"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

尺別 (根室本線) 2008

shakubetsu_03-Edit.jpg

道内におけるDD51型内燃機関車の運転が「ようやくに」終了した。それは1966年度末の旭川機関区への配置による石北トンネル越え、塩狩越えの補機運用を嚆矢としていたから、爾来半世紀に迫らんとする歳月は、確かに「ようやく」としても良いだろう。もちろん、この際の投入車が生き残ったではないけれど、それでも函館運輸所の最後の5両は全て1975年の新製車両につき、車齢は41年に達する。現在苗穂工場に保管されるC623でも1973年10月の運用離脱時のそれは25年に過ぎなかったから、恐ろしいほどの老朽機関車と言える。
ハーフサイズ写真機から一眼レフを手にした蒸機の終末期以来、釧網線や江差線で、後には天北線でDE10なり15に出会えたとは云え、この機関車を常にファインダーに捉え続けたには、時代の巡り合わせに違い無いとしても、20余年を過ぎれば些かに食傷気味なのが正直なところであった。言葉を変えれば「飽き飽きして」いたのである。
その凸型車体には入換機の印象を拭えないままに加えて、貨物鉄道会社に現れた機関更新機に対する赤系や青系の新塗色に、旅客鉄道の客車に合わせての青色20号など違和感ばかりが先に立ってどうしても馴染めぬのが追い打ちをかけていたとして良い。そこが北海道で、それが寝台車を連ねた特急列車でなければ写欲も失せていたことだろう。「ようやく」とするのは、そんな想いもある。

そこに登場した貨物鉄道の手になるDF200型電気式内燃機関車の、パノラミックな2枚窓を配したフロントデザインの本線機らしい箱型車体には、積年の恨みが解ける気のしたものだった。
試作機は1992年4月2日に五稜郭機関区へ回着しながら、一千トン牽引試験で死重を積んだコンテナ車の20両編成を牽いたりしたものの、なかなか営業には投入されずにいたのだけれど、その単独牽引が1993年の5月11日から4061-3070列車で実現し、運用区間も五稜郭-札幌貨物ターミナルに拡大されれば、開発事由の一つであった千歳線内での走りを撮りに渡道したものだった。以前の記事 南千歳 (千歳線) 1993 は、その際の一枚である。
90年代も後半に至り、その配備が定着した頃の渡道は、寝台特急とこればかりが被写体であり、この時期には道南地域にばかり通い、そこから外へ出なくなったのもそのためであった。
やがては運用区間も新旭川へと拡大、2008年春の改正からは根室本線を新富士へと辿るところとなった。これは撮らぬわけには往かない。

寂れた尺別の集落を背景に冬支度の原野へと踏み出すのは2091列車。
根室線への運用設定には、尺別 (根室本線) 2003 と5年を隔てて同じ丘に上った(ただし樹木の成長で全く同位置とは往かなかった)。季節も被写体も同じならレンズも同じなのだが、写真機はディジタルに替わっている。前年にNikonが35ミリフルサイズ機をラインナップしてくれたからである。それは待望した機材だった。

ご承知のとおり、DF200は2014年には低い線路規格に困難とされていた石北本線の臨貨運用にも進出した。この事態には少しばかり躊躇した末に、二度と踏み込まぬだろうと思っていた常紋の峠道に立つことした。札幌からの移動も前泊の宿からして見渡せばご同業ばかりと云う環境に、旧い鉄道屋はやはり困惑したと書いておく。

[Data] NikonD3+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 C-PL filter ISO320 W.B. 5260 Developed by CaptureOne9pro Edit by PhotoshopCC & LightroomCC on Mac.

稀府 (室蘭本線) 2011

mareppu_04-Edit.jpg

札幌鉄道管理局は1980年5月15日付にて、室蘭本線・千歳線・胆振線の管内21駅を「停留所」化、15駅の貨物取扱を集約する「営業近代化」を実施した。貨物扱い廃止駅のうち5駅は「停留所」化駅と重なる。
通票閉塞施行の胆振線は勿論のこと、室蘭・千歳線でも転轍機の無い停車場(所謂棒線駅)以外には方向てこ扱いを要したから、最小限の運転要員を残しながらの営業業務の撤収には、日々積み上がる損失に対する当時の切迫した事情が伺える。
「停留所」化とは、当時に国鉄がこのような措置に対して多用した言葉であった。国有鉄道が準拠した法規上に「停留所」は存在しないが、部内で慣例的に要員配置の無い棒線駅を指して用いられており、それを準用したのである。営業上には「無人」なのだが、然りとて要員は配置されると云う、まるで信号場での客扱いのような従来に国鉄の想定しない駅の運営形態の出現には、対外的にそれを無人駅とも呼べなかった事情もあろう。1979年2月1日付での札沼線の「営業近代化」では全線の貨物営業廃止により対象駅を棒線化して要員を引揚げたのだが、幹線系線区や元来に閉塞区間に延長の在った胆振線では苦肉の策と云えた。同様の手法は続いて「営業近代化」施策の対象となった函館本線や、旭川局管内の宗谷本線などにも及ぼされることになる。
この1980年度施策での「停留所」化駅を列挙すれば以下の通りである。
[室蘭本線]
大岸・有珠・長和・稀府・黄金・虎杖浜・竹浦・社台・糸井・遠浅・安平・三川・古山・栗丘・栗沢
[千歳線]
美々・植苗
[胆振線]
久保内・新大滝・御園・寒別

幹線の「営業近代化」の初期事例でもあり、減じつつ在ったとは云え、現在に比すれば遥かに多かった利用客に対して、これらではサーヴィスの激変を避けた経過措置として外部への業務委託が行われ、それには荷物扱を継続するなどの実態に合わせて、本屋窓口を引続き開いた旅客・荷物業務の日交観への総合的委託から駅前商店などへの乗車券類販売の簡易委託までの様々な形態が選ばれていた。使われなくなった本屋窓口に板を打ち付けての閉鎖はこの頃からで在り、鉄道輸送の衰退を眼に見える様で教えてくれていた。
駅に要員は詰めているから、冬なら待合室にもストーブの燃えていたものだけれど、駅務室と隔絶されたそこで時間を過ごすには、とてつもなく違和感を覚えたものである。

写真は有珠山を背景に稀府の東方を進む1列車<北斗星>。
空気の澄み始めて風景の枯れ草色に染まる季節か、さもなくば残雪の頃に限定の位置である。
稀府では簡易委託ながら本屋の窓口が塞がれること無く利用され、それは1988年度の築60年を経過した本屋建替に際しても引き継がれて、その吹き抜け三角屋根の新駅舎にも窓口の設けられたのだった。永く、矢印の金額式B型硬券が売られていたが、近年にMR型端末出力の総販システム券に替わると、いつの間にか窓口は閉じられてしまった。調べてみると2009年10月1日に簡易委託契約解除と在った。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f10 C-PL filter ISO320 W.B. 4480 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopCC & PhotoshopLR5 on Mac. 続きを読む

有珠-長和 (室蘭本線) 2012

usu_09-Edit.jpg

ひと昔もふた昔も前のことである。一目でそれとわかる重たそうな機材を列車内に持込んでいると、たまたまの合席者に良く声をかけられた。出で立ちからだろうが、山岳写真か、さもなくば道東の丹頂鶴の撮影者と見えるらしく、蒸機終焉時のブーム後にも関わらず鉄道が対象と答えると一様に驚かれたものだった。
それを切っ掛けに話の弾んだ、自身も写真を撮っていると云う相手から尋ねられたことがある。彼の疑問は、「走って来る汽車にどうやってピントを合わせるのか」であった。鉄道を撮ろうと一眼レフのファインダを覗いた瞬間に知り得て、以来にフレイミングと一体化して無意識な被写体のいない合焦の動作は、なるほど家族写真や風景を撮る限りには無縁のことに違いない。確かに、それを「置きピン」と呼ぶとはかなり後になって知った。1960年代の写真技術本にその用語は書かれていなかったと思う。

動線の予測可能なればこその置きピンに、その焦点面位置でのシングルシュートの基本的お作法は1966年以来に変えていないし、変えようも無い。
けれど、これのかなり厳しい場面の多々あるのも確かで、薄明や薄暮の時間帯に長玉で列車を引きつけようとすれば、開放の絞りに被写界深度の2メートル足らずは珍しく無く、その間を時速80キロの列車ならコンマ1秒で走り抜けるのである。
画角内での見かけ上の移動距離の小さければ、その一瞬はファインダに見えるしシュートの手応えも得られるものの、それの困難が予想されるコンテには、余計な重量と思いながらも仕事用に必需品だったモータードライヴを持ち出していた。F2の当時、廉価版のMD-1での秒速5コマ、F3のMD-4での6コマには狙ってのシングルシュートと微妙にタイミングのズレを感ずることも在ったが、何とか保険にはなっていた。
このような場面にはもうひとつの問題もあり、それは暗くてファインダにヤマの掴めないピントであった。これには、合焦させたい位置を、例えばレイルの繫ぎ目から何本目の枕木とファインダに確認し、そこにフラッシュライトを置きに行っては、その光にピントを合わせていた。ストロボ撮影前提の暗闇での人物へのピント合わせにライターの火を持たせたことの応用である。勿論、撮影前にそれは回収する。

日没までの快晴が予測されたこの日、8002列車はエントモ岬でと決めて柴田踏切に向かえば、数年振りのそこはススキの繁茂が著しく、定番の立ち位置からは線路が望めない有様だった。薄の原を黄金色へと傾くであろう日差しは季節の表現には相応しいとは云え、線路の見えないのは置きピン不能を意味する。フォーカスリングを回すと焦点面は薄の海を渡って往き、シューティングポイントにおよその見当はついても確認の仕様がないのである。
これにはディジタルの福音とそのカメラ機能に救われた。感度を上げて被写界深度を深く確保した上での秒速9コマという連写性能である。
勿論、フィルム撮影でも同じ手段を選ぶだろうが、増感に依る画質低下を覚悟せねばならない。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f9 C-PL filter ISO1600 W.B. 5560 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopCC & PhotoshopLR5 on Mac.

北入江信号場-有珠 (室蘭本線) 2013

usu_08-Edit.jpg

1945年8月1日に長万部起点43.9キロに設置されたのが北入江信号場である。
1942年10月6日の閣議決定「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」に定められた、北海道炭の京浜地区軍需工場への年間300万トン陸上輸送の非常体制緊急施策(*1)に基づき、函館/室蘭本線上に設けられた16箇所(*2)の信号場のひとつであり、ここには出発補助線(通称に加速線)が設備されていた。
Web上に拾えば、相変わらずにこれを以て北入江を「戦時型信号場」や「スウィッチバック式信号場」とする記述が散見される。おそらくは、検索エンジンにピックアップされる頻度の高いWebSiteの記事が検証なく転載されたものだろうが、これは事実誤認ないし誤解である。

「戦時型信号場」とは戦後の、それも鉄道史研究が先行しての付名であり、決して当時にそう呼ばれた訳では無い。ゆえに誤解の生ずる余地は認められるものの、それは「国有鉄道建設規程」の許容する上限である10パーミルを越える勾配途上でありながら、「国有鉄道建設規程戦時特例」(1944年1月25日運輸通信省令第5号)を適用してスウィッチバック式構造を採らずに通常の行違い線式とした信号場を指しての名称である。当然ながら、そこに停車した勾配上部へ向かう蒸機列車の前途運転継続には出発補助線が必須であったが、これは戦時型の信号場に固有の設備では無い。非力な蒸気運転の時代には少なからず事例の存在した。
北入江は10パーミル勾配上に位置して戦時特例の適用を要せず、出発補助線はD51ないしD52形蒸機の一台にて牽引定数1200と云う特殊な運行に対してのことである。戦時下ゆえ土工が速成工事であったり、本屋建築など簡略化のなされたかも知れぬが、信号場設備自体はそれまでと何ら変わるところは無い。部内実務者や研究者は厳密に区別してきたのだが、その「戦時」非常体制下での設置と云う性格と、「戦時」特例での設計の形態とがいつしか混同されたものだろう。
また、スウィッチバック式とする誤解も、そこへの停車・出発に際して必ず退行運転をともなう配線の停車場がそれであるから(*3)、出発補助線は折返運転を行うものの、勾配方向への主には重量貨物列車に限られて該当せず、通常の行違い線構造に付帯したに過ぎない。

ポツダム宣言受諾の僅か2週間前の開業であった北入江が前述の戦時下輸送に貢献したものかは分からない。用途を失って1948年7月1日付にて廃止、設備は撤去された。
以来15年余り、高度成長にともなう切迫した輸送需要に対して、1964年9月30日に600メートルを岩見沢方に寄った起点44.5キロに同名信号場が開設されるのだが、これを「移転」とする記述や、それの廃止後に同位置への1994年1月24日の再設置を「復活」とするのも誤りと云える。この3代に渡る北入江信号場は当然ながら書類上相互に関係せず、全てが「新設」である。

第三次長期計画に含まれて1968年4月着工の70年10月複線使用開始を予定しながら、それを放棄しての現在までの単線運転は、5キロばかりの洞爺-有珠間に信号場を置けば、1964年度の算定でも洞爺-北入江で132回、北入江-有珠で153回の線路容量を確保出来たからであろう。ちなみに信号場の無ければ、それは100回前後に留まる。
...................................................................................................
(*1) これを(狭義の)陸運転換施策と云う。
(*2) 内2箇所は軍川-森間増設線(砂原線)開業時に設置
(*3) 国鉄の定義は「着発本線が折返運転により列車の発着を行う中間停車場」である。

写真は、(1994年1月24日設置の)北入江を1キロばかり下ったR=300からR=360の反向曲線区間での8001列車。
近年には高名な撮影位置と云うけれど、いつものように畑作地の縁とする。

[Data] NikonD3s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6+1/3 Non filter ISO320 W.B. Auto Developed by CaptureOne5 on Mac.

山越-八雲 (函館本線) 2012

yamakoshi_03-Edit.jpg

道南、八雲町域は温泉地帯でもある。落部川上流山峡の銀婚湯が高名だが、その近隣には上の湯も湧出し、野田追川の上流約15キロには桜野温泉が、遊楽部川支流の鉛川を遡れば旧遊楽部鉱山近傍に八雲温泉が、それぞれ盛業中である。何れも自然湧出していた地に後にボーリングを行って高温の湯量を得ている。
これら山間地ばかりでなく、噴火湾沿岸の山越周辺にも温泉湧出の記録はある。
現在の山越漁港近くの境川下流に冷泉が湧出していて、これを利用した久保田温泉が1951年まで営業しており、山越郵便局近隣には1928年から1940年まで山越温泉が存在して、噴火湾漁業の最盛期にあたり、どちらも盛況だったと云う。
戦後に八雲町が山越駅より1キロ程八雲寄り、浜松地区の国道山側を買収して1958年に試掘し、1960年に民間によって掘削され、地下357メートルより泉温41.6度で96L/分の食塩泉の湧出を見たのがコタン温泉である。その斜面に建つ赤い屋根の建物は函館線の車窓からも良く見えていたのだけれど、いつのまにか廃業してしまった。1972年に近隣をボーリングして源泉を得た「ホテル浜松」、後の「温泉ホテル光州」に吸収されたものと思う。
そこに現在建つのは、2001年開業と云う「温泉ホテル遊楽亭」なのだが、上記との関連はわからない。大規模な宴会場や結婚式場も設備して、八雲ローヤルホテルの廃業後にこの地域のシティホテル機能も代替している。
なお、温泉名は浜松温泉と呼ばれているようである。

1971年に牧草地を疾駆するD52を撮って以来、度々降りている区間なのだが、そこは宅地へと姿を変え、並行する国道沿いにも商業施設が増えてすっかり撮り難くなってしまった。
野田生で内陸へ向かった函館本線が再び海面を間近に見る浜松の海岸も、列車の下回りを隠すような護岸に更新されて、撮影地としては末期の様相であった。
霜の降りた初冬の寒い朝。列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。
後に、浜松温泉「遊楽亭」が見える。

=参考文献=
改訂八雲町史 : 八雲町編 1976

[Data] NikonD3s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 Non filter ISO320 W.B. 5200 Developed by CaptureOne5 on Mac.
続きを読む

七飯 (函館本線) 2012

nanae_10-Edit.jpg

函館本線の下り優等列車と貨物列車は、七飯から仁山付近に連続する20パーミル勾配を避けて別線を往く。通称-藤城線である。

1949年に公共企業体として発足した国鉄は、アジア太平洋戦争戦時下にて疲弊した設備の復旧に務め、1955年度までには戦前の輸送力を回復するに至り、増大の予測された輸送需要に対して1957年度から61年度を期間とする「第一次五カ年計画」を策定し、老朽施設の更新や幹線輸送力の増強を推進した。
1961年10月に実施の全国白紙ダイヤ改正がその一定の成果であり、道内に於いても特別急行列車を含む気動車による優等列車網の整備と到達時分の短縮がなされ、青函連絡船の大型船腹への更新を含む貨物輸送力の増強が行われた。けれど、これらは増発にかかわる搬器(車両)への投資とそれの運用効率向上によるものが中心であり、この計画期間中の地上設備増強は、室蘭本線の石炭輸送区間に単線にて残された敷生(現竹浦)-苫小牧間32.3キロの線増が進められ室蘭から三川までの複線化が成った程度であった。
対して、1961年度の道内貨物輸送量は、1956年度を100としたトンキロベースで129の伸びを示して、秋冬の繁忙期には駅頭に滞貨を生ずる状況や、旅客輸送も道内の特殊事情である夏季多客輸送や年末始のピーク輸送時の激しい混雑ともども、本改正にて緩和されるものでは無く、青函航路継送輸送力指標となる渡島大野-軍川(現大沼)間の列車回数も、これにて(単線の限界とされる80回を越える)100回に迫るものとなっていた。  

幹線の輸送力増強は道内に限らず全国的な課題でもあり、国鉄は1961年度を初年度とする「第二次五カ年計画」にてこれに対応し、戦時の陸運転換施策により突貫施工された僅かな区間で複線(砂原回り線含む)が稼働していたに過ぎない函館/室蘭本線の函館-本輪西間についても、これにて計画され、当面の隘路であった七飯-軍川間から着手されたのである。
同区間の線増は、渡島大野から峠下トンネルまでに連続して補機を要していた20パーミル片勾配の緩和と併せて下り列車専用線としての別線にて行われ、1966年9月30日に使用を開始した。七飯での平面交差を避けて左に分岐し、渡島大野への既設線と畑作地を長い高架橋で乗り越して藤城・峠下集落上方の斜面を新峠下トンネルに至る線形は、10パーミルの標準勾配を維持する経路選定による。

その1963年の着工から3年足らずの工期は、この別線を成す相当区間の構築物が戦時下および1956年までに完成していたからに他ならない。この区間の勾配緩和計画自体は戦前の早い時期から存在し、着工されていた事実がある。
それは石倉-野田追(現野田生)間の海岸段丘通過に介在していた15パーミル勾配を解消する新線と、大沼-森間で駒ヶ岳の裾野を越える20パーミルを回避する砂原回り線とを併せ、戦時下の陸運転換に応じた貨物列車の函館-岩見沢間上下でのD51ないしD52の1台運転による1200t牽引の実現ため計画されながら、突貫工事にて1945年までに使用を開始したこれら区間に対して、トンネル掘削に時間を要したものか、1200t列車が主には上りの石炭輸送であったゆえ優先順位の低かったものかは分からないが、工事途中にて敗戦を迎え開通に至らなかったのである。
(この項 七飯 (函館本線) 1971 に続く)

写真は、藤城線の核心である七飯高架橋を往く3063列車。
背後には北海道新幹線の高架橋が既に立ち上がっていて、それの目立たぬ夕刻を以て最善とする。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 Non filter ISO640 W.B. 7700 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 2012

numanohata_04-Edit.jpg

美々川は、石勝線駒里信号場に程近い畑作地に切れ込んだ低い崖下からの湧水を水源とし、湿地帯を形成しながら蛇行を繰り返して南に流下しウトナイ湖に至る。そして、そこの南岸から溢する流れも美々川と呼ばれるのだが、1キロも往かぬ地点、千歳線上り線と室蘭本線を交した下流で旧勇払川が合流すると、勇払川と名を変えてしまう。その事情については、勇払川に関連して前にも書いたことがある。→勇払 (日高本線) 1988

そこには、流路の判然としない程にウトナイ湖の周辺湿原が伸びていたのだが、ここを通る車窓には年々ハンノ木と思しき樹木の繁殖と成長が見て取れて、湿原の乾燥化を感じていた。それは、ここに限ればウトナイ湖の水位低下、面積の縮小によるもので、明らかに70年代から西側で行われた排水工事/土地造成による人為的な結果であろう。
ここへは、橋梁が樹木に覆われる前にと、数年振りで訪れたのだけれど、ごく最近に河川改修と排水路工事が行われたものと見え、湿地の東側は整地されて完全に失われていた。西へ追いやられた流路も、かつての湿原の中の滔々とした流れを喪失して淀むばかりなのだった。

写真は、千歳線下り線の勇払川橋梁上の8002列車<トワイライトエクスプレス>。
残された湿原を前景とするには、この画角しか切れなかった。これとて湿地とするにはススキの原に過ぎ、樹木が列車を隠すのも時間の問題だろう。連日の悪天の中での秋空が救いだった。

ところで、沼ノ端 (千歳線) 1992に書いた、ここで20年前に拾った猫の3兄弟のその後である。
以来、思い出したように連絡を取っていた同級生によれば、黒猫の雄は、好奇心の旺盛だったものか事故で急逝してしまったらしい。バックパックに詰め込んでの移動の時、その底まで潜り込んでしまい「落としたか!」と焦らせたのは、確かにこの子だった。
ホルスタイン柄の雌のひとりは里親の転居で99年以降は消息不明だけれど、その先が関西と聞けば、道産子猫の命脈をかの地に伝えたものと思う。江別に引き取られたもうひとりの雌猫は、美々川から「ぴぴ」と名付けられ数年前に天寿を全う、今もその子孫が同家に健在と云う。

[Data] NikonD3s+PLANAR T* 50mm/F1.4ZF 1/1000sec@f4 C-PL filter ISO320 W.B. 5560 Developed by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 2010

toyoura_07.jpg

写真屋の中でも鉄道屋は、撮影で山中に分け入るにせよ、鉄道の無いところには行かないからそれほど危険なことはない。
それでも時には、林道歩きの途中で目の前に人の頭大の落石があって肝を冷やしたり、雪面のトラバース中に足下の雪が割れて小規模な雪崩となるのを目撃したことはある。一度栗林を歩いていて栗が頭に突き刺さったこともあった。この時は一瞬何が生じたのか分からず、強烈な刺激と額を流れる生暖かい液体(血液である)に、その場で座り込んでしまった。以後このケースでは帽子の装着を忘れぬようにしている。

しかし、最大の危機はディジタル撮影での落とし穴だった。
ディジタルなればの撮影は多々あるけれど、暮色時間帯の絵をリアルタイムに暮色に表現が可能なこともそのひとつである。高価な色温度計を屋外に持ち出して、LBfilterの濃度選択に迷いながらの撮影から解放されるのは、確かに福音だ。何よりも、その時刻の色が出る。フィルムに再現されるのはその先の仮の色、言うなれば疑似暮色と言える。
必然的に、日没を越えてそれまで以上に撮影に粘ることになっていた。

豊浦の貫気別川橋梁を俯瞰する植林地は、豊浦 (室蘭本線) 1993で書いたように放棄されてしまい、上部に至る林道も薮に覆われて広葉樹の自然に還りつつ在った。
ここでの撮影を終える頃には、秋の陽のつるべ落としでとっぷりと日が暮れ、あろうことか下山ルートが解らなくなってしまったのだった。フラッシュライトもヘッドランプの用意もあるとタカを括っていたのたが、それには薮の浮かび上がるばかりで、全く草道の判別がつかない。
市街地に隣接し、たかだか100メートルに満たない比高である。それでもこうなると深山と変わりはないのに気づく。一時は薮を分けての直降も覚悟したけれど、深夜に登山道を歩いても薮漕ぎの経験は無い。結局のところ、ライトを消して暗闇に眼を慣らし、地形の記憶に頼ってルートを探すほか無かった。

写真は、その際の撮影カットである。表題の範疇を脱するゆえ[番外編]とさせていただく。
列車は、3051列車。10月末のこの時期、17時の通過は日没の約30分後となる。

実は、この10日後、岐阜県北部の高山本線で同じことをやってしまった。こちらは携帯も圏外を示す人里離れた山中で、より深刻であった。これはディジタル撮影の罠だ。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/125sec@f5.6 Non filter ISO1600 W.B. Auto Developed by CaptureOne5 on Mac.

FC2Ad