"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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有珠-長和 (室蘭本線) 1995

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アルトリ岬は、地形図で確認し現地で眺める限りに陸繋島だろう。そして、標高27メートル余りの島の部分は7000年から8000年前と推定される、有珠成層火山の水蒸気爆発を引金にした山体崩壊にともなう岩屑なだれ、後に云う「善光寺岩屑なだれ」で運ばれた岩塊そのものである。
山体の岩盤は細かく破砕されることなく巨大な岩塊のままに崩落し、大量の土砂とともに押し流されて、その麓に幾つもの小山の連なる地形を形成した。それぞれの小山は学術的にも文字通り「流れ山」と呼ばれる。岩屑なだれは噴火湾にまで流れ込み、アルトリ岬とその先に見える岩礁も巨大岩石の一部であるから、もっとも遠くまで到達した岩塊と云えようか。ちなみに、以前にも書いたけれど、エントモ岬の成因も同様である。
その地質を調べると成層火山のどの部位を構成していた岩盤であるかが判別出来ると云うから、その方面の研究者達はとっくに承知なのだが、崩落のシミュレイションには意見の分かれるところであるらしい。

流山が幾つもの起伏を成す、この岩屑なだれによる堆積物は数十メートルの厚さにて入江川左岸から東は長流川付近にまで達しており、静狩に始まる山塊が噴火湾へと落込む急崖の区間を隧道の連続する10パーミルで上り下りしながら、ようやくに洞爺に達した室蘭本線は、この丘陵地の西崖を再び10パーミル勾配で上り、流れ山を縫ってエントモ岬へと下る線形を採っている。最近につとに高名な地点である起点45キロから46キロ付近の反向曲線を見下ろす立ち位置が流れ山そのものなことや、長和の水田地帯を俯瞰する畑作地の丘が岩屑雪崩の達した東端だと(但し、そこの急崖は長流川の浸食によるもの)、いったい如何ほどの撮影者が意識しているかは知らぬが、ここでの変化に富んだ画角やその立ち位置は、太古の有珠火山崩落の恩恵なのである。

流れ山の谷を下り海岸線へと達した列車は、8007列車<エルム>。
アルトリ岬の写り込むカットを探したのだけれど、これ以上の画角では撮っておらず、ご容赦いただきたい。海岸線を辿れば、その先がアルトリ岬である。
アルトリ(ar-utor)とは、本来にはこの海岸に対する先住民の呼称で、「向こう側」の意は現在の有珠海岸に対して岬の反対側の浜を指したものであろう。岬自体はイショキショキと呼ばれたと云うが、それは和名ではアリスイなるキツツキ科の鳥の名であり、樹木も無い(かつても無かったであろう)岬に、果たしてそれが生息していたものか。
画角右の丘陵地も岩屑なだれの到達先端ではあろうが、急崖の斜面は後の海食の結果と思う。
余談ながら、このアルトリ海岸は1988年に「恋人海岸」と命名され、その標識も建てられている。駅名まで変えてしまった三陸町の小石浜(→恋し浜)もそうだけれど、此の手の見え透いた地名変更は必ずや禍根を残す。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 FujiSC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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静狩 (室蘭本線) 1995

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1928年9月5日付の官報第509号に掲載された、それの全通にともない既設の長輪西線を1928年9月10日より長輪線と改めるとの告示(1928年9月5日鉄道省告示第183号)には、敢えて「長輪」に「おさわ」とのルビの振られている。停車場名には必須の記載ではあるが、線名には異例であった。この事実は長輪線の名称が建設線名として文書に著されて以来、その読みに混乱を生じていたことを意味して興味深い。

1919年2月の第41回帝国議会にて可決の『北海道鉄道敷設法中改正法』(1919年3月25日法律第21号)により同法第二条に規定の予定線に追加、同年4月1日付にて早くも北海道建設事務所の所管に組み入れられた長万部輪西間鉄道は(1919年3月31日鐵道院告示第16号)、建設線名を慣例に従って両停車場名からの一字ずつにて長輪線と付名され、やがては営業線名にも引継がれた。
アイヌ民族による o-samam-pet(オサマムペト)に長万部の当て字には「長」の「おさ」読みは自然とも思えるのだが、どうしたことか「ちょうりん」「ながわ」の読みが広まるに至ったのである。
その頃には地名の語源など多くには忘れ去られ、長万部の実際の発音である「おしゃ」も影響していようが、個人的な乏しい経験ながら、一定年齢以上の道民に尋ねれば大半が「ちょうりん」と覚えており、これに地域差のないのは、当時のマスコミ報道の何らかの誤謬に起因するものかもしれない。「ながわ」は長万部も輪西も遠い北国とする内地での読みにも思える。ちなみに「おさわ」との返答は聞いたことが無い。
先の官報での例外は、全通により全国的ネットワークに組み入れられるに際して、「おさわ」の正当の明確化を迫られてのことである。しかしながら、一度広まった誤りの修正は容易でなく、1931年4月1日付での室蘭本線編入は、その名称の消滅を図ったのが真相であろう。

これは現在にも尾を引いており、前記の官報告示を知ってか知らずか、鉄道省北海道建設事務所が1928年に発行した「長輪線建設概要」を収蔵する図書館でのそれの読みは、道立図書館が「ちょうりん」、北大に商科大の大学図書館が「ながわ」である。遠い昔のこととは云え当事者だったはずの鉄道部内からの記述にも、わざわざ「ちょうりん」とルビの振られるのに接したことさえある。

長輪線の長万部-静狩間は、1919年4月から測量に着手して7月に線路選定を終え、11月に着工に至った。大きな構築物は長万部川への架橋程度だった平坦線の僅か10キロ余りに1923年12月10日の開業まで4年もの工期を要したのは、静狩付近まで続いていた泥炭地(静狩原野)を避けて経路とした海側砂堆地と、静狩停車場の位置からその付近では避け得なかった泥炭地の地盤改良に手こずったゆえであった。
当時にそれに用いる土砂の現地調達が原則であり、現在まで国道37号線の静狩跨線橋付近から14号農道付近まで室蘭線海側に残る幅20メートル程の掘削地形は、その際の土砂採取地の痕跡である。主にはその位置の路盤安定に投入された。
写真は、静狩での定番ともなった静狩跨線橋から望む4061列車。
高さの在る視点の採れない長万部-静狩間では希少な位置なのだが、通信線柱が下り線際に移設された昨今には少しばかり窮屈になってしまった。画角の数度の既出をお詫びする。
画角左に土砂採取地跡が写り込む。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 FujiSC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1995

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アジア太平洋戦争末期の開設になる伊達舟岡信号場は分からぬが、同位置に1963年9月30日付にて再設置された北舟岡信号場は、現在で云うところの「一線スルー」型の配線であった。その当時に通過列車を分岐器による速度制限の無い直線側に振り向ける運転思想が存在したかは疑問だけれど、約2キロメートルに及ぶ直線区間に交換設備を置くとなれば、方開き分岐器の挿入は自然な設計には思える。この戦後の信号場は、おそらく戦中の伊達舟岡信号場の路盤を再利用したであろうから、それも「一線スルー」型であったと推定される。
三たび復活した現在の交換設備も、当然のごとくにかつての路盤上に設置され、気動車特急が直線側を130km/hで通過し、期せずして現代の高速運転に寄与している。

信号場の当時から、ここのランドマークは段丘上の畑作地際に生育した数本のポプラである。後背の傾斜地からの斜面が広大な農地に開発された中で、遥かエントモ岬から遠望する海岸線の中でもその位置を知らせてくれたものであった。
海側からの撮影でも、必ず画角に捉えられて良いアクセントになってくれる。

ここへの交換設備の再々設置を待って、信号場当時以来久しぶりに旧国道側から収穫を終えた畑作地を横切ってポプラまで到達した。奥から2本目のポプラに立てば、分岐器の位置がかつてと変わらぬことが知れた。
初冬の日出は遅く、この寝台特急の時間帯には未だに噴火湾は鉛色に沈み、遠く洞爺湖や有珠山から続く斜面のうっすらと積雪に霞んだ朝である。

列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。
ここへは、2003年を最期に立っていないけれど、車窓からでは植生の繁茂にて視界の取れなくなっているように見える。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 FujiSC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1995

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山手線渋谷のような大都市電車駅にせよ、高山本線打保のごとき山間の小駅にせよ、曲線上に存在する停車場には、それがゆえの独特の情緒が感ぜられる。直線のそれは機能が先に見えてしまうからだろうか。
鉄道にしてみれば、それは無いに越したことは無く、仙台市交通局の運営する地下鉄道線のごとくに全駅の直線上設置を実現して、運転台を右配置とした例すらある。

ここ豊浦の下り方はR800の緩い左回り曲線で第二茶志内トンネル入口に接し、その構内に嫋やかな印象を与えている。
これは、洞爺(当時は虻田と称した)まで断崖直下を海岸線に沿うように敷設されていた開業時の線路を、災害対策として山側に穿った隧道で通過する新線に移行した際に生じたもので、それまではほぼ直進して構内を抜け旧線の第二茶志内トンネルに至る線形であった。切替は1968年9月28日と記録される。

けれど、この現在線抗口への切通し状の曲線用地は、新線工事開始前の旧版地形図でも読み取れるのである。これは、長輪線として旧線を建設時の第二茶志内トンネルが、入口側抗口をこの位置に工事を進行していたからに他ならない。ところが、掘削まもなくに温泉沃土状の軟弱地盤に遭遇し、やむなく直線設計であったこれを海側に迂回する線形とした結果、抗口位置が変更されたのだった。
新線は、この際に放棄された用地と抗口を利用している。本来ならば、この駅は開業時から下り方へ緩く弧を描く構内を持っていたはずだったのである。
余談だが、新線切替後に旧線を線形改良する形で複線化工事が開始され、この際に構内から旧第二茶志内トンネル出口までの区間は、迂回にてS字状を描くことになった線形が、ほぼ原設計どおりに改築された。したがって、新しい第二茶志内トンネルは、旧第二茶志内トンネルをその内部で横断し、入口側抗口が本来位置となって新線と並んだ訳である。これを上り線とした複線の使用開始は1970年の6月30日であった。

噴火湾は外海に比して水温の高いと言われているものの、それでも南風に湿潤な大気が押し込まれれば海霧を生ずる。霧に包まれた豊浦の街も滋味のあるけれど、写真は線路端に限られてしまう。
この日は午後になって海上に霧を生じて、やがてそれは海岸線に達し、やむなく駅に引上げたのだった。

写真は、第二茶志内トンネルを出て場内に進入する8002列車<トワイライトエクスブレス>。
海霧はここへも流れ込んで来る。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 FujiSC42 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

中丿沢 (函館本線) 1995

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櫟。イチイ科イチイ属イチイである。道内なら、オンコのほうが通りが良い。
別に珍しくも無く、全国の山林に自生し、寒冷に適合していて中部地方内陸以北の北日本一帯、北海道では群生林も見られる。
高木となるため庭木の主木に、あるいは密生する線形の葉から生垣としても一般的に使われている。東北地方ならイグネには欠かせぬ構成木でもあり、サカキの育成しなかったこの地域では、神事用に神社境内には必須に植えられた。

鉄道駅でも駅前広場などに植樹される例が多々あり、あちらこちらで見かけたものである。胆振線の壮瞥には、これの見事な高木を取り囲んだロータリーがあったし、日高本線本桐の本屋前のものは、円錐形でなく丸に手入れされていた。
ここ中丿沢には、駅本屋事務室前と、それに乗降場にも2本のオンコが在った。いつ頃に植えられたものか、その一方は大木と云って良い程に育成していて、この駅のランドマークを成していたのである。(中丿沢 (函館本線) 1991のカットの列車後方に見える)
86年に無人化された以降は、適時の刈り込みもなされずに在り続けたけれど、10年程前にその管理を諦めて切り倒されてしまった。
鉄道会社にとって、無人駅の保守管理は頭の痛い問題ではあろう。

写真は、もう一方の小さいオンコである。傍らをすり抜けるのは5011D<北斗11号>。
高速での通過だけれど、ここまで流すにはNDフィルタが必要だ。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/8sec@f11 ND8filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1995

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有珠-長和間の室蘭本線はエントモ岬を大きく海側に迂回し、その先端部分を隧道にて通過する線形をとっている。ここは、当時長輪線と呼ばれた長万部-輪西(現 東室蘭)間の最期の開通区間である静狩-伊達紋別間に在って、その全通は1928年9月10日と記録されている。
この線形は明らかに岬の基部通過によるトンネルの延長を嫌ったもので、丹那トンネルも清水トンネルも建設の決定していた時代の線路選定においても、工期や工費から、それは避けるべきルートであったのだろう。
海岸線から背後の段丘に至る間に平坦地の広がる地形も幸いして、迂回による急曲線の挿入もなく全てR600に抑えられている。

このルート選定は後年の福音としてエントモトンネルの前後区間にいくつかの撮影ポイントをもたらしてくれている。
近年に高名な長和側の段丘上からの噴火湾を背景にした俯瞰や、岬先端付近からの有珠側遠望に緩く曲線を描いたトンネル入口付近などである。
定番に逆らって、柴田踏切から農家の庭先を横切り岬上部への細道を辿ると、さほどに大きくは無い岬の先端部を見ることが出来た。そこはもう成井農林の事業所敷地で、念のため事務所に断りを入れて撮影している。

列車は、5010D<スーパー北斗10号>。
5月とは言え噴火湾を渡る風は、まだまだ冷たい。
この位置から振り返ると、踏切あたりのR600曲線から遠くアルトリ岬までが陽光の下に見通せた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4 1/1000sec@ f5.6-8 Fuji Sc44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

西の里信号場-北広島 (千歳線) 1995

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千歳線の北広島が所在する北広島市は、1996年9月1日に札幌郡広島町が市制を施行したもので、広島市に移行と同時に現市名に改称している。勿論、広島県広島市が従前より存在するゆえである。この市名は住民からの公募で最多数を得た結果と言うが、市民の大多数が広島市より「北」の広島を意識するはずもなく、それはやはり北広島の駅名に負うところ大なのであろう。
北海道鉄道が、1926年に第二期線として開業した札幌線に、当時の広島村内への停車場を開設するにあたって北広島駅の名称を付与したのは、国有鉄道線に広島駅の存在したためで、鉄道省監督下で国有鉄道と連絡運輸を実施する私設鉄道は、重複駅名を名乗る訳には行かなかったのである。
これを、例えば石狩広島などと名乗らずに、「北」を付した意図や経緯の知りたいところではある。おそらくは、1915年開業の武蔵野鉄道東久留米の前例を意識もしたであろうが、むしろ北海道鉄道=北鉄の広島駅とする意図ではなかったろうか。いずれにせよ、この決定が遥か後年の北広島市を規定している。
余談だけれど、2005年の2月1日付にて広島県の芸北地域に4町の合併にて北広島町が成立している。この時点で札幌郡広島町が存続していれば、南西遥かに「北」広島町が登場する、何やらややこしいことになっていたはずである。

北広島近傍の輪厚川橋梁は、1972年に旧線から切替えられた新線上に位置し、旧線の流水部のみのプレートガーダー橋に対して、その氾濫原をも越えるPCコンクリート構造で延長は363メートルに及ぶ。この架橋に合わせて橋梁下の輪厚川の河川改修が施工され、氾濫原に築造されていた旧線の築堤は撤去されている。
架線柱もないこの頃には、北側なり南側の丘から巨大な橋梁全体を画角化しての撮影が楽しめた。ほどなく氾濫原は圃場に整備されるのだが、それは時を経ずして宅地に転用され、1990年代の前半時点で既にそこには住宅が建ち並び、河川を渡る橋梁と言うより住宅街を貫通する高架橋の様相となっている。

写真は、輪厚川橋梁上の8002列車<トワイライトエクスプレス>。
DD51機は前照灯の不良なのか、片目点灯である。前部標識灯は一灯以上が点灯していれば良いので、運転規則上の問題はない。

この橋梁を橋脚までフレーミングしての撮影はもう無理だけれど、橋梁上のR800曲線は編成を捉えるには有効ではある。
切替直後の同橋梁は西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972にある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

白石 (函館本線/千歳線) 1995

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1992年7月1日ダイヤ改正においては、南千歳-新千歳空港間の地下線による千歳線支線が開業し、新千歳空港と札幌方面間に空港連絡快速列車<エアポート>が有効時間帯のほぼ全般に渡り15分ヘッドでの運行を開始した。
同区間を130km/hの最高運転速度により約36分で結ぶ高速列車の頻発運転により、千歳線の同区間内では、上下列車の退避に対応した西の里信号場の設置を始め、サッポロビール庭園にも上下線への退避線を配備、島松では旧貨物列車着発線を上り(札幌方面行き列車)待避線へ転用し乗降場を新設、白石にも第二乗降場を減輻して千歳線上り線に待避線が設けられるなどの設備改良がなされた。
これにより、棒線駅を除く全駅で上下列車への退避が可能とされ、全国的にも希有な線区/区間となっている。本来ならば、複々線化により緩急ないし客貨分離を要する程の列車毎の運転速度差と運行頻度があるのだが、この設備でなんとか凌ごうと言うのだった。
車両運用では、運転性能の劣る711系電車の乗入れが制限され、また貨物列車用の高性能機関車の投入が急がれていた。

ここ白石では、千歳線上り線への待避線設備に際して、用地の制限から札幌方面列車用の第二乗降場を減輻した関係で、その苗穂方に千歳/函館線側とも線路に接しない部分を生じていて格好の撮影位置となっていた。広々とした4線区間を、その線路間から撮れる貴重なポイントでもあった。
待避線の設備前→白石 (函館本線/千歳線) 1988よりも引きが取れる位置で好ましいのだけれど、この時点では構内に隣接して南側にマンションが建設され、午後から夕刻の斜光線は遮られてしまうのだった。
この位置は、一日の乗降人員が6000人を越える駅とあって、後には柵にて仕切られるのだが、この頃にあっては駅長事務室に断りを入れれば、ホームから降りぬことを条件に立入りは許可された。

列車は、2列車<北斗星2号>。ここは、14時過ぎの8002列車に対しても、夏至の近辺でないと機関車に陽は当たらなかった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor ED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit byPhotoshopCS3 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1995

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虻田郡豊浦町礼文の集落は、噴火湾形成の過程で生じた断層崖に開口した、わずかばかりの海岸から山地に食い込むように北へ3キロばかり続く、ゆるい傾斜地に散在している。
北海道の地峡部とも言える渡島半島の付け根に位置するところから、冬には後志からの季節風の通り道となり、噴火湾に面しながら降雪の日が続く。道内でも比較的温暖とされる同じ豊浦町の中心地区へは、わずか10キロ程の距離だが、室蘭本線が大岸トンネルで抜ける山塊が、ここでは渡島と胆振の気候を分け隔てているように見える。
礼文の地形は、この狭い傾斜地内でも気象に変化をもたらし、山側にあたる室蘭本線の大築堤付近での悪天は海岸線で晴天のことも多々経験した。

礼文の漁師たちの家々は、海岸線に沿ってひとつの集落を形成しており、養殖のホタテ漁師が大半だ。
断層崖で陸路を絶たれた長万部とは海上でならば行き来もありそうなものだが、かの漁師たちとは漁場が隣接するだけに、昔から仲は良くないのだ、とは駅裏手に在った「民宿礼ぶんげ」の主人に聞いた話だ。

ここは、長万部や洞爺は勿論のこと豊浦からも距離が在り、早朝からの行動を希望すれば宿泊を余儀なくされた。
かつては寝袋での駅ネもしたけれど、近年では旅館泊まりにしていた。
駅前の「豊年旅館」は蒸気撮影の時代から鉄道屋には高名らしいが、80年代以降では夏場の海水浴客以外の泊まり客は鉄道屋ぐらいしかいなかったのではなかろうか。女将が高齢となって掃除も行き届かぬ風ではあったけれど、それでも午前3時起床のこちらに合わせて起き出して食事と昼用の弁当を仕出してくれたものだ。
踏切を渡ったところに在った「今野旅館」も同様で、経営者夫妻に良くしていただいたが、こちらも高齢のため89年には廃業してしまった。

その頃に開業を果たしたのが前記「民宿礼ぶんげ」で、奥さんが礼文の出身で室蘭での勤めを脱サラしてことと伺った。ホテルではなく畳に布団の旅館形式なのだけれど、居心地良く一週間程連泊したこともある。ご主人には、早朝に撮影ポイントまで、昼には豊浦あるいは洞爺までも自動車で送っていただくなどした。
後に、豊浦町の町会議員も務められたはずだが、突然廃業してしまい消息は聞き及ばない。

ここは、噴火湾に没する断層崖区間の静狩側と対を成す築堤である。静狩 (室蘭本線) 1992
撮影地として、つとに高名な築堤でもある。
かつては、国道37号線の高度のある位置から、このカーブした築堤のその全体を見渡せたものだが、これは国道下側の斜面の樹木の成長により困難となった。なによりも、築堤自体の法面が89年春に伐採/整備されて以来20年に渡り放置された結果、樹木が繁茂し列車の隠されるようになってしまっている。
この撮影地点は、国道切取り部の法面上部なのだが、例え今、築堤の樹木が伐採されたとしても、今度は直下にあたる国道脇の杉木立が成長しており、もはや失われた撮影ポイントである。

列車は、5列車<北斗星5号>。
画角内で白く映るのは、エゾヤマザクラである。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.





東室蘭 (室蘭本線) 1995

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北海道を離れて、もうかなりの年月になるゆえ、今でもそう呼ばれているものか定かでないのだけれど、当時の札幌近辺では近海で漁獲のあった「穴子」を「はも」と言っていた。
内地へ出て来て始めて知り、まして本来の「鱧」の存在を知るのは、かなり後年のことで鱧の梅肉和えに、はてなマークいっぱいになりながら食べた記憶がある。

東室蘭では、その北海道の「はも弁当」が売られていた。
「はも」を開いてタレで焼いたものを白米に乗せた、うな丼ならぬ「はも丼」であった。立売りは覚えていないが、ホームに売店のあったことは記憶にある。
珍しいのは、鉄道弘済会の直営よる調製/販売であったことで、青函連絡船船内での弁当販売や本州内の宮古/釜石などにあるのみで全国的に稀少な例である。
実体のある組織であったかは疑問だが、手元に残る掛け紙(パッケイジ)には、鉄道弘済会室蘭販売所調製との表記が見える。おそらく室蘭営業所と同一組織であったのだろう。
材料調達上の事由からか、一日あたりの製造数は少なかったと思われ、手に入れ難い駅弁当ではあった。

室蘭本線は、北海道炭礦鉄道による室蘭までの開業時(1897年)には、当時輪西と呼ばれていた現東室蘭から直進していた。
それが1909年の北海道炭礦汽船の室蘭製鉄所高炉開設に際して敷地を譲り、現在線のR600曲線による左折となったのである。
よって駅構内を北東側から見ると、室蘭製鉄所が背景に写り込む。

24時間操業の製鉄所ならと黎明に立ち会ったのが写真である。
列車は、201列車<はまなす>。
団体乗車があったのか、閑散期には珍しく12両に増結されていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/60sec@f1.8 Fuji SC44filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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