"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

様似 (日高本線) 1968

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1926年12月7日に日高拓殖鉄道が静内に達した際、その終端駅設備として設けられたであろう転車台や給炭水施設が、車両や乗務員配置を得て静内機関区とされるのは、様似までの日高線全通を経た後の1938年3月10日と記録される。
苫小牧から佐瑠太までが改軌された1929年11月26日から、それの静内に及ぶ1931年11月10日の約2年間は、苫小牧機関区に所属していた762ミリ軌間車両は静内に移されていたはずだし、改軌後も末端側の運行拠点だったはずなのだが、おそらくは永く駅長に所管され車両も要員もそこに属していたのだろう。
10年を経てせっかくに独立した現業機関となった静内機関区も、戦後の1959年11月1日の日高線管理所発足には乗務員をそれの所属として、室蘭機関区の静内車両分所に改組されてしまう。管理所の廃止後も、ここは二度と本区と呼ばれること無く、追分や苫小牧機関区の静内支区であり続けた。

そして、1937年からの終端駅である様似に所在の施設もその度に名称の変わったことだろう。それが様似駐泊所だったのか給炭水所だったのかは知り得ぬままで居る。
上下本線をそのままに構内外れまで延長すれば、木造の給炭所と煉瓦積の土台に載った給水タンクが線路を挟んで向き合っており、その先は人力に頼る転車台に達していた。小さな施設には給炭水線に転向線に留置線を兼ねた線路と云うことである。
空間の広い構内の行き止りにそれだけがポツンと置かれるが印象的であり、詰所や休憩所が附属していなかったのは、それには駅舎を用いていたからだろう。
この頃のダイヤなら、朝の8時から9時頃、昼の14時から15時過ぎまで、そして夕方18時から19時頃の一日3回、ここで給炭水を受けたC11が休んでいた。札幌から日帰りで訪れていた当時、苫小牧操車場を早朝に出る1893列車を始発列車と後の急行で追いかけながら様似に達すれば、先着したその牽引機が人気の無い給炭水線に佇む姿を目撃したものだった。

この日も給炭水線に居たのはC11210。この機関車には日高線へと向かう度に出逢っていた。調子の良い個体だったのかも知れない。
日高の山系が背景となる絶好のロケイションには、今なら随分と拘っただろうが、作画意識も拙い此の頃には気にもしなかった。
まもなくに機関士と助士が戻り、日本電工の専用線から貨車を引き出せば、それを組成した1896列車を牽いて静内へと帰って往く。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135cm/F4 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSS  Edit by LightroomCC on Mac.

北浜 (釧網本線) 1968

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現在に釧網本線を構成する線路は、1921年4月1日付にて鉄道省北海道建設事務所の所管となり、線路設計に着手されている(1921年鉄道省告示第39号)。
これの鐵道院による調査・計画段階にて北見国側の経路は上札鶴(現緑)から小清水経由であり、そこから網走までは古樋(現浜小清水)にてオホーツク岸に達して西進する海岸線としながらも、稲富を経由して呼人で網走線に接続とする内陸線も比較線として保持していたことは、以前の記事 北浜 (釧網本線) 1971 で述べた。
それは海岸線の網走から鱒浦の間が、網走川河口近く右岸に終端駅として位置した当時の網走からの分岐に市街地南側の迂回線形となり、ここの段丘に延長527メートルの隧道を要し(現網走トンネル)、鱒浦までの段丘崖下の経路にも84.5メートルの隧道(於将府隧道/現鱒浦トンネル)に加えて、多くの法面防護工と護岸工を要するにかかわらず、崩壊性の地質には難工事が予想されたのに対して、内陸線は東藻琴付近に500メートルの、中園付近に800メートルの隧道掘削が想定されたものの、地質は良好で施工に難は無いとされていたからである。
しかしながら、これも以前に記したとおりに、斜里村に大規模農場を所有していた三井財閥の政治力により、この線路を斜里経由とする『北海道鉄道敷設法』の改正が1919年に為されて、内陸線案は放棄されたのだった。

線路選定を終えた網走-斜里間は、網走線の工事線名にて1922年12月に網走-北浜間を第一工区、斜里までを第二工区として着工された。「釧網線建設概要」(鉄道省:1931年9月)には、隧道を含んだ第一工区の工事は難行したと読める。泥岩の網走隧道の1メートル当り建設単価の709円、砂岩の於将府隧道の809円は、後の釧北隧道の290円を遥かに上回り、この第一工区の1メートルあたり竣工単価(建設費)の82円92銭は、大規模な地盤改良を要した釧路川流域泥炭地帯通過の細岡-塘路間(釧路第二工区)の50円82銭を越えて、この路線の各工区中最も高額でもあった。
意外にも思えるが、釧網線工事の中で資材も人手も要した難所は網走-鱒浦間だったのである。そればかりか、開通後にも段丘崖法面の崩落や浪害を受ける災害区間ともなってしまった。資本の横暴が国費を浪費したばかりでなく後々まで禍根を残した悪例の見本として良かろう。

定番の北浜橋梁を往くのは混合633列車。
牽いているのは、切欠きデフレクタから釧路機関区のC58385と知れる。その後藤工場式G2型デフレクタは後にC5833に譲られたとはご承知のことと思う。
この濤沸川橋梁の他にも止別川や斜里川の河川をはじめ原野から流れ込む小水流への架橋が多かったけれど、ほぼ平坦地への敷設にて土工量の少なかった第二工区の竣工単価は16円29銭であった。

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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1968

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北海道炭は京浜工業地帯の重要な動力源であり、1937年の日中戦争以来の戦時下に至れば、最優先の輸送体制が敷かれる戦略物資ともなり、戦後には復興とその後の経済成長を支える資源であり続けたのである。それの室蘭港までの輸送路として計画された室蘭本線は、1892年8月1日の北海道炭礦鉄道による岩見沢-室蘭(*1)間開業以来、永きに渡り運炭の重要幹線として機能した。
1962年度のデータによれば、105億円の収入に29億円の利益を計上して営業係数72の大幅な黒字線であった。収入の87億円が貨物営業にて確保され、大半が石炭輸送によるものである。列車回数も旅客の67本を貨物が76本で上回っていた。

ここに運転された運炭列車の当初の姿は僅かに残された写真に伺うのみであるが、山元から室蘭へ向けての下り勾配と長い平坦線形を活用して大単位の輸送に特質が認められる。国有鉄道がこれを買収した直後の1907年には、機関車もまだ非力であったこの時代でも既に1200t牽引の記録があり、おそらくは9200形あたりの牽いたものと思う。1917年に後に主力となる9600形が配備されると、その翌年に試験的ではあるが3000t列車(*2)を運転し、これはD50やD51配備後の常態での2400t、最大2800t牽引に繋がって往く。
2800t列車とは、30トン積石炭車のおよそ60両で組成され、列車長は500メートルを軽く越える。それは途中各停車場の本線有効長を上回り、山元側発駅から室蘭までを原則的に無停車で直行する列車であった。
前に 恵比島 (留萠本線) 1972 にも書いたけれど、室蘭本線に限らず、運炭列車は機関車の交換や途上での給水を除外すれば山元の発駅から積出港の着駅まで原則的に無停車で運転した。それは石炭定数と呼ばれた独自の牽引定数により経路上各停車場の本線有効長を越えて貨車を組成するからで、同組成で戻る返空列車も含めて列車交換に停車することの無い「殿様列車」なのだった。遅延などにより交換のために停車しても、当然乍ら本線を支障して停まる。室蘭-輪西(現東室蘭)間が早くも1910年に複線化され、苫小牧-追分間に幌別-敷生(現竹浦)間を1926年までに複線運転としたのも線路容量の行き詰まりと云うより、当時に計画された2000t運炭列車同士の行違いの必要からであった(*3)。

この1968年は、前年の「第三次石炭政策」の基本方針に示された「経営基盤回復対策と、ある程度の需要確保策を講ずれば、今後とも5,000万トン程度の出炭維持は可能」との政府の空手形に、大手炭礦が体力をすり減らしていた時期に当たる。大規模炭礦の所謂「なだれ閉山」の始まるのは、翌年に発表の「第4次石炭政策」に「安定した出炭・供給体制の構築」を基本方針と掲げながらも初めて生産目標が明示されなかったことによる。
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(*1) 現東室蘭。但し位置は異なる。
(*2) 当時の24トン積石炭車75両組成
(*3) 幌内鉄道としての開業した南小樽(開業当時の開運町)-岩見沢間が1911年までに全線複線となったのも、2000t運転では無いものの同様な事由による。

写真は、この頃には本数もかなり減っていた運炭列車。沿線に待ってもなかなかそれのやって来なかったのに落胆したものだった。これは清水沢から苫小牧操車場への5792列車。それの積出港も掘込み式新港の稼働で輸送距離の短い苫小牧に移っていた。もはや2800tの長編成など神話の世界であった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

名寄 (宗谷本線) 1968

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その夜は、C55を本務、D51を後補機とした塩狩越えに響き渡る咆哮を、スハ45のデッキでドアを開け放して堪能し、編成前後の夜目にも白い蒸気を身を乗り出して眺めたのだった。デッキを抜ける夏の夜の冷気を良く覚えている。
そして、その<利尻>を午前2時の名寄に降り立ち、そのまま夜明けを迎えた。1年振りの道北道東遠征に眠れと云うのが所詮無理なのである。
この頃の名寄では、深夜にも貨物列車の発着が在り、その入換えも行われていたから機関車の行き交う汽笛の絶えることはなかった。宗谷本線の拠点駅、名寄本線の分岐駅らしく24時間稼働していたのである。
夏の早い夜明けに、C55が機関区を出区、留置線から客車編成を上り方引上げ線に引き出し退行して本線に据える。札幌行きの始発、5時34分発の322列車である。

写真は、それの発車を上り方の構内通路から撮っている。
勿論、画角にも見える信号扱所を訪ねて許可を請うている。今時ならば、許可されないだろうし、列車も緊急停車しかねない位置なのだけれど、機関士も先ほどの入換えでさんざん切っていたドレインを(必要な操作でもあるけれど)起動直後から思い切り排出する演出をしてくれた。撮影者も信頼されていた良き時代である。
信号所の当直助役の注意は、下り本線上は良いが隣接する深名線の運転線には立つな、と云うものであった。なるほど、上りが出発する以上下り本線に列車の来ることは無く、場内信号が停止定位とは云え宗谷本線を支障しない進路構成の深名線にはそれの進入する可能性はあるのだった。自分たちの操作する信号現示に対する絶対の自信と云うべきか、鉄道員とは誇り高き人々だったのである。

後方に留置される急行型気動車は、6時18分発の臨時急行8812D<なよろ>となる編成で、実質的に旭川始発の804D<かむい>編成を夏期輸送にて名寄始発としたものである。キロ26の等級帯が懐かしい。旭川で322に追いつき、札幌へは2時間近く早着出来た。

この頃併用していたカラーネガ撮影をご容赦されたい。この後に上興部へと向かい上興部 (名寄本線) 1968に繋がる。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250@f4 UV filter Kodak unknown film (ISO100) Edit by PhotoshopCS3&LR3 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1968

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近年の日本における「海水浴場」とは、都道府県が条例によって定義し、市町村がそれに従って指定した海域/海浜を云う。曰く、「遊泳者の利便のための施設とその水難事故の防止の環境の整備と一定の管理」が条件であるらしい。すなわち、自治体管理のそこには、脱衣所/シャワー設備や飲食施設が常設され、監視員なりライフセイヴァーが常駐している。
対して、「海水浴適地」と呼ばれる海域もある。文字通り海水浴に適した遠浅の海岸であったり、岩礁ではあるものの、条例の定義からは外れるものを指すようなのだが、その法的根拠は曖昧である。

前年の訪問で北浜にオホーツクを見て、その前浜は海水浴適地に思え、この夏にはそれを兼ねての撮影を目論んだのだった。その海に対する知識など無くて、海水浴と云えば張碓/蘭島の海岸しか知らぬ頃である。盛夏と云うに人気の無い海岸は、そのとおりに1分と浸かっていられない冷たい海であった。
それでも、小石混じりの砂浜に寝そべれば風も心地よく、持参の固形燃料にて湯を湧かしてコーヒーを淹れ、汽笛の聞こえればその場でカメラを構えて半日を過ごした。

このカットも、砂浜に腹這いになったままで撮っている。
列車は1693列車、網走からの釧路操車場行き。石油タンク車は北見からの継送で返空回送である。

さて、そこには真水の設備なぞ無いゆえ、そのまま駅へと戻り水道の借用を申し出た。駅員氏は呆れ、そして苦笑して云ったものである。「ここで泳ぐ者などいない」。
井戸水と思われたそれは、海水より遥かに温かかったのを覚えている。
水温のせいばかりでなく、北浜の待合室にはあまりに場違いで、確かに、ここは「海水浴適地」ではなさそうなのだった。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1968

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その昔、世に言うSLブームの時代である。『蒸気機関車』なるそのものを誌名とした雑誌が刊行されていた。
現在でも中古本市場にて比較的高価で取引があり、ご存知の方も多かろうと思う。映画情報誌で知られるキネマ旬報社による発行は、鉄道好きで高名な脚本家の関沢新一がフィクサーとして同社の旧知に働きかけた結果と思われ、そのまま創刊時の編集長を務めている。1967年9月にキネマ旬報の増刊として創刊され、これの4号から独立した月刊誌となるも、68年夏からは季刊誌と体制が改められた後に、71年の新年号より奇数月発行の隔月刊とされ、81年7月号で終刊となるまで計83号が刊行された(増刊/別冊を除く)。

手元には、その全てでは無いけれど、それなりの冊数を保有している。
今にめくり返してみれば、全体の構成からページ割りに至るまで編集には古めかしさを覚え、印刷の技術水準も比するべくもないのだが、誌上に発表された作品群は今もって新鮮である。
毎号そこには、先輩諸氏の個人なりグループによる10ページ程を費やすテーマ性を持った作品が、2〜3本掲載され、写真機を片手に線路端に立つばかりの新参者は多いに刺激され、また影響も受けたのだった。
60年代後半と言う時代からは、紀行色や叙情性よりもそれらを内包したドキュメンタリィに軸足を置いた作品が大半であり、美術手帖の写真映像特集を覗き見しては、東松照明や森山大道に、撮らない写真家中平卓馬に心酔していた身には共感を多とするものでもあった。
写真技術習得の王道である「模倣」に従い、それらからは鉄道光景の見方(とりもなおさず画角そして時間の切取り方である)、光線の取込みに扱い方から表現のテクスチュアに至るまで、随分と学ばせていただいた。

当時は、将来の職業写真家を考え始めた時期でもあったのだが、思う程に鉄道写真の門戸は狭く、これも撮り始めていた友人のバンドの記録写真をきっかけに、結局は音楽関連の方面に進むことになったのだった。
この頃の鉄道写真には、コマーシャルに広田尚敬、国鉄の専属に諸河久さえ居れば十分だったのである。

写真は、晩秋の斜光線を背にヤマへ帰る5799列車。苫小牧操車場から夕張線清水沢までの石炭車の空車回送列車だった。
季節も場所も異なるけれど、これも『蒸気機関車』誌所載作品にインスパイアされた「模倣」である。
背景はウトナイ湖。
(※文中敬称略)

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1968

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もう、すっかり時効だろうし、書いてしまう。
運転取扱基準規規程への違反だらけなのである。けれど、それは遠来の撮影者への精一杯のサーヴィスだったと解している。

1968年の夏、はじめての稚内への遠征の旅で、かの高名な旭川起点250K800M「利尻富士」の標柱の建つ地点を訪れた。
その日の1391列車は、所定時刻よりも30分近くも早くやって来た。貨車の入換えがなく、豊富あたりを早発して来たものだろう。駅長の承認の元にであるから、これ自体は規程に反するでなく、閑散線区の貨物列車には多々在ったことであろう。後に米坂線の機関士に、早発して湧き水のあるところで停車し顔を洗った話など聞いたことが在る。
突然に汽笛が聞こえ驚かされたけれど、遮るものの無いロケーションと遅い運転速度に慌てること無く撮影は済んだ。

南稚内へと走り去るはずの列車は、やがてそこに停車し、なにやら機関士が手招きして呼ぶのである。
何事か、と熊笹の丘を降りて行けば、「もう一度向こうから走って来るから、もう一回撮れ」と言い、そう言い終わらぬ内に列車は後退を始め、みるみると遠ざかって行くのだった。そしてカーブの彼方で汽笛一声、ドレインを切り、ドラフトを高く吹き上げながら接近して来る。せっかくの申し入れであり、線路端からだけれど有り難く撮らせていただいた。

眼前を通り過ぎ南稚内へと向かうと思われた列車は、その先で再び停車し、またしてもこちらへ後退して来る。そして、目の前に止ると今度は「南稚内へ戻るなら乗れ、送る」と仰る。もちろん機関車ではなくて次位に組成の車掌車なのだが、この申し出に従ったのは言うまでもない。
今でこそ蒸機の展示運転列車に組成され、乗車機会のある車掌車だが、当時とすれば滅多に無い体験である。全て承知と言った風情の車掌に迎え入れられた車内は、事務机とベンチに石炭ストーブの設置されるのみにて思いのほか広く感じられた。
ただし、2軸の硬い板バネの走り装置にほとんどクッションの無いベンチに腰掛けての走行は、低速運転でも振動が激しく、幹線列車であれば如何許りかと思われるものだった。

列車は、南稚内へ定刻に到着した。迎えた当務駅長は呆れながらも承知顔であったから、この機関士の恩恵(?)に浴した方は他にも多々おいでなのかも知れない。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 NeopanSSS Y48filter Edit by CaptureOne5 on Mac.

上興部 (名寄本線) 1968

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実は、この頃カラーネガでも撮っていたのである。
ここでは、掟破りではある。

まだ、自分の写真が定まらぬ頃で、当然カラー撮影にも魅力はあった。
ただ、それが当たり前であった時代に、自家処理の出来ないもどかしさと、プロラボでの手焼きなど知らぬ頃ゆえプリントでの発色に不満で、結局はモノクロに絞り込んでしまった。
加えて、フィルムにせよプリントにせよ、外注せざるを得ないそのランニングコストは遥かに高く附いたのである。

これは、前年の夏に続いて再び名寄本線へ遠征した際のカットである。
前の年には撮らず仕舞だった一ノ橋との間の天北峠区間がその目的で、この日の車窓からのロケハンでもめぼしいポイントは見つからなかったけれど、取り敢えずは勾配区間へと線路沿いを歩き始めたところで、この光景に出会った。
放牧地にあったカシワと思われる独立樹の木陰が印象的で、その移動する木陰の方向に合わせて、結局は一日をここで過ごしてしまった。

列車は、1691列車。この当時貨物扱いの在った小向を除く13駅に停車し、遠軽まで7時間あまりをかけて走っていた。

このフィルムには、コダック独自のフィルム名称を示す記号が無く、12987との乳剤番号のみ印字されている。現在につながるオレンジマスクは当時最新の技術で、発売されて間もないものと推定する。
現像直後から冷蔵庫で、その後に冷凍庫で保存のネガは、一部退色の見られるものの、カラーバランスの崩れも無く良好な発色を見せた。退色箇所も、データ上で十分に補正可能なレヴェルにある。(ここでは、あえて補正していない)
現在のフィルムスキャナは、ストレートなスキャニングでも高い彩度をとる傾向が在り、これでも、G系統Y系統の彩度と明度をかなり落としている。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250@f5.6 Non filter Kodak unknown film (ISO100) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

[番外編 5] 青森 (奥羽本線) 1968

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寝台特急の<日本海>は、首都圏から渡道する身には縁のない列車である。
それでも、その16時間の寝台の旅には魅力があって、何度か京都で新幹線に乗継いで利用した。大きな遠回りで都区内発着の周遊券には都区内-京都-宮内間の別途片道乗車券を要したけれど、特急料金には乗り継ぎ割引が適用された。

写真は、68年10月改正における設定直後の姿である。
青森運転所に転属した20系客車による9両編成で、電源車と1-7号車を「よんさんとお」後も20系で残った2023・2024<ゆうづる>と共通編成として、これに8号車のナハネフ20を組成していた。<ゆうづる>に座席車組成が継続されたのに対して、設定当初より全車寝台であった。
ナハネフ20はナハフ20を寝台車に改造したもので、種車の構体をそのまま利用したため、新製のナハネフ22やナハネ20よりも寝台区画内での寝台間隔が230ミリも大きく、その分居住性は良かった。(と思われる。乗車したことはない)

列車名こそ改正前の急行<日本海>のものを承継したが、純粋に新設定の列車であり、急行のほうは<きたぐに>と改称して、ほぼ同じスジで存続した。
この68年10月改正で設定のスジは、その後4003・4002に引き継がれて来たが、2008年3月改正で廃止されてしまい、現行列車のスジは72年10月改正で設定の予定臨8005・8006の流れを汲むもので、しばらくは<日本海51号>として12系や14系座席車による運転で、寝台車(24系25形)が充当されるのは、75年3月改正で季節列車6003・6004に格上げ後の76年2月以降である。
2012年3月改正での定期列車廃止の後に設定の予定臨9003・9004では、所要時間と云い、ほぼ68年10月改正当時のスジが復活するのがなんとも興味深い。

「よんさんとお」当時の日本海縦貫線は、信越本線の宮内-新潟間を除いて糸魚川以北が非電化で、糸魚川-秋田間を東新潟機関区の、秋田-青森間を秋田機関区のDD51が牽引していた。秋田以北が重連となるのは、編成の増強された69年10月以降のことである。

青森で初対面した<日本海>だったけれど、当時の印象を素直に語れば、列車名はどうしても特急らしくなく、<あさかぜ>流れのマニ20の組成や9両の編成長も格落ちの感は否めなかった。それでも、道内では見られない20系固定編成客車は風格に満ち眩しいくらいだった。

もうひとつ書いておきたいことがある。
71年10月の奥羽線秋田-青森間の電化開業に際して、この区間を去るC61形蒸機に最期の花道として<日本海>の大館-青森間を牽かせようという計画が在った。
既に新矢立トンネルが開通しており牽引性能上DD51からの代替に問題はないけれど、念のため重連運転とし、大館での機関車交換による運転時分の延伸に、連絡船接続を受ける青函局側の了解も取れ、実現の一歩手前まで進んだが、国鉄本社がどうしても許可せずに頓挫したものであった。
これを地元紙の東奥日報が事前にスッパ抜いてしまい、このことが本社幹部の逆鱗に触れたため、との一説がある。当時、盛岡局の方から聞いた話だが、真偽の程はわからない。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/30@f2 Non filter NeopanSS

北浜 (釧網本線) 1968

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昨年のこと、花輪線の大館行きに乗車の節、とある小駅から大勢の団体客の乗車があった。閑散としていた車内に立ち席となる程の人数だ。その会話から、彼らがすぐにバスツアーの客と知れた。
鉄道ブーム、それもローカル線ブームと聞き及ぶが、それへの乗車がバスツアーの行程に組み込まれる程のものとは、思わずにいた。
ほんの三駅、乗車時間にして30分に満たない区間の出来事だが、シーズンが限られるとはいえ、年間ではそれなりの日数であろうから、鉄道にしてみれば手数のかからない増収である。
そもそも鉄道移動は、観光手段のひとつであって、自体目的化することは、裏を返せばそれだけ彼らに乗車機会がないことを意味し、鉄道衰退の証みたいなものだが、それが増収をもたらすのも皮肉な気がする。
ともあれ、そこの鉄道の本来の利用者にとっても、(鉄道を残してゆく、と言う意味において)悪いことではないだろう。

近年、北浜駅も駅自体が観光対象化しているようだ。
おそらく、ここを乗車駅ないし下車駅として釧網本線乗車を組み入れたバスツアーも存在しているに違いない。
68年当時は、濤沸湖や小清水原生花園観光への下車駅は急行も停車した隣駅浜小清水駅、あるいはシーズン中に設置される原生花園臨時駅で、この駅は静かなものだった。
まだ、Discover Japan キャペーンの前夜であり、カニ族と呼ばれた横長のキスリングを背負った旅行者を、ここでも見かけるようになるのは70年を過ぎてからのことだ。

9月半ばというのに風の冷たい日で、空気はとても澄んでいた。
北浜の撮影地は駅至近のポイントばかりで、撮影を終えると駅に戻り、誰もいない待合室で、次の列車まで波音を聞きながら過ごすのは、心地良い体験だった。

ご覧の通り、貨物側線はもちろん、海側の側線や待避線にまで、その有効長いっぱいに貨車が留置され、駅前には農産物の貯蔵倉庫も見られる。今では想像も出来ないくらい、鉄道輸送が主役の時代だったのだ。
列車は、混合635列車釧路行き。常に貨車が前位に連結されるのが釧網線の混合列車の特徴だ。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.4 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by Photoshop LR


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