"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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女満別 (石北本線) 1973

memanbetu-Edit.jpg


ここでは「駅寝」に失敗した、と言うか断られたのである。
前に書いたとおり、例によって遅い列車で到着し、駅員に「機関車を撮りに来たゆえ、待合室で寝かせて欲しい」と頼み込んだのだが、頑として断られたのだった。
後で考えると、中間小駅ならば宿直駅員の裁量で融通を効かせて貰えたのだろうが、特急停車駅程度の規模で深夜帯の待合室閉鎖が原則となれば無理な注文であった訳だ。
駅員氏は、その傍若無人な要求者を疎んじるでなく、「近くの旅館に泊まれ」と勧める。旅館に覚えもなく、女満別と言えば温泉地のそれに宿代からも躊躇していると、電話を取り自ら宿賃も交渉してくれ、「素泊まり500円でどうか」と告げた。
当時としても破格の値ではあったが、その頃の貧乏旅行からすれば出費には違いない。けれど、9月の終わりの冷たい雨の夜でもあり、諦めて(?)その晩は宿泊まりにしたものだった。

記憶が定かでないが、確か『湖畔荘』と言ったその旅館は、古いけれどこじんまりとして小奇麗な宿で、今なら好んで泊まりたくなるようなところだった。炬燵に入って雪見酒でも呑めば極楽の宿に違いない。
このことを思い出して調べてみたけれども、現在『湖畔荘』なる宿は見当たらず、とっくに廃業してしまったようだ。
温泉を楽しみ、その晩は久しぶりで手足を伸ばして眠った。

まだ小雨模様の残る翌朝、西女満別方へロケハンをしたものの良いポイントは見つからず、小さな切り通しになった樹林帯のカーブで列車を待った。
ほどなく軽やかなブラストが聞こえ、やって来たのは急行<大雪>崩れの網走への通勤列車1527列車。

この当時、60年代末期に始まる国鉄の生産性向上運動(マル生運動)に端を発する、その推進方法を間違えた国鉄当局とこれに順法闘争で対抗する国労/動労との対立が政治を巻き込んで先鋭化しつつあり、これが72年の春闘を激化させ、上尾暴動を誘発して、75年の十日間に渡って国鉄を麻痺させた「スト権スト」の交通ゼネストへと繋がって行く。
組合側は、その「マル生粉砕」などのスローガンを車体にペンキで大書きして走らせ、これをアジ演説ならぬ「アジ列車」と呼んでいた。
写真でも機関車のテンダとグリーン車スロ54に、それが見て取れる。
多少なりとも学内闘争にも参画した身としては労組の主張を理解するものの、鉄道写真屋の立場なら困ったものではあった。
今にしてみれば、時代の記録である。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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門静 (根室本線) 1979

monshizu-Edit.jpg


門静から駅前の国道を右へ辿れば、それは海岸段丘上に出て眼前に厚岸湾が広がる。彼方には愛冠岬に厚岸大橋と厚岸の市街地が遠望され、眼下の海岸線には根室本線が通じている。
厚岸湾とは、地理学的には「北海道厚岸郡厚岸町末広埼と釧路郡釧路町尻羽岬を結ぶ線及び陸岸により囲まれた海域」を言うらしい。その湾口幅は9.1kmとあるから実質外海である。事実、根室本線のこの区間は過去に何度か波浪による路盤/道床の流失災害に見舞われている。

この国道から、あるいはやや段丘面を降りた辺りからの厚岸湾を背景にした列車の俯瞰は、北海道の海岸風景の中でも好きな景色だ。
湾内だけあって海岸線が大きく弧を描いているせいか、音別あたりの海沿い区間と異なり、バックが海と空だけに抜けないのが良い。かと言って、秋口の視界の効いた晴天も奥行きが在って良いけれど、何処かぼんやりとした、茫洋として捉え所の無い景色が、ここには似合うと思っている。

68年には釧路以西がDD51にて無煙化された根室本線ではあるが、以東区間への同機の入線は一往復の客車列車をC58から置替えた1974年6月1日のことであった。もっとも、これは旅客列車であって、この区間の無煙化は貨物列車が先行しDE10が72年夏から蒸機との共通運用で投入されている。

写真は、厚岸湾岸の混合444列車。スジは「混合」で引かれているのだが、この頃には貨車の連結はほとんどなくなっていた。

ところで、このカットの444列車には、どうにも解せない点が多々在る。
この釧路-根室間の441〜444列車の一山は、417/418列車<狩勝>編成の札幌方に組成の座席車と荷物車/郵便車を釧路で解放、運用上根室まで直通させていたもので、441の座席車には417から乗り通すことも出来た。
座席車は札幌運転所の運用、荷物車/郵便車はそれぞれ[北東航1][北東航21]の運用番を持つ航送車で、遠く隅田川客貨車区の運用であった。
ところが、本来隅田川区のオユ10であるはずの郵便車がスユニ50となっている。同区にスユニ50の配置はなく、おそらくは道内の車両であろう。
加えて、最後部車はオハフ33に見える。急行列車との共通運用ゆえ所定はスハ45である。その前位は確かに急行形だが所定のスハフ44に対してスハ45のようだ。

どうやら、この編成は全車が釧路客貨車区の所属車両と推定される。
とすれば、この日早朝に釧路に到着するはずの417列車<狩勝>が何らかの理由にて大幅に遅延したため、運用の継承が出来ず、441列車を急遽釧路区の車両にて別に仕立てたのではなかろうか。
撮影後に気がついたものだけれど、この区間にスユニ50の定期運用は無く、希少な記録ではある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

大岸 (室蘭本線) 1992

ookishi_1-Edit.jpg


(千歳 (千歳線) 1990より続く)
道内における最多配置両数の235両のほとんどは新製配置だったが、一部道外からの転入もあり、転出車も存在した。
趣味的な興味は、この転出車にある。

いずれも道外向けの新製車を早期に落成させて道内に配置、夏期ないし冬期繁忙期の輸送に使用後に本来の投入線区へ配転したもので、70年度の八高線/関西線無煙化用10両、71年度の長崎/佐世保線無煙化用の7両、72年度の草津線無煙化用の8両の3例がある。
詳しく見ると、70年度の10両中7両は夏期輸送に使われた一般用(暖地向け)の800番台車であり、同番台の北海道での運用例は他に無い。残る3両はSG搭載車で冬期輸送用に北海道向けのA寒地装備にて出場、71年の春に本来の配置区である稲沢第一区に転ずるが、73年夏の中央西線電化にて余剰の長野運転所のB寒地車と振替の上、再度道内へ舞い戻っている。A寒地装備は、これを予定してのことだったのだろう。
71年度の7両と72年度の8両は、全て夏期輸送向けに早期落成させたSG搭載の一般用(暖地向け)車である。このタイプの道内運用も、これ以外に例がない。
なお、72年度の例は、現車は道内へ直接に回送されたものの、書類上は亀山区への新製配置による貸渡であった。

この、道内への投入がやや滞っていた時期、夏場のDL牽引が冬場になると蒸機に戻る例があった。当時は不思議に思ったりしたものだったけれど、カラクリはこう言うことだったのである。
これらDD51機の写真を撮られた方がおいでなら稀少なカットである。

全国的に見れば、このDD51形式液体式内燃機関車が地方主要幹線の花形として活躍したのは、それら線区の電化がひととおり完成する70年代前半までと思われ、量産機の登場からは10年程に過ぎない。
しかも、それは優等列車に優先して投入されたもので、大抵の場合、普通列車や貨物列車は蒸機との併用にて電化を迎えていた。(余談だが、この頃には特急を牽いての東北線仙台や北陸線糸魚川など意外なところへの運用も存在していた)
その後も山陰線や紀勢線、北部九州線区などでの優等列車牽引を筆頭に、多くの線区での実績はあるけれど、所詮亜幹線ないしローカル線での仕業と思える。
既に70年代後半にして、幹線急行や重量貨物を従えての走りが見られるのは、函館/室蘭/千歳線以外には無くなっていたのである。
それゆえ、この頃から80年代を通じて、道内での撮影行には必ずこれら線区でのスケジュールを組み込んでいた。
長編成の列車を従えての高速運転は、内地では決して実見出来ぬ魅力的なものだったのである。

そして、道内のDD51にひとつだけ欠けていた特急牽引も88年3月改正で実現する。
この本州連絡寝台特急列車の重連仕業で特筆すべきは、かつての東北線や奥羽線における事例が、行路に介在する勾配区間での速度維持を事由にしたのに対し、純粋に平坦線区でのそれであったことである。(駒ヶ岳山麓を通過する区間に急勾配も存在するけれど、この区間はそれ以前に急曲線の連続する線形にて速度制限を受ける)
これは日本における客車特急運転史上、前例は無いと思われる。
しかしながら、平坦線での重連仕業とは、この時点で既に運転性能が陳腐化していたことの裏返しでもある。

さて、貨物鉄道会社は鷲別区と苗穂車両所にあるDD51用検修設備の撤去をスケジュール化しており、北海道の旅客鉄道の在籍車も、北海道新幹線が新函館へと開業する2015年春の改正での動きが注目されるところだ。

礼文華海岸の区間を含む礼文-大岸間が、礼文浜トンネルの掘削による新線に切替えられたのは比較的遅く1975年10月22日のことと記録されている。
チャス岬上の展望台からの俯瞰が知られた区間だが、写真は、そこから見える大岸第一キャンプ場の岩山からの光景である。
複線の新線の横に見える自動車の轍の残る部分が旧線の路盤にあたる。
列車は、3057列車。<北斗星>に接近したスジで互角の速度で走る、当時も現在も本州-北海道間の最速達貨物列車である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f11 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)

千歳 (千歳線) 1990

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地方幹線の重量貨物列車牽引を想定して設計された、DD51形式本線用液体式内燃機関車も遂に最期の日々を迎えつつ在る。
蒸機の終焉期に、それと共通運用のスジに入り、遠くエンジン音と甲高いホイッスルが聞こえると撮影者たちが一斉にため息を漏らしたのも懐かしい思い出だ。

道内におけるDD51は、狩勝新線の開通に関連して、この区間の無煙化用に66年3月から8月にかけ釧路機関区へ配置の15両を嚆矢とする。翌年には旭川機関区へも6両が配置され、これは塩狩、北見峠越えの補機無煙化用であった。また、釧路へも10両が追加投入されている。
これらは、所謂半重連形と称される一群で、後に区名札差に「半」の札を入れ<狩勝>を牽いて札幌駅頭にも姿を見せていたのをご記憶の方も多いだろう。後にツリアイ空気溜管を増設して重連形に編入された車両もあるが、半重連形とは中途な存在であったのか、その全てが新製配置区を動くこと無く85年度末に用途廃止を迎えている。

函館/室蘭線への投入は、やや遅れて68年5月の函館機関区への3両が最初である。
この3両は無煙化用ではなく、同年10月改正(よんさんとお、である)より運転開始予定の隅田川-新札幌(現札幌貨物ターミナル)間特急貨物牽引用としての新製を、道内の夏期繁忙期輸送に使用すべく早期に落成させたもので、7月1日より気動車運用の急行<アカシヤ>を客車に置替え、これを重連で牽引した。
札幌駅で見聞した覚えがあるが、新鋭の機関車もさることながら、編成に組み込まれていた尾久客車区より借入のナハ10に、その始めて見る軽量客車に興味をそそられたものだった。
無煙化用としての新製配置は、翌69年度の函館/鷲別両機関区への19両に始まっている。
なお、この当時の五稜郭機関区は蒸機区で、ここに内燃機の検修庫の完成する69年度末までは気動車の検修設備の在った函館が配置区とされていたのである。

しかし、この後の投入ペースは遅く、70年度末の時点では根室本線の富良野-釧路間で完全無煙化の実現したのみで、室蘭本線の長万部-東室蘭間の無煙化率が、かなり離れてこれに次いでいたに過ぎなかった。優等列車でも全区間でDD51が牽いていたのは、函館-札幌間の<すずらん>と札幌-釧路間<狩勝>であり、<ニセコ>は勿論、<利尻>や<大雪>も旭川以北では蒸機牽引で残されていた。これらにDD51が就役するのは71年の秋から冬のことである。

道内への投入が本格化するのは72年度以降で、76年度末に至って道内での最大配置両数の235両を記録した。
配置区所も最大の10区所を数え、最も配置の多かったのは岩見沢第二区の42両で、41両の釧路がこれに続いた。少ないのは、滝川区の2両、北見区の3両、追分区の5両といったところだった。
もっとも、この後に進められた動力車基地の集約化により、84年度末の釧路区で51両と言う記録もあるが、これの大半は84年2月改正で余剰の廃車前提の保留車であった。
日本貨物鉄道発足時の鷲別区は44両配置だが、この時点での旅客鉄道も含めた道内での両数は92両まで減っていた。
(この項 大岸 (室蘭本線) 1992 に続く)

写真は、千歳構内に進入する5列車<北斗星5号>。
2月のこの日、千歳市には10時を過ぎてもダイヤモンドダストが舞い、太陽光に輝いて美しい光景を見せてくれたのだが、それを光線より列車優先でモノクロにて撮影すると、銀粒子の荒れにしか見えなくなってしまうと言う手本のような写真だ。
あの金色は、リバーサルフィルムのものと感じ入ったカットである。

この高架から見る千歳の住宅街は、どこか日本離れした端正で奇麗な街並だ。羨ましくなる。

[Data] NikonF4s+AutoNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f11 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by Photoshop CS3 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1982

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ずいぶんと前のことだけれど、その夏の渡道の最終カットを倶知安で終え、駅で教えてもらった銭湯へ向かった。まだ陽のある内で、かなり暑い日だったのだが、例に依って駅前の街灯には、そろそろ蛾が集り始めていた。
ひと風呂浴びて脱衣所に上がって驚いた。暑いのに閉め切られたその窓をびっしりと蛾が埋めていたからだ。外からは這々の体で客が番台をくぐって来る。
銭湯の木戸を開けたそこは、アルフレッド=ヒッチコックの「鳥」ならぬ「蛾」の世界だった。街灯という街灯、商店の電照看板という看板に、びっしりと蛾が張り付いて蠢き、さながら浮遊する球体のごとくであり、それに溢れた者はそこいら中を飛び回り、腰を屈めないと歩けない有様だ。しかも、そのサイズといったら、優に手のひらを越える。
この夜、倶知安とその周辺地域では、蛾が大量に羽化したのだった。

飛び交う蛾を避けながら戻った駅は、待合室の照明を落として自衛する始末で、居合わせた地元の方に伺えば、一夏に一度や二度はあるけれど、これだけの大群は彼らにとっても未見らしかった。
20時を過ぎる頃、その乱舞には一定の落ち着きが見られようになったものの、駅前の商店や民家などは室内の灯りを消して静まり返り、蛾に占拠されたその静けさは、やはりヒッチコックのフィルムの一場面を思い起こすものだった。

倶知安には、おそらく日本で一番有名な踏切道がある。
C62重連急行の時代から、ここ「北4線踏切」には一軒の農家があって良いアクセントになってくれていた。当時のネガを見て行くと、毎回必ず数カットは、この農家を組み込んだアングルで撮影している。
後に、空き家となり廃屋と化して行くが、朽ち落ちる以前には解体されたと記憶している。

列車は、DD51の重連急行101列車<ニセコ>。夏の終わりで、ここを日没直後の通過になる。
地元の人から教えてもらった観天望気によれば、明日の悪天を告げる雲だ。
まだ14系の所定編成が8両を保っていた頃で、荷物車郵便車を加え11両の長大編成。本州連絡列車の風格がある。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor85mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

森 (函館本線) 1971

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意識的に鉄道を撮り始めた60年代の後半には、札幌周辺でも大型蒸機は身近であったし、函館本線と言えば小樽以北でのC57急行や山線区間のC62やD51の重連に目を奪われていた。
本格的に海線の区間に向かうのは札幌を離れた70年以降で、それは内地からゆえ周遊券が使えたことも大きい。

内地と結ぶ貨物輸送は、戦中戦後を通じて工業都市室蘭を控え道東道北と直接に連絡する室蘭本線が中心であったが、この60年代には旅客輸送においても、その比重は移りつつあり、折からの経済成長による逼迫した需要に対して、このルートでは輸送力の増強が進められていた。
函館海線の森以北区間では、この71年夏までに石倉-野田生/山越-八雲間と北豊津信号場-長万部間の線増は完了し、本石倉信号場を含む石谷-石倉間の別線なども工事たけなわの状況であった。この撮影の翌月には桂川信号場-石谷間も、桂川トンネル(706M)の開通により湯ノ崎を回る旧線を切替えている。
しかしながら、ここ森から桂川信号場の間の複線化は、かなり遅れて79年9月27日の使用開始と記録にある。

森下り方のこの海沿い区間は、駅至近にて、それと駒ヶ岳を画角に収められる手頃なポイントとして以後も多々訪れている。多くの方々にも定番撮影地なのではなかろうか。

列車は、125列車札幌行き。函館を13時に出て砂原線/山線を経由、11時間をかけて深夜の札幌に至る列車であった。
この列車の30分程前には、ここをC62に牽かれた<ニセコ>の運転があったのだが、群がった撮影者たちは、それが通過すると潮の引くように去ってしまった。当時のSLブームとやらの底の薄さを見た思いがしたものだ。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Compiled by PhptpshopLR3 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1992

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噴火湾はカルデラ地形ではないらしい。
それは、直径約50キロにも及ぶ陥没地形を生成したはずの火山噴出物がどこにも見当たらないからだと言う。
確かに鹿児島湾を形成した姶良カルデラの大噴火では、北海道にも10センチ程の火山灰層を存在させたゆえ、なるほどとも思う。

しかし、静狩から礼文に至る海岸線は明らかに断層活動によるものであろう。
この区間の分水嶺は海岸線から直線距離で僅か数百メートルに在り、そこが長万部町と黒松内町の境界となっている。国道37号線に沿って西に流れる来馬川は、やがて朱太川と合流しその河口は寿都町にあるのだ。特異な地形と言って良いだろう。

この急峻な断層崖が海に没する区間を、室蘭本線は高度を上げて分水嶺直下に穿った隧道群にて通過している。
それゆえ、その区間両端に内陸へ迂回するS字曲線と大築堤が存在する。
静狩方では複線化に際して、旧線を放棄し曲線を改良した新築堤が構築された。
礼文側のそれと比較すると足場に事欠き、撮影には不向きなのだけれど、長万部側の山容を背景とした絵は好きな景色だ。

列車は、雨に煙る築堤を登る8007列車<エルム>。
この頃、マニ50を種車に発電セットを載せたマニ24 500番台は<エルム>へ組成が多かった。
予備率を高く取らねばならない電源車とはいえ、それが不足したという事実に隔世の感がある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@F5.6 FijiSC42filter Tri-X(ISO320)



箸別仮乗降場-増毛 (留萠本線) 1979

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酒の主原料である米は、その物理的性状から何処からも何処へでも移出移入が可能ゆえ、それは全国を流通している。
だから、それを何処で醸造しようが同じ酒が出来上がりそうなものだが、それは千差万別、二つとして同じ味が無いのだ。
微生物相手の仕事と言ってしまえばそれまでだが、酒造技能者である杜氏とそれに率いられた酒造集団の(あるいは酒蔵固有の)技術と、それを求めて酒蔵が立地する程の水の存在と、それらを含むそれぞれの風土が、その味を決定づけているとしか言いようがない。

人の居るところ酒ありき、であるから、北海道にも内地からの移民と共に酒蔵も各地に開かれていったものと思う。
欧州におけるビールの醸造所でも同じなのだが、本来、酒造場とは各集落ごとに立地し、そこの住民達向けに酒を造り出荷していたものだ。
それらも、人口動態や市場の変化に従って淘汰統合され、この2012年2月現在自家醸造を行っている道内の蔵は、13蔵を数えるのみである。

私見だが、酒質には大きく分けて農村型と漁村型があると思う。乱暴な区分を承知で申せば、穏やかな内陸型とキレのある沿岸型である。
それは、そこでの食生活の差に起因するものだ。すなわち、酒の肴の差だと。
出荷量で全国有数の秋田県を例にとれば、横手/湯沢などの内陸地域と本荘や仁賀保などの沿岸地域では、全く異なる酒質の酒が造られている。
道内の酒は、総じて漁村型だ。旭川や栗山などの内陸部の酒でもそう思える。寒冷地ゆえなのだろうか。

ここ増毛には、『国稀』なる美味しい酒がある。
その国稀酒造は、1882年と言うからやはりこの地への漁業従事者としての移民時代の創業である。水は暑寒別川の伏流水。
能登珠洲の宗玄、陸奥鯵ヶ沢の安東水軍と並んでドライな感覚がとても好きな酒だ。

写真は、箸別仮乗降場近くの国道231号線の跨線橋から中歌集落/増毛漁港の方向を見ている。
途中で途切れている海沿いの道路が、この国道まで繋がってからは撮り難くなったポイントだ。
列車は764Dで留萠行き。
深川機関区に配置のキユニ21が連結されている。この当時、増毛は有人駅で勿論小荷物も扱っていた。

この日は撮影の最終日だったゆえ、『国稀』の吟醸四合瓶を仕入れて持ち帰った。購入は弁天町の丸一本間商店だったと思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.




沢木-元沢木仮乗降場 (興浜南線) 1978

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南線には在って北線に見られないもの。
それは全通時を想定して用意されたと思われる施設である。

沢木の駅施設は島式の乗降場を有しながらの片側暫定使用であったし、雄武では駅本屋に隣接した1線使用であったけれど、それは将来の上り本線であり、側線の一番手前側は明らかに下り本線を前提とした配線で島式乗降場を設置するスペースも設けられていた。
これらが、1935年の開業時点から設備されたものかは調べ得なかったのだが、そうとすれば北線側が浜頓別-北見枝幸間30キロあまりを一つの閉塞区間と想定しているのに対し、8キロ/12キロと言ったそれは北見枝幸以南での区間列車運転を想定したものであろうか。
北見枝幸発着の貨物輸送を未開通区間を通過しての名寄経由とする計画であったのか。興部での分岐もその遠軽方でなされていた。

興浜南線は沢木と元沢木仮乗降場の間で日の出岬の付け根部分を小さなサミットで横切っていた。
短いけれど急勾配が介在して、単行の気動車は唸りを上げて通過していたものである。

写真は、日の出岬から元沢木方の海岸線。
列車は927Dで、後追いになる。少ない列車本数ゆえ贅沢は言っていられない。

沢木の集落から日の出岬に至る道を素直に辿ると岬先端にある小さな入り江に至り、そこは海水浴場との標識があるのだけれど、その開設期間は7月末の一週間のみと掲示されていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320)

ニセコ (函館本線) 1984

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俗に言う、日の丸写真である。
敢えて大気の澄んだ初冬を選び、好天に恵まれることを望んで、この場所に立ち、そしてそれは叶えられたのだけれど、撮影結果を前にすると気恥ずかしさが先に立ってしまう。
もう、構図はそこに出来上がっていてフレーミングするだけで良く、自分はちっとも仕事していないこと、撮ったのではなくて、撮らされた気分なのだ。
フレームにティピカルな要素が揃い過ぎると、それは絵本になってしまうと教えられる反面教師のようなものだ。

この区間では、大規模な曲線改良が行われた。75年秋の切替と記憶するから極めて近年である。
尻別川の屈曲をトレースしていた線路は、起点側から第五尻別川(202M)/第四尻別川(243M)の二つの架橋により屈曲部のR300曲線を解消している。曲線と勾配の続く函館山線では、ピンポイントのような改良への投資であるが、この区間に在った「狩太トンネル」が老朽化により放棄せざるを得ないことからの判断なのだろう。

その結果出現したのが、この風景である。
建設途上に列車車窓から発見し、地形図で検討すると羊蹄山が背景に収まることが推定され、切替を待ちかねて訪れたのが最初だが、天候にはなかなかに恵まれずにいたポイントではあった。

列車は、102<ニセコ>。
84年2月1日の改正から車両キロの抑制施策により閑散期の編成減車が弾力的に行われるようになり、この日は所定7両から3両を減じていた。
これが85年3月14日改正では、さらに進んで所定編成が4両とされ、翌86年3月には牽引機の長万部-小樽間の補機運用も編成増結時のみの臨運用に変更となり、山線の凋落間近を思わせたものであった。

なお、この撮影地点そのものも、1900年代初頭に行われた上記「狩太トンネル」の掘削を含む曲線改良により生じた、開通時の本線路盤跡である。まさに線路改良の生んだ撮影地である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1985

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1985年3月14日ダイヤ改正における宗谷方面急行の14系客車置替の趣味的な興味は尽きない。

この置替では気動車編成にあった特別車(グリーン車)の組成がなくなるため、これの代替として、夜行の<利尻>と共通運用でオハネ14が座席代用となる305列車<天北>/302列車<宗谷>にグリーン席が設けられた。
工事は、後位寄りの15番16番の寝台区画に対して施工され、九州特急<さくら><みずほ>に連結の4人用個室式寝台(営業名称-カルテット)の昼間使用時類似の応接室風ソファーシート4人分が設備された。座席車の特別車化や半室改造に至らなかったのは、キロ26での利用実績からの収支判断の結果であろう。
オハネ14の501-503の3両が工事対象となり、札幌運転所[札2][札3]運用の2号車に2両使用1両予備にて運用された。

ところが、この営業施策は、結果として4人用個室風となったのが災いして個人利用客に嫌われ、失敗であった。
しかし、ここで面白いのはこの区画の寝台使用時にある。
この昼間設備の仕様上の事由から、当該区画の寝台は、3段式寝台の上段をそのままに中段が撤去され、下段の寝台舟もソファシートの背ズリを倒してセットするものに取り替えられた。すなわち下段の寝台空間が本来の2段式寝台はおろかプルマン式のA寝台の寸法以上に確保され、しかもグリーン室仕様のB寝台下段の出現である。
もちろん、ここに限って寝台料金は2段寝台のそれが適用されたのではあるが、知る人ぞ知る<利尻>の2号車15番16番の下段は連日空席のことが無い人気だと、乗務員氏から聞いたことがある。まさに、表の不人気と裏の人気が一体で存在したのだった。

その乗り得寝台も、昼間グリーン席の不評から86年11月改正を目標に施工された道内急行の全寝台の2段式化改造に際して、これを廃止しての通常の2段寝台となってしまった。
特別席の設備が有りながら、車体へのグリーン車マークの表示がなく、まして形式称号がオハネロに変更された訳でなく、全国版時刻表にもグリーン車の連結記載もない、2年に満たない期間だけ存在した泡沫のグリーン席。
国鉄末期の珍現象として記憶の価値はあると思われる。

写真は、ニコニコポイントならぬ起点253K500M付近での302列車<宗谷>。
グリーン座席は2両目車両の出入台寄りの一区画。このサイズでは解り難いかも知れないが、窓に巻上げブラインドではなく、横引きのカーテンが見える。

幾度も通ったこの区間の撮影については別項に改めたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor85mm/f1.8 1/500sec@f8-11 Fuji SC42filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

[番外編 4] 青函連絡船 1976

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青函連絡船を続ける。

1964年以降、続々と就航した近代化船と称される客載車両渡船は、1954年の15号台風‘マリー’による5隻の連絡船の沈没ないし転覆という青函航路史上最大の海難事故を教訓として建造され、防水隔壁の強化、舷側の二重構造の採用や船尾防水扉の設置、船体幅の拡幅による復元性の向上などをはじめとした多くの技術が投入されていた。
これらにより、荒天時の航行性能も向上し欠航率の低下にも寄与していたであろうが、海峡の時化にて欠航の判断を下す際に、ある船長をして「船はもつが私がもたない。本船テケミ」と言わしめたというエピソードも伝わる。
テケミとは、『天候険悪出航見合わせ』を意味する鉄道電報の略号である。

一度、船室窓に叩き付ける波涛が遊歩甲板を越えるにまで達し、デッキ扉は鎖にて閉鎖、食堂も売店もシャワー室も営業休止、船内放送では自席を立たないことと荷物を全て床に降ろすよう指示される程の荒天に乗り合わせたことがある。下船後に知るのだが、この日はこの便を最後に全便がテケミした程のシケではあった。
実際大きな揺れで、座っていると身体が大きく持ち上げられると思う間もなく、宙に浮くように急激に落とし込められ、その振幅は数メートルにも感じられたが、主機のエンジン音はいつものように淡々と響き、難航するでなく定刻に青森に着岸した。
確かに、船はもったのであるが、振幅を身体が記憶してしまい、接続の急行列車に乗り込んでからも目を閉じると揺れる感覚に襲われ寝付けずに困った。

前回、客船伝統の等級差と書いたけれど、船腹上部の遊歩甲板の全てを占めていた特別船室には、専用のロビーと明らかに普通船室のそれとはグレードの異なる調度の専用売店が開かれていたが、1978年にこれらは撤去され、新たに「サロン海峡」なる喫茶室が設置された。しかし、残念ながら乗船の多かった深夜便では営業休止につきそれほど利用する機会はなかった。
たまに昼便に乗船すれば、むしろ船楼甲板にあった食堂の窓際席、海面を間近に見るここでのビールを楽しみにしていたものだ。

特筆すべきは松前丸の船内装飾である。室内カーテンや壁面、照明器具などに松前藩の紋である『丸に武田菱』をモチーフにしたデザインが施され、特別船室などオレンジ色とベージュ色の配色とも相まって落ち着いた空間を創り出していた。とても好きな船だったのだが、なかなかに巡り合えない船でもあった。
しかも津軽丸ととも1982年には終航を迎えてしまった。これは、他の5船と補機関係の搭載機器が異なった故と言われているが、これを公式に記録した文書はない。通達は18年の法定耐用年数への到達を事由とするのみである。

さて、連絡船は函館のものと言う感覚が強い。それは所管が1913年に鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所に移管されて以来、国鉄の青函船舶鉄道管理局を経て、1988年の終航時の北海道旅客鉄道函館支社に至るまでの歴史に起因するのかも知れない。しかし航路開設時から鉄道院の発足までの管轄部署は東京そして青森に所在したのである。
それは送り出す側に存在したこと、すなわち、この航路は北海道への移民船として開設されたことを忘れてはならない。

写真は、基坂からの函館市電と函館港。出航して行く連絡船は、当時のメモに「緑の船体」とあるゆえ、大雪丸である。
数時間粘ったけれど、連絡船の位置と市電の通過、それに前景の自動車往来のタイミングが合わず満足のゆくカットは撮れず仕舞だった。
春浅い時季のせいか、観光客の姿は見えない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)


[番外編 3] 青函連絡船 1978

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青函連絡船ことは書きもらせない。
札幌在住当時の60年代には飛行機利用は一般的ではなかったゆえ、内地への移動は青函連絡船以外に考えられなかった。だから、近代化船と呼ばれた津軽丸型客載車両渡船就航前の最後の車載客船であった初代渡島丸や摩周丸、かの洞爺丸などにも乗船しているはずなのだが記憶には無い。
やはり、それは64年からの新造船津軽丸型以降のこととなる。

青函航路の利用客がピークを迎えたのは1973年で、それは年間498万5695人と記録されている。一日の輸送人員の最高記録も同年の8月5日の上下便合計34560人とある。(出典 : 航跡-連絡船70年の歩み 1977青函局)
DISCOVER JAPANキャンペーンの成功もあって北海道への旅行客は激増し、実際にこの当時の連絡船は混雑を極めていた。
人気のあった深夜便などはシーズンならずとも桟橋に積み残しが出る始末であり、午前2時過ぎに出航する貨物便(151・158便)を臨時に客扱いとして捌くことも多々あった。
この事態には国鉄も乗船順位を決めざるを得ず、それは、連絡船の指定席券所持旅客、接続列車の指定券所持旅客、特急列車からの接続旅客、そして急行列車からの接続旅客の順とされ、当時の時刻表にも注記がなされていた。
周遊券利用の旅客としては、その最下位に位置づけられる訳で、ならば特別船室(グリーン船室)の指定席を買って自衛する他なかった。連絡船の指定席とは、この特別船室しかないのである。
客船の伝統であるのか、ここでの等級差は歴然と付けられ、自由席の特別船室が列車の特別車と同等の自在腰掛に対して、指定席のそれは一人用の独立腰掛でリクライニングもほぼ水平にまで可能な所謂フルフラットシートであった。
しかも、その料金は列車に比較してかなり割安だったこともあり、以降連絡船の終航まで常用するようになった。
なお、敢えてJISにおける正式呼称の腰掛と書いているのは、連絡船で言う「座席」とはその名のとおり座る席、カーペット敷のフラットルームであり、腰掛のある席は「椅子席」と区別していたからである。

連絡船に乗り込んで自席に着いた後、なすべきことは食事とシャワーである。
深夜便なら普通船室の乗船ロビーで鉄道弘済会による「あらまき弁当」の販売があり、これは出航前に列に並ばないと入手出来ない程の人気であった。これに溢れれば、「海峡ラーメン」のみの営業だった食堂に入ったけれど、当然こちらがお目当ての乗客も多かった。
当時の乗組調理人の方が、後年に函館朝市近くにこの海峡ラーメンの店を開かれていたが、ご高齢ゆえに惜しくも閉店してしまったらしい。
シャワー室は、後の<あさかぜ>や<北斗星>に設備のものより広く、湯量もふんだんに使用出来た。カード式ではなく、コインの直接投入と記憶している。
このシャワー室は建造時にはなく、1970年より松前丸から順次全船に追設されたものである。
これらが終われば、昼便なら遊歩甲板の散歩となるも、深夜便なら午前4時過ぎの接岸の船内放送に起こされるまでは眠るのみであった。

長くなりすぎた。次回に続ける。

写真は、上り4便として運航中の八甲田丸のシンボルマークとメインマスト。
連絡船のシンボルマークは、航路開設70周年を記念して1977年に制定されたもので、車両渡船を含め当時就航の13隻に付与されていた。客載車両渡船では、両側舷とメインマスト直下の消音器室外壁に取り付けられていたが、車両渡船には付与されたのみで船体への表示は無かった。
八甲田丸のそれは、八甲田山系と水蓮沼を表現したものである。

ご承知のとおり、八甲田丸は終航の後、観光施設として青森桟橋に繋船され、幸いなことにこの光景は今でも見ることが出来る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320)

落合 (根室本線) 1979

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北海道のキハ80(82)系による特急列車には、実は意外な程に乗っていない。
それが撮影対象であったことが大きいが、主に夜行利用の移動や70年代の均一周遊券では別に特急券の所持を要したところもある。

L特急の設定など特急列車の大衆化は進みつつあったけれど、北海道の長距離列車にまで及ぶ以前のことで、まだまだその威厳と風格を保っていた時代である。
周遊券での旅行者には敷居が高かったと言うところだろうか。

実際に乗ってみれば、走行性能はキハ56/27とさほど変わらぬにもかかわらず、遮音性の高い客室にはエンジン音が心地よく伝わり、特に高速運転時の惰行からコンバータを繋いでの再力行など爽快な程であった。
石北本線など駅通過の度に減速を強いられる運転においても、その駅構内出入口の分岐器にて左右に振られながらのスムースな走りは特筆すべきものだった。
贔屓目ではあろうが、山陰線<あさしお>や高山線<ひだ>でも利用したけれど、とても同系列の列車とは思えなかった記憶がある。

80年夏の渡道の帰路、同年秋の改正で1往復の函館-札幌間打切りが決まり、また翌年に予定された石勝線開業で同線に80系特急が運転されるか不透明なこともあって、釧路から函館まで6D<おおぞら6号>のグリーン車を奮発した。その後、183系への置替が進んだこともあって、残った80系列車への乗車機会には恵まれず、期せずしてこれが最後となってしまった。

狩勝越えの落合側は、旧線と同様に新線もルーオマンソラプチ川の谷に沿った直線的な線形で新狩勝トンネルに至ってしまい、良いポイントは見当たらない。
この時もロケハンしつつ歩いたけれども、結局雪を掻き分けてトンネル上部にカメラを据えるしかなかった。

列車は、1D<おおぞら1号>。この当時は、札幌で付属3両を落とし根室線内は10両編成であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 Y42filter Tri-X(ISO400)

函館 (函館本線) 1988

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函館本線の施設上の起点は現在も函館桟橋に置かれており、函館の駅中心は起点0K290Mにある。
この起点側の延長は、1924年10月1日の新岸壁の仮使用開始に際して、それに隣接して函館桟橋駅を設置したことによる。
函館桟橋駅は、1915年6月16日に既設の木造桟橋を拡幅して桟橋上に2線の線路と島式の旅客乗降場を設置したことに始まるが、この際には函館構内乗降場の扱いにて起点の変更はなされなかった。
貨車航送は、第一第二岸壁と命名された新岸壁の本使用により1925年6月1日より開始されている。

1924年に設置された桟橋駅の乗降場が有効長を延長され、後の函館第二乗降場、3/4番線ホームの原型となっている。あの緩やかにカーブし、13両組成の82系特急気動車が入線しても十分に余裕のあったプラットホームである。
<ていね/ニセコ>や<たるまえ>を牽引して来たC62が連絡船の船腹直下で機回しを行っていたことも思い出される。

実際、3/4番線は優等列車の発着する特別なホームであった。70年代には、未明の駅へと青函連絡船の深夜便から降り立つと、3番線に釧路行きの1D<おおぞら1号>が、4番線には旭川行きの11D<北海>が壮観に並び、2番線にはじき出された101Dの急行<ニセコ1号>がかなり格下に見えたものである。
長距離優等列車の仕立て駅の風格を体現した乗降場だったと思える。

1988年の海峡線開業からしばらくは本州連絡の寝台特急がここに発着していたけれども、列車としては途中駅に過ぎず、その風格も薄れた感があった。
その後、函館市の都市計画によりかつての跨線橋より西側で切断されてしまった第二乗降場に、もはや昔日の面影を見ることは困難だ。
今は、新第一乗降場として先端部の70メートル程が残されるのみである。

カットは、4番線ホームから発車直前の6列車<北斗星6号>。
オハ25の組成位置から88年の編成とわかる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor300mm/F2.8ED Bulb@f11 Non filter Tri-X(ISO320)

七飯-渡島大野 (函館本線) 1970



寒冷地の撮影で手を焼いたのが、フィルムベースの硬化により生ずるプレッシャプレート(厚板)内での浮き上がりに起因する部分ボケであった。
ご経験の方も多いことと思う。
列車を待って、カメラを長時間三脚上に搭載する機会の多い鉄道屋ならなおさらだ。

アドヴァンスにしたがってパトローネから半分引き出された状態にて低温に晒されたコマでの発生確率が高いゆえ、手動巻上げのカメラでは巻き戻しハンドルでテンションをかけ、モータードライブなら前コマの露光直後にアドヴァンスしておく、あるいは本番露光直前に2コマを空送りするか、その程度しか対策はなかった。
抜本的には、ライカの一部に搭載されたエア吸着機構が最良と思えたが、何故かこれにはニコンもキャノンも熱心でなく、おそらくはパテントの問題が存在したのだろう。
ただ、これはニコンも十分に認識していたようで、発生確率の高かったF4では、希望すればパトローネ室に送りローラーを追加してもらえた。

この部分ボケは氷点に達しない環境下でも生じたけれど、マイナス10度程度ともなると巻上げ時にパーフォレイションを壊してしまうことがあった。
こうなると送りは勿論、巻き戻してもパトローネに収納不能の場合もあって、目についた民家に頼み込んでダークルーム替わりの押し入れを借りたことがある。突然玄関に現れた見知らぬ者をよくぞ押し入れまで招き入れてくれたと思う。さぞかし驚いたことだろう。
これに懲りて、以後冬期の撮影ではダークバッグを持ち歩き、何度か使った記憶がある。
モータードライブのカメラではアドヴァンスのテンションが均等にかかるせいか、この種の事故は経験しなくなった。

このサイズでは目立たないが、このカットにも左端の一部に部分ボケがある。油断したと言うことだ。
列車は、室蘭始発の函館行き240列車。
既に稀少となっていたD52牽引の旅客列車であった。

40年後の現在、カーブ内側の畑作地では新幹線車両基地の建設工事が進んでいる。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS 続きを読む

塘路 (釧網本線) 1980

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単行の気動車ばかりになってしまい、釧網本線からは、このところすっかり足が遠のいている。
86年の11月改正までは、特急列車の設定こそ無いが気動車急行に機関車牽引の客車列車や貨物列車も走り、一昔前の亜幹線のイメージがあって、根室本線の釧路以東と合わせて幾度も通ったものである。

近年、釧路湿原やオホーツク海などと組み合わせた観光路線に活路を見出すべく、北海道旅客鉄道は釧路方、網走方ともに観光列車の運転に熱心であるが、その形態や外部塗色などからどうにも食指が動かない。
一度、その<湿原ノロッコ号>の控え車であるオハフ51(オハフ510)に乗って、久々の乗り心地を満喫したことがある。上越線の再整備された旧客編成もそうだが、観光列車や蒸機の展示運転列車は「乗るもの」の感が強い。

釧路湿原/釧路川流域で最大の海跡湖である塘路湖では、これも流域唯一となる漁協を組織しての内水面漁業が行われており、漁獲はワカサギである。
この塘路湖と湿原の釧路川を結ぶ水路に架かる釧網本線の塘路川橋梁(66M)脇に番屋があって、漁網が沢山かけられていた。果たしてワカサギ漁のものか、あるいは釧路川でのマス類捕獲用であるのかは聞き漏らしたままだ。

列車は、612D。標津線に直通する<しれとこ4号>。
キハ22による編成ゆえ、外観は普通列車と変わりがない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor35mm/F2 1/500sec@f11 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

室蘭 (室蘭本線) 1967



室蘭を続ける。
過日の室蘭である。

現在では信じられないくらい広大な室蘭構内の着発線群である。
黒煙が立ちこめて霞んでしまっているが、画角のほぼ中央が旅客乗降場で、その脇をかすめて画角右奥へ西室蘭までの線路が伸びており、海側高架の石炭埠頭への連絡線も健在であった。
画角外になるけれど、左にはガントリークレーンを持った室蘭機関区とそれに隣接して室蘭客車区が存在していた。(留置車両の一部が見える)
立ちこめる黒煙は、その機関区からのものだ。後に旭川へ転じて宗谷線旅客に活躍したC55の30や49もここの配置だったと記憶している。

84年2月改正によるヤード系貨物輸送の全廃と、その後の石炭輸送の廃止により、この広大な設備は不要となり、一帯が再開発地区となったのはご承知のとおりである。
現在ではすっかり様相の一変してしまい、発車せんとする貨物列車の後部辺りが現在の室蘭駅本屋の位置と推定される。

その出発せんとしている列車は、1285列車。
東室蘭操車場への区間貨物で、荷は軽いはずなのだが、どうしたことか空転を起こし轟音と共に機関車は黒煙と蒸気に包まれてしまった。
NHK室蘭放送局の裏手あたりからの俯瞰である。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48filter NeppanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1995

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北海道を離れて、もうかなりの年月になるゆえ、今でもそう呼ばれているものか定かでないのだけれど、当時の札幌近辺では近海で漁獲のあった「穴子」を「はも」と言っていた。
内地へ出て来て始めて知り、まして本来の「鱧」の存在を知るのは、かなり後年のことで鱧の梅肉和えに、はてなマークいっぱいになりながら食べた記憶がある。

東室蘭では、その北海道の「はも弁当」が売られていた。
「はも」を開いてタレで焼いたものを白米に乗せた、うな丼ならぬ「はも丼」であった。立売りは覚えていないが、ホームに売店のあったことは記憶にある。
珍しいのは、鉄道弘済会の直営よる調製/販売であったことで、青函連絡船船内での弁当販売や本州内の宮古/釜石などにあるのみで全国的に稀少な例である。
実体のある組織であったかは疑問だが、手元に残る掛け紙(パッケイジ)には、鉄道弘済会室蘭販売所調製との表記が見える。おそらく室蘭営業所と同一組織であったのだろう。
材料調達上の事由からか、一日あたりの製造数は少なかったと思われ、手に入れ難い駅弁当ではあった。

室蘭本線は、北海道炭礦鉄道による室蘭までの開業時(1897年)には、当時輪西と呼ばれていた現東室蘭から直進していた。
それが1909年の北海道炭礦汽船の室蘭製鉄所高炉開設に際して敷地を譲り、現在線のR600曲線による左折となったのである。
よって駅構内を北東側から見ると、室蘭製鉄所が背景に写り込む。

24時間操業の製鉄所ならと黎明に立ち会ったのが写真である。
列車は、201列車<はまなす>。
団体乗車があったのか、閑散期には珍しく12両に増結されていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/60sec@f1.8 Fuji SC44filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1986

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宗谷本線の塩狩峠越えの区間にR195という急曲線が存在する。塩狩の手前1キロ程、サミットに至る直前の旭川起点27K230M付近に、その曲線標は建植されている。
僅かな延長ではなく、300メートル程の曲線長を持つから大きな曲線である。
R195というのは、軽便線として建設された常紋越え区間にも介在しない、本線としては異例の曲線と考えて良い。

蘭留からの宗谷線は、蘭留山の裾野を回りながら緩やかな斜面に取り付き、等高線を浅い角度で交わしつつ高度を上げて行く。やがて前方に張り出す尾根を避けるべく、浅い谷を築堤で渡るところにこの曲線は挿入されている。
それは築堤の延長を最小とした設計により生じたものと見て取れる。

明治の鉄道技術者達は、それが将来永く運転を阻害することを十分に承知していたと思われる。その上においても、当時の土木技術による土工量を最小に抑えて、鉄道の促成が要求されていたのだろう。
この官設鉄道の名寄までの全通は1903年9月と記録されている。
ところが、その翌年に勃発した日露戦争の戦勝により南樺太が領土となり、この鉄道は樺太連絡線として稚内への延伸が急がれることとなった。開拓鉄道が国策上の最重要幹線へと変貌したのである。
これは、鉄道技術者達も想定外ではなかったか。最重要幹線に残されたR195である。


写真は、雪晴れのR195曲線を下る302列車<宗谷>。
DD51はこの曲線に時速40キロ制限を受け、14系客車もフランジを擦りながらゆっくりと通過して行った。
現代の261系特急気動車でも徐行を要する、100年後に残る隘路である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f16 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320)

一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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60年代の後半には道内の運炭鉄道の大半が健在で、かつ蒸機運転であった。
しかしながら新参の撮影者としては、これもまた健在であった幹線の大型蒸機に忙しく、その撮影は後回しにしていた。 

この日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道へは、炭坑の閉山の報に接して「慌てて」向かったのであるが、残念なことにその二日前に運転を終了していた。この当時、北辺の小さな専用鉄道の情報など内地までなかなかに届かず、それほどに情報過疎だったのである。

バスにて到達した機関区の存在する一抗は、選炭場や積出施設を中心に広い構内が確保されており、その一番奥まったところに機関庫はあった。
有り難いことに機関車はまだ火を落としておらず、見学の許可に訪れた鉄道事務所に居合わせた機関士の方には、気の毒に思ったのか、いろいろと便宜を図っていただいた。
庫に入っていたカマを引き出してくれたり、少し後退してロッドの位置を直してくれたり、石炭を焼べて煙を上げてくれたりと。
そうして何と、機関士席に座らせ「リバーを引いてみろ」と言うのである。勿論ブレーキ弁は彼が握っていたのだが、蒸気機関車を走らせたのは、あれが最初で最後の体験であった。心地よく響いたブラストと振動が忘れられない。

機関車が有火を維持しているのは、豊富方より撤去を開始する軌道や部材を一抗まで輸送する運転に備えてのことと聞かされた。まさに、「進路を断って退却する」と言う悲しい仕事が待っていることになる。

カットは、北米風の木造が良い雰囲気の機関庫。ただ、メンテナンスがなく、今にも朽ち落ちそうではあった。後になって気がついたのだが、掲げられた『架線注意』の標識が奇異だ。架線など何処にも見当たらない。

9643は既に無火であった。ここ数日内のことではなく、かなり以前からと思われた。
49678の前方画角外には、これも有火で9615が留置されている。運転させていただいたのは、こちらのカマである。
この9600形式の最初のロットの一両については、いずれ別項を立ててご紹介したい。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS


網走 (石北/釧網本線) 1972

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列車別改札。例えば最寄りの鉄道駅の改札が、営業時間内ならば何時でも開いているような都会にしか住んだことの無い人には解らない言葉だろうか。いや、旅行先などでは体験しているかも知れない。
列車の到着時刻直近にアナウンスがあり、乗客はそれから改札口で乗車券に入鋏を受けホームへと向かう。これが列車ごとに行われる訳である。
驚いたことに、かの札幌駅も70年代半ばまで、発着頻度の低くなる夜間早朝にはこの列車別改札を貫いていたのである。特に利用の多かった夜行急行列車は、改札口のひとつに立てられた案内板に並ぶよう指示され、発車30分程前になって改札が始められていた。
しかしその一方で、都会の駅であるから近距離列車の発着でどれかしらの改札口は開いており、実質的には常時改札とも言えた。
ゆえに事情を知る乗客は、それに紛れてホームへと入り込みそこで待とうとする。これには駅側も良くしたもので、乗車口番号は本来の改札後でないとアナウンスされないのだった。
しかし、鉄道屋である。増結のある場合も含めた自由席車の停車位置など簡単に推察がつき、その番号札直下で堂々と入線を待っていたものだ。

夜行列車は常宿であったから、夏の旅行シーズンは勿論、混雑する週末なども座席の確保は死活問題(?)だった。
上りの始発側では、最混雑期には18時過ぎには改札に長蛇の列が通例であったから、日暮れまで撮影している鉄道屋が間に合うはずも無く、それを逆手に取った裏技を良く使わせてもらった。
撮影地側から改札開始前に当該駅に到着する列車を選んで乗り、ホーム据え付けの早かった夜行急行にそのまま乗り込んでしまうのである。例えば、網走なら釧路方面からの<しれとこ3号>あたりだ。
単なる改札内乗継ぎだから、乗務員に見咎められたり、一度集札を出るよう指示されたことは一度もなかった。だいたい目の前に停車している列車に直接乗るな、とは誰も言えないだろう。

夜の網走構内である。
蒸機列車では夜目にも美しい蒸気と白煙を際立たすに、それを構内照明に重ねる手法を多用していた。
それだけ駅構内が明るかった証でもある。
列車は、釧網線の混合637列車。斜里までの夜の通勤列車である。

冬の閑散期ゆえ、これから食事を摂って改札口に回っても、上り<大雪6号>の座席は十分に確保されるはずだ。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f1.8 Non filter NeopanSSS(+1EV Push) Compiled by PhotoshopLR3 on Mac.


釧路 (根室本線) 1995

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前にも書いたけれど、鉄道屋なので撮影行動中は街中にはあまり出て行かない。宿舎は駅前と決めているし、呑みに出るにせよ、その周辺だ。
釧路での常宿は『東急イン』にしていた。その頃の釧路駅前のホテルと言えば、ここと東映ホテルにサンルートホテルくらいではなかっただろうか。
一度、薬局を探して幣舞橋あたりまで北大通を歩いたことがある。冬の夕暮れ時だったせいもあろうが、軒の低い街並の印象が残る。

だから、テレビ放送の旅番組の映像に、それに映し出された釧路に驚かされた。
その間幾度も駅に降り立ちながら、不覚にもその変貌を知らずにいたのである。

ならば、そのビル街を背景にしたカットを撮りたいものと、かの時代に蒸機列車を追った釧路川橋梁東側の丘陵へ出向いた。
そこでまた驚かされることになる。かつての熊笹の丘は、ビル街に呼応するかのように住宅街へと姿を変えていた。

列車は根室線の5636D。後追いである。
川沿いの漁業施設や工場の建ち並んでいた辺りは空き地が広がり、ビル街とはアンバランスな対比を見せていた。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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