"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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大岸 (室蘭本線) 1992

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礼文-大岸 (室蘭本線) 1990 の記事で、道道608号線の廃道部に残存する岩見隧道と達古武隧道の供用を1944年と書いた。以下は同記事の補遺である。

切っ掛けは、ようやくに「北海道道路史」(1990年 北海道道路史調査会編)を通読したことによる。全3巻からなる、それの第2巻技術編に上記隧道が1870年の竣工との記述を見つけてしまったのである。そこへの鉄道トンネル掘削に先駆けること60年には少しばかり驚かされる。
先の記事では、アジア太平洋戦争末期の工事に「東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない」と疑問も呈しており、その回答とも云えるものの、俄かには信じ難い。この視点で「豊浦町史」(1972年 豊浦町)を解けば、本願寺道路との関連を匂わせる記述が見つかるのだけれど、地理的位置が違い過ぎようか。どちらも出典=一次資料の明示は無い。所載の参考資料群を片端からあたれば巡り会うだろうが、それほどの時間も無い。
ただ、先には北海道庁の資料での記述を信じて迂闊にも失念したのだが、改めて旧版地形図を閲覧すると1917年改測とされるそれに「道路」の存在は確認されたのだった。「長輪線建設概要」(1925年 北海道建設事務所)に収録される写真に写る礼文集落から(鉄道の)岩見隧道へと平行する道路を「工事用通路」と書いたけれど、既存だったことになる。
しかしながら、同じく所収の子持ち岩付近から(鉄道の)茶津・達古武隧道を画角とした写真には、それらしきは見えぬのである。難所のそこが、当時には人馬の辛うじての通行を保証するに過ぎない「通路」だったとすれば、トンネルも素掘りの洞窟風情とも推定され、解像度の良く無い原板にロウレゾの印刷技術には、写り込んでいても判然としないのかも知れない。
取り敢えずに閲覧した資料からは、どのように結論して良いものか。
今のところ1870年と云う確証は手にしていないけれど、1917年の改測図に鑑みれば鉄道隧道以前の1900年代初頭頃までにはトンネルは穿たれ、それは人馬のようやくに抜ける程度に洞窟然としていた、と云うところだろうか。道庁資料の1944年とは、それを貨物自動車の通常の走行を保証するまでの改修を指すのか。市井の道路史家や郷土史家には委細ご研究の向きもおいでのはずで、是非ともご教授願いたいものである。

大岸第一キャンプ場の東端には小さな岩山が存在する。車窓に認めた方も多かろう。チャス岬と同じく後背の山塊からの尾根筋の張出し先端が鉄道や道路建設で分断されての岩山だろうが、俯瞰と言えるほどの高度は無いものの、見渡す海岸風景が気に入って何度か立っていた。
大岸 (室蘭本線) 1991 の翌年、手前に放置されたボートが、その1年に海へと漕ぎでた形跡は無く、小屋の扉は風雪に破れてしまっていた。
通過するのは、定期に格上げされていた頃の3列車<北斗星3号>。470Dとの離合は大岸トンネル入り口付近のはずだか、3列車の僅かな遅れで被られるところだった。

チャス岬根元に現役だった岩見隧道が見える。先の「北海道道路史」は達古武隧道と共に道内最古の道路トンネルと書いている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


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落部 (函館本線) 1992

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森町域から八雲町域に至る噴火湾西岸には海成段丘が発達し、特に海食崖に続く波食棚が離水するまで隆起しなかった石倉から東野に掛けては段丘崖が汀線に接している。
古代以来に海沿いの通行路とは一般に海岸線をトレイスしていたから、この区間はやはり難所であったろう。幕末期の1845年に此処を通過した松浦武四郎は、後年の東蝦夷日誌に、モナシベ(現在の栄浜付近)からホンミツ(地名は残らなかったが、現在の落部市街地東端あたりであろうか)までを「タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有、之まゝ径我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すべし。」(※句読点を加えている)と記し、落部川を渡船してからモノタヘ(現野田追)への段丘崖を「クロハゲ并て少し行アカハゲ赤土崩崖なり」と書いている。
ここには、1600年頃に松前藩による知行地たる場所の置かれていたのだが、当初には福山(松前)との往き来は勿論のこと場所内交易拠点間の連絡にも主には船が用いられていた模様である。1799年に東蝦夷地を直轄領とした幕府は、松前から長駆エトロフに至る軍用路を開設し、陸上の運搬路も開かれたものの、これとて局地的踏分道を繋ぎ合わせ、辛うじて人馬の通行を可能とした程度で、通路開削の困難な段丘崖直下の海岸線は「海岸汐時に寄深ヌカシテ馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」(「蝦夷渡海記」1809年)と捨て置かれた様子は、40年余り後の松浦武四郎の記述に合致する。
それでも、その時代に鷲ノ木・山越内・長万部に通行屋が、落部・黒岩に昼休所が設けられて通行の利便の図られていたことが記録されており、この原初的な通行路は日本海岸寿都までの連絡も担い、寿都街道と呼ばれていたようである。

森から長万部への本格的な西洋式の交通路、河川への架橋も含めた「道路」の開かれるのは、1888年に着工して1890年12月に開通した国道が最初であった。これには、規格とされた幅3間(約5.5メートル)の確保に、段丘崖直下の開削は困難であったのだろう。ヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)現在の本石倉付近から東野へは段丘面上を通過する線形の選ばれていた。
よって段丘崖下に路盤を構築したのは、アジア太平洋戦争戦時下での陸運転換政策に急遽着工され(計画と設計は1930年代から存在し、一部隧道は1942年から着工されていた)、1945年7月20日に使用を開始した函館本線の別線が最初であった。段丘面上へと登り降りする既設線に比して勾配の除去を要求されたゆえのことであり、古の通行路が鉄道に姿を変えて復活したのだった。土木技術と機械化の進展の結果ではあるが、段丘崖の崩落と噴火湾の波浪に悩ませられる災害区間となったことは、松浦武四郎の時代と違わない。

海面との比高の40メートル近くに及ぶ段丘崖下を往く8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここを17時33分頃が定時だったこの列車の光線下で撮影は、夏至の近辺と云えども困難だった。それは列車の斜め後方からとなるのだが、急峻な崖下までに届くことは無く、せめては海面への照射の反射光に期待することになった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCCon Mac.

上野幌 (千歳線) 1992

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札幌を目指す車窓に感ずることだが、<宗谷>や<オホーツク>のそれが江別から右側に延々と防雪林の続き、その向こうと反対側の都市近郊らしい住宅街が終着の近いことを教えてくれるのに対して、千歳線の<北斗>ではなだらかな丘陵を抜けて往く景観に原生林の眺めから新札幌で唐突に都市に放り出される感がある。それはドラマチックとしてもよかろう。
この厚別丘陵越えの区間、上野幌から北広島へは中間に西ノ里信号場が孤立していた旧線の時代から新線の現在に至るまで札幌近郊に在って多くの写真屋を集めるロケイションでもある。
手稲に暮らした少年の時代、最急13.5パーミル勾配と半径300メートル曲線に前位定位だった補機との重連蒸機の咆哮には、幾度か信号場に降りたものだが、丘陵の樹林を縫う線形には引きの取れず、加えては付近で始まっていた新線の路盤造成工事に土砂の掘り返されて、まともな写真は撮れていない。写真そのものは勿論、障害物を避けて画角を採る技術も拙かったと云うことだ。
撮り易くなったのは寧ろ新線に切替えられてからのことで、以来に渡道の度に少なくとも一日はこの区間にスケジュールを割いていた。沿線丘陵地は一部を除けば落葉樹に覆われ、10月半ばからの紅葉黄葉は今でも外せない定番でもある。
季節に廻り往く光線に幾度も立った地点ばかりなのだが、近年にはその多くが失われてしまったのが残念でもある。上野幌場内から北広島方向を遠望した駅西側の斜面は、直下が切り崩されて新道沿いの宅地と化したし、大曲橋梁を間近に見る熊笹の丘は樹木の成長してそれを望めなくなった。定番の椴山、農場橋近くから上野幌方R=800M曲線を画角にする位置も切取斜面下の樹木に遮られるようになって、もはや以前の位置は取り難い。北広島近くの高さのある輪厚橋梁は、とうの昔に住宅に取り囲まれて絵にはならない。
残るのは、農場橋の北広島方R=1000M曲線を望む画角となろうが、いかんせん電化柱と架線を避けて編成を見通せるいつもの位置へ再びに立てば、近年に増えたその農事橋付近からお手軽に撮る人々の画角に入り込むのは必定でもあるので、少なくとも道内から特急寝台列車の去るまでは遠慮する他は無かろう。

写真は、大曲橋梁を俯瞰気味に見通せた斜面からの1033M<すずらん3号>。この位置も北海道ガスの北広島供給所の設備が建設されて失われた。
道内で電車列車にシャッタを切るなど、本番の特急寝台や貨物のテスト程度ばかりなのだが、1988年3月改正から多客時に施行の781系電車4両組成の2本による非貫通先頭車が向き合う運転には意図的にカメラを向けたものだった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac. 

洞爺 (室蘭本線) 1992

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洞爺を発車した上り列車は、場内を出ると虻田発電所を右手に、その排水路を洞爺川橋梁で渡り洞爺トンネルをくぐり抜け、虻田漁港大磯分区を車窓に進めば、山側に下り線新クリヤトンネル出口抗口、海側に旧線の黒岩トンネルの遺構を見て自身は(新)黒岩トンネルへと進入する。この僅か1.5キロばかりの区間の沿革は趣味的に興味深い。

1928年9月10日の長輪線としての開通当時に洞爺トンネルは存在せず、線路は断崖の下を海側に迂回していた。ちなみに、1939年10月の虻田発電所の運転開始には洞爺川も細い流れに過ぎない。線路はそのまま大磯の海岸線をトレイスするように黒岩隧道へと続いた。
一方、1800年代初頭に開削の人馬交通路を1894年に改修した道路に端を発する国道37号線は、洞爺駅前から線路の海側を進み、大磯浜の踏切で山側に遷移するとしばし線路に併走した後に、幌内川の深い谷の上流迂回に斜面を急坂で登っていた。
豊浦-洞爺間の線増についてはWebSiteの記事に詳述しているのでご参照願いたいのだが、それに際して落石への防災対策と曲線改良を兼ねて複線断面にて掘削されたのが洞爺トンネルであり、1968年9月28日に既設線山側に設けられた増設線路の単線にて使用開始とされた。そして、その新線線路は新クリヤトンネル出口から洞爺トンネル入口までの一部区間で山側に並行していた国道の道路敷を路盤に転用したのである。
静狩から洞爺に至る国道の抜本的改良工事の最後として、ここへの洞爺跨線橋を含む新道の開通にともなう1966年の旧経路廃止を待っての工事であった。国鉄側には新クリヤトンネル出口抗口位置を幌内川とした時点で、それは既定方針であったことだろう。このような、国鉄札幌工事事務所と北海道開発局の函館・札幌両開発建設部との連携は線路路盤の道路転用を含めて、線増工事が国道の改良と同時期に進められた函館/室蘭本線には事例が多い。→桂川-石谷 (函館本線) 1994 →桂川信号場-石谷 (函館本線) 1977
旧国道の鉄道転用終端から先、斜面を上っていた部分も工事用通路として利用された後に法面へと改修されて痕跡は無い。けれど、1990年代半ばまではその経路が電線路に利用され辛うじて位置だけは知ることが出来た。
なお、取り残された大磯踏切の東側区間は永らく線路沿いに行き止まりの町道として残されていたが、最近には新たに構築の虻田漁港大磯分区への接続路に再利用されている。

強い西日に大磯の浜を黒岩トンネルに向かうのは5010D<北斗10号>。後追いである。
虻田市街地に隣接するのだけれど、あまり人の近づくことの無かったこの浜には多くのウミネコが羽根を休めていたものだった。今は漁港築造で失われた地点である。

[Data] NikonF3P+AiAFNikkor ED180mm/F2.8 1/250sec@f11 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

白石 (千歳線/函館本線) 1992

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上野幌-北広島 (千歳線) 1990 から続く

この千歳新線計画にて労せずして恩恵を受けたのが白石だろう。
切替直後でも函館本線上下56本(停車列車のみ)に千歳線の上下26本列車の停車増、同線電化直前の78年10月改正での上下38本列車は函館本線列車70本に対して35%もの利用チャンス拡大となり、電気運転化のなされた80年10月以降の両線による対札幌の頻発運転実現は、周辺地域、特に60年代に農地から宅地への転用の始まった北郷地区に居住地として飛躍的な発展をもたらした。
かと云って、当時に千歳線は都市近郊路線としての機能を持ち得なかったのだが、将来性を含めてそれを失った月寒、大谷地などの南郷地域が取り残されたでもない。ここには76年の白石まで、82年に新さっぽろまでの札幌市交通局の東西線が開通したからである。
公文書をめくった訳ではないので詳細は省くが、札幌市は1964年に「札幌市における将来の都市交通網計画」を策定し、そこには方式に地下鉄、モノレール、路下電車(路面電車の地下化)を挙げながらも南北/東西の2路線の構想が記され、翌65年には東西線をひばりが丘団地と発寒勤労者団地を結ぶ20キロ路線とする高速電車の基本計画が示された。
国鉄が単複は未定でもほぼ千歳線の別線化を固めていたと思われるこの時期に、札幌市は既設線廃止ならば路盤の高速電車線転用を打診していた模様である。構想段階では建設費から郊外区間の高架線を計画していた札幌市とすれば願っても無い案件だったに違いない。
これが、既設線を活用した単線別線案も最後まで保持した国鉄の決定に、どう影響したものかは分からない。少なくとも国鉄側の資料には記録されていない。結果的には、国鉄は1976年9月30日まで東札幌-月寒間の線路を維持し、その年6月10日に琴似-白石間を開業した東西線は東札幌から南郷通りを経路とした。

官設幌内鉄道当時の1882年11月13日にフラグステーションとして置かれて、1890年9月5日に廃止された白石の停車場が、函館本線上に再設置されたのは1903年4月21日のことであり、それは1896年5月に月寒へ独立歩兵第一大隊が創設(まもなくに歩兵第25連帯第一大隊に改組)されて以来の一帯の軍事基地化を背景にしていた。北海道鉄道(2代)の月寒駅開業は1926年8月21日で、時代を下がってのことである。
地元にも待望の停車場だったらしく、住民からの寄贈による用地の当初の構内は知れぬが、1920年頃とされる写真には、構内南側に駅本屋、それに接する上り乗降場と対向式する下り乗降場に中線を持つ規模と伺える。時期は不明ながら(戦時下と推定)、その後に下り乗降場北側に下り副本線と側線が置かれて、それは島式に改築され、この構内が基本的に千歳新線建設まで維持されたと思われる。
本屋西側の貨物積卸施設は、東京駅舎や北海道庁の庁舎建設にも使われたと云う煉瓦の積出拠点として、その工場の閉鎖される1922年までは活況を呈したものだろう。
この貨物施設の一角と思われる位置へは、定山渓鉄道が、その1918年10月17日の開業から1945年3月1日に戦時における不要不急路線撤去政策にて東札幌-白石間が廃止されるまで乗入れていたのだが、乗降場の具体的位置を確定出来る資料は閲覧していない。この区間の旅客営業は1941年には廃されていた。
また、東側からは1944年に開設の陸軍白石兵器補給廠への専用線が月寒方向へ敷設されたが、これの構内分岐(接続)位置も良く分からない。余談だが、跡地に現新札幌駅が置かれた陸上自衛隊厚別弾薬庫は、この白石補給廠の厚別常駐班が前身である。
(この項 白石 (千歳線/函館本線) 1999 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、白石西方での5列車<北斗星5号>。
背景に環状通り跨線橋を通して白石構内が見える。列車の走る千歳上り線(下り運転線)は旧函館下り線路盤であるから、ここから直線で延長すると現況の江別・千歳方面ホームに突き当たる。詳細は次回記事で述べる。

[Data] NikonF3P+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1992

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札幌市街地から南西部の野幌丘陵を越えて千歳や長沼方面へ抜ける道路は、かつて広島街道と呼ばれていた。宅地開発の進められていたひばりが丘を抜けると、道沿いに農家の点在する畑作地が広がりその先には原生林が立ちはだかる風景が続いた。丘陵を登り詰めるあたり、種畜牧場を右へ辿れば細い砂利道は斜面を下って鬱蒼とした森の中で千歳線の遮断器もない踏切を越えていた。親父に連れられた、大衆車トヨタパブリカでの日曜ドライブの記憶である。
千歳方向を見ると、その先で線路は分岐して駅らしき構内が垣間見えた。当時に設置されたばかりの西ノ里信号場である。ここでの汽車を背景にしたスナップ写真がアルバムに残る。付近では重機の入った千歳新線の工事が始まっていた。
踏切の先で森をぬけると馬鈴薯農場の試験圃場に出て、道は落葉松の並木を直線で通り抜けていた。農場は周辺から隔離されるように林で囲まれ、遥か樽前や恵庭の山を背景にした爽快な風景は親父のお気に入りだったらしく、ドライブの目的地はそこであった。
この風景は永く記憶に残って、後年に新線に架けられた跨線橋に通うようになると、時折北広島駅からのタクシーを大曲方面経由にしてもらい種苗管理センター北海道中央農場と名を代えた農場手前で降りて、並木道を歩いたりしていた。その道は北広島市道大曲椴山線となり、千歳線の跨線橋は農場橋と呼ばれている。

この年の7月1日に建設中であった新千歳空港ターミナルビルが供用となり、そこの直下に北海道旅客鉄道が新千歳空港駅を設け札幌方面との間に快速列車の頻発運転を開始した。それは島松やサッポロビール庭園、白石への待避線の新設ないし増設、西の里信号場の設置など地上設備の増強をともない、特急から貨物列車までの集中する道内での最過密運転線区にあっての、速達列車のさらなる増発と表定速度の確保には必要欠くべからざる設備であった。
この際、足の遅い貨物列車に対してはそれら退避設備を有効化し、且つ普通電車列車と平行ダイヤ化を可能とする運転性能が要求され、日本貨物鉄道がDF200形式電気式内燃機関車を製作する直接の動機となった。勿論老朽化の進むDD51形式の代替機として以前より計画されていたものであろうが、その試作機の新製配置は1992年4月2日のことで、量産機の配備がこのダイヤ改正に間に合うはずもなかった。
この事態に、同社は昼間時間帯に千歳線内を運行する列車をDD51形式の2台運転にて対処とし、そこでは多くの重連牽引貨物列車の姿が見られることになったのだった。

写真は、農場橋から見下ろした3070列車。対向する3071列車もDD51の重連牽引である。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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長万部 (室蘭本線) 1992

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標高30メートル程の二股付近で谷を抜けた長万部川は知来川を合流して、自らの形成した小さな扇状地の緩い傾斜を南流する。戦後に米軍や国土地理院の撮影した空中写真を見れば、標高が10メートルを切る美畑付近からの下流域では蛇行して、かつての流路の痕跡が幾つも認められる。
大きな出水のある度に流路の変わっていた、所謂暴れ川であり、抜本的治水には放水路の建設を要したのであろう。その放水路である新長万部川については、長万部 (室蘭本線) 1994に書いている。

これの開削に際して、かつての流路は水門により締切られ、オバルベツ川との合流地点まで細い水路の残されたものの水流はなくなっている。旧来の河幅は残された堤防にて知れるが、河川敷は広大なパークゴルフ場である。
本来の水源を絶たれた現在の長万部川は河川名こそ残るけれど、実質的にはオバルベツ川の延長、その下流部と云うことになる。

写真は、長万部川橋梁上の3054列車。
10月の初めの穏やかな午後、格好の餌場となった新長万部川あたりからは、ウミネコが一斉に飛び立って行った。

オバルベツ川は、10キロに満たない延長の小河川だから、橋梁下にかつての流量はなく水面は静止している。
ここでは、この上り線が複線化時の新設線である。蒸機の時代には、ここの左寄りから噴火湾を背景とした画角も切れたのだけれど、今は長万部町の汚水処理施設が入り込んでしまって叶わない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

礼文-大岸 (室蘭本線) 1992

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噴火湾の北岸、その最も奥まったあたりでは、眼前に海面を見るにかかわらず、そこから陽の出ずることも没することも無い。北海道の地図を俯瞰すれば、すぐに理解されるのだけれど、現地に立てば戸惑うことの多かった。
内地の太平洋岸に永く暮らしてしまうと、海が在ればそこから陽の昇るものとの感覚に囚われるのだ。
豊浦の俯瞰山から貫気別川を見下ろせば、陽は左手後方から射し始め、蘭法華岬で下り列車を待てば、岬の大きな影が海面に落ちるのである。

そして、それは渡島半島脊梁の低くなだらかな山系に没して往く。地勢の関係からだろうか、その薄暮時間の短くて夏期でも30分に満たなかったと記憶している。
写真は、礼文浜の薄暮を、良く知られたチャス岬から眺めている。手前の山体が大きな影になって、ここはもう闇に溶込んでしまった。

今では、「道道608号大岸礼文停車場線」は、旧室蘭本線の路盤とトンネルを拡幅しての新道が整備されたが、この頃までのそれは、素堀のままのタッコブ/岩見の両隧道を有する細い海辺の道路で、風情としては遥かに滋味のあるものだった。付言すれば、それは1944年に開削されたかつての国道37号線でもある。

列車は、3063列車。ヘッドライトしか写らぬゆえ、どの列車でもよいのだが、ここは日没時刻を睨みながら律儀に機関車列車を待ったのだった。
秋の始まりの頃、誰も来なくなった浜には波だけが光り、アスファルトの路面は僅かな反射を見せる。
新道に照明の設備されてしまい、今はもうこの静けさは失われている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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豊浦 (室蘭本線) 1992

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9月ともなれば沿岸には鮭が回帰して来る。
大規模には定置網による漁獲だけれど、資源保護で設置は制限されていて、それを逃れた多くの鮭が母川を探して海岸に接近する。道内各地の浜に釣り人の竿が林立するのも、この季節である。
これは、道内で一般的な投げ釣りで、通称-ブッコミと呼ばれる。仕掛けに重い三角錘を付けて海中に投げ込んで、後は魚信を待つだけゆえ、竿を浜に固定して放置するのである。釣り人ひとりで複数の仕掛けを投げ込むのが作法と見え、盛期の浜には竿が立ち並び壮観ですらある。

噴火湾の水温はやや高く、ここへ注ぐ河川への回帰は道内でも最も遅いと云われており、豊浦漁港での貫気別川を目指す鮭の定置網漁は9月の始めに解禁され、10月に盛期を迎える。
高岡の浜には釣り人達の姿も見られるようになるが、資源保護のため河口付近には、道の水産林務部により禁漁区域が設けられ、貫気別川のそれは河口から左海岸300メートル、右海岸700メートルで、例年9月1日から12月10日が施行期間とされている。なお、ここでの左右とは、河口にて海に向かってのことを云う。
右海岸300メートルとなれば漁港近くまでを含むゆえ、多くの釣り人は左海岸、浜高岡地区の行き止まり、室蘭線の弁辺トンネル出口下あたりに集まることになる。

この光景を画角に取り込めぬものかと思うのだが、なかなかに都合の良い竿の並びや光線には出会えずにいて、それを添景にする程度の習作で終わっている。近年に整備された釣り突堤に立てば、これを海面を隔ててほぼ正面から撮れるものの、やや距離のあって林立する竿が背景に埋もれてしまうのが難点である。それともうひとつ、釣り人の大半が自動車にて訪れるゆえ、それは必ずや画角に入り込んでしまうのだった。

列車は、弁辺トンネルを出る8551列車。5列車直後を雁行して、秋冬の繁忙期程度しか走らないスジであった。

[Data]NikonF3P+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f11 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

沼ノ端 (千歳線) 1992

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2011年において道内で人口の増加をみたのは、札幌市と千歳市に恵庭市、そして苫小牧市の4都市のみである。
苫小牧市における人口増加率は近年に至って足踏みしているとは言え、道内のほとんどの地域がマイナスに転じる中に在って、1990年代まで継続してプラスを維持し、高度成長期ただ中の1969年の10万人余りは95年に17万人へと到達している。2011年12月末日での住民基本台帳によるデータで、それは174,219人である。

その増加人口を吸収した地域のひとつが、ここ沼ノ端なのである。
75年当時に駅南側に散在するのみであった住宅地は、その東側から北側に大きく拡張され、ウトナイ湖に迫るまでとなっている。字沼ノ端地区における2011年末の8063人の住民登録は、ここに市街地の形成された90年代を通じての同市の人口増加数にほぼ等しい。

国道234号線付近まで広がっていたウトナイ湖周辺の湿地帯への土地改良工事は、早くも1970年代初頭に開始されており、その第一歩として排水溝掘削の行われていたのを目撃している。もっとも、それが宅地造成目的とは知らず、そのロケーションから牧草地と思っていたのだった。現在その造成区域の東縁には道央道苫小牧東ジャンクションからの日高自動車道が開通し、その間の区域に住宅街の拡張しているのはご承知のとおり。全ての住宅の真新しい映画のセットのような街並である。

写真は、その区域からはやや外れた勇払川橋梁(306M)での8001列車<トワイライトエクスプレス>。
ここは近年に河川敷の改修が進められ、川筋の明瞭で無かった周辺湿原が失われている。

さて、忘れもしない、この日、沼ノ端からの歩きでここに到達して直ぐに、猫を拾ったのである。
この頃には国道から千歳下り線をくぐってこの付近に至る小道が付けられ、それを伝い、前夜か早朝に捨てられたものだろう。
実は、このカットの撮影時には、もう傍らに連れて来ていて、それを気にしながらシャッタを切っている。その当時、自宅には2匹の猫も同居しており、とても放っておく気にはなれなかったのだった。
とは言え旅の途上である。とりあえず兄弟3匹をバックパックに詰めて駅まで戻り、近くの商店でミルクを買い、段ボール箱を貰ったのは良いが、途方に暮れてしまった。
それから数時間、ただ記憶をたよりに電話を掛け続けて、ようやく動物好きだった20数年前の同級生に辿り着き、今は厚別に住むと言う彼女に森林公園駅で会えた時には、本当に安堵したのを覚えている。
彼女とそのご主人の努力により、3匹とも里親の見つかったとの報を受けたのは、旅を終えて半月程した頃であった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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