"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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 かつてのサトポロ(sat-poro)だったフシコサトポロ(husko-sat-poro)が流れ、メム(mem=湧水)の地でもあったそこの水資源に着目し、大友堀(創成川)と豊平川に区切られた一帯に事業所(工場)施設群を配置すべきと論じたのは、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として来日した合衆国農務局長ホルレス=キャプロン(Horace Capron)だった。開拓使はこの提言を受け入れ、サトポロと切り離されたフシコサトポロの新たな水源、ナイポ(nay-po=小川の意)と呼ばれた上流の小さな流れのあたりを中心に、木工や機械製造、馬具、漁具、製紙、製油、製粉、製糸、精麦、缶詰、味噌・醤油の醸造など多くの官営工場群を建設して往った。
これらは北海道拓殖の基礎製品を提供し、かつ内地への移出品を生産するものであった。これだけの工場の稼働には多くの労働力を要し、それらもまた移民にて賄われたはずである。それがどのような出自の人々であるかは調べ得ていないけれど、大方の想像はつく。経済的に決して豊かではなかった彼らは、工場近隣に用意された粗末な宿舎に居を定めることになり、社会保障など考えられぬ当時、官営工場が内地新興資本の手に払い下げられれば、資本による搾取の対象でもあった。
旧北海道庁庁舎正面から創成川を越えて苗穂停車場へ至る北三条通り沿道の市街地は、このような労働者階級の居住地として形成され、かつてには職工町と呼ばれた貧者の街、細民街であった。1900年代始め頃の苗穂界隈の様子は、当時札幌鉄道局に勤務し苗穂の官舎に住んだ、異色の作家橘外男の短編「求婚記」に次のように描写されている。


私はかねて聞いていた通り煙草屋と荒物屋との間の狭い横丁を入った。
職工町の一町ばかり先の左側を目指して入ったが、どうも何ともかともごみごみとした、行けば行くほど裏長屋の貧民窟のような処であった。
降り積もった雪が腰のあたり迄両側に掃き寄せられて、そのトンネルみたいな中を平ったく入って行った芥溜(ごみため)のあたりから、同じような小さな棟割り長屋が幾つも幾つも並んでいた。
[求婚記-現代ユーモア文学全集橘外男集(1954駿河台書房)に所収]

そればかりでは無い。都市は膨張の過程にて必然として貧民窟(スラム)を内包する。都市経済の拡大にはその規模を超えて過大な人口流入を誘起するが、必ずしも全てに配分の行き渡らないが故である。新たな流入者には、おそらくは小作農からの離農者などが多くを占めたと推定され、苗穂のほか豊平橋周辺にも存在したと云う細民街が吸収したものだろうが、そこからも溢れた者達は豊平川の河川敷を占拠して粗末な小屋を建て居住したのだった。貧民窟の出現である。この1910年代までには形成されていた豊平細民街から一条大橋、東橋を経て苗穂細民街に至る貧者の回廊と、その対岸菊水の白石遊郭の存在は、都内で言えば四谷2丁目から東福院坂を下りた鮫ヶ橋界隈から千駄ヶ谷を経て新宿貨物駅に至るそれと、その先の新宿遊郭に符合するのが興味深い。
札幌の例に限らぬが、このようなスラム街は往々サムライ部落と呼ばれた。その語源には諸説あって定まらず、古い報道記事などには武士部落と書かれているのを見かける。「武士」をサムライと読んだのである。
廃品・古紙回収で生計を立てられれば良い方で、多くは無職だったとされるが、中には実際に武家出身者も交じり、教養・教育もある誇り高き人々からのことかもしれない。
河川敷ゆえに出水の度に流されながらも、その都度に再建され、戦後に至れば緊急開拓政策による戦後開拓からも溢れた人口を吸収して拡大したのだった。この頃には都市景観上から幾度も撤去が試みられるも、いつしか再出現するイタチごっこを繰り返し、来るべき札幌冬季五輪開催にともなう強引な行政指導により消滅する1969年まで存在した。

残照を背に、苗穂の東方函館桟橋起点290K000Mへと差し掛かる2列車<北斗星2号>。
画角は幾度もの既出である。この位置には渡道すれば一度は立っていた。手元には1月から12月まで全ての季節が寝台特急を収めたこの画角で揃っている。これは9月下旬の撮影。手稲山からの稜線を遮ってしまうJRタワーはまだ無い。

1960年代に市電に乗りながら眺めた北三条通りが、奥へ行くほど、東橋に接近するほどに場末感を漂わせたのは、このような背景による。現在にも中心街に隣接しながらも落差のある街並が続く。前にも書いたが、土地の刻印とはなかなかに消えぬものなのだ。
とは云え、「細民」とは中間層が存在せず、富裕支配階層と下層階級しかいなかった時代の古い言葉である。貧者を意味したにせよ、現代に翻訳すれば「庶民」を指すと付言しておく。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopCC on Mac.


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山越 (函館本線) 1993

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1700年2月に松前藩が幕府に提出した「元禄御国絵図松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」という地図(北海道大学北方関係資料室収蔵)には、噴火湾西岸の「ゆふらっふ」の地名に続いて「膃肭臍有」と記され、また、1717年の幕府巡検使による「松前蝦夷記」(同前)にも、彼らの持ち帰った「土産」のひとつであった「膃肭臍」の産地として噴火湾一帯の地名が書き込まれており、そこは古より、このアシカ科の海獣オットセイの生息域だったと知れる。

これを狩猟して食用とし、また毛皮を防寒着に利用して来たのは沿岸に居住した先住民族アイヌの人々であった。膃肭とは彼らがこの海獣を指したonnepの中国語に転訛した表音に当り、オットセイの語源はアイヌ言葉に発する。彼らがそれを承知していたかは調べ得ていないが、中国ではその陰茎や睾丸が強壮剤など漢方薬の原料として珍重され、それを膃肭臍と呼んだのである。
ここに進出した和人は、それの対中国輸出品としての商品価値や自らの処方に、アイヌ民族に対し米や酒、煙草などの物資を獲物あたりに与えて猟を奨励したのだった。これらは、何れも和人との接触以降に彼らの生活に入り込み、自らの生産は叶わぬものであった。酒の例ならば、狩猟の民としての儀礼などに当然に固有のそれは存在しただろうが、その原始的な発酵酒と異なり、彼らの持たない米を原料に並行複発酵と云う特異な過程にて造り出された清酒や濁酒に取り込まれてしまったのである。本来、必要以上に資源を搾取しない彼らではあったが、酒、煙草欲しさに猟に出た者の居て不思議は無い。ここでの乱獲の始まりであった。

1799年に北方警備の要から東蝦夷地を直轄領とした幕府は、1801年に箱館亀田に所在の関門をヤムクシュナイ(山越内)に移し、ここで東蝦夷地への通行を厳しく監視した。これは国防上の事由であったから、蝦夷地に居住したアイヌ民族の撫育が課題であった。「撫育」とは礼を失した言葉だが、このためにも彼らが交易上に不満を持っていた民間の運上屋を廃して、これを直轄の会所として価格の適正化や品質管理を徹底、分量や量目の不正も排除し、その生活に配慮することにもなった。ここでも彼らが味を覚えた(覚えさせられた)酒も、また手段として欠かせぬものとなり、松前からの移送に替えて幕府直営の酒蔵、酒造場がこの山越内をはじめ様似、釧路、国後に建てられ、周辺に酒を供給したのだった。
山越内の酒造場は、現在に旧山越構内を横切る酒谷踏切付近に所在したと言われ、それは1809年の「東蝦夷地山越内場所村鑑帳」(新北海道史第7巻に収録)中の酒造方記録によれば、75坪(約248平方メートル)の居宅向柾板葺、同規模の酒蔵、36坪の板蔵に、20間(約36メートル)に及ぶ水車小屋を1棟とあり、小蔵ながら現在にも通ずる規模である。この水力精米には当時とすれば品質の良い酒の醸されたことであろう。なお、醸造高の記録は無い。造りには下北大畑からの酒造集団が当り、毎年に12名が越年していたと伝わる。
1858年の「蝦夷実地検考録」(函館市立図書館郷土資料室収蔵)には、「会所ヨリ西北五町酒屋川ハ昔銅鉱ヲ掘シ時川ノ二町奥ニ売酒屋有シ故ノ名也基礎猶存ス」とあり、これより以前に酒造場は廃されていたようである。国鉄の踏切名称は酒谷だけれど、水車の掛けられていた川に酒屋川の名を残している。

写真は、八雲町浜松の噴火湾岸を往く臨時特急9016D<リゾートエクスプレス北海道6号>。この団体向け観光仕様編成の就役から間もない頃である。
ここも、短いながら波打ち際をトレースする区間なのだけれど、背後に水産加工施設が邪魔をする。近年には海側防護壁の嵩上げも行われて、撮影地としては不適となってしまった。この浜松跨線橋にもフェンスの架けられれば脚立が必須である。
噴火湾のオットセイは、絶滅寸前の1911年に保護の網が掛けられ、以来個体数を回復して現在にもアシカやアザラシと共に姿を現す。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR5 on Mac.

姫川 (函館本線) 1993

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あまり取り上げぬ時事ネタである。
ご承知のとおり、西日本旅客鉄道は先般、大阪-札幌間に変則的定期運行の臨時列車<トワイライトエクスプレス>の2014年度末までの廃止を公表した。2015年3月に予定される時刻改正を以ての実行であろう。同社はその理由を「車両の老朽化」としている。1970年代前半時期の新製車を種車としての改造車編成は、確かに車齢は40年前後に至る。
一方で、北海道旅客鉄道と東日本旅客鉃道は2015年度末の北海道新幹線の新函館開業に関連して、25000ヴォルトに変更される海峡線区間の電車線路加圧電圧に対応する機関車導入の予定の無いこと、新幹線列車運行の無い夜間に保守間合いを確保する必要から海峡線区間を運転する寝台特急列車の運行継続を困難と非公式にコメントしていた。
高い乗車効率を維持する<トワイライトエクスプレス>の、それを1年前倒ししての廃止は「車両の老朽化」だけなのだろうか。北海道旅客鉄道では数年前から14系・24系客車の延命工事を続けており、それは<北斗星><はまなす>を2015年度末までは運行する意思に読める。

以下は推定であり、しかも私見に過ぎないのだが、おろらくは2015年春に予定の北陸新幹線の金沢までの開業が関連していよう。この列車の運行継続には、分離される並行在来線を運営する第三セクター鉄道の3社区間の直通を要するのである。それに際して3社には二つの選択肢がある。旅客列車の例外として貨物列車同様に線路使用料を課して運行させる、もうひとつには運賃は勿論のこと特急料金に場合によっては寝台料金までも徴収し、その上で西日本旅客鉄道に車両使用料を支払うか、である。それの第三セクター鉄道、しいては出資自治体との交渉が決裂したのが真相ではなかろうか。上野発着列車の盛岡-青森間運行は、現在に後者にて行われている。利用者には負担増となったのは周知のとおりである。

さらに深読みすれば同社と沿線自治体との在来線分離を巡る確執も見え隠れする。富山県は新幹線の開業後も関西との連絡特急の第三セクター線を通じての富山着発を強く要望していたのだが、この旅客の利便からも至極当然の要求を新幹線収益に固執する西日本会社の拒否した経緯が在る。富山県が夜行特急だけの乗入れを認めぬのなら、それは意趣返しにも見えるし、応じての当該列車廃止の決定は西日本会社側の意固地にも写る。
いずれ歴史家が解明してくれようが、その背景は、もともと同社には在来線の流動も多い金沢-富山間の経営分離の意思の無かったことではないか。決定権は会社側にあるのだが、これに富山以遠の非採算区間のみを押し付けられる富山県が当然に反発し、いずれかのレヴェルで政治的決着の図られたものと思う。それの尾を引いているとしか考えようが無い。

ついでに言及するが、前記の北海道旅客鉄道と東日本旅客鉃道の見解には根拠が無い。初期投資に牽引仕業も貨物鉄道と協議の余地のあるし、夜間に保守間合いを確保したのでは物流に不可欠の札幌へ朝から午前に達するコンテナ列車の設定が出来ぬからである。それは貨物鉄道の経営を直撃することになろうし、広くは北海道経済に影響するだろう。

写真は、函館桟橋起点43K500M地点のR=301曲線を旋回する8001列車。頂上を雲に覆われた駒ケ岳はフレイムアウトするしか無い。
ここでの伐採を知って訪れた最初の際の撮影だが、その後の幾度かも夜明けまもない時間帯の天候には恵まれず、心残りの地点になっている。植林された杉の成長で、もう撮れなくなったからである。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor 50mm/F1.4D 1/60sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR5 on Mac.

東室蘭 (室蘭本線) 1993

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東室蘭は、移転による開設当初より旅客・貨物とも終始、室蘭と伊達紋別・苫小牧方面との中継駅として機能して周囲に商業地や飲食街をともなうことがなかった。そのあたりの経緯は 東室蘭 (室蘭本線) 1996 に書いている。
東口と西口に一軒ずつだった食堂は早くに店仕舞してしまうから、ここへの宿泊での遅いチェックインには食事に困り、勢い、西口右手側線路沿いの横道にほんの数軒が軒を並べていた焼き鳥屋に踏み入って知ったのが、所謂「室蘭焼き鳥」だった。

現在のような大衆酒場としての焼き鳥屋の成立は、1923年の関東大震災を切っ掛けとした屋台営業の形態が全国に波及したものと云われている。そこで供されたのも当時には高価だった鶏肉に替えての豚のモツが中心であり、関東地域では「焼とん」と称したのである。にもかかわらずの「焼き鳥」の名乗りは、それ以前からの屋台が鶏のスジ肉やモツの他に雑多な獣肉を扱い乍らの「やきとり」に倣ったものである。1930年代初頭と推定される室蘭への移入も同様の形態であり、1937年に始まる日中戦争戦時下の食料増産に政府が豚の飼育を奨励したことにより、軍需産業となった製鉄所に労働力の動員された室蘭には、周辺農村から多くの豚モツの食材の集められたものと思う。戦後復興期の闇市営業も同じであったろう。
これは、関東をはじめ多くの地域にてブロイラー鶏の普及により鶏肉価格が低下する1960年代以降に、それを使用した正真正銘の「焼き鳥屋」へと転換して往くのだけれど、室蘭では豚の使用が続く。ブロイラー鶏生産の寒冷地への技術移転の遅れ、鶏肉は引き続いて高価だったのだろう。
豚モツとともに串に刺されていた長ネギも、戦後に入手難だったそれに替えて、産地ゆえの安価なタマネギが使われるようになったと云う。確かに、豚にはその方が相性も良さそうに思える。
塩焼きならまだしも、基本的にタレ焼きを「洋カラシ」にて食するのは、これこそが室蘭焼き鳥に独特であるけれど、かつてには全ての店で供されたものではなかったらしい。おでんからの転用説にトンカツからの転用説のあるそれの、いつ頃にどの店で始まったものか定かではないが、来店者からのリクエストで多くの店に広まったとされる。

2013年のデータによれば同市内所在の焼き鳥店は56店、人口1万人あたりの焼き鳥店数の6.1店は、鉄板焼き鳥で高名な愛媛県今治市の3.7軒はもとより久留米市の5.9店を上回って全国一である。56店は焼き鳥店を名乗る店舗数であり、それの品書きに在る居酒屋の類いは含まれていない。消費量データは見つからなかったのだが、おそらくは子供のおやつ代わりを始め家庭にも浸透しているだろうから、市民一人当たりのそれは相当なものだろう。
製鉄所の高炉が全て稼働していた高度成長期には、さらに多くの焼き鳥店が営業していたはずであり、前述の呑み屋街とは呼べない規模の東室蘭駅横道にも、1980年当時でも4軒が並んでいた。

写真は東室蘭に停車する4列車<北斗星4号>。雨の匂いのする9月の夜だった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S Bulb@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1993

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豊浦の大岸方弁辺トンネル出口までの線路変更は、同区間の複線化に際し、豊泉川流域に迂回していた経路を大岸/弁辺トンネルを掘削しての短絡化にともなうものである。
新旧の弁辺トンネル出口は並列するが、その位置の施工基面高は新トンネル側が4メートル程低く、それの一致する貫気別川橋梁手前の起点34K414M地点まで新線が建設され、ここでの10パーミル勾配とR302の曲線が除去されている。この工事終点から豊浦方では現下り線が在来線となり、旧線はこれに繋がっていた。今はここにブレーキングポイントが置かれ、新線の起点32K810Mを前記に読替えている。
新線は、1968年5月15日に現上り線のみによる単線で開通し、弁辺トンネルからの新旧並列区間の一部で旧線路盤を切り崩して現下り線路盤への転用工事を行い、同年9月25日に複線使用を開始している。

この転用部を除く旧線路盤は、国道37号線から浜高岡へと抜ける町道が旧線と並行した後に踏切で越えていた部分も、一部でこれを利用して新線の下を立体交差する形に改められたことで永く現存していた。
70年代半ば頃にはその地点から現在の噴火湾展望公園の在る丘への登坂路が切り開かれ、そこからの俯瞰が豊浦 (室蘭本線) 1979でのカットである。80年代半ばに至ると、この町道の改修により旧線路盤が崩されて、ここでのそれは判然としなくなってしまった。同時にそこに接していた上記の登坂路の入口も大幅に付け替えられている。この改修工事中の旧線路盤付近からの撮影が豊浦 (室蘭本線) 1988になる。

その小さな社がいつから存在したかは知らぬのだが、確かに上記の登坂路とは別に斜面を辿る草道は在った。この93年になって、そこまでの階段の整備され周囲の樹木の取り払われたのに気がついた。
写真は、その位置からの8001列車<トワイライトエクスプレス>である。
前記の2カットでの特徴的な杉木立が、ここでも良いアクセントになってくれる。画角には、豊浦 (室蘭本線) 1989の「ドライブインみさき」も見える。
カーブの内側は70年代までは畑作地で、その後に耕作の放棄されていた。現在では豊浦町によりパークゴルフ場に姿を変えている。その手の施設では絵にならぬゆえ、ここも失われたポイントではあろうか。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

石倉-落部 (函館本線) 1993

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それが何年に一度の間隔で行われていたものか知り得ないのだけれど、この区間の海岸段丘崖の熊笹やらの植生が一斉に刈り取られることがあった。頭部の赤く塗られて「工」マーク入りの境界標は段丘上の国道脇に埋められていたから、その斜面は鉄道用地である。国鉄の保線区所による列車走行空間保全の一環に違いないそれは、法面地盤の直接の状態確認のためなのだろうか。
それまで植生に覆われてしまって存在を知らなかったのだが、それの刈り取られると、ここには国道から線路へと降りる長いタラップが4箇所も設置されているのが見えた。ドライブインのあるところの少し落部寄りには斜降する通路も見て取れた。その少し前に深い笹や草を掻き分けて、比高20メートルばかりを登り降りしていたものだから、拍子抜けした覚えがある。
それで、地図上にそれらの位置をプロットし後年に利用を試みるも、それは再び植生に深く沈んでしまって所在を見つけられなかった。そんな状態であったから、果たして実際に保線業務に使われていたのかも疑問の通路ではある。
戦後の結成時から国鉄の労組と当局間には、職場の改善要求を提出する慣例があり、中には「宿直室に冷蔵庫を用意されたし」と云った項目も含まれたのだが、大半は作業の安全上の要求が並び、当局側も真摯に応じていたのである。このタラップも線路巡視の自動車利用が主となって必要と判断されたものであろう。結果的に無駄な設備にも思えるけれど、これの設置された頃の国鉄当局と組合との良好な関係を示す「遺跡」ではありそうだ。

写真は、第一落部トンネルを抜けて再び噴火湾岸に出た8002列車<トワイライトエクスプレス>。
この前年の7月半ば、傾いた西陽が段丘面に遮られてしまったゆえ→石倉-落部 (函館本線) 1992、夏至の時期を狙っての再訪だったけれど、やはりそれは列車通過直前に途切れてしまうのだった。海面からの反射光に些か救われる。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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何処かで、札幌の市街地の発展は「歪」だ、と言う旨の記述を読んだ記憶が在る。
確かにそのとおりで、同じく札幌の隣駅の桑園周辺と比しても、この苗穂近辺は、どうもその都市の高度化から取り残されているようだ。
40年も前の記憶を引き出せば、道庁前で分岐した札幌市電の苗穂線の広い沿道は、そこへ入った途端に低い商店の軒や家並みが続きながら苗穂駅前で尽きて、そこは札幌の街外れだったのである。これは、例えば新琴似に尽きる鉄北線の沿道とて同じようなものだったのだが、現在では明らかな落差がある。

1922年の、この市電苗穂線の全線開業時の停留所名称が興味深い。それのネーミングライツを公募した訳でもなかろうに、個人商店名の連続していたのである。曰く、添田商店前/鈴木商店前/藤井呉服店前/里田醤油店前など苗穂駅前まで当時の10停留所中7個にも及んでいた。公共的施設の無かったとも見れるけれど、これら有力商店をはじめとした商業地域が形成されつつあったものと思う。
それは、西側に拡張して行った市街地に集積された住宅街を背景としたものだろうが、南は豊平川を越えられず、北は鉄道線路と広大な工場に機関区とに阻まれた狭い地域ゆえに、早期に飽和に達したのだろう。40年前の街並は、そう見て取れる。

今でこそ、ホテルが進出したり平屋の民家はマンション建て替えられ、ビール工場も大規模商業施設に姿を変えてはいるものの、駐車場と云う名の空き地も目立って、近年の都市の病である「旧市街地」なるエアポケットに落ち込んでしまっているかのようだ。

写真は、札幌からの高架を降りて苗穂に進入する、2列車<北斗星2号>。
ここに、札幌方面行き乗降場を南に移設して引上線の置かれる以前のことにて、この画角はもう撮れない。
日没が悪天でも、空はドラマティックな方がいい。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f2.8 SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

沼ノ端 (千歳線) 1993

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原野を背景に植苗-沼ノ端間で展開する千歳線の室蘭本線との分岐/合流は壮大と云って良い。大宮北方での東北/上越新幹線にはスケールで及ばないが、在来線で比肩し得るのは北陸本線と湖西線の近江塩津くらいではなかろうか。但し、こちらは山間地にて隧道がいくつも介在して、その規模は見え難い。
ここでのスケール感のひとつには、千歳線の下り線が、その上り線や室蘭本線から大きく東に迂回するところにあるが、それは用地や設計上の事由からではない。本来、これが別の私設鉄道であった故である。

その私設鉄道こと北海道鉄道は、室蘭本線上の既設駅である沼ノ端を起点に富内までの金山線を開業した後に、第二次路線として苗穂までの札幌線を一挙に開通させた。1926年8月21日のことである。その路線は沼ノ端の東方で金山線から分岐して北に向かい、高度を上げながら左転の後、室蘭本線を乗り越して台地に取付き、次駅植苗に達していた。これが今に残る千歳線下り線の線形である。この鉄道が沼ノ端で構内南側に乗入れていた関係から必然の路線選定で、千歳線となった今日では、期せずして沼ノ端構内での本線横断の回避に寄与している。
対して、5キロ近くを室蘭本線の複線と並走して3線区間を演じた後に左に逸れる上り線は、1969年9月25日に使用を開始した増設線である。これを以て北広島-沼ノ端間の複線化が完了している。
室蘭本線の路盤に腹付けしての線路増設は、戦時中に一度計画/着工され、その後に放棄された経緯がある。現在線は9.8パーミル勾配の盛土を構築して植苗の台地に取り付くのだが、この計画線では台地の切取りに依っており、その土木工事跡が今でも地形図で読み取れる。現在線脇に続く「掘割」の記号がそれである。けれど、現地に赴くとそこは樹木に覆われ、崩壊もあったものか判然としない。

写真は、下り線の合流点に差し掛かる8002列車<トワイライトエクスプレス>である。
沼ノ端構内における実際の列車振分けは、上り列車を長万部方の、下り列車を岩見沢方の分岐器が担っていて、下りが室蘭本線と千歳線で乗降場を供用するに対して、上りのそれの別であるのはご承知のとおりである。これは、北海道鉄道線が室蘭本線上り線側に乗入れていた名残と云えようか。
さらに付言すると、写真の列車後方にS字形の反向曲線が見える。これは、金山線の廃止後に(廃止時は国鉄富内線)、そこからの千歳線分岐部と沼ノ端進入部の曲線改良に際して生じたものである。

なお、ここでの千歳線上下線は、苗穂を起点として記述している。苗穂は現在でも施設上の起点に変わりはない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

静狩 (室蘭本線) 1993

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長万部から静狩までの区間の、函館線に所属する長輪線としての開業は、1923年12月10日と記録される。
勿論、既に開かれていた静狩金山の資材輸送にも活用され、長万部市街地以上に成長しつつあった鉱山街区との人的移動に利用されたであろうが、直接的な関連は薄く、あくまで工業都市室蘭の函館/本州線への短絡線建設を目的とした工事の最初の開通区間であった。
この区間は、1919年3月に同年法律21号により長万部-輪西間が北海道鉄道敷設法第二条の予定線に追加されると、4月には測量に着手、7月に線路選定を終えて、11月に工事に着手している。原地形が海岸沿いの平坦な原野であり、ほぼ直線の線形が選定されたにもかかわらず、6.6マイルに4年の工期は、泥炭地での工事に手を焼いた結果と見て取れる。

この10キロ610メートルには、1943年9月25日に旭浜信号場が設けられた。アジア太平洋戦争末期に沿岸の制海権を奪われたことによる海上輸送の陸運転換に際して設置された一連の信号場のひとつである。その位置は、起点5K300Mと見事に中間地点が選ばれている。前後とも原野の直線/平坦区間で、両端駅からの運転時分が等分となる位置を選定した結果であろう。
ここは、客扱いも行っていたらしく、1969年9月20日付での複線使用開始にともなう信号場廃止以降も仮乗降場として2006年まで存続したのは、ご承知のとおりである。

起点9キロ付近のR3000左回り曲線にて、やや内陸側に寄ると国道37号線の静狩跨線橋に至る。静狩の直前である。蒸機時代には煙の無い区間にて注目のされなかったものだが、近年では定番のポイントで、同業の鉄道屋に出会わぬことは稀となった。僅か数メートルの高度でも平坦な区間にあっては貴重な俯瞰ポイントである。
ここで、早朝の寝台特急群を撮ろうとすれば、かつては長万部からの始発を静狩で下車してから、1列車/8001列車まで30分程の余裕しか無く、それこそ走るように戻って盛土斜面を直登したものだったが、海峡線内での新幹線工事関連でそれの時刻の繰り下げられた現在では余裕である。

列車は、8007列車<エルム>。
この頃、ここを6時台から9時台にかけて最大6本の寝台特急群が下っていた。
札幌終着が12時を回り、そのしんがりを務めたこの列車は、天候や光線の安定する日中の通過となって安心して撮れた。
現在と異なるスペース感は、線路山側の通信線柱が線路から離れた位置に在って目立たぬせいであろう。それの移設後は、ややうるさい上に窮屈な印象がある。

[Data] Nikon F4s + AFNikkor180mm/F2.8ED  1/500sec@F8  Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1993

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蕎麦は「三たて」と言われる。けれど、これは極く近年のことで、とても怪しい。「包丁下を煮てはならぬ」と言う蕎麦屋の格言があり、水の切れない蕎麦は喉越しの香りもたたない。

蕎麦好きで、麻布の更科堀井や永坂更科、芝大門布屋に通った身としては、「もり」なら水切りなのである。
勿論、そこの名目(メニュー)にある訳ではないのだが、立込みの時間を外せばリクエストが出来たし、そうでなければ蒸篭を酒に蕎麦前とオーダーして呑みながら、水気を飛ばすように箸でつまみ上げつつ自分で水を切るのである。
適切に茹でられ、水分を吸収してしまう前に水切れのした蕎麦は、のびてしまうでなく実に美味い蕎麦の味がする。完全に水切れしたそれは、勿論固まってしまうのだが、箸を水で湿らせて蕎麦をほぐしながら食すれば良い。
のびてはいないのだから、それはさばさばと復活する。
江戸期における成立時に目籠詰・折詰を看板に出前を主体に営業していた更科の蕎麦とは、そう言う蕎麦でなのある。
まさか船便ではなかろうが、戦前には中国大陸まで、戦後にはハワイにまで出前した記録が残るそうである。

さて、このような水切りした蕎麦は、なにも江戸の更科蕎麦だけのことでなく、挽きぐるみの生粉打ちと思われる田舎蕎麦にも存在する。知る限りでは岩手県南部地域や山形県の置賜地方には「茹で置きの蕎麦」がある。他に知らぬだけで、東北地域には広く存在するのかも知れない。
とある旧家で馳走になったのだが、茹で置きを乱暴にも水で戻したそれは、歯切れ良く腰のたったものであった。寄り合いの仕出しで何十もの折詰の配られるのも目撃している。それもしっかりと水切りされ、ひとつまみずつ丁寧に折り畳まれるように詰められて往くのだった。
記憶は定かでないのだが、幼少の折茨城県北部での葬式後に配られたのも蕎麦折詰ではなかったかと思う。

長万部駅前所在の「そばの合田」には「折詰もりそば」がある。現在では駅での立売りは止めてしまったようだが、特急車内のワゴンサーヴィスが取り扱っているし、勿論店頭に往けば買える。
これも、1931年の販売開始に際しては田舎蕎麦の茹で置きを折詰化したものと思われる。創業者が何処から移住したものか調べ得ないが、東北地方出身の方ではなかろうか。
少々苦言めいてしまうのだが、麺の細くなった今の「折詰もりそば」には、もう少し水切れを確かにしていただけぬかと思う。割箸を先端の細い丸箸に替え、それを湿らす水の添付があればなお良い。

長万部川の流路を付け替えた新長万部川は洪水対策の放水路としての人工河川で、普段には干満の在る静かな水面が広がる。
人工ゆえか、その川岸は情緒には欠けるようだ。
列車は、5列車<北斗星5号>。

-参考文献-
そば屋の旦那衆むかし語り 藤村和夫 2000 ハート出版
蕎麦年代記 新島繁 2002 柴田書店

[Data] NikonF4s+AINikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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