"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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京極 (胆振線) 1969

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明治維新とは、民衆を蚊帳の外にした軍事クーデターに過ぎなかった。それの革命とする向きもあるが、人民の関わらぬ革命などあろうはずも無く、この薩長政権の私利私欲による搾取の始まりは日本近代史における不幸と云わざるを得ない。
民衆支配の道具として天皇を担ぎ出した政権にとって、それに繋がる公卿や薩長連合に組した大名家などによる支配層の形成は急務であり、西洋を模した階級制度である華族制度の制定が、1869年7月25日の版籍奉還と同日に「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」とする行政官布達54号にて出されていた。
そして、脆弱な財政基盤にあっては彼らに人民搾取の利権を付与することで維持・育成を図らざるを得ず、天皇の言とする「蝦夷地開拓御下問書」を以て北海道の植民地化を正当化、1886年2月の中央官庁としての北海道庁成立後の同年6月に、自らが伯爵であった伊藤博文の内閣により制定された『北海道土地払下規則』(1886年6月29日閣令第16号)や、大隈重信の息のかかった松方内閣時代の『北海道国有未開地処分法』(1897年3月30日法律第26号)などにより、官有地の華族への無償ないし極めて低価格での払下の行われ、各所に途方も無い規模の華族農場が成立したのだった。
北海道は、政権に従う謂れの無いアイヌ民族にしてみればその利権に植民化された地であり、小作人に送り込まれた民衆には殖民を強いられた地と云えよう。
巨大地主となった彼らは、次に農場生産物の商品化に鉄道の敷設を要求し、その意を受けた政府は、道内幹線鉄道建設を法定した1896年の『北海道鉄道敷設法』での対応が困難と見るや、1910年に国会の協賛のみで建設を可能とする『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)までも成立させるのだった。

四国丸亀京極家に連なる子爵京極高徳が、真狩山の北麓、倶知安村ワッカタサプ(wakka-ta-sap)番外地の原野に800haの土地を得、京極農場を開いたのは1897年のことであった。この小物華族は、やや出遅れの感があり、そこそこと云った規模もそのせいだろう。当然に現地に管理人を置く不在地主で、主に北陸地域から小作人を入植させていた。
道庁は1903年に京極農場の土地を一部返還させて公設市街地を開いており、農場経済を背景に順調に人口の増加していたものだろう。
ここへの鉄道も軽便鉄道法に準拠した東倶知安線として1917年8月に着工され、第一次世界大戦による物資不足に難渋したものの、1919年11月15日に運輸営業を開始した。終点停車場は京極農場内に引込まれるごとくに置かれ、それゆえに「京極」を名乗り、営業線名も京極軽便線とされた。当時にワッカタサプ川対岸に位置した市街地は、虻田郡東倶知安村の中心として字東倶知安市街地と呼ばれて、郵便局も東倶知安局だったから、これは駅名・線名だけのことであった。
この鉄道の建設は、内地の新興財閥たる三井が1916年にワッカタサプ川上流へ稼業した褐鉄鉱山からの鉱石搬出線としての側面の強いのだが、鉄道省には沿線大地主である京極高徳への配慮も強く働いたものだろう。
1940年に至り、東倶知安村が村名を京極村と改めるのは、倶知安と繋がる基幹輸送路だった鉄道の駅名からの派生と思われ、地主京極家から直接の由来では無さそうだが、1938年に開放されていたとは云え、かつての支配者の名を村名とするなど、軍国主義に向かった時代背景ゆえのことなのだろうか。些かに無神経極まるとしておく。

写真は、京極手前での1890列車。勾配には場内まで力行して往く。
頂きを雲に覆われた真狩山は残念だったけれど、それでも存在感の感ぜられる山ではある。

[Data] NikonFphotomicFT+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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上野幌-西ノ里信号場 (千歳線-旧線) 1969

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東京の西側に住んで、仕事場は青山の外れだったし日常の用件も新宿で事足りれば、打ち合わせなどで東銀座あたりまでは出掛けるけれど、その先を知らない。千葉方面へ出向くなら、横浜から横須賀/総武線で直通してしまう。
船橋に居る従兄弟はその逆で、通勤先が虎ノ門なら買物は銀座で済ませ、新宿に渋谷などまずは往かないと云う。ヒトの生活圏などそんなものだろう。
それの遥かに狭い手稲での中学生時代ともなれば尚更で、苗穂を覗きに往くのでも札幌の向こう側の彼方を訪ねる感覚でいたから、その先の札幌市内へ足を伸ばした覚えなぞ数える程しか無い。それでも、内地と往復した際の車窓の記憶から上野幌に、そこで聞き覚えて西ノ里信号場にも降りていた。
上野幌の本屋は如何にも安普請の小屋然と見えたのを覚えている。ここに限らず北広島や車窓に見た各駅も同様で、寧ろ札沼線の新琴似あたりのほうが本線の手稲と比べても遜色無いと感じていたのは、千歳線が私設鉄道からの出自ゆえとは、随分と後になって知ることだった。駅員が丹精込めただろう花壇が印象的だった駅は、改札を出ると石段を伝って苗穂方面ホームに下りる構造で、向かいが沼ノ端方面ホームの相対式と記憶する。その背後には民家の建ち始めた造成地の斜面が続いていたから、構内は浅い切通の中に存在したことになる。
1973年9月の廃駅に公園へと転用されてからは、その地を一度も訪れてはいないのだが、それは切通しを埋めたものか削ったものか、写真の限りには住宅街と一体化して整地されたように見える。

国鉄における高速運転の特急貨物列車は、形式記号番号の10000番台に付番された100km/h運転貨車の開発により1966年10月改正より実現したもので、首都圏-関西-北九州間での輸送実績を背景に1968年10月改正にて隅田川-新札幌(現札幌貨物ターミナル)間の対北海道チャンネルが加えられていた。函館・室蘭線へのDD51形内燃機の投入は<ほっかい>と命名されたこの列車の牽引用途が嚆矢であり、定数70(コンテナ車14両)を[特通貨D4]の速度確保には重連牽引にて計画されていた。
蒸気機関車など身近で見慣れていた眼には、札幌地区まで当時に唯一到達していた新鋭内燃機の方が新鮮で、札幌の向こう側への遠征はこれや80系特急気動車が目当てであった。

写真は上野幌東方(としても正確な位置は失念している。信号場の近くかも知れない)での3050列車<ほっかい>。現在に繋がる北海道連絡の高速貨物列車群の始祖でもある。
なお、コンテナ車のみで組成の急行貨物列車なら1965年10月改正から秋葉原-桑園間(後に隅田川-東札幌間に変更)に運行されており、これは漢字書きで<北海>を名乗っていた。東北本線の盛岡以北を旅客列車並みにC60が重連で牽いたことで、ご記憶の向きもあろうかと思う。
67年度第三次債務車両計画にて新製のコキ/コキフ10000形の145/14両の内、隅田川駅常備とされた一群(東海道線運用からの転用車を含む)はブレーキ装置の耐寒耐雪化のほか車掌室石油ストーブの能力強化がなされ、その出入台側妻面に北海道の地図を象ったシンボルマークを掲げていた。
この北海道へのコキ/コキフ10000形の運転については、以前の記事 七飯-大沼 (函館本線) 1983上野幌-北広島 (千歳線) 1989 でも触れている。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC+LR5 on Mac.

新冠 (日高本線) 1969

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1967年、クラスメイトの兄に聴かされた Sam & Dave/Hold On, I’m Comin’ が始まりである。退屈な教科書音楽に白黒テレビの歌番組しか知らぬ耳への衝撃は忘れられず、以来に黒人(系)音楽に魅入られた。趣味分野は鉄道屋だけれど、仕事写真をそのフィールド回りとした切っ掛けでもある。
コレクターとは思っていないが、興味はR&Bを起点に、勿論Rock音楽にBlues・Gospelとディープに広がり三万枚近くのレコード盤を所有するに至っている。かつては、これが引っ越しの悩みの種で、見積もりの業者に唖然とされたこともあれば、(その頃には一万枚程度だったにかかわらず)荷物搬入当日にそれを見た大家からアパート2階への入居を断られもした。
60年末から70年代に国内盤LPの価格は1800円から2400円辺りで推移し、中学生にはなかなかに買えるものではなかったのだが、73年にプレトンウッズ体制が崩壊すると、それも恐ろしく高価だった輸入盤価格が下落して渋谷のヤマハは勿論、上野アメ横の蓄晃堂や開店したばかりの吉祥寺芽瑠璃堂などへ物色に通ったものだった。そこでは再販制度下の国内盤にはあり得ない、カットアウト盤と云う廉価な廃盤商品が流通していて、欲しいアルバムの多くがそれに含まれていたのである。
その内に「Schwann」なる米国の月刊音楽カタログ誌を知り、その広告にラックジョバー(小売店鋪内に売り場を設ける卸問屋)による在庫整理、カットアウト盤の定期的な大量放出を見つけて早速に手紙で問い合わせると取引に応じるとの返信が在り、それから個人輸入による大量購入を始めたのである。当然に船便での輸送ゆえ秋から冬に限ることとし、夏の終わりに発注すれば、すっかりと忘れ去ったクリスマスの頃に横浜税関から引取要請のハガキが届くのだった。在庫リストを送って貰い、一度に400枚から500枚の発注に、運賃に関税を含めても一枚あたり300円から500円は格安に違いなかった。これは、後には為替レートの変動で200円台まで低下した。

こうして集めたレコード盤には、ジャケットを差替えただけの同内容リイシュー盤や既に所有していた楽曲でのコンピレイション盤など(これらは手にしてみないとわからなかった)が含まれ、それらを整理した20年程前に細やか乍ら新冠町に寄贈させていただいた。音楽業界で少なからず世話になっていた先達からの呼びかけに応えてのことで、彼は、竹下内閣当時の通称-ふるさと創生事業による交付金の使途に端を発したと云う、そこでのレコード収集構想に関わっていたのである。この総額25億円を掛けたと云う事業では、保管・展示・活用施設として1997年に「レ・コード館」が建設された。
今のところ国内でほぼ唯一の施設であり、その収蔵数は2012年度末に86万枚余りに達したと聞くが、資料として利用の困難が不満である。著作物であるだけに法律上の規制はやむを得ないとしても、収蔵盤のデータ、即ちタイトルに演奏者など基本情報は勿論のこと発売年、レーベル、収録楽曲の詳細などがジャケットにレーベルの写真と共にWeb上に公開されて然るべきなのに、十数年を経てもなお実現していない。現地に赴いてようやくにリストを閲覧出来るのみである。まして、研究者が学術的体系的に利用しようとしてもサポートは期待出来そうにない。おそらくに、使えそうな学芸員がいないのである。町当局は目先の町起こしとやらにばかりに気をとられ、自分達の興してしまった事業の重大性を理解していないと思われる。本来なら国家事業、国会図書館が手がけても不思議の無いのである。最高学府のアーカイヴ専門課程を経たばかりでなく、少なくともタワーレコードのバイヤー並のマニアックな知識を持った学芸員がジャンル毎に必要なはずなのだが、地方自治体の事業としてはやはり限界なのだろうか。企画展は疎か、そこからは何の発信も無い。Websiteでは「思い出をお預かりします」なぞと宣うが、それとは無関係にレコード盤は民衆文化そのものである。

写真は新冠を出発する6883列車。
この当時、追分機関区静内支区(1969年11月1日の追分機関区苫小牧支区の本区格上げにて苫小牧機関区静内支区となった)には8両ものC11が配置されていたにかかわらず、撮影に行く度に巡り合ったのが210号機だった。73年10月の日高線無煙化に際しては検査切れ機の代替として石巻線に転じ、そこでも再会している。
1974年5月28日付での用途廃止後には、これも当時の自治体に流行した「機関車欲しい」病に従って、縁は在っても縁は無い野辺地町に展示されるも、40年を経て朽ち落ちつつある。ここにもまた文化は果つる。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

上興部 (名寄本線) 1969

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ここに蒸機の走る専用線の在ることは承知していた。国土地理院の地形図にも北へ分岐して往く鉄道記号が描かれていたし、書架から探し得ていないのだが、当時の「鉄道ファン」誌に、小石の藤田炭礦宗谷礦業所、豊富の日曹炭坑天塩砿業所と共に紹介記事が掲載されていたのである。そこには、運転は国鉄に委託して自社機は持たない、と在ったから本線機の入換え運転とも理解していた。北海道農材工業上興部石灰砿業所の専用線である。

1967年の初めての遠征で上興部に降り立つと、下りホームの後側直ぐに分岐が見えて、駅に聞いて運転は午前中に2回と知れた。けれどその日は運休と付け加えられて落胆したのだった。
上興部集落の北、右山・左山の石灰岩の大露頭による地域振興策として北海道庁(*1)が石灰工場の設置を計画・着工したのは1934年と記録されている。既に名寄本線は全通していたから製品搬出の専用線も翌1935年4月の操業開始より稼働したものと思う。
露頭を崩す発破の轟音が響き渡り、上興部は西興部村の役場が所在した瀬戸牛(*2)を上回る集落へと発展したと云う。駅も機関車駐泊設備に転車台(*3)や多くの貨物側線に積卸線を持った沿岸の興部を上回る拠点であった。永く同駅の名物駅弁であった「やまべ寿し」も当初はここで販売の開始されたものであったから、貨物ばかりでなく旅客輸送にも賑わったのだろう。
1960年代末に見た駅は、弁当販売こそ興部へ移転していたけれど、待合室では弘済会の売店も開かれ、駅務室にも多くの職員が詰め、貨車の屯する構内は活気に溢れていたものだった。
石灰工場は、1916年に道庁直轄から外郭組織の北海道興農公社に移管され、戦後に公社解体にて1947年5月5日に設立の北海道農材工業の経営となっていた。ここでの生産物は、土壌の酸性化を防ぐ炭酸カルシウム肥料と岩粉であった。

翌1968年に再び上興部を訪れ、午前の貨物列車撮影を早々に切り上げて駅に戻り、専用線での運転を待った。
それは、1690列車を重連で牽いて峠に向かった前補機が、一の橋から単行661列車にて戻ると構内掛数人がデッキに乗込み、そのまま逆向き運転で専用線に入るものだった。ほぼ本線と直角方向に向きを変えるR300の急曲線には、15km/hの制限が付けられていて実に緩慢な運転に見えた。
ほどなく財源を牽いて戻って来たところが写真である。ワム・ワラの有蓋車を8両も連ねていたから結構な出荷量が在ったことになる。この組成を側線に置くと機関車は再び単行で工場へと向かい、しばらくしてそのまま戻って来た。その訳は、専用線を工場へと辿って知れた。工場内にはY字分岐器を介して2線が引込まれており、積込場は右側の線路に面している。ここから積車を引き出した後には、左線路の空車を右線路に入換えねばならず、その仕事に往復したのであった。
この空車貨車の逆向きでの押込みは朝に行われ、工場へ上り勾配のこの専用線では唯一の力行運転列車だけれど、それはあまり絵にはならなかった。

この専用線は1982年11月15日ダイヤ改正を以て廃止され、製品の出荷は自動車輸送に切替えられた。線内に発する貨物はほぽこの扱いだけになっていたはずだから、それは国鉄側の申し入れによるものだったろう。
上興部石灰砿業所は、その後に露頭を崩し尽くして地下採掘となり、コストの増大と資源枯渇にて2001年9月末までに採掘を取りやめ、工場のみは他所からの原料供給にて稼働を続けたが、それも2006年8月31日を以て操業を停止した。
.......................................................................................................
(*1) 1886年から1947年まで存在した内務省直轄の地方行政機関。
(*2) 現在の西興部。村名に合わせて1945年に改称。
(*3) 1920年10月25日の上興部までの開通に際して、名寄機関庫上興部分庫として開設。1929年の分庫廃止の後に駐泊所として存続。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

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札幌 (函館本線) 1969

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明確に記憶の在る札幌駅は、駅本屋東側には国鉄バスのターミナル(バスセンターと呼んでいたと思う)とその奥に車庫が造られた頃からで、「この間まで貨物積卸場だった」とバス待ちの人に聞いた覚えが在る。車庫は札幌自動車営業所であり、後に札幌中央支所を経て取り壊され、今は創成通りに面した広い駐車場になっている。
駅前には森永キャラメルの地球儀型の広告塔が目立っていて、そして民衆駅として建てられた4代目駅本屋は増築前の4階建てであった。
北側には、まだ貨物施設の残されて、西5丁目陸橋を渡って往けば貯炭場跡の荒れ地と高架で引き込まれた北海道炭礦汽船専用線の残骸が見渡せ、駅裏の泥道の向こうにはトタン屋根の住宅街が広がっていた。もちろん、これがそのような施設であったとは後年に知ったことである。

ここは間もなく取り壊され空き地となったから、構内に在った札幌客貨車区の検修庫や客留線を間近に眺められた。札幌駅構内に現業機関としての客貨車区が置かれたのは1950年2月10日に至ってからだが、1885年の構内図には転車台に繋がる機関室とは別に汽車室なる施設が見て取れ、官営幌内鉄道の開通時より客車検査/収容設備は駅に付属して存在し続けたようだ。1937年に機関庫が苗穂に移転して施設を拡張したものだろう。1958年の資料によれば、配置74両に対して検修線-2線/客留線-3線/庫内線-2線とあり、それほどの規模ではない。函館線上には旭川に岩見沢、小樽と同規模の区所が存在して機能を分担していたのである。ただし、各線とも有効長が150から200メートル取られており、確かに子供の目には大きな区所に見えていた。
60年代の初めにはオロネ10やオロハネ10、ナハネ10にオハネ17などの軽量客車が配置され、その近代的な外観に眼を見張ったのを思い出す。それらは写真で見た九州特急に組成された車両と同じであったから、昼間に留置されていた<まりも>の札幌増結編成など、それを見るようなつもりで眺めたのだった。ただ、座席車だけは道内への配置は無く、夏季輸送用に本州の区所から貸し渡されるのを待つしかなかった。
対して、さすがに木造車はいなくなっていたけれども、オヤ31やオル31と云った17メートル鋼製車から格下げ改造車も健在で、これもかつての大陸連絡特急列車用とも聞いて興味を惹かれたものだった。

やがて、手稲駅西方に札幌運転区(現運転所)が開設されると、配置車の大半は同区に配転となった。65年9月1日のことである。スエ30と31の2両が残されたが、これとて元来苗穂支区配置でそれの廃止後も苗穂機関区に常駐していたものであった。札幌客貨車区の実車の配置は無くなったものの、他区所からの入込車に対する仕業/交番検査業務区所として86年11月1日まで存続し、同日付にて札幌貨物ターミナル駅に移転して白石運転区に組織を改正された。現在の日本貨物鉄道札幌機関区の前身である。施設自体は75年度までに撤去され、高架新駅の用地に転用された。

駅には1963年に北口が開設され、東跨線橋に繋がる長い連絡跨線橋からは客貨車区構内を見下ろせた。南側の駅本屋は、62年に一部のみ施工されていた5階部分の増築工事が65年10月10日に完成した。
写真は北口に繋がっていた東跨線橋と、凄まじい排気とともに4番線を出て往くのは401D<狩勝1号>である。
この迫力ある気動車の発車の様は、子供の頃から飽かずと眺めていた光景だった。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

森 (函館本線) 1969

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防波壁に遮られて本屋側から直接に海面を見ることのないせいか、ついそれを忘れてしまうのだが、ここは海浜に接した駅である。
そして、かつては海陸の連絡駅でもあったのである。

札幌への開拓使庁の設置が決まると、そこへの連絡路として、それまでの徒歩交通路に代えて砂利敷による洋式の長距離馬車道、即ち「道路」の建設が計画された。「札幌本道」である。これは、箱館出張所-森村間/室蘭トキカラモイ-札幌本庁間に道路を切り開き、この間を噴火湾上の海路で連絡するものであった。
これにより、1872年に函館から森までの道路の通じた際、現在の森駅構内函館方付近に桟橋が設けられ、室蘭までの定期航路が開かれたのだった。
この航路は、後に函館-室蘭間となって一旦廃されるのだが、ここへの鉄道開通(1903年6月28日)後の1904年に再開される(1908年との記述もある)。これは、構内に取り込まれた旧桟橋を利用した実質的な鉄道連絡船とも云え、未開通であった長万部-室蘭間鉄道を代替するものであった。この際には、桟橋は改築され、本屋側からの連絡通路と待合室も置かれたと云う。航路は、同区間の長輪線の全通する1928年まで存続した。
函館-室蘭間の航路も存在しただろうが、恵山岬を回ることになり、この間を鉄道利用が速達であるから需要の在ったものと思われる。

民間の経営ゆえ国鉄部内に記録は残らず、室蘭市史や森町史の記述に頼るのみで、詳細の不明である。しかしながら、研究者は必ずおいでのはずで論文も既出と思われるのだが、探索し得なかった。
現在、そこには海面への突起として桟橋の遺構が見られる。

1キロ程下り方の海沿い区間は、ここでの定番撮影ポイントである。下り列車ならば海面を左に市街地越しに駒ヶ岳を遠望する画角が得られるけれど、上りにはそうも往かない。
島崎川の橋梁から、一面に昆布の干されたその小さな砂州に降りると島崎稲荷神社のこんもりとした森が見えた。
この区間が単線運転の頃である。

列車は、154列車。桑園始発の冷蔵車主体の組成列車であった。これが70年10月改正にてそれの専用化されて1354列車となる。→八雲 (函館本線) 1971

島崎神社の鎮守の森は今でも変わらない。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

白老 (室蘭本線) 1969

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東日本旅客鉃道では、観光用の巡航列車向けながらHB-E300系列として実用化の域に到達した電気併用のハイブリッド動力式内燃動車であるが、モータアシスト方式と呼称するパラレル方式の一種を採用した北海道旅客鉄道のそれは、2007年に開発成功の発表のあったものの、実用化への動きは滞っている。
言うなれば、電気式内燃車に蓄電池を追加しただけの東日本会社のシリーズ方式ハイブリッド駆動に対して、軽量化とエネルギー効率で遥かに優るけれど、機構/制御の複雑化するパラレル方式にあっては技術開発のみならず投資効率など実用化への壁のあるのであろうか。

その開発当初には、実用化時の札沼線への投入を想定し、次世代の特急形気動車をも視野とするアナウンスがなされていただけに、2009年の同線の電化計画公表は唐突に感じられた。
寒冷地における冬期間の電車線路設備への保守を考慮すれば、それの設備されぬに越したことは無く、同線への投入計画は理に叶っていたからである。
周辺線区が全て電化線であり、動力統一化にもメリットは存在し、国の定めた鉄道整備助成制度の利用も可能となっての選択であろうが、東日本旅客鉃道が将来の抜本的運転経費低減策として駅間の電車線路設備の省略を可能とする蓄電池式電気車両の実証試験をも行う中にあっては、やや違和感を覚えたのだった。

先頃発表された2012年10月ダイヤ改正概要によれば、札沼線の全面電車化にて捻出のキハ143を室蘭本線の苫小牧-室蘭間に転用し、同区間にある普通列車の電車運用を代替するとある。この区間より711系電車が撤退となれば、その電化設備は、5往復設定の特急<すずらん>が専用することになる。
その開業時期が鉄道輸送、主には貨物輸送の衰退期にあたってしまい、また産業構造の変化による室蘭地域の経済的縮小もあって十分に活用されぬままの電化設備なのだが、ここに極まれりの感が在る。
北海道旅客鉄道は、近い将来にこの区間の電化設備の廃止/内燃動力化を提案するのではなかろうか。5往復の特急電車だけならば架空電車線の更新頻度は極端に低下するに違いないが、ここでは冬期間の電車線路設備への保守問題どころでなく、その設備自体の維持/更新が問われるゆえである。
室蘭市をはじめ沿線自治体からは当然に反発のあるだろうが、気動車特急にて十二分に代替可能であり、それの東室蘭での<北斗>系統への分併による増発などで手が打たれるのではないか。なにより、ここでの電車列車は電車線路による速度制限を受け、それは軌道設備により130km/hを許容される気動車列車より抑えられるのである。(同様の事例は常磐線のいわき-岩沼間にも見られる)

写真は、非電化時代の白老を発車した223列車岩見沢行き。
鉄道屋とすれば、電化設備の廃止は歓迎すべきかも知れぬが、架線は撤去されても電化柱の片側は通信線柱として残り、もう一方もすぐに抜去されるでなかろうから、このようなすっきりした構内風景が戻る訳では無い。むしろ吊架設備のみが永く残り撮影には不適となる可能性が高い。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

臼谷 (羽幌線) 1969

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内地に出て来て、ここでの海水浴と道内のそれとは「お作法」がだいぶ異なるのに気がつかされた。
湘南とか房総半島の浜で、テントを見ることはまず無い。ジンギスカンでなくともバーナーを持ち込んで料理する人々もいない。第一、焚き火なんてあり得ない。それは、例え夏場の海浜で行ったとしても、ここでは「キャンプ」の範疇、今時なら「アウトドア」行動に区分され、決してそれを「海水浴に往く」とは言わない。
各地の海水浴事情の見聞を多とするでないので、これは首都圏に限ったことかも知れず、青森県西海岸の五能線沿線ではテントを見かけたし、福岡市在住の友人は「海水浴にはバーベキュー」と言っていた。
道内の「海水浴」スタイルは、海の家や更衣室/シャワーなどが整備されない時代の、それの名残なのだろうか。

札幌周辺からの海水浴場といえば、近年では「あそびーち石狩浜」や「おたるドリームビーチ」が人気と聞くが、かつては銭函や張碓、蘭島と相場が決まっていた。旭川からであれば、瀬越や臼谷/小平/鬼鹿の海岸と言うことになる。
国鉄もシーズンには、これら海水浴場最寄り駅への臨時列車を運行していたのである。
旭川からの運転は、代々「かもめ号」の愛称を付与された快速列車で、羽幌線の羽幌までの設定であった。滝川-旭川間の電化まではヘッドマークを掲げた旭川機関区のC55が留萌まで直通で牽引していたが、以降は深川から深川機関区もしくは同区留萌支区のD51ないし9600となっていた。客車は旭川客貨車区の予備車と思われる8〜12両で、羽幌線各駅の有効長の関係から留萌での解結があったと記憶する。

写真は、臼谷付近での<かもめ号>。この日はD61の運用との事前情報を得ていたのだが、それは留萌までのことだったらしく、ファインダに現れた9600に動揺した覚えがある。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 NeopanSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

京極 (胆振線) 1969

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噴火湾岸から洞爺湖の東を北上し、シリベシ山(羊蹄山)を回り込むように室蘭本線と函館本線を連絡していた鉄道が存在していたとは、今では信じられない気がする。
もっとも、胆振線はこの連絡のために建設されたものでは無く、脇方鉱山の鉄鉱石の搬出を図った鐵道院による軽便線と沿線の林産資源の開発を目的としていた私設鉄道の戦時買収にて成立した線区である。資源の枯渇すれば、衰退は免れ得なかったと見るべきだろう。

この線区は往復を乗ったけれども車窓からは気に入ったポイントを見つけられず、蒸機時代に間隔を置いて二回、延べ二日間撮っただけで終わってしまった。それも函館山線撮影の「ついでに」のレヴェルである。
左右のデフレクタのステーに2灯の前照灯を乗せた倶知安機関区の9600にしても、岩内線への運用を小沢や倶知安峠で何度も撮っていたし、貨物の一往復の運転しかない胆振線行きは効率の面からも躊躇していたのである。

最初の訪問が、この1969年の冬で、区間列車もあって入り易かった京極まで出向いた。そこにポイントの当てが在った訳でなく、上りの<ニセコ>を見送った後に転戦可能な範囲からの選択に過ぎない。

写真は、京極の北岡方に外れた畑作地らしき地点(積雪の下で分からぬのだ)からのカットである。シリベシ山を画角に捉えたいところだが、午後から悪化した天候で中腹まで雲に覆われてしまっていた。
列車は、1890列車東室蘭操車場行き。山麓の傾斜地だけに場内直前まで力行している。この列車、京極に約1時間停車するゆえ南京極方に移動してカットを稼げるところなのだが、冬至も近いこの時期に在っては、それは日没間際となってしまうのだった。

倶知安機関区によるこの仕業は、伊達紋別から室蘭本線を東室蘭操車場まで直通しており、この区間で見られる唯一の9600であった。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

様似 (日高本線) 1969

samani-Edit.jpg

日高本線の苫小牧から様似までの140キロ余りは奥が深く、静内までならまだしも、それ以遠へとなれば撮影チャンスから現地での宿泊を要し、なかなか撮り難い線区ではあった。
貨物列車のなくなった84年以降には、ますます足が遠のいてしまい、そのバス用部品多用の小型車体に魅力を感じなかったゆえであろうが、88年秋からのキハ130の時代には一度も撮っていないくらいだ。

それだけをターゲットにしていた蒸機の時代でも静内-様似間の区間貨物列車の設定もあって、札幌起点の日帰りでの撮影チャンスは少なかった。
それでも苫小牧操車場を5時前に出る様似行き貨物1893列車は、この区間を9時間程かけて走り、ポイントさえ上手に組み合わせれば気動車で追い抜きつつ、最大3回の撮影が可能で、これに絞った撮影に何度か出かけた。

この当時は、DISCOVER JAPANキャンペーンの前夜とはいえ、夏のシーズンにはえりも岬へと向かう「カニ族」と呼ばれた旅行者で列車は満員の状態で、様似の駅も接続の国鉄バスへの乗り継ぎ客でごった返していた。現在では想像もつかない光景である。
ここでは駅前の渡辺食堂(渡辺弁当店)調製の駅弁も売られていて、100円で購入した鮭(あきあじ)弁当の掛紙が手元に残っている。
駅前も活気があり、土産物屋の並んでいた。とは言え、様似のメインストリートは漁港に面する本町側と教えられた。

列車は、1893の牽引機が折り返しとなる1896列車。静内までの区間列車である。
この当時の日高本線の運転業務は、静内に所在の札幌鉄道管理局日高線管理所の管轄であったが、C11形機関車については同局室蘭機関区静内車両分所に8両の配置となっていた。(気動車は主にキハ21で、同局苗穂機関区苫小牧支区配置)
今、北海道旅客鉄道に所属し、観光列車や展示運転に使用のC11207も当時の静内区のメンバーであった。

写真の様似川橋梁の俯瞰は、民家裏手の斜面をよじ登ったものだったが、後年そこには道路が開削されている。
街越しに海面を望めるポイントなのに、風向のせいで煙にて隠されてしまった。なかなか上手くは行かない。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f11 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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