"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

厚賀 (日高本線) 1985



簡易線規格の線区向けに投入されたDD16は、84年2月改正での、それら線区の貨物列車の廃止により、そのほとんどが運用を失い余剰となっていた。
北海道内でも84年年度末の時点で、大半に用途廃止前提の休車措置がとられ、稼働車は8両のみであった。
これらとて、DE15の入線出来ない線区向けの除雪用名目で残されたものだが、実際には排雪モーターカーで代替され、実質的に保留車ないし休車同然の状態に置かれていた。
時折運転される、かつての運用線区での工臨列車の牽引が唯一の本線仕業だった。
国鉄の動力近代化と激変した輸送市場への対応とのタイミングの狭間の生んだ悲運の機関車と言うべきだろう。

太平洋の海岸線を走る日高本線は、必然的に河口への長大な架橋の例が多い。
流路の一方を海岸段丘に遮られた厚別川河口の橋梁は、そこからの直近での俯瞰がとれ、蒸機運転の時代から度々訪れたものである。
この位置から背後の斜面を少し登ると、段丘の迫り出した海岸線をトレースする日高線をはるか彼方まで俯瞰出来る、よく知られたポイントになる。
鉄道写真屋の特権だろうか、通常の観光旅行では見られない景観だ。

85年夏に宗谷/天北線急行の増結運用の撮影目的で渡道した折、工臨運転の情報を得て急遽日高線に向かった。
列車は、工臨9831列車。遠く様似までの運転。折り返しの上りは翌日の運転とあって断念した。

当日の夜行に乗車すべく到着した札幌では、コンコースに設置のテレビが、日本航空123便の行方不明を伝えていた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Y42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1968

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昨年のこと、花輪線の大館行きに乗車の節、とある小駅から大勢の団体客の乗車があった。閑散としていた車内に立ち席となる程の人数だ。その会話から、彼らがすぐにバスツアーの客と知れた。
鉄道ブーム、それもローカル線ブームと聞き及ぶが、それへの乗車がバスツアーの行程に組み込まれる程のものとは、思わずにいた。
ほんの三駅、乗車時間にして30分に満たない区間の出来事だが、シーズンが限られるとはいえ、年間ではそれなりの日数であろうから、鉄道にしてみれば手数のかからない増収である。
そもそも鉄道移動は、観光手段のひとつであって、自体目的化することは、裏を返せばそれだけ彼らに乗車機会がないことを意味し、鉄道衰退の証みたいなものだが、それが増収をもたらすのも皮肉な気がする。
ともあれ、そこの鉄道の本来の利用者にとっても、(鉄道を残してゆく、と言う意味において)悪いことではないだろう。

近年、北浜駅も駅自体が観光対象化しているようだ。
おそらく、ここを乗車駅ないし下車駅として釧網本線乗車を組み入れたバスツアーも存在しているに違いない。
68年当時は、濤沸湖や小清水原生花園観光への下車駅は急行も停車した隣駅浜小清水駅、あるいはシーズン中に設置される原生花園臨時駅で、この駅は静かなものだった。
まだ、Discover Japan キャペーンの前夜であり、カニ族と呼ばれた横長のキスリングを背負った旅行者を、ここでも見かけるようになるのは70年を過ぎてからのことだ。

9月半ばというのに風の冷たい日で、空気はとても澄んでいた。
北浜の撮影地は駅至近のポイントばかりで、撮影を終えると駅に戻り、誰もいない待合室で、次の列車まで波音を聞きながら過ごすのは、心地良い体験だった。

ご覧の通り、貨物側線はもちろん、海側の側線や待避線にまで、その有効長いっぱいに貨車が留置され、駅前には農産物の貯蔵倉庫も見られる。今では想像も出来ないくらい、鉄道輸送が主役の時代だったのだ。
列車は、混合635列車釧路行き。常に貨車が前位に連結されるのが釧網線の混合列車の特徴だ。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.4 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by Photoshop LR


豊浦 (室蘭本線) 1990

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豊浦をして、「北の湘南」と修辞するむきがあるが、言い過ぎだと思う。
本家の「湘南」も困ってしまうのではないか。
むしろ、英仏海峡に面したノルマンディ地方の海岸の町のイメージだ。
これも、言い過ぎか。

いや、実際に、南の噴火湾に向かって開け、後背地の山林へと緩やかに傾斜する市街地は、大きくもなく寒村でもなく、サンルームのあるこじんまりした一軒家で、隠れ住みたくなる魅力がある。
噴火湾からの漁獲があれば、バックヤードでの野菜や酪農に畜産物もある。ノルマンディならフランス料理屋のひとつやふたつあってもおかしくはない。
知らないだけで、海岸町か幸町あたりの住宅街のどこかに、もうひっそり営業しているのかもしれない。
そう思わせる雰囲気は、ある。

撮影のポイントも、突然に噴火湾を見下ろす弁辺トンネル出口から貫気別川橋梁の築堤区間、駅を経て茶志内トンネルとチャストンネルの間でかいま見る三番磯の岩礁と、海岸線からも俯瞰でも、子育観音への道すがらでも、選ぶに事欠かない。

写真は、貫気別川橋梁下り方のR604曲線。長万部起点35Kの甲号距離標付近になる。
これなら、豊浦でなくとも、と思われるかもしれないが、R600程度以下の半径の曲線で、そのアウト側に足場があり、かつ線路近辺が開けて障害物がなく、さらにバックが空に抜けない、と言う条件の揃うポイントはそうあるものではない。
<北斗星>系統の輸送力列車であった<エルム>は、88年の夏臨から運転を開始した。当初は通常のサイズのヘッドマークを掲げていたが、すぐに、道内夜行や宗谷線気動車急行と同サイズのものに替えられてしまった。機関車に、この大きさは似合わない。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO400)

国富 (岩内線) 1979



限られたスケジュールにて北海道を効率良く撮影するには、夜間の移動が欠かせなかった。
それは、都合の良いことに、均一周遊券の利用を前提とした宿泊費の節減策にも有効だった。
同じような時代に道内を旅した方ならば、似たような経験をお持ちではないか。

その使い方には、いくつかのパターンがある。セオリーと言っても良いかもしれない。
ひとつには、札幌を中心とした道央の撮影地と夜行急行着地側の線区を組み合わせる、単純な利用。
もうひとつは、長距離転戦に組み込むパターン。これが本来の使い方か。
一日の撮影を終えての夕方以降、札幌から旭川の間のどこかに夜半前に辿り着ける列車に乗れれば、この区間で4方面のどの夜行急行にも乗り継げるゆえ、例えば、稚内あたりでの撮影から、ここを18時過ぎに発つ急行<礼文>に乗って、23時過ぎに旭川に到着(当時はこのスジだった)、札幌からの網走行き夜行<大雪>に接続し、翌日には常紋信号場や釧網本線へと転戦出来る。
士幌線を撮っていて、翌日の朝には幌延から羽幌線へ入ることも可能だったし、函館本線なら大沼にいても、札幌の夜行列車発車時間帯に十分間に合った。
宗谷本線の場合は、<礼文>の時間帯があまりに良すぎた故に自由度も高く、旭川で下り<利尻>と乗り継げば再び稚内へと舞い戻れもしたが、根室本線の釧路以東やオホーツク沿いの支線区からだと困難があった。

さらには、究極の「舞い戻り」である。
同一地区に連続して滞在を望む場合、深夜の上下列車の交換駅で、その上下を乗り換える強行策だ。ただし、ダイヤが上り到着と同時に下り出発のような設定があって、この場合はひとつ手前の停車駅で下車して待機することになる。80年前後の<大雪>がこれで、夏だったが、深夜の白滝で寒さに震えた記憶がある。
さらには、ダイヤが乱れると交換駅も変わる可能性があるゆえ、ゆっくり寝ていられない。変更駅が双方の停車駅なら良いが、運転停車での交換となればドアも開かず、「舞い戻り」失敗である。翌日の撮影計画を練り直さねばならず、それこそ寝ている場合でなくなったものだ。

岩内線の訪問は、函館からの夜行普通列車を早暁の小沢で下車することが多かった。
札幌から、そう遠くない距離ではあるが、同駅到着の夜行急行からの移動であると午前中を潰す故である。
函館山線ともども、道北や道東とは組み合わせ難い撮影地だった。

写真は、国富から小沢方に戻った丘陵の斜面からの俯瞰。針葉樹ではないから植林地とは思われず、果樹園だったのだろうか。何の幼木であるかわからない。
列車は、降雪の合間にやって来た927D岩内行き。先頭が急行<らいでん>崩れの札幌発、後ろの倶知安発と小沢で併結した姿。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor85mm/F1.8 1/250@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CapturOne5 on Mac.


苗穂 (函館本線/千歳線) 1992

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札幌駅の運転や着発線の操配に関して、苗穂は要の地位にある。
機関区が存在して、かつてはC57が屯していたから、など運用上の事由ではない。
73年9月までは、ここで千歳線が分岐し、それが白石に変わった後も実質的な起点駅であり、高架化まで3線区間であった札幌の東側から出入りする列車の、そこの着発線の使用を左右していたのである。

それは、苗穂駅の配線に見て取ることが出来た。ここに図示はしないが、白石まで続く方向別複々線にあって、旭川/沼ノ端方では、外側の上り線と内側上り線間にシーサスクロッシングを置き、その延長方向で内側上り線と内側下り線さらに外側下り線間に片渡り分岐が2台ずつ挿入され、函館方は、駅を中心にこれと丁度点対称となる形で同様の配線となっていた。
すなわち、極端には、岩見沢方向からやって来た列車は、苗穂構内に入るとシーサスから渡り線を次々渡り、反対側の下り線に入り、さらには機関区側の側線にまで進入が可能であり、乗降場を通過した後からでも中線や下り線に乗り入れ、札幌駅の8番線/9番線等へと進出出来た訳である。後者の例は実際の運転でもあった。

これは、本来札幌駅の持つべき列車振り分けの機能を分散させたものだが、複々線が3線に狭まる札幌-苗穂間の線路容量上必須の配線と思われ、また、どの線へも進入可能であることは雪害などによる運行の混乱時の列車整理にも不可欠であったろう。

この配線が思わぬ使われ方をしたことがある。札幌駅の高架化工事関連による同駅荷物扱の苗穂移転にともない、84年2月の改正から道内夜行急行に実施された苗穂への運転停車に際してのことだ。これは、ここで荷物車の解結を行うためで、駅舎寄りの1番線/2番線(乗降場の設備はない)に進入する必要上、特に下り列車は、下り外側線から次々と本線を横断し、さらに上り外側線を越えて「極端には」と前述した例同様の運転をした。この配線がゆえに可能であったのだ。

92年、新千歳空港連絡快速列車の頻発運転の実施以降、この列車振り分け機能は、さらに白石駅にも分散された。


写真は、苗穂東方の複々線区間。函館桟橋起点290K付近である。
雨天の雲間からスポットライトのように差し込む一瞬の斜光が印象的だった。
列車は、西下を始めたばかりの8002列車。終着は22時間後だ。
後方、札幌駅のJRタワーは、まだない。

[data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Kodak No,12filter Tri-X(ISO320)

鹿越信号場 (根室本線) 1976

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奥白滝の駅名標(プロフィル写真参照)には、上り方駅名に、この時点で駅ではなくなっていた「かみこし」とある。本来ならば「なかこし」と表示されるはずだが、ローマ字表記部分で、SS-KAMIKOSHIとして、SS=Signal Station と「信号場」を明記している。信号場を隣駅とした駅名標は、あまり例がない。
上越は、道内時刻表にもキロ程-68.6キロを削除した上で引き続き掲載され、普通列車の全てが停車して客扱いする実態は変わりがなかった。

同線の常紋信号場も一度も駅であったことは無いが、ここも同様であった。スウィッチバックしない、すなわち着発線に入らない列車には通過線上に乗降台が設けられていた程である。着発線に入れば、乗務員に頼んで急行列車から降ろしてもらったこともある。
蒸機撮影に高名であったせいか、仮駅として全国版の時刻表にも掲載された時期があり驚いた。ご記憶の方も多いだろう。その後には道内時刻表からも消えてしまったが、この線のCTC施行までは乗降自体は可能であった。

根室本線の狩勝越え区間にある西新得や広内、新狩勝の各信号場は、遅くとも80年頃まで乗降場(プラットホーム)の設備もないにかかわらず、昼間の気動車による普通列車がダイヤ上停車となっており、乗車後乗務員に希望すれば降車が認められた。そればかりか、出発信号機直前の列車停車位置辺りで待っていれば拾ってももらえたのである。
本来は、新得からの信号場職員(広内は有人の信号場であった)や保線職員の移動を事由とした措置であった。

さて、この当時の鹿越信号場は、道内版の時刻表に掲載されながら、それは全列車が通過表記であった。ここで下車したのは偶然で、乗車列車の乗務員から乗降可を知らされ、思わず降りてしまったのだった。1966年9月29日の開業からの被RC駅にて無人のそこには板張りの短い乗降場が整備され、時刻表に反して停車列車の時刻表も掲げられていた。この周辺に金山湖に沈んだ旧鹿越の集落が移転した訳でなく、周囲はまったくの無人である。
おそらく、ここも狩勝区間と同様の事由による停車措置で、通過表記はそれゆえと思われる。後日開いた70年の時刻表には、ここ自体の掲載がなかった。停車を告知しないままでの掲載開始の理由は分からない。

予定外の下車にて地形図の準備もなく、加えてロケハンの時間もなく、とにかく下車後起点方に遠望した橋梁先の隧道の上部斜面によじ登って撮影したのが、この写真だ。帰宅後、空知トンネルの出口側と知る。
登りきったそこは立派な舗装道路で、その上展望スペースまで準備されていた。こんなこともある。
列車は、弱い西日に照らされる422列車。荷物輸送の必要から、この区間に夜行<からまつ>と共に残された客車普通列車だった。

[Data] NikonF2+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 No filter Tri-X(ISO320) Edit by Photoshop CS3 on Mac.

奥白滝 (石北本線) 1977



当時は、現代と異なり地域の情報はなかなかに得難かった。
未訪問であった石北峠の区間の撮影を目論んだのは、77年の正月も過ぎた頃。峠の頂上近い上越が信号場に格下げされ、時刻表から消えたのは承知していたので、撮影のベースは必然的に奥白滝と決めていた。
遠軽からの一番列車に乗り遅れ、次の列車が白滝止りのため、ここからタクシーを手配して向かう算段であった。

行き先を聞いたドライバーは首を傾げながら走り、降ろされたのは、両側を背丈よりはるかに高い雪の壁に囲まれた国道上。そして、彼は、駅はこの向こうだ、と告げたのである。
ここで、始めて、この駅に乗降客のいないことを知った。

半ば凍り付いた雪壁をよじ登れば彼方に駅を認めるものの、カンジキの装備もなく、上り方の雪に埋もれた踏切をもがきながら突破して線路伝いに辿り着いた駅舎は、すっぽりと雪に埋もれ、ストーブを期待していた待合室は除雪用具の置き場と化していた。
詰めていた駅員達は、道路経由の訪問者におおいに驚き、駅務室に招き入れお茶をごちそうしてくれたのだった。
入場券を所望すると、冬期間に販売の望めないためか乗車券箱は金庫に格納されており、ここから大切そうに取り出してくれた。
さらに、この駅の売り上げに貢献したくなり、数日後に乗車予定であった札幌から釧路までの急行寝台券を申し込んで撮影に向かった。料金補充券の設備がなく、出札補充券で代用されたそれは、奥白滝駅発行の貴重な記録として今も手元にある。

肝心の撮影だが、石北トンネル出口までの区間。
あまりに山深く、かつ沿線の斜面は針葉樹が密生し、適当な足場を見つけることは出来なかった。
写真は、起点73K付近にあった列車監視台から撮っている。
列車は、522列車。この客車2両の後には荷物車郵便車が4両続く。

[Data] NikonF2+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by Capture One 5

西中 (富良野線) 1976

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近頃、旅をしていて食事に困ることが多くなった。

早朝に夜行で到着するか、まだ暗い内に宿を出て撮影行動に入り、日暮れまで人里離れた辺鄙な場所で過ごして、そして翌日の行動のために移動するか、もしくは現地に泊まる。
これを毎日繰り返していたのが、北海道の撮影行だった。
まる一日重い機材と行動しているから、余計な歩きはしたくない、すなわち駅からは離れたくないのである。したがって、食事は、駅弁屋か構内営業の立食いそば、せいぜい駅前の食堂が頼りであった。

ここ10年くらいだろうか、このセオリーが通じなくなったのだ。
駅弁売店やそば屋は、札幌行き最終の特急発車までの営業。それの出て行った駅は閑散とし、駅前の食堂とて午後6時ともなれば店仕舞してしまう。
道内夜行も、末期には始発駅で乗車しない限り「朝までエサなし」を覚悟せねばならなかった。
かっては、その停車駅、岩見沢や旭川は勿論のこと、深夜の富良野、帯広、遠軽などでも駅弁の立ち売りがあり、駅そばスタンドも営業していたものだ。駅前でも、連絡船やフェリィの接続する函館や稚内に限らず、釧路や北見でも夜行の到着に合わせて開店する多くの食堂があった。
それだけ、鉄道での長距離移動、まして夜行でという旅客がいなくなった訳だ。

富良野の乗降場にはタイル貼りで円筒形の駅弁販売所があって、深夜でも売り子が詰めており、特にしばれる冬場には、赤々としたストーブの上の蒸篭で蒸した暖かい弁当を提供していた。

写真は、西中から中富良野方向の雪原の夕暮れ。
夏には水田の広がるだけの平野だが、冬ならば「絵」になる。後年観光地化するラベンダ畑は、画角外右手の丘陵地にあたる。
持参の水筒の水がしっかり凍り付いてしまうほど寒い夕刻だった。
帰り着いた富良野で購入した幕の内弁当の暖かかったことを、よく覚えている。
列車は、655D富良野行き。

[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2 1/125sec@f5.6 Tri-X(ISO320)

富浦 (室蘭本線) 1984



海岸線に沿う鉄道を、海前景にて撮影するのは、湾曲した海浜や港湾の突堤などを利用すれば比較的容易だ。しかし、これを俯瞰しようとすれば海に突き出した岬上部への登頂となる。

室蘭本線は、その海線区間で岬の鞍部を隧道で通過する区間が三カ所ある。起点側から礼文-大岸間のチャス岬、有珠-長和間でのエントモ岬、そして富浦-登別間に存する蘭法華岬である。静狩から礼文の区間や本輪西付近も広義に解釈すれば、そのひとつかも知れないが、海を前景とした撮影の足場にはなりそうにない。

チャス岬は、付近の集落から登坂するけもの道のごとき小道が存在したが、近年豊浦町にて町道から直登する階段道が付けられ、上部は「カムイチャシ史蹟公園」として展望台や遊歩道が整備された。ここからの俯瞰写真をご覧になった方は多いと思われる。
エントモ岬は、岬全体が私有地で、海側から上部への道路が、かつても現在もある。国道からのアプローチも容易だ。もっとも、撮影ポイントとしては、エントモトンネル入口側柴田踏切付近のR600曲線の方が高名だろう。

さて、蘭法華岬だが、岬先端部の標高が60メートルを越える大きな岬で室蘭本線の蘭法華トンネルも延長322Mと長い。その分、海側には急峻な崖が続き、付け根部を横断する国道からのアプローチに小道もない。現在では、岬の所有者による利用の都合からか国道の切取り部を登る車道が付けられているが、かつてはこれさえもなかった。

写真は、この蘭法華岬から富浦方の俯瞰である。84年夏の度道の際に、車窓から岬を覆う樹林帯に視界の取れそうな「隙き間」を見つけ、実行したものだ。
その景観は期待通りであったものの、ここへの到達の困難さは、長く記憶に残る。
列車は、5261列車。萩野へのチップ輸送専用列車である。
盛夏ゆえ、海岸や岩場に遊ぶ人々の姿がある。

[Data] NikonF3+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320)


白老 (室蘭本線) 1966



約130年前、この鉄道が計画された頃のこと。
北海道はどこでもそうなのだろうが、ここ一帯も果てしない原野だったに違いない。加えて、海岸線がゆえの平坦な原野がどこまでも続いていたはずだ。
依って、当時の鉄道技術者は大胆な直線で鉄路を設計した。鉄道として最も合理的かつ理想的な線形が実現出来るのだから当然のことだ。
かくて、室蘭本線は、虎杖浜手前の97K500M付近のR490曲線から早来の岩見沢方159K付近のR891曲線まで、実に62キロ近い区間を、白老の先のR1600、沼ノ端を過ぎたところのR1750を除けば全て直線という平面線形で敷設されたのである。R1600もR1750も速度制限はなく、運転上は直線と同等である。
特に、この白老と沼ノ端付近の両曲線間、28.7キロは鉄道での日本国内における最長直線区間として高名だ。もちろん、これは測量中心線上のデータであり、駅の前後やその構内には用地上の制約などに関連する曲線が存在する。
各駅の施工基面高も苫小牧までは4から6メートルを維持し、勾配も少ないことと合わせれば、極めて特異な区間であろう。

この特異な線形を生かし、石炭輸送全盛期には、石炭を満載した上り貨物列車でD51型蒸機1両による、蒸気機関車としては異例の2400t牽引が行われた。30t積石炭車で75から80両、列車長で550メートルを越える長大編成。夕張方面のヤマ線区間では下り勾配を逆手に取った、これまた特異な運転方法であった。
そして、現代では、281/283系気動車が函札間で100kmを越える表定速度を実現しているのも、この線形が寄与している。

この最長直線区間を俯瞰出来ないものかと、白老付近の丘陵地を縫う小道に分け入って撮影した。氷点下の気温ながら無風の穏やかな朝だった。
列車は長万部行きの224列車。速度の出せる区間なので、白老が近いにもかかわらず力行している。後方に漂う黒煙は、この列車の社台発車時のもの。
数年後、同じ地点に立つべく再訪したが、樹木が成長し、それは叶わなかった。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F3.5 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1993



苗穂から北広島へ至る間の千歳線の旧線は、札幌市南東部の丘陵地帯の通過に勾配と小半径の曲線が連続し、運転に補機を要していた。
撮影する側から見れば申し分の無い線形なのだが、樹林帯を縫うように走るため「引き」が取れず、誠に撮りにくい区間であった。幾度か訪れたものの、北広島付近の一部を除けば線路際からのカットばかりが手元にある。
現在の新線は、曲線こそ少なくなったが、勾配緩和にて、高架で開業した新札幌から29メートルの施工基面高を確保したため、築堤や橋梁が連続してだいぶ撮り易くなった。

この新旧線切換は、1973年9月9日の日中に行われたゆえ、切換日や新線の開業日は同日で良いのだが、旧線の廃止日もあらゆる資料で同日となっている。9日にも旧線経由の列車は運転されたので、10日とすべきと思われるが、国土交通省の公式記録がそうなのであろう。
また、切換は北広島方から順次行われて来ており、手元に資料がないが、新旧線交差地点から北広島までの輪厚橋梁を含む区間は、1969年の10月には使用を開始していたはずで、この日の切換は同地点以北区間だ。これも記録には反映されていない。
以前、この新旧線交差地点の切換を短時間でどのように施工したのか興味深い、といった内容の記述を鉄道誌に拾った記憶があるが、工事は2次に分けて行われ同地点で新旧線を接続したのみ、というのが正解である。

上野幌-北広島間のほぼ中間にある椴山跨線橋は、国道37号線から旧線西の里信号場苗穂方にあった踏切道に至る小道に新線建設に際して設けられたもので、双方からの10パーミル拝み勾配のサミットに位置し、上方にR800、北方にR1000の曲線を見通す。
写真はR800曲線側で、現在の千歳線では、これが最小半径曲線である。如何に線形が改良されたか解る。
列車は、8002列車。<トワイライトエクスプレス>ではなく、同列車用の編成を使用し同じスジで運転された団体臨時列車である。
仔細に見るとヘッドマークがない。

なお、本区間最良とも思えたこの地点であるが、上り線(下り列車運転線)側の機関車近傍に僅かに見える樹木が成長し、2010年現在、このアングルでの撮影は出来ない。

[Data] NikonF4+AFNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f4 Y52filter Tri-X(ISO320)





計呂地 (湧網線) 1979



かつて、駅には、あたりまえに国鉄職員としての駅員がいた。
駅舎や待合室や乗降場は奇麗に清掃され、出札窓口は整頓され、そして乗車券箱には整然と「切符」が並んでいた。
70年代後半以降の国鉄合理化政策では、まず運転要員としての人員削減が掲げられ、線区単位でのCTCの導入がこれを劇的に推進した。
閑散線区においては、列車の削減とともに閉塞区間の併合化による要員配置駅の削減が進み、80年代末に登場した電子閉塞装置にあっては、無人の列車交換駅を出現させた。
余談だが、北海道でいえば函館本線の山線区間のごとくに、営業面からの要求が先行したケースもあり、この場合は配置人員は運転要員であり、出札窓口は閉鎖され、乗客側から見れば「無人駅」同然と言う、誠に不自然な駅も短期間だが存在した。

駅員がいれば、冬には待合室にストーブが用意された。
ローカル線の撮影では、長過ぎる列車間隔を、ひっそりした待合室でやかんの吹き出す湯気の音を聞きながら過ごすのが、とても好きだった。
計呂地は、幸運なことに1987年の湧網線廃止まで有人駅であった。

サロマ湖、能取湖、網走湖といった海跡湖を縫うように敷設されていた湧網線だが、湖岸を走る区間は限られ、サロマ湖とは、芭露から計呂地の区間のみであった。
写真は、この区間にあった志撫子仮乗降場付近。湖に突き出して設置されていた漁業施設から撮っている。
列車は、925D網走行き。この時代で、既に単行運転である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28/F2.8 1/125sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Compiled by Photoshop CS3 on Mac




鬼鹿(羽幌線) 1973



鬼鹿は、風の記憶だ。
記録を辿ってみると、幾度かの訪問は全て冬だった。
海も鉛色の記憶しかない。
築別からの石炭列車を撮影すべく、初めて降り立った時も、小高い段丘上にあった古い駅舎は、遮るものの無い日本海からの強風に窓や引き戸がやかましい程に音を立てていたものだ。
ここ鬼鹿に限らず、羽幌線沿線の家々は背の高い板囲いをぐるりと巡らして強風への盾としていた。今でいえば玄関先の風除室が家全体を囲っているようなもので、その内では石炭ストーブが一冬の間絶えること無く燃やされ、内地よりもはるかに暖かい生活があるのだ。
いつか、急行<きたぐに>が、まだ青森まで通じていた頃、羽越本線の海沿い区間を走行中の車内で、関西かららしい二人連れが車窓を眺めつつ、こんなところには住めないと話していたが、風景と裏腹な室内の暖かさには、思いもよらぬのだろう。
板囲いの集落は、独特の景観だ。

この日も、三脚を立てていられないくらいの強風で、それを一脚のように使って撮影した。
富岡仮乗降場方、旧花田番屋裏手付近である。
列車は、僅かな吹雪の合間にやって来た823D。この頃は、日中時間帯にもかかわらず4両編成があったのだ。
海上には、次の吹雪の接近が見てとれる。

[Data] Nikon F2+Nikkor35mm/F2 1/500@f5.6+2/3 Y48filter Tri-X(ISO400) Compiled by Photoshop CS3 on Mac

呼人-網走(石北本線) 1969



網走市街の西側に位置する網走湖は、それ自体には然したる特徴の無い風景が続く。地元においても観光資源としての認識は希薄と思われ、むしろ、それは周辺湿地帯の植物群落にあるようだ。
女満別以遠の石北本線は網走湖の東側を北上し、湖水に大きく迫り出した呼人半島付近では湖水線を正確にトレースするような線形を描く。
しかしながら、この区間で湖水と列車を取り込んでの撮影は、なかなかに困難だ。全区間で国道39号線が湖側を並走しているのに加え、両者を印象的にフレーミング出来る足場がほとんどないのである。
73年の再訪で、線路側に何とか取り付けそうな斜面を見いだし、苦労して登坂したものの、やはり国道のアスファルト舗装がなんとも邪魔であった。

85年頃のこと、都内で入手した観光パンフレットに、この湖面の俯瞰写真が掲載されており、仔細に見てみると湖岸に鉄道線路が確認出来た。ぜひとも、この地点に立ちたいものと、網走市の観光課や観光協会に問い合わせるも要領を得ず、最後には、ありがたいことに観光課のひとりの職員の方がご自分の休日を返上して探してくださった。
で、その結果だが、「地上ではない」らしいのだ。地上でないとは、すなわち、「ヘリからの空撮と思われる」との返答であった。
くやしいが、飛び道具は使えない。

写真は、早朝からロケハンするも良い撮影地点がみつからず、湖面をあきらめて足場優先で撮影したもの。
<大雪6号>崩れの1527列車である。
夏期繁忙期輸送に対応してオハネ12が1両増結されており、北見回転の普通車も2両に増強のはずだから、急行区間の札幌-北見間では13両の長大編成だった。隔世の感がある。

[Data] Nikon F+Nikkor5cm/F1.4 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS(ISO200)

小沢 (函館本線) 1978



かつて、停車場の夜は明るいものだった。
機関区や客車区、電車区などを構内に隣接する拠点駅は勿論のこと、中間駅にあっても夜間に構内作業の発生する駅には照明の設備がなされ、構内とその周辺を照らし出していた。
運転速度の低いこともあるが、Tri-Xフィルムをもってすれば、増感に頼らずとも明るいレンズと絞り開放にて十分に走行写真撮影が可能な程だったのだ。

ところが、70年代後半以降の国鉄の合理化施策は、車両配置区所の集約化と合わせた運用の見直しにより、駅での分割併合といった解結作業を激減させ、加えて84年2月改正における車扱集配貨物列車の廃止にて、貨車の入換作業もまた、ごく限られた駅にて見られるのみとなるに及んで、構内照明は次々に消されていったのである。
88年の6月、この春に運行を開始した本州連絡寝台特急の上り列車の走行を撮影すべく、長万部の構内南側に立ったが、函館山線分岐側にて蒸機を後追いした十数年前とは様変わりした「暗さ」に閉口し、停車中のバルブに切り替えたものの、これとて、重連の牽引機を照らすのは、僅かな構内照明ではなく駅前商店街に並ぶ街灯の明かりであった。

ここ、小沢も本線列車に対する岩内線の分併作業や蒸機への給水の便からか、構内の上下方に背丈の低いながら照明塔が存在した。
列車は、岩見沢から倶知安への134列車。この、およそひと月後に道内に初配置の50系51型に置替られた。

[Data] Nikon F2+AiNikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Tri-X(ISO320)






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