"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

礼文-大岸 (室蘭本線) 1996

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国有鉄道における線路等級には、「国有鉄道建設規程」(1929年7月15日鉄道省令第2号)の第二条に定められた[甲・乙・丙線]の区分と、国鉄の内部統制である「線路管理規程」(1964年4月1日総裁達第179号)に示された[1・2・3・4級線]の区分けが併存していたことはご承知と思う。文字通りに、前者は鉄道の建設や改良において、その線路の重要度に応じて投資の合理化を図るべく導入された制度であり、それの制定からの時間経過による輸送を巡る環境や情勢の変化に応じて、線路の構造や規格を見直した結果が後者である(*1)。
国有鉄道建設規程は、勿論に1987年4月1日付を以て廃止となったのだが、線路管理規程の方は国鉄の承継各社に引継がれて、その各区分は現在にも生きており、それに基づいて定められた「線路基本構造基準規程」に「軌道構造基準規程」などの国鉄当時の基準も基本的には受け継がれているものと思われる。これら線路や軌道構造を定めるとは、日常の保守においてその基準を維持することであり、正に管理の規程たる所以である。
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(*1) 線路管理規程の制定以降に建設規程での等級は「線路種別」と区別されることが多々在ったが、この規程条文に「等級」「種別」の言葉は共に現れない。

線路管理規程第3条第2項に基づいての「線路区間別線路等級表」は1966年3月30日付にて定められた。これの合理的であったのは同一名称線区でも区間を区切った点にあり、線区事情に柔軟に応じたことであった。この際には、東海道・山陽本線は勿論のこと、東北本線の全線や常磐線の水戸まで、鹿児島本線の門司-久留米間などが1級線とされ、山線区間を除いた函館本線、上越線、中央本線などが2級線、道内で云えば宗谷本線や石北本線が3級線と定められたのだった。出自の簡易線など地域交通線の大半は言わずもがな4級線へと組み入れられた。
これの大幅な見直しの行われたのは制定から20年を経た1984年2月1日のダイヤ改正に関連してのことであった。ヤード系貨物輸送からの撤退により列車回数が激減したのだから当然と云えよう。これにより、道内貨物輸送の最重要幹線として全線が2級線に位置づけられていた室蘭本線は、長万部-洞爺間と沼ノ端-岩見沢間が3級線へと格下げられていた。函館本線の函館-長万部間も同様であり、函館-札幌間経路は洞爺を境に2級線と3級線に分たれたのだが、それはあくまで標準通過トン数ベースのことであり、青函継送の優等列車が疾駆する中では高性能列車の最高運転速度が規程本来に押さえられたでは無く、最大軸重も18tを維持する保守の行われたのだった。

礼文浜トンネルを抜けて新達古武トンネルを伺うのは、キハ281系列による5009D<スーパー北斗9号>。
1992年に試作され、1994年3月改正より営業に投入された、この北海道旅客鉄道による意欲的な系列は函札間を2時間59分で走破し、当時の電車列車を凌ぐ表定速度を実現したのだった。同社がその運転区間の線路等級を如何に定めていたかは公表のされなくなり知り得ないのだが、通しで確保された最高速度130km/hは、1級線の基準たる120km/hを上回るものだった。
一方で、昨今には優等列車の新幹線に移行した線区・区間にて再び線路等級降格の動きがあり、今度は規定どおりに最高運転速度の低下を伴っている。即ちは、軌道破壊の抑制による保守経費の低下を念頭にした措置で、優等列車の退避の無くなったはずの快速・普通列車が従来と同じか、より低下した表定速度で走っている。何やら、利用者を小馬鹿にした施策に思えてならない。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/1000@f8 Fuji SC-52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落部 (函館本線) 1996

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太古の昔から成層火山への成長と山体崩壊を繰返していたとされるその山は、約5000年と云われる永い休止期を経た1640年7月31日(旧暦6月13日)の大噴火にても山頂部の大崩落を生じ、荒々しい山容を見せていたのである。これを目にした和人は、先住民族のカヤウンペシュヌプリを知ってか知らずか、その奥に広がる閉鎖水域を古式どおりに内浦(内裏)とし、湾口のこの噴煙の火山を「山」では無く「岳」と見取って「内浦嶽」と名付けたのである。
その時代には「ヲシロナイノノポリ」との記録もあるのだが(1807年東蝦夷屏風)、これはアイヌ民族の呼び名では無く、和人が聞き覚えでそれ風に呼称したものではなかろうか。アイヌはその源流の山を河川と同名としたけれど、尾白内川のそれは西を向いている。
内浦嶽が「駒ケ岳」とされるのは、そのアイヌ民族の口碑伝説に由来との説もあるけれど、それも含めて前記の山体崩壊で生じた剣ケ峰から続く緩やかな稜線が「馬ノ背」と呼ばれるようになっての発想には違いない。1845年にこれに登頂した松浦武四郎は「東蝦夷日誌」の挿絵に「内浦駒ケ岳之図」と記し、その呼称が使われ始めていたことが知れる。おそらくは19世紀始め頃からではあるまいか。本州島内にも所在した山名の転用であったから、近代にはそれと区別して北海道駒ケ岳と呼ばれるようになった。

落部に降りるのは湾岸をかすめる鉄道に駒ケ岳を背景とするためであり、それは石倉方でも野田生方でも叶えられたのだが、後者には些か悩むところとなっていた。
周知のとおり、そこでは1960年代に造成された現在の国道5号線沿い東野の駐車場からの眺望が定番位置である。絵画的過ぎる嫌いも在るけれど、線路が第三落部トンネルで抜ける川向の段丘の張出しと駒ケ岳の重なりは最も均衡の取れ、それも頷ける。
しかしながら、1980年半ばに肝心の線路山側の一部区間に通信線柱が建植されると、画角にはそれが編成に引っ掛かることになった。複線の線路を横断する電気運転設備ともなれば諦めもつくのだが、本州からの寝台列車の重連の機関車をその柱間に無理矢理に収めにかかると、困ったことに山影とのバランスがどうにも座りの悪く、何とも中途半端で様にならないのである。駒ケ岳を背景にしてはそれの撮れない立ち位置には、機関車1台牽引だった<カートレイン>や<夢空間>列車を、何故にここで撮っておかなかったものかと悔やむ。

この画角の困難は、ここを訪れる多くの撮影者が山影の遠望の可否に関わらず、第三落部トンネル出口付近に画角を採る所以でもあろうが、それをリピートするのも悔しいので、もっと引きつけた位置で何とか通信線柱をクリアする。列車は5列車<北斗星5号>である。
駒ケ岳を記事にしておいて、それを外したカットはお詫びする他ない。機関車が1台の貨物列車とし、且つ露出を落として柱の目立たぬようにした習作カットなら 落部 (函館本線) 2011 に在る。

余談ながら、その東野の駐車場用地は1966年から行われた函館本線の線増工事に際して置かれた工事用ヤードを転用したものである。掘削土砂はインクラインでここまで巻揚げられた。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6 Fuji SC-52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1996

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都市が、その外縁に向けて成長を続けるのは今に始まったことでは無い。高度成長期の三大都市圏や地方中核都市に顕著であったそれは、1970年代を通じて地方の中小都市にも波及した。近年には地域の総人口は減少しているにかかわらず、そこの経済の中心への人口集中化が進む。
それは他地域からの人口流入のみならず中心市街地からの移動をもともない、都市近郊の農地などが住宅地に転換されて往くのだが、とりわけ北海道においては、人の居住を拒んで来たような原野が一面に姿を替えて驚かされることがある。稚内市の東部や苫小牧市の沼ノ端地区、釧路市の行政境界を越えての釧路町域西部もこれの一例であろう。
周知の通り、この外縁膨張は、一方で既存市街地中心部の人口過疎化の要因でもある。大都市圏であれば、その資本集積により業務地域や商業地が代替して都市機能の充実の図られもしたが、地方都市にあっては商圏人口の限界から商業地もまた郊外に分散して、そこの空洞化が劇的に進行した。
加えて、広大で移動の時間的距離も大きい道内においては、地域内において多くの無人地帯を出現させることにもなった。中心都市の拡大と同地域での過疎進行は、同じ現象の表裏である。

都市外縁部で無秩序に開発の進んでもたらされる都市側の諸問題に限れば、それの波及の遅かった道内の地方都市では時間的猶予から対策の有効に作用した事例が多々あり、ここ伊達市をもそのひとつであろう。
委細は省くが、1970年代初頭に弄月川西側に留まっていた市街地を越えて舟岡町側への町営団地建設を契機に、1976年度より弄月町を含む同地区における土地区画整理事業に着手し、街路に学校や公園用地を確保しつつ行政主導の都市計画として開発を推進した結果、良好な住環境の住宅地が生まれ、都市規模的に既存市街地近くに残っていた農地を転用して核となる商業施設の誘致にも成功し、それは旧市街と新市街のほぼ中間付近に位置することになった。
1970年に3万人台に到達以来、2004年に3万5千人あまりを記録した伊達市人口は以降に減少に転じたものの、2012年度末でも34993人(住民基本台帳による ※旧大滝村域を除く)を維持して、舟岡町・弄月町はその25%に当たる8780人の居住する一大住宅地となっている。また、同市の推進する内地や道内各地からの移住・定住の受け皿宅地としても実績を挙げている様子である。
この地域の比較的若い世代の多い人口構成を背景に、北舟岡は室蘭方面高校への通学駅として利用を伸ばしている。朝の時間帯にはここへの自家用車での送りに一時の賑わいを見せるのだが、通勤や昼間の用務利用にまで至らないのは、国道を往くバスに比しても少な過ぎる列車頻度であろうか。

短い夏の名残の頃、噴火湾の風と空に季節は傾く。
列車は、8002<トワイライトエクスブレス>。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC40M filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1996

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東室蘭(当時には輪西)が現在位置に置かれたのは、長輪東線が伊達紋別までを開通した1925年8月20日のことで、それの室蘭本線からの分岐に際して岩見沢方に移転したものであった。室蘭は既に市制を施行(*1)していたけれど、旧塵別村(*2)村域で、かつて開墾の屯田兵が中島台と名付けた一帯を当時の絵図に眺めれば、中嶋神社の高台周辺に商業学校と小集落らしきが描かれるものの、現在の東町あたりは馬市場に屠場、火葬場の点在する程度の海岸湿原の続いていたと見て取れる(*3)。
そのような原野に直線に敷かれていた線路上に新設の分岐停車場は、現在の東口側に駅本屋と駅前広場を置いて開駅した。そこには線路に併行して札幌本道(*4)が通じていたから当然の選択ではある。
この地域には、やがて輪西町と連続して製鉄所の社宅街が開かれ、アジア太平洋戦争戦時下に至る頃までには一般の住戸も市街地を形成して行ったものと思う。

1970年代初頭にここへ初めて降り立った時も、確かに駅は住宅街に囲まれて所在していた。東口も西口も駅前には商店こそ開かれていたけれど、商店街を形成するでなく、住宅地の一角であった。
この状況は、西口駅前通り周辺に業務区域が形成され、チリベツ川を越えて商業地らしきものが成立した現在でも基本的に変わっておらず、特に東口側にはその感が強い。
室蘭本線の主要駅ではあるが、旅客流動は各方面への乗換えに限られ、主には室蘭方面への貨物列車中継、貨車操配の拠点として機能を担い、周辺市街地との関連の希薄であったゆえ当然ではある。それでも、宅地化の進まなかった西側に街路の整備されつつあった戦後には、小規模な西口駅舎が置かれ、1970年6月に至っての橋上駅化はそこの業務地区としての発展を背景に、東口(既存本屋)側にも配慮した選択であろう。
永らく貨物フロントに使われた東口の駅舎は、この際に橋上本屋に吸収しきれない機能の事務所棟として旧本屋跡に建設されたものである。駅としては余りに愛想のない建築はそれゆえであったが、貨物拠点としてのこの駅の性格を期せずして体現していたとも云えよう。

ご承知のとおり、ここには旧本屋位置に接して1番線ホームが存在した。これの旅客扱いへの稼働に調べを入れてみたのだが、資料に乏しく分からなかった。設置は開駅時、使用停止を1940年度に着工して1944年度に竣功した鷲別地区への操車場施設建設関連の構内拡張工事の完了時と推定するものの、鉄道省資料は操車場工事に触れても本駅側での詳細は記録していないのである。当時には室蘭までを往復したガソリン動車の発着したことだろう。
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(*1) 1922年8月1日付
(*2) 室蘭港実地絵図 1902年 による。知利別とはされていない。
(*3) 室蘭市図絵 1927年/ 工都室蘭 1934年 による。
(*4) 当時には國道28号「東京市より第七師団司令部所在地(旭川)に至る路線」であった。現国道36号線。

東室蘭構内下り方の全景。1番ホームも原型にて健在な頃である。
列車は、4097列車。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopLR4 on Mac.

苗穂 (函館本線) 1996

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苗穂 (函館本線) 1989 の続きである。

札幌から苗穂への高架橋と斜路の建設用地は、札幌停車場の高架設備が主に旧札幌客貨車区用地を利用したゆえ既設線群の北側に求められ、その工事期間を通じてこの区間の5本の線路は維持された。南側構内側線は北海道瓦斯への専用線機能を擁したし、北側線は苗穂機関区との回送線として欠かせなかったためである。
琴似から苗穂までの高架線は1988年11月3日より使用を開始し、ここは本線4線の複々線区間となった。11月2日夜からの苗穂構内での線路切替工事は翌始発までの完了に約800名の作業員が動員されるものであった。
苗穂運転所の出入区線と工場線は、各線間の渡り線で上り外側線まで進出可能な位置にて下り外側線への接続とされた。

古くは停車場設置以前の札幌の構外貨物扱い施設に始まって、鉄道工場用地に機関庫や貨車検修施設の移設、近年では貨物扱いの吸収に荷物関連施設の移転と、広い構内を、その時々に本来札幌が担うべき機能の代替に隣接駅として努めて来たのが苗穂駅と言える。
1994年11月1日に実施の札幌圏輸送改善では、札幌駅の上り方留置線を桑園まで延長して、これを函館本線下り線とし既設の下り線を札沼線列車運転線とする桑園-札幌間の3線運転化にともない、これにて不足する札幌での列車留置線を苗穂構内に求めて、小樽方面行き乗降場を駅本屋側の旧操配線を整理して移設し、その跡地に2線の留置線の設置がなされた。この移設乗降場は最長でも6両組成の停車列車にホーム有効長は156メートルと短いものとなっている。この留置線の使用は10月1日より開始され、同日付でもこれにともなうダイヤ修正が行われた。

牛舎由来のマンサード屋根こそ持たないものの、中規模な北海道型駅舎の典型と云って良い駅本屋は、建物財産票によれば1935年10月の登録となっている。それは国有鉄道固定財産管理規程に定めた固定財産保管簿への記載であって必ずしも建築年とは必ずしも一致しないのだが、鉄道省年報にはこの年から翌年に貨物施設の増強工事が行われたとある。(駅本屋には触れられていない)
1925年8月にここへ乗入れた北海道鉄道(2代)は、その接続方向から構内南側に乗降場を設置したと考えられる。開通当時の同札幌線は機関車牽引による混合列車だったから、行き止まり式の乗降場ではなく、機回線も付帯した設備を要し、苗穂機関庫未開設につき転車台も設置されたと思われる。
それが1935年の貨物設備増強工事に支障し、乗降場を東寄りに移設の上でそれに面して駅本屋を建替えたのではなかろうか。現状で明らかに乗降場の上に建築された実態にも説明がつけば、1948年の米軍による空中写真にも駅本屋に接しての乗降場が確かに見て取れる。その乗降場を本屋土台部を残して取り壊し、貨物側線に転用した残滓が現況と思われ、1960年頃の実見でも既にこの様相だったと記憶する。1957年までここに出入りしていた定山渓鉄道の電車は、その向かい側に設けた行き止まりのホームに着発していた。
現在の乗降場番号付番の3番から6番ホームを以て、かつての1番2番ホームがそこに存在したゆえとする説があるが、確証は無い。1965年の島式乗降場増設以降に、苗穂駅の本線/副本線であった1番線から7番線で乗降場に面したのも3番から6番だったのである。1・2番線は上りの、7番線は上下の貨物列車の着発に使われた。1番線の本屋側には貨物操配線が2線在った。
94年の小樽方面行きホームの移設に際しては、旅客に浸透した3・4番付番を継承したものである。
(この項 苗穂 (函館本線) 1990 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

札幌からの斜路を駆け下りて苗穂場内に進入した2列車<北斗星2号>。
これは立体交差事業の完成で可能になった画角である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor ED300mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopCS3 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1996

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エントモ岬は、噴火湾へのほんの小さな突起に過ぎない。
けれど、長和側から眺めると後背に長く続く台地の張出しと見て取れ、五万分の一地形図の虻田/伊達図幅を開けば、そこの流山地形から7〜8千年前と推定される有珠山の山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの到達した東端と知れる。

国道37号線からその先端へは緩やかな傾斜で、古くから道路の付けられていて、それを辿ると岬上部を回るようにして長和側に降りられた。
そこには小さな港湾施設が造られていたのだけれど、ここで船舶は疎かボートの類いすら目にしたことはない。近隣の北海道電力伊達発電所は計画当初にその燃料輸送を小型タンカーによる海上輸送としていたようで、それに関連して先行着工されたものの、室蘭からのパイプライン送油の採用にて放棄されたものだろうか。岬の沖合海上に突き出した構築物とともにここでの謎である。
道路は、これの築造に際しての資材輸送路として整備されたものと思われ、現在ではこれも放棄されて岬上にて途切れる。

岬の有珠側、柴田踏切での定番なら、やはり有珠-長和 (室蘭本線) 1994の画角となるのかも知れないけれど、上り列車に限られて、下りには近くの農家の庭先を横切って台地上への細道を往くことになる。

写真は、柴田踏切へと差し掛かる8007列車<エルム>。有珠-長和 (室蘭本線) 1995と同一位置からの撮影である。
<エルム>は、この頃になると各季節臨期での設定も減り、長大編成も見られなくなっていた。
ピークの90年度に上下で339本あった運転は、96年度では52本に過ぎない。(共に団臨運転を含まず)

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6 C-PL filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

落部 (函館本線) 1996

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函館市内/近郊を中心として渡島半島一円へ路線網を持つ函館バス株式会社に、郊外路線の函館・長万部線がある。
函館バスセンター-長万部ターミナル間で、始終点側の一部を除いて国道5号線上を運行し、約3時間の所要時分に路線延長111.8キロは一般乗合路線では長距離の部類であろう。その運行距離ゆえかJTB版の時刻表で、同じく函館バスによる長万部・瀬棚線/函館・松前線と共に長距離バスのページに記載されるが、都市間高速バスではなく、路線上に設置された停留所すべてに停車する、言わば各停運転である。
余談ながら、長万部・瀬棚線は国鉄瀬棚線の廃止による代替バスであり、同線の駅に準拠した停留所のみに停車する。函館・松前線は、<松前号>を名乗る快速運行だけれど、函館バスはこれを都市間バスとしていない。また、現在の同社の最長距離路線は函館・北檜山線の快速<瀬棚号>だが、これはJTB版の時刻表に不掲載である。

1966年の開設と言うこの函館・長万部線を、函館本線上の撮影ポイントへの移動に利用するようになったのは、1972年からで、当時6往復と記憶するその運行は、函館線普通列車の合間を縫う設定も在り、なによりポイント至近での乗降に利便性を見いだしてのことであった。加えて、路線バスとあれば夜行列車で撮影地を転戦するばかりの中で「旅気分」を味わえるのが気に入っていたのである。
自由乗降では無いゆえ乗車は停留所に限られたけれど、申し出れば希望場所での下車に便宜を図ってももらえた。
長距離便とあってか、当時より永らく、おそらくは旧観光バス仕様車の転用と思われる車両にて運行されていたが、その後に一般乗合仕様車の運用に変更されている。
近年では利用の不振から4往復運行とされ、いささか利用チャンスは減ってしまった。

ところで、この路線に限らぬが北海道ルーラル地域でのバス利用の難点に早発があった。法定速度以下での運行ながら乗降のないゆえの通過停留所が多く、早発気味となるのを幾度も経験した。かと言って、特定の停留場で時刻調整するでも無く淡々と走るのである。乗車の際には、停留所へ遅くとも5分前には到達せねば安心出来なかった。

写真は、落部-野田生間の定番区間での8002列車<トワイライトエクスプレス>。
第三落部トンネルが通過している海岸段丘上部から撮っている。ちょうど落部 (函館本線) 1988のポイントから牧草地を横切った反対側の位置である。

ここへの最寄り停留場は旭丘。バスを降りて10分以内に到達出来た。
旭丘は、ここより段丘上の奥に存在する集落名を取っている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f4 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

姫川 (函館本線) 1996

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姫川から徒歩で10分程で到達する、函館桟橋起点43K500M付近の半径301メートルで時計回りに展開する急曲線は、そこに立てば背景に駒ヶ岳を捉えられるポイントである。
東山を過ぎて連続する、谷間を往くようなR300曲線群に在ってインカーブ側が開けており、広めの画角を用いて長大編成もそれに収めることが出来た。アウト側からだと、丁度カーブの向こう側に駒ヶ岳の山体を見るのだが、樹林帯が迫っていて引きが取れぬゆえ諦めていた。

ところが、93年頃であったろうか、この樹林帯が伐採され、その緩く傾斜した斜面に立てるようになったのだった。
急曲線区間をやや俯瞰気味に見て、機関車をカーブ手前に置ける早朝の寝台特急群の撮影には最適のポイントの出現であった。ただし、1/8001/3(6003)列車はここを5時台の通過となって、撮影は4月半ばからせいぜい9月初めまでに限定された。

以後、毎年にその時期を選んで訪れたものだけれど、伐採地の常で、そこに植林された杉の幼木の成長は驚く程で、早くも95年には肩の高さに、96年には脚立を持ち込まざるを得ない程になり、ほどなく撮影は不可能となった。ほんの数年間だけ存在した幻のポイントと言って良い。
写真は5月中旬の撮影だが、霧雨に近い雨天下とあって光量は走行撮影の限界に近く、Tri-XをISO640に増感している。けれど、このイメージは降水があってこそだ。
列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。

余談になるけれど、このような早朝撮影には現地への前泊を要するのだが、ここではポイントの至近に、僅か100メートル程のところに宿泊施設が在った。
The Rolling Stonesのかの名曲‘Memory Motel’やDelany&Bonnieのアルバム“Motel Shot”に登場するMotelでは無くて、極めて日本的なモーテル式ホテルなのだけれど、そのロケーションは比類が無い。この種の施設の所謂「目的外使用」であるが、度々利用させてもらっていた。
ダブルルームのシングルユース設定など在ろうはずも無く、「目的外」にしては、その宿泊料金は高くつくのだが、森市街地からのタクシー利用を勘案すれば賄える。
予想される「騒音」に関しても連日の疲労にて爆睡するゆえ心配は無く、透明の湯船に多少躊躇する以外はレイルサイドの快適な宿舎ではあった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f2.8 Fuji SC37filter Tri-X(ISO640) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

森 (函館本線) 1996

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アメダス - 良く知られた気象庁の持つ「地域気象観測システム」の通称である。
全国に1311箇所の無人観測施設が置かれ、気温/降水量/日照時間/風向・風速の気象の4要素に(地点によって)積雪深を観測している。これらの観測要素は設置地点により異なり、八つの組合せパターンがある。
個々の観測施設は、設置地点の地点名にて呼称されている。
その地点毎の観測データは様々なルートで公表され、インターネット上でリアルタイムに読めることは、とっくにご承知と思う。

予報ではなく、一種の過去データになるけれども、撮影行動に多々活用させてもらっている。
気温の過去データは事前に装備を決定する目安となるし、日照時間データを見て、リアルタイムに晴天の地域への転戦を決めたこともある。
さて、冬期間なら積雪深で現地の大体の状況が知れる訳だが、これの地点名「森」のデータが不可思議だった。
同「函館」や「北斗」よりも積雪の深いのは理解出来るが、「八雲」や「長万部」を上回る値を示すこともあれば、気温データも、より低温のケースが散見されたのである。
森の観測施設であれば、それは森の市街地ないし外縁に存在するものとばかり思い込んでいたのだが、ある時、ふと気がついてそれの所在地を調べて納得がいった。そこには茅部郡森町姫川とあった。森市街地に対して標高125メートルの地点である。近隣に姫川駅があるだけに、ならば「姫川」アメダスじゃないのか、と思うのは鉄道屋だからだろうか。
確かに森町所在に違いはないけれど、豊浦町大岸に設置の施設は「豊浦」アメダスとは言わない。そのまま設置地点名の「大岸」である。

森下り方の海沿い区間は、蒸機の時代から函館海線の定番ポイントのひとつだ。
ここでは、背景の駒ヶ岳と海面をどう取り込むかに考えあぐねた覚えが在る。どのレンズの画角でも一長一短があって難しいのだ。
最近では、300mmあたりで列車だけを切り取ってしまうのがトレンドらしい。それも悪くない。

弱い降水のあった5月の朝である。Tri-X filmを以てしても露出はかなり厳しい。
列車は、5列車<北斗星5号>。

[Data]NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f4 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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