"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

稀府 (室蘭本線) 1996

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現在の伊達市域、かつての有珠郡を構成した有珠・長流・東紋鼈・西紋鼈・稀府・黄金蘂の各村は、道内でも有数の藍の産地であった。勿論にタデ科イヌタデ属に分類される植物であり、藍染に用いられた「藍」である。
道内への殖民は自給作物ばかりでなく、同時に開墾地の経済的自立に商品作物の生産を要して、それの内地からの移植も推奨され、そのひとつが当時に全国的需要も大きかった藍だったのである。
1870年に始まる奥州伊達藩の支藩亘理藩の集団移住による開墾が知られるこの地においても、1874年には作付けが行われたとの記録があるが、藍作ばかりでなく、それからの染料生産(製藍)までも含めて本格化するのは、徳島県からの団体が長流村に入植した1883年以降であり、1887年の有珠郡における作付け面積の100町歩あまりは、1889年には道内作付け面積のほぼ半分にあたる400町部に迫らんとし、1900年に最大の560町歩に達した。中心域は当然に長流村と隣接する西紋鼈村に属した長流川の沖積平野であった。

この有珠地域での藍作の盛期最中の1895年頃、黄金蘂村に所在した田村農場への入植者に篠原茂次郎がいた。彼も徳島県板野郡川内村出身ではあったが、一家を挙げての幌別郡幌別への移住が不作により失敗に終わり、1年間の単身賃金労働を経てのそこへは知人の伝手を頼った小作人としての再入植であった。長流村への徳島団体との関わりはなく偶然と思えるが、吉野川河口地域と云えば、かつての製藍地帯と重なり、茂次郎自身も葉藍を染料に加工する際の発酵過程を管理する「水師」の技術者でもあったらしく、ここでの藍作隆盛を聞き及んでに違いなく、田村農場から牛舎川左岸に9町部を借り受けた茂次郎は、入植直後から藍作に取り組んだとされる。
茂次郎の幸運は、再入植直後から藍の価格が上昇し、1900年には一番藍が10円から25円の高値を記録したところだろうか。「水師」の技術を活かした自家藍製造に止まらず近隣農家作付けの製藍も引き受け、さらにはかつての藍取引の経験から内地に販路を開拓する藍商としての性格も帯びて経営規模を拡大、1910年には西紋鼈村と稀府村に10町6反部の土地を取得して自作農化するのだった。藍による蓄財を以っての篠原家による土地集積は以後1920年代に掛けて続き、その小作地は壮瞥村も含む有珠郡一帯に及んで、1933年の統計による67町部は有珠郡で四番手の地主であった。

ここでの興味は、これだけの地主に成長しながら、茂次郎は所有者が代わり高橋農場となっていた牛舎川左岸の土地に関しては、小作人で在り続けたことである。理由はわからない。農場が下げ渡しに応じなかったものか。おそらくはそこが藍作に適し、製藍の作業場も所在したのだろうけれど、何よりも成功への基盤となった藍作の土地だけに愛着も感じていたのかも知れない。
けれど、このことが戦後に再び茂次郎に幸運をもたらす。農地解放政策により、経営した有珠郡一円の土地は没収の憂き目に会うのだが、ここだけは逆に自作地として保有が叶うのである。戦後の篠原家は、この9町歩での葉藍生産に加え、周辺に自作地として買い求めていた稀府の5町歩の畑、北黄金の3町3反の水田で営農を続けた。しかしながら化学繊維の出現と普及は藍染め産業にも壊滅的打撃を与え、1960年代半ばまでに藍作農家は篠原家を残すのみとなり、それも1972年に至って途絶を余儀なくされるのだった。

写真は、長万部起点62K700M付近に所在した踏切付近での3059列車。
背景は勿論有珠山である。今に定番化している位置なのだが、廃止された踏切名称は失念した。

篠原家の藍生産は、折からの工芸としての藍染めブームと当時の当主茂氏の熱意により1980年に再開され、現在にも茂次郎入植以来の土地で9町歩ほどの作付け面積ではあるけれど継続されていると聞く。
そして、篠原家は21町歩の畑を経営する大規模農家である。その営農地は今も列車背後に見える樹林の向こう側一帯に所在している。

=参考資料=
新稿伊達町史 : 伊達町 1972
伊達市史 : 伊達市史編纂委員会 1994
北海道農業発達史 : 北海道立経済総合研究所 1963


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.


苗穂 (函館本線/千歳線) 1999

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もう3年ほど前になるが、札幌 (函館本線) 1970 から数回に分けて苗穂駅史擬きの駄文を連ねたことがある。
そこでは、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線運転化に際して苗穂に増設されたのが現5・6番ホームであり、(1994年の留置線設置にて失われた)旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置であるとした。閲覧した資料や工事盛んな当時に幾度か苗穂を通過した際の記憶を辿っての記述だったけれど、その後に新たに閲覧した資料もあり、シリーズの補遺とする。

まずは、「旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置」との記述は検証不十分につき、少なくとも「1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」と訂正するが、これも実は正確では無い。この乗降場自体も躯体としては1965年の乗降場増設の際の新設なのである。
とは云え、戦前期からの島式乗降場の南側に接し、それを取り壊して設置の旧3・4番ホームでも、その南側に接するところとなった、函館千歳上り線から千歳上り線専用に転用の線路番号での3番線(工事前には5番線)の線路中心線は、同工事で動いていないと判断される。これの本屋側には函館・千歳線それぞれの副本線や貨物操配線が隣接しており、それらが駅機能上に不可欠であった当時に移設は困難だったゆえだろう。(貨物操配線は寧ろ1線が本工事で増強されている)
よって、「旧3・4番線ホームが1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」は、前記の通り正確では無いにせよ、あながち間違いでも無いことにはなる。
加えて、かつての島式乗降場とは凡そ10メートルの幅員を持っていたことも知れた。増設による島式2面化は、貨物操配線への影響を極力避け、その用地を最大限に活用することで為されたのである。小樽方面・江別千歳方面ともにホーム幅員が狭小気味だった事由として納得する。

工事は次の手順と推定される。
1, 北側の貨物操配線の1線を函館下り副本線に転用して、新7番線とする。
2, 旧7番線を新6番線として、これに接してホームを新設、片面使用にて函館線下り列車に扱いを開始する。(ただし、一部旧6番線が支障する位置があっただろう)
3, 使用停止した旧6番線を撤去、既存ホームの同線側も崩して、新設ホームのもう片面を築造の上、これに接して新5番線として函館上り線を移設。これにて増設ホームが竣工する。
4, 続いて、既存ホームを全撤去して増設ホームと同形態のホームを、位置の変わらない旧5番線に接して設置、これを千歳上り線(新3番線)とする。
5, 同ホーム北側に接して新4番線を新設、千歳下り線とする。
(番線表記は、
苗穂 (函館本線) 1991 の記事を参照していただきたい)

札幌からの斜路を駆け下り苗穂場内に進入する8010列車。
苗穂5・6番ホーム先端からの画角自体は幾度もの既出である。春分あたりから秋分過ぎまでなら、低い光線が夕刻の上り特急寝台列車の深い屋根を照らし出してくれた位置ゆえ、渡道の度の定番位置だったのだが、苗穂新駅工事に支障するものか、同ホームの短縮化により失われてしまった。
8010列車の16時10分過ぎとは難しい時間帯で、もっと暮色のイメージが欲しいところなのに、それの得られる11月初旬を待てば、日没方向はより南へと移動してしまうのだった。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
北海道建設業協会100年史 : 北海道建設業協会 2016
札建工業五十年史 : 札建工業株式会社 1992


[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.


中丿沢 (函館本線) 1999

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中丿沢停車場は、そこに北海道鉄道(初代)線の開通した翌年に「紋別」の停車場名にて開設されている。その1904年10月15日には熱郛から小沢までの開通により函館-小樽中央(現小樽)間が全通し、さらに翌年には小樽(現南小樽)への延伸にて北海道炭礦鉄道との接続が予定されていたから、将来の列車本数増には長い駅間に交換設備を要して国縫-長万部間9.5キロのほぼ中間が選ばれたものであろう。おそらくは計画当初より既定だったと思われ、大沼(軍川を経て現大沼)-宿野辺(現駒ケ岳)間14.1キロに置かれた赤井川も同日に開かれている。
先住民族が普遍的に静なる川を指したmo-petに由来するモンペツ(モンベツ)の地名は道内の各所に存在し、ここでも今にも名を残す紋別川が河口に発達した砂州に流れを遮られ、延長の短い河川だけに中流に至るまで緩やかな水面を見せていたのだろう。その河口周辺には先住民のmo-petコタンが立地し、1809年とされる「蝦夷渡海記」にはモンヘツの名で11戸65人が居住と記されている。これは同記録によるオシャマンベの87人、ユウラッフの67人に次いで、噴火湾西岸では大きな集落だったと云えよう。やがては和人の混住も進んで紋別が当て字され、薩長政権下で胆振国山越郡長万部村の字名となったのである。
障害物の無い地形に国縫-長万部間のほぼ中間地点が選定された停車場が、その名称に紋別を採ったのは、それが最も至近の集落だったゆえであろう。以後、道内の鉄道線上に幾つかが現れる「紋別・門別」の最初の事例であった。
それの中丿沢(当初には中丿澤)への改称は、それらとの重複回避かと思えば、二例目である名寄本線紋別の開駅に7年を先立つ1914年10月1日付には、鐵道院側の事情では無さそうだ。
1938年に鉄道省札幌鉄道局が編纂した「駅名の起源」には、紋別川と和類川の間で「澤」を成しているゆえの付名とある。現在と川筋は若干異なろうが、中の川か中の沢川もしくはその中間の無名の水流を指してのことと思われ、確かに前記河川に比すれば細い流れである。停車場の開かれて10年も経過すれば周辺に集落も発達して、それが中丿澤部落と呼ばれたのである。改称はそれに合わせてのことになる。中丿澤只中の「紋別」では具合の悪かろうと云うものだろう。
やや時代が下るけれど、1925年発行の渡島支庁管内町村勢要覧には、当時の長万部村に4社が所在の株式会社組織の内、製材業の北海林工、澱粉を用いた製飴業の北海道製飴の2社が中の澤に立地とある。自前の駅名を名乗るほどの駅勢は確かに存在したのである。

中丿沢の旧場内を下る9051列車。
[外伝]にも書いたように、飽かずに幾度も通った林立道路踏切からのカットである。けれど、この90年代半ばからの数年間には上下線間にススキが繁茂してしまい撮れなくなっていた。せめてと春先に訪れるも、二年続きで降雪に見舞われれば、枯れススキも花の賑わいと思うしかない。

ところで、林立道路踏切は中丿沢から長万部への新道が開通するまで国道5号線上の踏切道であり、現在よりもやや下り方に所在していた。今でも、長万部三八飯店敷地北側に国道から分岐して踏切へ向かう当時の道筋の痕跡が衛星写真に見て取れる。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.


島松 (千歳線) 2004

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その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。
石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみることは無く、植民区画に由来して整然と区画された耕地を大規模に縁取る防風保安林は、これも北海道の独自な景観と思う。最近にWeb上でいくらでも閲覧可能となった衛星画像を確認すれば尚更の感がある。特に、西側に後志の山系へと続く丘陵地を眺める長沼低地は、作付けの春先にそこから吹き下ろす冷風の回避からか、多くの防風保安林が設けられているのが見て取れる。それは高高度の撮影にもくっきりとしたグリーンベルトである。
これらの起源を調べるに行き当たった資料は、札幌営林局(当時)による1975年の「都市化地域防風林の整備調査報告書」だけゆえ、一次資料を直接に調べていないことをお断りするのだが、それには1886年に始まる北海道庁による殖民区画の選定過程(本文書には「殖民区劃測設」とある)から農耕地間に「防風林帯として」(原生)森林を存置した旨が記載されており、1896年には「殖民地選定及区劃施設規定」を制定して「防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之 ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ」と定めたと在る。
3キロあまり毎に設けよ、とは道内の広大な耕地面積を考慮したものであろうし、その面積に効果を及ぼすにはあれだけの帯域を要したのであろう。調べ得なかったけれど、80から100メートルの幅は当時での44間から55間を基準とした思われる。
このように原生林の存置を意図したものであったが、実際には開墾にともなう伐採も進んでしまい、一部には防風林帯としたものの草地に放置されたり、天然更新のヤマグワやヤナギなどの林相と化したりであったため、1897年施行の『森林法』で保安林と規定し、道庁は1907年に「北海道国有林整備綱領」を定めて造林事業を推進したようである。その結果、1920年頃までには現在の如きヤチダモを主体とした樹林帯の出現を見たと云う。
この規模の大きい防風保安林を地元の農家は、そこを薪や木炭など生活材の調達先に位置づけ保全に努めた。つまりはその6キロから8キロに及ぶ延長からは、ひとつの「里山」であり、彼らの呼称も「お山」だったと聞く。

1926年8月21日開業と記録の北海道鉄道(2代)札幌線は、千歳-恵庭間の2箇所と島松停車場北側で、この防風保安林を切り開いて敷設された。前者は、現千歳線の長都とサッポロビール庭園付近であり、特に長都はその伐採跡に立地している。島松の北側で斜めに横切る防風林帯は幅が30メートル程と小さく、これは20間と云う規格なのだろうか。
そのさらに北側、島松神社からそれを越えた向こうの南19号線踏切には幾度も通った。南北方向の線形には上り特急寝台列車通過時刻なら西側からの斜光線を浴びたからなのだが、改めて過日の原版を確認すると降雨下の撮影も多い。明確に意識したでは無いけれど、島松の駅から然程遠く無い位置には「雨傘」にもしていたと云うことだ。→ 白石 (千歳線/函館本線) 2000

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを駆け下りる8002列車。画角の何度もの既出はお詫びする。
この日のことはよく記憶していて、前夜の<利尻>で南稚内に降りたものの、雨天に嫌気の差して<スーパー宗谷>で蜻蛉返り、そのままここに立っていた。この後も数日に悪天の続くことが予報されたので、モノは試しと島松でマルスを叩いて貰えば、運良く当日4列車の1人用個室A寝台のキャンセル分に巡り会い、それで帰京している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6  LBA1 filter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

上野幌 (千歳線) 2000

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地名のことであるから、野幌丘陵の南北稜線上、野津幌官林の原生林が広がる最高所一帯に付された椴山の名が、いつ頃から存在したものかを明確に記した資料などは無いだろう。トドマツが密生していたことからの和名ゆえ、そこに和人の杣夫(木樵)が入り込むようになったとされる1880年代の彼らによる付名であろうとは、想像に難く無い。1890年に、広島開墾からそこを横断して豊平川に架橋の東橋へと至る札幌道路が開削された時点には既にそう呼ばれ、1898年に丘陵頂上に建立された神社も椴山出雲神社であった。
その札幌道路沿いに選定された殖民区画は、当然にそれを東西基線とした上で、椴山に直交する南北基線が引かれた。現在の椴山交差点がほぼ交点に当たる。そして、1897年7月に発行された区画図によれば、その南北基線をやや外れた位置に、札幌道路から南へ、開墾地を外れて原生林の中を、当時にノホロ(現在の大曲と思われる)と呼ばれた地区の殖民区画へと向かう小道が描かれている。おそらくは、これが農場橋へと向かう鉄道屋達に馴染みの深い、現在の北広島市道大曲椴山線のはじまりであろう。西の里地域の開基百年に際して刊行された郷土誌「風雪百年」(2000年 西の里開基百年記念事業実行委員会編)には、かつてノホロへは、裏の沢川上流のベコネ沢沿いに辿ったと記されるから、これに替えて開かれたのかも知れない。
せっかくに道が通じたと云うに(と言っても獣道よりはマシな程度の踏分道だったに違い無い)、その一帯が先にも書いたように入植地とされず原生林が残されたことには、些か訝しく思っていたのだが、それは敢えて残したものだったらしい。20世紀初頭にも自然保護の思想は存在したのである。けれど、それは強固な国家意思に支えられたでなく、前に 静狩 (室蘭本線) 2010 に書いたごとく、経済活動を前には決して留意されぬのだった。ここも1921年3月3日に「野幌原始林」の一部として天然記念物指定を受けながらも、戦後まもなくに開墾地とされるに至った。1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」によってである。
この戦後緊急開拓については、猿払 (天北線) 1986 に概略を記したので繰り返さないが、急増した人口を吸収する「開拓」用地の不足には自然保護など二の次にされ、先の椴山から大曲へと辿る小道の、1926年には開通していた千歳線までの一帯には「新光」と名付けられた部落(敢えて当時の呼称とする)が開かれ、13戸が移住したのだった。樺太や遠くシベリヤからの引き揚げ者を含んだけれど、この施策が開拓農家の次男坊・三男坊の受け皿に過ぎなかったことを示すように多くは道内からの入植であった。
新光地区は、野津幌川水源の沢が入り込んだ起伏のある地形に農耕には極めて悪条件ではあったが、馬鈴薯を主体に大根・キャベツにレタスや人参を生産、札幌市内に出荷していたと云う。1960年代には花卉栽培に転換して成功したと「風雪百年」にある。

市道大曲椴山線が「農場橋」で千歳新線を越えるあたり、苗穂方のR=800曲線を旋回する8002列車。
画角は数度の既出なこと、ご容赦いただく他無い。北広島ないし上野幌駅前からのバスを椴山停留所に降りて、農場橋までは本当に幾度も通ったのである。手稲在住の古には、親父との日曜ドライブで馬鈴薯農場へと走った道でもあるとは、以前の記事に書いた。
千歳新線は、新光部落の南端に用地を求めて建設された。この画角の位置もそれに当たる。
そればかりが事由では無いだろうが、農地を削られた新光集落は1980年代までにはほぼ全戸が離農、一部で耕作の続けられるものの、現在では開墾地の多くが転用ないし耕作を放棄されたまま野に還りつつある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/320sec@f3.2  C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 2002

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以前にもここで触れたと覚えている。クロソイのことである。
北関東から北海道小樽に移り住んだ家族が、そこで出会った北の魚のひとつがそれであった。本人は幼少の時分のことゆえ、以下は全て後年の母からの聞き書である。
小樽駅に立ち昇る蒸機の煙を望む坂道の借家に落ち着いて早々に、ご近所から「煮付けにせよ」と頂いたのが最初らしい。些かスパルタンな背ビレ・胸ビレの魚体に慄きつつも調理してみれば上品な白身魚で、買い物に出た市場では、海水の滲みた魚箱に数尾がまとめて安価に売られ、そこでの惣菜魚と知る。事実、煮付けに限らず焼いても美味しく、加えてアラからは良い汁が出て、捨てるところが無かったと云う。
調べてみれば、このカサゴやメバルの仲間は北関東から三陸への太平洋岸も生息域としているから、那珂湊や平潟などの漁港にも水揚げは在ったと思うのだが、漁獲が極めて少なかったか、その姿が市場に嫌われて商業魚に成りえなかったのかも知れない。ともかく、この時代にクロソイは北海道の大衆魚であった。手稲町に転居してからも食卓には随分と上って、その魚体は目に焼き付いていた。

道内を去ってしまえば出会うことも無くなっていたクロソイへの再会は、1980年代半ばのこと、やはり道内の函館であった。連絡船深夜便までの時間つぶしに暖簾をくぐった、大門仲通あたりと記憶する横丁の呑み屋である。割烹着の女将から「珍しいっしょ」と供された「曹以のルイベ」は実に美味く、その夜はそればかりを肴に酒を舐めることになった。
帰京してからも、刺身で食らうソイが忘れられず近所の魚屋に相談すると、この当時でも築地市場までなら固定顧客向けに少量が活けで入荷していることが分かり、横浜市場経由で引いてくれた。この魚を不知だった当の魚屋も、試しに取引のある居酒屋に卸してみれば評判に気を良くしていた。美味いものは知れ渡るのが早いのか、1990年代初頭には道内産が安定して入荷するようになり、それには三陸地域からの養殖モノも加わるのだった。ただし、値段はやや高めで、道内の惣菜魚もここでは高級魚の扱いである。旬のはっきりしない魚なのだけれど、やはり冬を美しとしたい。

ソイの語源が「いそいお」(磯魚)の転訛と言われているように、それは岩礁域を住処とする。勿論噴火湾にも生息しているのだけれど、胆振管内でも太平洋岸の苫小牧漁協やいぶり中央漁協(登別)、室蘭漁協が知事免許による第2種共同漁業権に「あいなめ・かじか・めばる・そい刺し網」漁が含まれるに対して、噴火湾岸のいぶり噴火湾漁協のそれでは「あいなめ・かじか ・ほっけ刺し網」とあり、メバル・ソイが落ちている。つまり漁獲対象とされていないのである。湾内には岩礁域の少ないものか、生息固体数に差があるのだろうか。
けれど、おかげで噴火湾のクロソイは釣り魚である。磯に寄って来る夏場には「おかっぱり」でも30センチ級が釣れるらしいが、やはりシーズンは冬、噴火湾に乗り出す釣り船からなら60センチクラスが揚がる。刺身はこれくらいが旨い。

噴火湾を背景に貫気別川橋梁を挟む反向曲線区間を往くのは、8005列車<北斗星81号>。定期2往復よりB寝台車が2両少ない10両が基本編成だった。
豊浦定番の画角は幾度もの既出をお詫びする。
麓の畑作地からが精一杯だった俯瞰が、それに続く斜面の一斉伐採により一気に高度を稼げるようになった頃である。この日は橋梁を浅い角度に見る位置まで上っている。並行する道路を画角から外すためなのだが、今にみればここでの俯瞰には些か高度を稼ぎ過ぎと感ずる。
さっぽろ雪まつりの頃と云えば、豊浦沖の噴火湾は大物クロソイの釣果が期待出来るシーズンなのだが、そこへの釣り船は豊浦港にはおらず虻田港や八雲港から出港する。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6+2/3  C-PLfilter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by PhotoshopCC on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998

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再々で恐縮ながら、広島街道である。
それが野幌丘陵を超えるところの「西の里」の地名は、1935年に広島村の字名を整理改称した際、「北の里」「南の里」に「東の里」と共に新たに起こされた字名である。それは、取りも直さずに広島開墾地の1894年に成立した広島村の中心集落としての順調な拡張に、村内四方に集落をともなった農地開発の進展していたことを示している。「西の里」は、それまでの字名、野幌と下野幌を併せた地区への付名であった。

野津幌官林と呼ばれた原生林が広がっていた野幌丘陵の現西の里地域への最初の入植は、そこがまだ月寒村域に属していた1889年のことで、現在の上野幌駅近く野津幌川沿いの山根橋あたりとされている。この頃、野幌丘陵を越えて長沼低地側と札幌開拓使を結ぶ道路は1873年6月に開通した札幌本道しかなく、月寒村内は島松から輪厚・大曲の経路であったから、ここでは交通路・輸送路としての川筋が選ばれたのは当然と云えよう。
一方、1884年以来に中丿沢原野で進められた広島団体による開墾は、稲作の成功に入植者の1000人に迫ろうと云う模範的開墾地となって、これの優遇されたものか、1890年に現中の沢付近から丘陵の東西稜線に沿って直接に札幌開拓使に至る札幌道路が開削されたのだった。これが後に広島街道と呼ばれた現在の国道274号線である。
この道路は現西の里地域を横断したゆえ、そこへの入植は以降に本格化し、広島村成立後には100戸ほどの入植が進んだと「広島村史」(1960年広島村)は記述する。なるほど、「風雪百年-西の里郷土史」(2000年西の里開基百年記念事業実行委員会)に所載の1900年代初頭頃とされる開拓者分布図を眺めれば、札幌道路沿いと野津幌川の低湿地に入植者の名がずらりと並ぶのが見て取れる。
丘陵地ゆえに水利や低温、強風など営農の労苦は尽きなかったに違いないが、物流の交通路を持ち得たことで入植は促進され、広島開墾から続く定住の進んだ沿道には千歳・恵庭方面からの荷馬車も多くは札幌本道ではなく、この道路を通行したと云う。それが商店や茶屋を呼び込む好循環を生んだとも記録には読める。

だいぶ遅れて野幌丘陵を越えたのが、1926年8月21日開業と記録される北海道鉄道(2代)の札幌線であった。広島開墾地への人口集積に、此の鉄道は島松から北上してそこに北広島停車場を開き、左転してまもなくに野幌丘陵に取り付くのだが、札幌道路とともに急坂を上る訳には往かず、その南方で丘陵南北稜線の鞍部を隧道を掘削すること無く越え野津幌川左岸を下る経路を選んでいた。道路沿いに開墾が進んでいたとは云え、その背後にはまだまだ原生林が続いていたから、それを切り開いての建設であった。西の里の開墾区域と標高差30メートル程の原生林内の通過にはそこに停車場を持つことは無く、以来国有鉄道千歳線を経ての現在まで西の里は鉄道の通過しながら、それとは無縁の地区である。
早くに開通した道路により成長して来た地域なのだが、札幌圏の拡張にともなう農地を転用しての宅地化は、1973年に上野幌停車場の移転した札幌市厚別区側に見られる程度であり、それも1990年代に至ってようやくのことであった。せっかくに設置しながら遊休化している西の里信号場は存在するものの、周辺に開発用地を持つでもない北海道旅客鉄道にこれを旅客駅化するインセンティブは働きそうに無い。

千歳新線が切通しで通過する施工基面高63M00の最高点をR=1000M曲線で左転して往く8001列車。新緑が照り返す。
画角としての既出はご容赦願いたい。此処では、電車線の被らぬ位置まで切通しを降りるのを定番にしていた。
10パーミル勾配を力行してきた2台の機関車は農場橋の真下でノッチオフする。電車列車に互するとまでは云い難いが、それに追い着かれまいとする走りだった。
ところで、近年この位置に「西の里」と進行方向の信号場名を記した標識が建植された。実を云うと、これが何と呼ばれる標識なのか旧い鉄道屋は知らない。停車場接近標識なら橙黄色の矩形板に対角線方向の黒色線のはずで、何より場内信号機の設置されない停車場への標識である。けれど、同停車場場内信号機から外方600メートル位置は代用閉塞施行に備えての設備とも推定され、ならばこれも停車場接近標識として良いのだろうか。正解をご存知の識者のおられれば教えを請いたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f4 PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

木古内 (海峡線) 2008

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何度か通過したことのある過日の木古内構内の様子は、配線略図が手元に在って知れるのだが、江差・松前線列車の分割併合の僅かな合間に眺めただけには、実見の記憶はあまり定かでない。駅本屋に接した乗降場が不自然な程に幅の取られていたのと、幾本もの側線を擁した構内が印象に残る程度である。入場券を求めて窓口まで訪ね、アルミ製となっていた建て付けの悪い入口引き戸を抜けて駅前広場に出たのは覚えているが、肝心の本屋の記憶が無い。Webを手繰って写真を探し出してみれば、これと云った特徴の見られぬ安普請な姿には無理も無いと云うものだ。
略図に見る、本屋に接する1番線と島式乗降場を挟む2・3番線の配線は、3番だけが江差線としか繋がっていない。この当時のダイヤで木古内-江差間列車は始発・終着の1往復だけだったから、主には日中の函館との区間列車の折り返しに専用されたことだろう。大半だった江差方面と松前方面の併結列車は1・2番線に着発したことになる。
余談になるが、ここでの併結順位は、下りが松前行き前併結で、上りは江差発が後併結に統一されていた(上下は海峡線を基準に改められた現在とは逆である)。つまりは松前からの編成なら函館で折返して、今度は江差行きとなる循環運用が組まれており、運用距離を平準化する工夫だったと思う。
この当時にも、廃止された函館機関区木古内支区の検修庫が残され、数両の気動車が仕業を待っていたのは覚えている。

側線の並ぶ構内は1930年10月25日の開駅当時に、木古内が林業の拠点だったゆえである。構内北側には製材工場が進出し、檜山南端の山林から切り出された木材は構内に隣接する土場に集積、製材となって貨車積みされたのだった。木材とは勿論に「檜山」の由来ともなった原生林のヒノキであり、また戦後には拡大造林政策下にて急増したスギでも在った。和人の移住・定住が早かったこの地域で内地から持ち込まれたスギの造林は1800年代初頭までには始まっており、現在にも木古内町・知内町・福島町・松前町の人工林蓄積量は、スギが道内での主要な造林樹であるトドマツを上回っている。
1988年の海峡線開業に合わせての乗降場増設や青函トンネル関連の救援基地設置は、国内林業の衰退にトラック輸送への転移進展に遊休化していたこれら貨物設備や機関区用地を活用してのことであり、新幹線駅舎建設も同用地を転用してのことである。

木古内へ接続する海峡線には、駅手前に将来の新幹線線路との分岐を予定した線形が用意されていた。新幹線設備も建設された今、この分岐点は何と呼ばれるのだろう。運転上には新在ともに木古内の場内扱いであろうから、敢えて付名の必要はないのかもしれない。
その分岐線形を高架から降りてR=600の反向曲線で木古内構内へ向かうのは3099列車(現ダイヤでは99列車)。福岡タから遥々とした行路である。奥羽本線の矢立峠で待てば<あけぼの>の露払いのようにやって来た列車だが、ここでは夕空を背景に下り来る。
日本貨物鉄道が新製したED79 50番台のパノラミックウィンドウが5度傾斜した前頭形状は、ED93に貫通路を追設したED77901を思わせ、改造図面を使い回したような輪廻を面白く思ったものだった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

上野幌 (千歳線) 1996

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手稲に暮らした頃、広島街道は親父の運転する大衆車パブリカでの日曜ドライヴのルートだった。なので、野幌丘陵を越えるところの広島村西ノ里椴山(とどやま)の地名は承知していた。既に農地の開かれていたとは云え、種畜牧場が目印だった現在の西の里交差点を右に折れて馬鈴薯農場を目指せば背の高いトドマツの連なる原生林も残されて、なるほど椴山の所以と納得したものだった。後に、道内には幾つかの椴山地名が存在すると知るが、いずれもトドマツがその由来である。よって、これは和名には違いない。
以来に「椴」はトドマツの椴と理解していたのだけれど、ずっと後になって仕事でご一緒した「もみやま」さんの名刺には、確かに「椴山」と在って「樅山」のミスプリントではないのかと他人事ながら悩んだことがある。どうやら、名字としての「もみやま」には、その双方が存在するらしいと知った切っ掛けであった。そして、今のところ椴山と書く「とどやま」さんには出会っていない。これは地名だけのこと、しかも道内に限られるようだ。

モミ、樅の木と云えばクリスマスツリーを想起しようが、マツ科モミ属に属するこの樹木の国内における自生地域は秋田県を北限に屋久島にまで至り、照葉樹林帯にて広葉樹と共に森林を形成するなど決して北方の植生とは云えない。モミの密生する斜面、即ち樅山は本州から九州に至るまで随所に存在したのである。
対してのトドマツはマツ科の樹木には違いないが、マツ属では無くこれもモミ属に分類され、北海道以北にしか自生していない(太古の昔には奥羽地域にも自生の痕跡がある)。トドマツの名は先住民族によるトトロップに由来し、トトだけを頂いて枝が一段ずつ輪生する特性から、木に段を当てて「トト(トド)」と読ませたものらしい。「マツ」は葉形が日本人に親しい松の木に近似したところからであろう。椴松も椴山も和人がアイヌモシリに進出して以降の近世の発生には違いない。
解らぬのは、それがどうして「もみやま」と読む名字に転化したか、である。勿論、それには樅山と書く事例も存在する。先の椴山さんは愛知県の生まれで、一族に北海道居住経験者は居ないと云っていた。これが氏や姓のはずは無いから、ついぞ近代の『平民苗字必称義務令』(1875年2月13日太政官布告第22号)による名乗り姓、所謂明治新姓である。これだけ全国に広まるには、その近辺で椴=モミの木とする一大プロモウション、あるいは正反対の大誤解が在ったと思うのだが、どなたかご存知あるまいか。

北広島市道椴山大曲線の農場橋(繰返すけれど決して「農事橋」では無い)の架かる椴山の切通し区間には、本当に幾度も通った。上りの本州連絡特急寝台列車を押さえるならば日没の制約があったから尚更である。上野幌方のR=800M曲線を見通せば、陽の高い季節なら2や6004、秋から春先なら8002が斜め後方からの低い斜光線を旋回した。
編成を架線柱の間に収められたこの唯一無二、ピンポイントのカメラ位置には、手前の樹木が成長して立てなくなってしまった。それをクリアしようと法面の高度を上げると、今度は架線が被って邪魔をする。
幸に3月までなら葉も落ちていよう。新参の俄鉄道写真愛好家諸氏には努努、無断で伐採などお考え召されるな。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500@f8  Fuji SC40M filter KR Edit by LightroomCC on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1995

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写万部山の南斜面を水源にオタモイ山を巻くように流れて噴火湾に注ぐ小河川がオタモイ川である。現在、旧旭浜信号場の先で線路と直行するそれは、両岸ばかりか川底もコンクリートで固められた直線の水路そのものに見える。
それもそのはずで、オタモイ川は1950年代に進められた静狩原野の農地化、即ち泥炭地の乾燥化に際して右オタモイ川や左オタモイ川にナイベコシナイ川などの支川と共に排水路に用いられ、開発道路に併行した上記の区間はその際に掘削された放水路なのである。
かつての静狩原野とは長万部川から静狩川まで沿岸に10キロあまりに続く、総面積の600から800ヘクタールと云われる高層湿原であった。このあたり、静狩 (室蘭本線) 2010 に書いている。
ここへ流れ出たオタモイ川は蛇行しつつ海岸線を目指すものの、そこの砂丘に阻まれて旧旭浜信号場裏手から現在の10号農道付近まで2キロほどの長さに沼地を形成した上で、これも煩雑な蛇行を繰りながら西流し、やがては長万部川の河口付近まで達していたのだった。

そして、1923年12月10日に長万部から静狩までを開通した長輪線は、起点2キロから3キロ間の反向曲線の途中でオタモイ川に架橋していた。先の記事で、この反向曲線を「湿原を避けて海岸寄りに進路を遷移するための線形」と書いたが、正しくは静狩側から湿原の只中を回避し海岸寄りを進んだ線路が、オタモイ川の流路に往くてを阻まれ、これを渡河するために選ばれた線形とすべきだろう。
室蘭本線と改められ複線化された現在にも残る線形であり、この付近も泥炭地の農地化は進んだのけれど橋梁前後の流路だけは手つかずで残されている。静狩湿原の太古の姿は、中心部の6ヘクタール程度を残すのみとされているけれど、これも加えて良さそうに見える。湿原水位の低下に狭められたとは云え、低湿地に蛇行を繰返す原始河川の姿である。

この反向曲線を通過する本州からの下り寝台特急群に対し、3月と10月半ばの数日間だけ最良の光線が得られたとは以前の記事 長万部 (室蘭本線) 2003 に書いた。
10月の半ばと云うのは道南地域の紅葉黄葉には少しばかり早く、かといって常紋の峠あたりは盛を過ぎる中途半端な時期ゆえ、ここでの渡道は結局、長万部への連泊となっていた。それでもコンテに描いたような光線に出会えたのは数える程も無かった。
写真は、この情景をポジで撮り始めた頃の習作。日出方位が100度を越える10月21日はタイミングとしては、やはり少しばかり遅いのである。それとカメラ位置が高過ぎて、同じく光線を受ける通信線柱が目立ってしまった。列車は6時37分の通過だった6003列車<北斗星3号>。
試用してみたPanther100(PRP)は、FujiのVelviaに対抗したフィルムだけあって、こんな光線に使うと色乗りが執拗に過ぎた。

さて、ここに残されたオタモイ川旧流路が現在に何と呼ばれるものか。長万部川放水路建設にて分断され、しかもそこで水門にて仕切られてしまった、か細い水流には北海道開発局の資料に準用河川としての記載も無かった。長万部川水系にも現オタモイ川水系にも属さぬそれは、おそらくは河川に扱われていないのだろう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@8 NON filter PRP Edit by PhotoshopCC on Mac.

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