運用されていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/500sec@f8 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

(在 帯広)
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上野幌 (千歳線) 1990

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千歳線上野幌の記事なのだけれど、はじまりは夕張である。

夕張市では、同市運営による文化事業として『ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭』が1990年2月を第一回として、以後毎年に開催されている。
2000年からは「冒険」を取り去った『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭』となり、2007年には夕張市の財政状況から中止となったものの、翌年以降はNPO法人「ゆうばりファンタ」の運営により回が重ねられており、映画ファンの一人として敬意を表する次第である。
当時所属していた企画事務所が、これの現場運営に関わっていた関係で、1990年の第一回から1992年の第三回までスタッフとして駆り出され、開催期間の前後合わせて2週間程を(喜んで)夕張で過ごしていた。

スタッフに割り当てられた宿舎は鹿ノ谷近くの松下興産の寮であったが、第一回の開催時には夕張市内に肝心の観客向けの宿泊施設が不足しており、北海道旅客鉄道の協力により列車ホテルが仕立てられることとなった。
このニュースは現地に入るまで知らずに居たのだけれど、道内夜行急行や<北斗星>運用の予備車を活用し、夕張で宿泊客(乗客)を乗せて新夕張まで運転、翌朝までの長時間停車の後に夕張へ戻ると言うものだった。この当時の夕張駅は市役所近くに移設されていた二代目である。かつての夕張鉄道の終点である夕張本町とほぼ同地点にあった。
深夜帯に運転の無いゆえ清水沢留置でも良さそうなものだが、同駅の信号設備は上下本線とも逆方向への進出不可と聞いた。
余談だが、列車ホテルはあくまで営業列車としての設定でなければならない。いつでも起動可能な動力装置を有し、かつブレーキ装置を装備し、前部および後部標識を備え、そして乗務員が乗務していなければならないのである。これらの一つでも欠いた状態での駅留置となれば、それは地上固定の宿泊施設とみなされて旅館業法ほか建築基準法/消防法など数々の法規が適用され、鉄道車両はこれらに抵触する。

夜間のことゆえ撮影は諦めていたところ、汚物タンクの抜き取りのため一度札幌運転所に回送されると聞き及んで、仕事の合間に勝手知ったる上野幌へと撮影に赴いた訳である。

このポイントは、上野幌構内を左手後方に見る小高い丘となる。今は同駅の下をくぐり抜ける厚別東通りの用地となって、かなり地形が改変されてしまっているけれど、この当時は南に向けて斜度のある雪の斜面が広がっていてその上部から見通しが効いた。

列車ホテルは、九州特急<さく・ぶさ>に先駆けること10年の24系25形+14系混結編成であった。
<さく・ぶさ>では24系と併結運転中の14系編成はカニ24から電源供給を受けていたけれど、これのサーヴィス電源は別系統である。新夕張停車中のスハネフ14の電源機関はさぞかし乗客には騒音であったに違いない。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC42Filter Tri-X(ISO320)


石倉-落部 (函館本線) 1992

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あちらこちらで紹介されているのでご承知のことだろうが、石倉-落部-野田生間は大規模な線路変更の行われた区間であり、現在の国道5号線が旧線の位置にあたる。
内陸に迂回する落部付近を除いて海岸段丘が海岸線まで迫り出した地形が続き、19世紀末の土木技術では工事期間からも段丘上部へのルートが選定されたと推定する。
今、国道を走ってみると分かるが、落部の前後にはかなりの急勾配が存在し、早晩の隘路化は避け得ぬものだったろう。折しも戦時下の船舶からの転移による輸送需要に対応して複線化が計画され、新設線は段丘下の海岸線に敷設して勾配を緩和、これを上り線として敗戦間近の1945年7月20日に既設線と合わせて複線での使用を開始している。
以後、落部駅が既設線と新設線の双方に存在する変則状態が続くが、1958年12月10日に石倉-落部間の新設線が腹付線増により複線化、同時に既設線が野田生まで全廃され、後に国道へと転用されたものである。(なお、これにより落部-野田生間は単線運転に戻され、再複線化は1968年9月21日である)

70年代の終わり頃までは、石倉を過ぎて右回りのR500曲線の始まるあたりから国道へと上って往く廃線跡がはっきりと確認出来たけれど、その後に法面改修の行われ判然としない。野田生方のそれは、駅手前に国道から直進する道路として現存しているのが、車窓からも見て取れる。

戦時下の船舶からの転移-近海の制海権を連合国軍に奪われ内航海運には攻撃の危険がともなったゆえである。陸運転換と呼ばれた。

1989年夏の<トワイライトエクスプレス>運行開始以降は、陽の長い時期ならば午後に森方面から石倉に入り、この区間で同列車を捉えてから、第一落部トンネル近くのドライブインに併設の民宿に投宿、翌朝に下りの寝台特急群を、というパターンの撮影を繰り返した。
ただ、夏至からひと月ほど経過した、この時期にあっては<トワイライトエクスプレス>の通過には、西に傾いた日射は段丘面に遮られてしまうのだった。

段丘下への線路敷設は、段丘面の崩壊による災害を呼び込むことともなり、夏期から秋期の豪雨にて度々の不通を生じる結果となっている。この撮影地点も88年に崩落して、走り始めたばかりの本州-北海道間直通列車に初の運休を生じさせた現場でもある。写真で一部の見える土留め擁壁は、その復旧に際して構築されたものである。

[Data] NikonF4s+AFNikkor85mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.



様似 (日高本線) 1969

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日高本線の苫小牧から様似までの140キロ余りは奥が深く、静内までならまだしも、それ以遠へとなれば撮影チャンスから現地での宿泊を要し、なかなか撮り難い線区ではあった。
貨物列車のなくなった84年以降には、ますます足が遠のいてしまい、そのバス用部品多用の小型車体に魅力を感じなかったゆえであろうが、88年秋からのキハ130の時代には一度も撮っていないくらいだ。

それだけをターゲットにしていた蒸機の時代でも静内-様似間の区間貨物列車の設定もあって、札幌起点の日帰りでの撮影チャンスは少なかった。
それでも苫小牧操車場を5時前に出る様似行き貨物1893列車は、この区間を9時間程かけて走り、ポイントさえ上手に組み合わせれば気動車で追い抜きつつ、最大3回の撮影が可能で、これに絞った撮影に何度か出かけた。

この当時は、DISCOVER JAPANキャンペーンの前夜とはいえ、夏のシーズンにはえりも岬へと向かう「カニ族」と呼ばれた旅行者で列車は満員の状態で、様似の駅も接続の国鉄バスへの乗り継ぎ客でごった返していた。現在では想像もつかない光景である。
ここでは駅前の渡辺食堂(渡辺弁当店)調製の駅弁も売られていて、100円で購入した鮭(あきあじ)弁当の掛紙が手元に残っている。
駅前も活気があり、土産物屋の並んでいた。とは言え、様似のメインストリートは漁港に面する本町側と教えられた。

列車は、1893の牽引機が折り返しとなる1896列車。静内までの区間列車である。
この当時の日高本線の運転業務は、静内に所在の札幌鉄道管理局日高線管理所の管轄であったが、C11形機関車については同局室蘭機関区静内車両分所に8両の配置となっていた。(気動車は主にキハ21で、同局苗穂機関区苫小牧支区配置)
今、北海道旅客鉄道に所属し、観光列車や展示運転に使用のC11207も当時の静内区のメンバーであった。

写真の様似川橋梁の俯瞰は、民家裏手の斜面をよじ登ったものだったが、後年そこには道路が開削されている。
街越しに海面を望めるポイントなのに、風向のせいで煙にて隠されてしまった。なかなか上手くは行かない。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f11 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1990

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1988年以降のことである。
本州連絡の寝台特急が走り始め、これをターゲットにするようになって道内への撮影行の「お作法」はずいぶんと変わった。
その列車群は、未明から早朝に函館を出て午前中に札幌に到達し、午後から夕方にかけて、今度は上って往くのだ。
行動範囲は、この区間を出ることがなくなり、かつてのように夜行列車で地域間を転戦するのでは函館と札幌の周辺でしか撮れなくなる。函館が深夜発着の<はまなす>での移動や、後には<ミッドナイト>から中間地点の長万部への*強行下車もしたけれど、やはり現地への宿泊を余儀なくされた。
もっとも、86年11月の改正で函館山線への優等列車の設定がなくなり、釧路以東の根室本線や釧網本線も基本的に単行の気動車ばかりの状況であったから、以降の渡道目的は、宗谷方面と函館/室蘭本線くらいしかなくなってはいた。

そしてその過程で、C62重連急行以来長万部では駅撮りばかりで、その周辺ではほとんど撮っていないことを意識させられたのだった。
撮影後に機関区が近隣の温泉公衆浴場でひと風呂浴びても、駅前に在った「長万部食堂」でメシは食っても、この地に宿泊した記憶はなかったのである。

この頃になるとビジネスホテルの存在しなかった函館-伊達紋別間にも、森や八雲にそれが開業し始めていて、長万部でも温泉街の一角に「ホテルエクセルイン」なる宿が営業していた。ビジネスホテルではなくて洋風民宿の風情なのだけれど、確かに本来の意味での「イン」には限りなく近い。「エクセル」であるかは置いておく。
ここを常宿として、早朝に長万部周辺から国縫や中丿沢あるいは静狩へと向かい、午後には札幌方面へ転戦、夜の特急で帰着すると言うパターンか、あるいは一日を長万部で過ごした。
目的を同じくする人々は考えることも同じであり、ここでは何人かの鉄道屋とお会いして情報交換などさせていただいた。今では鉄道屋には知られた宿であるらしい。

列車は、8002列車<トワイライトエクスプレス>。
前にも書いたけれど、この長万部背後の山容は好きな景色だ。


*強行下車-通常期の<ミッドナイト>は長万部や東室蘭には運転停車のため、車掌に頼み込んで乗務員扉から降ろしてもらうことの意。
降りても待合室閉鎖を覚悟せねばならない。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.


白樺 (深名線) 1980

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白樺のあたりは、ダム堤体の位置をダム湖の前面とすれば朱鞠内湖の最奥部にあたるだろう。
ご存知のとおり周囲に人家はなく、原生林のただ中にあった。

このカットは、白樺に近い林道からの撮影ではあるが、北母子里からの徒歩で到達している。前年のロケハンで白樺からのルートがどうしても見つからなかったゆえである。短い仮設の乗降台のあるだけの駅から何処かへの草道なり踏分道が通じてはいるのだが、それが獣道とも判別出来ず進入を躊躇したのだった。

深名線のこの区間は、この当時ですら列車回数は極端に少なく、名寄から始発で入り、夕方の列車で戻るか、あるいは朱鞠内乗り継ぎで深川に抜けるにせよ、撮影チャンスは日中に3回しかなかった。
あまりの列車間隔に、その間を北母子里に戻ることも考えたけれど、往復距離を思えば、一日をこのポイントで過ごすのが賢明だろう。その静かな湖面を眺めていると、近年の人工湖にもかかわらず太古から変わらぬ光景と錯誤してしまい、時を忘れる。
自動車も走れる林道ではあったが、結局一台の車も通らず、誰にも出会わぬ一日だった。水面では時折魚が跳ね、その水音すら聞き取れた。

この年に成立した『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』に基づき特別地方交通線に区分されながら廃線措置を免れたのは、この朱鞠内-北母子里間に代替道路の未整備を事由としていた。
後年、この林道が朱鞠内側に繋がり拡幅/舗装されて、その事由が消滅したのだった。
けれど、白樺/蕗の台の利用客の方がとっくに「消滅」していて、本線路廃止後の代替バス路線であるジェイアール北海道バスの深名線は、朱鞠内湖南側の国道275号線を運行している。

この日は、工臨の運転でもあったのか突然DE10が姿を現した。とてもゆっくりとした速度で、あわてることもなくシャッタが切れた。撮影チャンスを一回分「儲け」である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

苫小牧 (室蘭本線) 1994

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苫小牧は、1910年に王子製紙の工場が開かれて以来、その門前町として発展した都市である。
駅北側の貯木場は、その水中貯木施設部分が大規模な商業施設に転用されたとはいえ、現在でも広大な面積を占め、市街地側駅近隣に巨大な工場施設が稼働している。
かつては全道各地から原木の輸送列車が到着し、現在の苫小牧運転所横から専用線が貯木場深く敷設されていたが、70年代半ばにはトラック輸送に切替えられ現存しない。工場内へのものは現在でも製品出荷に使用され、コンテナ車が入線しているのはご承知のとおりで、苫小牧と貨物駅の一駅間にだけ設定されている高速貨物を介して本州方面に輸送されている。
余談だが、王子製紙は1951年まで自社所有林のある支笏湖畔までの専用鉄道も有し、1913年に苫小牧から佐瑠太(現在の富川)までを開通させた、日高本線の前身にあたる苫小牧軽便鉄道もまた、沙流川流域の王子製紙私有林からの原木輸送を主要な目的としていた。

製紙工場の巨大な煙突は苫小牧のランドマークであり、ここからの排煙と蒸機列車の白煙を組み合わせた佳作が諸先輩の手により発表されている。
煙を吐かない列車ばかりでは望めない光景だけれど、このランドマークと列車を画角に捉えたいと思っていたところ、編成の長い寝台特急の牽引機が上り本線の出発信号機直前に停車することがわかり、それを実行したのがこのカットだ。
煙突に構内照明などが点灯されず存在感が弱いのが残念だけれど、記録ではある。
列車は、6列車<北斗星6号>。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 Bulb@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

[番外編 5] 青森 (奥羽本線) 1968

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寝台特急の<日本海>は、首都圏から渡道する身には縁のない列車である。
それでも、その16時間の寝台の旅には魅力があって、何度か京都で新幹線に乗継いで利用した。大きな遠回りで都区内発着の周遊券には都区内-京都-宮内間の別途片道乗車券を要したけれど、特急料金には乗り継ぎ割引が適用された。

写真は、68年10月改正における設定直後の姿である。
青森運転所に転属した20系客車による9両編成で、電源車と1-7号車を「よんさんとお」後も20系で残った2023・2024<ゆうづる>と共通編成として、これに8号車のナハネフ20を組成していた。<ゆうづる>に座席車組成が継続されたのに対して、設定当初より全車寝台であった。
ナハネフ20はナハフ20を寝台車に改造したもので、種車の構体をそのまま利用したため、新製のナハネフ22やナハネ20よりも寝台区画内での寝台間隔が230ミリも大きく、その分居住性は良かった。(と思われる。乗車したことはない)

列車名こそ改正前の急行<日本海>のものを承継したが、純粋に新設定の列車であり、急行のほうは<きたぐに>と改称して、ほぼ同じスジで存続した。
この68年10月改正で設定のスジは、その後4003・4002に引き継がれて来たが、2008年3月改正で廃止されてしまい、現行列車のスジは72年10月改正で設定の予定臨8005・8006の流れを汲むもので、しばらくは<日本海51号>として12系や14系座席車による運転で、寝台車(24系25形)が充当されるのは、75年3月改正で季節列車6003・6004に格上げ後の76年2月以降である。
2012年3月改正での定期列車廃止の後に設定の予定臨9003・9004では、所要時間と云い、ほぼ68年10月改正当時のスジが復活するのがなんとも興味深い。

「よんさんとお」当時の日本海縦貫線は、信越本線の宮内-新潟間を除いて糸魚川以北が非電化で、糸魚川-秋田間を東新潟機関区の、秋田-青森間を秋田機関区のDD51が牽引していた。秋田以北が重連となるのは、編成の増強された69年10月以降のことである。

青森で初対面した<日本海>だったけれど、当時の印象を素直に語れば、列車名はどうしても特急らしくなく、<あさかぜ>流れのマニ20の組成や9両の編成長も格落ちの感は否めなかった。それでも、道内では見られない20系固定編成客車は風格に満ち眩しいくらいだった。

もうひとつ書いておきたいことがある。
71年10月の奥羽線秋田-青森間の電化開業に際して、この区間を去るC61形蒸機に最期の花道として<日本海>の大館-青森間を牽かせようという計画が在った。
既に新矢立トンネルが開通しており牽引性能上DD51からの代替に問題はないけれど、念のため重連運転とし、大館での機関車交換による運転時分の延伸に、連絡船接続を受ける青函局側の了解も取れ、実現の一歩手前まで進んだが、国鉄本社がどうしても許可せずに頓挫したものであった。
これを地元紙の東奥日報が事前にスッパ抜いてしまい、このことが本社幹部の逆鱗に触れたため、との一説がある。当時、盛岡局の方から聞いた話だが、真偽の程はわからない。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/30@f2 Non filter NeopanSS

音別 (根室本線) 1986

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海霧の底から立ち現れるような列車を撮りたくて音別へ通ったことは前にも書いた。尺別 (根室本線) 1993
それは音別でなくとも、庶路でも大楽毛でも良かったのだけれど、もし濃霧が切れて微かに望めるならバックは海で、線路から遠くなく俯瞰気味で、といった条件からは、音別川に沿った段丘の先端くらいしか思い浮かばなかった。
海霧の生ずる夏の季節を選び、駅前の潮見旅館に連泊を決め込んでイメージどおりの海霧との巡り合わせを待ったものだった。
定番のポイントでもあるのでご存知と思うが、市街地を望むその段丘上には音別町の墓地が造成されていて、先端部へは墓地下縁を通り抜けて草道が通じていた。

夏の道東の黎明は早いとはいえ、明けきれぬ内の海霧に沈む墓苑は、よくあるホラー映画のシーンのごとくだ。
その日、足早に通り過ぎようとすると、子供のはしゃぐ声が切れぎれに聞こえた。一瞬背中が凍りついて立ち尽くすと、濃霧で姿の見えないその声は、墓地の上の方からだんだんとこちらに近づき、緊張が恐怖に変わる直前に男の子と女の子の兄妹らしい二人が霧の中に見えた。
その声の主を「人」と確認し「まさか」が消えて安心した訳だが、列車を待つ間に疑念が湧いた。夜は明けていたとはいえ、午前4時過ぎだ。子供が二人だけで出歩くのだろうかと。あの二人は、本当にこの世の子供だったのか。

ここでの海霧の撮影は、結局のところイメージに描いた濃霧に出会えずに2シーズンで止めてしまった。列車だけが浮かび上がるような、霧の底の重苦しさを感じさせないようなシーンは撮れず仕舞だ。このカットは習作に終わっている。
列車は413列車<まりも>。
終着までは、まだ一時間ある。確かに、濃霧の底を縫うようにゆっくりと通り過ぎていった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Compiled by CaptureOne5 on Mac.

猿払-芦野 (天北線) 1985

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浜頓別でオホーツク岸に出た天北線を北上すると、その沿線には観光地化されていない、されそうもない静かな海跡湖が点在していた。猿払原野の沿岸部にあたり、海岸湿原の原型を今に伝える存在であるらしい。確かに、その周囲は、湿原もしくは原野・原生林である。

猿払と芦野の間の「ポロ沼」もそのひとつで、周囲6Kmは猿払原野の湖沼群の中では最も大きい。
この湖面を背景としたカットには背後の台地への道を辿ることになる。
台地上の一帯は牧場と牧草地に開かれ、牧場名を失念してしまったのだけれど、牧舎にて来意を告げると快く迎えてくれ、以後も季節を変えて何度かお世話になった。
天気が良ければ、草食む牛達を身近に見ながらゆったりした時間を過ごさせてもらったものだ。ここでの列車間隔は異常に永いのだ。

列車は304列車<天北>。単行の気動車ばかりの中で、14系客車の7両組成は別格の存在だ。
駅の直前なので、分岐器制限と通票授受で列車はかなり減速していて、フレームをゆっくりと通過して行く。画角外だが、前方には猿払の通過信号機があって、それは進行を現示していたはずである。

ところで、牧草地周囲には放牧用の電気柵が巡らされ、牛達の流出を抑制している。訪問の際には、柵を越えるまでこれの電流を切ってくれるのだけれど、帰りはそうも行かない。120mA程度の電流だが、電圧は10000V程になる。危険はないけれど、触れればかなりの電撃を受けるのだ。一度は、ケーブルの隙き間を抜ける時に背負った三
脚が接触し、火花と共に全身へのあまりの衝撃にへたり込んでしまった。牛も逃げ出さぬ訳である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC42filter Tri-X(ISO320)

厚岸 (根室本線) 1971

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厚岸周辺は、釧網本線の細岡や塘路と並んで道東での定番の撮影地だった。
前にも書かせていただいた門静方の厚岸湾沿いの区間に、糸魚沢方へ向かっての厚岸湖岸から別寒辺牛湿原に至る区間など魅力ある風景が展開する。ただし、湖水や湿原とあっては足場の限定されるのが難点ではあったけれど。

厚岸湖は幅400m程の水路で厚岸湾に開口しており、当然ながら汽水湖に区分されるが、汐の干満差が大きく実質的には海である。牡蠣の養殖事業もそれゆえであり、事実、漁業法下では内水面でなく海面として扱われている。
厚岸の構内を抜けた根室本線はR300の曲線で左に曲がると、その湖岸線に出る。ここには牡蠣漁業に使われるものなのか小舟の船溜まりがあって、ここでの撮影では前景や点景に取り込ませてもらった。ただ、それが干潮時にあたると遠浅の底が露出して、泥の中に小舟の埋まる光景となるのが困りものではあった。

写真は丁度その干潮時の巡り合わせで、ならば満潮なら撮れないアングルを、と露出した石混じりの泥の中に三脚を据えたカットである。
列車は、混合441列車。この日は貨物の財源は持たずにやって来た。根室本線の混合列車は、釧網本線と異なり蒸機暖房を使用するため旅客車前位の組成を定位としていた。

この当時、釧路-根室間には混合列車1往復の他に貨物列車3往復の設定があって、全て釧路機関区のC58の仕業であった。同区へは68年度からDE10の12両の配置があったけれど、釧網本線の補機仕業に優先投入され、ここへの入線は72年の夏からである。

8月というのに朝から肌寒い日で、午後に向けて気温はさらに低下し、厚岸駅ではストーブが焚かれていたのが印象に残る。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8-11 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

小沢 (函館本線) 1971

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同好者に会わぬことはなかったが、70年冬までの山線はまだ静かなほうだった。
それこそ、かき分けねばならない深雪の斜面に、そこで出会った鉄道屋同士が協業してラッセルしポイントを確保するのは日常であり、それは、画角に移り込む雪面を無闇に荒らさないための暗黙の了解でもあった。
様相は、その雪解けの頃から変わり始め、週末の上目名など目名側に下った斜面と云い、第一白井川トンネル近くと云い、さながら集会場の様相を呈し始め、夏を迎える前には罵声の飛び交う地と成り果てた。
長万部、蕨岱、倶知安、小沢に銀山、塩谷と、状況はどこも同じだった。
鉄道趣味とは大人の趣味だ、とその師匠でもある親父から教えられた身としては、堪えられぬ現場であり、何よりも「撮りたい画角ではもう撮れない」と判断して4年間通った山線からの撤退を決め、7月18日をはじめに三度実行された三重連運転のお祭り騒ぎもテレビニュースで眺めながら、夏の撮影では海線でC62急行を見送り、内地からゆえ使えるようになった周遊券にて、より奥地へと遠征したものだった。

「撮りたい画角で撮れない」のは鉄道屋にとって致命的であり、それが叶わぬならば、撮影を諦めるか状況を受け入れるしかない。罵声を発してまで実現させたところで、それはそこに集った多くの人々と大差ない撮影結果だろう。そういう現場なのであるから。
鉄道撮影には、公共財である鉄道を鉄道用地なり私有地から「撮らせてもらっている」という謙虚さが必要だ。

71年の12月、永い喧噪の去った小沢で撮りたかった絵を撮った。後追いのバルブなので他に撮影者のいる環境では難しい。
列車は、勿論103列車<ニセコ>である。
発車を見送った後、しばしその場に佇むものの、重連総括制御のDD51とあっては山間にこだまする汽笛は聞こえず、静寂の支配するのみだった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor105mm/F2.5 Bulb(Multiple Exposure)@f8 Non filter NeopanSSS


沙留 (名寄本線) 1967

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沙留の上り方は、オホーツク海沿いに走る名寄本線にあって唯一、その波打ち際をトレースする区間であった。
この67年夏の初めての奥地への遠征に名寄本線を組み込んだ理由は思い出せない。オホーツクを見てみたい、程度ではなかっただろうか。
一ノ橋-上興部間の天北峠越え区間のロケハンで気に入ったポイントが見つからず、上興部に下車の後に向かったのが、五万図で当たりをつけていた沙留だった。ここには、ほんの少しだけオホーツク海に突き出した沙留岬があって、海を前景に小さな砂浜と名寄本線が望めた。

当時の名寄本線は、旅客列車こそ気動車化が完了していたが、貨物列車には名寄機関区と遠軽機関区の9600の仕業があり、名寄-紋別・遠軽間に三往復が設定されていた。どの列車もそれなりの編成長を持ち、半世紀近く前のこの時代は鉄道が物流の主役であったことを物語る。
ただ、名寄区/遠軽区ともに、構内入換にも使われた9600形には前頭部とテンダ後部の警戒塗色化(所謂ゼブラ塗り)が進行していたのが残念ではあった。

列車は、18時過ぎの弱い斜光線を行く1693列車。各駅で貨車の解結を繰り返しつつ、名寄から遠軽まで7時間余りをかけて走っていた。
北辺の静かな海岸線を想像していただけに、そこのキャンパー達の姿には少々がっかりもしたけれど、これも盛夏ゆえの光景と画角に取り込むことにした。

駅へ戻り、列車を待ちながら「HBCのテレビが映るようになったのは、ついこの間だ」と地元の人に聞き、奥地を実感したものだ。
この日は遠軽へ抜け、そこで駅寝したと記録にある。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.5 1/250@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by CaptureOne5 on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1984

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金華に駅寝したことがある。
夜明けの早い時期なので、少しでも撮影チャンスを稼ぎたいのが理由だった。
石北本線全線でのCTC運用開始による無人化以来、さほど経過しない夏であったから、その待合室は有人当時の雰囲気を十分に残しており、近所の方々による毎日の清掃もなされていた。
つまり、居心地は悪くない。駅寝ランクならば上の部類に入るだろう。

現在では全てが廃屋になっているけれど、この頃までの金華は駅前に住宅もあって、それなりの集落を形成していた。日が暮れれば家々には明かりが灯っていたから、耳にしていた噂話も不安は無い駅寝である。

それとて、ずいぶんと前に江戸川橋のスタジオで、ロビーにあったクロゼットの下から靴を履いた足が覘いているのを見た(気がした)程度だから、あまり気にはしていなかった。
実際、その夜は何も見なかったし起こらなかった。北見への最終が出て、待合室の灯りがタイマーにて消灯してからは眠ってしまったのだから。
ただ、この最終の到着時に列車内から向こう側に降りる人影らしきものを認めたのだけれど、列車が去っても彼は、この駅本屋側ホームにはやって来なかった。それだけだ。


50系51形客車の石北本線運用は84年2月1日改正からである。
旭川客貨車区へは81年度に11両の新製配置があり、小樽-名寄間に運用が設定されていたが、本改正にて函館所/札幌所/岩見沢区からオハフ51ばかり9両の転入を受け、自区および北見客貨車区持ちの在来型客車運用を全面的に置替えた。
荷物車/郵便車の組成のあった531・534列車は、これも同時にスユニ50-1両に集約したため、50系列だけのきれいな編成を見せるようになった。もっとも編成の短いことが玉に傷ではあったけれど。
なお、この9両のオハフ51は、前記3区所での運用列車の電車化もしくは気動車化、ないし編成の見直しによる捻出車である。

写真は、その534列車。網走から旭川まで、実に8時間近くをかけて走っていた。
暑い一日で、ここでも虻に悩まされた。
「ここいらの虻は人につく」と地元の人に聞かされたことがあるが、まったくそのとおりだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f11 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

大沼公園 (函館本線) 1988

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国鉄の分割・民営化を目前にして北海道総局へ餞別のように送られたのが、キハ183系特急形気動車の500番台車の一群だった。
しかし、餞別はこれだけではなかったのである。86年の11月改正では、東室蘭-幌別/苫小牧-札幌間の軌道強化と分岐器・曲線の改良工事完成にともない、同区間の気動車特急列車の最高運転速度は100km/hから120km/hに引き上げられ、曲線通過速度も本則+10km/hとされた。また、野田生-長万部間についても同様に100km/hが110km/h運転となった。
これは車の両輪であって、軌道の整備がなければ183系500番台車の高速性能も生かされぬ訳である。この時点で、函館-札幌間は、61年10月改正での80系気動車投入時の4時間30分が、最速の1D<北斗1号>にて3時間47分にまで短縮されていた。
ただし、この時点で500番台車編成は根室本線系統へ充当され、函館/室蘭線系統では0番台車との混結組成であった。
民営化後の北海道旅客鉄道は軌道改良工事を継続し、88年3月改正にて野田生-札幌間で最高運転速度120km/h、曲線通過速度の本則+10km/h運転を実現させ、500番台車編成を函館/室蘭線系統に集中、函館-札幌間の所要時分は3時間29分となった。
これらが、後の振り子式気動車の投入による在来線最高速の表定速度の確保に繋がっている。
旧国鉄も良い餞別をくれたものだと思う。
もっとも、70年代のモラル低下時代を脱却した当時の国鉄は、全国の主要幹線での速度向上に熱心だったのではあるが。

湖水と駒ヶ岳を遠望する大沼・大沼公園周辺は道南地域での定番撮影地ではあるものの、駒ヶ岳を背景に大沼駅方向を俯瞰するポイントは、80年頃には樹木の成長にて失われてしまい、小沼畔の函館桟橋起点26K付近のR500曲線もかなり低い位置からしか撮れなくなった。
日暮山からのセバット、追渡橋梁方向の大俯瞰も沿線樹木が成長して編成列車は困難だ。

この日は雨天とあって、大沼公園での下車として赤井川方小沼湖畔の遊歩道からの撮影に切替えた。
雨滴による水紋を狙うが、それは決して大きく広がってはくれないのだった。

列車は、5001D<北斗1号>。
88年3月13日改正では500番台車のみで組成された編成を<北斗>系統8往復中4往復に限定運用し、0番台との混成組成は見られなくなった。
釧路特急での足慣らしを終えて、本格運用の開始といったところだった。

[Data] NikonF3P+Ainikkor50mm/f1.8 1/125sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320)

弟子屈-美留和 (釧網本線) 1978

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その日は、この季節に信じられないことに雨だったのである。
雨天の撮影は嫌いではない。
雨に濡れることでしか見えない景色があり、ハイライトに抜けてしまう空の処理さえ間違えなければ、「情景」の表現の可能なのも雨天ゆえである。羽越本線や信越海線へは、それが雪に変わる前の時雨の時期を選んで出かけたりしていた程だ。
けれど、少しでも積雪のある場所での降雨は対処のしようがない。春先の渡道を避けていた理由でもある。雪原の雨に濡れた立ち木では、どうしてもちぐはぐなのだ。

仕方なく、早々に撮影を切り上げ、弟子屈の駅で所在なげな午後を過ごした。
気を取り直して翌日以降のスケジュールを再検討すべく、持参のトランジスタラジオ(当時の情報ツールは、この程度だったのだ)で聴いた天気予報は、翌日の晴天と夜半からの急激な気温低下を告げていた。そしてそれは、当日の移動を取りやめて現地への宿泊を促し、その撮影ポイントまでも確信させるに十分な情報だったのである。

翌朝、国道241号線の跨線橋上で霧氷が溶けてしまわないか気にしながら、光線と後追いが前夜思い描いたコンテどおりになるはずの混合631列車を待った。
雲一つ無い快晴は予定外の幸運だ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

稚内 (宗谷本線) 1985

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2009年のことだが、2月27日にゼンショー社の経営になる牛丼店『すき家』が、そして11月28日には日本マクドナルド社が、その『マクドナルド40号稚内店』を、それぞれ稚内市内に出店した。
当時の北海道新聞などの報道を読むと稚内市民には歓迎すべきニュースであったようだ。

これ以前にも、飲食関係の大手チェーン店では、モスフードサーヴィス社による『モスバーガー新光店』とピーターパンコモコ社の展開する『一口茶屋わっかないシティ店』が進出を果たしているが、前者は他のハンバーガーチェーンと一線を画する高品質/高価格路線を推進し、後者は店舗調理率の極めて高い商品構成が特徴である。
『すき家』や『マクドナルド』などセントラルキッチンによる仕込みや調理の比率の高いチェーン店舗となれば、必然的に配送が問題となろう。
先の新聞記事でも、「札幌から400キロ、5時間の輸送距離がネック」と触れられていたが、これは少々言葉足らずで、問題はむしろ、4万人を切る人口では大手の得意とする同一地域多店舗展開戦略のとれないことと、旭川から稚内の間をそう捉えても人口集積のあまりの少なさによる輸送効率の悪さにあると思われる。
乱暴な言い方だけれども、言わば稚内とは遥か彼方にある陸の孤島的都市なのだ。
外食業界に限らず、流通/小売業界にとっても事情は同様らしく、コンビニエンスストアも道内資本による『セイコーマート』のあるのみで大手の進出はなく、イオングループやイトーヨーカドーの流通大手も静観したままである。

それでも、市域人口の減少傾向にもかかわらず稚内の市街化は拡大進行しているようだ。宗谷本線の列車で南稚内に接近すると、その一端が見えるように、稚内高校の先の原野に住宅地と商業施設が切り開かれている。偶然だろうが『モスバーガー』『一口茶屋』ともに、この地区への出店である。
これは裏を返せば、稚内周辺地域での過疎化が劇的に進展していることの証明でもある。

94年に『全日空ホテル』があの位置に開業したときには、なぜにあそこへ、と訝しく思ったりしたものだったが、昨年に稚内の新駅本屋が開設されて疑念が解けた。ホテルは駅前広場の一角に面することになり、裏手はフェリィ埠頭であるから宿泊施設として一等地である。開業当時は、稚内市の第三セクターによる経営だけに都市計画による優先事業だったのだろう。

宗谷本線の稚内直前に国道40号線を越える架道橋の存在することを、ずっと知らずにいた。
下りは大抵南稚内で降りてしまうし、上りには稚内から乗るけれど夜とあって気がつかなかったのだ。いつ頃切替えられたものか、以前は踏切だった記憶が在る。
既市街地ゆえ、その前後区間は築堤でなく高架橋だ。ならば、ここでひとカットは押さえようと言う気にはなる。

その南駅方端部には跨線道路橋が在って、写真はここから撮っている。
当時は、近くに『弁天仲見世』なる商店街があり、魚屋/八百屋など早朝から開いていたが、現在の地図からこの名称は見つからない。

列車は、回送318列車。317<利尻>の南稚内への引き抜き回送である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.




トマム信号場 (石勝線) 1981

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1981年10月に開業した石勝線へは、開業直後にロケハンを兼ねて試乗し、その冬に最初の撮影スケジュールを組んだ。

プラニングに困ったのはアプローチだった。あの長大な区間に乗降可能な停車場が新夕張もしくは楓に占冠と石勝高原しかないのだから。
夕張山地を貫く占冠以東については、長大隧道が連続して明かり区間が短く、例えレンタカーの使用を前提としても、この当時は並行道路が無い上に隧道間の明かり区間へのアプローチの道路事情が悪く、最初から除外した。
秋の車窓からのロケハンにて、東占冠信号場-滝ノ沢信号場間やトマム信号場の前後区間に撮れそうなポイントを視認していて、まずは石勝高原から徒歩も可能なトマム信号場付近へ向かうことにした。道内版時刻表の巻末ページを詳細に見て行くと、日高町-占冠-幾寅に運行している占冠村営のバスが使えそうなことが知れたけれど、その一日2往復の時刻と列車ダイヤがどうにも噛み合ぬのだった。

結局のところ、帯広からの始発の急行を石勝高原に下車し、選んだ手段は「ヒッチハイク」だった。列車ダイヤに縛られ続ける鉄道撮影にしては、行き当たりばったり方式に過ぎるけれど、拾えなければ歩けば良い的な感覚だったのだ。
この日は運の良いことに、駅前の道に立って10分程で富良野から占冠に向かう途中と言う電設工事店のワゴン車に止ってもらえた。圧雪の道を時速100キロ近くで飛ばすのに驚きながら、第一トマム川橋梁近くにて降ろして貰い、前方に見えた白い斜面目指して雪中をもがきつつ登った。

列車は、5002D<おおぞら2号>函館行きである。石勝線経由により乗り通せば千歳空港-札幌間を復乗する「乗り得列車(?)」となった。
石勝線開業時のダイヤでは、80系気動車も食堂車を外された編成ながら5001D・5006Dの一往復に残存し、目出たくも石勝線上を走ることとなった。
183系気動車は、改正前からの3D・4Dが3-5003D・5002-2Dとして函館発着にて存続、新たに札幌発着化された5005D・5004Dが量産車の投入により80系から置替られた。
この5005D・5004Dは、同改正にて急行<宗谷>の函館-札幌間を立替えた13D・14D<北海3・4号>と札幌でホーム在姿のまま運用が繋がっており、見方に依っては函館-釧路間の運転が存続とも受け取れた。ただし、函館山線からの直通となるゆえ、石勝線/根室本線内では5003D・5002Dと編成の向きが逆となり、札幌で号車票の差替えが発生していた。

列車の後方が延長232Mの第一トマム川橋梁。今は、背景の山麓に道東自動車道が開通している。
ここから振り返るとトマム信号場の構内も遠望し、その撮影にも良いポイントであったが、30年後の現在では樹木が成長して登坂すら困難である。

なお、表題/文中のトマム信号場は現在のホロカ信号場、石勝高原はトマム、千歳空港は南千歳である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f11 FujiSC42filter Tri-X(ISO320)

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