"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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礼文 (室蘭本線) 1994

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2011年3月11日に発生した「平成23年東北地方太平洋沖地震」では、茨城県水戸市も震度6弱にて揺さぶられ、千波湖南方の丘陵地に所在する実家でも、その長く大きな揺れに在宅していた老親は「庭に這い出るのが精一杯」の有様だったらしい。石燈籠の上部が滑り落ち、石積みの門柱も崩れるなどし、建物室内では壁面の装飾が落下したのだが、不思議なことに家具の倒壊は起こらず、隣戸で生じた造成地盤のひび割れや崩壊も見られなかった。
当時に健在だった親父は、造園から30年を経て地中一面に伸びきった庭木の根により地盤が強化されたゆえとの推定を披露していたものだが、確かに庭木で1番の高木がブンブンと音を立てて振れたと聞く揺れにも、地盤は健全であったし、建物基礎も数カ所に小さな亀裂を認めるだけではあった。

親父の自慢話はシロウト考えに過ぎないけれど、林学の分野において植物の根系による地盤安定、特に斜面に対する崩壊抑止効果は古くから経験的に知られ、研究テーマだったようである。それは主には治山や人工林育成の要求からだろうが、土木関係の研究者や技術者たちにも共有されたものと思う。
ただし、その効果を定量的に捉えられるよう研究の進んだのは、ごく近年のことであり、樹種による根系の土中分布特性別に根系の繊維強度や剪断耐性、引き抜き抵抗力などがモデル化され、一般的な崩落発生深度とされる表層から2から3メートルに対して、斜面安定効果が確認されるに至っている。

しかしながら、鉄道や道路建設などおける盛土や切取法面の安定対策は、即効性から古くは石積にカゴ工、近年に至ればコンクリート張や吹付けコンクリートなどの構造物工が主流であり、勾配の緩い斜面なら金網張や柵工にて植生基盤を確保することはあっても、それは植物の早期育成を図っての表層部の剥落防止が目的であり、根系による土圧への抵抗を意図したものではなかった。
したがって、経年に植生が自然林の様相を呈するに至れば、通行路の確保や信号見通しなど安全面から、定められた保線基準に従って定期的な伐採が行われるのが通例であった。

写真は、噴火湾岸を東西方向に貫く礼文華山トンネルからR=603で南転する盛土築堤を駆け下りて往く8002列車。
編成が改造後最初の全検を出場して、屋根の銀色が眩かった頃である。
本地点現況の樹林帯を抜けるが如くが惨状は諸兄もご承知のとおりで、通過する特急列車の車窓に築堤上と認識する旅客は皆無なのではあるまいか。今ではこの画角は望むべくも無い。前の伐採は、この列車が走り始めた1989年のことと記憶するので、以来四半世紀が経過した。
現況は根系による法面安定効果を期待した自然林の育成とは言いがたく、放置と呼ぶべきだろう。1987年の国有鉄道消滅以降、保線の基準は規程上に順次緩められ、最近の線路端の景観と云えば、迫る植生に辛うじて列車が潜り抜ける空間が確保される様相となり、幹線系線区とて軌框面に夏草が進出する有様である。植生による表層剝落防止機能を期待したには違いないにせよ、度を越した景観としか言えない。
当面に状況は変わらないと思われ、失われた撮影地点である。

=参考文献=
樹木根系の斜面崩壊抑止効果に関する調査研究 : 今井久(2008年)
植生による斜面安定効果の地盤工学的研究 : 稲垣 秀輝(2011年)

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4+1/2 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


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長万部 (室蘭本線) 1994

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ずいぶんと昔の話しだけれど、写万部山に登ったことがある。山好きだった親父には物足りぬ低山ハイクの部類だったろうが、小学生でも歩ける山を選んだものだろう。実際に長万部地域では小学校の遠足山であるらしかった。とは云え、一等三角点の山でもある。
洞爺湖畔に前泊しての鉄道利用には旭浜信号場に降りたと思うのだが、残念ながら記憶が無い。かすかに覚えているのは、登山口まで延々とまっすぐな砂利道を歩いたこと、周囲の見事な黄金色、そして山頂から遥か長万部市街に立ち上る黒煙の見えたことである。当時の空中写真に当たると、確かに信号場近隣から静狩原野を転換した農地を横切る直線道路の延びて、そのままに登山道へと繋がっており、微かな記憶は正しかったことになる。想えば、市街の煙は駅や機関区に屯した機関車のものに違いあるまい。

この山が、標高の499メートルばかりに関わらず、約260万年から250万年前に活動した成層火山とは最近に知った。五万分の一地質図に見れば、山体は確かに安山岩の岩体と記されている。
融雪期にヒラメを思わせる形状の残雪が現れ、それを漁期の始まりの目安としたと云う先住民族による口碑伝承の山、ウパシサマムペ(upas-samampe=雪ひらめの意)であるとされ、長万部の語源とも語られるが、伝説の中の話であり研究者間でも確証はないらしい。和人による当て字はウパシを外しての「ひらめ山」である。地元には写万岳の呼び名もあるようだが、岳とするには登山道に長い尾根歩きの続くやさしい山容ではある。
Webにて最近の様子をうかがわせてもらえば、頂上にコンクリート製の天測点が見て取れる。印象に残りそうな構築物だけれど、当時にも存在したものか、どうにも覚えていない。

写真は、標高400メートルほどの山系を背景に、強い西陽を浴びて南下を急ぐ8002列車。
画角の既出はお詫びする。あえて、それと知れぬように撮っているのだが、列車は新長万部川橋梁上にある。
長万部や静狩近辺での撮影で背後に写り込む穏やかな山容の山々は好んだ風景で、右寄りのピークが写万部山である。この葦原には幾度か分け入ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1994

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ここ数年のことである。休日に列車で遠出でもすれば、沿線には多くの撮影者の姿が認められ、普段都内と往来する小田急線からもホームでカメラを構える人々を多々目撃する。
道内に出向いても事情は変わらず、多くの位置で撮影者諸兄に出会うようになった。情報の交換にもご一緒するのは吝かでないのだが、十人を越えるような集団ともなれば、静かに列車を待ちたい身には遠慮したい環境ではある。何より立ち位置の制約されるのには困り果てる。
最近に参入された方には当たり前の光景かも知れぬが、50年近くを撮って来た古い鉄道屋には、それは70年代前半の所謂蒸機ブームを遥かに超える異常事態と見える。その狂熱の去って尚且つ、鉄道を撮りに来たと地元の人に話せば珍しがられ、現場でご同好に出会うなど滅多に無かったのが、つい最近までの撮影であった。もっとも、それは移動の列車の混合うと云う事由からなのだが、学生の夏休み期間や黄金週間等連休を意識的に避けていたからかも知れない。本州連絡の特急寝台列車群にしても1988年の設定以来に撮り続けているけれど、同位置に並んでの撮影など終ぞ記憶に無いことだった。

ディジタルカメラの急激な普及に性能向上と鉄道輸送の衰退からそれが懐古的に捉えられ始めた時期とが重なり、Web上での個人レヴェルの情報発信の容易化も加わって後押しをしているゆえであろうが、それでも鉄道趣味の裾野の広がりは歓迎すべきだろう。
反面、何年も前から指摘されているとおりに、裾野の広がるにつれて山の低く、森の浅くなれば、当然に悪貨も含まれるところとなって、時折にマスコミを喜ばせる事態を生じている訳である。
この世界の先達各位には鉄道趣味は大人の趣味と教えられて来た。集団での罵声の応酬は当然に場所取りの捨て三脚なども恥ずべき行為であり、永年の写真の鉄道屋としては趣味者の幼稚化を嘆かせて頂いて良いと思う。

このブログは駅名や線名を多く記しているせいか、撮影地を探すWeb検索に良くヒットしているように見える。他の同好諸兄のSiteも事情同様と思われるが、書き入れられたその検索語句からは多くは最近の参入者と推察され、同じ位置に多数の集中する所以であろうか。そこにお手軽に自動車で乗り付けてお仕舞いとするなら、「写真」はそれから始まるとは馬の耳に念仏だろう。しばらく前のことだが、Webに高名撮影地に立てたことに満足しているとの記述を見つけ、絶句したものだった。まあ、そんな巡礼も鉄道趣味の裾野と理解する他無い。
ただ、希望も在る。鉄道趣味には素人ながら写真そのものに素養ある参入者も迎えていることで、折々に閃きの画角を見せてくれる。鉄道を単なる風景に捉えることは、古くからの鉄道屋には最早出来ない芸当なのでインスパイアされるところ多である。

写真は貫気別川橋梁下り方のR=604曲線を旋回して往く5列車<北斗星5号>。
35ミリには禁物のトリミングを避けるべく、この立ち位置を確定するまで実列車で5回のテスト撮影を要した。編成の2両短い8001列車には、また別の位置があった。ここも築堤法面の樹木が成長してしまい、残念ながらリピート出来ない。
もっとも、今ここに立てば、必ず一人や二人はおいでの背後の俯瞰位置から反向曲線を遠望するご同好の画角に入り込んでしまうだろう。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1994

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環境に負荷を与えなかった鉱山と云うものは存在しない。露天もしくは地中深くから採炭する石炭鉱山-炭坑なら付随する地上設備や多くの関係者の生活による自然破壊に留まるかも知れぬが、多くの非鉄金属鉱山は目的とする金属の精錬過程を要して、深刻な環境汚染を引き起こした事例に事欠かない。足尾銅山の鉱毒災害は永く記憶されるところである。
長万部村静狩に1917年5月から本格採掘の行われた(通称の)静狩金山も例外ではありえない。当初には産出した良鉱の遥か小坂鉱山等への売鉱を目的に稼行したものが、それを得るための採掘量の増加に比例して貯留する低品位鉱の処理に、1920年8月に処理能力10トン/日の小規模な青化製錬所が稼働すると青酸塩を含む鉱泥と処理排水、それに大量の鉱滓の生ずるところとなった。浸出水と排水は沈殿池に導かれたものの、そこからの溢水はそのままに静狩川に流されたのである。
1923年に静狩金山は個人経営から川崎造船の傘下に入り、その中央資本の下で生産の拡大の続いたであろうが、沿岸での魚介の斃死などの異変も既に発生していたと伺え、精錬施設の一日あたり40トン処理への能力向上を画策していた1930年に至り、漁民による被害申し立てにより北海道水産試験場が行った排水の水質検査の結果、それが強い青酸カリを含有すると認定されたのだった。これに対する事業者側の対応は、多くの同様事例に並んで、排水との因果関係を認めぬものの被害に鑑みて補償だけは行い、施設においては溢水の減少・浄化に努めると云う口約束であり、その後も度々生じた被害に1935年には漁民支援を名目に「静狩水産組合」を設立し、静狩川河口付近で漁をする零細漁民と、被害の及ばぬ噴火湾沖合に船を出す漁民との分断工作までも行っていた。
以前に、静狩 (室蘭本線) 2010 に書いた事例のごとくに、長万部村議会の議員らを始め行政の有力者への買収工作も相当に進めていたことも伺え、長万部町史が静狩金山への協力を示す公文書に一切の保存が無いと記すのは、その何よりの左証であろうか。
1933年に隣接の来馬・小鉾岸鉱山を所有していた住友合資会社との合併にて静狩金山会社が設立され、翌年には一日あたり350トンの処理が始まり、1937年に勃発したアジア戦争の戦時下となれば金属資源の増産は国策となり、それまで廃棄していた程の低品位鉱も精錬対象にそれは1000トンにまで引上げられるのである。1941年、1942年には期間を限って強制的な増産運動も行われ、その1942年3月の水産試験場による調査では海岸に打ち上げられた無数の魚体が確認され、静狩川には溢流した鉱泥が堆積して河口部でのそれは1メートルにも及び、調査官を以てして「其の暴状は何人と雛も許容出来ないであろう」とまで報告せしめている。

ここに見られるのは、武家社会の封建制を内在させたままに発足した新政府の国家主義と誤った近代国家観に支配された資本側の利益優先主義である。民衆を犠牲としたその構図は姑息として良い対応に至るまで冒頭に挙げた足尾鉱毒事件と相似形を成し、戦後の水俣湾沿岸や阿賀野川流域の水銀汚染にも引き継がれたものである。現在にも福島県住民に対する放射能低線量被爆に対する自民党政権そして東京電力の姿勢も寸分と違わない。
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-参考文献-
(北海道大学経済学研究論文) 静狩金山-北海道産金史研究- : 浅田政弘 1987年
長万部町史 : 長万部町史編纂委員会編 1977年

写真は、礼文華からの断崖をくぐり抜け静狩側の築堤を駆け降りる8002列車。
この区間、車窓は高度を下げながら左から右へと旋回し、航空機の着陸を思わせる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落部 (函館本線) 1994

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函館本線の石倉-落部-野田生の区間は、15.2パーミル勾配が4箇所に介在して補機を要していた北海道鉄道(初代)の建設になる海岸段丘上部の線路を、アジア太平洋戦争末期の陸運転換施策により海岸線に沿った現在線の経路に変更した区間である。その経緯については此処へ何度か書き、Websiteにもまとめている。→函館本線 石倉-野田生間の改良と線増
これにより、補機の廃止ばかりでなく本州連絡の主要幹線の輸送力は大幅に増強され、現在に繋がる高速運転にも寄与することになる反面、海岸線をトレースする線路は掘削された段丘土工面の崩落と噴火湾の波浪による路盤浸蝕の危険に直面して、要注意個所の続く災害線区でもあった。
ここで海岸に続く段丘面の堆積物を構成するのは砂礫層であり、さらには太古からの駒ケ岳噴火による火山灰層が広範に存在すると聞けば、崩壊の危険を孕むのはその方面の素人にも容易に理解するところである。北海道旅客鉃道への承継後に限っても、法面崩落による数度の不通を生じており、1988年7月に青函トンネルで繋がったばかりの物流を最初に止めたのもここでの土砂崩れであり、2013年の洗掘による護岸擁壁の崩壊も記憶に新しい。

近年に列車への直接被害の無いのは幸いであるが、過去にはそのような事例も記録されており、1967年3月4日の、落部-野田生間で発生した貨物列車脱線転覆事故が最大規模であろうか。この区間の線増工事中のことであり、既設線の山側の切取り法面を切り広げて増設線路盤を構築の際、融雪による地下水に地盤の緩んで崩壊を引き起こしたのである。同日21時55分頃、折から進行中の453列車がこの崩落土砂に乗り上げ、牽引のD52468が海側に横転、続く貨車も10数両が脱線して内2両が転覆すると云う事故であった。復旧は8日午前となり、1日に運転を開始したばかりの小樽回り<北海>を含む本州線連絡列車の全面運休を北海道新聞が報じていたのを記憶している。

写真は海面から40メートル近い比高の切取法面の続く当該区間での8002列車。幾重にも法面防護工が施される。
この事故での崩落地点は、列車後方、函館桟橋起点69キロ付近のR=600M曲線あたりである。
なお、北海道新聞のフォトデータベイスには1966年8月20日にも発生していた同区間での土砂崩壊の写真がある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌 (千歳線) 1994

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特別急行列車を指定して運送する普通扱小荷物の取扱は、1958年10月1日の<あさかぜ>への20系固定編成客車投入を機会に開始された。これが後年に「ブルートレイン便」と呼ばれることになる輸送の嚆矢である。
当該する特急列車の停車駅相互間に通常小荷物運賃にそれと同額の「運送列車指定料金」を課しての運送は、その頃にも一定の需要の在った航空便からの転移を見込んでの施策であり、扱駅の限られたとは云え、当時の数日を要して到着日時も全くに不明の小荷物輸送に在って、翌日着の速達は画期的なものであった。けれど、この扱いは配達を伴わず駅留に限定されていた。迅速な市中配達網の存在しないゆえである。
また、これには特例扱として特急列車に接続なり継送となる列車を指定した特急停車駅以外の駅相互間も認め、それは映画館に配給される上映フィルム輸送を想定していた。
但し、この時代にいずれも高額な費用を要する特別な運送であり、特急列車が高嶺の花であったのと同様に個人の利用するものでは無かった。

この当時の経済構造の変化に見事に対応していた付加価値の高い輸送への需要は旺盛で、1968年10月1日改正からは新聞輸送に急行列車に連結された荷物車の余剰輸送力の活用により、個数や重量、品目を限定しての積載も始められた程であるから(*1)、営業は続々と置替や新設の行われた20系運用の全列車にて行われたものと思われ、10年を経た同改正の運用行路表にも11往復の全てで荷物車に独自の運用番が見て取れる。但し、それらは新聞の朝刊輸送(*2)も担ってのことであり、それとの区別や営業区間までは知れない。
非営業の列車の現れるのは、そもそもその設備を持たない14系特急形客車や24系にマヤ24の登場した1970年代のことで、それは当時に国鉄が客荷分離の施策を進めたことに加え、関西-九州系統や東北常磐線など同区間に数往復が雁行する設定(セクショントレインと呼ばれた)の全列車での営業を要しなかったためでもあろうが、同年代後半に到れば、従来からの財源であった高級荷物の高速道路の延伸や地方空港の整備進展による宅配便なり航空混載貨物への流出に扱いを取り止めた列車も存在していた模様である。
1979年10月号の時刻表(交通公社版)から巻末の営業案内に、この輸送が「列車指定荷物輸送」として掲載の始まるのも、その危機感からであろう。
そこでは、東京-山陽/山陰/九州間系統と関西-九州間系統の全列車での営業が確認され、この頃までには拠点駅には一応の集配体制も立ち上げられ、接続・継送列車を含めた輸送網の整備も進んだことを背景としていた。東京-宇野間列車で宇高連絡船を介した高松・徳島が営業範囲に含まれるのが特筆されようか。地上側体制整備の遅れたものか、共通運用の関係で荷物車運用は組まれていた日本海縦貫線と上野-奥羽地域間系統列車の記載は見られない。
宅配便の進出に対しては、1982年の2月に至ってようやくに集配網と料金体系を整備した「鉄道宅配便」(商品名)が始められ、特急列車による列車指定荷物輸送もその一部に組み入れられた。日本海縦貫線列車での営業はその際に開始されている。
しかしながら、これら施策も時期を逸して早くも1984年2月1日改正にて、荷物営業線区に「鉄道宅配便」扱駅の縮小を余儀なくされる中、1981年8月に東海道・山陽新幹線から始められた定形軽量荷物運送の「新幹線レイルゴーサービス」の夜行版との位置付けにて特急列車輸送には「ブルートレイン便」の商品名が付与されたのだった。
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(*1) これも特急列車と同等の「運送列車指定料金」を収受するものであったが、それら夜行急行の特急寝台列車への格上げにより移行の進むと、1978年7月6日付の制度改正にて、到着明確化対象の拡大を意図して整備された荷物専用列車や普通列車(に連結の荷物車)を含む継送網に対して、荷物1個あたりに100円を課する特急列車以外の列車を指定する「列車指定料金」として制度化された。多分に、1976年から展開の開始されたヤマト運輸による宅急便を意識したものと思われる。
(*2) この新聞輸送については、内地版の 陣場 (奥羽本線) 1980 に書いている。

国鉄が荷物専用輸送から撤退した1986年11月1日改正以降も継続され、1987年4月1日には旅客鉄道会社に承継されたこの輸送は、新幹線利用が宅配便の及ばぬ領域だったのに比して、それの午前中の時間を指定しての速達サーヴィスの充実に利用を減らしながらも、特急寝台列車自体の廃止も相次ぐ中、2010年12月4日改正時点まで<あけぼの>と<北斗星>に生き残っていた。<北斗星>での営業は、それの運転を開始した1988年3月13日改正より改正前の<ゆうづる5・4号>での上野-仙台-盛岡間を引き継いだもので、5列車と2列車で行われた。
写真は雨のようやくに上がった大曲橋梁を往く5列車<北斗星5号>。
勿論、道内入りしたこの列車の荷物室はカラである。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

小幌 (室蘭本線) 1994

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1937年、日中戦争の開戦により、当時に備蓄の十分でない重油・ガソリン等の燃料が戦略物資となり、加えて戦線への大量の物資輸送の要求から民間船舶が徴用されるに至って、内航海運の輸送力を陸上に転換する必要が生じた。さらには、続く太平洋戦争の末期に沿岸の制海権/制空権を連合軍に奪われる事態には、この陸運転換は至上命題となったのである。
道内においても、それまで小樽や室蘭からの海運によっていた本州への石炭輸送を青函航路を介するルートに振向けざるを得ず、列車回数の増加に対応して、東室蘭以南がほぼ単線の設備であった函館/室蘭本線ルートには多くの信号場の設置が計画された。中でも、静狩-礼文間は駅間12キロあまりで輸送上での隘路ではあったが、中間地点をサミットとする10パーミルと9パーミルの標準勾配区間で、しかもその大部分で隧道が連続しており、それの設置は困難とされていた。
ここで窮余の策とされたのが、サミットに近い起点17キロ付近で幌内隧道前後の僅かな明かり区間を利用して、長万部方美利加浜隧道内で左に分岐し、幌内隧道に並行する単線隧道を山側に掘削、岩見沢方礼文華山隧道内にて本線に合流する有効長800メートルの待避線を新設、機関車はその明かり区間に停車する「煙管式」とされた(勿論正式用語では無い)信号場の設置である。1943年9月30日に使用を開始した小幌信号場は、この区間の線路容量を50%程増大させる効果を発揮した。なお、この際に静狩-礼文間では連動閉塞が施行され、通票の授受を廃している。
今、「待避線を新設」と書いたけれど、実際の運用では上下列車とも既設線側を待避線として使用したものと思われる。推定事由は後に述べる。

現在の小幌駅の置かれるのは、上記の岩見沢方の明かり区間である。
ここを含む静狩-礼文間の複線化は静狩方が先行して、既設線の山側に新静狩(1924M)/新ねずみノ鼻(1236M)/新辺加牛(1893M)の各トンネルを掘削、新辺加牛トンネルは新設分岐側の幌内トンネル内で小幌信号場構内に接続とした。これを下り線、既設の美利加浜トンネルから続く開業時からの既設線を上り線とする複線使用開始は、1964年7月5日であった。この際に美利加浜トンネル内からの新設分岐部分は撤去されている。
礼文方は、礼文 (室蘭本線) 1998 で述べたように既設線海側に新礼文華山トンネル(2759M)を新設、抗口(入口)を小幌信号場に置いて静狩方への上り線に使用中の既設線に接続としたのである。(以下追記に続ける)

写真は、新辺加牛トンネルを高速で抜ける5015D<スーパー北斗15号>。
山間にて極端に光量が不足し、ISO320を以てしても絞り開放で描写の甘い上に、微細な被写体ブレを生じている。

ここには、60年代まで信号場職員が家族とともに住む官舎が存在し、文太郎浜やピリカ浜には漁師家も数軒在って、当然に走行可能なのはジープであったろうが国道(旧国道である現在の礼文山道)からの車道すら通じていたと云う。40年代からの陸軍や米軍による空中写真には、解像度の良く無い中にもそれらしきものが見て取れる。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから検索して頂きたいと思う。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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桂川-石谷 (函館本線) 1994

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今、森市街地の小さな商店街を抜けて駅前を通過する北海道道1028号線(この区間では606号線と重複)は、かつての国道5号線である。現行の国道5号線-森バイパス開通により移管されたそれは、函館本線にとともに富士見町地内まで海沿いを進む。その先で線路の海側に移って鷲の木までの区間も町道として残されるが、湯ノ崎を回る途中で再び山側に戻り蛯谷に至るルートは廃道となっている。
鉄道と道路と、どちらの建設が先行したものか調べ得ないのだが、段丘崖の迫る地形ゆえ双方とも海岸線に沿うルート選択は道理である。(集落もこの海へ下る水流の河口部に発達したから、古来からの交通路もここに在ったはずである。)

ここでの、近年における交通量の増大に対する鉄道と道路の改良工事は、ほぼ同時進行で行われた。国道はバイパスの名の通り森市街地の迂回も含み、鉄道は複線運転化を目論むものであったが、狭隘な用地しか得られず波浪災害にも晒される湯ノ崎区間は、ともに隧道を掘削しての短絡が選ばれた。
先行したのは国道側で、その湯ノ崎トンネル(464M)は1969年に竣工し「森バイパス」が開通した。鉄道の先となれば、一時的にせよ湯ノ崎の蛯谷側で複線線路との平面交差(踏切)を生じてしまうのが、その事由ではないかと推定する。
函館本線には複線断面の桂川トンネル(706M)が新設され、その石谷方で廃された旧国道用地の一部が現行下り線の腹付線増路盤に転用されている。このような事情もあって、国鉄と北海道開発局が摺り合わせた上での同時進行だったのだろう。この区間の複線使用開始は1971年9月21日と記録される。

写真は、桂川トンネルを出る5列車<北斗星5号>。
ここでは上り線が在来位置で、それは海岸線を正確にトレースして湯ノ崎に取り付いていた。国道のトンネルと抗口の並ぶのは、新線の開通後に構築された落石覆いであり、本来の桂川トンネル出口はその奥にある。

この後に湯ノ崎を回る旧線路盤と国道跡を桂川へと歩いたのだが、途中それの波浪にて崩落した箇所の通過には細心の注意を要した。そこが道路が線路と直交して海側へと張出していた、かつての踏切位置である。
5月末と云うのに冷たい雨の一日で、帰り着いた森の待合室では温風暖房機がフル稼働していた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1994

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長万部川は、長万部岳東斜面を水源とする二股川と写万部山付近からの知来川との合流地点より下流の河川名で、北海道所管で長万部町の管理する長万部川水系二級河川である。流域/流路は長万部町内で完結して、その流路延長24.7kmは、本流の二俣川を含むものと解せられる。
この河川は、二股川/知来川ばかりでなく両水源の長万部岳と写万部山を結ぶ陵線からの多くの水流が流れ込み、加えて河口が噴火湾岸の砂州にて遮られて排水の悪く、大雨時には氾濫を繰り返す暴れ川でもあった。そのため、抜本的対策として計画/施工されたのが排水路の開削であり、通称の新長万部川がそれである。

これにて、室蘭本線には延長148Mの新長万部川橋梁が新設された。下流の国道37号線には新長万部橋が架けられ、ここから適度な距離で橋梁上の列車を見ることが出来る。河口付近の比較的延長の在る鉄道橋梁を海側真横から(即ち海背景でなく)撮影可能な例は少なく、羽幌線の小平蕊川橋梁が失われてからは、ここと根室本線の釧路川橋梁くらいであろうか。

写真は、新長万部川橋梁上の5013D<北斗13号>。HET色に塗色変更の進んだ頃だが、これは、この3月の改正にて3往復が残存した従来のN183系(最高運転速度120km/h指定車)による運用である。
人工の河川だけにシンメトリックな景観を見せる。河床の勾配は緩く、このあたりは極めて海水に近い気水域であろう。

この排水路を以てしてもなお、道函館土木現業所が、流域全体への日総降水量176ミリを想定して2005年に作成したハザードマップ『長万部川浸水想定区域図』によれば、二股付近から河口にかけての多くの地域が50センチから5メートルに水没し、長万部市街地も長万部中学校から町役場付近に至る区域で1メートル程度の冠水が想定されている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor35mm/F1.4 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1994

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小樽の街中から移り住んだ手稲には、熊が出没したのである。
昨今の札幌でもニュースを賑わすけれど、熊の側にすれば事情は些か異なるように思う。当時の住宅地は確実に彼らの領域を浸食しつつ開発されたのだった。
子供であったからだろうか、恐怖心に実感はなく、大人達の間での「誰それさんちの台所に入り込んだらしい」とか「どこそこの農家の鶏小屋がやられたらしい」と言った話に興味津々聞き入った覚えが在る。

彼らとは、どうやら隣接して生活していたようだけれど、キタキツネを見かけたことはなかった。当然に棲息していたはずなのだが、用心深く熊をそしてヒトを避けていたに違いない。
キツネとの初遭遇は72年頃、七飯近郊の山林と記憶する。それは定かでないものの城岱牧場への林道を外れたあたりと思う。山中でこちらを見つめる動物に出会い、タイムリィにも野犬被害にかかわる報道のなされたばかりの時期であったから、それと悟って緊張が走ったのだった。ほんの数秒の睨み合いを経て彼は足早に去って行った。
この帰りに地元の農家に、この話をすれば「それはキツネだ」と教えられた訳である。

ものの本によれば、どうやらキタキツネはこの頃から生息数を増やし始めていたらしい。彼らに好ましい生息域とは、決して深い森では無く、林に原野が混在するような景観の林縁部と言う。そこに農地が入り込み、ヒトが移り住むことで天敵の熊が遠ざけられ、より好適な環境が出現したと言うのである。
80年代になると、山林に分け入れば鉄道沿線でも頻繁に目撃され、90年代ともなれば住宅密集地の近縁でも見かけられるようになった。ヒトとともに生息域を拡大したと云って良い。

このエントモ岬先端部近くにも、一族であるのか数匹が住み着いているものと思われ、柴田踏切付近を訪れる度に目撃する。決して近づいては来ないのだけれど、こちらをじっと観察している。きっと撮影の鉄道屋なぞ、彼らの縄張りへの侵入者以外に他ならないからなのだろう。

写真は、エントモトンネルを抜ける8002列車。
<トワイライトエクスプレス>の運転開始は、<北斗星>に遅れること約1年の1989年7月18日大阪発からであった。それでも、もう四半世紀近く前の事になる。
(当時の運行については以下の追記に記している)

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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