"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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植苗 (千歳線) 1967

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蒸気機関車は石炭が無いと走れない。国鉄は戦後数回に渡り、実際に石炭の無くなって計画運休の列車削減を余儀なくされたことがある。

アジア太平洋戦争下で重要な戦略物資として増産の重ねられていた出炭は1945年8月の敗戦とともに激減し、その年の11月には月産55万トンにまで落込む。それは、この当時の国有鉄道の一ヶ月の使用量さえ下回る生産量であった。
敗戦直後の国有鉄道は全国の貯炭をかき集めて運行を確保し、激減した出炭の90パーセントの配炭を受けていた。つまりは出炭をほぼ独占して使用していたことになる。
しかしながら産業の復興とともに次第に制約を受け、1946年の冬期に至って遂に需給を賄いきれずに1947年1月4日より暖房炭に余裕を生ずる4月27日まで急行列車の全てを含む、旅客・貨物列車の大幅な運休に追い込まれたのだった。これを国有鉄道の第一次石炭危機と呼ぶ。その時点での鉄道75年の歴史で前代未聞の事態であった。
1947年度には出炭の増産の図られたものの、産業界での需要増がそれを上回り、国鉄も夏期に貯炭に務めるもその冬の暖房炭需要とともに再び需給不足に陥り、1948年1月から3月にも列車削減に踏み切らざるを得なかった。第二次石炭危機である。
この2年連続での異常事態に、国鉄はありとあらゆる石炭節約策は勿論のこと乗車券の発売を制限するなど旅客列車運行の抑制に努め、1948年夏過ぎには2年前同時期の12万トンに対して32万トン余りの貯炭確保に成功し、冬期の通常運行に目処を付けたのだった。続く、1949年度となれば出炭量も年間3700万トンまで回復、ほぼ月間の使用量に見合う入手の可能となり、月毎の貯炭も30万トン台を確保して危機を脱していた。

ところが、その4年後に思わぬ事態に巻き込まれることになる。1952年10月から年末に掛けて打ち抜かれた、日本炭鉱労働組合が資本と対決した大争議、所謂「炭労スト」である。
この講和条約発効後の主導権獲得を賭けた労働(日本労働組合総評議会)と政府・財界との激突に関しては、労働運動史に譲るが、あおりを受けた国鉄は、まずは北海道内において11月21日より列車キロベイスで旅客列車(混合列車含む)の12パーセント、貨物列車の25パーセントの削減に追い込まれたのである。これによる石炭の節約量は一日あたり440トンであった。炭鉱を抱えた北海道では、それゆえに平常に多くの貯炭を持たぬことが仇となり、11月20日時点で9日間分の25000トンに減じ、本州側から石炭を逆送して凌ぐ状況に陥っていたのである。青函連絡船は17運航を14運航に減ずる措置がとられた。
計画運休は一週間後の11月28日に内地に拡大され、同じく列車キロベイスで旅客の8パーセント、貨物の10パーセントを削減、道内では旅客列車運休が強化され14パーセントに及んだ。国鉄当局は争議解決の見通しの立たないとして、さらに12月11日より全国で旅客の28パーセント、貨物の33パーセントの運休を実行、次いで同月20日過ぎには旅客貨物ともに56パーセントまで削減する計画を立案していたのだが、この異常事態を看過出来なくなった政府は12月16日夕刻に至ってストに対する緊急調整発動を閣議決定、炭労・総評側は国家の強権介入を引き出したことを勝利としてスト中止を指令したのだった。
これを受けては、18日より優等列車の一部に道内旅客・混合列車の一部を復活するが、急激に集炭の進むでなく、年末始の帰省輸送の事情も加わって完全な復活には翌年1月一杯を要したのだった。
全くに石炭が無ければ列車は走らない。運転動力の大半をそれに依存していた時代の出来事である。

千歳線の植苗には、この後も何度か降りるのだけれど、この(二代)北海道鉄道由来の下り線(上り列車運転線)を撮った記憶はあまり無い。これと云った位置は無かったのである。
写真は、澄み切った冬晴れの下を往く1792列車。線内貨物を集配した苗穂から苫小牧操車場への解結貨物列車であった。
蒸機の時代、線路端を歩くと随分と石炭が落ちていた。山積みする運炭の貨車からと思っていたのだが、覆いの無い炭水車からも落下していたのである。この機関車からも、たまたまカメラ直前にそれの飛んで来て肝を冷やした。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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北浜 (釧網本線) 1967

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1967年夏に初めて北浜を訪れた際の、そこでの最初のカットである。
ご他聞に漏れず、何はともあれ濤沸川橋梁に向かいこれを撮っている。この画角を押さえた後に、真横に撮ってみたり、橋梁の袂に接近してみたり、反対側の海岸側に回ったり、或は市街地背後の丘から遠望したりするから、これが北浜での基本形なのである。
この頃の拙い写真技術を思えば偶然の産物に違いないけれど、季節も海風もそこの大気感も写り込んでいて、以後ここでこれ以上の基本形は撮れていない。しかも、やって来た機関車は当時北見機関区に居たC581であった。

釣り人にはとっくに承知のことだろうが、汽水湖である濤沸湖にはオホーツク海に流氷の押し寄せると、それを避けて様々な魚が避難して来る。その中には海底の砂に暮らすカレイもいる。ずいぶんと前のことだけれど、流氷の去って湖面の氷も溶け往く頃、この橋梁下でタモ網を振り回す子供らを見かけ、背後から覗き込むと小さな魚がいくらでも掬えるのだった。聞けばカレイの子だと云う。ここで越冬して春に海へと帰って往くのである。その出口で待ち構えられてはカレイも敵わぬことだ。
親魚は海との間を自由に行き来しているらしく、これは、今でも湖面での釣り魚である。もちろん漁も行われていて、これの他の漁獲にワカサギやチカは当然との気もするが、ニシンもあると聞けば以外に思える。2008年度の統計では9トンもの水揚げが記録されている。これも海との往来組なのだろう。

列車は、混合630列車。
斜里から網走までの区間列車ゆえか、ここでのセオリーに反して貨車は後組成なのだった。
道東オホーツクの大気は爽やかで、当時札幌に暮らしながらそう思うのだから贅沢と言うものである。その海を見て「海水浴」を企て、見事に敗れ去る話は前に書いた。→北浜 (釧網本線) 1968

[Data] NikomatFT+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS(ISO200) Edit by Photoshop CS3 & LR3 on Mac.

早来 (室蘭本線) 1967

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北海道のC57は、1960年代の初めまで優等列車の先頭に立つ、所謂「急客機」だったのである。
1・2列車の列番を保持し道内国鉄の代表列車であった函館-網走間<大雪>の小樽-旭川、函館-釧路間7・8列車<まりも>の小樽-富良野、室蘭/千歳線経由の107・108<すずらん>の函館-札幌間全区間がC57による牽引であった。(函館-旭川間5・6列車<あかしや>は全区間C62牽引)
その頃までは小樽市内の在住で、富岡教会近くの自宅窓からは小樽駅に上がる煙を間近に見えて、その前後区間に出かけては、これらを飽かずに眺めていたものである。写真機を手にする以前のこととて、残念なことに撮影はしていない。
小樽築港機関区に18両が集中配置の機関車番号が、当時つけていたノートに残る。おそらく機関区まで出かけて行って教えて貰ったものと思う。

これらが一変するのが61年10月改正で、美留和 (釧網本線) 1978にも書いたように、この前年に<すずらん>は気動車列車に立替えられたのに加えて、<あかしや>も旭川-網走間を延長して気動車急行<オホーツク>を名乗り、<大雪>は客車運用が継続したものの札幌打切りでC57の出番はなく、<まりも>が唯一の仕業として残されたのみであった。

これにより小樽築港区のC57に余剰が生じ、それらは苗穂機関区にて千歳線での貨物列車の補機仕業に転じた他(北広島 (千歳線) 1972)、室蘭機関区のC55の置替に使われた。
国鉄線上における蒸機牽引旅客列車の掉尾を飾った、室蘭-岩見沢間シャトル列車のC57仕業は、ここに始まった訳である。その末期には室蘭機関区の縮小により、その配置は本来貨物用機の配置区である岩見沢第一機関区に移されている。

室蘭本線も早来近くになるとウトナイ湖周辺の湿原から丘陵地にかかり、施工基面高も18メートルを越える。線路周辺の植生も背の低い広葉樹林となって、冬期間には落葉し、所謂「冬木立」の様相だ。
平坦線区で「煙」の期待出来ないならば、一工夫が必要と考えていた身としては習作に良い機会だった。

列車は、225列車岩見沢行き。この当時は6両編成と、現在とは比べ物にならない輸送力である。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f5.6 Y52Filter NeopanSSS Edit by CaptureOne5 on Mac.

碧水-北竜 (札沼線) 1967

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先頃、北海道旅客鉄道より札沼線札幌医療大学までの2012年6月1日からの電車運転開始がアナウンスされた。JR北海道プレスリリース
所要車両の投入遅れによる暫定的電化開業につき、既設列車の置替と一部列車での運転時分短縮に留まるが、10月のダイヤ改正では全運用の置替と増発に加え、函館本線/千歳線との直通列車も設定され、本格的に札幌圏ネットワークに組み入れられることだろう。

北海道旅客鉄道は、札沼の「沼」に接続していないのを気にかけてか、1991年に「学園都市線」なる路線愛称を付与し、これに統一して使用している。命名後20年を経過し利用者には広く受け入れられているだろうが、かつての札幌在住者としては、その現在の高架複線の続く姿を実見しても、なお違和感を禁じ得ない。関西の類似愛称線名と取り違えることも多々ある始末である。

「沼」まで繋がっていた60年代後半の札沼線は、篠路付近に団地が造成されて東篠路が開業するなど現在につながる萌芽も見えたものの、札幌市街地の外縁をトレースした後に石狩平野が尽きるまで北上するルーラル鉄道に過ぎなかった。
列車系統は、ほぼ中間の浦臼で分断されており、直通列車の設定はなかったと記憶する。同駅下り方の鶴沼-於札内間にあたる桑園起点67K000Mに札幌鉄道管理局と旭川鉄道管理局の局界があり、函館本線の並行線で全線を乗り通す乗客もないゆえの措置と解せられる。以南区間を札沼南線と通称し、以北を北線としていた。これは、全線開通前の呼称でもある。
南線列車は苗穂機関区のキハ21/22が使われ、北線側は深川機関区の機械式内燃車キハ05が深川から直通で入線していた。

札幌市街の住宅地を曲線で縫って走るのは、当時の千歳線と実は大差はなかったのだけれど、北側へこっそりと分岐して行く雰囲気が気になったのか、桑園から市街地はずれの新琴似まで乗って、同駅駅前に達していた札幌市電鉄北線で札幌に戻る「試し乗り」を何度か楽しんでいた。余談だけれど、この鉄北線も路面ディーゼル車が運行する全国的に例のない非電化線で、しかも北24条あたりから新琴似駅前までは路面が未舗装という「ローカル市電」振りだった。

写真は、未乗であった「沼」に繋がっていた区間まで遠征した際のカットである。石狩川右岸の平野を北上するだけの札沼線には田園風景ばかりが続き、これと言ったポイントは見つからず、ここも線路脇に繁茂する雑草の向こうには水田と空が広がるばかりなのだった。

列車は 8692列車、深川発の桑園行きである。深川機関区の9600形蒸機に牽かれたワムとトラによる思いのほか長い編成で現れた。
この当時、定期の貨物列車は、このほかに桑園から石狩当別間までの区間貨物の設定があり、こちらは苗穂機関区に3両配置のC11が入換え兼用で充てられていた。

今になって調べてみると、この頃の貨物扱い駅は以下の通りであった。ただし、この全てで定期的な出荷ないし到着があったかはわからない。
新琴似 篠路 石狩太美 石狩当別 石狩金沢 中小屋 石狩月形 浦臼 新十津川 雨竜 和

[Data] NikomatFT+ AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f8 Y2filter NeopanSS(+1EV push)



沙留 (名寄本線) 1967

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沙留の上り方は、オホーツク海沿いに走る名寄本線にあって唯一、その波打ち際をトレースする区間であった。
この67年夏の初めての奥地への遠征に名寄本線を組み込んだ理由は思い出せない。オホーツクを見てみたい、程度ではなかっただろうか。
一ノ橋-上興部間の天北峠越え区間のロケハンで気に入ったポイントが見つからず、上興部に下車の後に向かったのが、五万図で当たりをつけていた沙留だった。ここには、ほんの少しだけオホーツク海に突き出した沙留岬があって、海を前景に小さな砂浜と名寄本線が望めた。

当時の名寄本線は、旅客列車こそ気動車化が完了していたが、貨物列車には名寄機関区と遠軽機関区の9600の仕業があり、名寄-紋別・遠軽間に三往復が設定されていた。どの列車もそれなりの編成長を持ち、半世紀近く前のこの時代は鉄道が物流の主役であったことを物語る。
ただ、名寄区/遠軽区ともに、構内入換にも使われた9600形には前頭部とテンダ後部の警戒塗色化(所謂ゼブラ塗り)が進行していたのが残念ではあった。

列車は、18時過ぎの弱い斜光線を行く1693列車。各駅で貨車の解結を繰り返しつつ、名寄から遠軽まで7時間余りをかけて走っていた。
北辺の静かな海岸線を想像していただけに、そこのキャンパー達の姿には少々がっかりもしたけれど、これも盛夏ゆえの光景と画角に取り込むことにした。

駅へ戻り、列車を待ちながら「HBCのテレビが映るようになったのは、ついこの間だ」と地元の人に聞き、奥地を実感したものだ。
この日は遠軽へ抜け、そこで駅寝したと記録にある。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.5 1/250@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by CaptureOne5 on Mac.

室蘭 (室蘭本線) 1967



室蘭を続ける。
過日の室蘭である。

現在では信じられないくらい広大な室蘭構内の着発線群である。
黒煙が立ちこめて霞んでしまっているが、画角のほぼ中央が旅客乗降場で、その脇をかすめて画角右奥へ西室蘭までの線路が伸びており、海側高架の石炭埠頭への連絡線も健在であった。
画角外になるけれど、左にはガントリークレーンを持った室蘭機関区とそれに隣接して室蘭客車区が存在していた。(留置車両の一部が見える)
立ちこめる黒煙は、その機関区からのものだ。後に旭川へ転じて宗谷線旅客に活躍したC55の30や49もここの配置だったと記憶している。

84年2月改正によるヤード系貨物輸送の全廃と、その後の石炭輸送の廃止により、この広大な設備は不要となり、一帯が再開発地区となったのはご承知のとおりである。
現在ではすっかり様相の一変してしまい、発車せんとする貨物列車の後部辺りが現在の室蘭駅本屋の位置と推定される。

その出発せんとしている列車は、1285列車。
東室蘭操車場への区間貨物で、荷は軽いはずなのだが、どうしたことか空転を起こし轟音と共に機関車は黒煙と蒸気に包まれてしまった。
NHK室蘭放送局の裏手あたりからの俯瞰である。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48filter NeppanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

止別-浜小清水 (釧網本線) 1967

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夜行列車の運転経路上で深夜帯に発着のある駅では、その待合室は原則24時間利用が可能だった。
すなわち、そこで一夜を過ごすことも出来た。所謂「駅ネ」である。
道内での例は、それほど多くはないが、旭川をはじめ根室線なら新得、帯広、宗谷方面では名寄に音威子府、道南の長万部、加えて函館の連絡船桟橋待合室といったところだ。
これらは深夜も営業する駅だから、寝袋の装備でもあろうものなら極上の「駅ネ」が楽しめた。もちろん、その区間に有効な乗車券なり周遊券を所持していることが条件である。

鉄道屋なので、「駅ネ」は随分とやった。
蒸機時代の昔は、幹線の小駅でも運転要員は24時間体制で詰めていたから、最終列車で到着して図々しくも「待合室に泊めてくれ」と頼み込んだりしたものだった。今思えば、図々しさにも程があろうと言うものだが、不思議なことに「機関車を撮りに来た」で大抵の場合受け入れてもらえた。彼らとしても軒先で寝られても困るところだったのだろう。
ただし、夜間は併合閉塞により棒線駅と化して無人となる駅があり、要注意だった。

「駅ネ」に慣れて来ると、今度は本来の無人駅を狙い始める。丁度、国鉄の合理化計画が進み始め、無人化駅も増えていた頃だ。灯りは無く、夏場には蚊や得体の知れない虫に悩まされたりもしたが、駅舎というシェルターはあるし、キャンプと思えば楽しいものだった。
(一度だけ、無人化後の金華に「駅ネ」したことがある。この時の「体験」は別項に改めたい)
シーズンなら同宿者の現れることもあり、突然の宴会も開かれた。自転車やバイクでの旅行者達だ。
寝袋や自炊道具を装備するなら、ツェルトも加えて手っ取り早く撮影地に泊まることも考えたが、これは「野宿」となるゆえ実行はしなかった。

「駅ネ」は何も鉄道屋だけのものでは無い。
60年代から75年ぐらいまでだったろうか、網走や稚内など観光地への拠点駅は「駅ネ」の人々で溢れかえっていたのである。これらの駅は夜間締切りだから、その軒先のみならず駅前広場すべてが「駅ネ」で埋まっていたのだった。カニ族と呼ばれた北海道愛好の旅行者達の群れだ。
現代では想像も出来ないが、当時にしても信じられない光景を見た思いがしたものだ。
こうした北海道旅行のスタイルは、その後急速に萎んでゆく。DISCOVER JAPANキャンペーンに始まる「お洒落」な旅の時代が,そこまで来ていた。

最後の「駅ネ」がいつだったのか、どうにも思い出せない。

これは、網走駅前広場にてカニ族の人々と一夜をともにした(?)後に釧網本線へ入った際のカットである。
撮影ポイントの選択が、まったくなってないと我ながら思う。
列車は、混合633列車の釧路行き。3両の客車は旅行者で満員であった。鉄道乗車が、きちんと観光手段だった時代。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS(ISO200)

倶知安-小沢 (函館本線) 1967



60年代後半の鉄道風景として、函館山線のC62重連急行は外せないだろう。

この列車については、近年諸先輩方による回顧本の発刊が相次ぎ、ここに改めて記することは無い。
ひとつだけ付け加えさせていただけば、それらで語られた「C62が雪雲を連れて来る」に代表される、多くの「ニセコ伝説」は「本当の話し」だ。

当時在住していた札幌近郊でのC62は身近な光景で、これは初めて意識して撮影に臨んだ際のカットである。
重連区間での走りは圧倒的で、手稲辺りで眺めるそれとは、俄に同じ機関車とは信じ難いものだった。

この後、この倶知安峠はもちろん、二股、蕨岱、上目名に銀山と通うことになったものの、その度に現地で出会う同業者は爆発的に増えてゆき、それがピークに達する71年の夏前には撮影を止めてしまった。
あまりの狂乱に恐れをなした訳である。撮影地に怒号が飛び交うのは今に始まったことではない。鉄道屋の品性が問われる。

列車は68年の改正以前につき<ニセコ>ではなく、102列車<ていね>だ。
<まりも>当時から引き継ぐ食堂車マシ35を含む、本州連絡列車らしい風格のある編成だった。
札幌からの本務機に珍しくC622が入っている。倶知安峠が、まだ静かだった頃だ。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Compiled by PhotoshopCS3 on Mac.

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