"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

斜内 (興浜北線) 1980

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斜内山道は吹雪ばかりだった。
冬にしか行かないのだから仕方ないのかも知れない。
燈台の直下からフレームを海側に取れば、どうしても写り込んでしまう国道238号線の路面を、厳冬の積雪が隠してくれるのを期待してのことだ。

浜頓別周辺へは夜行急行のルートを外れるゆえ、スケジューリングが難しい。早朝から行動しようとすれば駅前の『浜頓ホテル』にお世話にならねばならなかった。
にもかかわらずの斜内山道行きは、緩やかに弧を描く海岸線が目梨泊の岬へと収束する風景に魅せられてのことだった。
なのに、毎回の吹雪である。吹雪にも呼吸があるから止む。でも、次の吹雪は列車とともにやって来る。

斜内山道は、斜内山への「やまみち」ではなく、神威岬北側の急崖に、おそらく桟道の架かっていたことからの地名と思われる。この鉄道の開通まで、ここは確かに難所だったのだろう。

カメラを目梨泊のほうに向けてばかりいたが、ふと振り返ると、北に奇麗に海が抜けていた。
列車は925D。
背後に次の吹雪が迫っている。

[Data] NikonF3+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f5.6-8 Kenko Y2filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.




黄金 (室蘭本線) 1979

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この頃、浜番屋に執心していた。
きっかけは思い出せない。
当時の記録には、ここ黄金や函館線の朝里、銭函などがスケジュールされている。習作するには列車回数の多いに越したことは無い。
この年の春の渡道から始めているから、本番は冬のつもりだったようだけれど、どうにもそのカットは見いだせない。

番屋と列車を画角に取り込めるポイントは以外に少なく、まとまって番屋の存在するのは上記、他には留萠本線の増毛、根室本線の厚岸の門静方、日高本線浦河周辺くらいと記憶している。

この頃の黄金は、まだ国鉄直営の有人駅で堂々とした木造の駅本屋も健在であった。よって入場券も売られており、それは縁起きっぷとして話題になりつつあった。
岩見沢方には、68年に切り替えられた旧線の路盤がはっきりと確認出来るものの、その途中が道路用の築堤の造成にて遮られていた。後に噴火湾を背景にした俯瞰ポイントとなる道道である。

列車は6203D<すずらん2号>。
ロザ車を含む56/27系気動車の8両組成は、季節臨とはいえ堂々の急行列車である。

[Data] NikonF2+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400)

[番外編 2] 新得 (根室本線) 1980

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ずっとニコンのシステムを使い続けている。

それは、キャノンと比較してニコンが優れていたから、と言うような理由ではなく、カメラ好きでSPからFへとニコンを使っていた父親から、まずNikomatを買い与えられ、その後に彼のシステムを受け継いだからに他ならない。
仕事カメラであった67判や645を持ち歩いた時期もあったけれど、やはり鉄道の撮影には、2:3の画面比率がしっくり来る。

Fに始まって現在のD3まで(F6を除く)そのヒトケタシリーズで、最も使い込んだカメラはF3だ。
80年の発売直後に入手、82年のHPを経て、同時期にアナウンスのあったPも導入しMD-4をセットして使っていた。多い時には5台のF3を保有していたが、その必要がないのでHやAFとは無縁であった。
80年代の機材であるから、今思えばその機能に不自由さも目立つけれど、要求には確実に答えてくれるカメラだったと思う。
仕事カメラとしても90年まで、趣味カメラなら2000年まで現役を務め、その間、複数の個体がありながら撮影不能になるトラブルは、ただの一度きりだった。

それは内部結露に起因すると思われるもので、フィルムがアドヴァンスもリワインドも出来なくなってしまったのだった。
原因がカメラ側かフィルム側か。家庭用冷蔵庫の冷凍室で冷却して再現実験を試みると、プラ系部品のスプロケットやスプールにも、またフィルムベース自体にも結露の曇りを生ずるのが確認されたものの、事故の再現はならなかった。
F3はいくら冷やしても正常動作するけれども、以後それを暖めることにはずいぶん気を使った。

手持ち撮影でのF3は見事に制御されたミラーアップの感触が心地良かった。
それは、爽快と言って過言でない。

カットは、新得駅の跨線橋。丁寧に造られた木造建築と解る。
手持ちの心地よさゆえ、フィルム一本の消費にさほど時間は要さない。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8 f5.6AE Non filter Tri-X(ISO320)

糠平 (士幌線) 1984



道内への撮影は、鉄道利用と徒歩が基本だった。
もちろん、現地での移動にバスやらタクシーも使うけれど、ポイントを探しながらのロケハンなら歩きに限る。
これは、蒸機の時代から現在に至るまで変わっていない。

ベースになる駅から幹線道路を歩いていると、夏ともなれば自転車やオートバイのツーリスト達とすれ違ったり、追い越されたりする。
彼らは、ほぼ100パーセント、徒歩旅行者と視認するらしく、その刹那に必ず挨拶をくれるのだ。手を振ってくれたり、鳴鈴だったり、ヘッドライトの明滅だったり。
今時「徒歩で北海道旅行してる奴なんていないだろ」と思うものの、その際の自分の行動は確かに「大差ない」ものではある。

面白いのは、サイクリストは単独行、オートバイは複数でのツーリングばかりだ。そして、どうにも自転車屋とバイク屋は水と油っぽいのである。
まあ、解らぬでも無い。

この日も、黒石平から糠平まで、幾度も彼らと挨拶を交わしながらの撮影となった。
この国道273号線は、ここから三国峠を越えて層雲峡へ至る観光ルートなのだ。

列車は723D。不二川橋梁を渡れば終着糠平は目前だ。
後方の湖底に旧糠平駅が沈んでいる。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)



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姫川信号場 (函館本線) 1983

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姫川信号場の待合室からの展望(?)である。
この日は、函館方の函館桟橋起点43K500M付近のR301カーブで駒ヶ岳バックの絵をねらっていたのだが、生憎の降雨につき早々に切り上げて、ここで雨宿りがてらの撮影を決め込んだ。

この待合室は、この区間が通票閉塞の当時は転轍機に信号機梃子の置かれた運転上の要であったと思われる。ゆえに構内の展望が良い訳である。
この頃までは、信号場本屋隣に官舎も現存していた。

仮乗降場として客扱いをする、この信号場でこの頃どれくらいの利用者のあったものか、正駅ではないので資料が無い。
周辺の集落の配置から、おそらくは国道5号線側からの利用が多かったものと推察されるけれど、そこからは自動車の入れるものでなく、けもの道と見紛う草道が樹林帯を抜けて下りホーム中程に達しているのみであった。
この下り乗降場は、それなりの有効長を持つのだが、上り線のものは異様に短くアンバランスである。長編成の客車列車主体の当時、上りのそれは砂原線を経由していたゆえ、上りの乗降場は気動車2両分程度にて十分であったのだ。

いつかしらの夏の日のこと、撮影を終えて引き上げて来ると、この待合室にて寝そべり文庫本に没頭している旅行者の姿があった。旅のスタイルも色々だが、確かに誰にも邪魔されずに時間に浸るには絶好のロケーションだろう。
「駅ネ」もあったに違いない。

列車は、123列車長万部行き。
函館運転所の50系(51形)客車は、80年の10月から運用を開始し、29両配置の23両使用にて室蘭線の室蘭と江差線木古内まで、それぞれ一山の運用があった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

植苗 (千歳線) 1969

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千歳線の沼ノ端から植苗に至る区間も、これまで取り上げさせていただいた北広島や七飯と同じく、ここ数十年での撮影地を取り巻く環境の変化が著しい。
ここでは、都市化といった急激な変貌ではなく、もっと緩慢な変化が進行している。
湿原の乾燥化である。

今、この区間の車窓風景を湿原と見る人は少ないのではなかろうか。
ここを初めて訪れた66年当時は、千歳線/室蘭線の路盤以外は全てウトナイ湖につながる湿原。足を踏み入れれば水のしみ出す湿原だったのである。
忘れもしないのだけれど、そこは絶好の住処と見えて、湿原は至る所ヘビだらけなのだった。
思い出すだけでも背筋の寒くなり、そこに蒸気機関車さえやって来なければ絶対に足を踏み入れぬ場所である。
想像してほしい。軌道内で昼寝するヘビどもが列車の振動を感ずると、一斉に湿原内へと逃げ出すのだ。それをファインダー越しに見ざるを得ない有様を。
これには懲りて、以後しばらくは冬限定の撮影地にした。

湿原であるから見通しは極めて良く、冬期間であれば湿原内へと入り込むことも出来た。
千歳線と室蘭本線との交差部からの俯瞰や千歳線上り線(下り運転線)築堤の遠望は、良く知られたカットである。
いつの頃からか、まばらだった灌木が疎林となり、やがて樹林へと成長していった。樹木の生育は土壌の乾燥が条件である。
湿原の乾燥化は避け得ぬ自然のサイクルではあるが、それにしても早過ぎる。ここではウトナイ湖周辺で進められた土地開発が影響しているように思える。その意味では、これも都市化による変化と見ることも出来そうだ。

列車は1793列車。苫小牧操車場から白石までの区間貨物である。苗穂起点57K付近の踏切から撮っている。

この区間での最近の撮影は、一昨年の10月。勇払川の橋梁へ行ってみたけれど、河川敷は整地され湿原は姿を消していた。これではヘビも棲めない。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

長万部 (函館本線) 1981

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北海道における14系特急形客車(座席車系列)は、80年10月1日ダイヤ改正での関西-九州間急行<阿蘇・くにさき><雲仙・西海>の廃止による捻出車、6両基本編成-5本の計30両の函館運転所への配置に始まる。熊本客車区および早岐客貨車区より、熊本区からの1編成の他は、検査周期や走行距離の調整のため品川/尾久/名古屋の各区で車両を振替の上、80年9月30日付での転入であった。
これらの車両は道内運用のための耐寒耐雪工事を施工、周知のとおり500番台に付番され、101・104列車<ニセコ>に8両組成の2組使用にて81年2月7日の下りより運用を開始した。
30両配置に対して16両使用と予備率の高いのは波動輸送も考慮されたためで、同年の夏臨期からは季節<すずらん>を気動車運転より置替ている。

「なんちゃって」ブルートレインとはいえ、DD51機重連牽引の14系編成は、遠ざかっていた函館山線に再び足を向けさせるにはインパクト十分で、86年11月の列車廃止までの間、山線行きは渡道スケジュールに必須となっていた。
この置替に際しては特別車スロ62が組成を外れたことが惜しまれ、これが上りでオユ12の次位にあれば、より魅力的な編成だったに違いない。12系化された<きたぐに>の昼姿の例もあるだけに残念であった。

この当時、<ニセコ>編成は札幌での滞泊間合いにて、手稲-札幌間の普通列車1843・1842に運用されており、これも必然的に14系客車使用となった。普通列車への同系運用は、後年のホームライナーや海峡線を除けば、他には80年10月から83年6月までの6403・6402<おが>崩れの男鹿線運転に見るのみで極めて稀少であった。

C62の時代から約10年振りに、101列車<ニセコ>の長万部発車に立ち会った際のカットである。
10年前に、この跨線歩道橋が存在したのか、どうしても思い出せない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/f1.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

蘭島 (函館本線) 1982

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跨線橋を続ける。

戦前戦後の鉄道黄金期の時代、幹線の主要駅でも無い限り駅本屋は平屋が原則であったから、立体的に線路をそれこそ跨ぐ跨線橋は、本屋の屋根越しに見える。
ゆえに、それはそこに鉄道が通り、駅が存在することの象徴たり得た。ビルディングなど無い時代なら、それで駅の方向が知れたであろうからランドマークである。
鉄道が外界と繋がる唯一手段であり、その駅が、そこに暮らす人々拠り所であればあるほどに、跨線橋には意図的な思いが込められたのではなかろうか。
かつての網走本線の置戸や宗谷本線の美深、石北本線の丸瀬布など、開拓地の入口駅に重厚な跨線橋の多く存在するのは、そのような理由なのかもしれない。

函館線の倶知安で撮影を予定していたこの日。函館からの夜行を未明の下車が億劫になり、蘭島まで乗り通して、ここで交換となる上りでの折り返しとした。その際のスナップである。

列車は、130列車函館行き。
停車列車だが、タブレットキャッチャが準備され、運転担当駅員がタブレットの投下を待っている。
下り本線で待つ札幌行きに、それを手早く渡すためである。

夏の日ゆえ、ここ蘭島は海水浴臨時列車の発着で忙しくなる。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor85mm/F1.8 1/500sec@f11 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Compiled by PhotoshopLR3 on Mac.

美利河 (瀬棚線) 1970

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瀬棚線には、茶屋川-美利河-花石と響きの奇麗な駅名が並ぶ。
そして、ここは美利河をサミットとする渡島半島の低い分水嶺越えの区間でもある。
本線の大型蒸機を差し置いての瀬棚線は、この駅名に誘われてのことだ。

実際に、山間の小さな盆地を思わせる美利河と花石の間は美しいところで、蛇行する後志利別川を二度渡る(橋梁名は第一第二の渡島利別川橋梁)花石寄りも気持ちの良い風景だったし、R300やR400曲線の連続する美利河近くの、道南らしい落葉樹の山越えも捨て難かった。
美利河の赤い三角屋根の小さな駅舎も、多分に駅名を意識して建替えたのであろうが、好ましく思えたもの。この当時は簡易委託駅で、駅舎内に乗車券の販売所が設けられていた。
当然貨物扱いなど無い、乗降場も一面のみの棒線駅にもかかわらず、この頃二往復設定されていた貨物列車の内の下り1本が10数分間停車するダイヤだった。この列車、次駅の花石で上り旅客列車との交換になるのだが、列車運行図表を読む限り花石へ直行しても何の支障もないと思われ、今もって謎の停車である。

列車は、1992列車。長万部までの線内貨物である。
当時、長万部機関区には3両のC11の配置があり、瀬棚線のほか函館線の黒松内までの旅客列車の仕業も存在した。
こちらは残念ながら撮っていない。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250cec@f5.6-f8 Y48filter NeopanSSS

函館ドック前 (函館市交通局・本線) 1980

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「鉄道屋」なので、駅を離れることはない。
いや、心象ではなく物理的に、である。

鉄道が移動手段の撮影行動だから、食事するにも、泊まるにせよ、買い物だって、出来れば駅で済ませたい。
せいぜい駅前。歩いても10分圏内。
だから、かつて在住し、仕事でも訪れる機会の多々あった札幌/小樽は別にして、旭川や釧路、北見/網走、苫小牧に室蘭などは何度も駅には降りているのに、その街は良く知らないのである。

ただし、函館は良く知っている。その街中に「線路」があるからだ。

函館は道内との行き来に必ず通るから、渡道初日や最終日を、その線路こと函館市交通局軌道線、通称-函館市電の撮影に充てることも多かった。
特に、函館山の山麓の本線や宝来・谷地頭線の沿線、西部地区と呼ばれる旧市街地には市電と組み合わせたい素材が至る所にある。早くに廃止されてしまったが、ガス会社前から五稜郭駅前への本線沿いの工業地帯然とした沿線も、国鉄からの引込線との平面交差が見られるなど印象が深い。
市街地ゆえ機材の大半を駅なり宿なりに預けての撮影は、いつもの緊張感とは異なる気分を楽しめたものだ。
それは列車ダイヤに縛られない開放感だったとも思える。

本線の起点、函館ドック前(現-どつく前)は、函館ドックの敷地目前で唐突に線路が終わる。(起点だから「始まる」のか)
そこには安全地帯も無い。

500形は戦後の製作になる車両で、この時点で車齢30年程。全30両が健在でまだまだ主力だった。
系統番号の3は、ドック前と湯の川を本線-宮前線-湯の川線と運行する系統であった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.




尺別 (根室本線) 1993



道東の太平洋岸の春から夏は霧に沈む。
日射の届かない霧の底の気温は低下し、8月の尺別駅でストーブが焚かれていたのに驚いた記憶がある。73年頃のことだ。
尺別鉄道はもうなかったけれど、駅前に存在する数戸の民家にも人の気配はして、石炭ストーブの煙が霧に吸い込まれてゆくのだった。
それから30数年を経て、ここは廃屋を包み込む原野に還りつつある。

それ以来、ここ音別の丘から、或はもっと音別川寄りの丘でも良いのだが、早朝に海霧を縫うように走り来る夜行急行を撮りたくて幾度も通ったものの、そう適度な濃度の、そう適度な透過具合の、そう都合の良い海霧など巡り合えるでなく、結局それは果たせずに終わってしまっている。

反対に霧を避けるなら秋冬期だ。
それでも、10月のこの日は午後になって海上に小さな霧を生じ、それは日没にかけてゆっくりと原野へと流れ込んで、低い斜光の中にあった。

列車は、4005D<おおぞら5号>。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f11 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320)

小石-曲渕 (天北線) 1986



天北線が宗谷丘陵を越えるこの区間は、永く国鉄在来線における最長停車場間距離のレコードホルダーだった。
85年3月に宗谷本線筬島-佐久間の神路信号場が廃止された結果、以降は同区間にこれを譲ったものの、17.7キロは、やはり長い。
天北線は、樺太連絡の重要線区として最初に稚内まで到達したルートであるが、無人の山越え区間とはいえ、この閉塞区間が容認されたのは、その連絡列車さえ走れば良いとするものだったのだろうか。

一度は行くべきと思いつつも蒸機時代に撮り逃していたこの区間への撮影は、86年の初夏に実行した。
五万分の一地形図で検討すると、曲渕から林道らしき小道が線路に付かず離れずで伸びており、これのどこからか撮れそうだと当たりをつけていた。
確かにそれは予想通りだったのだけれど、なんとか編成を捉えられそうなこのポイントを「発見」するまで2時間近くの徒歩を要した。標高は100メートル程に過ぎないのだが、それだけ山深い峠だったのだ。

この日は季節外れに暑く、しかも無風に近い環境につき、信じられないくらいに大群の虻に襲われながらの行動だった。例えば、まるで虻で出来たシャツを着てるみたいになる、と言ったらその凄まじさをお分かりいただけるだろうか。常に身体を動かしていなければならない。

列車は、これを撮るための天北線行であった304列車<天北>。12.5パーミルの連続勾配に小柄なDE10は、喘ぐようにやって来た。なぜか、所定に対して2両の増結がある。
編成を隠してしまう樹木には冬期間の撮影で対処する他にないけれども、林道は除雪されないだろう。

帰路、林道を抜けると虻の大群は不思議なくらいに霧散してしまった。

[Data] NikonF3H+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by Photoshop LR3 on Mac.



初山別 (羽幌線) 1977

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羽幌線は、初山別から築堤で高度を上げながら左に旋回し、海岸段丘が海へと迫り出した区間を、この段丘面を切取ることなく海岸線との僅かな空間をラーメン構造の高架橋で通過していた。通称-金駒内(けんこまない)陸橋である。
この陸橋は、外観からは600メートル程に達するのだが、構造物上は3個部分からなっており、それぞれ上り方から順に『第一/第二/第三初山別陸橋』と命名されている。
このルート選定は、用地買収にかかわる経費上の結果と言うが、高架橋の採用も段丘への土工より有利であったからだろう。これは開通年次の新しいことを示している。

初山別と遠別の間が羽幌線の最後の区間として開業したのは、1958年10月18日のことであった。よって時代的に投下されている構造物の技術は東海道新幹線と同等である。
開業日には、札幌から直通の、ロザ車のみで組成の祝賀列車が運行され、遠別駅にて祝賀記念行事が行われた。

この話は、撮影を終えて引き上げた駅で駅務室へと迎え入れてくれた、初老の駅長氏から伺った。開通時には、遠別で駅員として働いていた由。
お茶をご馳走になり、帰り際に頂戴した名刺に、「日交観旭川支社」とあった。てっきり、国鉄の職員かと思っていたが、それを定年退職して故郷の駅に帰った方だったのだ。
この当時でさえ、既にこの駅が国鉄の合理化=駅務の簡素化に基づく業務委託駅だったのに少々驚いた記憶がある。ここが国鉄の直営であった期間は、おそらく開業から15年に満たぬのではなかろうか。
そういえば、この最終開通区間の途中駅は最初から無人駅ばかりだった。
(日交観については下の追記に詳述している)

金駒内の陸橋は、車窓からの眺望であれ、撮影するにせよ、羽幌線最高のビューポイントに違いない。その存在は蒸機撮影の時代に全線をロケハンして承知していたけれど、蒸機列車がいつ走るや知れぬ臨時貨物1往復の設定とあっては訪問を躊躇せざるを得ず、それがなくなって、ようやく実現させた撮影行であった。

列車は、825D幌延行き。
背景はこじんまりとした初山別漁港である。
奥の海上に見える黒い部分では雪混じりのの風の吹いている。冬の羽幌線撮影では、これが曲者だった。

[Data] NokonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320)
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西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972

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図歴に「昭和43年編集」とある国土地理院発行の五万分の一地形図『札幌』図幅を見ている。
札幌市交通局による軌道線も定山渓鉄道も健在だ。千歳線には、東札幌、月寒、大谷地と懐かしい駅名が並ぶ。近くには千歳線の現在線が建設線の記号で描かれている。楽しい地図だ。
この図幅は、都合の良いことに、その中央近くに札幌駅が位置している。
地形図上での建築物の集中域は、駅を中心にほぼ半径10センチ程の円内に収まっている。地形図用語で言う、総描建物と独立建物が描かれている範囲である。これが、大まかな当時の札幌の市街地と言えるだろう。
この時代から札幌は東京以北で有数の大都市であったが、それでも市街化域は直径10キロ程の円内にあったと見れる。
翻って40年後の『札幌』図幅でのそれは、同様の見方をすれば図幅の大部分を占めるまでに至っている。爆発的な都市の膨張と言って良いだろう。
それは、当然のこととして、図幅外となる隣接域周辺域にも大きな変化を強要した。鉄道風景も勿論そのひとつである。

なかでも、ここ北広島駅と周辺沿線の変貌には驚かされるものがある。もっともそれは、60年代末、ここに団地の建設が計画された時に運命付けられたといっても良い。
かつての広島町市街地の外れに位置した駅であり、現在の東口にあった小さな駅舎をご記憶の方も少なくなったことだろう。

写真は、1969年に供用の開始された新線(現在線)の輪厚川橋梁での撮影になる。手前側下に旧線の築堤が続いていた。
輪厚川の河川敷と氾濫原は、旧線路盤撤去と合わせて行われた河川改修にて圃場として整備された後に、時を経ずして全てが宅地となった。
左岸の小さな河岸段丘にあった農家の庭先をお借りしての撮影だったけれど、段丘もろとも跡形も無い。今の共栄河川公園の一角と推定している。
列車は、急行貨物3089列車。通常はD51のみの牽引だが、この日はC57の補機がついた。
千歳線の補機運用は苗穂機関区の仕業で同区のC57/C58が使われ、千歳-東札幌間を基本に一部白石までの運用があった。
C57は客車急行の気動車化などによる余剰車の転用と見て取れるが、彼らの経歴を鑑みれば贅沢あるいは可哀想な仕業であった。

[Data] NikonF+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f11 O56filter Tri-X(ISO400)

止別-浜小清水 (釧網本線) 1967

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夜行列車の運転経路上で深夜帯に発着のある駅では、その待合室は原則24時間利用が可能だった。
すなわち、そこで一夜を過ごすことも出来た。所謂「駅ネ」である。
道内での例は、それほど多くはないが、旭川をはじめ根室線なら新得、帯広、宗谷方面では名寄に音威子府、道南の長万部、加えて函館の連絡船桟橋待合室といったところだ。
これらは深夜も営業する駅だから、寝袋の装備でもあろうものなら極上の「駅ネ」が楽しめた。もちろん、その区間に有効な乗車券なり周遊券を所持していることが条件である。

鉄道屋なので、「駅ネ」は随分とやった。
蒸機時代の昔は、幹線の小駅でも運転要員は24時間体制で詰めていたから、最終列車で到着して図々しくも「待合室に泊めてくれ」と頼み込んだりしたものだった。今思えば、図々しさにも程があろうと言うものだが、不思議なことに「機関車を撮りに来た」で大抵の場合受け入れてもらえた。彼らとしても軒先で寝られても困るところだったのだろう。
ただし、夜間は併合閉塞により棒線駅と化して無人となる駅があり、要注意だった。

「駅ネ」に慣れて来ると、今度は本来の無人駅を狙い始める。丁度、国鉄の合理化計画が進み始め、無人化駅も増えていた頃だ。灯りは無く、夏場には蚊や得体の知れない虫に悩まされたりもしたが、駅舎というシェルターはあるし、キャンプと思えば楽しいものだった。
(一度だけ、無人化後の金華に「駅ネ」したことがある。この時の「体験」は別項に改めたい)
シーズンなら同宿者の現れることもあり、突然の宴会も開かれた。自転車やバイクでの旅行者達だ。
寝袋や自炊道具を装備するなら、ツェルトも加えて手っ取り早く撮影地に泊まることも考えたが、これは「野宿」となるゆえ実行はしなかった。

「駅ネ」は何も鉄道屋だけのものでは無い。
60年代から75年ぐらいまでだったろうか、網走や稚内など観光地への拠点駅は「駅ネ」の人々で溢れかえっていたのである。これらの駅は夜間締切りだから、その軒先のみならず駅前広場すべてが「駅ネ」で埋まっていたのだった。カニ族と呼ばれた北海道愛好の旅行者達の群れだ。
現代では想像も出来ないが、当時にしても信じられない光景を見た思いがしたものだ。
こうした北海道旅行のスタイルは、その後急速に萎んでゆく。DISCOVER JAPANキャンペーンに始まる「お洒落」な旅の時代が,そこまで来ていた。

最後の「駅ネ」がいつだったのか、どうにも思い出せない。

これは、網走駅前広場にてカニ族の人々と一夜をともにした(?)後に釧網本線へ入った際のカットである。
撮影ポイントの選択が、まったくなってないと我ながら思う。
列車は、混合633列車の釧路行き。3両の客車は旅行者で満員であった。鉄道乗車が、きちんと観光手段だった時代。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS(ISO200)

七飯-大沼 (函館本線) 1988

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待望の本州-北海道間連絡の寝台特急列車が運転を開始したのは、88年の3月改正だった。
もちろん、海峡線の開業にともなうもので、既に四半世紀近くも前の出来事になってしまった。

この運転開始の一ヶ月後からしばらくの間、1列車<北斗星1号>に座席車が連結されていたのをご記憶だろうか。函館-札幌間に増結のスハフ14である。

改正前のこのスジには、青函連絡船の深夜便から接続となる1D<北斗1号>の設定があり、連絡船からの乗継客ばかりでなく、函館-札幌間各駅からの利用者も少なからず存在したのである。
改正後の1列車は、これらの旅客に対応して編成中10号車の寝台利用を函館までに制限したのだが、爆発的な<北斗星>人気により札幌方面への通し旅客が多く、この双方の需要を賄いきれずに、半ば苦肉の策的に施行された措置であった。
この増結は現地函館基準で88年4月11日より実施され、編成札幌方に座席車組成の<北斗星>が実現した。当時、札幌運転所のスハフ14は配置全車が運転所在姿で前位を函館方(函館本線基準)としていたため、1列車のオハネフ25とは後位が相対し、特急の編成美としては褒められたものではなかった。
この増結運用には、さらに趣味的な面白さがあったのだが、興味のある方だけ「追記」をご覧いただきたい。

88年の春には仕事が立て込んで、なかなかに道内行きのスケジューリングが出来ず、ようやく渡道が叶ったのは6月に入ってからのことだった。原型色のDD51機重連の特急仕業は、東北線の<ゆうづる>、奥羽線の<日本海>の再来を思わせ、この渡道の2週間の予定を全てこれの撮影に充てた。

カットは、渡道翌日、はじめて対面した1列車。機関車次位にスハフ14が見て取れる。
良く知られた通称-七飯高架橋の大沼寄りのタラップから、函館支社広報課の許可を得て撮影している。運転士はここでの撮影を承知していたはずである。高架橋の内側は、この四半世紀で住宅が建て込み撮影には適さなくなっている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Compiled by CaptureOne5 on Mac.

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常紋信号場 (石北本線) 1984

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廃止が打ち出されたゆえだろうか、つとに「石北貨物」が喧しい。

86年11月の改正で臨時列車に格下げされた北見発着の貨物列車が、以来10年を経て変則的とはいえ定期運行を再開した経緯は良くわからない。貨物鉄道会社のJA北見に対する営業努力によるものだったのだろうか。
この運行については各方面で多くが語られており、ここに改めることは少ない。
ひとつだけ記録させていただくとすれば、この復活運行のニュース性は、石北線内での補機運用区が既になく、解結にかかわる地上要員と北海道旅客鉄道の協力も得た乗務員の確保もあって、北旭川以北の全区間でDD51機の重連牽引となった点にあった。
常紋の峠をこれの重連牽引の列車が越えるのは、臨運用等を除外すれば初めてのことだったのだ。この区間の補機運用は後機が基本であり、後補機に加えて前補機や後々補機を要する1000tレベルの輸送量はなかったのである。
この運行は鉄道屋的には事件だったのだ。

以来久方ぶりに常紋通いを再開したものの、2004年シーズンで後機に戻ってしまってからは、再び足が遠のいている。

常紋信号場の金華側は、記憶は定かでないけれど、1980年前後に線路周辺の斜面の針葉樹が一斉に伐採され、一気に見通しが良くなった。
その後植栽林の成長により撮影不能となったポイントもあるが、現在に繋がる風景は、この時以来となる。

列車は、3084列車。隅田川駅常備のコキ10000で組成された特急貨物である。
晩秋の夕刻。伐採地に取り残された1本の枯れ木が寂しい。

[Data] NikonF3H+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)

白符 (松前線) 1981

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北海道南端に位置する松前線と木古内以遠の江差線は、内地から向かえば最も近場の線区に違いないけれど、連絡船を降りて奥地へと気の逸る身から、ついつい後回しとなり、最初の訪問は81年の冬になってからだった。

この時既に、五稜郭から木古内への区間は将来本州連絡線の一部になるとアナウンスされており、海岸線をトレースする茂辺地や渡島当別あたりも気になったが、むしろ廃線の噂された木古内以遠へ向かうことにした。
白符での下車はあてずっぽうで、地形図でこの先の宮歌付近に比較的長い橋梁(宮歌川橋梁-164M)を見つけていたからに他ならない。五能線の岩館あたりのイメージだった。

20分程の徒歩にて到達したそこは、寒村でもなく好ましい漁村で、予定していた山越え区間への転戦を中止して一日を、ここで過ごした。

写真は、宮歌集落背後のクマ笹の斜面をよじ登って撮影したもので、あまりの傾斜に三脚を立てられず、足を踏ん張りながらの手持ちだった。

列車は4828D函館行き。
80年10月の改正で、キハ21/22の遜色急行として知られた<松前>は廃止されており、その後になって、同改正にて余剰となったキハ27の編成が入線するのも皮肉である。
松前線へは、この翌年にも再訪したものの、結局それが最後となってしまった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 Kodak No,12filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

二見ヶ丘 (湧網線) 1972

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思い出されるのは、味噌パンである。

当時の製造会社は数多存在しただろうが、鉄道弘済会の売店に供給されていたのは、網走市所在の古川製菓の製品であった。
駅売店で入手出来る上、夏期でも変質し難く、なにより冬に凍らないので携帯食として利用した。
確か、青函連絡船の船内売店にも在庫されていたはずで、乗船すると道内時刻表とともに購入した記憶がある。
携帯には、やや嵩張るのだが、その形状と厚み、冷たくならない性質からカメラバッグの緩衝材の隙き間に収納し、断熱材がわりにしたりした。効果の程は未だわからない。

この時も、その「断熱材」をバッグから取り出し、朝食代わりにかじりながら列車を待った。
その地元、網走郊外の緩やかにうねる畑作地で、網走刑務所の実習地らしく無断立入りを禁ずる旨の立て札を見るが、冬とあっては咎める者も居なかった。

列車は、中湧別までの線内貨物1990列車。
白煙を撮ったカットなのでわかりにくいけれど、ワムフ100が連結されている。当時、専ら本線区に運用されており、荷物車の代用だったのだろうか。
東海道線の宅扱小口急送品急行貨物列車の後部を飾った花形貨車の最期の姿である。

古川製菓は現在も盛業中と聞くが、その味噌パンはキオスクの常備在庫ではなくなってしまったようだ。

[Data] NikonF+AutoNikkor35mm/F3.5 1/250sec@f8 Y56filter Tri-X(ISO400)

広内信号場 (根室本線) 1980

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始まりは財務上の事由だったろう。古い施設や車両を更新出来なかった小湊鉄道が、それゆえに注目を集める。
近年では、同様にその投資環境を逆手に取って、国鉄〜各旅客鉄道会社で失われた、あるいは失われつつある情景を誘客の手段とする事業者が、地方の中小私鉄に現れている。

実は、「撮影地」も失われつつある鉄道風景のひとつではないかと思っている。
防風柵である。

強風下における運転規制は、86年の餘部橋梁からの列車転落、株式会社という環境下で生じた2005年の羽越線における特急列車転覆などの重大事故を受けて、その都度見直しや運用の厳格化が諮られてきた。
しかしながら、それは旅客の安全確保と引き換えに運転抑止や休止などの増大をもたらし、社会的生産の損失もさることながら、各旅客鉄道会社の経営上からも無視出来ないものとなった。
このため、各社は規制値の低減策として適用区間への防風柵防風壁の設置を進めている状況だが、これら対象区間には、必然的に好撮影地が含まれており、少なからぬポイントが過去のものとなりつつある。

狩勝新線の計画以前から広大な種畜牧場の存在した緩やかな傾斜に大きくU字形の線形を描く、この区間は、雄大さでは勝るであろう旧線が、針葉樹林に囲まれた築堤の大カーブの連続でサミットへと向かい、もし国道38号線があの位置になければ撮影は困難であったと思われるのと対照的な、広々とした開放感がある。
その牧草地から見る空の大きさや、取り囲む丘陵の南側や東側の斜面からはるか彼方まで見渡す俯瞰も、切り取るべき画角は無限とも思えた。一度でも現地を訪れた方なら、ご理解いただけるだろう。

とはいえ、ここは94年の暴風雪による特急脱線転覆の現場でもある。当事者である北海道旅客鉄道の措置は是とせねばならない。
その一方で、広内信号場の上部に開通した道東自動車への工事用道路が残されており、新たな高々度の俯瞰ポイントと思われるが、まだ試してはいない。

列車は、404D<狩勝4号>。石勝線の開業直前、まだ堂々たる急行列車だ。
後方に、俯瞰のポイントだった通称-東山と南山が見えている。列車は、まもなく第一広内トンネルに入る。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1976

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近年の道内は実に撮り難い。
要因のひとつは、夜行列車の廃止である。
これで、道南の線区を撮っていて翌日の朝からは釧網本線を、といったスケジュールはまったく不可能となった。
仕方ないので、中距離を移動しながらの転戦で効率はこの上なく悪い。

代替手段は夜行バスだが、あの床下のトランクルームには締結の装備が無く、撮影機材を格納する気にはなれない。内部で荷物が踊ってしまうのだ。
必要に迫られ利用することもあるが、車内に機材を持ち込める閑散期に限る。
第一、首都圏からの周遊きっぶ、企画乗車券では乗れない。

冬の夜行列車と言えば、暖房補機である。
深夜の外気温が氷点下10度以下まで低下すると、機関車から供給される暖房用のスチームが途中で冷え、編成後部まで回らなくなってしまうのだ。これを補うため後部に連結される暖房車代わりの補機だ。
10系寝台車による編成が長く、狩勝越えを控えた<狩勝>には、この時期連日運用されていた記憶がある。
当時、深夜の新得辺りで待ち受ける根性は無かったらしく、撮影はしていない。

これが、電気暖房を持つ14系化後の<まりも>で復活したことがある。84年の冬と記憶する。
北海道向けの14系は、転用時の改造工事のひとつとして床下に蒸気暖房管のみを引き通して、併結する荷物車や郵便車に蒸気を送り届けていた。
これらが編成後尾となる下り列車で、おそらく乗組みの数人の係員が音を上げたのだろう。この数人だけのために暖房補機が連結された。機関車1台、なんとも贅沢な暖房だ。
これも巡り逢えず、撮り逃している。


カットは、未明の札幌に終着した、518列車<大雪5号>。
常紋、石北とふたつの峠を越えるこの列車は、その2度の補機が暖房補機も兼ねたものと思われ、上りで後部となる座席車でも暑いくらいに暖房は効いていた。

[Data] NikonF2+AiNikkor50mm/F1.4 1/60sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320)

北母子里 (深名線) 1973



朱鞠内湖の湖畔には、湖水から垂直に高く突き出した伐採木が連立する異様な光景を見ることがある。
聞けば、ダムサイトの水没予定林の伐採を雪中にて行ったゆえと言う。
なるほど、積雪期ならばこんもりと雪を冠った切り株として現れる訳だ。

朱鞠内-名寄間の深名線は、早くから貨物列車の設定がなくなり、昼間の一往復のキハ22の単行列車が1両か2両の貨車を牽引して、これの代替をしていた。
しかし、積雪による走行抵抗が加わる冬期間には、名雨峠の連続25パーミル勾配にDMH17型機関では出力不足となり、蒸機の出番だった。

列車は、その混合9944列車朱鞠内行き。昼間の気動車運転1往復を運休して臨貨のスジにて運転され、客車は名寄客貨車区に配置のスハニ62が専用された。
座席定員は僅かに56名。この当時からそれで十分な輸送量だったのだろう。
貨車が前位連結定位のため独立した客室暖房を要し、釧網本線の同車と同じく軽油燃焼式の温気暖房機(所謂Webast Heater)を備えていた。

湖畔の伐採林跡を踏み越えて広大な雪原と化した湖面上から撮影している。積雪期だけのポイントだ。
この冬は暖冬傾向で、湖の氷結も緩いと地元の人に聞かされただけに、足下にしみ出す水を気にした記憶がある。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by Photoshop LR on Mac.

春別 (標津線) 1978



標津線は茫洋としたイメージがある。捉えどころがないのだ。
何処で撮っても同じようなカットになるだろう。

これで旅しても、車窓には牧場と落葉松林と落葉樹、さらに牧場と落葉松林と続いて行く。
時間を喪失する線路だ。

根釧原野に敷設された標津線は、台地に浅い谷を刻む小さな流れを幾度も渡る。その都度谷へと下り、直線的な平面線形ながら、はげしく上り下りの勾配を繰り返す。
しかも、簡易線規格ゆえの20から25パーミル勾配が随所に存在した。
その線路縦断面図は宛らノコギリの様相を呈し、北海道ならではの特異な線形の路線であった。

写真は、春別川を渡り20パーミルを上って台地上に出た、354D厚床行き。
この当時、貨物列車はスジこそ引かれていたものの、既に牽くべき財源が無く運休が常となっていた。

快晴で雪原が眩しい午後だった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f11 Kodak No,12filter Tri-X(ISO320) edit by CaptuerOne5 on Mac.

[番外編 1] 厚岸 (根室本線) 1979

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本来の役目を終えた後にピークを迎えたもの。
「なぞなぞ」では無い。
汽車弁当。駅弁のことである。

最新のダイヤで、夜行を除いた在来線の最長距離運転特急は大阪-長野間の<しなの>だそうだ。営業キロで441.2キロ、5時間と少しの乗車だ。他に5時間を超える乗車時間の例は、鳥取-新山口間378.1キロの<おき>、それに道内の宗谷線/石北線特急のみ。全国でもこれしかない。
新幹線<のぞみ>も東京-博多が5時間運転だ。これが現在のところ1個列車に乗れる最長時間だろう。

函館-札幌が3時間、札幌-釧路も4時間とあっては、あえて駅弁を買い込んで乗るまでもなかろう。
79年当時には、稚内から函館まで12時間を要した急行<宗谷>や根室から函館まで通した<ニセコ3号>なども存在し、それで旅する人々に汽車弁当は必需品であったのだ。

駅弁がデパ弁などと呼ばれて久しいが、必需品でなくなってから、実に種類も内容も豊富なものへと変貌した。
いや、必需品でないからこその展開なのだろうか。
往年を知る身としては、もはや駅弁ではなく、コンビニのお弁当、あるいは料理屋の仕出し弁当の延長に過ぎない気がしている。
最近の傾向として、需要が減って販売の無くなった駅での復活が相次ぐ。道内で言えば、岩見沢や静内、富良野である。共通するのは、観光と連動した地域グルメと見て取れること。駅での販売量は少ないだろう。それは単にアリバイ作りにも思える。

ここ厚岸には、当時から美味しい駅弁があった。駅前右手に所在する氏家待合所謹製の「かきめし」に「さけめし」である。
ホームには早朝から夕方まで立ち売りの姿が見られた。
この氏家待合所は現在も盛業中で、むしろ全国のデパートでの実演販売でおなじみと思われる。
もはや現地需要のほとんどない駅弁屋の生き残りの好例であろうが、複雑な心境だ。
残念ながら、「さけめし」の製造は止めてしまったようだ。

列車は、釧路から到着した混合441列車。2両の座席車に荷物車郵便車の編成。
4両とも早朝に釧路到着の夜行<狩勝>から直通するもので、座席車はそのまま乗り通すことが出来た。
交換列車を待つホーム上の人々は、釧路への通勤客である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor35mm/F2 1/500sec@f5.6 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Compiled by PhotoshopCS3 on Mac.

八雲 (函館本線) 1971



八雲に、八雲ローヤルホテルという「ホテル」があった。永く、函館から小樽までの間で唯一の「ホテル」だった。

もちろん長万部やニセコにも駅至近でホテルと名乗る宿泊施設は存在したが、それらは道内時刻表巻末の宿泊案内の料金欄に「一泊二食付き」とあるように実態は「旅館」である。
チェックインが遅かったり、アウトが異常に早朝だったりの撮影行では、食事や入浴に時間の制約のある旅館は使い勝手が悪く、この頃の、たまの地上泊(車上の反意語、つまり夜行列車ではない、と言う意)には「ホテル」が欠かせなかった。

八雲ローヤルホテルに初めて投宿したのは、71年夏の渡道時だった。
時刻表巻末に「一室」で料金が示され、ここは「ホテル」と確信して電話を入れたのだった。
駅から数分の徒歩で到着したそこは、「ホテル」に違いはないものの、つい最近まで「旅館」であったのを無理矢理に「ホテル」と云い包めた風情で、ついこの間までの和室にベッドが置かれ、その寝具はあきらかに所謂布団からの転用に違いなかった。
しかし、この転換は時代の先読みに違いなく、この「ホテル」はまもなく鉄筋のビルに立て替えられ、ビジネスホテルのみならずレストランやコンヴェンション施設も併設した、この地域で唯一の「シティホテル」として盛業を続けた。
その後も幾度か利用し、ここのフロントマン(支配人か)には大変良くしていただいたものだ。

しかし、駅前に本来の「ビジネスホテル」が進出し、浜松の八雲温泉に大規模な宴会場施設が開業するなどの影響か、たいへん残念なことに2008年7月をもって廃業してしまった。

この日は、落部の海沿い区間での撮影を予定していたものの天候が悪く、これを断念して八雲付近でのスナップに切り替えた。フロント(雰囲気は帳場と呼ぶべきものだったが)の親爺さんの「八雲に来たなら牛を撮れ」の助言(?)に従ったカットだ。
八雲町は道南では有数の酪農の町らしく、それこそ牛はそこらじゅうに居た。牧草地とは思えない草地にも牛は放牧されていた。

列車は、15D<おおとり>網走行き。編成は基本の7両のみの運用だった。後追いの撮影である。
小雨の中でも、牛は何も気にする風でなく草を食み続けていた。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500@f5.6 Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR on Mac.

倶知安-小沢 (函館本線) 1967



60年代後半の鉄道風景として、函館山線のC62重連急行は外せないだろう。

この列車については、近年諸先輩方による回顧本の発刊が相次ぎ、ここに改めて記することは無い。
ひとつだけ付け加えさせていただけば、それらで語られた「C62が雪雲を連れて来る」に代表される、多くの「ニセコ伝説」は「本当の話し」だ。

当時在住していた札幌近郊でのC62は身近な光景で、これは初めて意識して撮影に臨んだ際のカットである。
重連区間での走りは圧倒的で、手稲辺りで眺めるそれとは、俄に同じ機関車とは信じ難いものだった。

この後、この倶知安峠はもちろん、二股、蕨岱、上目名に銀山と通うことになったものの、その度に現地で出会う同業者は爆発的に増えてゆき、それがピークに達する71年の夏前には撮影を止めてしまった。
あまりの狂乱に恐れをなした訳である。撮影地に怒号が飛び交うのは今に始まったことではない。鉄道屋の品性が問われる。

列車は68年の改正以前につき<ニセコ>ではなく、102列車<ていね>だ。
<まりも>当時から引き継ぐ食堂車マシ35を含む、本州連絡列車らしい風格のある編成だった。
札幌からの本務機に珍しくC622が入っている。倶知安峠が、まだ静かだった頃だ。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Compiled by PhotoshopCS3 on Mac.

山軽-安別仮乗降場 (天北線) 1985

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85年の3月改正はニュースだった。
宗谷/天北線急行の14系客車置替である。
ダイヤ改正ごとに、特急格上げや列車廃止の一方だった昼行の客車急行が設定されるのは、事件だったのだ。
その年の幾度かの渡道スケジュールの大半を道北方面に費やしたのは言うまでもない。

同改正での函館線急行の編成見直し=編成減車による捻出車の転用ではあるが、未だに気動車特急の設定のない道北方面系統急行の冷房サーヴィスや接客設備の改善を図ったもので、伸長しつつあった都市間バスへの、当時の国鉄北海道総局の危機感が、この措置に見て取れる。
運用組数の抑制で、一往復が夜行<利尻>と共通運用となり、寝台車が座席代用で供されるのも、かつての東北線臨時急行などに例のあるものの定期列車では前例がない。

夜行客車急行の設定のあった宗谷線はともかくも、廃線が語られ始めていた天北線を機関車牽引列車、それも急行列車が駆け抜けるのは、事件に違いなかった。
線路規格の低い天北線へは、DD51では速度に制限を受けるため、必然的にDE10(DE15)の牽引となった。
それまでも、75年3月改正までの<日本海>の米原-田村間など本線優等列車の牽引事例は存在したが、100キロを越える区間での本線仕業は、これも事件と呼んで異論の無いものだった。(後年には陸羽東線での<あけぼの>事例が記憶に新しいが)

山軽からクッチャロ湖小沼畔の10パーミルの勾配を、303列車<天北>はまさに駆け上がるようにやって来た。
急行列車に相応しい走りだったと思う。札幌運転所[札2]運用、稚内から夜行<利尻>で折り返す編成だ。
後方に、クッチャロ湖大沼が広がる。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F2.5 1/500@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CapureOne5 on Mac.



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